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下松市の指定名勝〜旧内藤家(大内氏に仕えた)邸跡庭園 遺構 【隠れた紅葉の名所】 山口県下松市
毛利の防長制覇後に大内氏重臣 内藤氏の一族の一人が帰農してこの地で庄屋として江戸期をおくった。
庭園はそまま残るが池は水がなく、荒れ加減の廃墟感の中美しさもある。
紅葉がいい色を醸しはじめていた。
心字池、石組、出島んどが残る。
この時悔やまれるのがNikonの一眼をを忘れたことやな
整備したらよくなると思うんだけどなあ
重森さんみたいな人が修復してほしいね
旧内藤家屋敷への道 渓流 紅葉 銀杏の彩り
屋敷とへ 紅葉、庭園の様子
帰り道の風景〜滝の口河川公園の紅葉(再録)
豪壮な御社殿と多宝塔〜周防降松の古社 花岡八幡宮参拝記 再編集 山口県下松市末武
神社自体も今でもその社殿は相当な大きさをお誇りかつての栄えが偲ばれます。
かつては神仏習合の花岡八幡は九つの社坊を抱えた大寺院だったようです。
伝説では鎮座の時神託があり全山花に覆われたゆえ 花岡と称されたと伝わる。
和銅二年勧請の古社 花岡八幡宮 のある周防花岡は京都から下関へ至る旧山陽道に沿った、宿場町跡である。江戸時代は毛利藩の花岡宰判勘場(代官所)があり都濃郡の政庁が置かれた場所。・・・少し短め。
和銅2年(709)創建で、周防国守の奈良東大寺大仏再建の重源上人の時代にも再建されている。
大内氏、陶氏、毛利と歴代領主に尊崇されてきた。現社殿は文化文政時代再建のようです。彫刻もよく社殿の規模もなかなか凄い。
豊臣秀吉も参詣に訪れたらしいですね。
華岳山 閼伽井(あかい)坊 (通称で花岡大師とも言われ)真言宗の寺院。閼伽井=仏や神へ供える水の井戸のことである。
閼伽井坊には重要文化財指定の美しい閼伽井坊塔婆=「多宝塔」が付属しているがこれは花岡八幡宮境内にある。室町時代の再建。元は藤原鎌足が全国に建立した十六塔の一つと言われる。
2022年初詣の再編集版 映像の整理と音声ガイドにSiriを追加と音楽を変えた。
旧山陽道 周防花岡(2)〜 「花岡八幡宮」参拝記 第2稿 短め 山口県下松市末武
和銅二年勧請の古社 花岡八幡宮 のある周防花岡は京都から下関へ至る旧山陽道に沿った、宿場町跡である。江戸時代は毛利藩の花岡宰判勘場(代官所)があり都濃郡の政庁が置かれた場所。・・・少し短め。
神社自体も今でもその社殿は相当な大きさをお誇りかつての栄えが偲ばれます。
かつては神仏習合の花岡八幡は九つの社坊を抱えた大寺院だったようです。
伝説では鎮座の時神託があり全山花に覆われたゆえ 花岡と称されたと伝わる。
和銅2年(709)創建で、周防国守の奈良東大寺大仏再建の重源上人の時代にも再建されている。
大内氏、陶氏、毛利と歴代領主に尊崇されてきた。現社殿は文化文政時代再建のようです。彫刻もよく社殿の規模もなかなか凄い。
豊臣秀吉も参詣に訪れたらしいですね。
旧山陽道〜石畳の参道〜神社へ至る石段下の旧社坊の一つ(九つのうち唯一残った)閼伽井坊へまず参詣した。sm39925154
(2)は花岡八幡宮へ参拝初詣客は結構いたました。
華岳山 閼伽井(あかい)坊 (通称で花岡大師とも言われ)真言宗の寺院。閼伽井=仏や神へ供える水の井戸のことである。
閼伽井坊には重要文化財指定の美しい閼伽井坊塔婆=「多宝塔」が付属しているがこれは花岡八幡宮境内にある。室町時代の再建。元は藤原鎌足が全国に建立した十六塔の一つと言われる。
旧山陽道 周防花岡(1)〜 「花岡八幡」旧社坊 閼伽井坊(花岡大師) 山口県下松市末武
和銅二年勧請の古社 花岡八幡宮 のある周防花岡は京都から下関へ至る旧山陽道に沿った、宿場町跡である。江戸時代は毛利藩の花岡宰判勘場(代官所)があり都濃郡の政庁が置かれた場所。
神社自体も今でもその社殿は相当な大きさをお誇りかつての栄えが偲ばれます。
かつては神仏習合の花岡八幡は九つの社坊を抱えた大寺院だったようです。
旧山陽道〜石畳の参道〜神社へ至る石段下の旧社坊の一つ(九つのうち唯一残った)閼伽井坊へまず参詣した。(2)は花岡八幡宮へ・・。
華岳山 閼伽井(あかい)坊 (通称で花岡大師とも言われ)真言宗の寺院。閼伽井=仏や神へ供える水の井戸があのことである。
御本尊は昭和に(弘法大師入定1150年記念で)建立の「虚空蔵菩薩坐像」あと周防観音霊場の十一面観音菩薩も祀るようです。周防七福神(戦後開かれた)=寿老人の札所にもなっている。
