ukiyojingu+結月ゆかり『切り落とされた半身と血液を抱えて生きる私は、その関係に意味を求め続けている。それゆえに、意味もなく他人として現れ、意味もなく電波上ですれ違う貴方のことが必要なのだ。』

ukiyojingu+結月ゆかり『切り落とされた半身と血液を抱えて生きる私は、その関係に意味を求め続けている。それゆえに、意味もなく他人として現れ、意味もなく電波上ですれ違う貴方のことが必要なのだ。』

思考実装  #10解説:ukiyojinguです。 「思考実装」と称したシリーズを始めたのは昨年の初夏だったが、あれから1年以上経った。1年前の3月に発表した「言語交錯」のシリーズより継承した本シリーズは、いったい何だったのだろうか。「新しいもの」を求めると称した前作から振り返ると、内容はどんどん抽象的になり、それゆえの孤独に、足さえ奪われてしまいそうだった。新しいものとは、結局なんだったのろう。美術に限定されることなく、全ての創作はすべからくして過去の作品の影響を(潜在的にだとしても)受けている。そのことを踏まえると、新しさは孤独であり、私たちはそこに至れない。一方、孤独の対極に位置づけられるような、全員が個性を放棄するような透明な集合体はどうだろう。それは強力なユートピアとして私の前には立ち現れたが、実現不可能な理想郷だった。現実社会だろうと、インターネットだろうと、私たちはいつだって集合して共同体をつくりながらも、主体のすべてを集合に捧げることはしなかった。おおよそ「近代」と言われる枠組みで生活を続ける私たちは、均質化された世界で均質化された生活を送りながらも、常に均質化された様式から逸脱したなにかを持っている。その逸脱の蓄積こそ、空間における独自性を形成しているのだと思う。情報空間を現実空間のアナロジーとみることには限界があるが、こうした蓄積が独自の文化空間を形成してきたという点は、共通しているのではないかと思う。だからこそ、現実に目を向けてきた。共同体に目を向けるため、映像は常に実写の都市にした。メタバースや永病に伴って、これだけ情報空間が注目された時代もなかったと思う。そんな時代で、私たちの現実がこれほど希薄になった時代もないだろう。だからこそ、関係性を考えなければならない。電波の中の私たちはコードに従わなければ、作品を電波に流すことすらできない。それはディストピアとも表裏一体だ。その一方で。近代化され、均質化された都市で暮らす私たちは、そもそも法や倫理というコードのうえに生きている。ならば、私はせめて均質化された空間のなかで、自分の独自の差異を探そうと思う。そして、それはこの画面を見る「あなた」がいて初めて可能になる。私はあなたに言葉を送信する。その結果、何が起こるかはわからないが、その返答によって、私はきっと均質化された世界の中でも均質化されていない要素を発見でき、そしてあなたとの相互作用によって変化し、やがて混入した「あなた」によって主体を溶解させながら、一緒に新しさを発見できるのだ。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm41367638