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『音楽を楽しく正しく聞くことに慣れている私たちにとって、不愉快で非合理なものこそが必要だ。そうして私は、この雑音の反復さえ、意味があるのだと言ってしまう。』(live 20230319)
2023年3月17日。
37.5度の熱を出し、花粉症による鼻炎も相まって眠れない日々を過ごした。動かない頭を身体を引きづって発熱外来を予約し、PCR検査の結果が陰性であることを知り、職場の大学へ報告する。ただの風邪だったこともあり翌日には元気になったが、数日間は出勤停止だ。
熱が下がった夜、久しぶりに夢を見た。自分が良く出演したライブハウスの店長に誘われ、ライブに出演する夢だ。数年ぶりにライブをするが、どうもリアクションが悪い。実は自分たちは演奏しているのではなく、裏で流れている同期に合わせ演奏しているだけであり、それに皆が気づいているからだった。指を刺され嗤われながらも、30分間のライブは続く。私は最後に泣きそうな顔になりながら、演奏を無事に終え、逃げるように都市の隙間へと消え、人々の雑踏と一体化していった。
私はバンドでライブをするとき、常に全く同じパターンとリズムで話す結月ゆかりとともにいた。その声はその場限りの唯一性を持つことはなく、一回性によって支えられた声の肌理を持たない点において異様な存在だ。その複製可能な声の均質さは、私が昨晩の夢で溶けて消えていった人々の雑踏ともどこか同じ匂いがする。マックス・ウェーバー曰く、都市は城塞と外壁がかつて物理的境界線であり、近代以降は言語や経済圏に基づけられることで、それが国家と同等なものとなった。壁の外側から戦争機械が来ることを知らない私たちは生活が突然変異することさえ知らず、それゆえに均質化された都市空間のなかで、その構成員として無意味的に反復を繰り返す。常に全く同じパターンとリズムで話す結月ゆかりと、常に全く同じパターンとリズムで鍵盤が叩かれるこの演奏のように。
私が昨晩の夢で溶けるように消えていった都市と、多くの動画の海にうずもれて消失していくこのデジタル空間は、さして違わないだろう。外部から到来する戦争機械に非自覚的かつ、世界の突然変異を自覚しない反復する私たちの様相は、データで管理され数字にあくなきこだわりを持つ私たちの成功と失敗の繰り返しと、さして変わらない。だからこそ、この2021年7月の日記はそれに抗する生存戦略としてなされる。この異様な長さの動画は果たして、誰にどこまで価値とみなされるだろうか。このページを開いたあなたは、この文章を読むだろうか。MIDIデータをパソコンで送信し、綺麗に整理し直されたこのピアノの演奏を、あなたは演奏と認めてくれるだろうか、或いは「同期演奏」と嗤うだろうか。生まれる僅かな違和感、そして疑問は、私たちが大衆、或いはデータの海で埋もれていく中で、その無意味な反復の幸福を享受しながらも脱却し、新たな思考を実装しうる回路を求められないだろうか。
そう願い、私も都市の隙間に埋もれてゆく。
ukiyojingu+結月ゆかり『思考実装 補遺』
散文、違和感のある声の肌理、不完全なものを愛すること。
異質なるものとしての、私と貴方の関係性の美学。
実装10曲+序+跋=24,595文字、73分の、それ自体に意味のない生活の反復。
この無意味は、送信と受信を経て、何者かの内面で「情報」として突然意味を持つ。
突然変異と誤配から、私たちの相互浸透と変身、半透明になる可能性、それ私は求めたい。
ポストメディアの時代における、無意味のメタモルフォシスへ。
情動的コミュニケーションから生じる、私たちの不意な接続へ。
それを通した、私たちと私の突然変異と相互浸透の可能性へ。
実装#1:https://www.nicovideo.jp/watch/sm38968425
実装#2:https://www.nicovideo.jp/watch/sm39224978
実装#3:https://www.nicovideo.jp/watch/sm39481424
実装#4:https://www.nicovideo.jp/watch/sm39496094
実装#5:https://www.nicovideo.jp/watch/sm39829243
実装#6:https://www.nicovideo.jp/watch/sm40364529
実装#7:https://www.nicovideo.jp/watch/sm40952503
実装#8:https://www.nicovideo.jp/watch/sm41190183
実装#9:https://www.nicovideo.jp/watch/sm41191012
実装#10:https://www.nicovideo.jp/watch/sm41367638
[お知らせ]
ukiyojingu『思考実装』2022年12月30日発売。
特典①:投稿動画(10曲+実装#8の)のmp4ファイル(DL方式)
特典②:アルバム収録曲解説文(10曲、12月30日に公開する「補遺」の文字データ)、およびニコニコ動画、初音ミクについて執筆したnote10本を掲載したpdf冊子(A5サイズ、約230ページ)
『思考実装』 digest movie ukiyojingu+結月ゆかり
ukiyojinguです。
9月のVOCALOID STREETにて発表したアルバムのオンライン版を、誕生日の2022年12月30日に発売します。
BOOTH、およびBandcamp(こちらは検討中)にて発売予定。
特典①:投稿動画(10曲)のmp4ファイル(DL方式)
特典②:アルバム収録曲解説文(10曲、12月30日に公開する「補遺」の文字データ)、およびニコニコ動画、初音ミクについて執筆したnote10本を掲載したpdf冊子(A5サイズ、約230ページほど)
実装#1:https://www.nicovideo.jp/watch/sm38968425
実装#2:https://www.nicovideo.jp/watch/sm39224978
実装#3:https://www.nicovideo.jp/watch/sm39481424
実装#4:https://www.nicovideo.jp/watch/sm39496094
実装#5:https://www.nicovideo.jp/watch/sm39829243
実装#6:https://www.nicovideo.jp/watch/sm40364529
実装#7:https://www.nicovideo.jp/watch/sm40952503
実装#8:https://www.nicovideo.jp/watch/sm41190183
実装#9:https://www.nicovideo.jp/watch/sm41191012
実装#10:https://www.nicovideo.jp/watch/sm41367638
補遺:2022年12月30日公開
ukiyojingu+結月ゆかり『切り落とされた半身と血液を抱えて生きる私は、その関係に意味を求め続けている。それゆえに、意味もなく他人として現れ、意味もなく電波上ですれ違う貴方のことが必要なのだ。』
思考実装 #10
解説:
ukiyojinguです。
「思考実装」と称したシリーズを始めたのは昨年の初夏だったが、あれから1年以上経った。
1年前の3月に発表した「言語交錯」のシリーズより継承した本シリーズは、いったい何だったのだろうか。「新しいもの」を求めると称した前作から振り返ると、内容はどんどん抽象的になり、それゆえの孤独に、足さえ奪われてしまいそうだった。新しいものとは、結局なんだったのろう。
