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合気道(演歌)カラオケ
合気道をテーマにした演歌です。
合気道をテーマにしたテレビやラジオ番組など
のBGMにも使用できるように仕上げました。
みんなで楽しく歌っていただけたら幸いに
思います。
◆この歌はJASRACの管理曲です。
#合気道 #松本市 逆半身片手取り二教 合気道象水館
お互いに相対し、受けが取りの手を掴むや取りは受けに入身転換して並び、受けの親指を肩口につけ、肘を折り曲げるようにして手首関節を回すように極める。そのあと取りは受けの肩口を回すようにしてさらに入身をして回り受けをうつ伏せにして押さえ、肩・肘を制して極める。
#合気道 #松本市 #少年部 #演武 少年部8級審査技(本部道場準拠) 合気道象水館
合気道象水館(あいきどうしょうすいかん)
https://shousuikan.jp
長野県松本市を拠点に活動している合気道の道場です。
日曜日・木曜日を中心に合気道教室を開講しております。
対象年齢は小学生から大人まで。
見学自由・入会随時承っております。
お気軽にお問い合わせください 。
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第47回・合気道と道教と山王神道
病弱だった植芝盛平がやがて小さな体で大男を軽々と投げ飛ばしてしまう合気道を創立するまでにはどのような経過があり、また、その合気道とはどのような思想の流れの中で形成されて行ったのか?その謎を解くところに今回の特集は焦点を当てる。植芝盛平は7歳の頃、近所の地元和歌山県田辺市の古義真言宗の地蔵寺の住職の藤本密乗の開く私塾で四書五経や真言密教の鎮魂法や祈祷を学び、また、32歳の時には移住した先の北海道遠軽の地で出会った大東流合気柔術の師範武田惣角から5年間、大東流合気柔術を学び、さらには、36歳の時には父の病気直しの為に大本教の本部のある綾部に出口王仁三郎を訪ねた時、出会った出口王仁三郎に感銘し、そのまま8年間綾部に住み込み、王仁三郎の、戦い回避を目指す言向け和しの無抵抗主義を学び、次第に盛平独自の合気道の道を開いていくこととなった。合気道の技のほとんどは大東流合気柔術から来てるが、その大東流合気柔術を可能にしたのは、創始者とされる鎌倉時代の新羅三郎を称した源義光が影響を受けた天台密教の作った神道理論、山王神道であった。山王神道は、真言宗系の両部神道とともに道教の影響を受けた中国の真言密教、天台教の影響を受けており、道教思想がその密教理論の中に展開されている。太極拳、少林拳、八掛掌、形意拳、心意拳などの中国武術は一様に道教の思想が根源にあり、日本の合気道や大東流合気柔術は天台系の山王神道を通じてこうした武術に繋がる道教思想を継承したのである。山王神道では、古事記・日本書紀では新羅王子、地方風土記では新羅の神とされる天日矛が日本に残した十種の神宝の中に中国武術に繋がる道教的思想を見出し、その中から鎌倉時代に大東流合気柔術が生まれ、そうして大正時代から昭和時代にかけては大東流や大本から独立した植芝盛平によって合気道は誕生した。平田系神道カルトの大本の流れを汲みつつ、一方で大東流や山王神道の中国道教の流れも汲む中、植芝盛平は、和合の精神を説き、人と競い合う事を好まれず、「自己の練磨」のみを目的とする試合無き武術、合気道の道を開いたのである。
【神道シリーズ・シーズン3】第48回・植芝盛平の生涯【前編】
植芝盛平は、1883年(明治16年)12月14日、和歌山県西牟婁郡西ノ谷村(のちの田辺市)の富裕な農家・植芝家の長男(姉3人・妹1人)として生まれた。父・与六の家系は相生流という柔術の流儀を継ぎ、母のゆきは甲斐甲斐武田氏の血筋で明治中期以の開設した撃剣道の創始者・糸川軍太を同族に持つと言う、両方とも武芸をたしなむ家の血筋に盛平は生まれている。
しかし、幼少時の盛平は病弱で内向的な読書好きの少年で、寺の学問所で四書五経を習う一方、数学や物理の実験に熱中するが、これを危ぶんだ父与六は、近所の漁師の子供と相撲を取らせるなどして、盛平の体力と覇気を養うよう努めた。生来負けず嫌いの気性もあり、やがて盛んに海に潜ってはモリ突きを楽しむなど活発で外向的な少年に育っていったが、14~5歳までは華奢な痩身であった。
