水晶ヶ城の鎮守 旧村社 臼山八幡神社  広島市佐伯区石内(旧 佐伯郡石内村) 令和2年

水晶ヶ城の鎮守 旧村社  臼山八幡神社  広島市佐伯区石内(旧 佐伯郡石内村) 令和2年

臼山(うすやま)八幡神社。旧佐伯郡石内村(現広島市佐伯区石内)に鎮座する古い神社。神社 後背の臼山132m は、水晶ケ城(すいしがじょう)跡の東翼郭にあたるらしい。麓あたりは古代山陽道。県道290号線旧道側にある。字幕では臼山八幡宮としましたが扁額、由緒書を見直すと臼山八幡神社が正式名称のようです。ただ寄進された鳥居には宮とある。最近参拝した中ではなかなかの場所、本殿も間近に見え境内社の新宮神社も良い姿でした。延暦年間成立した石道村(江戸時代石内村となる)に延暦二年宇佐から八幡神が勧請された小祠が祀られ、後に水晶ヶ城の鎮守として祀られた。現在の社殿はなかなか大きく、造りもいい。緑が多い大木が多くある境内もまたいい。昭和になり 皇紀二千六百年記念で後ろの山腹を切り開き境内拡張して社殿を現在の位置へ移し祀ったそうです。水晶ヶ城または水晶城(すいしがじょう)=wikiや石内公民館HPの古里巡りを参照させていただいて見るとこの辺りには石道本城と新城があったとされ川向こうのバイパス側に有井城跡がある(ほとんど残ってない)古里巡り記載に従い石道本城としました。 源平の頃 源範頼軍が影ともの道をとおり平家追討した時この城にて佐々木国正が平家方と戦ったらしい。武神として次第に信仰されていく。戦国期には厳島神主家 藤原氏領〜大内氏支配下になり麻生右衛門が城主として赴任した時に、新たに社殿を造営したと伝わる。城は山全体を城郭化した連郭式山城で相当規模が大きなものであった。今も城跡が残り神社などから登山も可能なようです。尚城は厳島合戦前哨戦で開城した後、廃城とされた。かげともの道=古代山陽道 石内あたりから五日市方面へ古代山陽道が通っていた。永井建子(字幕訂正=けんし)=石内村出身で、陸軍軍楽隊楽長などを務めた。音楽家。軍楽、洋楽、交響曲、吹奏楽などの先駆者の一人ということです。作詞作曲も手掛けた。記念碑が建立されている。神社の祭祀は、式内社 速谷神社が行っている模様。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm36920467