美術に限定されることなく、全ての創作はすべからくして過去の作品の影響を(潜在的にだとしても)受けている。そのことを踏まえると、新しさは孤独であり、私たちはそこに至れない。一方、孤独の対極に位置づけられるような、全員が個性を放棄するような透明な集合体はどうだろう。それは強力なユートピアとして私の前には立ち現れたが、実現不可能な理想郷だった。現実社会だろうと、インターネットだろうと、私たちはいつだって集合して共同体をつくりながらも、主体のすべてを集合に捧げることはしなかった。おおよそ「近代」と言われる枠組みで生活を続ける私たちは、均質化された世界で均質化された生活を送りながらも、常に均質化された様式から逸脱したなにかを持っている。その逸脱の蓄積こそ、空間における独自性を形成しているのだと思う。情報空間を現実空間のアナロジーとみることには限界があるが、こうした蓄積が独自の文化空間を形成してきたという点は、共通しているのではないかと思う。
だからこそ、現実に目を向けてきた。共同体に目を向けるため、映像は常に実写の都市にした。メタバースや永病に伴って、これだけ情報空間が注目された時代もなかったと思う。そんな時代で、私たちの現実がこれほど希薄になった時代もないだろう。だからこそ、関係性を考えなければならない。
電波の中の私たちはコードに従わなければ、作品を電波に流すことすらできない。それはディストピアとも表裏一体だ。その一方で。近代化され、均質化された都市で暮らす私たちは、そもそも法や倫理というコードのうえに生きている。ならば、私はせめて均質化された空間のなかで、自分の独自の差異を探そうと思う。そして、それはこの画面を見る「あなた」がいて初めて可能になる。
私はあなたに言葉を送信する。その結果、何が起こるかはわからないが、その返答によって、私はきっと均質化された世界の中でも均質化されていない要素を発見でき、そしてあなたとの相互作用によって変化し、やがて混入した「あなた」によって主体を溶解させながら、一緒に新しさを発見できるのだ。
『透明な日々』 /沿岸都市 feat. 初音ミク
沿岸都市です。
此処からは、遠く彼方へ
Vocal:初音ミク
Music,Lyric,Mix,Mastering:shiranami、ukiyojinguのどっちか、あるいはどっちも
https://twitter.com/whitewave21th
https://twitter.com/ukiyojingu
Illust:夜露イルカ様
https://piapro.jp/t/GNbR
E.P.『相互干渉0.8』収録曲です。
https://engantoshi.booth.pm/
クロスフェードはこちら→https://www.nicovideo.jp/watch/sm41188944
沿岸都市『相互干渉0.8』Trailer
沿岸都市です。
9月11日のボカストにて発売したE.P.『相互干渉』をオンライン発売します。
リンクはこちらから→https://engantoshi.booth.pm/items/4223965
「相互干渉」というアルバムを作りました。クレジットにて「誰が何を作ったかを明らかにしない」というテーマのもと、どっちがどれを作ったかわからないようにしています。どうしてこういうのができたのかについては経緯ありますが、まずはいろんな風に楽しんでください。
——ukiyojinguかshiranamiのどっちか①
相互干渉というタイトル通り、お互いがお互いの曲に手を加えた結果、どちらとも付かないポジティブなアンバランスさを含んだEPになったと思います。感じたまま自由に楽しんでください。
——ukiyojinguかshiranamiのどっちか②
ukiyojingu+結月ゆかり『この手。この指。この爪。この皮膚。この身体。この弦。この電波。この通信。この線。この音。この画面。この合成音声音楽。この映像。この日々。この生活。私のすべて。 』
思考実装 #9
解説:https://note.com/ukiyojingu/n/nce1c13cb1946
ukiyojinguです。
私たちは透明になることに失敗しながらも、誰かに変身しながら、今日も自身を電波へと送信している(https://www.nicovideo.jp/watch/sm41190183 )。半身をゆだねながらも自身を送り続ける私たちはきっと、透明であるようで透明でないような、そんな半透明で濁った存在なのかもしれない。半身は腐ることなく、誰かによって解体されながら、全く違うものへと変身していく。だからこそ、私たちが一つになって消えることももはやできないのなら、私は静かに自分の輪郭をもう一度なぞる必要があるのかもしれない。
私は透明になることを希望しながら、一方で自身が透明になりきれないことについて自覚している。そんな私の不安定さは、この音楽の淡白さと不安定さに表出しているように思う。このアルペジオの不安定さ、このリズム感の不安定さ、そしてこの映像の不安定さ…これらすべては私だけの不安定さであり、絶対に再現不可能な私自身の表出でもある。そんな私の演奏は、脱色され白と黒でこうせいされたこの映像に対し、この無機質さを超えた私の血液の鮮明な赤色を伝えてくれている。この赤色こそ、私たちが情報空間上のゾンビとして彷徨うわけでも(https://www.nicovideo.jp/watch/sm40364529 )、ましてや無色透明になって何者でもなくなるようなユートピア、或いはディストピアを目指すような世界でもなく、相互作用によって変化する可能性、私とあなたの組みかわりの可能性(https://www.nicovideo.jp/watch/sm40952503 )を提示してくれるのだと信じている。
同時公開:https://www.nicovideo.jp/watch/sm41190183
10/13追記:「エンコードされないものたち——ボカロ曲とテキストの関係性について」というものを書きました。
https://note.com/ukiyojingu/n/nffd2213559ce
ukiyojingu+結月ゆかり『無色で透明な私たちは互いに融合しながらも、他方で消えない血液と己の半身を希求する。だからこそ、私は互いを解体させられるほどの、血液たちの接触と消失を望んでいる。 』
思考実装 #8
解説:https://note.com/ukiyojingu/n/n862236915d37
ukiyojinguです。
※この楽曲は『無色透名祭』にて投稿されたものです。
元リンク:https://www.nicovideo.jp/watch/so40804464
「私たちはみな、『何者』かになる私を愛している。」
この動画は「透明」をテーマに作られ、無色で透明なものを追求する方法を考える実践だった。しかし、誰しもが数値とランキングを追求し、皆が「何者」かを求めたがるボカコレという環境、或いはこの時代に対し、その裏側を照射することができるような可能性もあると考えている。「アンチ・ボカコレ」を自称する多くの曲がランキングにエントリーされているこんな皮肉な状況に対し、エントリーされていないこの動画だからこそ、できることがあると考えている。
私は身体の数学化(https://www.nicovideo.jp/watch/sm39224978 )を恐れ、自身の唯一性を証明してくれると信じていたものが電波に侵食されることに危機感を持ちながら、それでも流し、顔も知らないあなたへ送信する。どれだけ慎重に送信しても、この言葉が伝達過程で無数もの意味の組みかわりの果てに全く異なったものへ返信するのならば(https://www.nicovideo.jp/watch/sm40952503 )、私たちは唯一無二の「血液」たるものを証明はできるのだろうか。私が抱きしめ続けている半身(https://www.nicovideo.jp/watch/sm40364529 )は私たちが情報空間上のゾンビにならないために必要なものだ。だが、その半身をもって私自身の唯一性、半身に未だ流れている血液のようなものを世界に発信しても、それは相手に伝達される(解釈される)時点で、唯一性は失われているのではないだろうか?
