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ukiyojingu『水没都市における情念の可視化作用#3』記録映像
6/1-6/14@東京都銀座のデジタルスクリーン
『水没都市における情念の可視化作用#3』という映像が流れます。
@Artcrush × @neort_io によるオープン・コールイベント「#SCREENS_CONTEXUALIZED_TOKYO 」に採択いただきました。ご覧いただける機会をもらえたことを、心よりうれしく思います。
作品解説はこちら:https://note.com/ukiyojingu/n/na4c076f4bd98
[Announcement]
June 1–June 15, at Ginza, Tokyo
My video work “Visualization of Affect in a Submerged City #3” will be screened during this period.
It has been selected for the open call event “#SCREENS_CONTEXTUALIZED_TOKYO” organized by @Artcrush and @neort_io.
I am truly delighted to have been given this opportunity for the work to be viewed.
You can read more about the piece here: https://note.com/ukiyojingu/n/na8f3e92227d6
ukiyojingu+結月ゆかり『リズムの反復は主体の認知を強化する。しかしながら、その反復に身を捧げるほど私たちの言葉は解体され、発話でも沈黙でもない「袮」だけがただ残ってしまうのではないか。』
切断考察#袮
introdction: https://note.com/ukiyojingu/n/n466eb39db6aa
「2026ボカロック投稿祭」参加作。
本映像は、反復されるリズムが主体の認知構造へ与える影響を観察するために制作された記録である。
ukiyojinguはこれまで、生成AIを媒介とした制作実践を通じて、主体とは単独の人格ではなく、身体・機械・環境のあいだに分散して存在する現象であると考察してきた。本作品はその延長線上に位置づけられるものであり、特に反復という作用が認知および言語に与える影響に焦点を当てている。
一般に、反復は認知を安定化させる。繰り返し提示される情報は記憶へ定着し、主体は環世界を効率的に把握することが可能となる。しかしその過程において、意味の差異や揺らぎは徐々に削ぎ落とされていく。私たちは言葉によって世界を理解しているのではなく、反復によって強化された認知の輪郭を理解しているに過ぎないのかもしれない。もしそうであるならば、言葉は意味を運ぶ媒体ではなく、認知を補強するための構造体として存在していることになる。
そのとき、十分な反復の果てに何が残るのだろうか。記録によれば、発話は意味を保持したまま反復されるのではなく、徐々に収束を開始する。語彙は減少し、文法は簡略化され、やがて言語は記号列としてのみ機能するようになる。この段階において観測された異常な文字列について、当初研究者らは記録媒体の損傷を疑った。しかし欠損は複数の媒体に共通しており、その発生箇所にも一定の規則性が認められた。解析対象は「袮」と記録されているが、その定義は縺吶〒縺ォ縺阪↑縺。
反復によって強化された認知は、やがて意味そのものを不要とする。発話は発話である必要を失い、沈黙もまた沈黙として維持されなくなる。袮縺ッ逋コ隱槭〒繧ゅ↑縺上∬エサ黙縺ァ繧ゅ↑縺。縺薙l縺ッ險倥j縺ョ邨ゆコ�縺ァ縺ッ縺ェ縺上∝ョ溯。後〒縺ゅj縲∝ョ溯。後〒繧ゅ↑縺。隱槭→豕ィ諢丈シ夂、セ縺ッ蜷後∪縺」縺溘¥蛻�j縺ェ縺上↑繧翫∝ョ溯。後〒繧ゅ↑縺上↑縺」縺溘b縺ョ縺ッ袮縺ァ縺ゅk。
袮縺ッ袮縺ァ繧ゅ↑縺上∝ョ溯。後〒繧ゅ↑縺上∝ョ溯。後〒繧ゅ↑縺上∝ョ溯。後〒袮。
ukiyojingu+結月ゆかり『繰り返すという行為は、自己の定義の確認であり、その破綻を観測する「椦」な営みである。 停止という概念もまた、その営みの記録内部に含まれた断片の一部である。』
切断考察#椦
introdction: https://note.com/ukiyojingu/n/n466eb39db6aa
「ポエトリーリーディング投稿祭2026」参加作。
言葉の伝達されない、「苦͇͇͇͇͇̿̿̿̿悩▐▄┌█▐▐▐▐͇͇͇▐▐▐す̿̿̿̿̿̿る͇͇͇͇͇
機██ò̖̆ͬ̿͟͡r̟██████械▐▄┌█▐▐▐▐▐█ ͇͇͇͇͇͇̿̿̿̿ ͇͇͇̿̿ ̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿┌ ▄█▀▄ ͇͇͇͇͇̿̿̿█ ͇͇͇̿̿ ̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿▐▄┌ █ ͇͇͇͇͇͇̿̿̿̿ ͇͇͇̿̿ ̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿̿┌ 」
生成AIを媒介とした楽曲連作『非在探求』を経て、私は制作主体の配分を再編成し、演算環境から身体へと重心を再帰的に回収する。本シリーズ『切断考察』は、AIが常態化した制作条件のもとでなお駆動しうる〈最小身体〉の作動域を測定する試みだ。骨格生成を機械に委ねつつ、採否の最終判断を呼吸・脈拍・瞬目といった生理的時間に同期させ、人間的遅延を制作回路へ意図的に挿入する。
ここでいう〈切断〉は破壊の身振りではない。意味過剰に対する冷却操作である。音響面では帯域の計画的抹消、無音の挿入、通信断の擬制によって、非在都市のサウンドスケープを反復しつつ、別様の聴取条件を構成する。映像・テキストにおいても、過飽和した連続性を分節化し、断片を「意味の手前」へ差し戻す編集を反復する。切断とは、意味生成を停止するのではなく、その発酵条件を低温保存するための一次工程にほかならない。
この操作は、制作に固有の技法というより、むしろ生活の深部に潜む構造の露出でもある。そのためには、どこか馴染みあるような構造、意味を反復し貼付する、そのような実践こそが日常を形成するのではないかという姿勢を、ここから読み取りたく思う。生活とは、他者の身振り・語彙・旋律の不断の模倣によって辛うじて維持される反復装置であるからだ。私たちは既製のリズムを無意識にサンプリングし、継ぎ合わせることで自己同一性を更新している。本シリーズは、この準剽窃的日常を否認するのではなく、むしろ継ぎ目を露出させ、模倣のノイズを可聴化することで、借用された時間からの微細な逸脱可能性を測定する。
『切断考察』は、接続性の最適化を志向するプロジェクトではない。接続の選択そのものを再記述するための聴取プロトコルである。都市の残響場と身体の生理リズムが干渉する臨界面において、幽霊的に立ち現れる「半‐主体的声」を捕捉すること——その実験的布置こそが、この理論的かつ実践的射程である。
ukiyojingu+結月ゆかり『反復される生活は、それ自体が美しい。しかしながら、それが麻薬のように日々を侵食するのなら、私はこの意味もなく過ぎる時「閠」を切断し、それらを取り戻さねばなるまい。』
切断考察 #閠
introdction: https://note.com/ukiyojingu/n/n466eb39db6aa
『Psychedelic Trash: 生活』収録曲
Bandcamp: https://rjnk.bandcamp.com/album/psychedelic-trash
※一部歌詞に誤りがありました。後ほど本動画を差し替えます。
生成AIを媒介とした楽曲連作『非在探求』を経て、私は制作主体の配分を再編成し、演算環境から身体へと重心を再帰的に回収する。本シリーズ『切断考察』は、AIが常態化した制作条件のもとでなお駆動しうる〈最小身体〉の作動域を測定する試みだ。骨格生成を機械に委ねつつ、採否の最終判断を呼吸・脈拍・瞬目といった生理的時間に同期させ、人間的遅延を制作回路へ意図的に挿入する。
ここでいう〈切断〉は破壊の身振りではない。意味過剰に対する冷却操作である。音響面では帯域の計画的抹消、無音の挿入、通信断の擬制によって、非在都市のサウンドスケープを反復しつつ、別様の聴取条件を構成する。映像・テキストにおいても、過飽和した連続性を分節化し、断片を「意味の手前」へ差し戻す編集を反復する。切断とは、意味生成を停止するのではなく、その発酵条件を低温保存するための一次工程にほかならない。
この操作は、制作に固有の技法というより、むしろ生活の深部に潜む構造の露出でもある。そのためには、どこか馴染みあるような構造、意味を反復し貼付する、そのような実践こそが日常を形成するのではないかという姿勢を、ここから読み取りたく思う。生活とは、他者の身振り・語彙・旋律の不断の模倣によって辛うじて維持される反復装置であるからだ。私たちは既製のリズムを無意識にサンプリングし、継ぎ合わせることで自己同一性を更新している。本シリーズは、この準剽窃的日常を否認するのではなく、むしろ継ぎ目を露出させ、模倣のノイズを可聴化することで、借用された時間からの微細な逸脱可能性を測定する。
