キーワード ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ が含まれる動画 : 9 件中 1 - 9 件目
種類:
- タグ
- キーワード
対象:
【声変版】預言者ムハンマドの死
西暦628年3月
ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、信徒を連れ小巡礼の為メッカのカアバ神殿へ向かった。現地で武装したクライシュ族が待ち伏せしているという報告を受けたアブドゥッラーフは、フダイビーヤ(現在のサウジアラビアのマッカ州)に留まり交渉に備えた。まず、クライシュ族からムハンマドにマディーナへの撤退を求める使者が送られ、メッカに帰還した使者はムハンマドの信徒の忠誠心の高さを報告した。次にアブドゥッラーフはヒラーシュ・イブン・ウマイヤ・アルフザーイーを派遣したが、アルフザーイーがアブドゥッラーフの伝言を伝えると、クライシュ族は激怒し、アルフザーイーの乗っていたラクダを斬殺、アルフザーイーはそのままフダイビーヤへ戻った。次にアブドゥッラーフはウマル・イブン・ハッターブを使者に選んだが、自身がクライシュ族と敵対している事を理由に辞退、結果ウスマーン・イブン・アッファーンが使者として派遣された。伝言を聞いたクライシュ族はカアバ神殿の周囲を回る儀礼である「タワーフ」を認めたが、アッファーンは妥協しなかった為監禁され、アブドゥッラーフにアッファーン殺害の知らせを届け、ムスリム達は激怒した。ムハンマドは彼らにいかなる事態が起きても自分の命令に従う様、バイア(忠誠の誓い)を行わせた。解放されたアッファーンが帰還した後、クライシュ族からスハイル・イブン・アムルが使者としてフダイビーヤに派遣され、協議を経て以下の和約が成立した。
①10年間の休戦。
②巡礼団は一旦マディーナに帰還し、翌年にムスリムの巡礼のために3日間マッカを開放する。
③保護者の同意なくマディーナに移住したマッカの住民を無条件でマッカに送還する。
④ムハンマドの元からマッカのクライシュ族の元に移った人間はそのままマッカに留め置かれる。
⑤マッカ周辺の部族、個人は自由にムハンマドと同盟を締結出来る。
マッカ側はムハンマドが「アッラーの使徒」として和議を結ぶことを認めず、「アブドゥッラーの息子ムハンマド」として署名を行わせた。クライシュ族側に有利な内容であった為ハッターブは不満を示した。一方でアブー・バクルはアブドゥッラーフの決定に従った。
結局この年はアブドゥッラーフが目的としていた小巡礼を行う事が出来ず、マディーナに帰還するが、これに関し多くのムスリムが困惑した。
<訂正>
バヌタキフ族→タキフ族
宇宙一元化 公式HP
https://universe-centralization.com/top.html
【声変版】イスラム教の始まり
西暦610年8月19日
ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがメッカ(現在のサウジアラビアのマッカ州)にあるヒラー山の洞窟で、天使ジブリールより唯一神アッラーの啓示を受け、妻ハディージャ・ビント・フワイリドにその出来事を話す。その後フワイリドの従兄弟でキリスト教ネストリウス派修道僧ワラカ・イブン・ナウファルに相談した所、以下の預言者も同様の経験をしたが、敵対されなかった者はいない事を話す。
①アブラハム
②ノア
③モーセ
④イエス・キリスト
その後も神の啓示がアブドゥッラーフに次々に下された。そしてアブドゥッラーフは、従兄弟のアリー・イブン・アビー・ターリブや友人のアブー・バクルに啓示の教えを説き、イスラム教を始めた。
<訂正>
バヌタキフ族→タキフ族
宇宙一元化 公式HP
https://universe-centralization.com/top.html
鎖帷子を脱いだ半裸の戦士
西暦634年6月
ハーリド・イブン・アル・ワリードがシュラビルの部隊を援護した翌日、東ローマ帝国軍は、ムスリムの戦力は自軍と同程度であると把握し、長旅の疲れが癒える前に打ち負かすべく再攻撃を決意した。両軍はボスラ郊外の平原で戦闘準備を行なった。ワリードは、中央に自身の直轄部隊を置き、両翼の司令官に以下2名を任命した。
