【神道シリーズ】シーズン2・第27回・賀茂真淵(神道論無き日本人アイデンティティーの追求)

【神道シリーズ】シーズン2・第27回・賀茂真淵(神道論無き日本人アイデンティティーの追求)

元禄10年(1697年)遠江国敷智郡浜松庄伊庭村(現在の静岡県浜松市)で賀茂神社の神職の家に生まれた真淵は、近所の稲荷神社の神職家の杉浦国頭の家に通い、小さな頃から和歌にいそしむ生活をしていたが、26歳の時、京と江戸を行き来していた京都の伏見稲荷大社の神官の家出身の有名歌人・荷田春満が途中浜松の杉浦国頭の催す歌会に寄った際に歴史的な出会いをし、以後、春満が浜松による度に和歌の手ほどきを受けたが、やがて37歳になると春満の門人になることを目指し上京し、以後、7年後に春満が死ぬまで真淵は京都と浜松を行き来した。その後、時の将軍徳川吉宗の次男で、徳川御三卿の一つ田安家の当主となった田安宗武に使えていた春満の末子の荷田在満の勧めで江戸に出向した真淵は、春満の弟の荷田信名の江戸宅をひきりに、荷田家人脈の門人を頼りに寄宿し、やがて江戸の豪商・村田春海の家に寄宿することとなり、和歌研究と著述の日にあけくれた。やがて、50歳の時に荷田在満の推薦で、田安宗武に和学御用として仕えることとなり、以後、64歳で隠居するまでの14年間宗武の下で仕える事となった。その間に、新古今和歌集を推す在満と万葉集を推す宗武の間で、所謂「国歌八論」論争というものが起き、在満は新古今和歌集の技巧を重んじ、宗武は万葉集の中に現れる儒教的な「ことわり」を重視し、この埋まらない対立の末、在満は田安家を去る事となり、残った真淵は、万葉集支持の立場より宗武の側についたものの、和歌を儒教の六経の詩経の道徳観や儒教独特の勧善懲悪的な和歌評価には賛同できず、両者の見解の深い溝は埋まらぬまま真淵は粛々と独自の万葉集研究を続けた。真淵はその後64歳になって隠居生活に入るが、宝暦13年(1763年)に宗武の命により大和を訪ねた際、その江戸への帰り道で三重県の松坂に寄り、真淵門下入門を志していた青年・本居宣長と両者生涯一回限りの面会を果たし、そこで宣長は古事記注釈書作成への情熱を熱く語ったと言う。賀茂真淵の生涯の圧倒的部分は万葉集研究に注がれ、真淵がその中に見出したのは、自由奔放で雄々しく素朴で、しかもみやびある古代日本人であり、それは「ますらおぶり」という言葉で表現されている。しかし、真淵の神道に関する関心は低く、「天皇は日本の風土に合っている」とは述べたものの、その根拠は語られず、しかも、後の国学者たちのように独自の神道理論を構築しようとする姿勢は見られず、あくまで古代の日本人という日本人のアイデンティティー追求に人生をかけていたと言える。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm38541009