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ガダルカナル2024 『笹幸恵の軍事トリビア』#80
2024年8月、ソロモン諸島・ガダルカナルを訪れた際の映像公開!
大東亜戦争の激戦地・ガダルカナル島、略称「ガ島」。
補給路を断たれた日本軍が多くの餓死者を出したことから「餓島」とも呼ばれた凄惨な戦場も、今は昔。80年を経た現在では「兵どもが夢の跡」とでもいうべき光景が拡がる。
そんなガダルカナルの街並みや戦跡、慰霊碑、そして中国資本による開発が進んでいる様子など、今の風景をお伝えします。
海軍兵学校に行ってきた! 海軍の初級士官を育てたエリート校『笹幸恵の軍事トリビア』#75
第71回で紹介した軍港・呉に続く、海軍聖地巡礼シリーズ!
今回行ってきたのは、海軍最大の聖地ともいえる広島県・江田島。
ここには海軍初級士官の教育機関である海軍兵学校があり、現在は海上自衛隊幹部候補生学校となっている。
正門を入ると外とは全く違う、空気が張り詰めたような独特の雰囲気が漂う。ここは観光地ではない、明治以来の伝統を今も受け継ぐ海軍・海自の教育機関である。
今回は江田島見学の見どころやその感想、そして明治20年に築地から江田島に移転した海軍兵学校の、終戦に至るまでの歴史などについてご紹介します!
戦場で負傷した兵士の運命 映画「ハクソーリッジ」に見る衛生兵のお仕事『笹幸恵の軍事トリビア』#13
沖縄戦の前田高地における激戦を舞台にしたメル・ギブソン監督の映画「ハクソー・リッジ」。主人公は、この戦場で武器も持たず、負傷兵の救護に当たった衛生兵、デズモンド・ドスという実在の人物である。
今回は、この映画で注目された「衛生兵」について。日本陸軍の場合は、どうやって衛生兵になったのか?
そして、戦場で負傷した兵士はどのような扱いを受けたのか? 戦場における病院・救護施設はどのような仕組みになっていたのか? といったことを解説します!
「ウクライナ国民斯ク戦ヘリ」沖縄線に見る民間人の闘い~「沖縄県民斯ク戦ヘリ」大田實海軍中将の電文を読む『笹幸恵の軍事トリビア』#68
ロシアの侵略を受けたウクライナでは、一般市民を巻き込んだ熾烈な戦闘が行われている。
これに対して日本では、「戦闘で死者を増やすくらいなら、早く降伏した方がいい」などという意見まで出てくる始末である。
国を守るために、軍隊のみならず民間人までもが命を懸けるという気持ちが、今の日本人にはわからなくなってしまったのかもしれない。
しかし、そんな日本人も、かつては民間人までが国を守るために闘い、斃れていったという場面があった。それが沖縄戦である。
戦後の歴史観では、沖縄戦で死亡した民間人は単に戦いの「巻き添え」の被害者扱いにされ、しかも加害者が米軍ではなく日本軍にされてしまっているが、それは本当に正しいのだろうか?
沖縄根拠地隊司令官として海軍の戦闘を指揮した大田實中将が自決の直前に送信した決別電を読み、その実像に迫る。
そこに描かれた沖縄県民の姿は、いまのウクライナ国民と重なって見えないか?
福山聯隊と樋口季一郎中将~岡山からちょっと足を延ばしてみました~『笹幸恵の軍事トリビア』#63
10月10日、第101回ゴー宣道場が岡山で開催された。
せっかく岡山まで来たのだからと、笹さんが足を延ばしたのが、福山。
備後護国神社には立派な戦没者慰霊碑が並び、中でも「メレヨン島戦没者慰霊碑」に感激。
そして福山といえば、歩兵第四十一聯隊。
というわけで、第四十一聯隊の創設から大東亜戦争末期、「二度、玉砕した部隊」と言われるまでの歴史を語る。
歴代の第四十一聯隊長の中でも特に語るべきは第17代・樋口季一郎中将。
樋口中将は後に北方軍司令官となり、戦争末期のアッツ・キスカや占守島の戦いにおいて名を知られている。
そして実は他にも、樋口中将にはユダヤ人難民の救援に大きく尽力した功績があるのだが、これは外交官・杉原千畝の活動に比べてほとんど知られていない。
そこで、樋口中将を顕彰するための新たな動きについてもご紹介!
