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2024年6月情報 この国は・・・。
切抜き元
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メモ:
1794年 ペリー 生まれる
1830年 吉田松陰 生まれる
1836年 坂本龍馬 生まれる
1853年 ペリーが、浦賀に来航
1854年 日米和親条約
200年あまり続いた鎖国が終わる
1858年 ペリー(63) 死去
1858年 コレラ流行
1859年 吉田松陰(29) 死刑
1867年 坂本龍馬(31) 暗殺
1868年 戊辰戦争 江戸開城 明治へ改元
1884年 山本五十六 生まれる
1918年 スペイン風邪の流行
1941年 大日本帝国海軍による真珠湾攻撃
1943年 山本五十六(59) 戦死
1945年 太平洋戦争の終結
1945年~1952年 日本は、連合国軍最高司令官総司令部の占領下。
2020年1月 日本国内初の新型コロナウイルス陽性者は、
中国武漢への渡航歴のある神奈川県在住の30代の中国籍の男性
2021年2月 日本国内で新型コロナウイルスのワクチンの接種が開始
2021年8月 国内の累計感染者数が1,000,000人を超えた。
2024年4月 コロナワクチン初の集団訴訟
幕府軍敗走の史跡【淀城と唯一残る河川台場跡の樟葉台場】京阪電車 大阪・京都1日観光チケットで京阪本線沿いの珍しい内陸の台場、樟葉台場跡に行きました。萱島駅の大クスノキも。
五月の終わりに京阪の一日フリー切符で京阪沿線をめぐりました。
細見美術館の香道の展覧会が目的でしたが、せっかくなので大阪・京都1日観光チケットを買って気になっていたところを巡ってみました。
後半は、京阪電車に乗っているときに見かけて気になっていた枚方市の樟葉台場と、淀の河津桜を見に行ったときに行けなかった淀城に行きました。
淀城も樟葉台場も戊辰戦争の時に旧幕府軍が(ざっくりとした説明ですみません)味方に裏切られて敗走した場所で、気になっていたところを予備知識なしで訪ねたら、図らずも旧幕府軍敗走の史跡を巡ることになってしまいました□。
その後は、これも図らずも寝屋川の八坂神社、萱島駅の大クスノキ、島頭天満宮(しまがしらてんまんぐう)と楠の名所を訪ねることになりました。
フリー切符だと、気になるところを気軽に尋ねることができるのが楽しいです。
【日本史雑学談】板垣退助と断金隊~300年後の武田遺臣たち~
戊辰戦争において武田遺臣の縁で共に戦った、甲州「断金隊」と武田家重臣板垣信方の子孫板垣退助について紹介します。
憂世ノ志士 NIPPONの夜明けを描いた武士たち VOICEROIDで実況 023
日本の夜明けを描く、憂世ノ志士です。
ジャンル:幕末
編集スタイル:オールキャスティング
023:菩薩崩拳
どうも、ビルマン軍曹です。久しぶりの既プレイ枠です。
他のシリーズマイリスmylist/43793671
今作マイリスmylist/60610463 001:春画ァ!→/sm32244374
前 022:その浮世絵の刻→/sm43467546
次 025:近藤勇、仮面が壊れてしまう→ /sm43569024
お借りしました立ち絵(クリップでまとめました)→/clip/1430306
投稿ペースは、遅いです。
戊辰戦争、新選組が鉄砲に苦しめられた戦争でもあるでしょうが、
本作でも鉄砲は武市HANPEITORキラーです。
あの驚異の見切り率でも対処しきれません。
(基本、刀で戦うゲームなのに身も蓋もないw
日本の地理や歴史、交通政策などを語りながら、新潟から聖地・大垣へ。【ゆっくり鉄道旅行実況動画】『おくのほそ道』リスペクト限界旅行第2話
仙台から太平洋・新日本海フェリーを梯子し、なぜか北海道を経由して新潟へ上陸した一行は、『おくのほそ道』結びの地・大垣(聖地)を目指し、上越新幹線に乗り込み本格的に移動を開始する。
新潟から大垣まで、日本の豊かな風景が流れる車窓をバックに、霊夢と魔理沙は会話を楽しむ。2人は今の日本やかつて日本だった地域の自然や地理、戊辰戦争などの歴史的出来事や歴史上の偉人、日本の鉄道の歴史や雑学などの話題で盛り上がるが、(かつて)日本(だったとある地域)の鉄道の知られざる(※当チャンネル比)歴史や、当チャンネルの今後に関わる重要なキーワードも語られることとなる。あなたはいくつ気付けるだろうか?どうぞ、お楽しみください。
・・・ということで(どういうことで?)、皆様お久しぶりです。
萬路山(まんろざん)です。
第2話目の動画編集に1ヶ月も要してしまい、しばらく間が空いてしまいましたが、この度ようやく投稿することができました。
今回の動画は、上記の説明にもありますが、新潟から大垣まで上越新幹線・湘南新宿ライン・東海道新幹線・東海道線で移動した時のものになります。
その道中、霊夢と魔理沙には様々なことをお喋りしてもらっていますが、ただ路線や電車について解説するだけでは制作サイドとしても正直あまり面白くなく、またそういう解説系の動画は既に他の大勢の方が投稿しておられますため、敢えて私が話したい(話させたい)話題に絞って取り上げております。
話題の内容については以下の通りです(※後ほどシークできるようにする予定です)。ご笑覧頂けましたら幸いです。
今回の動画のBGMも、前回と同様に「騒音のない世界」様の素敵な楽曲を使用させて頂きました。
動画中、BGMが始まるタイミングで画面右上に数秒間表示しておりますが、こちらにも改めて使用楽曲を記載しておきます。順序は動画内と同じです。
・ブルースター
・さんさんドライブ
・ジェットペンギン
・東海道をゆく
・雨とネオン
・スモーキー・タウン
・ジェットペンギン2号
・ジェットペンギン3号
・文明開化
・デイライト
・新しい景色
動画内でもお話ししておりますが、次回作については様々な案を考えており、現在のところ未定です。可能な限り早めに投稿できたらと考えておりますので、気長にご期待頂ければと考えております。
案は以下の通りです。全然関係ない内容になる可能性もありますので、悪しからずご了承ください。
長くなりましたが、ここまでお読みくださり、また当動画をご視聴下さり、誠にありがとうございます。
またお会いできることを願っております。
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第194回:小西郷の琥陣】
嫌なこと、辛いこと、全部呑みこんじゃる!