私たちの唯一無二の血液が本当の意味で唯一無二なのだとしたら、それは誰とも共通していないという点において孤独な存在だ。だが、そんな孤独さに価値を見いだし、追求していたら、恐らく私は電波に音楽を流していなかっただろう。なぜなら、孤独と集合は真逆に思えるからだ。私は自分の唯一無二の血液、電波上で未だ捧げていない己の半身を抱きしめるとともに、電波に流したもう半身を、情報空間に投げる。そうやって、電波のなかに集まる多くの匿名たち、多くのデータとともに、どこまで行けるかを見てみたい。集合化したい半身と、消去しきれない半身を抱え、私は生活を送る。
同時公開:https://www.nicovideo.jp/watch/sm41191012
ukiyojingu「これまでの思考実装 #1-#7」
ukiyojinguです。
2022.10.8
・動画公開予定(2本)
実装#8(無色透名祭公開曲)
「無色で透明な私たちは互いに融合しながらも、他方で消えない血液と己の半身を希求する。 だからこそ、私は互いを解体させられるほどの、血液たちの接触と消失を望んでいる。」
実装#9
「この手。この指。この爪。この皮膚。この身体。この弦。この電波。この通信。この線。この音。この画面。この合成音声音楽。この映像。この日々。この生活。私のすべて。」
2022.10.10→11月に変更
・動画公開予定(2本)
実装#10
「切り落とされた半身を抱え続ける私たちは、その残りを愛するための方法を求めている。だからこそ、私は理由もなく切り/離され、そして電波上で出会う貴方のことが、どうしても必要なのだ。」
・アルバム『思考実装』リリース
クロスフェード動画公開
実装#1 https://www.nicovideo.jp/watch/sm38968425
実装#2 https://www.nicovideo.jp/watch/sm39224978
実装#3 https://www.nicovideo.jp/watch/sm39481424
実装#4 https://www.nicovideo.jp/watch/sm39496094
実装#5 https://www.nicovideo.jp/watch/sm39829243
実装#6 https://www.nicovideo.jp/watch/sm40364529
実装#7 https://www.nicovideo.jp/watch/sm40952503
ukiyojingu+結月ゆかり『徐々に思考を深く実装させていく私たちは、避けられない乖離を繰り返している。崇高を目指していく精神と相対しながら、私たちの身体は徐々に解/体/さ/れ/て/い/く。』
思考実装 #7
解説:https://note.com/ukiyojingu/n/n798480f3d90c
ukiyojinguです。
電波上であらゆるものを送信していく私たちは、徐々に自身の身体を情報空間上に投げ出しながら、論理的かつ効率の良い、理想的な社会を構築し始めた。
私たちは意識的に情報空間上に主体を投げ出すと同時に、どうしても意識的な行動とは一致しえない、自身の身体に内在化された何かを忘れることもできない。私たちは自身の身体の中に流れている否定できない私たちの血液を抱きしめて生きていく必要がある。それを忘れてしまうことは、情報空間上で自身を喪失してしまう行為であるともいえるのかもしれない(cf. https://www.nicovideo.jp/watch/sm40364529)。しかし、電波で簡単にあらゆるものを送信することを可能にすることによって、私たちの理想は徐々に形成されてもきた。この両義性に引き裂かれながら、私は意識的に論理的なものを目指そうとすると同時に、徐々に身体が解体される。音楽も構築されたものから自由になり、浮遊するように漂っていなければならないような気がする。だがしかし、電波上で私たちは強制的に組代わり、何でもなくなった私たちは必ず、誰かによって何かにさせられていく。
音楽は勝手に崇高になる(https://www.nicovideo.jp/watch/sm37387001 )。
だからこそ、他方で私たちの血液を愛する日々も必要だ(cf. https://www.nicovideo.jp/watch/sm39224978 )
私は、この引き裂かれるような日々を解決しなければならない。
だがその度、音楽は/ど/う/し/よ/う/も/な/く/ノ/イ/ズ/が/介/入/さ/れ/て/し/ま/う/よ/う/な/感/覚/さ/え、持/っ/て/し/ま/う/の/だ。
ukiyojingu+結月ゆかり『遺しておくべき意志はあるか?』(live 2022.4.27.)
ukiyojinguです。
ボカロPがボカロに歌を歌わせることは、自身の声という唯一無二の要素を電波に捧げることによって、電波を通して互いが繋がる行為である。そうして私たちは、いろいろな方法を用いて互いに互いと繋がっていく。
そして、その捧げた半身に自身の声を埋め込んで繋がっていく歌い手の営為は、電波に捧げた半身のさらに半分に自身を埋め込むような行為のように見える。
(cf. https://nico.ms/sm40364529 )
私は私の声を、私が作り上げた曲の中に埋め込んでいる。そうすることによって、私は電波に流した半身をまた自分の中に取り込んでいる。その行為は互いが繋がり合うことをまるで拒絶してしまっているが、そうでもしなければ、私たちは電波による半身を取り戻すことはもはやできないかもしれない。この声は私だけの唯一無二であり、誰にも奪えない。
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[お知らせ]
ボカコレ2022春に2本の映像を公開しました。関連もする内容なので、良ければご覧ください。
ukiyojingu+結月ゆかり『価値と承認に汚染された我々は、いつしか捧げた半分の身体に支配権を奪われていた。だからこそ、私は私の正気を取り戻すため、血の滲んだこの映像を電波に流す必要がある。』
https://nico.ms/sm40364529
ukiyojingu+結月ゆかり『私たちは何者だろうか?』 (live 2021.1.22)
https://nico.ms/sm4037300
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ukiyojingu+結月ゆかり『私たちは何者だろうか?』(live 2021.1.22)
ukiyojinguです。
2021年1月22日のライブから「私たちは何者だろうか?」を公開します。
本来はボカコレに合わせ「歌ってみた」を投稿する予定でしたが、今回はそもそも歌ってみたが「歌コレ」として独立して設置されていることに昨日気づきました。どうやら「演奏してみた」カテゴリはボカコレ日程内にあるようなので、昨年にライブハウスにて出演した曲のライブ映像をアップロードしようと思います。
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2022年4月23日に新曲を投稿しました、よければ聞いてください。
ukiyojingu+結月ゆかり『価値と承認に汚染された我々は、いつしか捧げた半分の身体に支配権を奪われていた。だからこそ、私は私の正気を取り戻すため、血の滲んだこの映像を電波に流す必要がある。』
https://www.nicovideo.jp/watch/sm40364529
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ukiyojingu+結月ゆかり『価値と承認に汚染された我々は、いつしか捧げた半分の身体に支配権を奪われていた。だからこそ、私は私の正気を取り戻すため、血の滲んだこの映像を電波に流す必要がある。』
思考実装 #6
解説:https://note.com/ukiyojingu/n/n7c910a3796b1
ukiyojinguです。
電波に自身を乗せて流している私たちはすべからく、必ず他者に見てもらいたい、あるいは承認を得たいという感情を抱えている(https://note.com/ukiyojingu/n/n6e6d085c7a33 ) 。私たちはそれを無視することはできない。だが、その欲望に過剰になればなるほど、私たちはいつの間にか数学的に管理される承認そのものによって、駆動させられてしまうことにもなる。本来の目的を喪失し、数学に支配されてしまった私たちのことを、この映像では「情報空間上のゾンビ」と呼んだ。私たちは自分自身を表現したいが、それを電波に乗せている以上、ある程度のでコードを受ける必要がある。つまり、私たちは半分だけ自分自身を表現し、電波に流しているのだが、情報空間上のゾンビたちは、他者に自分の表現を伝達するためにささげた半身が逆説的に、本来の自分を汚染することによって生まれてくる存在だろう。
情報空間上のゾンビにならないために、どのような方法を考えるべきだろうか。私の血液と、私の呼吸と、私の思想は唯一無二のものであると、私は本当に言えるのだろうか。数学から解放されるにはどうしたらいいのか?音楽であることをやめればいいのだろうか?あるいは、口をつぐみ、耳を塞いで、何もしないべきなのだろうか?