ナウル守備隊 知られざる感染症の悲劇 『笹幸恵の軍事トリビア』#49
小林よしのり著『ゴーマニズム宣言SPECIALコロナ論』の第13章「インカ帝国の滅亡」には、南米大陸に白人がヨーロッパから持ち込んだ感染症が瞬く間に広がり、免疫を持っていなかった現地の住民が全滅していく様子が描かれている。
これを読んで連想したのが、ナウル守備隊の悲劇。
赤道直下にある面積約21平方キロメートルの小さな島・ナウルは、約4000人の日本軍が守っていた。
この日本兵たちは敗戦後オーストラリア軍によって武装解除されるが、悲劇はここからだった。
恨みに燃えるオーストラリア兵は、日本兵を過酷に扱い、ブーゲンビル島タロキナ(トロキナ)で「死の行軍」を強いる。
その後、日本兵はブーゲンビル海峡のビエズ島、マサマサ島に収容されるが、そこで待ち構えていたものは…
キスカ島撤退作戦~奇跡の「ケ」号作戦 『笹幸恵の軍事トリビア』#27
前回紹介した「最初の玉砕」、昭和18年5月のアッツ島の戦い。
大本営はアリューシャン諸島の放棄の決定の際、アッツは全滅させる代りに、隣のキスカだけは何としても全員撤退させるという方針を採った。
キスカ守備隊5300名の将兵を救出すべく、木村昌福少将率いる第一水雷戦隊15隻の艦艇がキスカに向かう。
だが、その遂行は困難を極め、作戦は2度も中止される。
そして三度目の正直と挑んだ時、実はそれが、このタイミングでなければ成功しなかったかもしれない、幸運な偶然が重なった奇跡の時だった!
『アーロン収容書』のココが魅力!~過去と向き合うきっかけを作ってくれた本~ 『笹幸恵の軍事トリビア』#20
笹幸恵さんが戦史に興味を持つきっかけとなったのは、1冊の本との出会いだった。
その本とは、会田雄次著『アーロン収容所』(中公新書)
大学時代、それまで先の戦争について学校で習った以上の知識がなく、もっと知りたいと思いながらも、買った本も読了できず挫折、ということを繰り返していた時に、初めて読み終えたのがこの本だという。
ビルマのアーロンという場所に設けられたイギリス軍の捕虜収容所に入れられた日本軍捕虜たち。そこにはイギリス人と日本人の文化の衝突があり、自由のない状況の中でもたくましく生きていく人々の姿があった。
まずは読み物として面白い、この本の魅力をご紹介!
質問コーナーもあります!
飛行場を急襲!「義烈空挺隊」 読谷村の碑を訪れました。『笹幸恵の軍事トリビア』#78
今回は沖縄戦における、あまり知られていない戦史について。
沖縄県・読谷村に「義烈空挺隊玉砕之地」という碑がある。
これは昭和20年5月、米軍に占領された沖縄県の北・中飛行場に着陸し、米軍機や施設等を破壊後、ゲリラ活動を行うという「義号作戦」に参加した義烈空挺隊の碑である。
隊は伝家の宝刀のような精鋭部隊だったが、それだけに活躍のタイミングを失い、既に大勢が決していた沖縄戦に、ほとんど特攻のような状態で投入された。いわば「戦艦大和」と同じような状況だったのである。
にもかかわらず、その事実は沖縄戦の中でも語られることは少ない。
もし読谷村に行かれる際には、その碑を訪問してみてはいかがだろう?
軍旗にまつわるあれこれ~軍旗は天皇の分身だった!?『笹幸恵の軍事トリビア』#57
前回話していた通り、4月11日に新潟で行われたゴー宣道場に際して、新発田の歩兵第16聯隊資料館を訪れた笹師範。
そこで目を引いたものは数々あったが、特に目を引いたのは「聯隊旗」。それも「旗のない軍旗」とでもいうようなものだった。
そこで今回は、日本軍と「軍旗」について語る。
日本兵にとっての軍旗とは、どういうものだったのか?
それは、数百千の兵の命にも代えられないものだった!