明治政府陸軍・海軍の重役を渡り歩いた維新志士:西郷従道(さいごう/じゅうどう または つぐみち)
西郷隆盛の弟であり、兄の隆盛は大西郷と称され、従道は小西郷と称される。
薩摩藩下級藩士:西郷家の三男として生まれ、長男が隆盛でありその年齢差は16歳差。
従道が9歳の時に父が死没した為、当時25歳であった隆盛が兄であり父代わりでもあった。
19歳の頃、尊皇攘夷運動過激派として活動していたが謹慎処分を受け
続く薩英戦争と共に謹慎が解かれ、戊辰戦争にも従軍。
明治維新後は政府重役となり、征韓論政争では従道は隆盛と意見が分かれて反対派に属した。
兄:西郷隆盛はこの政争に敗れて鹿児島へ戻ったが、ここで最悪の事態に陥った。
西郷支持派の士族が隆盛を担ぎ上げて武力蜂起を開始してしまったのである。
従道は明治政府による討伐隊の指揮官として立候補したが
隆盛の弟であり離反の可能性が大いにあった為、政府はこれを拒否。
この最大最後の士族反乱:西南戦争は速やかに鎮圧され、兄:隆盛は亡き人となり
その翌年には自身を弟のように可愛がってくれた大久保利通も暗殺される。
西南戦争後、明治政府の名立たるポストを歴任。
日清戦争を経て海軍に至っては日本史上初の元帥位に至った。
内閣総理大臣に就任するように何度も推されるが、逆賊の弟であることを理由にして断り続けたという。
そして日露戦争が近づく1902年。享年60歳の天寿を全うし、兄たちの元へ旅立った。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
明治撃剣-1874- 第壱話 「東京」
時は明治7年1月。元会津藩士の静馬は、東京でしがない車夫として生業を立てていたが、今も侍としての魂は持ち続けていた。同時に彼は、戊辰戦争で生死不明となった許嫁・澄江の行方を捜してもいた。仮に死んでいたとしても、そのことを自分の目で確かめるまではと思っているのだ。そんなある日、街中でポリスの巡査・小山内と牧野からふいに尋問を受け、岩倉具視暗殺未遂の犯人として捕らえられそうになる。もちろん身に覚えのない静馬は前日客として乗せた士族の男・武市が怪しいと直感し、小山内達を振り切って捜しに走る!
折笠静馬:中村悠一/修羅神狂死郎:三上哲/鹿又澄江/雛鶴:黒沢ともよ/黒木せんり:Lynn/平松武兵衛:山路和弘/守屋龍三:宝亀克寿/川路利良:飛田展男/藤田五郎:興津和幸/小梅:佐藤みゆ希/中澤琴:園崎未恵/緑川順平:粕谷大介/ダリオ:青木瑠璃子/幻丞:松山鷹志/愚円:蓮岳大/大久保利通:咲野俊介
原案:櫻井 司 (つむぎ秋田アニメLab 代表)・戸塚直樹/監督:玉村 仁(「あかねさす少女」)/シリーズ構成:戸塚直樹 (「よくわかる現代魔法」)/キャラクターデザイン:錦織成(「アリスと蔵六」)・小峰正頼(「泣きたい私は猫をかぶる」)/音楽:片山修志(「幼女戦記」「オーバーロード))/制作スタジオ:つむぎ秋田アニメLab(「転生したら第七王子だったので、気ままに魔術を極めます」)
©2024 Crunchy Onigiri,LLC
次話→so43288294
【日本史雑学談】徳川四天王の子孫は幕末動乱期にどう動いたか!?
徳川家康の天下取りに貢献した酒井忠次ら徳川四天王。その子孫の家はその後どうなったのか?幕末動乱期の行動を中心に紹介します。
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第186回:維新の琥号「山崎の戦い 羽柴軍」】
国の行く末を見通し、私が人々の殿となる!