これまで私は、新しさを作るための試みを自分としてはやってきたつもりだ。それは時に30分間にも及ぶ日記の記述や(https://www.nicovideo.jp/watch/sm39224978)、自身の楽曲の解体と再構築(https://www.nicovideo.jp/watch/sm39496094)、未完成の表出(https://www.nicovideo.jp/watch/sm39481424)、そして呼吸の挿入(https://www.nicovideo.jp/watch/sm39829243)などだ。それらは私自身にしかできない要素を詰め込むがために作り上げられたはずだったが、どこかで限界が現れる。しかし、そこにあるものを超えることによって、何か新しい世界が見えてくる気もする。だからこそ、私は今日もこの意味不明なことを続ける必要があるのだと、考えている。
ukiyojingu+結月ゆかり『私たちの言葉はいつしか限界を迎える。それを受けいれてもなお、浮動小数点に重なる呼吸がいつか痙攣を終わらせ、流れる血液に固有名詞を授けてくれるとなぜ信じられるのか。』
思考実装 #5
解説:https://note.com/ukiyojingu/n/n118a1baf78ba
私たちの固有性を言葉で表現しようとすると、そこ必ず限界が生じてくる。言葉はより複雑になっていき、もはや自分でも何を考えているのかが分からなくなってしまう。或いは、どのような言葉も最終的にはそれさえジャンル分けされてしまい、そこから逸脱する行為さえもまた、ジャンル分けされてしまう。そうやって、私のあらゆる行動は固有性を持つことができない。思考することの限界を前に言葉が詰まる。そうして、私はまるで吃音のように、意味のないような言葉を繰り返すのだ(https://nico.ms/sm39496094)。
「呼吸が聞こえる」。
この言葉さえ私の反復であり、人工音声によって反復されるそれは言葉の息使いを感じさせない。その上に重なる、私の呼吸は一体何を意味するのだろうか。これが私の固有性を証明できるのだろうか。だがそれを証明する手段を言葉にゆだねては、同じ構造を反復してしまうのではないだろうか。これが私の固有性を授けてくれると、なぜわかるのだろうか。
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[お知らせ1]
批評誌「LOCUST」のレコメンド記事にて寄稿しました。
LOCUSTレコメンド ②ukiyojingu
「少年少女は前を向いたのか――10年目のカゲロウプロジェクトと「繋がり」の思想」|LOCUST(ロカスト)
https://note.com/locust/n/n0510aa00b100
[お知らせ2]
1月に京都で開催する「かいかいバンドワンマンライブ」 にサポートギターとして参加します。
場所:PUB VOXhall
日時:2022年1月9日
オープン/スタート 18:00/18:30
出演
かいかいバンド
バカ力 (スペシャル友情O.A)
チャージ
前売り/当日 2000円/2500円
+1ドリンク
詳細はhttps://twitter.com/kaikai_land にて、DMしてください。
(あるいはukiyojinguのホームページhttps://ukiyojingu.com/ のメール欄より、ご連絡ください)
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ukiyojingu+結月ゆかり『切断し再構築された私の言葉は、まるで痙攣するように反復を重ねている。この痙攣を美学だと主張することだけが、震えている私の身体に存在意義を与えてくれるのだ。』
思考実装 #4
解説:https://note.com/ukiyojingu/n/n61d8f88bbeef
私の手首から流れ落ちた血液は、言葉にならない私の意思をこの画面から1メートルにも満たない貴方へと伝える。言葉にならないが伝達されるそれらは、私が作り上げたものを特異なものへ、唯一無二なものへと変化させていく。そこに見えている私の血液こそ、他の誰も持っていない、私の血液そのものだ。
私はこの音楽を作るにあたって、かつて作った『言語交錯』収録曲10曲をもとが分からなくなるまで分解し、再構築して作った。完全に崩れてしまった言葉は、その都度再構築されることによって別のものへと組み替えられていく(cf. https://nico.ms/sm37193611 )。この組み換えはまるで痙攣のように、同じ要素を反復しながら、さらに新しい形へと変身を遂げている。
この音楽は、どこに私自身の新しさを持つのだろう。前回(https://nico.ms/sm39481424 )、私は何もかもをそのままの形で示した。それと比べ、ありのままを表明することなく、既存のものを再構築することによって生み出されたこの痙攣は、私の流した血液を乾かしてしまう。しかし、この痙攣と、そこにかつてあった言葉たちにこそ、スクラップとリビルドを経て再構築されてしまう私の美学の過程が詰め込まれている。私がどのようにして新しいものを作れるのかを考えるにあたって、この過程はきっと必要なものだったのだと思う。
ukiyojingu+結月ゆかり『私は既にあったものを切り貼りしながらこの不完全を作り、そこに自ら手首を切り落とす。私の手から流れる血液の鮮やかさは、画面の向こうにいる貴方にどう伝わるのだろうか。』
思考実装 #3
解説:https://note.com/ukiyojingu/n/n48ad7275e538
前回(https://nico.ms/sm39224978)、私は30分をかけた日記の朗読を通して、何者にもジャンル分けされるべきではない自分自身の唯一無二性を作り上げる試みを行った。そうした試みは成功したのか、あるいは失敗したのかは私も分からない。もっと良い方向があったのかもしれない。だが、私にとってはそれが限界だったようにも思える。いずれにしても、できる限りのことをしたということだけは事実だ。
音楽に限らず、何かを作ろうにも必ず先駆者がいて、私は常に彼らを意識せざるを得なかった。なぜなら、私は天才などではないからだ。私はそこから逃げ出したかった。だから唯一無二性を作り上げることを目指してきた。ここにあるのは私のそうした試みの断片であり、(現時点では)実装されなかった音楽たちである。これらが後に実装されることがあるのなら、あなたはぜひ実装されたことを称賛してやってほしい。
ここに並べられているものは全て、かつて私が来るべく新しい楽曲に向けて用意していたものの、日の目を見なかったものたちだ。それらは私によって作られてはいるが、そのすべてが私によって作られているわけではない。そして、音楽を合わさった動画たちは全て、拾ったものだ。私はここで作り上げられたものを、自分が作ったものということができるのだろうか。そうした疑問を抱きながら、私は自分の手首を切り落とすことによって血液を注ぎ込む。私から流れる灰色の血が、きっとこれらを正しき方向へ導いてくれると信じて。
ukiyojingu『scene#05_2021年8月11日』
ukiyojinguです。