西洋的合理主義では決して理解できないであろう、想像を絶するような、軍旗に込められた魂の物語!
軍隊符号あれこれ~私の密かな楽しみ教えます♪ 『笹幸恵の軍事トリビア』#43
「軍隊符号」とは、陸海軍のそれぞれの部内だけで使用された略号や記号のこと。
作戦上の地図などに、部隊などの正式名称をいちいち書き込むわけにはいかないので、共通して分かるように定められたもので、多くはアルファベットと数字の組み合わせになっている。
例えば「南東方面艦隊司令部」は「NTF司」、第28設営隊は「28seg」など。ローマ字表記や、英語表記の頭文字から取ったものが多いが、由来のわからないものもあるという。
さて、そこで、笹さんが軍隊符号を使って日常的にやっている、密かな楽しみとは?
又も負けたか八連隊~大阪第4師団は強かった?弱かった?『笹幸恵の軍事トリビア』#35
日本陸軍、特に歩兵は「郷土連隊」といって、各地域ごとに組織され、同郷の者によって隊を組んでいた。そのため連帯感があり、それが強さにつながったとも言われる。
また、そのためそれぞれの「地域色」があったということも伝えられている。
そんな中で、「日本軍史上最弱」という有難くない評価をもらっていたのが大阪第4師団。
いったいどう言われていたのかを、伊藤桂一著『兵隊たちの陸軍史』に引用されたエピソードから紹介する。
そして、その弱さはまさに大阪の「お国柄」によるものだという、後に有名になる陸軍軍人の分析も紹介。
さて大阪府民の皆さん、この分析、当たってますか?
アッツ島の戦い~「玉砕」第一号となった山崎部隊 『笹幸恵の軍事トリビア』#26
日本軍の戦況が不利になって以降、部隊が全滅する事態は既に起こるようになっていたが、大本営がこれを「玉砕」という言葉で表したのは、昭和18年5月のアッツ島の戦いが最初だった。
大本営はアリューシャン諸島の放棄を決定、その際、アッツは全滅させる一方、隣のキスカは全員撤退させるという、正反対に命運が分かれることとなった。
その際、北部軍司令官・樋口季一郎が送った悲痛な玉砕命令の電文と、それに対する山崎保代部隊長の、毅然とした返電。そして、最後の突撃を迎え撃った米軍中尉が語った、部隊の壮絶な最期の様子が胸を打つ。
兵は手足で将校は頭脳 では下士官は? 『笹幸恵の軍事トリビア』#2
新番組第2回!!
今回は軍隊の「階級」について。
軍隊組織について語るうえで「階級」は基礎中の基礎。
陸海軍の階級は大きく「兵」「下士官」「士官」に分かれ、さらにそれぞれが細かい階級に分かれている。
徴兵によって入隊すると、最初は全員「兵」の一番下の「二等兵」。半年ほど後には「一等兵」になるが、その後はその人次第。
戦争映画でよく出てきた「古参兵」ってどういう人?「星の数よりメンコの数」ってどういう意味? 「士官」と「将校」ってどう違うの? などなど、聞けば納得のトリビア満載!
清沢冽『暗黒日記』を読む~戦時中、冷徹な観察眼を持ち続けた人『笹幸恵の軍事トリビア』#67
戦前に活躍した外交・政治評論家、清沢冽(1890-1945)の著書『暗黒日記』の現代語訳版が東洋経済から出版された。
清沢は反軍国主義の主張を貫き、戦時中は情報局から執筆禁止者に指名され、完全に干されていた。
清沢は言論発表の場を奪われた中、現在のおかしな風潮を日記に残し、後に検証する史料にしようとした。
清沢は終戦前に死去したため、自身によって時代の検証をすることはかなわなかったが、しかし清沢が遺した膨大な日記から、現在の私たちが学ぶことは無限にある。
あの時代、本物の言論人は世の中の風潮をどう見ていたのか?
そして現代の我々は、当時の日本人と比べて、少しは進歩しているのだろうか?
