タグ 南北朝時代 が登録されている動画 : 148 件中 97 - 128 件目
種類:
- タグ
- キーワード
対象:
【予告】創作南北朝・人物紹介動画企画
創作イラスト+紹介文で南北朝時代(日本史)の人々を紹介する動画企画の予告です。完成した動画本編はこちら→sm23224569 ◆お借りした音楽:「武装」 http://piapro.jp/t/v5_y ◆引用:「南北朝オタク死亡カルタは突然に」 http://togetter.com/li/467802
三重県伊勢田丸城
田丸(玉丸)城は、南北朝動乱期の延元元年(1336)、後醍醐天皇を吉野に迎えようと伊勢に下った北畠親房が、愛洲氏や度合氏などの援助を得て、この玉丸山に城を築いて、南朝方の拠点としたことが始まりとされる。 南朝方の拠点である吉野から伊勢神宮の外港大湊に通じる道は、軍事・経済の面からも吉野朝廷にとっては、最重要路線であり、玉丸城は北朝・南朝の攻防の舞台となった。
新番組「女性神主が語る國體論~帝国海軍中尉の娘という数奇な運命の下に生まれて(前編)」山下弘枝 AJER2024.4.17(1)
【会員制サイト:AJERcast】
http://ajer.jp/
【後半映像】
#山下弘枝
#楠木正成
#楠公研究会
#湊川神社
#後鳥羽上皇
#千早城
Facebookユーザー名 channel Ajer
Facebookページ名 チャンネルAjer
新番組
「女性神主が語る國體論」
第1回
帝国海軍中尉の娘という数奇な運命の下に生まれて
山下弘枝氏
前編
【会員制サイト:AJERcast】
http://ajer.jp/
滋賀県大津市唐崎に楠木正成本陣趾がある!
天下一品唐崎店の斜め向かい、鶴喜そば唐崎店向かってすぐ左の国道161号線沿いにひっそりと建つ標識。
ここは、楠公研究会事務局に隣接する地だが、西山事務局もこの標識の存在を認識できていなかったらしい。
期せずして、自身も楠公ゆかりの地に住んでいたという事に驚く事務局だった。
標識には、建武元年(1336年)の足利尊氏離叛、箱根竹之下の戦い後の足利軍京都襲来の折に、新田義貞がこの地に陣を敷いたとしか書かれていないが、厳密には、この時には、新田義貞だけでなく、楠木正成、北畠顕家、名和長年もこの地に駆け付けて、鎌倉から京へ攻め寄せてくる足利軍の入京を阻む為、迎え討った。
また、厳密に言えば、この時の総大将・新田義貞が本陣を敷いたのは、現在の日吉大社境内地であり、この地に陣を敷いたのは、楠木正成等の諸将。
標識はとても小さい木札で、車で通ると見過ごしてしまうほどなので、注意して見て頂きたい。
知られざる、滋賀県大津市の楠公ゆかりの地の真実でした。
我が国の教育が大変な事になっている!~大楠公を『悲劇』の武将にしてはならぬ! 建武中興の真の理念を学べ~
建武中興の具現であった明治維新。
謂わば、建武中興(『建武の新政』とは戦後に書き換えられた誤表記)の理念とは、近代日本の礎となった精神である。
しかし、戦後の自虐史観によって、後醍醐天皇の建武中興の事蹟は歪められ、貶められ、そして今、教科書から大楠公の名前は消し去られようとしている。
楠公精神を最も恐れたマッカーサーは、それを潰すべく、厚木基地に降り立った。
GHQによって破壊された日本精神を取り戻す為には、大楠公の事蹟と建武中興の理念を正しく理解せねばならない。
#湊川の戦い #南北朝時代 #自虐史観からの脱却
#教科書選定問題 #洗脳教育
【秘伝】楠流兵法 〜ご質問にお答えしていたら、超レアネタが飛び出した□〜
宝暦9年(1759年)に予州(現在の愛媛県)松山の法眼明逸が書き残した書物『通機図解』で、南北朝時代の武将・楠木正成が兵法戦略上、日頃から空を見上げて、雲の様子などから地震や嵐など天変地異を予測していたことが紹介されている。
