會葬人のなかには保下田の久六の兄弟分で武蔵家周太郎といふ次郎長の親類頭の姿もあった。森の石松から仔細を聴いた周太郎は久六とは今後つきあはぬ、奴の乾分に遭ったら命をとると言ふ。これを軒下で聴いた久六の乾分がゐました。名は熊五郎「おしやべり熊」と仇名される彼もまた、これを聴いて久六にすっかり愛想を尽かし、石松の罵りを親分に聞かせてやらうと早速保下田村へと走ります。それを聴いた久六は……────────────────なぜ今更この清水次郎長伝をポストしたかと申しますと、いま私たちが当然だと信じてゐる「平和主義」といふ主義の実態を、視聴者の皆さんと、どうしても確認する必要があると思ったからで御座います。こゝは紙幅に限りがありますので、詳しくはこの記事をお読みください。↓ https://misora-tsushin.hatenadiary.com/entry/2026/05/03/124635 ────────────────御存じ先代 広沢虎造の、この有名な次郎長伝はいったい何に取材した物語か。およそ清水次郎長の物語の原典は、ひろく黔首に膾炙してゐた次郎長の口伝を補完するかたちで著された『東海遊俠傳 一名次郎長物語』でございます。 https://dl.ndl.go.jp/pid/900130 その出來を探れば後に明治大帝の侍従になった山岡鉄舟に逢着いたします。鉄舟は幕末の剣豪であり、彼の紹介で一時次郎長に望まれて次郎長の養子になった天田五郎といふひとがあった。このひとの父は磐城国は平藩 安藤対馬守の家来、甘田平太夫といふ侍であり、後に五郎は鉄舟の門下で國學を學ぶ。この天田五郎が次郎長の恩義に報いるために記したのがかの『東海遊侠伝』でございます。するとこれは又聞きのお噺なぞではない。今日的に謂ふなれば「現場に入って取材したドキュメンタリー」なのだから、道理で眞に迫ってゐるわけです。御維新に伴って次郎長は在所に裨益する事業を起こし、本書が出版されたときには旣に貸元ではなかった。にも關はらず彼はこのとき不条理にも、新政府の「賭博犯處分規則」が遡求して咎められ、逮捕されてゐた。本書が出版されたことで次郎長への同情と支持が全国に広がり、明治17年に捕縛された次郎長であったが、翌年の18年には釋放されたのでした。────────────────この天田五郎が山岡鉄舟の門下で學んだ國學の名著を復刊いたしました。 https://amzn.asia/d/eEXyv51