薩摩藩所属、明治維新の立役者「維新三傑」の一人にして明治政府 参議兼内務卿:大久保利通。
(※内務卿:内閣制度が設立する前の実質的な内閣総理大臣と同格の存在)
維新三傑の一人である西郷隆盛と同じく薩摩藩下級武士の生まれであり
藩校にて西郷隆盛らの後の維新志士と共に学び親友・同志となった。
中でも大久保の学問の成績は他に抜きん出て聡明な学生であったという。
20歳の頃に薩摩藩のお家騒動に巻き込まれて謹慎処分となり貧困生活を余儀なくされるが
島津斉彬が藩主になってしばらくすると呼び戻され復職。
斉彬は列国に対抗すべく富国強兵を合言葉に有能人材の登用を推し進めており
これによって西郷・大久保は政務処理にあたる御徒目付に抜擢される。
しかし、斉彬の死没によってまたも冷遇を余儀なくされ、次期有力指導者の候補たる島津久光に接近。
さらに自身と同じく公武合体派朝廷側の公家:岩倉具視とも接近して
「王政復古の大号令」すなわち旧体制の全廃及び新政府の発足を宣言させることに成功。
武力倒幕を旨とした大久保は、鳥羽伏見及び戊辰戦争の勝利によって政府内の地位を確立した。
以降は版籍奉還・廃藩置県などの政策を推し進め、近代化に向けて諸国視察へと加わった(岩倉使節団)
征韓論においては親友:西郷とも意見が分かれた為に、失脚に追い込むこととなり
改革において武士特権を剥奪したことから士族反乱の鎮圧を行うこととなるが
大久保の最後の士族反乱鎮圧は、西郷隆盛を旗印にした西南戦争となったのは最大の皮肉であった。
そして、西南戦争の翌年(1878年)、不平士族による急襲を受けて大久保は暗殺される。
最期に馬車で読んでいた手紙は、亡き西郷隆盛から生前送られた手紙だったという。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
近藤勇も楠公崇敬者だった!〜会津松平家墓所に隣接する楠木正勝開基の寺『天寧寺』に眠る近藤勇〜
なんと、あの佐幕派の急先鋒ともいうべに会津藩に、朝廷側だった楠木正成の孫・楠木正勝(傑堂能勝禅師)が建立した寺「天寧寺」があるとの事で、東北での取材の帰り、急遽、会津若松市に立ち寄った。
天寧寺は、応永28年(1422)、会津に来た傑堂禅師が、11代芦名盛信の依頼を受け開基した寺。
かつては会津曹洞宗の僧録司で、末寺33カ寺、12の寺院を誇った。
後に、伊達氏の侵攻にあって焼けた為、芦名氏の菩提寺としての面影は、本堂の礎石にわずかに残るのみ。
江戸期になり、この地を会津松平家が治めるようになって以来、天寧寺の門前を中心に武家屋敷が建てられた。
また、天寧寺の程近くには、会津松平家の墓所もあり、天寧寺に隣接している事を意識した墓所の配置であった事が窺われる。
つまり、会津松平家もまた、楠木氏を崇敬していたという事を表している。
天寧寺の裏手の墓地には新選組の近藤勇の墓がある。
戦後、GHQによって楠公の名が消されてからは、天寧寺に参詣に来る人のお目当ては皆、近藤勇の墓所であり、楠木正勝に焦点をあてる人は皆無である。
しかし、本堂の屋根の至る所にはしっかりと菊水紋が掲げられており、この寺が楠氏ゆかりの寺院である事をしっかりと証明していた。
実は、近藤勇は幼少期から太平記を始めとした楠公の伝記を好んで読み、幼い頃から楠公に憧れて育った。
新選組に志願した近藤勇の心中には、やはり楠公精神が宿っていた事であろう。
そんな近藤勇の遺志を偲び、楠公ゆかりの寺院で眠らせようと、新選組の盟友だった土方歳三が遺髪などを持ってきて、会津戦の折、楠氏ゆかりの天寧寺に仮埋葬した。
もちろん、新選組は当時、京都守護代を務めた会津藩の配下として組織されているので、会津松平家の墓所に隣接する天寧寺に新選組隊長が眠る事もよしとしたのであろう。
つまり、当時、佐幕派も尊王攘夷派も、共に、楠公を敬慕していたという事であり、これは今回の取材を通して明らかになった、紛れもなき事実である。
敵味方、思想信条を超えた尊さが、楠公精神にはある。
日本民族のイデオロギーの根幹こそが楠公精神なのである。
4月25日の近藤勇の命日には、墓前祭りが開催されている。
また、藩主松平容保が京都守護職にあった際の国家老で、戊辰戦争の責任者となり明治2年に切腹した萱野権兵衛と、その次男郡長正の墓もある。
・コメント返答(イベルメクチンなど)・国民をまとめて支配する装置・新しいエネルギー…など。
一般人視点で語る社会問題など。
【幕末】ウルトラCの回避術に脱帽!?安部信発の生き残り術に迫れ!!【江戸時代】
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#戊辰戦争 #安部信発 #しくじり大名
今回は岡部藩(のちの半原藩)を取り上げます。戊辰戦争でも多くの大名が様々な動きをしていますが、今回紹介する安部信発の生き残り術は、小大名という状況を逆手に取ったウルトラCともいえる手段でしょう。皆さんはどう思いますか?