音楽に限らず、何かを作ろうにも必ず先駆者がいて、私は常に彼らを意識せざるを得なかった。なぜなら、私は天才などではないからだ。私はそこから逃げ出したかった。だから唯一無二性を作り上げることを目指してきた。ここにあるのは私のそうした試みの断片であり、(現時点では)実装されなかった音楽たちである。
ここに並べられているものは全て、かつて私が来るべく新しい楽曲に向けて用意していたものの、日の目を見なかったものたちだ。それらは私によって作られてはいるが、そのすべてが私によって作られているわけではない。そして、音楽を合わさった動画たちは全て、インターネットから拾ったものだ。私はここで作り上げられたものを、自分が作ったものということができるのだろうか。
スケジュール
3:00 scene#01
6:00 scene#02
9:00 scene#03
12:00 scene#04
15:00 scene#05
20:00 実装#3
ukiyojingu『scene#04_2021年6月7日』
ukiyojinguです。
音楽に限らず、何かを作ろうにも必ず先駆者がいて、私は常に彼らを意識せざるを得なかった。なぜなら、私は天才などではないからだ。私はそこから逃げ出したかった。だから唯一無二性を作り上げることを目指してきた。ここにあるのは私のそうした試みの断片であり、(現時点では)実装されなかった音楽たちである。
ここに並べられているものは全て、かつて私が来るべく新しい楽曲に向けて用意していたものの、日の目を見なかったものたちだ。それらは私によって作られてはいるが、そのすべてが私によって作られているわけではない。そして、音楽を合わさった動画たちは全て、インターネットから拾ったものだ。私はここで作り上げられたものを、自分が作ったものということができるのだろうか。
スケジュール
3:00 scene#01
6:00 scene#02
9:00 scene#03
12:00 scene#04
15:00 scene#05
20:00 実装#3
ukiyojingu『scene#03_2021年5月25日』
ukiyojinguです。
音楽に限らず、何かを作ろうにも必ず先駆者がいて、私は常に彼らを意識せざるを得なかった。なぜなら、私は天才などではないからだ。私はそこから逃げ出したかった。だから唯一無二性を作り上げることを目指してきた。ここにあるのは私のそうした試みの断片であり、(現時点では)実装されなかった音楽たちである。
ここに並べられているものは全て、かつて私が来るべく新しい楽曲に向けて用意していたものの、日の目を見なかったものたちだ。それらは私によって作られてはいるが、そのすべてが私によって作られているわけではない。そして、音楽を合わさった動画たちは全て、インターネットから拾ったものだ。私はここで作り上げられたものを、自分が作ったものということができるのだろうか。
スケジュール
3:00 scene#01
6:00 scene#02
9:00 scene#03
12:00 scene#04
15:00 scene#05
20:00 実装#3
ukiyojingu『scene#02_2021年4月15日』
ukiyojinguです。
音楽に限らず、何かを作ろうにも必ず先駆者がいて、私は常に彼らを意識せざるを得なかった。なぜなら、私は天才などではないからだ。私はそこから逃げ出したかった。だから唯一無二性を作り上げることを目指してきた。ここにあるのは私のそうした試みの断片であり、(現時点では)実装されなかった音楽たちである。
ここに並べられているものは全て、かつて私が来るべく新しい楽曲に向けて用意していたものの、日の目を見なかったものたちだ。それらは私によって作られてはいるが、そのすべてが私によって作られているわけではない。そして、音楽を合わさった動画たちは全て、インターネットから拾ったものだ。私はここで作り上げられたものを、自分が作ったものということができるのだろうか。
スケジュール
3:00 scene#01
6:00 scene#02
9:00 scene#03
12:00 scene#04
15:00 scene#05
20:00 実装#3
ukiyojingu『scene#01_2021年1月28日』
ukiyojinguです。
音楽に限らず、何かを作ろうにも必ず先駆者がいて、私は常に彼らを意識せざるを得なかった。なぜなら、私は天才などではないからだ。私はそこから逃げ出したかった。だから唯一無二性を作り上げることを目指してきた。ここにあるのは私のそうした試みの断片であり、(現時点では)実装されなかった音楽たちである。
ここに並べられているものは全て、かつて私が来るべく新しい楽曲に向けて用意していたものの、日の目を見なかったものたちだ。それらは私によって作られてはいるが、そのすべてが私によって作られているわけではない。そして、音楽を合わさった動画たちは全て、インターネットから拾ったものだ。私はここで作り上げられたものを、自分が作ったものということができるのだろうか。
スケジュール
3:00 scene#01
6:00 scene#02
9:00 scene#03
12:00 scene#04
15:00 scene#05
20:00 実装#3
ukiyojingu+結月ゆかり『音楽を楽しく正しく聞くことに慣れている私たちにとって、不愉快で非合理なものこそが必要だ。そうして私は、この雑音の反復さえ、意味があるのだと言ってしまう。』
思考実装 #2
解説:https://note.com/ukiyojingu/n/n982d3b6e8ef2
私は昔からインターネットが好きだった。幼少期にデジモンが流行し、そして2ちゃんねると秋葉原がまるで社会現象のように注目を集めている世の中を見て、とても期待に胸を膨らませていた少年時代を過ごした。それからもう何年たっただろうか、私たちは繋がり過ぎることをあきらめる一方、どこか自分自身を記号的存在のように扱うような世界が到来してしまった。そうした時代感覚は、一方で自分の唯一無二たる声を発することで創作を続けるような歌い手の活動として、他方ではそんな私たちが皆一様に同じ通販サイトや動画投稿サイトを使用する状況として見ることができる。そんな矛盾しながらも表出している人間性を、かつてデジモンと2ちゃんねるに憧れていた自分は見てきた。
あらゆるものがただのデータとしてインターネット上に流出する中、そんな社会に沿うように教育されて生まれてきた私のような人間は、人間はみな等しく記号として扱い、数学的に処理されるべき存在と思って生きてきた。その一方で、インターネットのアルゴリズムは完全でもなく、完全な世界をどれだけ機械が描こうとも、それを支配するのが人間である以上、私たちはそこから先に進むことすら、できなかった。
だからこそ、私は機械を通して出現した記号的、数学的な私たちが抱え込む人間性を考える必要があると思った。そしてその結果は、あるがまま展開される私の文章に隠された違和感のなかにあると思った。「言語交錯」の10曲を破壊し、作成された雑音たちは、この私のただの日記と同様に無意味なものであり、必要ではないからこそ削除されるべき不快な「雑音」だ。だがしかし、いやだからこそ、私はこの雑音こそが「人間性」と称する必要があるように思う。それを私たちは決して忘れてはいけない。