南北朝の動乱を描いた『太平記』によると、元弘2年(1332年)、正成は四天王寺に入り、長老の寺僧に、聖徳太子が著し、四天王寺に納められている予言書「未来記」を拝見したいと申し出た。
正成は、長老の特別の計らいにより「未来記」を拝した処、次の一文を見出した。
「人王九十六代に当たつて、天下一たび乱れて、主安からず。この時、東魚来たつて四海を呑む。日西天に没すること三百七十余ヶ日、西鳥来たつて東魚を喰らふ。その後、海内一に帰すること三年、獼猴(みごう)の如くなる者天下を掠むること二十四年、大凶変じて一元に帰す。」
正成は記述を
「後醍醐天皇の世に天下が乱れ、東の魚(関東の幕府・北条高時)が天下を飲みこもうとする。日が西天に没してから(後醍醐天皇が隠岐に流されてから)三百七十余日の後、西の鳥(新田義貞)が東の魚を食らう(倒す)」
と解釈し、討幕が果たされて天皇の治天が近いことを確信した。
しかし、「未来記」ではそれに続き、建武政権が3年で崩壊し、足利尊氏が24年にわたって世を治める後や、湊川の戦いで、正成が義貞を逃し、玉砕する事によって、江戸の幕末、正成の楠公精神が日本人のイデオロギーとなって多くの志士の魂を揺さぶり、正成の魂が永遠のものとなる事、それによって、凶事が一変して本来の平和な国家となる事も予言している。
つまり、正成の湊川での玉砕は、600年先まで予知し計算し尽くされたた上での、未来の日本人のDNAを宿らせる為の自ら望んだ選択であったのだった。
正成は、義貞に見捨てられて孤立無縁となり、致し方無く自刃したのではなく、自身が描いた通りの自身の幕引き、いや、永遠の魂となる為の晴れ舞台として、自ら、そうゆう陣型で布陣しただった。
そんな訳であるから、無論、正成には一片の悲劇性たりとも皆無である。
國體護持派と反日勢力との熾烈な死闘
また在庫切れ表示‼️これは異常事態だ‼️本の中で安倍晋三元首相と私との知られざるやり取りを書いているからその全容を知られたくない勢力の圧力だ‼️版元には在庫ありAmazonの在庫切れは誤表示で注文できるのでどしどしご注文を‼️反日勢力の圧力には屈ない‼️御協力宜しくです‼️
『建武中興と楠木正成の真実 』はコチラから↓
https://amzn.asia/d/bU3k4lU
楠公祭、無事終わりました 〜湊川神社・湊川の戦い〜
楠公祭本祭、無事、斎了されました。
687年前の旧暦の本日、楠木正成公は、ここ湊川の地にて七生報國を誓い殉節されました。
その後、水戸藩主・徳川光圀公によってこの地に「嗚呼忠臣楠子之墓」墓碑が建立され、幕末に維新の志士らの崇敬の対象地となりました。
大東亜戦争末期には、楠公の精神を背負った英霊による菊水作戦、則ち沖縄特攻のもと、七生報國の鉢巻を巻き、護国の英霊が散華された事は記憶に新しいところです。
戦後GHQにより、大和魂の根源というべき楠公精神は封印されましたが、民族の尊厳として、この精神を後世に伝えていく事の必要性を尚一層、強く感じております。
楠公祭では、本殿での神事に引き続き、神能殿にて柳生新陰流兵法による演武と楠公歌の会による奉納、直会があり、多くの方々がご参列くださり、大いに賑わいました。
昨日今日と素晴らしい晴天に恵まれ、大楠公の神恩に感謝すると共にご参列くださいました皆様の楠公崇敬の思いに、深く感動しております。
まずは、無事の祭典斎了のご報告と御礼とさせて頂きます。
今後共、楠公嫡孫として精進して参りますので、引き続き、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