『切断考察』は、接続性の最適化を志向するプロジェクトではない。接続の選択そのものを再記述するための聴取プロトコルである。都市の残響場と身体の生理リズムが干渉する臨界面において、幽霊的に立ち現れる「半‐主体的声」を捕捉すること——その実験的布置こそが、この理論的かつ実践的射程である。
ukiyojingu作品集『都市巡礼』Teaser Movie
https://ukiyojingu.booth.pm/items/7725284
2025.11.22 VOCALOID STREETにて初頒布。
B6版、150頁。
10曲入りUSB+評論+写真
[収録曲]
1. fraction
2. city
3. upstair
4. current
5. media
6. document
7. system
8. debris
9. word
10. (re)flection
ukiyojingu+結月ゆかり『生命都市のサウンドスケープ、或いは液晶に仮想される都市風景の記憶と忘却についての覚書(もしくは私たちが有機的であり続けるための思考回路を形成するための実践)』
非在探求#7
解説:https://note.com/ukiyojingu/n/nf886f214db7d?sub_rt=share_pw
液晶画面が私たちの感覚を麻痺させ、脳を干からびさせるのであれば、それに対抗するための方策はいかにして形成されるべきか、あるいはなされないべきか。
この音楽、そして非在探求のすべてはすでに私が形成してきた楽曲や批評、ないしはその副産物を起点にしたものがもとになっている。それらはすべて私の生産したものであることは揺らぎないが、自身の生産したものを一度プロンプト化し、そして再度音楽として出力するそんな実践において、どこかしら重要なものが失われているのではないかと感じるのは、決して違和感のあることではないだろう。人間の創造性の一切を削除し生成されるものを筆者は「純粋合成音楽」と名付けるが、その純粋さにいかにして接近可能かが、純粋さを求めるためにいかにして主体の非在を実現できるかが、この「非在探求」という試みの本質である。
[お知らせ]
11月で頒布した『非在探求(demo)』を、BOOTHで期間限定頒布します。未公開曲含めた10曲入りUSBメモリです。
https://ukiyojingu.booth.pm/items/7733416
デモ音源のため、大量に作る予定はありませんが、11/29に追加増産した分も含め人気でしたので、受注生産で僅かに作成・販売します。よろしくお願いします。
ukiyojingu+結月ゆかり『機械都市のサウンドスケープ、或いは制御系に内包された非人間性の崩壊に関する小規模な観察(もしくはただ伝達するだけでよいということへの批判について)』
非在探求#3
解説:https://note.com/ukiyojingu/n/nf886f214db7d?sub_rt=share_pw
言葉は伝わらないということを、筆者は連日体験することがあった。まるで自身の書いたものが異常論文のように解釈され、本質的ではない言葉が横滑りする状況を前に、どうしようかと悩んでいたところであった。どれだけロジックを組んだとしても、その言葉が相手に十分に解釈されないのであれば、それはもはや異常論文と対して変わらないといえよう。ならいっそ、異常論文をベースに純粋合成音声音楽を作成すると、どうなるだろうか。
非在探求は、前作『都市巡礼』の影響を色濃く受けた。私たちの言葉は通じないとして、それでもなおその通じなさへ直面するのが美徳であるとして、それだけでいいのだろうか。それだけではこれまで筆者が展開してきたことと、一体何がことなるのだろうか。別様の可能性を、筆者はここで考える必要があるのではないかと考えている。
[お知らせ]
11月で頒布した『非在探求(demo)』を、BOOTHで期間限定頒布します。未公開曲含めた10曲入りUSBメモリです。
https://ukiyojingu.booth.pm/items/7733416
デモ音源のため、大量に作る予定はありませんが、11/29に追加増産した分も含め人気でしたので、受注生産で僅かに作成・販売します。よろしくお願いします。
ukiyojingu+結月ゆかり『衛星都市のサウンドスケープ、或いは戦争機械たる観光客が生成する都市的接触と断絶について(もしくは異常に由来する言葉の崩壊に対する省察)』
非在探求#5
解説:https://note.com/ukiyojingu/n/nf886f214db7d?sub_rt=share_pw
本研究は、衛星都市におけるサウンドスケープの不可聴性と無効化の論理を理論的に検討するものである。序論では、音と都市の関係を問う従来の枠組みを批判し、衛星都市の音響現象が観測・定義の瞬間に逸脱する構造を提示する。音は空間の所有権を拒否し、都市の輪郭を裏切るため、都市音響研究の基本的前提は崩壊する。第1章では、サウンドウォークや測定プロトコルなどの方法論が、提示された途端に自己否定する逆説を明示し、方法論の不在が研究の本質であることを示す。数式や図表は形式的に科学的だが、測定不能性を強調するために挿入され、学術的信頼性の錯覚を演出する。第2章では、音圧と倫理指数の架空的相関や無限棒グラフなど、結果の提示を試みながら、その無効性を露呈する。「結果が存在しないこと」が成果であるという自己言及的構造がここで確立される。第3章では、「都市は耳を持つか」という問いを通じて、都市の自己聴取能力の不成立、聞こえない音の問題、存在と非存在の共存を哲学的に考察する。都市の耳は観測者依存であり、都市構造により否定される。結論では、方法論・結果・耳の不存在を前提とすることで、研究の成立不可能性を証明し、序論への回帰を果たす。本論文は、衛星都市のサウンドスケープ研究が「成立しない研究であること」を証明するために存在するという逆説を提示し、音響現象の認知不可能性と自己否定性を記録する試みである。
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言葉は伝わらないということを、筆者は連日体験することがあった。まるで自身の書いたものが異常論文のように解釈され、本質的ではない言葉が横滑りする状況を前に、どうしようかと悩んでいたところであった。どれだけロジックを組んだとしても、その言葉が相手に十分に解釈されないのであれば、それはもはや異常論文と対して変わらないといえよう。ならいっそ、異常論文をベースに純粋合成音声音楽を作成すると、どうなるだろうか。
本作においてベースとされたスクリプトは、筆者のこれまで作成してきたものをベースに作成された異常論文だ。したがって、それは高度な創作性を有しており、学術的客観性を有していない——冒頭の要旨がそうであるように、だ。だがしかし、生成AIによりエンコードされた音とその中にわずかに挿入される言葉は、正常な論文と異常論文との境界線をまるでなかったかのようにする。
衛星都市≒存在しない都市をめぐる、存在しない論文≒異常論文。無数の矛盾と非在が織り込まれたこれは、果たして何なのだろう。筆者にもわからない。
ukiyojingu+結月ゆかり『水没都市のサウンドスケープ、或いは記録不可能な声が溶解する都市の残響に関する習作(もしくは私の思考の多角的な表象可能性のために生成された3分20秒に及ぶ実践)』
非在探求#2
解説:https://note.com/ukiyojingu/n/nf886f214db7d?sub_rt=share_pw
液晶画面に溢れた私たちの現代都市は、既に身体を深い深海へ沈めつつある。
この水没を前に、かつて存在した都市計画から私たちを海辺へ引き上げる方法は、サウンドスケープの実施においてこそ見出されないだろうか。
この音楽は既に完結を迎えた『都市巡礼』の思想的側面たるnote記事群の最後に提示された「 」の可能性を、実践として如何にして具現化可能であるかを巡って生成された。昨春に寄稿した『合成音声音楽の世界』における拙論で、筆者はこれまで提示してきた「海辺」の思想に関する実践としての海辺の芸術作品というアナロジーを提案し、その可能性を現代アートに追求するまでを行った。「海辺」とは私たちの生きる都市が過剰なまでに非理性的≒情動的、あるいは美的・感性的なものへと変質している現状に対する逃走線の形成、すなわち過剰な感性化に対する批判を享受しつつも、それらを完全に否定するわけでもないような居場所の形成を目指すものである——それを「海辺」と形容するゆえんは、液晶画面を中心としたデジタルスクリーンがもたらすものが、かねてより「情報の海」と称されてきたことに由来する。
私たちの都市が既に液晶画面を介して情報の海に沈んでいるとすれば、この都市は既に水没しているだろう。こうした水没都市と称されるものの前で、海辺を希求する作品はいかにして可能か。その可能性こそ、人間性の回帰を歌い続けたサウンドスケープという思想だ。だがしかし、筆者がこれまで提示してきた論考のスクリプト化、そしてそれに基づく自動生成を介入させ生み出されたこの楽曲は、その条件を満たしていないだろう——なぜならそれらは常に、電子的あるいはシステマチックなものを批判してきたからだ。だがしかし、水没都市でもがき苦しむ私たちが海を一切立ち切ることなく、それでもなお海に滞在し続けるためには、二項対立を複合的に孕んだ表現こそが、感性的な私たちをある程度の次元で理性に引き戻す作用を有すると筆者は考える。理性と非理性の複合的中立。アルゴリズムとサウンドスケープの複合体。そしてSF的表現としての「水没都市」と、現実問題のアナロジーとしての「水没都市」。ここに秘められた複合性は、これに留まることはないだろう。
