【神道シリーズ・シーズン2】最終回・大塩平八郎【後編】大塩平八郎の虚像と実像

【神道シリーズ・シーズン2】最終回・大塩平八郎【後編】大塩平八郎の虚像と実像

大塩平八郎は、寛政5年(1793年)、大坂天満の与力邸で父敬高,母大西氏の子に生まれる。幼くして父母を失い,祖父に育てられ,文化3年(1806年)ころから東町奉行所に出仕,天保1年(1830年)38歳で退職するまで職務に精励し名与力と評された。しかし、実は、この大塩の出生後から30歳に至るまでの30年間の記録が無く、僅かにその時代を垣間見れるのは、当時一流の儒学者と言われた林家塾頭で幕府の昌平坂学問所の教授であった佐藤一斎との往復書簡の中で語られた大塩の与力職や与力仲間に対する感想の部分からのみである。大塩は、14歳から大坂東町奉行で働き、途中からは与力として町内の犯罪取り締まりに当たるが、彼が38歳で引退する前の4年前、3年前、2年前の3年間に「大塩三大手柄」と言われる三つの事件、「切支丹」逮捕事件、奸吏糾弾事件、破戒僧遠島事件で主役を演じるが、中でも最初の「切支丹」逮捕事件は、「八坂の見通し」という加持祈祷宗教団体に切支丹と無理矢理レッテルを貼っての冤罪事件であり、その結果、多数が極刑に処されている。大司大塩正義の陽明学者というイメージが強いが、果たして大塩の実像は本当にそのようなものであったのだろうか?大塩は与力職勤務期間中の31歳の時に私塾「洗心洞」を開設し、豪商や地主やその子弟たちという経済的に余裕のある者たちだけを門人塾生として入門を認め、彼らから多額の入学金、謝礼金、月謝を取り、また、古書珍書蒐集の趣味から、塾指定の本屋から大量の高額古書を料金を払わず詐取し、その額今の金額にして8000万円近くと言われている。大塩が乱の直前に自己所有の古書を売却して救民のため米を大量に購入して飢餓市民たちに配ったと言われるが、その時売った古書の大半は実質的な盗品であった。また、大塩は自尊心と自己肯定感情が異常に高く、しかも学術的には権威に媚び、自信作の自著を著名儒学者の佐藤一斎にけなされても卑屈に甘受し、新作の自著に一斎からの序文を求め断られるという実に惨めな仕打ちを受けている。大塩の乱は、果たして本当に苦しむ民たちを思って義挙として立ち上がったのか?それとも自信満々だった自著を儒学界の学者たちからけなされ冷笑され、さらに追い打ちをかけるように長年熱望していた江戸幕府仕えの江戸出向の道を断たれて精神的に追い詰められた結果としての挙兵だったのか?もちろん彼の深い心うちを計り知れる者は本人以外だれもいないが、彼のもたらしたものは乱により、ただでさえ天保の大飢饉で苦しんでいた民たちを一層奈落の底に落とし込む地獄の連鎖だけであった。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm39331072