ご好評頂いております『建武中興と楠木正成の真実』https://amzn.asia/d/iBKeVYi も併せて宜しくお願い申し上げます。
#楠木正成 #末裔 #南北朝
九州そらさんに「立太子ボタン」を音読してもらった【VOICEVOX怪文書朗読シリーズ】
怪文書は初投稿です。
元ネタは2010年ごろが初発のようです。
今の皇室を否定しているのに現行のの皇室典範を守ろうとしているのはなんでなんですかね。
建武中興十五社・後醍醐天皇皇子 懐良親王を祀る八代宮と、自ら「日本国王」と名乗った足利義満
南北朝時代の歴史「建武中興十五社・後醍醐天皇皇子 懐良親王を祀る八代宮」
千早城攻防戦全容 〜千早城・葛木神社・金剛山頂〜(一般公開版)
今回、楠公研究会の一部有志役員と会員にて、千早城攻防戦の全容再調査の為、金剛山頂と千早城、葛木神社に取材へお伺いしました。
葛城宮司様より特別な許可を頂き、金剛山頂まで私の自家用車『千早号』で乗り入れさせていただいております。
現在、金剛山ロープウェイは運行を停止していますので、通常は、山頂までは徒歩となります。
ハイキング初心者で、約2時間弱で山頂へ登山できます。
許可車以外の車両の乗り入れは厳禁ですので、絶対に乗り入れないでください。
山頂では、葛城氏当主でいらっしゃる葛城宮司様の温かいご歓迎と御教授を賜り、千早城攻防戦の遺構を取材調査させていただきました。
山頂には、楠木正成が築いた石垣や正成も用いた手水鉢や井戸も当時の姿のままに残されています。
戦後の歴史学会では否定されていますが、この動画が真実です。
大変お世話になりました葛城宮司様、楠公研究会会員で美具久留御魂神社の青谷名誉宮司様、同じく会員で地元にて作曲家としてご活躍の炭谷様に心より篤く深謝御礼申し上げます。
♯戦後の歪んだ歴史観を糾す
現存!楠木正成の孫お手植えの大銀杏 〜山形県小国町〜
ダム湖底に眠る幻の寺・飛泉寺。
この大銀杏は楠木正成の孫・楠木正勝が杖としていた銀杏の枝を、現在の横川ダムとなっている飛泉寺の境内に挿したところ、それが根付き、大木となった。
大銀杏は高台に移され、飛泉寺も移転された。
飛泉寺には正勝の馬具が遺されていたが、一旦、紛失し、後に、戻ったが、色々と曰くあり、現在は山形県置賜郡の吉祥寺に納められている。
後醍醐天皇が流された隠岐島に向かい、日御碕灯台から詩吟「小楠公の母」を詠じてきました
楠公研究会会員で、岡崎功先生が建学された湘南高校の元教員・須藤文義様と、同じく楠公研究会会員の浜田博之様のお招きを賜わり、出雲へ。
須藤様が仕えられた岡崎功先生は大東亜戦争の無条件降伏に際して、松江騒擾事件で知られる方。
須藤様ご自身、神社本庁の芦原総長や元掌典職で現亀山神社(広島県三原市)の潮宮司、住吉大社の加藤権宮司等多くの卒業生をお待ちになられる。
当日、まずは日御碕灯台から隠岐島を望み、後醍醐天皇と楠公、南朝の遺徳を偲び讃えるべく、詩吟「小楠公の母を詠ず」を吟じさせて頂いた。
護国活動を行う中、日々、敵勢力はもちろん同じ志を持つ者からも攻撃を受ける事は当然あるのだが、時に、保守を騙って私に近づき私の名を利用して悪事を働く者が若干1名出現し、私の行ってきた顕彰活動に少々自信喪失していた中、今回の須藤様、浜田様からのご高配は、私にとって、今後の更なる顕彰活動に向けての何よりの励みとなるものとなった。
天は、神は、私にまだまだ引退してはならない、表舞台から去ってはならない、とお命じになられていると感じた。
ご神意を知り、天命を悟りて、神意と天命には絶対的に従わねばならない。
それこそが神国日本の民として命を授かった者としての責務である。
隠岐島を望みつつ、そう固く誓った。
https://youtu.be/UqYsNeeeJW4?si=LfgSZ2M6yQC7Zcr9