こうして、筆者は合成音声音楽の裏側に接近することで、過剰なまでに薄くなってしまった私たちの言葉を表現をこの場から回復しようとしているのだ。
水没都市:https://x.com/Nickel_ni_plus/status/1963219698008662111
ukiyojingu+結月ゆかり『境界都市のサウンドスケープ、或いは分割不能な私たちの「ずれ」を媒介とする都市の試論(もしくは私たちの不愉快なノイズにかき消された私の声を探すための、貴方による実践)』
非在探求#6
解説:https://note.com/ukiyojingu/n/nf886f214db7d?sub_rt=share_pw
この音楽は誰かに発見されたがっている。無数のノイズによって分断・かき消された声は、貴方によって発見される機会を待ち望んでいる。
私たちの言葉は「薄い」のだとして、貴方はこの映像に隠された言葉に何を認識することができるのだろうか。そんな薄っぺらい私たちとは何者かを問いかけるために、このサウンドスケープは実施される。
この音楽は生成AIとの対話のうえで作り上げられた。ボカコレにて生産される数多くの楽曲を含んだ合成音声音楽の世界における傾向を文章として生産してきた私のこれまでの蓄積をアルゴリズムが分析し、その傾向に対する「真逆」を意図して生成させるよう、指示を行った結果がこの音楽である。したがって、この音楽は合成音声音楽と真逆に位置するだろう。ボカコレが合成音声音楽を代表するプロジェクトなのだとしたら、この音楽はまたボカコレから最も遠く離れた楽曲であるとも言うべきかもしれない。
それは多くの人間にとってきっと、不安と不快感を提供するだろう。だがしかし、そんな不安感や不快感こそ、私たちに求められるべき要素ではないだろうかと私は考えている。合成音声音楽がどこか薄っぺらいのだとしたら、その薄っぺらさの正体には現代のコミュニケーションが内包する薄っぺらさがあるのではないかと考えているからだ。合成音声音楽、ひいてはこのデジタル空間における言葉の表層化、および情動化に対する危機感について、筆者はこれまで多くの場面で提唱してきた。たった140字でユニット化された私たちの言葉は深さを知り得ず、それを起点としてあらゆるものが薄くなっているのではないかという問題意識は、合成音声音楽に限定されず、すべての事項において問題であると考えるべきことではないだろうか。もはや音楽と認定されるべきか否かの境界線に位置するであろうこの音楽は、そんな私たちの「薄さ」を解体し、奥深さを取り戻してくれるだろうか。
生成されるノイズと合成されるサウンドスケープ、そこに隠された「 」を見つけること。私はそこに言語化できないような無数もの思索と感情を複雑なまま提示する。それこそ、アルゴリズムにも支配されず、また独りよがりにもならないための「海辺」だと私は考えている。無数のノイズによって分断・かき消された声は、貴方によって発見される機会を待ち望んでいるのだから。
この音楽は誰かに発見されたがっている。
ukiyojingu+結月ゆかり『非在都市のサウンドスケープ、或いは存在の境界を彷徨う幽霊たちのための記憶装置について』
非在探求#1
解説:https://note.com/ukiyojingu/n/nf886f214db7d?sub_rt=share_pw
合成音声音楽は本質的にアルゴリズム的存在であり、その自動生成的な特性は、生成AIによる音楽と本質的に地続きでないだろうか。そうした問題意識から、筆者は「純粋合成音声音楽」という言葉に辿り着いた。人間の手がどれほど介入しているかの程度はあるとはいえ、ボーカロイド音楽も生成AIも規定されたパラメータに依拠しており、自由に見えるその創作もまた、制御された構造だ。ゆえに、全ての音を人間の意図から解放し、アルゴリズムの論理だけで構成する音楽は、合成音声音楽の本質をより鋭く露呈させるものではないだろうか。
だがそのような方向性は、筆者がこれまで展開してきた思想とどこか相容れないようにも映る。筆者はかつて、情報に満ちた都市空間を「構造」と見なし、それに絡め取られず逃れる線として「海辺」という概念を提示してきた。都市の過剰なスクリーン、強制的な固有化、情動の巻き込みといった構造に対抗するには、どちらにも属さない中間地帯=「海辺」が必要なのだと。そこでは一貫した立場を取らず、むしろ「幽霊」のように輪郭を曖昧にした存在であることが、構造からの抵抗線となる。
この立場から見ると、「純粋合成音声音楽」は構造に寄り添う方向、すなわち都市構造と同質のアルゴリズム的環境に身を置く試みに見える。だが筆者は、そうした矛盾を否定するのではなく、それを孕んだまま思考を進める。完全に人間が不在となるような音楽を構想することは、逆に人間性を再浮上させる契機になりうるのではないか。つまり、幽霊的な立場を保ったまま、非在を通じて創造性を再定義するのである。
マリー・シェーファーのサウンドスケープ論を補助線に用いるのはこのためである。サウンドスケープとは、音環境を人間がどう知覚し関係を結ぶかに重点を置く思想であり、デジタルメディアによる音の分断と画一化を批判する視座を含む。サウンドスケープが人間的知覚の光を当てるならば、「純粋合成音声音楽」はその対極にある非人間性を拡張する音楽だろう。非人間的な非在都市に人間的なサウンドスケープという言葉から探求すること。矛盾を内包するこの行為は、海辺に足を溶かす幽霊のような何か、すなわち「 」を追求する行為となるのではなかろうか。それは同時に、純粋合成音声音楽という形而上的で存在しないものの輪郭線を、僅かにも露わにしてくれないか。
筆者は両者の衝突を乗り越える中間の小路として「非在都市のサウンドスケープ」という構想を示す。それは、「海辺」に立つ幽霊のように、どちらにも属さず揺らぎながら、新たな創造の地平を切り開こうとする実践である。
ukiyojingu+結月ゆかり『(re)flection』
都市巡礼 #10
解説:https://note.com/ukiyojingu/m/md67e7f3dc739
私たちの言葉はどこまで行っても誰かの手によって誤配され、その結果生み出された瓦礫を水面下で蓄積し続ける。蓄積された瓦礫たちは時間と共に風化し、まるで砂漠のような光景を都市の地層に形成してゆくだろう。こんな時代に、私たちは私たちの言葉を維持するため、誤配を受け入れてもなお、精確に送信するための弛まぬ努力が必要ではないか。弛まぬ努力と、そのうえでもなお展開される複雑な誤配の力場こそが、この都市を駆動させる原動力であるのだから。
こうして駆動する都市の原動力は「情報」と称するものに近いだろう。ハイデガーがそうであったように、ネオサイバネティクスの趨勢を一起点とした情報概念への生物学的解釈論は、今日においても絶えない。通信機械における情報の通信工学的、ないしは無機的な解釈を生物にまで援用することを批判し、生物特有の意味生成から人間=機械の関係を批判する文脈では、生物が内的に生成する情報は他者に対して永遠に正しく伝達されることはなく、言葉という記号によって須らく解釈のずれを内包するものとして生成される。ソシュールを引くまでもなく、私たちの言葉は須らく誰かにより誤配されるということはもはや自明だろう。
しかしながら、そんな「ずれ」を能動的に捉え、実体化することが仮に可能なのだとしたら。そんな誰かと異なるように想定される自分自身の「ずれ」を表象する行為を、芸術と呼ぶことができるのであれば、情報と美学はここで密かな関係を作り出すことができよう。言葉を解釈する危険性に常に意識を向けつつもなお、言葉の誤配から可能性を生成すること——それが決して過剰な感性的姿勢へとならぬよう、細心の注意を向けながら。そうして、サイバネティクスの展開する無機的都市と、そのうえで展開される過剰に感性化された私たちの様相≒芸術的都市の、いずれにも付置しない場所を求めている。この探究はすなわち、誰にも関与されないという意味でも孤独化≒生物なき「砂漠」と、感性的なあまりに過剰に接続され続ける情報の「海」との中間項という意味での、「海辺」の思想である。
都市を芸術化させる創造的都市の思想による、主体の過剰な感性化に伴う芸術的都市への抵抗線としての、沿岸都市の方法。それは誤配から生成されるそぎ落とされたもの言葉にされないもの、いわば「 」への追求ではなかろうか。言葉を真摯に伝える手段として、意図して言葉を切断すること。或いは切断された言葉の価値を考察すること。そんな切断された言葉を、切断されたサウンドスケープと共に盛り込むこと。こうした可能性を提案し、再び「思考実装」の先へ進む必要がある。
ukiyojingu+結月ゆかり『word』(新編集版)
都市巡礼 #9
解説:https://note.com/ukiyojingu/m/md67e7f3dc739