①ラファイ・ビン・ウマイル(左翼)
②ディラール・ビン・アル・アズワル(右翼)
ワリードは、直轄部隊の正面、アブー・バクルの息子アブド・アル・ラーハマーン・イブン・アブー・バクルの下に薄いスクリーンを置いた。戦闘が開始されると直ぐにラーハマーンは東ローマ帝国軍を撃破した。東ローマ帝国の将軍達は安全な遊軍部隊の下へ逃走する中、ワリードは前線全体に沿って攻撃を開始した。東ローマ帝国軍はムスリムの攻撃に忽ち混乱した。この日は暑かった為、アズワルは鎖帷子を脱ぎ、続いてシャツを脱いだ。この半裸の状態で攻撃を開始し、一騎討ちで立ち向かって来る東ローマ帝国兵を全て破った。東ローマ帝国軍は砦に撤退した。この時ワリードは、何にも跨らず自身だけで戦っていた。ワリードは東ローマ帝国軍を包囲する命令を下そうと振り返った時、アブー・ウバイダが、ムスリムの隊列から抜けて近付いて来るのが見えた。ウバイダは、西暦628年2月のカイバルの戦いでムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが使用していた黄色の旗を携えていた。ウバイダはその旗をワリードに渡した。アズワルの活躍は一週間以内にシリア中に知れ渡った。
宇宙一元化 公式HP
http://universe-centralization.com/top.html
ユダヤ人の股関節に致命的な一撃
西暦629年9月10日
ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、ハリス・ビン・アムル・アル・アズディ殺害の報復の為にザイド・イブン・ハリータを司令官とする軍勢3,000名をシリアへ派遣したが、東ローマ帝国軍がムシャリフ村で待ち伏せていた。東ローマ帝国軍がハリータ率いる軍に攻撃を仕掛け、ムウタで戦闘が始まる。副官は以下2名が務めた。
①ジャファル・イブン・アビ・ターリブ
②アブドゥッラー・イブン・ラワハ
アブドゥッラーフは「ハリータが負傷または死亡した場合、ターリブが指揮を引き継ぐ。ターリブが死傷した場合は、ラワハがその代わりを務める。ラワハが殺された場合は、ムスリムが自ら指揮官を任命する様に」と指示を出していた。戦闘は2つの高台に挟まれた谷間で行われ、東ローマ帝国軍の数的優位は失われた。しかしハリータ率いる軍は東ローマ帝国とガッサーン朝の前に劣勢となり、指揮官であるハリータは殺害された。ターリブは「私の息子達の様に戦える者はいない、何故なら彼らが戦場にいる時、最も獰猛だからだ。楽園が近づくにつれ、なんと素晴らしいことか。その飲み物は、なんと心地よく、涼しいことか。東ローマ帝国人への罰はそう遠くない」と言ったが、東ローマ帝国軍に背後から殴られ、両腕を切り落とされ殺害された。また、ラワハやワッハーブ・イブン・サードも戦死してしまう。タビット・イブン・アクラムは、このムスリムの絶望的な状況を打開する為に旗を手にし、仲間を結集させ敗走した。その後ハーリド・イブン・アル・ワリードに指揮を執る様求めた。そしてワリードは機転を働かせて潰走するムスリムを纏め上げ、無事に撤退させた。ムスリムは東ローマ帝国軍の規模を知るとマディーナからの援軍を待ち望んだ。しかし、ラワハは殉教を思い出させ、援軍を待つという行為を否定し、進軍させた。アブドゥッラーフはターリブの死を知らせを聞くと「ターリブは勇敢で忠実な兵士であった。神は彼に永遠の命を与え、戦いで切り落とされた腕の代わりに、主は彼に一対の翼を与えた」と言い冥福を祈った。また、ターリブの妻であり未亡人となったアスマは「神の使徒が私のところに来て”ターリブの子供達はどこにいるのか”と尋ねました。私は彼らを連れて行くと、彼は彼らを抱きしめ匂いを嗅いだ後、目を潤ませ泣いた。神の使徒よ」と私は”ターリブについて何か聞いたか”と尋ねた。神の使徒は”はい、彼は今日、殉教したのです”と答えた。私は立ち上がって叫び、女性達が私のところに来た。アブドゥッラーフは”アスマよ、卑猥な言葉を口にしたり、胸を張ったりしてはならない”と言い始めたのです」という主旨の発言をした。さらにアブドゥッラー...