金胎寺から笠置寺に行幸の後醍醐天皇が渡った「祝橋」・休まれた「養生の芝」・女官が産気づいた「産坂」〜京都府和束町〜
今回は元弘の変で御所を脱出した後醍醐帝が東大寺・春日大社を経て金胎寺へ遷幸、その後笠置寺へ遷られる際に京都府和束町の知られざる秘境に伝わる逸話を、現地の方から現地取材。
楠公研究会賛助会員で、京都府和束町で「和所美土里屋」オーナーでもある和所氏にご案内頂いた。
金胎寺から笠置寺へ遷幸される際に、村人が祝橋という橋をかけた。
橋の用材として使われた木は和束町内に鎮座する八坂神社のご神木が用いられた。
今回は八坂神社調査の目的もあり、某神社のベテラン神職で、楠公研究会賛助会員でもある伊藤氏も同行。
なぜ、八坂神社の御神木を祝橋の用材としたのか、その知られざる意図を知る事ができた。
また、道中に腹痛を起こされた後醍醐天皇が暫し休息をとられた「養生の芝」へもご案内頂いた。
ここは金胎寺のある鷲峰山山麓の茶畑の真ん中にあり、地元の方の案内無しでは辿り着けない地である。
「養生の芝」は、新たに和束町長となられた馬場正実町長にお教え頂いた後醍醐天皇ゆかりの地である。
地元でしか知り得ぬ貴重な情報をご教示頂いた馬場町長に感謝です。
歴史書では語られぬ南北朝動乱前夜の真実の歴史がここにある。
今年も後醍醐帝のご法要へお招き頂いたので参列してきます
明日の後醍醐天皇御命日を前に、ふと自身の今までの生い立ちを思い返し、その重さを痛感している。
生まれてからこのかた、先祖の名に恥じぬよう、先祖を貶める行いをせぬよう、それに相応しい品格を保つよう、幼い頃から父母に教育されて育ってきた。
特に、父親は旧帝国海軍中尉であったから、教育勅語を始めとした戦前ばりの家庭教育を受けたし、先祖を祀る某神社の神事にも一緒に参列しなさい、と訳も分からず連れて行かれた。
また、茶道教授と華道教授であった母親は私が幼い頃から、当然の嗜みとして茶道・華道・能楽・着付け・礼法・ピアノ・習字を修練させられてきた。
私にとってはそれが当たり前の生活だったし、周りの子も私と同じだと思っていた。
しかし、小学校に進学してから、同級生は明らかに自分とは違った。
歴史の授業では、家庭や神社で教えられたものとは全く違う事を教えられ、父が私に教えてきた事は全て嘘と教えられ、かなりのカルチャーショックを受けた。
そんな訳で、子供の頃はなんでこんな家系に生まれてしまったのだろう、と心底、自分の生まれを憎んだ少女時代だった。
戦前から戦後、大きく捏造され変遷していく歴史の真っ只中を諸に生きたという貴重経験である。
今ではその葛藤を乗り越えた事が糧となり、現在の活動に繋がっている。
と、そんな事に思いを致しつつの、静かな秋の夜長であった。
6月も宜しくお願い致します 〜収録中にまさかの放送事故・本当にあった恐い話・臨死体験・近況報告etc〜
神社本庁所属神主・第25代楠公嫡孫・楠公研究会代表理事・表千家茶道教授者・池坊教授・作家
▪️『建武中興と楠木正成の真実』はAmazonからもお求め頂けます→ https://amzn.asia/d/biIzLKl
▪️ブログ→https://ameblo.jp/chihaya0425/ ▪️YouTube→山下弘枝
▪️Instagram→ kusunoki_chihaya
▪️ Twitter→ @chihaya0425
▪️Facebook→ https://www.facebook.com/profile.php?id=100009798517811
▪️楠公研究会HP→ https://www.nankou-kenkyukai.com/
…………………………………………………………………………
今秋、1000人超えの大イベントに出演します!
