【神道シリーズ・シーズン2】第26回・契沖(国学の祖となった真言僧)

【神道シリーズ・シーズン2】第26回・契沖(国学の祖となった真言僧)

世は三代将軍徳川家光の頃に尼崎に地方浪人下川元全(もとたけ)の下に第3子として生まれた契沖は、家の口減らしとして11歳で摂津国東成郡大今里村(現在の大阪市東成区大今里)の妙法寺の丯定(かいじょう)のもとに学ぶこととなり、そしてその後、高野山で東宝院快賢に師事し、五部灌頂を受け阿闍梨の位を得た。摂津国西成郡西高津村(現在の大阪市天王寺区生玉町)の曼陀羅院の住持となり、その間に歌人で和学者の下河辺長流と出会うこととなる。俗務を嫌った契沖は、その後畿内を遍歴して、大和国の長谷寺にいたり17日間も絶食念誦し、室生寺では37日間、命を捨てようとしたほどの激しい煉行を行った。その後高野山に戻った契沖は円通寺の快円に菩薩戒を受け[4]、さらに和泉国和泉郡久井村(現在の和泉市久井町)の辻森吉行や同郡万町村の伏屋重賢のもとで、仏典、漢籍や日本の古典を数多く読み、悉曇研究も行い、延宝5年(1677年)には延命寺・覚彦に安流灌頂を受けた。延宝7年(1679年)に妙法寺の住持となると、以後亡くなるまで古典の研究に勤しむことになるが、真言僧であった契沖は、仏道に励む一方で趣味として和歌や古典の読書、および自らも和歌を作るというマニアの生活をしていたが、その理解の深さは定評高く、この妙法寺住職時代に曼荼羅院時代に出会った下河辺長流より水戸の光圀公からの万葉集注釈の依頼を受け、真摯に万葉集注釈に取り組むようになった。契沖は、その注釈作業を通じて当時まで定説となっていた定家仮名遣いの間違いに気が付き、自ら古来からの日本語の読み方と思われる仮名遣いの再構築に取り組んだ。所謂、この作業はまさに20世紀の巨匠哲学者ジャックダリデの行った脱構築というものに匹敵する歴史的作業であった。この契沖の「歴史的仮名遣い」と言われる仮名遣いは当時は国学者たちの間でしかはやらなかったが、しかし、明治以降この歴史的仮名遣いは国語教育の基本となり、戦後以降の現代仮名遣いの基礎ともなったのだ。国学者たちは契沖が古代の日本の心を復活したと狂喜したものの、実はこれは真の日本の発見でもなんでもなく、いわゆる「新しい日本」の形成であったのだ。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm38506432