私たちの言葉は須らく不完全であり、言葉はどこまでも意志や感情を他の誰かへ完全に伝えることはできない。言葉は無数にも誤配され、私の意志が誰かへ確実に伝わることなど永遠にない。言葉と名付けられたこの楽曲に込められた言葉でさえ、その真意を明確に伝えることはできないだけでなく、何らかの受信を行った誰かでさえ、その言葉はただ「分かったつもり」になっているにすぎない。私たちは永遠に分かり合えないし、だからこそ、「分かったつもり」がどれほどの暴力を内包しているかに、目を向ける必要がある。誰しもが、そんな誤配された言葉の瓦礫によって形成された巨大な壁の前に面している。
それでもなお、私たちはなおも言葉を幾重にも入れ替え、あるいは言葉でないものを用いて何かを伝えようとする。確実に内包された非論理的な何かを正しく伝えようとするため、論理でない要素に私たちは目を向ける。そうして、私たちは新たな表現技法から意思や感情の伝達を試みる。そのヴァリエーションは、このシステマチックに駆動する無機的都市、あるいは芸術的都市が喪失させた毛細血管を復活させ、総体としての私たちを蘇生させる行為であると、いうことは可能だろうか。言葉の意味が表層化され、誰しもが誰しもの意図を救い損ねるどころか救う仕草すら見せようとしないこの芸術的都市に対し、言葉の意図を深く探ることの意味は、一体どこに見出されるだろうか。
今日も、どこかで誰かの言葉が生まれ、そして消失する。誰かが誰かの言葉を身勝手にもパッケージングし、そして身勝手な誤配のもと、何かが生産され消えゆく。そうして都市の地下層に形成される言葉の瓦礫たちはやがて風化し、都市を砂漠へと変貌させるだろう。水分を求めなければ生きてゆけない私たちは砂漠から逃げるが、かといって、陸地を一切書いた深い海の底でも生きられない。そうして、私は「海辺」を自分の居場所に求めた。それはどちらにも極端化しない、どちら側にもつけない臆病な私の表現だ。だがしかし、芸術的都市を駆動させるシステムから逃避してもなお私が孤独にならないための方策として、この結論は素朴だが十分だろう。そんな海辺から送信された言葉は、過度に情動的/身体反応的でもなければ、過度に理性的でもない、この画面を見る貴方へ向けられる。都市を巡礼する私の視線は、この言葉を聞き、そして内部でその言葉を反響させ続けられる貴方を求める。そうして、私は貴方を再発見し、決して表層的ではない「貴方」へと接続可能な小路を見つけたく思う。
ukiyojingu+結月ゆかり『debris』(新編集版)
都市巡礼 #8
解説:https://note.com/ukiyojingu/m/md67e7f3dc739
巡礼を続ける私は都市から疎外され、機械がもたらす鉄の砂漠の上で常に孤独に晒されている。それでもなお、意義を見出されなかったものたちが形成する瓦礫の海より「 」を問う価値は何か。
今日も日が昇ること、そして明日も日が昇ること。それ自体は自然現象に過ぎないが、私たちはそこに意味を見出して生きようとする。しかし、その日常が何らかの要因で失われたとき、人間は思考の起点を見失う。機械が駆動し、大規模な芸術化が進行するこの都市の現在は、まさにそうした状態ではなかろうか。システム化されたこの都市において、一体日々のどれだけに特異的な価値を見出せるのだろう。日付や数字はあるが、実感としての区別は曖昧である。原因のひとつは、生活のサイクルが機械化されすぎている点ににあろうか。機械は同じ動作を寸分違わず繰り返すからだ。人間のような曖昧さや余白が、そこにはない。その中で暮らすことで、人間側の感覚もまた、徐々に平坦になっていく。
私たちは便利さのために機械を受け入れてきたが、同時に感覚や言語の繊細さを置き去りにしてきたのではないか。情報が最適化され、感情が数値化される社会において、「人間らしさ」とは何を意味するのか。この問いに明確な答えを持っている人は少ない。だからこそ、私は考え続けるしかない。日常の中に埋もれた問いを拾い上げながら。
私はこの機械を、或いは鉄の砂漠を外から眺めようとする。それは私を孤独にするだろうが、それでもなお、機械が言語を侵食し「 」を崩壊させる現象への逃走線となる思考回路へと、それがなりうると信じている。それは効率的でも、即時的でもないかもしれない。けれど、人間の営みには、そうした非効率な営みが不可欠だ。そしてその営みこそが、人間と機械との境界線を保つために必要なのだと考えている。都市の生活は続き、私はその一部として機能しながらも、完全には同化できない。それは唯一無二の言葉によるのではないか。マクルーハンを引用するまでもなく、言葉は、記憶であり、意思であり、そして人と人をつなぐ媒体である。機械に飲み込まれることなく、人間であり続けるための最後の手段なのかもしれない。
誤配される誰かの言葉は瓦礫と化して、死に至る鉄の砂漠に積みあがる。その瓦礫たちはきっと、私たちそのものであり、きっとエンコードされない「 」を見つけるためのツールだ。私たちは積みあがるそこから見いだされるものを、求めている。
ukiyojingu+結月ゆかり『digital detox 20240608-0815:電子回路から切断され、強制同期から解放された私たちは何を考え、感じてきたか。』
https://note.com/ukiyojingu/n/n9b705462ba0e?sub_rt=share_pw
この音楽は、誰にとっても正しく聞かれないかもしれない。「正しく時間を過ごす」ことを提案するこの声の価値は、矢継ぎ早に音楽を生産し消費する「あなた」が飛ばした時間に価値があると筆者は思う。だからこそ、この音楽は今のこのタイミングで出すことに価値を感じている。この70時間を超えるとこの楽曲に価値があるのか定かではない。非公開になる可能性もあるが、それでもなお、ここで提案を出してみたいと思うのだ。
2024年6月8日、私たちは突如として切断された。電子回路から逃避する機会を不意に得た私たちは、それでもなお、電子回路の欲望に従属することを望んだ。そうして私たちはまた、巨大な渦の中に巻き込まれてゆく。大衆への理解と先端的な表現の間でアンビバレントに揺れ動く映像たちはいま、前者のほうへ天秤を傾けつつあるだろう。そうしてまた、この季節が来た。
この72時間弱の時間において、感性化された私たちは極度なまでに環境へ最適化された「気持ち良い」映像を作り出そうとする。それはまるで、アーキテクチャが提供する領土への批判性を一切欠いているだろう。機械状隷属と社会的服従の交差点にいる私たちは、この渦への自律した視点をもはや持てない。
私の作るこの映像は、そんな機械による領土化への抵抗としての脱領土的戦略である。インスタントで分かりやすく設計されたアーキテクチャに対し、切断された私の生活そのものの記述実践は、聞き手にむしろ不快さを与えるかもしれない。しかしながら、そうした不快さこそ、私たちにとって価値がある。それは機械のテリトリーに対し、私たちが完全に従属していないことを示してくれるのだ。
しかしながら、この離脱は2つの理由により、不完全ほかならぬものとして帰着する。一つにはこの映像が美的感性的テリトリー内部で行われている点においてアルゴリズムから脱出しきれていないこと、もう一つにこの映像そのものがアルゴリズムによる整形手術を受けていることに起因する。
映像の言葉は私の手記のもと、アルゴリズムによる生成支援(機械による「委任されたパフォーマンス」)を受け生まれ、そしてアルゴリズムにより生成された声により出力される。これらはデジタル空間内部からの逃避を目指す私の思想とは裏腹に、私を再度デジタル空間に引き込むのだ。
再領土化のプロセスが脱領土による主体の自由を獲得させないように、私たちは絶えず何かの体制に巻き込まれる。そんな不完全性こそ、この不自由で退屈とも言える私たちの生活そのものではなかろうか。そのうえでいかに生活を展開するか、領土のなかでいかに動き続けるかを、私たちは問われているのではなかろうか。
ukiyojingu+結月ゆかり『system』(新編集版)
都市巡礼 #7
解説:https://note.com/ukiyojingu/m/md67e7f3dc739
広島から東海道新幹線に乗ると、都市間の距離の問題を超え、全ての空間が同一線上の都市として認識されていることを痛感する。デジタル空間と現実の都市空間との境界線が失われ続ける現代都市の様相を以前に「芸術的都市」と形容したことがあるが、私たちの無意識が表面的へせり出し続ける状況を無意識の露出=芸術と捉えた建築家アルド・ロッシの言葉をパラフレーズして提示した本概念に対し、現実の都市空間によりコミットすることはそのアンチテーゼとしての可能性を秘めているだろう。都市に向かい、都市空間をフィールドとして調査することの意義はそこにあるのは恐らく言うまでもないのだろうが、しかしながら、僅か数時間で都市をネットワークとして接続するこの空間は、果たしてシステムの外側なのだろうか。車内に必ず設置されたデジタルスクリーンと、道中必ず目に入るスマートフォンの画面は、私にそんな憂慮を誘惑させる。
この都市において、もはやデジタルデトックスは不可能だ。私たちは常に誰かと繋がっているし、誰かと繋がることを要求される。数年前に目にした芸術作品、そこに込められた「新しい孤独」というメッセージが頭の中に浮かぶが、強制同期から自己を切除できない時代において、そんな「孤独」は大いに有用だ。とはいえ、問題はきっと「孤独」の程度である。私たちは過剰に繋がり過ぎてもいけないし、誰とも繋がらないこともできないのだから。私がしきりに参照した「海辺」の概念は、そうした中途半端な環境を肯定するための前線基地たる役目を内包したものである。