神社本庁所属神主・第25代楠公嫡孫・楠公研究会代表理事・表千家茶道教授者・池坊教授・作家
▪️『建武中興と楠木正成の真実』はAmazonからもお求め頂けます→ https://amzn.asia/d/biIzLKl
▪️ブログ→https://ameblo.jp/chihaya0425/ ▪️YouTube→山下弘枝
▪️Instagram→ kusunoki_chihaya
▪️ Twitter→ @chihaya0425
▪️Facebook→ https://www.facebook.com/profile.php?id=100009798517811
▪️楠公研究会HP→ https://www.nankou-kenkyukai.com/
…………………………………………………………………………
【奈良まほろば円舞会】→ https://mahoroba-dance.or.jp/
「まほろば円舞会」は2009年平城遷都1300年祭のプレイベントで、天平衣装を着てワルツ(円舞)を 踊ろうとの発想で生まれ、県庁前回廊特設ステージで始まり,2010年まほろば円舞会実行委員会を設立、平城遷都1300年祭に県民事業として、「2010まほろば円舞会」・なら100年会館大ホールで開催。
2015年秋に「NPO法人まほろば円舞会」を設立。 「まほろば円舞会®」の名称を特許庁に申請、商標登録を取得する。“まほろば円舞会®”
以後、なら100年会館大ホールで毎年開催を経て、2021年13年目を迎えた。
1階席部分使用、ステージ所要時間3時間30分間、18~20ステージ団体が参加。スタッフを入れて「2019まほろば円舞会」では総動員数約1500人の人気イベントとなる。
“「まほろば円舞会」は1幕と2幕で休憩を挟んで3部構成。
1幕は“万葉ダンスファンタジー”・万葉集をテーマにした音楽劇のダンスファンタジー演出。
2幕は生涯学習で学んでいる、子供から高齢者・障がい者が一同に集い、世代やダンスジャンル垣根を越えた、一般市民参加の音楽とダンスの祭典。
【ほぼノーカット】金峯山寺から脳天大神まで、階段往復1000段以上を昇降してみた
※この動画は2019年12月に撮影された映像を使用しております※
ご視聴ありがとうございます。
今回は実験編集企画です。
奈良県吉野の国宝・世界遺産である金峯山寺から、その先にある脳天大神まで、往復千段以上の階段を昇降する姿を、ほぼノーカットで投稿してみました。
見所としては、途中で滝修行(?)をする所と、脳天大神到着時の看板に愕然とする所くらいじゃないでしょうか?
ちなみに脳天大神までの階段段数は450段らしいです。今回は途中で寄り道をしたりした兼ね合いで1000段超えになる事態になっております。
また、車で行くととてつもなく楽に行くことができるようです。
代表ツイッター
https://twitter.com/YamaRyoh
楠木正成、その生涯 ~後醍醐天皇の第1次倒幕運動・正中の変とは〜【小学生にも分かりやすくダイジェスト解説】
非常に難しいとされる南北朝時代を、小学生にも分かりやすく解説。
昨今では、教科書でも教えられない時代となったが、この時代を正しく知っておかねば、国家の形を理解する事ができない。
拠って、わずか数年の出来事であるが、我々の先人らの精神性とイデオロギーに大きな影響を与えた、非常に重要な時代である。
今回のお話は、前回の補足として、鎌倉時代が如何なる時代であったか、後鳥羽上皇と後醍醐天皇が何を目指して討幕を志されたのか、そして、後醍醐天皇による第一次鎌倉幕府討幕活動たる「正中の変」をダイジェスト解説している。