ukiyojingu+結月ゆかり『私たちの言語はそれを解釈するにあたり、わずかに時間を消費する。その瞬間にこそ、私たちの非言語的領域を実装する可能性があるのではないだろうか。』
思考実装 #1
解説:https://note.com/ukiyojingu/n/nbf13b74fd160
言葉に限らず、得体のしれないものに直面した私たちはそれを解釈するために時間を費やす。得体のしれないものとは私たちの知らない別世界の言語だけでなく、唐突に目の前で起きた事故や、あるいはこの定期的に組み込まれる不快な音である。得体のしれないものに対する解釈の枠組みをこれまで持っていなかった私たちは、それでも新しい解釈による乗り越えを試みる。この隙間に、私がこれまでおこなってきた言葉をめぐるいくつもの思考を、音楽として実装するための余白が隠されているのではないだろうか。一定時間で挿入される不快な音は私たちの意味を解体し、これまであった世界と全く異なった新しい世界へ、私たちを連れて行ってくれないだろうか。
この隙間より、私は言葉が一人ではなしきれない世界を音楽と映像とともに探しだしたい。その終着点はまだ決まっていないし、何が生み出されるかは予想できない。この音楽がそうであるように、得体のしれないものが錬成されていくのかもしれない。しかし、そこに安直な意味を見いだしてはいけない。もう引き返すことはできない。私たちの生み出している得体の知れない何か、その得体の知れなさを思考することが、私たちの新しい世界だ。
『言葉を扱う覚悟はあるか?』 ukiyojingu+結月ゆかり(live 2021.4.22.)
ukiyojinguです。
ボカロPがみな一様に、コメント欄に意味がありそうな文章を一言だけ書き残しているのはなぜだろう。音楽が複数要素に分解され、各々がそれぞれの欲望を満たしたいがために消費を重ねていく中で、ボカロ楽曲のみならずあらゆるものがカテゴライズされ、私たちはわかりやすいそれらを味わう。投稿者コメントに残される身近なメッセージも、もはや楔のように、それがいったい何であるかを説明しているように見せつつ、意味は一切説明されないこともある。そうして、私たちは曖昧なものをわかりやすくカテゴライズ化し、そして身勝手に共感する。
私たちがそこから逸脱するためには、どうしたらいいだろう。この9分間は、カテゴライズを許さないような、絶対的そして孤独な存在として、代替不可能な自己を表現している。
******
せっかくだと思い、自己紹介のつもりでボカコレに何かを投稿しようと思い、一発撮りで代表曲を演奏しました。
この曲を含めた『言語交錯』というアルバムを2021年3月に発売しましたので、よければ立ち寄ってみてください。気に入っていただけたら、私にとっては光栄この上ないことです。
[お知らせ]
ukiyojingu 作品集第3弾
『言語交錯』
1.言葉を扱く覚悟はあるか?
2.微細は失われたのか?
3.私たちは何者だろうか?
4.表記と意味は一致しうるのか?
5.感情の表出に意味はあるのか?
6.都市の呼吸を知っているか?
7.崇高は盗作されるのか?
8._____________?
9.遺しておくべき意志はあるか?
10.それでも、溢れ出るのは感情だけだった。
https://ukiyojingu.booth.pm/
https://ukiyojingu.bandcamp.com/
『言語交錯』 digest movie ukiyojingu+結月ゆかり
ukiyojinguです。
作品集『言語交錯』2021年3月31日発売。
Bandcamp : https://ukiyojingu.bandcamp.com/
Booth : https://ukiyojingu.booth.pm/items/2856870
特典:『言語交錯』歌詞+解説の小冊子(sample:https://note.com/ukiyojingu/n/n349d193d92e8 )
「言語交錯」
1. https://www.nicovideo.jp/watch/sm36154978
2. https://www.nicovideo.jp/watch/sm36492601
3. https://www.nicovideo.jp/watch/sm36633465
4. https://www.nicovideo.jp/watch/sm37193611
5. https://www.nicovideo.jp/watch/sm37278217
6. https://www.nicovideo.jp/watch/sm37360788
7. https://www.nicovideo.jp/watch/sm37387001
8. https://www.nicovideo.jp/watch/sm37743832
9. https://www.nicovideo.jp/watch/sm38043109
10. https://www.nicovideo.jp/watch/sm38224529
2020年中に作ってきた一連の曲たちをまとめました。
この曲たちは動物的な消費をいかに避けるかをめぐり、
新しい言葉を得るためにはどのようにしていけばいいのかをずっと考えた。
その一つのまとった成果がこれである。
私はこの中で、全てを語りきることはできなかった。
そもそも、それらは語りきることはできないものではなかったのではないだろうか。
しかし、だからこそ、私たちの言語はこれからも語られていくべきだ。
これから先、何を語ろうか。
『それでも、溢れ出るのは感情だけだった。』 ukiyojingu+結月ゆかり
「言語交錯 10/10」
ukiyojinguです。
「言語交錯」は、これにて終わりとなる。
これまで行ってきた9もの時間を用いた思考たちは、ときに音楽の様式を否定し、
ときに言語の可能性を否定しながら、
多様な形での言語と言葉の境界を問いただすことを行ってきた。
それらのすべては、来るべく新しい表現を通した言葉の可能性を求めるものとして作り上げてきた。
しかし、新しい言葉とは従来の言語体系から逸脱するべく誕生したものゆえに本質的に孤独であり、しかも孤独はすぐに従来の言語体系に吸収される形で消失してしまう。
それはまさしく、芸術という概念に対するアンチテーゼとしての芸術さえも吸収して膨大化する
芸術の世界に近いだろう。
そうやって、私たちの孤独な言葉はすぐに孤独ではなくなってしまう。
孤独であることはそう簡単なことではない。
だが、そうやって孤独を奪い包摂しながら拡大していく言語の歴史そのものに対して、
私たちは脱却できず、それゆえに私たちはこの言語の世界に対して責任を負う必要がある。
言語の世界から逃げ出そうとする孤独な言葉、
そしてその言葉たちが裏で抱える唯一無二の感情に向き合いながら、
言語の世界を維持していかなければならないのではないだろうか。
全てをこの中で語りきることは到底できない。
しかし、だからこそ、私たちの言語はこれからも語られていくべきだろう。
[お知らせ]
ukiyojingu 作品集第3弾
『言語交錯』
1.言葉を扱く覚悟はあるか?
