【470年12月】資治通鑑原文4210文字(91/365位)【登場人物】・メインキャスト 7/1-蕭道成-8/1 7/5-馮太后-8/10 7/17-拓跋宏-8/19・準メインキャスト 6/27-劉彧-7/22 7/16-蕭賾-8/14【できごと】 初っ端が明帝の大粛清祭です。自身の弟たちを、次々と殺して回ります。しかもさも不慮の事故で死んでしまったかのごとく糊塗してきます、まあ臣下からは「お前が殺してんじゃん」とバレバレであったそうですが。ここまで皇帝が兄弟を殺さないと安心できないとか、もはやこの国の皇帝になることなんて、皇帝自身にとっても罰ゲームであったとしか思えません。まあ臣下にとってはそれ以上のとばっちりですが。この振る舞いを受けて司馬光さんは沈約および裴子野の史論をそれぞれ長々と引きます。とはいえ言っていることは「弟殺しとか自分で国の寿命縮めてんじゃん」程度のもの。個人的には「なぜそこまで弟たちを殺し続けるようなシステムが確立してしまったのか」を掘ってほしいのですが、それを検証するには文帝孝武帝時代の記録が欠けすぎています。 また、明帝は自身の寿命を悟ったか、後継体制を整え始めます。ここで名が挙がったのは蔡興宗、褚淵、袁粲、そして蕭道成。ここで蕭道成は外鎮から中央に召喚を受けたのですが、「これに応じれば殺さるだけではありませんか?」と恐れる配下に「情勢を見極めろ、ここで行かねば却って殺される」と返し、建康入りしています。ちなみに何名かの臣下はこのあたりの忠誠度テストに失敗して誅殺されています。 風雲急を告げている感じの宋ですが、北魏でもとんでもない事件が起こっています。拓跋宏、すなわち孝文帝の即位です。と言って献文帝が崩じたわけではありません。禅位をなしたのです。一応ここの動きに合わせて献文帝が老荘に耽溺したため隠棲志向になったであるとか、そもそも病弱であったという話も載りはするのですが、それにしたって献文帝18歳、孝文帝4歳。ちょっと意味がわかりません。ここではじめ叔父の拓跋子推に帝位を譲ろうとしているので、単純に帝位を退きたかった、というのも一つはあるのでしょう。ただじつは直前に「献文帝が馮太后の愛人を誅殺した」という事件が紛れています。どのタイミングで行き違っかたはさておき、両名の懸隔はただならぬものであり、それもまた献文帝に譲位を決断させる動機だった、のかもしれません。なお臣下らはみな、譲位そのものには反対しませんでした。これもまた、なかなかに闇が深い。