特に、無礼講の内容と、日野俊基・資朝のスパイ活動、更に、予期せぬ身内の情報漏洩による討幕計画の露見の経緯に注目。
ちなみに、日野俊基の息女(遺児)は、後に、楠木正成の長男・正行の婚約者となる弁内侍である。
#大楠公 #太平記 #日本史
旅装束の小山芳姫フィギュアを作ってみました
オリジナルキャラクター小山芳姫(おやまよしひめ)さんの生前の旅装束姿のフィギュアを自作してみました。夫小山義政のこもる鹿沼の粕尾城に向かう時の最期の姿・・・
石粉粘土製でアクリル絵具で彩色
第48回楠公研究会「楠木一族と服部一族〜南北朝時代から戦国時代、そして現代まで続く盟友関係〜」【一般公開版】
今回の勉強会は愛知県弥富市の重要文化財「服部家住宅(旧荷之上城)」にて開催。
15代目服部家ご当主からお話を伺った。
伊勢楠氏と共に、同じく南朝方として吉野時代から共闘してきたのが、服部氏だ。
服部氏といえば、楠木正成の妹の嫁ぎ先として、また、観世家とも血縁がある家筋として、余りにも有名である。
服部氏の団結力は非常に強く、伊勢長島攻めの際の服部家棟梁・服部左京亮友貞は、織田勢を迎え討つべく、河内一郡荷ノ上に館を築いた。
友貞は、戦国乱世を生き残る為には、一向衆に帰依する北伊勢の豪族や僧侶・門徒らの、反信長の力の結集が必要と考え、天文17年(1548) 本願寺を訪れ、 長島願證寺と交歓して結びつきを強めた。
当時、北勢48 家と呼ばれた土豪の多くは長島願證寺の国侍門徒であり、 友貞との結びつきにより長島願證寺は一大勢力となった。
永禄3年(1560) 、友貞は狭間の戦いで今川義元に加勢し呼応して、軍船で大高下から熱田湊を荒らしたが義元に利あらず、信長を討つ好機を逸した。
長島一向衆で重きをなした友貞を信長は大いに恐れた。
永禄11年(1568)正月、服部友貞は、楠木正具の求めに応じ、南朝の盟友・多気城城主の北畠具数の元へ年賀の挨拶の為、出立した。
その途上、楠木正具の地盤である北伊勢・米野山蔭涼庵に逗留した。
この時、友貞は、信長の謀略に遭い、信長の家臣・柴田勝家の軍勢に取り囲まれ、蔭涼庵で自刃した。
服部友貞公の墓碑は今も、蔭涼庵のすぐ傍に残っており、代々墓守をされてきた畑中家が今に至るまで毎年、服部友貞公の法要を取り行っておられる。
今年も盛況裡に総会開催〜大楠公殉節地に立ったその時の奇跡〜
第46回楠公研究会並びに第7回総会、湊川神社・楠公会館にて滞りなく斎了。
この日は終日雨の予報だったのに、私が神戸市内入りすると同時に、その瞬間のみ何故か晴れ渡り、陽の光が燦々と降りそそぎ、先祖のご歓迎を受けた思いだった。
総会・拝殿での正式参拝・通常非公開の殉節地案内の最中も不思議と雨は不思議と全く降らず。
殉節地でこんもりと盛土がされている禁足地を拝した瞬間、正成・正季兄弟が刺し違える瞬間がフラッシュバックした。
幼い頃から親に連れられ何度もお参りしているが、こんな現象は初めてだった。
それと同時に堰を切ったようにドッと雨が降り始めた。
国の現状を見、国を憂う大楠公の涙と感じた。
吉田松陰は遺書「留魂録」で、強烈な志を持った者はたとえ肉体が滅んでも、魂は永遠に生き続け、そうして永遠に日本人の魂の奥底に生き続ける楠公精神こそが七生報國である事を説いている。
かつて吉田松陰はじめ幕末の志士達がそうであったように、私共も大楠公墓碑の前で國體の中興を誓った。
ご参列の皆様誠にありがとうございます。
後ほど、全記録動画は、FB有料会員限定ページにて共有させて頂きます。
新年度からいざ東京進出!