閼伽井坊には重要文化財指定の美しい「多宝塔」が付属しているがこれは花岡八幡宮境内にある。
字幕訂正=周防七福神と記載していました〜周南七福神
余談
閼伽井坊=三池孝尚(名誉住職)先代和尚は、地元ラジオのパーソナリティなどもやっていたので昔はよく聴いたもんです。土曜日だったかな?聴いてたのは。公園も1回聴いたことがあります話が大変面白い方でした。健在で法話会などもされるようです。
下松・米泉湖の奥〜紅葉最盛期の滝の口河川公園(下松市)
山口県下松市下谷(なんか地図や案内サイトで住所記載がややちゃうんだが)にある末武川沿いの公園。渓流や周囲の自然を生かした公園でなかなかよい。
紅葉の盛りでした。池にちょうど山が映って綺麗でした。
周辺情報として〜ちょっと足を伸ばして〜
このさらに奥に旧内藤家屋敷跡があり池泉庭園跡が残る(水は無い)〜下松市名勝指定。
紅葉も多い。庄屋を務めていて、かつてはこの辺りの役場が一時明治時代に置かれていたらしい。
大内氏の重臣内藤氏が毛利の中国制覇後、帰農したと云われている。
介護施設かな?おじいちゃんおばあちゃんが来てて楽しそうでした。永く元気でいてほしいですね^^
戦国大内氏の妙見信仰の跡 降松神社と妙見宮鷲頭寺 山口県下松市 初稿
妙見宮鷲頭寺 山口県下松市中市にある真言宗の寺院
下松。室町〜戦国時代中国地方の覇者として7カ国に君臨した大内氏の始祖伝説にちなむ
地名伝説では下松市は、元々は下松=降松(くだりまつ)だったといわれている
一説では百済津からとも。
推古天皇十七年(609年)周防国鷲頭庄の青柳浦にある鼎の松(かなえのまつ〜降臨、連理、相生の三本があった)に北辰星の精が天降りましまし百済からの尊貴な方(琳聖太子)の来朝を守護するため
七日七夜輝き神のお告げで祠を建てたと伝説に言われる。
その後、推古三年(695年)に桂木山(笠戸大橋のたもと)というところに祀り洲屋大神と称された〜
大内正恒の時代に高鹿垣山(茶臼山)へ遷座し、大内貞長の頃、鷲頭山(じゅとうざん)に遷され鎮座.
山頂に上宮、中宮本社、麓に若宮が造営された。
鷲頭山山麓周辺は鷲頭庄とよばれ大内の一族鷲頭氏が支配した。一時は鷲頭氏が守護となり主流となるが大内宗家と守護職をめぐる争いで鷲頭氏は白坂山(下松市内)合戦で敗退し家臣団に組み込まれ衰退した。大内弘世の時に閼伽井坊など七つの社坊が建てられた。
大内義弘の時代には仁王門や五重塔も寄進されて(現存しない)霊場として繁栄した。
大内氏始祖琳聖太子来朝にまつわる守護神を祀る社寺として尊崇されたその神域の保護は厳重を極めたという。また本拠の山口にある〜氏寺の氷上山興隆寺にも鷲頭山から妙見社を勧請したといわれます 。氏神として北辰妙見大菩薩を大変崇敬した。
現在は明治後、分離されて麓の若宮がアメノミナカヌシを祭神とし降松神社として再編され存続している(若宮と中宮 山中に山門が現存する)
幕末の妙見社の神主が力のある僧侶で、分離された社坊の一つはかろうじて妙見宮鷲頭寺として、古来の北辰妙見の祭祀を守り所縁のある現在地に移転建立された。
戦後勧請された油掛け大黒天もあります(周南七福神だそうです)
庚申社と荒神社字幕反対でした謹んで訂正します。
あげ直しますw
情報 中宮へもし行かれる方がいる場合 (2〜3回登ったけど道はいいですよ)
下松へ周南あたりから野犬が流れてきているとの情報を二、三年前に登山者ウェブ情報で見ました登山道で見たらしい。今回も一ノ鳥居付近で一匹中型犬を見ました首輪なし確実に野良。注意が必要かも。行く前に下松市に問い合わせした方がいい気もします。
戦国大内氏の妙見信仰の跡を訪ねて(二) 妙見宮 降松神社(若宮)と鷲頭寺(改訂・保存用)山口県下松市
本編 妙見宮鷲頭寺 山口県下松市中市にある真言宗の寺院 (〜5:54 降松神社・5:55〜鷲頭寺)
下松。室町〜戦国時代中国地方の覇者として7カ国に君臨した大内氏の始祖伝説にちなむ
地名伝説では下松市は、元々は下松=降松(くだりまつ)だったといわれている
一説では百済津からとも。 画像少し変えた・音楽を入れ替え。
推古天皇十七年(609年)周防国鷲頭庄の青柳浦にある鼎の松(かなえのまつ〜降臨、連理、相生の三本があった)に北辰星の精が天降りましまし百済からの尊貴な方(琳聖太子)の来朝を守護するため
七日七夜輝き神のお告げで祠を建てたと伝説に言われる。
推古三年(695年)に桂木山(笠戸大橋のたもと)というところに祀り洲屋大神と称された〜
大内正恒の時代に高鹿垣山(茶臼山)へ遷座し、大内貞長の頃、鷲頭山(じゅとうざん)に遷され鎮座.
