マイリスト 早稲田大学歌集
wsd さんの公開マイリスト 行進歌「煌々五千の炬火は」(明治35年) 応援歌「敵塁如何に」(明治38年) 校歌(明治40年) 逍遥歌(大正9年) 第一応援歌「競技の使命」(昭和3年) 第二応援歌「ああ若き日の血は躍る」(昭和3年) 第三応援歌「天に二つの日あるなし」(昭和3年) 第四応援歌「日輪輝く」(昭和5年) 第五応援歌「大地をふみて」(昭和5年) 第六応援歌「紺碧の空」(昭和6年) 応援歌「玲瓏の天」(昭和7年) 応援歌「仰げよ荘厳」(昭和9年) 応援歌「早稲田をどり」(昭和9年) 応援歌「怒濤の歓呼」
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早稲田大学創立60周年記念歌 若き学徒の歌
昭和15年11月5日、戸塚運動場にて大学創立60周年記念式典が行われた。これを祝し、ともに紀元2600年を奉祝するため、学内公募により作られた歌である。昭和12年の盧溝橋事件に端を発する支那事変(いわゆる日中戦争)はその戦線を拡大しつつあり、大学にも時代情勢が強く影響したことを示す曲となった。昭和18年11月15日には早稲田大学出陣学徒壮行会が執り行われ、本学六千余名の出陣学徒によって高らかに歌われたという。この録音で歌われているのは一、三、四番。四番の歌詞表記を「八紘為宇」としたのは、早稲田学報昭和15年11月号の記述に基づくもの)。mylist/4693634
2:02|2008年03月31日 13:51:54 投稿
早稲田大学応援歌 早稲田をどり(勝てよ早稲田)
昭和9年作。作詞は英文科卒の作家・作詞家 長田幹彦、作曲は細田義勝。囃子言葉で作られた異色の応援歌である。歌唱は流行歌手 久富吉晴、渡辺はま子による。mylist/4693634
3:07|2008年03月31日 12:47:05 投稿
早稲田大学応援歌 仰げよ荘厳
昭和9年作。作詞は英文科卒の作家・作詞家 長田幹彦、作曲は日本情緒あふれる旋律で知られる杉山長谷夫。当初はこの録音のようにアップテンポの応援歌として歌われたが、戦後は学生歌としてゆったりと歌われるようになり、現在の「早稲田の栄光」のようなポジションで用いられた。独唱は戦前から戦中に活躍したバリトン歌手 徳山璉による。mylist/4693634
3:09|2008年03月31日 12:29:35 投稿
早稲田大学旧第六応援歌 紺碧の空 【原典版】
昭和6年作。現第一応援歌。作詞は高等師範部在籍の住治男、作曲は後に「オリンピック・マーチ」や「栄冠は君に輝く」などを作曲することになる古関裕而。当時、住は22歳、古関は21歳という、まさに気鋭の二人による応援歌であった。現在演奏される版とは前奏が大きく異なるが、前奏が短縮されたのは昭和33年から。これは、応援効果を高めるため、応援部監督の牛島芳が古関の承諾を得て編曲したものである。昭和6年当時の音源のため、歌詞が聞き取りにくい点はご了承ください。mylist/4693634
3:00|2008年03月01日 19:02:08 投稿
早稲田大学旧第五応援歌 大地をふみて
昭和5年作。作詞は本学卒の児童文学家 小出正吾、作曲は童謡作曲家 草川信。戦後の東京六大学野球復活の折、歌詞が過激であるという理由でGHQより使用が禁止された応援歌である。その際は全曲を歌わず、一節をリフレインして用いられた。それほどまでに人気を博した曲だが、現在では箱根駅伝以外の場面ではほとんど歌われていない。mylist/4693634
2:22|2008年03月01日 18:20:22 投稿
早稲田大学旧第三応援歌 天に二つの日あるなし
昭和3年作。作詞は本学卒の詩人 西條八十、作曲は流行歌の一時代を築いた中山晋平。当代歌謡界の名コンビによる応援歌である。現在に歌いつがれる最古の応援歌であり、今でも時折神宮球場で演奏される。mylist/4693634