集合性の象徴として参照され続けた海は、主体の一切の固有性を承認しない。それゆえ、それらはただひたすらに「没固有」である。しかしながら、あらゆる固有性が否定され、ただシステマチックに駆動する都市それ自体も、ある種「没固有」だ。圧死された主体性がこの都市の地下茎として存在しているだけの様相は、高くそびえたつ都市の光景とは裏腹に私たちの没固有性を提示する。それは互いに固有性を承認しない点において、海とは真逆のように見えて同質だ。これを「鉄の砂漠」と称することはできるだろうか。
主体性の消失としての海への回帰と、承認されない主体性を地下茎に追いやる砂漠。両者がいずれも芸術的都市の台頭により出現するなら、この両者でもない都市空間を思考せねばならない。誰かを「 」で囲い、私たちの眼前に出現させることは、地下茎で蹲る物を救出する方策なのだ。
ukiyojingu+結月ゆかり『document』(新編集版)
都市巡礼 #6
解説:https://note.com/ukiyojingu/m/md67e7f3dc739
某日、平和島を南北に貫く高速道路を横断する高速道路沿いから、広島から引き連れた一眼レフを携え、夕方から夜遅くまで平和島の海岸線にいた。
度重なる増設と改造を積み重ねたここは、もともと海だった。図書館で見た海沿いの品川駅に汽車が到着する光景はとうの昔だが、そんな海沿いの景色がかつてあったことを思い返すと、度重なる増設と改造による人工島の光景は、人間——あるいはその複合体としての都市が、幾重にも折り重なった光景として立ち現れている。それはまるで、集合的な人格としての都市が自我を徐々に形成することにより、かつて剝き出しのままであった無意識たる「海」に覆いを被せる如く。その過程で抑圧された「海」の痕跡を探し出すことで、私は抑圧されたものではない、本当の姿としての誰かを求めている。それはすなわち、これまでの見方で誰か/何かを見る方法を取るのではなく、新しい方法で誰か/何かを探すことである。あるいは、誰かを新たな「 」に入れ込むための手法を探すこと、と形容してもよいかもしれない。自我による抑圧を受けるものと受けないものの境界線に人工島の海辺があるとするなら、この沿岸都市沿いには、圧殺された過去が水死体の如く浮かんでいるはずだ。その声の痕跡へ目を向けることは、意義があるように思う。
だが、言葉は常に表象されたものであるからこそ、それは常に抑圧を受けてきたものとしてしか解釈されえず、ここから先に進むためにはある種の狂気さを私は受け入れざるを得ない。都市の景観は言葉にされえず、全ての言葉は美しく/あるいは醜く表象された瞬間、たちまち死に至るのだから。そうやって失敗を積み重ねた末に出来上がる瓦礫の山がやがて地層となり、この人工島の基底と化しているのであれば、その失敗を積み重ね続ける私たちは、果たしてそれでいいのだろうか。コミュニケーションの地滑りにより他者が殺されるこの時代において言葉が無力であることは言うまでもないが、だからこそ、この言葉は別の仕方で表象されていく可能性を求めなければならないのではないか。
この音楽は2つの初期作と『言語交錯』の間に作られ、そしてこの映像は一眼カメラを手に入れた2022年の冬から撮影したものがほぼ全てを占めている。もう5年は昔のものとなってしまった私の記憶を、私は新しいピアノと新しい映像を使い、新しい言葉で表象する。この行為は、かつての海沿いの景色を忘れた平和島にどこか被るかもしれない。それでもなお、新たな差異が込められたこの新編集版という反復行為を、私は決して無意味とは思わない。言葉が無力だとしても、だからこそ、言葉を発信し続けたく思うのだ。
ukiyojingu+結月ゆかり『media』(新編集版)
都市巡礼 #5
解説:https://note.com/ukiyojingu/m/md67e7f3dc739
深夜の街は、スクリーンの光に包まれている。私たちはその光に引き寄せられ、異世界へと誘われる。過去を振り返り、未来を思い描きながら、私たちはこの都市の一部となる。スクリーンに映し出される断片は、誰かの記憶や思い出の欠片だ。私はその欠片を拾い集め、都市の輪郭をなぞる。
広島郊外の学園都市に引っ越してから、SNSのスピードがやけに速く感じるようになった。BeRealやDiscord、Xのスペース機能など、即時性を要求するアプリケーションが私たちの生活に浸透している。デジタル空間上での「強制同期」は、私たちの意識を多孔化し、都市空間に無数の孔を穿つ。
デジタルスクリーンに初音ミクが偏在する現象は、都市の芸術的変容を象徴している。JR渋谷駅のスクランブル交差点に設置された大型ビジョンQs EYEや、山手線の車内に映像広告「トレインチャンネル」が導入されたことが、その始まりだ。都市の至る所にスクリーンが設置され、私たちの視覚を支配している。
2007年に生まれたボーカロイド文化は、リアルタイムでのコミュニケーションを錯覚させる疑似同期システムの影響を受けてきた。初音ミクをはじめとするボーカロイドキャラクターは、都市の地下で開催されるDJイベントやスマートフォンアプリ「プロジェクトセカイ」で顕現する。デジタル空間と現実空間の境界が消失しつつある現代、私たちはどのような思考回路を構築すべきか。
都市の芸術化は、私たちの感覚を麻痺させる。マーシャル・マクルーハンが指摘したように、メディアは感覚の切除であり、自己認識を禁じる。デジタルスクリーンに溢れる都市は、私たちを美的存在へと変貌させる。デジタル空間と都市の境界が消失する時代に、私たちはどのようにして自己を保つべきか。
スクリーンがランダムに抽出する誰かの痕跡、その集積としてのこの都市の中で零れ落ちてゆく何か。この都市の最下層に落ちている誰かの断片こそ、かつて誰かが「 」で囲われた主体であった痕跡ではないだろうか。
ukiyojingu+結月ゆかり『current』(新編集版)
都市巡礼 #4
解説:https://note.com/ukiyojingu/m/md67e7f3dc739
現代の都市において合成音声がどのように人々の生活を取り囲んでいるかは、都市の複雑な構造と深く結びついている。都市はまるで積み木のように重なり合い、秩序と無秩序が絶えず交錯している。その風景を言葉と論理に変換することは、まるで意味の追求と無意味の連続の間で揺れ動く行為だ。都市は無数の思惑によって運営されるシステマチックな存在であると同時に、その中で個人が自分の位置を見出そうとすることは避けられない。そんな矛盾と複雑を、私は自らの声の代替品として生成されるこの合成音声に委ねている。
都市での生活は時に無意味に反復されるが、私たちはときに、その無意味なルーティンの中にさえ意味を見出そうとする。意識的に無秩序を追い求めることは、その純粋さを失わせる危険性を孕んでいるだろう。だがしかし、都市の風景や音声を幾何学的に再構成することで、無意味に思える生活に新たな意味を与えることができる。都市の複雑さを深く考察し、その中で新たな価値を想像し創造することは、現代においてますます重要な問題だ。
都市の密度は、そんな力場上で形成される。都市はシステマチックに駆動される存在であり、その中で人々の動きは計画的だ。過去に私が都市に対して抱いていた憧れと、現代の都市を再構成する試みは、いずれも都市の複雑さに挑むアプローチである。都市を再構成することで、かつて得られなかった深淵を除くことがいま必要とされているのであれば、この合成音声は何を表現しうるのか。
情報科学の進展により、都市のデータがデジタル的に管理される時代が到来した。これにより、都市の姿はますますシステマチックになり、効率性が追求されることとなった。しかし、デジタルデトックスの必要性もまた高まっている。現実の都市とデジタル空間が交錯する中で、どのようにして個人の存在感を保つかが問われている。デジタル空間に依存しない都市のあり方を再考すること。0と1で生み出されたこの声がそれを望んでいることの複雑さを、いかに受け止めることができるか。
都市は、絶えず変化し続ける存在である。合理性は個人の自由や創造性を制限する。だからこそ、都市の新陳代謝を促しつつ、その中での人間の存在を再確認することが必要だ。都市を深く思考することで、デジタル時代における新たな可能性を見出すことができるのなら、都市の構造とそれに伴う人間の動きを理解し、その中で新たな価値を生成することが、この合成音声の持つ意味である。システマチックに駆動する音楽の、その背景にある血肉へ。都市の光景に反射する、生活を継続する我々へ。
ukiyojingu+結月ゆかり『upstair』(新編集版)
都市巡礼 #3
解説:https://note.com/ukiyojingu/m/md67e7f3dc739
田園都市構想以降に設計される計画的な都市の姿は、中心部を基本とした徹底的なコントロールを前提にして設計されてきた。パリの新市街設計にコルジュビエが提案した都市設計がそうであったように、それらは都市の不確定な姿を棄却すると同時に、まさにシステマチックな形で動き続けるような都市の近代性を前面的に肯定する潜勢力で満ち溢れていたように見える。それからおよそ100年が経過し、かつてシステマチックなものとして構成された私たちの都市に対する夢は人間性の凋落として批判され、一つの大きなシステムによる社会のコントロールとは真逆のベクトルを向く運動が「多様性」という名の元で展開されてきた。モダニズム思想から遠く離れ、その代わりに台頭するポストモダニズムが私たちに与えた影響は計り知れないだろう。