山頂に上宮、中宮本社、麓に若宮と七つの社坊が造営された。大内弘世の時に閼伽井坊など七つの社坊が建てられた大寺であった。
鷲頭山麓周辺は鷲頭の庄とよばれ大内の一族鷲頭(わしず)氏が支配した。一時は鷲頭氏が守護となり主流となるが大内宗家と守護職をめぐる争いで鷲頭氏は白坂山(下松市内)合戦で敗退し家臣団に組み込まれ衰退した。
大内義弘の時代には仁王門や五重塔も寄進されて(現存しない)霊場として繁栄した。
大内氏始祖琳聖太子来朝にまつわる守護神を祀る社寺として尊崇されたその神域の保護は厳重を極めたという。また本拠の山口にある〜氏寺の氷上山興隆寺にも鷲頭山から妙見社を勧請したといわれます 。氏神として北辰妙見大菩薩を大変崇敬した。
現在は明治後、分離されて麓の若宮がアメノミナカヌシを祭神とし降松神社として再編され存続している(若宮と山中に中宮・上宮 山門が現存する)
妙見社は分離され社坊の一つはかろうじて妙見宮鷲頭寺として、古来の北辰妙見の祭祀を守り所縁のある現在地に移転建立された。時代かやや衰微の感は寂しいですね。
戦後勧請された油掛け大黒天もあります(周南七福神だそうです)
音楽 のる様作 2曲 ニコニ・コモンズより使用
3ニコニ・コモンズのる様作 沈む秋。.*:+☆ヒーリングBGM
念願のシリーズ一応完成。山上の中宮さんだけ残すのみとなりました。野犬が怖いからまだ行けていません^^;
旧山陽道 周防花岡(2)〜 「花岡八幡宮」参拝記 山口県下松市末武
和銅二年勧請の古社 花岡八幡宮 のある周防花岡は京都から下関へ至る旧山陽道に沿った、宿場町跡である。江戸時代は毛利藩の花岡宰判勘場(代官所)があり都濃郡の政庁が置かれた場所。・・・R4初詣の記録なのでやや長いです。
神社自体も今でもその社殿は相当な大きさをお誇りかつての栄えが偲ばれます。
かつては神仏習合の花岡八幡は九つの社坊を抱えた大寺院だったようです。
伝説では鎮座の時神託があり全山花に覆われたゆえ 花岡と称されたと伝わる。
和銅2年(709)創建で、周防国守の奈良東大寺大仏再建の重源上人の時代にも再建されている。
大内氏、陶氏、毛利と歴代領主に尊崇されてきた。現社殿は文化文政時代再建のようです。彫刻もよく社殿の規模もなかなか凄い。
豊臣秀吉も参詣に訪れたらしいですね。
旧山陽道〜石畳の参道〜神社へ至る石段下の旧社坊の一つ(九つのうち唯一残った)閼伽井坊へまず参詣した。(2)は花岡八幡宮へ参拝初詣客は結構いたました。
華岳山 閼伽井(あかい)坊 (通称で花岡大師とも言われ)真言宗の寺院。閼伽井=仏や神へ供える水の井戸のことである。
閼伽井坊には重要文化財指定の美しい閼伽井坊塔婆=「多宝塔」が付属しているがこれは花岡八幡宮境内にある。室町時代の再建。元は藤原鎌足が全国に建立した十六塔の一つと言われる。