写真 pixabay
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ふきだしデザイン
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いらすとや
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BGM
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魔王魂
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実写版映画『ゴールデンカムイ』ティザーPV
#ゴールデンカムイ #山﨑賢人 #山田杏奈
シリーズ累計2500万部突破のベストセラー漫画ついに実写化!
生きて輝けッ‼血湧き肉躍る、埋蔵金争奪サバイバル・バトル‼
魂が激突する珠玉のエンターテイメント超大作がついに始動ッ‼‼‼‼‼
舞台は気高き北の大地・北海道。時代は、激動の明治後期―。
日露戦争においてもっとも過酷な戦場となった二〇三高地での鬼神のごとき戦いぶりに
「不死身の杉元」と異名を付けられた日露戦争の英雄・杉元佐一は、
ある目的のために大金を手に入れるべく、北海道で砂金採りに明け暮れていた。
そこで杉元は、アイヌ民族から強奪された莫大な金塊の存在を知る。
金塊を奪った男「のっぺら坊」は、捕まる直前に金塊をとある場所に隠し、
そのありかを記した刺青を24人の囚人の身体に彫り、彼らを脱獄させた。
囚人の刺青は24人全員で一つの暗号になるという。
そんな折、野生のヒグマの襲撃を受けた杉元を、ひとりのアイヌの少女が救う。
「アシㇼパ」という名の少女は、金塊を奪った男に父親を殺されていた。
金塊を追う杉元と、父の仇を討ちたいアシㇼパは、行動を共にすることとなる。
同じく金塊を狙うのは、大日本帝国陸軍第七師団の鶴見篤四郎中尉。
日露戦争で命を懸けて戦いながらも報われなかった師団員のため、
北海道征服を目論んでおり、金塊をその軍資金代わりに必要としていた。
そして、もう一人、戊辰戦争で戦死したとされていた
新選組の「鬼の副長」こと土方歳三が脱獄囚の中におり、
かつての盟友・永倉新八と合流し、自らの野望実現のため、金塊を追い求めていた。
杉元&アシㇼパVS.第七師団VS.土方歳三・・・‼
雄大な北の大地を舞台に、一攫千金!
三つ巴のサバイバル・バトルが、今始まるッ――‼‼
出演:
山﨑賢人
山田杏奈 眞栄田郷敦 工藤阿須加 栁俊太郎 / 矢本悠馬
大谷亮平 勝矢
木場勝己 大方斐紗子 秋辺デボ マキタスポーツ
玉木宏・舘ひろし
原作:野田サトル「ゴールデンカムイ」(集英社ヤングジャンプ コミックス刊)
監督:久保茂昭
脚本:黒岩 勉
音楽:やまだ豊
アイヌ監修:中川裕 秋辺デボ
©2024映画「ゴールデンカムイ」製作委員会
映画『ゴールデンカムイ』 2024年1月19日(金)公開
闘う悲劇の美少女・中野竹子と楠公精神 〜会津戦争・福島県会津若松市・大河ドラマ「八重の桜」もう1人のヒロイン〜
大河ドラマ「八重の桜」で、山本八重(後の新島八重)が取り上げられてからは、八重さんの方ばかりが有名になり忘れられがちだが、「八重の桜」放送以前は、どちらかといえば中野竹子の方がよく知られていた。
中野竹子は、江戸詰勘定役会津藩士・中野平内の長女として江戸の会津藩藩邸で生まれ、僅か5歳で百人一首を全て暗唱し、幼少期からその聡明さはずば抜けていたという。
また、薙刀や書道の腕前も一流で、薙刀では道場の師範代を、書道では祐筆(ゆうひつ・武家の秘書役、事務官僚)を務め、文武両道に非常に優れた才能を発揮した。
慶応4(1868)年8月23日、十六橋、戸ノ口等、会津藩の要衝を破り、若松城下に新政府軍が攻め寄せた。
そこで、竹子たちは同じ道場の薙刀の稽古仲間の女性達に呼び掛け、娘子隊(あるいは婦女隊)と呼ばれる女性だけで編成する義勇軍を結成した。
来るべき戦闘にむけて髪を短く切り、女子用の袴を履き、男装に準じた姿となった。
娘士隊に入隊しなかった八重に対して、竹子は
「あなたはなぜ、娘子隊に入らないの⁉︎」と激しく非難したという。
8月25日夕方、娘子隊は、現在の福島県松岡市神指町大字黒川にかかる柳橋(涙橋)に於いて、新政府軍と遭遇し、戦闘となった。
武勇に秀でた中野竹子は何人かの兵を薙刀で斬り殺し善戦したが、敵の放った銃弾が彼女の額に命中してしまう。
頭を撃たれた(胸を撃たれたとも)竹子は、まだ息があり、自身の首を取られないようにと、母のこう子(当時まだ16歳だった妹・優子であったとも)に介錯を頼む。
落とされた首級は、法界寺の梅の木の根元に埋葬された。
竹子が死の間際まで握っていた薙刀の柄には、次の辞世が書かれた短冊が括り付けられていた。
〜もののふの 猛き心にくらぶれば
数にも入らぬ 我が身ながらも〜
この辞世は、楠木正成の嫡男・楠木正行が、四條畷の戦いに向かう直前に、吉野皇居の後村上天皇に拝謁すべく吉野に立ち寄った際、後醍醐天皇御陵のある如意輪寺本堂に髻を切って収め、その扉に刻んだ辞世
〜かへらじと かねて思へば 梓弓
なき数に入る 名をぞとどむる〜
の「なき数に入る」をなぞらえ「数にも入らぬ」と詠んだものと思われる。