盛平は珠算では天才的な才能を示したが学校にはなじめず、13歳で中学校を中退し、特技の珠算を生かして税務署に努める事となった。しかし、正義感から地元の漁業法改悪反対運動に参加したためにそれが元で税務署を退職することとなり、19歳になると父親から援助で上京した東京で文房具卸売業「植芝商会」を設立し、事業は成功を収めるものの、体調を崩し一年足らずで会社を畳んで田辺に帰郷し、2歳上で幼馴染の姻戚・糸川はつと結婚した。
20歳になると軍人を目指して徴兵検査を受けるが身長が2センチ足りず失格するが、日露戦争勃発の機運が高まる中、再度徴兵検査を受けて合格し、 また、同時期に堺の柳生心眼流柔術・中井正勝に入門し、行軍演習や銃剣術の訓練において目覚しい活躍を見せ、仲間から「兵隊の神様」と持て囃された。
1905年(明治38年)22歳になると、伍長に昇進し、盛平は直訴により日露戦争の戦地の転出を希望し、戦地に派遣されたものの、戦争は終結に向かっており、戦場に現れることはなかった。
23歳で軍曹に昇進し、職業軍人としての道を目指すが、父与吉の反対により断念し、田辺に帰郷した。
1912年(明治45年/大正元年)29歳になると、政府の北海道開拓団体募集に応じ、農家・漁民の次三男を主とする54戸80余名の「紀州団体」長として紋別郡上湧別村白滝原野に移住し、北海道開拓に精を出すが、その時期に、大東流合気柔術の師範・武田惣角に出会い、すぐさま惣角に弟子入りし、自宅を道場として惣角を迎え入れ、地元の若者を集めて道場は活況を呈するが、盛平は約5年間、惣角から大東流武術を学ぶこととなった。
【神道シリーズ・シーズン3】第49回・植芝盛平の生涯【後編】
第一次大本弾圧事件を難なく逃れた植芝盛平は、1924年(大正13年)2月、出口王仁三郎が仮出獄の身でありながらも、満蒙の地に宗教国家の建設を目指して満州に渡り、盛平もそれに随伴することとなった。張作霖配下の馬賊・盧占魁(ろ せんかい)の率いる「西北自治軍」と共にモンゴルへ向かうが、盧の独走を疑った張の策謀により幾度も死の危機に晒されることになり、張作霖軍からの銃撃にも合うが、その時は盛平は敵弾が来る前に「光のツブテ」が飛んでくるのが見え、それを避けることで敵弾から逃れるという体験をした。このパインタラ事件と呼ばれる事件で、盛平を含む王仁三郎一行は九死に一生を得る体験をするが、無事帰国した後は、王仁三郎は霊界物語の著述に精を出し、植芝盛平は、その霊界物語に影響を受けながら柔術の研鑽と弟子の指導に専念した。
しかし、満州で経験した「光のツブテ」は、「突如大地が鳴動し黄金の光に全身が包まれ宇宙と一体化する」幻影に襲われるという神秘体験とともに起こり、これが気の妙用という武術極意に達することとなる、盛平は、これを黄金体体験と呼び、自らの合気道を創設するための大きな開眼となったのである。
その後、後に起こる第二次大本教弾圧事件を予見した王仁三郎の勧めもあり1927年(昭和2年)より東京へ移住することとなり、同時に柔術師匠の武田惣角から次第に距離を置くようになった。
1931年(昭和6年)48歳。新宿区若松町に道場「皇武館」を設立、激しい稽古振りから「地獄道場」と呼ばれる。この頃の教授対象は皇族・華族・軍人・警察官・実業家・武道家の子弟など一部の層に限られた。入門に当たっては身元の確かな2人以上の保証人を条件とし、無頼の輩に悪用されぬよう公開を厳しく制限した。また軍部の要請で、陸軍戸山学校・憲兵学校・中野学校・海軍大学校などで武術指導を行った。
その後、国情は日中戦争、太平洋戦争と日本が深く大戦にのめり込んで行く中、陸海軍の幹部軍人を始め、軍人を中心とした合気道の訓練の師範として次々と要請があり、盛平はそうした軍人らの稽古、訓練に多忙な日々を過ごして行った。
太平洋戦争終戦の1945年(昭和20年)東京の本部道場は空襲による焼失を免れるも、62歳になった盛平のところには、道場への避難民収容や復員した弟子たちが集まり、岩間の道場と東京の本部道場の復興に努め、どちらも復興を果たし、ここに東京と岩間を軸に戦後皇武会の活動が始まった。
1948年(昭和23年)2月9日に「皇武会」は「財団法人合気会」(初代理事長・富田健治)と改称、岩間の合気苑を本部とし、改めて文部省の認可を受け、この時はじめて正式に「合気道」を名乗るようになり、盛平は初代合気道「道主」となった。
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僕のような人間が今後、一人でも少なくなるためにも、僕の経験を参考にして頂ければ嬉しく思います。
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