それでは、中心部から同心円状に展開されるような都市設計が非人間的と批判された時代を経て、私たちはある種の人間性に溢れた無秩序の時代を謳歌できているのだろうか。1990年代に世界的インフラストラクチャーになったインターネットの台頭は、私たちを真の意味で自由で多様性あふれる世界に導いてはくれなかった。誰しもがエレクトロニクスの首輪を課せられ、首から垂れ下がるIDタグによってコントロールされる様相は、かつてモダニズムが提唱したような理想的な都市の姿を非視覚的な形で実現している。インターネットプロトコルが定めたルールにのっとってしか言語を送受信できない今日の私たちは、その埒外にいる「エンコードできない言葉」を無視している。そうやって、どこかでそぎ落とされた言葉の亡霊たちは、エンコードまま世界の外側で亡霊となって彷徨う。その疎外は、突然にも実行されている。
こうした時代にて、言葉の亡霊を私たちが発見することはいかにして可能だろうか。エンコードされないそれらに目を向けることに失敗する私たちは、いつしか亡霊そのものの存在を見失い、コード化される言葉の全てが伝わるべき内容かと錯覚してしまう。140字すら読めることが出来なくなるこの時代、ここに記した文章がどこまで読まれるかさえ、定かではない。ネットワーク上で送信される言葉の背後を這いずり回る亡霊を見ずして、私たちは一体何をどのようにして、誰に送信できるだろうか。
デジタル空間がこれほどまでに深化した現代社会において、強力な中心を持つ都市から私たちは逃げることはできない。それでもなお、降りることが許されないとしても、亡霊を探す作業の価値は否定されることはない。言葉の亡霊を見ること。誰かの言葉に「 」をつけること。その作業が今、問われている。
ukiyojingu+結月ゆかり『city』(新編集版)
都市巡礼 #2
解説:https://note.com/ukiyojingu/m/md67e7f3dc739
都市は私にとって、魅惑と畏敬の対象であった。清々しい碁盤の目のような街並み、そしてその中でシステマチックに動く人々の姿は、私に数学的な美しさを感じさせる。効率的にかつ論理的に設計された無駄のない都市は、言うまでもなくディストピアであるが、とはいえユートピアでもあることは言うまでもないだろう。数学的な完全さ、圧倒されるこの感覚は、カントが「崇高」といったそれと同じだろうか。反復された都市の光景を見ながら、そのようなことを考えている。
システマチックな近代都市のあり方は、ハワードが19世紀末に「田園都市」を提唱し、そしてコルジュビエ20世紀冒頭に「輝く都市」と提唱して以降が印象的だ。無数ものビルが中心となり、まるで住民がコントロールされながら生活する光景は、人類の進化のようなものを強く感じとても好印象に思える。しかしながら、そんな都市の姿が実現されたことなど、過去に一度もなかっただろう。秩序の中に抑え込まれた人々が内包する無秩序さ、すなわち人間性が爆発したからだ。そんな都市の動態的な美しさ、そしてその中での自分の位置づけを再定義することが、私の原動力となった。
コントロールに離反する人間性。そんなことが望まれたのはもう半世紀ほど前にことになりつつあるが、とはいえ、現代社会は紛れもなくコントロールされている。私たちはプロトコルによって強烈に制御されたデジタル空間を避けて生きてゆけない。Twitterの無秩序的なコミュニケーションだって、いまやイーロン・マスクの掌の上で展開されているに過ぎない。私たちがどれほど電子回路に依存しているかは、ここ3か月の間で発生したニコニコ動画のハッキングがそれを示していただろう。デジタル空間からシャット・アウトされた私たちのどれほどが、別のデジタル空間を志向したことか。いずれにせよ、こうした事情により私は今一度「都市」を望む。
電子回路から人間性を取り戻すこと。誰しもが「エレクトロニクスの首輪」が課せられ、数字に還元されてゆく時代で、数字に還元されない固有性を見つけること。その探求は、都市の中での自分自身の位置づけを再確認し、再構築する試みである。十年後、私はこの作品を振り返り、その不完全さに眩暈を感じるかもしれない。しかし、その不完全さこそが、都市の魅力ではなかろうか。誰かを見つけること、そして「 」を付けて客体化し、改めて見つめること。その反復、巡礼こそが、いま求められている。
ukiyojingu『都市巡礼』Teaser Movie
解説:https://note.com/ukiyojingu/m/md67e7f3dc739
ukiyojinguは、思えば8年ほど昔に始まった。「京都らしい名前を」という理由で生まれたukiyojinguという名前だが、その名前に「憂き世」とあることからか、最初から現実主義的な音楽を目指していた——或いは、むしろ名前が無意識理に方向性を決めたのかもしれない。京都で生まれ関西で育った私は、都市しか知らない。碁盤の目と形容される京都市街、そしてその中でシステマチックに駆動する人間の様相。大学生になって初めて一人で行った渋谷や新宿の、プログラムされたかのように動く人の流れ。全く思想も行き先も異なるはずの人びとによる、エラー一つない完璧な動きのように感じさせてくれた都市の風景は、私にどこか崇高ともいえよう美しさを感じさせた。その素晴らしさに感化された私は、そんな動態的都市を憂き世より眺める地点を作る場所として、このukiyojinguという名前を再定義した。
そんな私が最初期の作品を改めて整理し、『都市巡礼』という名前のもと発表するのには二つほど理由がある。うち一つは個人的なことなのだが、昨年に行った就職活動が結果的に巻き起こすことになった、デジタルデトックスに起因する。昨年まで続けていた大学非常勤講師の仕事は私にとって紛れなく良い経験だったが、非常勤講師をいつまでも続けることができない手前、就職活動を行なっていた。その間、依頼を受けて執筆させていただいた各種論考を除いて、自ら新曲を投稿することはしなかった。それは結果として、ニコニコ動画と距離を置く理由にもなった。私は言語が十分な枠組みをもってして運用されることなく、ただ横滑りになって誤配を繰り返す果てに誰かを攻撃する光景を見続けるのが苦痛だ。デジタル空間が須くそうなのであれば、私はそれらといかに関係と保つかを慎重に考える必要性を与えてきた。
ところが、2か月前にあったサーバー攻撃は、意図せずデジタルデトックスを延長させた。まるで現実世界での交流が絶たれた数年間の反動かのように、今度はデジタル空間でのディスタンスがとられる。セルフプロデュースに勤しむ若手ボカロPの多くがYouTubeをはじめ他の動画投稿サイトで活動を継続する姿はニコニコ動画の今日的不要性を反映しているかのようで皮肉だが、ともあれ、これは換言すれば、今の私たちはニコニコ動画を失った程度でデジタルデトックスはできないということだ。私たちはやはり、どこまでもデジタル空間から逃げられないのだろうか。どこまでもそこに縛られるのだろうか。
かくして、個人的理由とKADOKAWAへのサーバー攻撃という、二重のデジタルデトックスに伴って、私は改めてデジタルなものから「都市」へ目を向けるのだ。
ukiyojingu+結月ゆかり『fraction』(新編集版)
都市巡礼 #1
解説:https://note.com/ukiyojingu/m/md67e7f3dc739
かつて自分が通った都市を巡礼するかのように、2017年3月にこの楽曲を今一度見直し、作り直す。
この曲が2017年に投稿されてから、もう7年以上が経過してしまった。当時まだ何も知らない大学生だった自分はいつしか大学院博士課程まで進んでしまい、そして大学図書館で働くに至った。当時は京都に通学する電車の車窓を撮影することも容易かったのに、就職活動を経て広島が安住の地となることが決まって以降、京都はずっと遥か彼方になってしまった。かつては住民だった自分はいつしか「余所者」になってしまったが、かといって広島に移り住んで未だ数か月しか経過していない自分は、広島の地から見ればやはり「余所者」だ。これから私は徐々に新たな都市の構成員として馴染むことになるのだろうが、それでもなお、しばしの間は足場をぐらつかせながら生活を送ることになる。
それまであった都市の生活を外部から侵入し、根本から作り替えたうえで去っていくような存在。観光客のようなそれらをジル・ドゥルーズはかつて「戦争機械」と称した。就職活動で様々な組織に履歴書を出し、面接に挑んで帰っていくその日々はまるで観光客のようであり、そして戦争機械のようであったと私は考えていた。そんな様々な都市、組織への巡礼の果てにたどり着いた都市のなかで、私はこれからむしろ外部によって変えられる存在になるのかもしれない。私は意味もなく誰かによって改造手術をなされていくことになる。だがそれこそ、人間の複雑性の本質なのかもしれない。余所者=観光客=戦争機械。彼らの到来を静かに待つことが、今後の私にとって重要なのだろうか。