実際、正行らが髻を切ったと同じように、竹子らも従軍が正式に決定された際、髪を切っており、この行為もまた、四條畷に向かう正行に倣ったものと思われる。
会津藩では、楠公父子の桜井の訣別にみる「忠孝両全」の精神を藩士らに手本として教えていた事が今回の現地調査で判明したので、竹子もまた、楠公父子について詳しく知っていたのは当然の事である。
荒城の月 / 合唱 / NEUTRINO
パート分けして重唱(合唱)しました。まただいぶ迫力出ますね(^_^)b
小中学校のころにはこの曲の良さが分からなかったので、復習がてら試しに作ってみましたが、
中年のおっさんとして聞いてみると物悲しい曲調にもなかなか味がありますね。
なお歌詞は武士の時代の終焉をうたったものらしく、
戊辰戦争、旧幕藩体制終焉、廃城令などがモチーフになっていたり、
また上杉謙信の詩のオマージュが込められているなど、盛りだくさんのようです。
くわしくはwikipediaなどご確認ください。
※ゆずごしょう様、広告していただきありがとうございます(^_^)
■お借りしたもの
ウィキペディア 歌詞など https://ja.wikipedia.org/wiki/
東北ずん子・ずんだもんプロジェクト 公式HP https://zunko.jp
坂本アヒル様 : 立ち絵素材 https://www.pixiv.net/users/12147115
VOICEVOX : テキスト読み上げソフト https://voicevox.hiroshiba.jp
ゆっくりMovieMaker4 Lite : 動画編集ソフト https://manjubox.net/ymm4/
NEUTRINO : 歌声生成AIシンセサイザー https://studio-neutrino.com/
MuseScore : 楽譜作成ソフト https://musescore.org/ja
Bing Image Creator : 画像生成AI 背景に使用 https://www.bing.com/images/create
いらすとや : イラスト4点を加工等して使用 https://www.irasutoya.com
■クレジット VOICEVOX : ずんだもん、四国めたん
■製作者Twitterアカウント https://twitter.com/tes_per
白虎隊と楠公精神 〜会津藩・飯盛山の少年たちの悲劇・忠義に敵味方無し・戊辰戦争〜
白虎隊とは、日本の幕末維新における戊辰戦争の一環である会津戦争に際して、会津藩が組織した、武家男子を集めた部隊である。
中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいたほか、幼少組として13歳の少年も加わっていた。
名称は、中国の伝説の神獣「白虎」に由来している。
慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発。
会津藩主で京都所司代も務めた松平容保は、新選組等を傘下に置き尊皇攘夷派を厳しく取り締まった経緯もあり、強硬な佐幕派と見なされ、会津藩は新政府軍の仇敵とされ、新政府軍は会津藩の城・若松城(鶴ヶ城)に攻め寄せた。
重要な進軍路であった十六橋を落とすことに失敗したという防衛戦略上の不備も重なり、本来は城下町防衛の任に当たる予備兵力として組織された白虎隊も、これを支援する形で前線へと進軍した
隊は士中隊、寄合隊、足軽隊から成り、充足数はおよそ340名程度であった。
しかし会津軍の劣勢は如何ともし難く、白虎隊も各所で苦戦を強いられ、最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされた。
このうち一番隊は藩主・松平容保の護衛に当たったが、二番隊は戸ノ口原の戦いで決定的打撃を受けて潰走し、そこで数名の戦死者が出た。
8月23日に負傷者を抱えながら残りの合計7人(20人という説もある)が郊外の飯盛山へと落ち延びた。
滝沢峠の間道を通り、戸の口堰の洞門をくぐり飯盛山に辿り着くと、鶴ヶ城の天守閣は黒煙に包まれ、姿が見えなかった為に落城したと思い込んでしまった。
深手を負っていた隊士達は、入城か突撃か激論を交わしたものの、敵に捕まり生き恥を晒すよりはと、武士の本分を明らかにするために、結果として7名(20名という説もある)が自刃を決行し、6名(19名という説もある)が自刃を決行した。
唯一、飯沼貞吉(のち貞雄と改名)のみが蘇生し、一命を取り留めた。
白虎隊自刃後も籠城戦は1か月続いたが、最終的に会津藩は降伏した。
白虎隊の生存者の飯沼翁は、電信技士として明治・大正を生き抜き、昭和6年に77歳で没した。
飯盛山での出来事についてその重い口を開いたのは晩年だったそうで、そこから白虎隊の悲劇が現在に伝わる事となる。
飯沼の遺骨は遺言により飯盛山に眠る同志と同じ場所に埋葬され、同じく飯盛山に墓碑が建立されている。
墓所には松平容保揮毫「嗚呼忠烈白虎隊」の慰霊碑が建立されているが、これは紛れもなく、楠木正成自刃の地・湊川の大楠公墓碑として水戸藩藩主・徳川光圀が建立した「嗚呼忠臣楠子之墓」に準えたものである。
https://youtu.be/vLZS4cjcI0M
【明治時代】資金難でどうした!?戊辰戦争の明治政府の苦悩を知れ!