身内の軍歴、どうやって調べればいいの?~軍歴証明書を取得しよう!『笹幸恵の軍事トリビア』#65
身内に軍隊経験者がいるけれども、軍隊でどういう経歴があったのか、どこの戦地へ行ったのかなど、詳しいことは知らないままという人は多い。
戦死した人ならもちろんのこと、帰還した人でもつい詳しいことを聞かないままに亡くなってしまい、悔いを残している人もいるだろう。
そういう方々から、どうすれば身内の軍歴を調べることができるのかという質問をもらうことがよくあるので、今回はこれに笹師範がお答えします!
その第一歩は「軍歴証明書」を取得すること。
難しい手続きが必要かと思われるかもしれないが、三親等以内の遺族であれば、意外に簡単。
軍歴証明書の取得の方法から、これを手掛かりにしたさらに詳しい出征状況の調べ方までを丁寧にご説明します。
これを見て軍歴証明書を取得された方は、ぜひ笹師範にお見せください!
南方戦線とトイレの話~便所の数で兵力判定!? 『笹幸恵の軍事トリビア』#37
今回はちょっと趣向を変えて、題材を「トイレ」に絞ったお話。
南方の戦跡取材に行く際、もちろんそこにトイレなどない。
だからといって、水分をとらずに我慢していたら、熱中症で倒れてしまう。たいていは汗で流れるけれども、時にはどうしても催してしまうことがある。そういう時は…もちろん、外の適当なところで済ますしかない。
ところがある時、現地の人に、うちにはトイレがあるから使うといいと勧められた。しかしそれが大変なことに…
その他、南方戦線・タラワにおいて、米軍が便所の数から日本軍の兵力を判定していた話や、飛行機乗りはどうやって済ませていたのか? という話など、戦場だろうがどこだろうが、避けては通れないトイレの話あれこれ!
軍法会議ってなあに? 『笹幸恵の軍事トリビア』#21
ゴー宣道場でも憲法についての議論が進んでいるが、その際にときどき話題になる「軍事裁判所」、またの名を「軍法会議」。
自衛隊は「軍法会議」を開くことができないから、一人前の軍隊の機能を満たしていない…といった具合によく言われるわけだが、そもそも「軍法会議」って、何?
今回は、そんな基礎知識をお届けする。
歯医者と「グンレイショウコウレイ」 『笹幸恵の軍事トリビア』#3
ある時、歯の治療に出かけた笹さん。するとその歯医者がたまたま戦史マニアで、話が通じると見るや、どんどん戦史の話をしてきた。
ところがその歯医者さん、戦史マニアはいいのだが、知識をひけらかしたがる厄介なタイプで、そのうち治療もそっちのけで言い出したことが、「君、グンレイショウコウレイって知ってるか?」
・・・そんないきさつで調べてみた、「グンレイショウコウレイ」とは、一体、何?
大好評の質問コーナーもあります!
THE聖地~仙台編~『笹幸恵の軍事トリビア』#79
軍事トリビア、特別バージョン!
今回は聖地巡礼、仙台編!
「仙台といえば、そう、歩兵第4聯隊です!」
ということで、かつて第4聯隊の兵営があった榴岡(つつじがおか)公園へ。
唯一残る兵舎と「聯隊之跡」の碑を感慨深く巡る。
続いては宮城県護国神社を参拝、英霊顕彰館を見学。
最後には「大好物」にも遭遇!
大満足、大興奮の仙台聖地巡りをご覧ください!
ニイタカヤマノボレ一二〇八の「ニイタカヤマ」って、どこにあるの?『笹幸恵の軍事トリビア』#77
昭和16年12月8日、大東亜戦争の火蓋を切った真珠湾攻撃。
日本海軍機動部隊にこの作戦実行の命令を下した電文の言葉として有名な「ニイタカヤマノボレ」だが、この「ニイタカヤマ」とは何だろう?
案外知らない人が多いが、実はこの山、当時の日本で最も高い山だった。
一方、陸軍にも作戦実行を命じる電文の文言があったのだが、これはほとんど知られていない。そこで、こちらもあわせてご紹介。
兵站を担う輜重兵 そもそもタイトル読めますか?『笹幸恵の軍事トリビア』#72
このタイトル、読めた人はもうある程度軍事に詳しいと言っていい。
これは、「へいたんをになうしちょうへい」と読む。
「兵站」も「輜重」も、まず軍事関連以外では使われることのない言葉だから無理もない。
しかも「兵站」や「輜重兵」は戦史の中でもあまり重視して語られることのない分野だったから、なおのこと。
最前線の戦闘に当たる兵隊が「花形」であるとしたら、輜重兵はそこまでの舞台を整える「裏方」のようなもの。しかし、花形が輝けるのは、本当は縁の下の力持ちがいてこそである。
実際、日本軍の敗北の原因は「兵站の軽視」にあったというのは、定説のようになっている。
では「兵站」とは? 「輜重兵」とは? ここで解説しましょう!
