明帝の余燼! 弟のいらだち【夕刊シチ 7月23日号 472年11月】

明帝の余燼! 弟のいらだち【夕刊シチ 7月23日号 472年11月】

【472年11月】資治通鑑原文842文字(330/365位)【登場人物】・メインキャスト 7/1-蕭道成-8/1 7/5-馮太后-8/10 7/17-拓跋宏-8/19・準メインキャスト 7/16-蕭賾-8/14【できごと】 北魏の記述を追うと、もうまるきり献文上皇無双です。柔然を打ち払い、祭祀における犠牲の数を減らすよう命じる。なんで譲位したのかさっぱりわかりません。ただ、ここから先は皇帝、というか馮太后の意向でもあったのでしょう。例えば豊かなものが貧しいものを援助せよであるとか、県令に功績があったら徐々に俸禄を高め、郡主とし、更に功績あったものを刺史とする、といった形です。調べてみると484年まで北魏の官吏に俸禄は支給されていなかったと書かれていたのですが、これはもしかしたら中央のみの話なのかもしれません。つまり地方官、いわば出向者についてはその限りではなかった、のかもしれません。このあたりはまた改めて調べたいところです。 あと吐谷渾が攻めてきたので撃退したり、孔子の二十八世孫である孔乗を崇聖大夫としたりしています。ちなみに宋ではやはり孔子の直系子孫とされる人物を奉聖亭侯という特殊爵位につけていたのですが、この爵位についていた人物は孝武帝の代に素行不良ということで廃され、以降の記録がありません。あと廃された人物の先代は范曄の乱に連座して処刑されてもいます。こうしたことから引けば、もしかしたら孔子の子孫がこのあたりのタイミングで宋から北魏に亡命したのかもしれません。 宋ではもと明帝の側近、阮佃夫の権勢が依然大きいままでした。袁粲や褚淵もだいぶこの人物の取り扱いに苦慮しているのが伺えます。さらにここにもうひとり、厄介者が加わります。明帝の弟のうちもっとも凡庸であったため粛清から逃れた人物、劉休范です。ただ悲しいかな、下の人間からすれば無能な皇族ほど便利なものもありません。と言うわけで臣下からは「あなたが顕位につけないなんておかしいです!」とおだて上げられ、叛意を育てます。建康としてみれば劉休范の叛意はもはや露骨。というわけで、下手に懐柔するよりも話が早いと判断したのでしょう。間接的に挑発を入れます。後廃帝の弟のひとり、劉燮に王景文の子、王奐を補佐としてつけ、任地である夏口に向かわせたのですが、この時わざと劉休范が赴任していた尋陽を回避させたのです。「俺たちはお前を疑っているぞ」と露骨に突き付けたわけですね。というわけで劉休范は激怒し、決起します。しかし毎年宗族が乱起こしてますね、宋。

http://www.nicovideo.jp/watch/ss46561133