こんにちは、こづちと申します。YouTubeで、古銭などの動画をあげているものです。
#函館戦争 #井上馨 #明治政府
明治政府も順風満帆ではありませんでした。今回は戊辰戦争時に、いかにお金を確保したかをみていこうと思います。
https://www.youtube.com/channel/UCSbMylHhOpOUqwy7hQE6Pnw?sub_confirmation=1
【神道シリーズ・シーズン3】(戦後編)第64回・儒教招魂社・靖国神社その④
明治2年に東京招魂社として明治天皇の勅命により創建された時に合祀されたのは戊辰戦争での官軍の戦没者たちだけだったのが、明治14年に靖国神社と改名し、明治16年には幕末の薩長土佐の勤王の志士たちが国事殉難者として合祀され、本来であれば、天皇の為に戦って戦死、ないしは暗殺された者たちだけを天皇の忠臣の魂、つまり忠魂として祀り、天皇が親拝、つまり、直接参拝して顕彰慰霊するという性質の招魂社でったのだが、その後、日清日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵などと戦没者が急増するうちに、戦地での病没者や軍属たちで戦地で亡くなった者たちも祭神として祀られるようになり、第一次上海事変以降は司令官の責任自決までもをが合祀の対象となって行った。
日中戦争・太平洋戦争を経て終戦を迎えると戦没者の数は飛躍的に跳ね上がり、戦後の合祀作業は困難多忙を極めるものとなった。戦後は、GHQの指導下、政教分離の立場から日本政府と靖国神社側の協力関係は戦前のようにスムーズには行かず、大きな制約を受ける中、水面下で厚生省の引揚者援護局と、旧陸海軍で構成する復員局と靖国神社、3者の間で目立たぬよう粛々と戦没者情報の交換と靖国神社での合祀作業が続けられた。
戦前は、靖国神社そのものが内務省と陸海軍省の管轄下だった為、合祀作業はスムーズに進んでいたものの、戦後は、靖国神社は民間の単一宗教法人となり、陸海軍省は廃止され、内務省は厚生省として生まれ変わっており、新憲法下、政教分離の原則が厳しくなり、合意作業は困難を極めることとなった。
しかし、厚生省の援護局も、復員局も、そして靖国神社も旧陸海軍の軍人たちが主要なポストをしめており、そして、戦前と同様に合祀がそのまま遺族恩給支給の資格対象とされることから、政府と各都道府県と靖国神社の緊密な連携が必要とされた。
【神道シリーズ・シーズン3】(戦後編)第63回・儒教招魂社・靖国神社その③(富田メモ)
日本の神社で明治以前に実在の人物が合祀されたのは、古代から中世にかけては恨みを以って亡くなった豪族や貴族の怨霊を鎮めるための目的で建てられた御霊神社や、近世になると、道教と儒教に基づいた神道理論を立て、時の権力者であった豊臣秀吉や徳川家康に取り立てられた吉田兼倶の創設した吉田神道に基づく、権力者や大名藩主の死後の神格化の為の神社などに限られており、少なくとも、戦没者が神として祀られることは一度もなかった。また、人の死後の埋葬に
関しては、鎌倉時代前頃までは、豪族・貴族は、中国や朝鮮半島と同様に墳丘墓が一般的で、庶民に至ってはそのまま死体が道端に遺棄されるのが普通であった。しかし、仏教伝来以降、豪族貴族皇族および天皇に至るまで仏教式に火葬して墓に納骨する者が増え、鎌倉時代以降は、庶民もそうした仏教的な火葬を行うのが一般的になってきた。幕末頃から造られた神式葬儀とは、中身は儒教の葬儀と同じで、火葬したり四十九日とかいう観念も仏教と同じものである。こうした実在人物の死後の神社合祀として戦没者が祀られるのは靖国神社が日本史上初であり、それまでの日本の伝統的死生観とはまったく異なるものであった。
これはむしろ、中国の儒教や道教で死後軍神として祀られた関帝廟のようなもので、しかも、歴史的に一座に複数の神が祀られた神社はなく、靖国神社のように一座に240万柱もの神が鎮座するというのも靖国神社のみである。よって、これは日本の伝統ではなく、靖国神社という新宗教による合祀方式である。
また、合祀基準も、当初は戊辰戦争や西南戦争で官軍として従軍し、戦死した戦没者だけが対象だったのが、明治16年に国事受難者全体が合祀の対象となると、幕末の勤王の志士で幕府と戦って無くなった長州薩摩土佐などの藩士や暗殺された藩士たちも合祀の対象となった。
しかし、この無原則な合祀対象の拡大は、日清日露戦争以降戦没者の数が跳ね上がると同時に
国威高揚の意味からも従軍者で病死や自殺した者から軍属全体にまで合祀対象が広がり、
さらには、日中戦争や太平洋戦争に突入すると、そうした合祀対象の把握さえ困難になって行ったのである。
「歴史を変えた『アームストロング砲』」第85回黒田裕樹の歴史講座 5/6
この動画は第85回黒田裕樹の歴史講座「山田方谷と田中久重」のうち「歴史を変えた『アームストロング砲』」の講演を、令和4(2022)年8月に新たに収録したものです。
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【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第112回:俊英の用兵】
ボク、用兵にはちょっと自信があるんです!