2.微細は失われたのか?
3.私たちは何者だろうか?
4.表記と意味は一致しうるのか?
5.感情の表出に意味はあるのか?
6.都市の呼吸を知っているか?
7.崇高は盗作されるのか?
8._____________?
9.遺しておくべき意志はあるか?
10.それでも、溢れ出るのは感情だけだった。
詳細は後日にて。
2021.1.22. ukiyojingu 『言語交錯』live digest movie
ukiyojinguです。
先日京都Annie's Cafeで開催したライブのダイジェストを公開します。
本ライブは2021年に再発令された緊急事態宣言下で行われた。対象地域に含まれた京都市内で沢山の機材を持ち運びながら公共交通機関に乗り込んだ自分にとって、電車の中の視線はとても気になるものであった。この状況を逆説的に利用することで誕生した新たな表現は無数にあったが、一方で昔ながらのバンドやライブハウスの在り方は社会に大きく非難され、もはやバンドマンはその存在が悪であるかのようにも言われている。
その背景には、「音楽は人を救う」といった楽観視が完全に否定され、各々が自分の世界で作った事実より判断を下すことによって生じた、今までは比べ物にならない形での監視と分断が進んだ魔女狩り社会があるだろう。誰しもが監視から己を守るために思考を続けなければならないこの時代の中で、激しく感覚に訴えるライブハウスの手法は無用の産物へとなり果てるのかもしれない。
ともすれば、今この時点での感情的な表現は思考放棄による逃避となる点で、現実に足がつかない非常に利己的な自己充足に過ぎないのではないか。無論、だからといって私はそれ自体を否定する資格を持ち合わせていない。だが、無機質な朗読を行う私には、感情的な叫びとは何か別の回路があるはずだ。そこには、感情的になりつつも、思考を放棄することなく現実と向き合うことができる回路が残されているのではないだろうか。
そのような思考法にこそ、私がライブハウスで演奏する意義があるのではないかと思う。
共演:YUKAI (@good9481 )
会場:京都Annie's Cafe(@annies_kyoto )
『遺しておくべき意志はあるか?』 ukiyojingu+結月ゆかり
「言語交錯 9/10」
ukiyojinguです。
いまから丁度1年前、『言葉を扱う覚悟はあるか?』より「言語交錯」という表題を掲げながら既に8本の映像を作り上げ、これで9本目だ。
これまで、言葉の伝達不可能性と音楽の消費に対抗しながら、
どうにかして方法をずらしてコミュニケーションを行う方法の試行錯誤をしてきた。
これまでの全ての動画は、そのすべての実践の結果である。
ある時は文字に感情を載せることの儚さを考え、
そしてある時には感情ではなく表現方法の限界についてを考えてきた。
この遺書のような時間と言葉は、これまでの試行錯誤の事実上の結論だ。
私たちの感情が本質的に伝達不可能であり、
そして私たちの表現が陳腐な「崇高」へと堕落してしまうのであれば、
その果てに私たちの思いはどのような手法をもってしても伝達不可能なものであることが
明らかになってしまう。
そうして、限界まで突き詰めた表現は最終的には孤独になってしまう。
だからこそ、私たちは孤独なまま、もう一度言葉を繰り返しながら、もう一つ歳をとる。
[次回のライブ]
2020. 1. 22.
at 京都Annies' Cafe (Twitter:@annies_kyoto )にて約1年3か月ぶりにライブを行います。
w/ YUKAI (Twitter:@good9481 )
open 18:00 / start 19:00
charge ¥1500-
詳細:https://annies-kyoto.therestaurant.jp/posts/10863394?categoryIds=1916692#&gid=1&pid=15
『_____________?』 ukiyojingu+結月ゆかり
「言語交錯 8/10」
ukiyojinguです。
「我が国の『流行歌~歌謡曲』を遡上に乗せ、それを『評論』する。と称して、多く社会風俗と自分の価値観を絡めたエセーを良い湯加減で書く。という行為ほど気持ちよくそして空疎なものはない。」(菊池成孔『CDは株券ではない』,2005年より)
音楽は一体、どこまで記号になるのだろうか。私たちの「崇高」という言葉は私たちが支持するものこそが崇高であるという誤った解釈によって、かつての位置を追いやられる危機に瀕している。事実ではないことがいともたやすく事実となりうる時代において、私たちの崇高は再生産され消費されていく。この時代において、崇高が元来どのような意味を持っていたかはもはや問題にさえならないのだ。閉じられた環境の中で消費を続ける私たちは、その外部に向かうことを放棄している点で、完全な世界の中にいる。
その中で、私たちの言葉は堕落した。記号的「自分語り」が蔓延る中、物語と言葉と向き合うことなく、己の好きな楽曲の好きな箇所のみをセレクトし、自分の好みとなるプレイリストの中に組み込んで延々と消費する。イントロの開始5秒で再生回数と評価が左右されてしまうこの時代において、アルバムの順番通りに冒頭から聞くような人は、どれだけ残されているのだろうか。
だが、このような憂鬱ももはや「自分語り」として消費される。そうやって、言葉は物語としてではなく、記号として消費されてしまう。その中で、私たちのすべてが崇高なものとなり、各々が掲げる崇高に基づいた「完全な世界」の中に閉じこもる。この堕落のすべての責任は、言葉を用いる私たちのすべてにあり、そして、言葉の表現者たる作り手たちに、可能性はまだ隠されている。いやむしろ、「完全」の向こう側をあきらめた表現者は、もはや表現者を名乗るに値しないのかもしれない。
安易に再生産されうる崇高から身を守るには、もはや「言葉が安易に伝達できない」ことを伝達しなければならない。すべての意志が共有されうる、「完全な世界」の向こう側にある不完全を求めている。
そうして、私は語る資格さえも失うのだった。
ukiyojingu 『言語交錯 4-7』digest movie
言語交錯 4-7
digest movie
「表記と意味は一致しうるか?」https://nico.ms/sm37193611
言語交錯 4/10
この曲で使われている言葉はTwitter上での過去の発言をソースに、マルコフ連鎖で作り上げられたものをベースにしている。一方で、作りあげられた文章は文法上の問題や過度なまでの固有名詞の出現等によって、オリジナルのツイートを作り上げた自分によって再度編集を加えながら、一つの文章として作り上げられている。そのため、この文章は私の発した言葉でありながら私の発した言葉ではなく、明確な所有者を持たないまま空中を彷徨っている。
