戦国大内氏の妙見信仰の跡を訪ねて 妙見宮鷲頭寺  山口県下松市中市

戦国大内氏の妙見信仰の跡を訪ねて 妙見宮鷲頭寺  山口県下松市中市

妙見宮鷲頭寺 山口県下松市中市にある真言宗の寺院下松。室町〜戦国時代中国地方の覇者として7カ国に君臨した大内氏の始祖伝説にちなむ地名伝説では下松市は、元々は下松=降松(くだりまつ)だったといわれている一説では百済津からとも。推古天皇十七年(609年)周防国鷲頭庄の青柳浦にある鼎の松(かなえのまつ〜降臨、連理、相生の三本があった)に北辰星の精が天降りましまし百済からの尊貴な方(琳聖太子)の来朝を守護するため七日七夜輝き神のお告げで祠を建てたと伝説に言われる。その後、推古三年(695年)に桂木山(笠戸大橋のたもと)というところに祀り洲屋大神と称された〜大内正恒の時代に高鹿垣山(茶臼山)へ遷座し、大内貞長の頃、鷲頭山(じゅとうざん)に遷され鎮座.山頂に上宮、中宮本社、麓に若宮が造営された。鷲頭山山麓周辺は鷲頭庄とよばれ大内の一族鷲頭氏が支配した。一時は鷲頭氏が守護となり主流となるが大内宗家と守護職をめぐる争いで鷲頭氏は白坂山(下松市内)合戦で敗退し家臣団に組み込まれ衰退した。大内弘世の時に閼伽井坊など七つの社坊が建てられた。大内義弘の時代には仁王門や五重塔も寄進されて(現存しない)霊場として繁栄した。大内氏始祖琳聖太子来朝にまつわる守護神を祀る社寺として尊崇されたその神域の保護は厳重を極めたという。また本拠の山口にある〜氏寺の氷上山興隆寺にも鷲頭山から妙見社を勧請したといわれます 。氏神として北辰妙見大菩薩を大変崇敬した。現在は明治後、分離されて麓の若宮がアメノミナカヌシを祭神とし降松神社として再編され存続している(若宮と中宮 山中に山門が現存する)幕末の妙見社の神主が力のある僧侶で、分離された社坊の一つはかろうじて妙見宮鷲頭寺として、古来の北辰妙見の祭祀を守り所縁のある現在地に移転建立された。戦後勧請された油掛け大黒天もあります(周南七福神だそうです)見た感じが黒いw。今回は妙見宮鷲頭寺と鼎の松跡にある金輪神社へ行ってきた。鼎の松は枯れて現在は植樹された5代目字幕で一部 北斗妙見菩薩とありますが=北辰妙見菩薩がただしいです(北極星の神格化した天部の神ですから)そのうち降松神社(若宮)と中宮もいかないとね。最近周南周辺は野犬が居るからなあ。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm35565588