松下村塾塾生:山田顕義。松下村塾には塾生最年少である14歳で参加。
(英傑大戦でのイメージは、松下村塾最年少であることを強く推したデザインとなっている)
長州藩士の子として生まれた武士(上士と下士の間程度の家柄)であり
兵学者:山田亦介(吉田松陰の兵学の師)の甥にあたる。
しかしながら幼少期は「性質愚鈍、垂鼻頑獣(はなたれだるま)、ほとんど白痴の如し」と
そこまで言わなくてもいいだろ級の罵倒評価を受けていた。
そこから勉学(特に大村益次郎から西洋兵学)を徹底的に学び
第二次長州征討からその才覚を発揮。幕府軍をメッタクソのボッコボコにせしめる用兵を見せた。
続く戊辰戦争ではその辣腕を発揮して旧幕府軍に対して連戦連勝を上げる。
その見事な指揮から西郷隆盛をして「用兵の天才」「神の如き用兵の妙」「小ナポレオン」と
絶賛されるほどだったという。
明治政府樹立後は師:大村益次郎の補佐として軍事監督役を務め
益次郎が無くなった後は軍事幹部として日本国軍の基礎作りを担い日本陸軍の父と称された。
その後、岩倉使節団の一員として欧米視察を行ったことで司法の重要性に着目。
(小ナポレオンと称された因果か、ナポレオン法典を知ったことがきっかけであったとされる)
帰国後は民法・商法・民事訴訟法などの法律整備に尽力した。
46歳の時、病気療養を理由に司法大臣を辞任。その後47歳の時に倒れ、帰らぬ人となった。
「生きた、闘った、使命を全うした、人生に悔いはない」
明治維新を成し遂げた用兵の天才:山田顕義が、維新後よく話した口癖である。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
「戊辰戦争の悲劇」第83回黒田裕樹の歴史講座 9/9
この動画は第83回黒田裕樹の歴史講座「江戸時代その5 ~激動の幕末~」のうち「戊辰戦争の悲劇」の講演を、令和4(2022)年8月に新たに収録したものです。
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【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第104回:鎮撫の銃弾】
後世の評価など知るものかぁ!今に応ずるのみだ!!
時は幕末。坂本龍馬の師にして海軍操練所の創設者。
幕末三舟の一角:勝海舟。字は義邦。幼名・通称を麟太郎という。
生まれは旗本であるもののその中では高い身分では無かった。
しかし、その能力が評価されて出世を重ねて幕府軍艦奉行並(幕府海軍の統括長)にまで出世する。
海軍強化の任を受けた海舟は海軍操練所を創設。坂本龍馬を門下として交流を深めたが
幕府側である海舟が攘夷派との交流を行ったことを咎められて免職。
後に戊辰戦争が発生した際には抗戦派を抑えて江戸城無血開城に尽力して市民への戦火の拡大を防いだ。
新政府樹立後も旧幕臣として参加を要請されていたが、最前線からはやや一歩引いて相談役としてのポジションを取り
旧幕臣の生活補助(※)や、西南戦争後は無血開城の件で世話となった西郷隆盛の名誉回復に努めた。
※ちなみにこの勝海舟による旧幕臣の生活補助の一環で大御所:徳川家康由来の地である駿府周辺で
旧幕臣に茶畑農業を斡旋したことが、今日での静岡県がお茶で有名になっている由来である。
隠居後、十分に天寿を生きた後に脳溢血により倒れて76歳でこの世を去る。
最後の言葉として「コレデオシマイ」と発した。突然の人生の終幕に直面したわけだが
自分の人生すら一種の劇場を見ているかのような客観的思考で捉えていた海舟の人生観を表す言葉である。
これは英傑大戦でも撤退時の台詞になっている。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第99回:迅衝隊の指揮「池田屋事件 攘夷志士」】
迅衝隊が、新たな戦を見せてやるッ!
