https://note.com/ukiyojingu/n/n9b705462ba0e?sub_rt=share_pw この音楽は、誰にとっても正しく聞かれないかもしれない。「正しく時間を過ごす」ことを提案するこの声の価値は、矢継ぎ早に音楽を生産し消費する「あなた」が飛ばした時間に価値があると筆者は思う。だからこそ、この音楽は今のこのタイミングで出すことに価値を感じている。この70時間を超えるとこの楽曲に価値があるのか定かではない。非公開になる可能性もあるが、それでもなお、ここで提案を出してみたいと思うのだ。2024年6月8日、私たちは突如として切断された。電子回路から逃避する機会を不意に得た私たちは、それでもなお、電子回路の欲望に従属することを望んだ。そうして私たちはまた、巨大な渦の中に巻き込まれてゆく。大衆への理解と先端的な表現の間でアンビバレントに揺れ動く映像たちはいま、前者のほうへ天秤を傾けつつあるだろう。そうしてまた、この季節が来た。この72時間弱の時間において、感性化された私たちは極度なまでに環境へ最適化された「気持ち良い」映像を作り出そうとする。それはまるで、アーキテクチャが提供する領土への批判性を一切欠いているだろう。機械状隷属と社会的服従の交差点にいる私たちは、この渦への自律した視点をもはや持てない。私の作るこの映像は、そんな機械による領土化への抵抗としての脱領土的戦略である。インスタントで分かりやすく設計されたアーキテクチャに対し、切断された私の生活そのものの記述実践は、聞き手にむしろ不快さを与えるかもしれない。しかしながら、そうした不快さこそ、私たちにとって価値がある。それは機械のテリトリーに対し、私たちが完全に従属していないことを示してくれるのだ。しかしながら、この離脱は2つの理由により、不完全ほかならぬものとして帰着する。一つにはこの映像が美的感性的テリトリー内部で行われている点においてアルゴリズムから脱出しきれていないこと、もう一つにこの映像そのものがアルゴリズムによる整形手術を受けていることに起因する。映像の言葉は私の手記のもと、アルゴリズムによる生成支援(機械による「委任されたパフォーマンス」)を受け生まれ、そしてアルゴリズムにより生成された声により出力される。これらはデジタル空間内部からの逃避を目指す私の思想とは裏腹に、私を再度デジタル空間に引き込むのだ。再領土化のプロセスが脱領土による主体の自由を獲得させないように、私たちは絶えず何かの体制に巻き込まれる。そんな不完全性こそ、この不自由で退屈とも言える私たちの生活そのものではなかろうか。そのうえでいかに生活を展開するか、領土のなかでいかに動き続けるかを、私たちは問われているのではなかろうか。