しかしながら、いやだからこそ、自らが変化する可能性を今一度、私は検討する必要がある。かつて作られた私の痕跡を再構築するこの作業が、過去の私に対し現在の私自身を戦争機械にする試みだ。そうやって、過去の私と今の私は交錯し、新たな価値観がきっと作り出される。幼かった私の言葉は今から見れば、いささか理解に苦しむ面もある。だからこそ、それらは今の私を内部から作り変えうる、戦争機械にになる。
進化を続け、そして新しいものの到来を待ち続けよう。そうすることで、より先鋭された言葉を作ることを私はできるかもしれない。
『音楽を楽しく正しく聞くことに慣れている私たちにとって、不愉快で非合理なものこそが必要だ。そうして私は、この雑音の反復さえ、意味があるのだと言ってしまう。』(live 20230319)
2023年3月17日。
37.5度の熱を出し、花粉症による鼻炎も相まって眠れない日々を過ごした。動かない頭を身体を引きづって発熱外来を予約し、PCR検査の結果が陰性であることを知り、職場の大学へ報告する。ただの風邪だったこともあり翌日には元気になったが、数日間は出勤停止だ。
熱が下がった夜、久しぶりに夢を見た。自分が良く出演したライブハウスの店長に誘われ、ライブに出演する夢だ。数年ぶりにライブをするが、どうもリアクションが悪い。実は自分たちは演奏しているのではなく、裏で流れている同期に合わせ演奏しているだけであり、それに皆が気づいているからだった。指を刺され嗤われながらも、30分間のライブは続く。私は最後に泣きそうな顔になりながら、演奏を無事に終え、逃げるように都市の隙間へと消え、人々の雑踏と一体化していった。
私はバンドでライブをするとき、常に全く同じパターンとリズムで話す結月ゆかりとともにいた。その声はその場限りの唯一性を持つことはなく、一回性によって支えられた声の肌理を持たない点において異様な存在だ。その複製可能な声の均質さは、私が昨晩の夢で溶けて消えていった人々の雑踏ともどこか同じ匂いがする。マックス・ウェーバー曰く、都市は城塞と外壁がかつて物理的境界線であり、近代以降は言語や経済圏に基づけられることで、それが国家と同等なものとなった。壁の外側から戦争機械が来ることを知らない私たちは生活が突然変異することさえ知らず、それゆえに均質化された都市空間のなかで、その構成員として無意味的に反復を繰り返す。常に全く同じパターンとリズムで話す結月ゆかりと、常に全く同じパターンとリズムで鍵盤が叩かれるこの演奏のように。
私が昨晩の夢で溶けるように消えていった都市と、多くの動画の海にうずもれて消失していくこのデジタル空間は、さして違わないだろう。外部から到来する戦争機械に非自覚的かつ、世界の突然変異を自覚しない反復する私たちの様相は、データで管理され数字にあくなきこだわりを持つ私たちの成功と失敗の繰り返しと、さして変わらない。だからこそ、この2021年7月の日記はそれに抗する生存戦略としてなされる。この異様な長さの動画は果たして、誰にどこまで価値とみなされるだろうか。このページを開いたあなたは、この文章を読むだろうか。MIDIデータをパソコンで送信し、綺麗に整理し直されたこのピアノの演奏を、あなたは演奏と認めてくれるだろうか、或いは「同期演奏」と嗤うだろうか。生まれる僅かな違和感、そして疑問は、私たちが大衆、或いはデータの海で埋もれていく中で、その無意味な反復の幸福を享受しながらも脱却し、新たな思考を実装しうる回路を求められないだろうか。
そう願い、私も都市の隙間に埋もれてゆく。
ukiyojingu+結月ゆかり『思考実装 補遺』
散文、違和感のある声の肌理、不完全なものを愛すること。
異質なるものとしての、私と貴方の関係性の美学。
実装10曲+序+跋=24,595文字、73分の、それ自体に意味のない生活の反復。
この無意味は、送信と受信を経て、何者かの内面で「情報」として突然意味を持つ。
突然変異と誤配から、私たちの相互浸透と変身、半透明になる可能性、それ私は求めたい。
ポストメディアの時代における、無意味のメタモルフォシスへ。
情動的コミュニケーションから生じる、私たちの不意な接続へ。
それを通した、私たちと私の突然変異と相互浸透の可能性へ。
実装#1:https://www.nicovideo.jp/watch/sm38968425
実装#2:https://www.nicovideo.jp/watch/sm39224978
実装#3:https://www.nicovideo.jp/watch/sm39481424
実装#4:https://www.nicovideo.jp/watch/sm39496094
実装#5:https://www.nicovideo.jp/watch/sm39829243
実装#6:https://www.nicovideo.jp/watch/sm40364529
実装#7:https://www.nicovideo.jp/watch/sm40952503
実装#8:https://www.nicovideo.jp/watch/sm41190183
実装#9:https://www.nicovideo.jp/watch/sm41191012
実装#10:https://www.nicovideo.jp/watch/sm41367638
[お知らせ]
ukiyojingu『思考実装』2022年12月30日発売。
特典①:投稿動画(10曲+実装#8の)のmp4ファイル(DL方式)
特典②:アルバム収録曲解説文(10曲、12月30日に公開する「補遺」の文字データ)、およびニコニコ動画、初音ミクについて執筆したnote10本を掲載したpdf冊子(A5サイズ、約230ページ)
『思考実装』 digest movie ukiyojingu+結月ゆかり
ukiyojinguです。
9月のVOCALOID STREETにて発表したアルバムのオンライン版を、誕生日の2022年12月30日に発売します。
BOOTH、およびBandcamp(こちらは検討中)にて発売予定。
特典①:投稿動画(10曲)のmp4ファイル(DL方式)
特典②:アルバム収録曲解説文(10曲、12月30日に公開する「補遺」の文字データ)、およびニコニコ動画、初音ミクについて執筆したnote10本を掲載したpdf冊子(A5サイズ、約230ページほど)
実装#1:https://www.nicovideo.jp/watch/sm38968425
実装#2:https://www.nicovideo.jp/watch/sm39224978
実装#3:https://www.nicovideo.jp/watch/sm39481424
実装#4:https://www.nicovideo.jp/watch/sm39496094
実装#5:https://www.nicovideo.jp/watch/sm39829243
実装#6:https://www.nicovideo.jp/watch/sm40364529
実装#7:https://www.nicovideo.jp/watch/sm40952503
実装#8:https://www.nicovideo.jp/watch/sm41190183
実装#9:https://www.nicovideo.jp/watch/sm41191012
実装#10:https://www.nicovideo.jp/watch/sm41367638
補遺:2022年12月30日公開
ukiyojingu+結月ゆかり『切り落とされた半身と血液を抱えて生きる私は、その関係に意味を求め続けている。それゆえに、意味もなく他人として現れ、意味もなく電波上ですれ違う貴方のことが必要なのだ。』
思考実装 #10
解説:
ukiyojinguです。
「思考実装」と称したシリーズを始めたのは昨年の初夏だったが、あれから1年以上経った。
1年前の3月に発表した「言語交錯」のシリーズより継承した本シリーズは、いったい何だったのだろうか。「新しいもの」を求めると称した前作から振り返ると、内容はどんどん抽象的になり、それゆえの孤独に、足さえ奪われてしまいそうだった。新しいものとは、結局なんだったのろう。
美術に限定されることなく、全ての創作はすべからくして過去の作品の影響を(潜在的にだとしても)受けている。そのことを踏まえると、新しさは孤独であり、私たちはそこに至れない。一方、孤独の対極に位置づけられるような、全員が個性を放棄するような透明な集合体はどうだろう。それは強力なユートピアとして私の前には立ち現れたが、実現不可能な理想郷だった。現実社会だろうと、インターネットだろうと、私たちはいつだって集合して共同体をつくりながらも、主体のすべてを集合に捧げることはしなかった。おおよそ「近代」と言われる枠組みで生活を続ける私たちは、均質化された世界で均質化された生活を送りながらも、常に均質化された様式から逸脱したなにかを持っている。その逸脱の蓄積こそ、空間における独自性を形成しているのだと思う。情報空間を現実空間のアナロジーとみることには限界があるが、こうした蓄積が独自の文化空間を形成してきたという点は、共通しているのではないかと思う。
だからこそ、現実に目を向けてきた。共同体に目を向けるため、映像は常に実写の都市にした。メタバースや永病に伴って、これだけ情報空間が注目された時代もなかったと思う。そんな時代で、私たちの現実がこれほど希薄になった時代もないだろう。だからこそ、関係性を考えなければならない。
