『崇高は盗作されるのか?』 ukiyojingu+結月ゆかり

『崇高は盗作されるのか?』 ukiyojingu+結月ゆかり

「言語交錯  7/10」ukiyojinguです。カントは「美的感覚」が悟性と構想力によって成り立つものであるのに対し、「崇高」を私たちの抑圧を越えて噴出するような快楽のこと指した。「絶対的なもの」かのように認識されることも多い崇高は、私たちにとってはいわば「言葉で表現しようのない何か」だった。それはおおよそ理性的でなく、ゆえに記号に置換できない。にもかかわらず、常に感情を伝える方法を追い続けてきた私たちは、それをいかに他者と共感するかを試み続けてきた。それがあらゆる表現の歴史であり、芸術だった、ということはできるだろう。人間の感情さえも再生産し、複製することで消費を続ける私たちの現代社会では、もはやそのような追及に目を向けることさえも行われなくなりつつある。0と1だけで記述を行いうる現代社会の中で、0と1などでは記述しきれない私たちの崇高は拒否され、大量生産された「感覚の良い音楽」がまさしく同じ様式で生産されてしまう。私たちはその「感覚の良い音楽」に対してあたかも自分のことを歌っているかのように錯覚し、身勝手な共感覚を覚える。そして、それ以外のあらゆる表現が排除されようとしている。この5分は身勝手な共感覚にのっとった、私の崇高のパッチワークだ。崇高がもはや再生産されるものとなったデジタル社会の中で、再生産はある程度の枠組みで同じ構造を共有するゆえ、そのパッチワークが「盗作」と表現するにふさわしいかは分からない。しかし、意図的に模倣されたこの音楽は私にとっては「盗作」だった。その境界線は何処にあるのか。そして、私たちの「崇高」は何処に向かうのか。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm37387001