「感情の表出に意味はあるのか?」https://nico.ms/sm37278217
言語交錯 5/10
表記と意味が一致することによってその地位を保ち続けた記号たちは、その表記と意味の認識が話者と聴者ので一致していることが最低条件になっているはずだ。それは、話者と聴者の記号解釈の一致がなければ言語は意味をなさないということを、一方で示している。Aという記号の意味が2人の間で「a」と「b」というように揺れていた場合、Aはもはや意味をなさない。
「都市の呼吸を知っているか?」https://nico.ms/sm37360788
言語交錯 6/10
音楽(music)の起源は西洋と東洋で異なっている。ヨーロッパ圏の「music」という言葉は古代ギリシャにおけるミューズ神から由来しており、それは「芸術」という表現を意味している。その一方で「芸術」を意味する「art」「ars」は「技術」という意味だ。その点で「音楽」は「芸術」であり、「芸術」は「技術」であるのだ。一方、「music」の和訳である「音楽」は「音を楽しむ」という表現をもとにしており、その文脈ゆえに「音楽」という表現は快楽と結びつきやすい。しかし、音楽が純粋に「芸術」であるのなら、それは決して快楽的なものである必要はない。
「崇高は盗作されるのか?」https://nico.ms/sm37387001
言語交錯 7/10
「崇高」とはかつて圧倒的な自然の風景や、完全なる論理を持った数学といった絶対的なものとして、その地位を保ってきた。私たちの社会の中における「絶対的なもの」の存在の維持とその継続は近代哲学の誕生からずっと存在しており、絶対的なものの存在の維持と管理によって近代の世界の発展と維持は保たれてきたとも言える。しかし、1970年代に発生したポストモダンと、それから今日に至るまでの事実の塗り替えが頻発する現代の中では、私たちが崇拝してきた崇高なものの絶対性はその地位を危ぶまれている。
ukiyojingu 『言語交錯 1-3』digest movie
言語交錯 1-3
digest movie
「言葉を扱う覚悟はあるか?」https://nico.ms/sm36154978
言語交錯 1/10
言葉の扱いには慎重にならざるを得ない。全ての発言の背景には発話者の持つ独特のバックグラウンドが内包されているが、そのバックグラウンドを聞き手は全く理解できない。その点で、相手のことを知ることは難しい。だがそれでも、相手のことを理解する方法は何だろうか。
例えば音楽における歌詞がテンプレートとなり消費されていく中で、それに抗う様に皮肉を述べては歌にするのも、一種のテンプレートとなりつつある。その中で、歌詞と言語の崇高さを私たちが取り戻すための手段は一体何だろうか。その試みはこの約10分の中に込められている。己の覚悟を言葉に示すことによって、言葉はその意味をさらに強く増していくのではないだろうか。
「微細は失われたのか?」https://nico.ms/sm36492601
言語交錯 2/10
意思を言語化し、それを対象により端的に伝達するためには、いくつかの文脈をそぎ落とす必要もある。そぎ落とされた微細たちはまるでゾンビのように言葉の背景を彷徨っている。それらは音楽という時間を用いた芸術の中で形式に沿うように削除されたものであるため、本質的には必要だった言葉たちであっても容赦なく消された言葉たちだ。音楽のリズムに沿うように言葉が再編集されるという点によって、音楽における言葉は音楽そのものよりも下位の存在にいる。
この権力構造に抗う様に、使用されず失われてしまった微細なる言葉たちはその形を変え、口で表現できないような様相でこの映像の中に出現している。それによって、微細たちは失われてしまうことを恐れているのだ。
「私たちは何者だろうか?」https://nico.ms/sm36633465
言語交錯3/10
2010年代の10年間にかけて、私たちの周りの事実が根本的に塗り替えられる時代に突入している。インターネットの登場によって多くの人々が接続し、コミュニケーションを交わしながら多様性を広げていく中で、その多様性によってこれまで集団内部で柔らかく常識として認識されてきたような者たちが少しずつ失われ始めてきた。近年では頻発するフェイクニュースとイデオロギーの混合体のような者たちが、階級差別を用いながら独自の表現で勢いを増している。
そのような時代の中で、私たちが「常識」や「事実」だと思っていたものはもはや意味をなさなくなっている。京浜東北線は新宿にくることも、新宿に来ないという事実を否定してしまえばありうるだ。そうして、世界は無数にも分断されて、対立を繰り返していく。
『崇高は盗作されるのか?』 ukiyojingu+結月ゆかり
「言語交錯 7/10」
ukiyojinguです。
カントは「美的感覚」が悟性と構想力によって成り立つものであるのに対し、「崇高」を私たちの抑圧を越えて噴出するような快楽のこと指した。「絶対的なもの」かのように認識されることも多い崇高は、私たちにとってはいわば「言葉で表現しようのない何か」だった。
それはおおよそ理性的でなく、ゆえに記号に置換できない。にもかかわらず、常に感情を伝える方法を追い続けてきた私たちは、それをいかに他者と共感するかを試み続けてきた。それがあらゆる表現の歴史であり、芸術だった、ということはできるだろう。
人間の感情さえも再生産し、複製することで消費を続ける私たちの現代社会では、もはやそのような追及に目を向けることさえも行われなくなりつつある。0と1だけで記述を行いうる現代社会の中で、0と1などでは記述しきれない私たちの崇高は拒否され、大量生産された「感覚の良い音楽」がまさしく同じ様式で生産されてしまう。私たちはその「感覚の良い音楽」に対してあたかも自分のことを歌っているかのように錯覚し、身勝手な共感覚を覚える。そして、それ以外のあらゆる表現が排除されようとしている。
この5分は身勝手な共感覚にのっとった、私の崇高のパッチワークだ。崇高がもはや再生産されるものとなったデジタル社会の中で、再生産はある程度の枠組みで同じ構造を共有するゆえ、そのパッチワークが「盗作」と表現するにふさわしいかは分からない。しかし、意図的に模倣されたこの音楽は私にとっては「盗作」だった。その境界線は何処にあるのか。そして、私たちの「崇高」は何処に向かうのか。