土佐藩上士、乾家嫡男:乾退助。
若き頃は喧嘩にあけくれる乱暴者であったが、23歳の時に家督を相続。
さらにそれから2年後には土佐藩主:山内容堂の御側用役に抜擢された。
(この頃に急速に台頭していた土佐勤皇党とは対立関係にあった)
その後、土佐藩の主思想とは違い、武力による幕府の打倒が必要だと判断。
思想が一致する西郷隆盛ら薩摩藩と友好関係を結んでいたとされる。
さらに後に日本史上最大の内戦「戊辰戦争(旧幕府軍vs新政府軍)」が勃発。
退助は土佐藩兵を率いて「迅衝隊」を指揮して新政府側として参戦した。
近藤勇率いる新選組残党(原田左之助・永倉新八・斎藤一などの名立たる面々含む)を相手取り
迅衝隊は、最新の武装を全く使いこなせない近藤側を蹴散らして圧勝。(甲州勝沼の戦い)
あの幕末京都で恐れられた新選組の強豪を簡単に破ったのである。
・・そう。剣豪が名を馳せたのは京や江戸という局地市街戦に限ってのことだった。
「戦場」では刀の時代などとっくの昔に終わっていたのである。
(正確には、日本史の戦場で刀の時代があったことなど歴史上一度も無い。投石にも劣る武装である)
そして、ちょうどこの頃、乾退助は自身の姓を改めた。
乾退助改め 「板垣退助」
後に自由民権運動の父、国会の創始者と呼ばれる男の若き頃の姿である。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第98回:萩の乱「池田屋事件 新選組」】
俺は手加減ができない男だぞ、いいかぁ?
長州藩士:佐世家嫡男にして尊皇攘夷派志士:前原一誠。(前原姓は後に改姓したもの)
23歳の時に吉田松陰の松下村塾に入塾。
久坂玄瑞や高杉晋作といった名立たる面々と肩を並べた。
松陰曰く「勇あり、智あり。誠実人に過ぐ」と評価され
「その才は久坂に及ばず、その識は高杉に及ばず、されど総合力では二人とも前原に及ばない」と称された。
藩内の派閥が分かれた際は高杉晋作らと共に正義派に所属。
第二次長州征討、続く戊辰戦争では北越軍参謀として活躍し、明治政府の樹立に尽力した。
しかし、前原一誠は長州藩士。つまり「武士」である。
明治政府が立ち上がった後の政策、四民平等、廃藩置県、廃刀令、版籍奉還、秩禄処分etc・・・
どれもこれもが武士の特権を奪う政策ばかりが謳われ制定されていく情勢を前にして
前原は政府と袂を分かち、故郷である萩に戻った。
この頃、不平士族の決起が各地で勃発しており
それらに呼応する形で前原一派も決起。殉国軍を自称して武力蜂起を開始するも総兵力は200~300と僅か。
さらに予め萩に不穏の動きありと行動を読んでいた木戸孝允(桂小五郎)の手配が早く
1週間余りで完全に鎮圧。その他首謀者と共に前原一誠は斬首された。(萩の乱)
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
1868-Eighteen sixty-eight SPACE力士feat mai【synthesizerV】
1868-Eighteen sixty-eight
Lyrics by 二ツ木線五
Music by ビビリ凡太郎
setting sun turns red 閉ざされた密室の中で
殺された天下泰平なるhistory
葵と錦を掲ぐ旗 共に違う夢の間に間に
濡れた刃に落陽の火が揺らめき 火花散る夜明け
望むのは誰か
two lines do not cross,
お互いの鋭利な正義を 喉元へ相突きつけながら 相対
旭日 赤く染め上げるは 国賊の流すblood's red
亡国を礎に築く文明開化の無何有郷
誰も彼もが皆 救国の徒となり
巨悪を擦りつけ合う 同じ彩の明日のため
sacrifice for the future,
海も陸にも敗残兵兎にも角にも北へと向かい 逃れて
revolution for the future,
目的に手段不問 朝敵須く悉く仇する者共は討つべし
勝てば官軍となり 負くば賊軍の世
血も大義もその全て あまねく御国のために
戌と辰の戦も 彼も其も同じ血肉
相容れぬのは道程
Was the chosen path correct?
日の丸の行末 正義の証明はただ 時間の轍だけが知る
明治維新という過ち、原田伊織さん著 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト、明治維新は薩長暴力テロリストによるクーデター。廃仏毀釈による文化破壊
【討論】幕末・明治維新を考える[桜R4/11/1]
https://www.youtube.com/watch?v=MU-RArGjkqQ&t=6191s
明治維新という名の洗脳 苫米地英人博士
https://www.amazon.co.jp/dp/B01M66H9QQ/
世襲議員という名の差別 苫米地英人博士
https://www.amazon.co.jp/dp/4866251468/
若い 天皇 を 人質 と し、 勅許 を 偽造 し てまで 決行 し た 長州・薩摩 と 岩倉具視 の 討幕 の ため の クーデター は 失敗 に 終わり、『 王政復古 の 大 号令』 は 実質的 に 消滅 し た。 そこで 長州・薩摩 は『 鳥羽 伏見 の 戦い』 へと 幕府 の 挑発 に 成功 し、 一気に『 戊辰戦争』 という 内乱 へ もち 込ん で、 結局 武力 で 討幕 に 成功 し た。 そして、 戦争 に 勝利 し た 長州・薩摩 が、 世に「 明治維新」 と 呼ば れる 麗しい 歴史 を 書い た ので ある。
「大政奉還から戊辰戦争までの経緯」第75回黒田裕樹の歴史講座 4/4
この動画は第75回黒田裕樹の歴史講座「まつりごと ~天皇と政治の関わりの歴史 その4」のうち「大政奉還から戊辰戦争までの経緯」の講演を、令和4(2022)年3月に新たに収録したものです。
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