今年度から、保守系YouTube番組「チャンネルAJER」( https://youtube.com/@channelajer?si=F-7SKoeZusOXMFY6 )で、「女性神主が語る國體論」と題し、月2回の配信ペースで私の番組シリーズが始まります。初回は私の生い立ち。2回目以降は昨年出版した拙著『建武中興と楠木正成の真実』(Amazonはコチラから→ https://amzn.asia/d/fr9XAof)を、チャンネルAJERの栗山社長との対談形式でシリーズで詳しく解説していきます。ぜひ、「チャンネルALER」をお気に入り登録して頂き、また、拙著をお手に取って頂いてテキストとして頂きつつ、南北朝時代と楠木正成の事蹟について知って頂ければと願っています。
【告知】
4月24日(水)14時より、兵庫県神戸市の湊川神社・楠公会館(1階にて13:30より受付)にて第46回楠公研究会・第7回総会を開催致します。
総会では昨年度の活動報告と今年度の活動指針、午後3時から正式参拝に続き、神職による通常非公開の殉節地を含めた境内案内、神社由緒解説です。
会費は会員3千円、非会員は4千円(玉串料・会場使用料・神職謝礼含む)。
JR神戸駅徒歩3分。
高速神戸駅徒歩1分。
自家用車でお越しの方は、湊川神社地下のタイムズ神戸北をご利用ください。
午後5時からロイヤルホスト湊川店にて懇親会も予定しています(懇親会費別途)。
ご参加ご希望の方は以下リンクの参加表明ボタンからお申し込み頂くか、楠公研究会事務局(□ 090 -3723-4251 ✉️ [email protected] 担当:西山)までご連絡ください。
https://facebook.com/events/s/%E7%AC%AC46%E5%9B%9E%E6%A5%A0%E5%85%AC%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A%E7%AC%AC7%E5%9B%9E%E7%B7%8F%E4%BC%9A%E6%B9%8A%E5%B7%9D%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E6%A5%A0%E5%85%AC%E4%BC%9A%E9%A4%A8/790522212509100/
楠木正勝が最初に開いた寺院「耕雲寺」〜新潟県村上市〜
耕雲寺は応永元(1394)年に傑堂能勝禅師が開かれた寺で、傑堂の師の梅山聞本禅師を開祖としています。
能勝は楠正成の孫にあたるといい、正平(1355)10年に楠正儀の次男に生まれ名は正能と伝えられている。
別伝では、傑堂能勝は、康暦元(1379)年には既に仏門に入っており、楠木正勝が能勝であるとも伝わっている。楠木正勝は南北朝時代の武将。正能とも。楠木正成の子楠木正儀の子。北朝、室町幕府に徹底抗戦したが、戦に出て流れ矢を膝にうけ、それがもとで歩行が困難となり、25歳のとき高瀬大雄寺に入って出家、のち越前滝沢寺の梅山聞本のもとで修行を積んだという。
傑堂能勝は応永34(1427)年8月7日に73歳で耕雲寺で亡くなりましたが、その間に寺を離れたことがなく、宗門の学問に打ちこまれ、立派な弟子を数多く育てた。
耕雲寺は越後の曹洞四ヶ道場の筆頭に挙げられ、末寺が80、孫寺以下を合わせると800にも及ぶという名刹です。江戸時代は10万石の大名と同じ格式をもち、代々村上藩主から150石の寺領が寄進されていました。
明治19年12月16日に火災のため全伽藍を焼失、僅かに残った鐘楼が今は山門として往時の名残を残しています。この建物は元禄15(1702)年の建立で、市内では羽黒神社の神明宮に次ぐ古い建物で、平成17(2005)年に村上市指定有形文化財に指定されている。
本尊は釈迦三尊仏で、寺宝として傑堂能勝所持の大般若経1巻などがある。耕雲寺の寺紋は「菊水」である。
ここが「水戸学」の根源の地だ!〜茨城県常陸太田市・耕山寺〜
楠木正成の嫡孫・楠木正勝が開いた広澤山耕山寺へお参り、ご住職からお話をお伺いする事ができた。
