明帝針の筵! 北も宮城も【夕刊シチ 7月19日号 469年01月】

明帝針の筵! 北も宮城も【夕刊シチ 7月19日号 469年01月】

資治通鑑原文1117文字(305/365位)【登場人物】・メインキャスト 7/1-蕭道成-8/1 7/5-馮太后-8/10 7/17-拓跋宏-8/19・準メインキャスト 6/27-劉彧-7/22 7/16-蕭賾-8/14【できごと】 北魏に包囲されている東陽での攻防が続いています。この城の守将は沈文秀。しかし宋の軍事史を語ろうとすると呉興沈氏祭になっていますね。誰が誰やらで混乱しそうです。ひとまずここにいる沈文秀は相当の求心力を持った将であったようで、三年間の防衛戦で装備が痛んだりシラミがわいたりしても、それでも兵らが戦意を阻喪することがなかった、と紹介されます。とは言え、ついに陥落。この時沈文秀はとらえられ、慕容白曜のもとへとひっ立てられると、特に頭を下げようともしません。その理由は「我らともにそれぞれの国の臣であろう」とのこと。その意気に感嘆した慕容白曜は礼遇の上平城に送致しました。平城では献文帝が「北魏を煩わせたこと」を糾弾しますが、やはりここでも動じません。ついには臣下として抱えるに至ります。宋は青州・冀州の地とともに、この名将をも喪失してしまった、というわけです。なおこの戦いのあと、ようやく宋は北魏との国交を正式に開始したそうです。ただし宋書の書き方は「遣使献方物」と、まるで属国からの献上扱いです。そういうとこだぞまじで。 北魏による南方侵攻も、ここでひと段落です。その作戦を主導した慕容白曜の爵位は王に進められました。その統治は非常に優れたものであり、新たに獲得した国土の民を大いに安んじたそうです。また献文帝はこの兵役のひと段落をきっかけに、租税を見直し、その徴収を緩めました。ここまでに飢饉や干ばつも頻繁に発生していたということですので、新たな国土の獲得はこうした災害で困窮した民の食い扶持を稼ぐ、という意味合いもあったのかもしれません。あわせて沙門統の曇曜が仏寺における貯蓄を状況に応じて民に分配したり、重罪を犯した官吏などを寺院での小間使いとして用いたい、と上奏し、承認されています。この内容からするに、北魏は宋よりもやや寺院と朝廷の距離が近かったのかもしれません。そして、拓跋宏が太子に立てられます。なお資治通鑑には載っていませんが、当たり前のように拓跋宏の生母である李氏は子貴母死の慣例に基づき殺されています。殺す人が違う気もしますが、まぁまぁまぁ。 さて、宋では明帝の兄、劉禕が謀反を企んでいます。このひとは文帝諸子の中で最も凡庸と評されており、ともなれば劉義宣のごとくおだてられ担がれた、と見なすのが良いのでしょう。目論見はすぐに露見、劉禕も降格ののち追放、そして自殺させられます。

http://www.nicovideo.jp/watch/ss46554446