宇宙一元化 公式HP
http://universe-centralization.com/top.html
戦闘中、川の水と粉砕機でパンを製造
≈西暦633年5月15日
ワラジャでの戦闘で敗れたササン朝ペルシア軍の残党が、ユーフラテス川の支流ハシーフ川を渡り、ユーフラテス川の間を移動しながらウライ(現在のイラクのアルカディシーヤ県)に落ち延びた。ムスリムはウライにササン朝ペルシア軍の残党がいる事を認識していたが、数が少なく問題視していなかった。しかし、アル・ヒラとウライの間にいた、ワラジャの戦いで2名の息子を殺害されたアブドゥル・アスワド率いるキリスト教系アラブ部族であるバニ・バクル族が大軍で合流した事で、ハーリド・イブン・アル・ワリードはハシーフ川を渡り、ウライに正面から接近した。アスワドはムスリムへの復讐を考えていた。ヤズデギルド3世はバフマン・ジャドヤにアラブの部隊を指揮しウライでムスリムの侵攻を止める様指示した。ジャドヤは、上級将軍ジャバンにササン朝ペルシア軍を率いさせてウライに向けて先行させ、自身が到着する迄戦闘を避ける様指示した。ジャバンは出陣したものの、ヤズデギルド3世と、ある問題について話し合う為にクテシフォンに戻った。しかしヤズデギルド3世が重病である事を知り、看病を行う事になった。ササン朝ペルシア軍はムスリムの目的はアル・ヒラを占領する事であると読んでいた。ムスリムの司令官の一人アル・ムタンナ・イブン・ハリサが軽騎兵の斥候と共にウライへ進軍し、ワリードにササン朝ペルシア軍の居場所を知らせた。ワリードは自軍を大きく上回る軍勢との戦闘を避ける為に援軍が到着する前に、ウライに到着しようとしたが失敗した。ワリードはササン朝ペルシア軍が作戦を練る前に戦闘を開始する事を計画し、当日中に襲撃した。ワリードは以下2名に両翼を任せ、軍陣を整列させた。
①左翼:ウマル・イブン・ハッターブの息子アシム・イブン・ウマル
②右翼:ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの仲間であったアラブ人キリスト教指導者ハティム・アット・タイの息子で元キリシタンのアディ・イブン・ハティム
昼前、ジャバンがムスリム侵攻の報告を受けた。ササン朝ペルシア軍はそれを受け、食事の時間であったがムスリムに対し強靱さを示す為に、食事を摂らずに軍の編成を行った。中央にササン朝ペルシア軍、両翼を以下2名のアラブ人キリスト教徒に任せた。
①左翼:部族長アブジャル
②右翼:部族長アブドゥル・アスワド
しかしアスワドは決闘でワリードに敗れ殺害された。
宇宙一元化 公式HP
http://universe-centralization.com/top.html
預言者ムハンマドの死
西暦628年3月
ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、信徒を連れ小巡礼の為メッカのカアバ神殿へ向かった。現地で武装したクライシュ族が待ち伏せしているという報告を受けたアブドゥッラーフは、フダイビーヤ(現在のサウジアラビアのマッカ州)に留まり交渉に備えた。まず、クライシュ族からムハンマドにマディーナへの撤退を求める使者が送られ、メッカに帰還した使者はムハンマドの信徒の忠誠心の高さを報告した。次にアブドゥッラーフはヒラーシュ・イブン・ウマイヤ・アルフザーイーを派遣したが、アルフザーイーがアブドゥッラーフの伝言を伝えると、クライシュ族は激怒し、アルフザーイーの乗っていたラクダを斬殺、アルフザーイーはそのままフダイビーヤへ戻った。次にアブドゥッラーフはウマル・イブン・ハッターブを使者に選んだが、自身がクライシュ族と敵対している事を理由に辞退、結果ウスマーン・イブン・アッファーンが使者として派遣された。伝言を聞いたクライシュ族はカアバ神殿の周囲を回る儀礼である「タワーフ」を認めたが、アッファーンは妥協しなかった為監禁され、アブドゥッラーフにアッファーン殺害の知らせを届け、ムスリム達は激怒した。ムハンマドは彼らにいかなる事態が起きても自分の命令に従う様、バイア(忠誠の誓い)を行わせた。解放されたアッファーンが帰還した後、クライシュ族からスハイル・イブン・アムルが使者としてフダイビーヤに派遣され、協議を経て以下の和約が成立した。
①10年間の休戦。
②巡礼団は一旦マディーナに帰還し、翌年にムスリムの巡礼のために3日間マッカを開放する。
③保護者の同意なくマディーナに移住したマッカの住民を無条件でマッカに送還する。
④ムハンマドの元からマッカのクライシュ族の元に移った人間はそのままマッカに留め置かれる。
