【神道シリーズ・シーズン2】第35回・平田篤胤【前編】平田篤胤の生涯と草莽崛起の国学

【神道シリーズ・シーズン2】第35回・平田篤胤【前編】平田篤胤の生涯と草莽崛起の国学

安永5年8月24日(1776年10月6日)、現秋田県の出羽久保田藩の大番組頭であった大和田清兵衛祚胤(としたね)の四男として秋田郡久保田城下の中谷地町(現在の秋田市中通4丁目)に生まれたが、家が貧しく、8歳の時に口減らしのために近所の鍼医者の家に養子として出されるが、当家に跡継ぎが生まれたため11歳で大和田家に戻され、その後も実家の義母とは折り合いがあわず、家の中ではやっかい扱いされたうえ、20歳になるとそれまですこしずつためた500文を手にし、実家を後にして単身江戸へと向かった。江戸についた篤胤は、大八車を引いたり、5代目市川團十郎の飯炊きや三助、火消しなど苦学しながら当時の最新の学問、とくに西洋の医学・地理学・天文学を学びつつ、旗本の武家奉公人となったが、25歳のとき、勤め先で江戸在住の備中松山藩士で山鹿流兵学者であった平田藤兵衛篤穏(あつやす)の目にとまり、才覚を認められて、その養子となり、平田姓を名乗るようになる。その後26歳で旗本屋敷の奥勤めの娘・織瀬と大恋愛の末結婚し、その織瀬が見つけた本居宣長の本を通じて宣長の国学にのめりこむようになり、亡き宣長を忍んで念じて眠ると夢の中で宣長と邂逅し、宣長門下生となる資格を得た、と言う。その後知識欲旺盛な篤胤は国学のほかにニコラウス・コペルニクスの地動説やアイザック・ニュートンの万有引力など西洋の最新の科学にまで貪欲に学ぶ一方、37歳の時に書いた「霊能御柱」で自ら打ち立てた霊冥界の理論を実証すべく41歳の時に千葉県の常陸・房総半島を廻り、数々のスピリチュアルな体験を地元の名士たちから集め、それを彼の国学理論で説明するなかしだいに彼自身の門人の数を増やして行った。そして、46歳の時、神仙界を訪れ、そこの住人たちから呪術の修行を受けて、帰ってきたという寅吉という15歳の少年に出会うと彼を自宅に居候させ、少年の言う神仙界を自ら主張する霊冥界を重ねながら聞き取り調査を続けた。その後、48歳の時には、死んだ近くに住む子供の生まれ変わりだと主張する勝五郎という6歳の少年も同様に自宅に住まわせて寅吉のように聞き取りを行った。こうした奇異ともとれる篤胤の行動は、宣長派の国学者たちから激しい批判を浴びる一方、当時の一級の知識人たちから賞賛や高い評価を受け、この草莽崛起ともいえる民衆の間に広まった平田国学は、幕末の倒幕運動に大きな影響を与えると同時に、明治以降の廃仏毀釈運動や、日清日露戦争、そして第二次世界大戦にまい進する日本の狂気を最高潮にまで高めていく平田後継者たちによる神道系新興宗教の勃興と拡大に大きく貢献していくのであった。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm38959252