軍隊めしたき物語(海軍編)~腹が減っては戦はできぬ!『笹幸恵の軍事トリビア』#32
今回は軍隊と「ごはん」のお話。
軍隊における食事事情は、海軍と陸軍では全然違う。
まず今回は、海軍のお話。
海軍の食事といえば有名なのは「海軍カレー」。
他にも「海軍グルメ」といわれる名物が今も伝えられているけれども、「陸軍グルメ」というものは聞かない。
では実際、海軍の食事は誰がどのようにして作っていたのか?
戦艦ともなると、千数百名の乗員の三度の食事を作らなければならない。
それはもう大変な重労働、スマートでカッコいいセーラー服の水兵さんのイメージとは、全然違った世界なのでした…
日本の敗戦に何を思うか 『戦中派不戦日記』(山田風太郎)から 『笹幸恵の軍事トリビア』#25
今年ももうすぐ8月15日がやってくる。
昭和20年の8月15日、人はどんな気持で過ごしたのか?
それを今に伝えるのが、有名・無名様々な人が書いた、当時の日記である。
今回は、当時23歳の医学生だった作家・山田風太郎の『戦中派不戦日記』から、敗戦直後のインテリのリアルな感情を読む。
その時山田風太郎が危惧していたことは、73年後の今日、現実になっているのではないか…?
10人いたのに[九軍神]~真珠湾に突入した特殊潜航艇 『笹幸恵の軍事トリビア』#7
前回に引き続き、日本軍の真珠湾攻撃に関する話題。今回は、あまり語られないサイド・ストーリーをお届けする。
航空機による攻撃ばかりが注目される真珠湾攻撃だが、実はその一方で、海からの攻撃も行われていた。
2人乗りの特殊潜航艇5艇が出撃、湾内への侵入を試みたのである。
ところが5艇とも戦果らしき戦果を挙げることもなく沈没・行方不明となった。
翌年3月、大本営はこの攻撃で戦死した9人に感状授与、二階級特進の栄誉をもって表彰、発表した。
マスコミはこれを「九軍神」として讃え、朝日新聞は彼らを「特別攻撃隊」と呼ぶよう指導。大いに戦意は高揚された。
しかし、2人乗りが5艇なら10人いたはずなのに、なぜ「九軍神」だったのか?
松の「根こそぎ」動員 海軍の切実な燃料事情~「松根油」について 『笹幸恵の軍事トリビア』#55
戦争の行方を決定的に左右するのは「資源」の差。
日米の間には比べようもない資源の差があり、そもそも開戦すること自体が無謀だった。
そのことは日米開戦の4か月前・昭和16年8月に「総力戦研究所」が行ったシミュレーションでも明らかだったが、結局は楽観論に押し切られて開戦に至り、その後はシミュレーション通りの道を歩むこととなってしまった。
そして戦争末期、いよいよ燃料事情が逼迫してきた海軍がその活路を見出そうとしたのは「松根油」。
松の根っこから取れる油を使おうということで大増産の号令がかけられ、松の根を大量採掘、文字通り「根こそぎ」にしようという国策が実行されようとしたのだった。
日本が資源においてどこまで追い詰められていたかを示す、隠れた逸話。
陸軍に「船乗り」がいた!? ~陸軍船舶兵「暁部隊」のナゾ 『笹幸恵の軍事トリビア』#18
以前紹介した、「軍隊に鉄道マンがいた」にも匹敵する、日本軍のびっくり存在、「陸軍に船乗りがいた」!
陸軍兵の輸送任務を行うために設けられた「陸軍船舶兵」。
陸軍は相当に本格的に、大掛かりに船舶の研究を進めていた。
上陸用舟艇の大発動艇(大発)は有名だが、そのほかにも上陸用舟艇の母船で飛行機も搭載できた特殊船や、潜水輸送船もあった。また、戦争末期には準特攻兵器であるベニヤ製のモーターボート「マルレ」も登場している。
戦史にあまり残っていない、知られざる「陸軍の船」の話をひもとく!