⑤マッカ周辺の部族、個人は自由にムハンマドと同盟を締結出来る。
マッカ側はムハンマドが「アッラーの使徒」として和議を結ぶことを認めず、「アブドゥッラーの息子ムハンマド」として署名を行わせた。クライシュ族側に有利な内容であった為ハッターブは不満を示した。一方でアブー・バクルはアブドゥッラーフの決定に従った。
結局この年はアブドゥッラーフが目的としていた小巡礼を行う事が出来ず、マディーナに帰還するが、これに関し多くのムスリムが困惑した。
<訂正>
バヌタキフ族→タキフ族
宇宙一元化 公式HP
http://universe-centralization.com/top.html
イスラム教の始まり
西暦610年8月19日
ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがメッカ(現在のサウジアラビアのマッカ州)にあるヒラー山の洞窟で、天使ジブリールより唯一神アッラーの啓示を受け、妻ハディージャ・ビント・フワイリドにその出来事を話す。その後フワイリドの従兄弟でキリスト教ネストリウス派修道僧ワラカ・イブン・ナウファルに相談した所、以下の預言者も同様の経験をしたが、敵対されなかった者はいない事を話す。
①アブラハム
②ノア
③モーセ
④イエス・キリスト
その後も神の啓示がアブドゥッラーフに次々に下された。そしてアブドゥッラーフは、従兄弟のアリー・イブン・アビー・ターリブや友人のアブー・バクルに啓示の教えを説き、イスラム教を始めた。
<訂正>
バヌタキフ族→タキフ族
宇宙一元化 公式HP
http://universe-centralization.com/top.html
【VOICEROID解説】歴史小話「マホメットなくしてシャルルマーニュなし」【8話】
それまで北方の一部族に過ぎなかったカロリングが何故ヨーロッパの盟主になれたのか?
この問題にベルギーの歴史家、アンリ・ピレンヌが与えた回答は「イスラムの台頭」だった。
そしてこれこそが中世ヨーロッパを形作る原因となったのだ―――
どうもみなさん、古代末期も終わったところで本編 (sm39840220) の補足動画の登場です。
古代から中世の転換は476年の西ローマ滅亡をもって完了とするのが世界史の通俗的理解である。
しかしその後も地中海に活発な商業活動があったとしたなら、この断絶を説明付けるのに最も適切な時期とはいったい何処になるだろうか?
476年以降も地中海には活発な商業があったという話は本当なのか?
地中海世界にイスラムが与えた衝撃はどのようなものだったのか?
そもそも古代と中世に断絶は存在するのか?
今回は「ピレンヌ・テーゼ」と呼ばれる古代と中世の断絶論の妥当性を検証しつつ
イスラム登場後の地中海世界の実態について、ゆかりさんが迫ります。
【結月ゆかりの洋書解説】共和制ローマの政治:mylist/63982305(完結済み)
【キリスト教解説】音街ウナの Unam Sanctam:mylist/70294288
このシリーズ:mylist/68397314
sm38000839←前 次→ なんかまた古代ローマやりたいね
【VOICEROID解説】音街ウナの Unam Sanctam #7【キリスト教】
みなさん明けましておめでとうございます。
このシリーズではキリスト教という宗教が人類にもたらした歴史的・文化的影響について
プロテスタント的な視点から、音街ウナちゃんが解説していきます
今回は単性論派論争の背景からビザンツ-ペルシア戦争までがテーマとなります。
単性論は古代ギリシアまでを含めた哲学論争として考えたとき非常に興味深いものがありますが
必要となる前提知識が多すぎるため、動画ではこの論争の政治的側面に絞った解説をしています。
図らずも2021年1月3日にこのシリーズを始めてからちょうど1年で古代末期が終了しました。
今年は恐らく「中世の1年」になるのではないかな~と思ってます。
たまに寄り道をする事もあると思いますが、これからもどうぞよろしくお願いします。
なお、今回ラストでウナちゃんが解説しているのは所謂『ピレンヌ・テーゼ』と呼ばれるものです。
現在この理論は様々な議論が重ねられた結果、多くの問題点が浮かびあがってきています。
モヤッとした方は補足動画をご覧ください。
【前作】結月ゆかりの洋書解説(完結済) mylist/63982305
sm39216850←前 次→ イスラムの衝撃
補論→ sm39866914「マホメット無くしてシャルルマーニュなし」