電波の中の私たちはコードに従わなければ、作品を電波に流すことすらできない。それはディストピアとも表裏一体だ。その一方で。近代化され、均質化された都市で暮らす私たちは、そもそも法や倫理というコードのうえに生きている。ならば、私はせめて均質化された空間のなかで、自分の独自の差異を探そうと思う。そして、それはこの画面を見る「あなた」がいて初めて可能になる。
私はあなたに言葉を送信する。その結果、何が起こるかはわからないが、その返答によって、私はきっと均質化された世界の中でも均質化されていない要素を発見でき、そしてあなたとの相互作用によって変化し、やがて混入した「あなた」によって主体を溶解させながら、一緒に新しさを発見できるのだ。
『透明な日々』 /沿岸都市 feat. 初音ミク
沿岸都市です。
此処からは、遠く彼方へ
Vocal:初音ミク
Music,Lyric,Mix,Mastering:shiranami、ukiyojinguのどっちか、あるいはどっちも
https://twitter.com/whitewave21th
https://twitter.com/ukiyojingu
Illust:夜露イルカ様
https://piapro.jp/t/GNbR
E.P.『相互干渉0.8』収録曲です。
https://engantoshi.booth.pm/
クロスフェードはこちら→https://www.nicovideo.jp/watch/sm41188944
沿岸都市『相互干渉0.8』Trailer
沿岸都市です。
9月11日のボカストにて発売したE.P.『相互干渉』をオンライン発売します。
リンクはこちらから→https://engantoshi.booth.pm/items/4223965
「相互干渉」というアルバムを作りました。クレジットにて「誰が何を作ったかを明らかにしない」というテーマのもと、どっちがどれを作ったかわからないようにしています。どうしてこういうのができたのかについては経緯ありますが、まずはいろんな風に楽しんでください。
——ukiyojinguかshiranamiのどっちか①
相互干渉というタイトル通り、お互いがお互いの曲に手を加えた結果、どちらとも付かないポジティブなアンバランスさを含んだEPになったと思います。感じたまま自由に楽しんでください。
——ukiyojinguかshiranamiのどっちか②
ukiyojingu+結月ゆかり『この手。この指。この爪。この皮膚。この身体。この弦。この電波。この通信。この線。この音。この画面。この合成音声音楽。この映像。この日々。この生活。私のすべて。 』
思考実装 #9
解説:https://note.com/ukiyojingu/n/nce1c13cb1946
ukiyojinguです。
私たちは透明になることに失敗しながらも、誰かに変身しながら、今日も自身を電波へと送信している(https://www.nicovideo.jp/watch/sm41190183 )。半身をゆだねながらも自身を送り続ける私たちはきっと、透明であるようで透明でないような、そんな半透明で濁った存在なのかもしれない。半身は腐ることなく、誰かによって解体されながら、全く違うものへと変身していく。だからこそ、私たちが一つになって消えることももはやできないのなら、私は静かに自分の輪郭をもう一度なぞる必要があるのかもしれない。
私は透明になることを希望しながら、一方で自身が透明になりきれないことについて自覚している。そんな私の不安定さは、この音楽の淡白さと不安定さに表出しているように思う。このアルペジオの不安定さ、このリズム感の不安定さ、そしてこの映像の不安定さ…これらすべては私だけの不安定さであり、絶対に再現不可能な私自身の表出でもある。そんな私の演奏は、脱色され白と黒でこうせいされたこの映像に対し、この無機質さを超えた私の血液の鮮明な赤色を伝えてくれている。この赤色こそ、私たちが情報空間上のゾンビとして彷徨うわけでも(https://www.nicovideo.jp/watch/sm40364529 )、ましてや無色透明になって何者でもなくなるようなユートピア、或いはディストピアを目指すような世界でもなく、相互作用によって変化する可能性、私とあなたの組みかわりの可能性(https://www.nicovideo.jp/watch/sm40952503 )を提示してくれるのだと信じている。
同時公開:https://www.nicovideo.jp/watch/sm41190183
10/13追記:「エンコードされないものたち——ボカロ曲とテキストの関係性について」というものを書きました。
https://note.com/ukiyojingu/n/nffd2213559ce
ukiyojingu+結月ゆかり『無色で透明な私たちは互いに融合しながらも、他方で消えない血液と己の半身を希求する。だからこそ、私は互いを解体させられるほどの、血液たちの接触と消失を望んでいる。 』
思考実装 #8
解説:https://note.com/ukiyojingu/n/n862236915d37
ukiyojinguです。
※この楽曲は『無色透名祭』にて投稿されたものです。
元リンク:https://www.nicovideo.jp/watch/so40804464
「私たちはみな、『何者』かになる私を愛している。」
この動画は「透明」をテーマに作られ、無色で透明なものを追求する方法を考える実践だった。しかし、誰しもが数値とランキングを追求し、皆が「何者」かを求めたがるボカコレという環境、或いはこの時代に対し、その裏側を照射することができるような可能性もあると考えている。「アンチ・ボカコレ」を自称する多くの曲がランキングにエントリーされているこんな皮肉な状況に対し、エントリーされていないこの動画だからこそ、できることがあると考えている。
私は身体の数学化(https://www.nicovideo.jp/watch/sm39224978 )を恐れ、自身の唯一性を証明してくれると信じていたものが電波に侵食されることに危機感を持ちながら、それでも流し、顔も知らないあなたへ送信する。どれだけ慎重に送信しても、この言葉が伝達過程で無数もの意味の組みかわりの果てに全く異なったものへ返信するのならば(https://www.nicovideo.jp/watch/sm40952503 )、私たちは唯一無二の「血液」たるものを証明はできるのだろうか。私が抱きしめ続けている半身(https://www.nicovideo.jp/watch/sm40364529 )は私たちが情報空間上のゾンビにならないために必要なものだ。だが、その半身をもって私自身の唯一性、半身に未だ流れている血液のようなものを世界に発信しても、それは相手に伝達される(解釈される)時点で、唯一性は失われているのではないだろうか?
私たちの唯一無二の血液が本当の意味で唯一無二なのだとしたら、それは誰とも共通していないという点において孤独な存在だ。だが、そんな孤独さに価値を見いだし、追求していたら、恐らく私は電波に音楽を流していなかっただろう。なぜなら、孤独と集合は真逆に思えるからだ。私は自分の唯一無二の血液、電波上で未だ捧げていない己の半身を抱きしめるとともに、電波に流したもう半身を、情報空間に投げる。そうやって、電波のなかに集まる多くの匿名たち、多くのデータとともに、どこまで行けるかを見てみたい。集合化したい半身と、消去しきれない半身を抱え、私は生活を送る。
同時公開:https://www.nicovideo.jp/watch/sm41191012
ukiyojingu「これまでの思考実装 #1-#7」
ukiyojinguです。
2022.10.8
・動画公開予定(2本)
実装#8(無色透名祭公開曲)
「無色で透明な私たちは互いに融合しながらも、他方で消えない血液と己の半身を希求する。 だからこそ、私は互いを解体させられるほどの、血液たちの接触と消失を望んでいる。」
実装#9
「この手。この指。この爪。この皮膚。この身体。この弦。この電波。この通信。この線。この音。この画面。この合成音声音楽。この映像。この日々。この生活。私のすべて。」
2022.10.10→11月に変更
・動画公開予定(2本)
実装#10
「切り落とされた半身を抱え続ける私たちは、その残りを愛するための方法を求めている。だからこそ、私は理由もなく切り/離され、そして電波上で出会う貴方のことが、どうしても必要なのだ。」
・アルバム『思考実装』リリース
クロスフェード動画公開
実装#1 https://www.nicovideo.jp/watch/sm38968425
実装#2 https://www.nicovideo.jp/watch/sm39224978
実装#3 https://www.nicovideo.jp/watch/sm39481424
実装#4 https://www.nicovideo.jp/watch/sm39496094
実装#5 https://www.nicovideo.jp/watch/sm39829243
実装#6 https://www.nicovideo.jp/watch/sm40364529
実装#7 https://www.nicovideo.jp/watch/sm40952503