知られざる中部ソロモン戦線~陸海軍協同で戦ったムンダ攻防戦 『笹幸恵の軍事トリビア』#16
今回は、久々の戦闘経過のお話。
大東亜戦争の海戦におけるターニング・ポイントはミッドウェーで、陸戦におけるターニング・ポイントはガダルカナルだった。
ここまでは有名だが、ガダルカナルから撤退した後、日本軍はどのような戦いをしたかということは、あまり知られておらず、注目もされていない。今回はあえてそこにスポットを当てる。
昭和18年2月にガダルカナルを撤退した日本軍は北西に300キロほど離れたニュージョージア島のムンダに移動した。
ここで佐々木登少将率いる陸軍と大田実少将率いる海軍陸戦隊は協同し、2か月余りにわたって頑強に陣地を守り、戦い続けたのである!
苦難のガダルカナル島輸送作戦 『笹幸恵の軍事トリビア』#4
先日、ガダルカナル島から帰ってきた笹さん。
西太平洋・ソロモン諸島のガダルカナル島で繰り広げられた戦いにおいては、昭和18年9月下旬から10月にかけて総攻撃が行われた後、翌昭和19年2月に撤退するまでの間、日本軍は悲惨な持久戦を強いられた。
完全に制空権を米軍に握られ、輸送が困難を極める中で、島に孤立する陸軍に補給物資を届けるために、海軍は必死の輸送作戦を展開する。その時に活躍した「ネズミとアリとモグラ」とは?
質問コーナーは「笹さんが軍事に興味を持ったきっかけは?」「八甲田山遭難事件について話を聞かせて!」に答えます!
軍隊には鉄道マンがいた~鉄道連隊と泰緬鉄道 『笹幸恵の軍事トリビア』#15
今回は、鉄道ファンにも見てほしい秘話!
日本軍には「鉄道連隊」という鉄道に特化した技術屋集団がいた。兵員・物資を輸送するための鉄道を敷設する部隊である。
未開の地にも鉄道を通すためには、歩兵、砲兵、工兵など、あらゆる兵科を超越したオールマイティーの技術が必要であり、時には戦闘に参加することもある、まさに万能の集団だった。
関東大震災の際は線路の復旧作業に力を発揮。今も訓練等の遺構が残されている場所もある。
そんな鉄道連隊が大東亜戦争中に行った最大の任務は「泰緬鉄道」の建設だった。今では「捕虜虐待」の象徴とされているが、その実態はどうだったのか?
ホントはすごい!?「憲兵」の話 『笹幸恵の軍事トリビア』#23
軍隊の話の中には、よく出てくる「憲兵」。
言葉だけは知っているけれども、よくその実態は知らない、なんとなく「怖くて威圧的な存在」といった「悪役」のイメージしかない・・・という人も多いのでは?
それは、戦時中の東条英機の「憲兵政治」のイメージの影響も大きいのだが、実際のところ、憲兵とはどういう仕事をしていて、どんな人がなるものだったのか。今回は、それを解説します!
確かに権力を笠に着た威圧的な人もいただろうが、多くの憲兵は正当な使命感を持って職務を全うしようとしていた。また、戦地における憲兵「野戦憲兵」には、さらに意外な任務があった・・・など、知られざる憲兵についてのお話!
恐怖の島タラワ 米軍の反攻~ガルバニック作戦 『笹幸恵の軍事トリビア』#39
戦況の悪化によって昭和18年(1943)9月、「絶対国防圏」が策定された。
そして同年11月、太平洋における最東端の占領地・タラワでの戦闘が行われた。
「絶対国防圏」の外にあり、補給も全く届かない、言わば「見捨てられた島」を守るのは、柴崎恵次少々以下、海軍陸戦隊約4600名。ここに米海兵隊1万7000名が来襲する。
5日間の戦闘によってタラワ守備隊は全滅するが、この絶望的な状況における守備隊の戦いぶりは、驚異的なものがあった。
そしてのちに米兵は、タラワを称してこう言った。
「恐怖の島」