国見山の南麓、瑞竜山の西山麓にある。
瑞龍山東山麓には、楠公精神を厚く崇敬、景仰し、湊川の殉節地の「嗚呼忠臣楠子之墓」墓碑建碑に始まる「水戸学」を全国の憂国の志士に興隆させた水戸徳川家の墓所がある。
曹洞宗で広澤(こうたく)山と号する。
本尊は聖観世音菩薩。
寛文三年(1663)の開基帳(彰考館蔵)によると、越後耕雲寺の末寺で、朱印地60石を有し、元は新宿(あらじゆく)村の山吹という地にあった。
楠木正成が湊川の戦いで殉節後、その後を継いで長男・楠木正行が楠木家の棟梁となるも四條畷の戦いで弟・正時と差し違えて殉節。
その後は、三男の正儀が家督を継ぎ、以後、正儀流が楠木家嫡流となった。
その楠木家嫡流の祖ともいえる正儀の嫡男・楠木小太郎正勝は、24歳の時、戦で負った足の怪我をきっかけに仏門に入り「傑堂能勝」と称し、全国を行脚し一六ヵ寺を創建した。
耕山寺もその一つで、佐竹義仁が施主となって庇護した。
佐竹家は楠木家を重んじ、自領内にも関わらず、楠木家の家紋・菊水の使用を耕山寺に促し、現在に至るまで菊水紋が寺紋として継承されている。
佐竹氏が去った後、この地を治めた水戸徳川家は、楠木氏ゆかりの耕山寺と同じ瑞龍山を墓所に選び、楠木氏ゆかりの霊地を墓所と定めた。
水戸徳川家がどれほど楠氏を崇めたのか、非常に窺われる事蹟である。
奈良で楠公精神を歌ってきました
本日(日付替わり昨日)、私も友情出演のオファーを賜り、出演させて頂いた、なら100年会館大ホール(1400人収容)全席満員御礼の大盛況裡に開催された。
会場には、来賓として奈良県内の各市町村長、奈良選出の国会議員も臨席し、祝辞を頂いた。
私の舞台では、小楠公の装束で、大楠公の遺品の刀剣「菊一文字」を守刀として片手に持ち、私の持ち歌詩吟歌謡『千早城』を吟じさせて頂いた。
今回の舞台では、埼玉県から駆けつけてくださったオカリナ奏者・谷口恵様のお心遣いにより、オカリナ演奏のお力添えを賜りました事、この場をお借りしまして、心より感謝申し上げる□
楠公研究会会員の田邊広一様に於かれては、由緒正しき剣武の御披露が、詩吟に更なる威厳と品格を持たせてくださり、感動だった。
詩吟歌謡というジャンルでの千人規模の大舞台は初めてだったので(いつもは講演なのでそちらは慣れているが)、さすがの私も、多少緊張した。
※使用楽曲
・「桜井の訣別」
作詞:落合直文 作曲:奥山朝恭
・「千早城」
作詞・作曲:瀬戸木和男
後醍醐天皇陵のある如意輪寺の御忌法要へ ~後醍醐天皇ご命日の日~
後醍醐天皇のご命日に、後醍醐天皇御陵がある奈良県吉野山の如意輪寺での宮内庁立ち会いのもとでの御忌法要にお招き頂き、参列して参りました。
この日は後醍醐天皇ご自身が手彫りされた自作の後醍醐天皇ご尊像が御霊殿からお出ましになり、本堂へ移られて法要が執り行われます。
御霊殿から本堂までの道程に、御輿を担いでおられるのは後醍醐天皇がご生前の折にお傍でお世話をされた方々のご子孫達です。
法要では、ご住職様のお計らいにて、私の本『建武中興と楠木正成の真実』も本堂の後醍醐天皇のご霊前にお供え頂きました。
本堂の法要後は、宮内庁畝傍陵墓管轄区職員によって後醍醐天皇御陵の御鍵が開けられ、通常は立ち入れぬお傍近くにて慰霊の祈りをお捧げさせて頂きました。
皇居外苑から今も日本を見守る大楠公 〜東日本大震災でのエピソード〜
皇居外苑の大楠公像にて、今回の湯島での講演も大盛況、お越しになられた多くの方々に楠公精神と國體の真実について伝え、大和魂を発揚させて頂いた事をご報告した。
「雨の日も風の日も、こうして私達を見守ってくださっているのですね」
ふと、そう仰る声が聴こえた。
実は、東日本大震災の時、帰宅難民となられた方々の為の救護テントが張られたのもここ大楠公像前。
現代に亘って尚、楠公の魂は生き続けている。
大楠公に感謝の言葉を述べ、講演の大成功をお伝えした直後、一陣の風が大楠公像の方角から吹き抜けた。
神威が発動される時には神風が吹く。
まさに、これは大楠公の神威を表した神風であった。