1:58|2008年03月01日 17:50:20 投稿
早稲田大学旧第二応援歌 ああ若き日の血は躍る
昭和3年作。作詞は本学中退の大衆作家 三上於菟吉、作曲は日本人初の国際的指揮者 近衛秀麿。イントロとリフレインに手拍子が聞こえることから、当初から手拍子入りで歌うことを想定して書かれたのであろう。校歌に倣ったと思われる「ワセダ」の執拗な連呼も特徴であるが、現在この曲が歌われることはない。昭和3年当時の音源のため、歌詞が聞き取りにくい点はご了承ください。歌唱は早稲田大学応援団で、応援団名義としては最古の録音(現在の早稲田大学応援部とは別組織)mylist/4693634
2:52|2008年03月01日 04:17:11 投稿
早稲田大学旧第一応援歌 競技の使命
昭和3年作。作詞は文学部教授 五十嵐力、作曲は日本における西洋音楽の第一人者 山田耕筰。一番は通常応援時、二番は勝利時に歌われた。山田耕筰らしい実直な旋律は当時の運動部員に盛んに愛唱されたが、歌唱の難しさからか次第に歌われなくなった。昭和3年当時の音源のため、歌詞が聞き取りにくい点はご了承ください。歌唱は現在の早稲田大学グリークラブによる。mylist/4693634
3:07|2008年03月01日 02:56:13 投稿
早稲田大学ラグビー蹴球部 第二部歌 荒ぶる
選手権大会に優勝した時のみ歌うことが許される、ということで有名な曲。成立は第一部歌「北風」と同時期の大正11年頃に遡るようだが、表舞台で歌われるようになったのは昭和25年12月3日の早明戦勝利時から。幻の曲といわれるだけあって、この音源が確認できる唯一の正規録音(もっとも、実況録音ならば他にも存在する。DVD「早稲田大学ラグビー部優勝への軌跡」など)。なお、昭和13年にも録音された記録があるのだが、このレコードは流通した形跡がない。恐らくは私家盤であろう。mylist/4693634
0:49|2008年01月26日 05:26:23 投稿
早稲田大学ラグビー蹴球部 第一部歌 北風
大正11年11月23日、早慶ラグビー戦前のミーティングで歌われたのがはじまり(余談ながらこの試合は、応援過熱のために明治39年以来中断していた早慶スポーツ対抗戦の復活試合であった)。その伝統から、現在でも試合前に歌われているのを聞くことができる。曲はスコットランドの学生歌「Mermaid」からの借用。mylist/4693634
0:48|2008年01月26日 04:15:52 投稿
早稲田大学附属早稲田高等学院 逍遙歌
大正9年作。早稲田唯一の逍遙歌。この年、早稲田大学高等予科を母体に発足した、早稲田大学附属早稲田高等学院(現早稲田大学高等学院)で歌われたもの。歌詞に「戸山ヶ原」とあるのは、当時の高等学院が現在の戸山キャンパス内記念会堂の場所にあったため。徐々に大学でも歌われるようになり、大学では二番冒頭の歌詞「高と稲穂」を「学と稲穂」に替えて歌われた。歌詞には諸説があるが、この録音は比較的古い歌詞に基づいている。作詞は高等学院から本学を卒業後、大学紛争の真っ只中において政経学部長の任に就き、当時の阿部総長より「仁者にして勇あり」と評された烈丈夫 酒枝義旗、作曲は平山嘉三。mylist/4693634
2:14|2008年03月03日 03:38:21 投稿
早稲田大学校歌 【初録音盤】
明治40年10月、早稲田大学では創立25周年を記念し「校歌」が制定された。といっても、いわゆる校歌としてのポジションではなく、創立20周年記念行進歌(sm2137220)と同様、提灯行列用行進曲であった。マーチテンポで書かれているのはそのためで、実際、創立25周年記念式典中には歌われていない。作詞は早稲田文学編集者 相馬御風(「わせだ、わせだ……」は坪内逍遥の校閲)、作曲は宮内庁雅楽寮所属で本学中退の東儀鉄笛。なお、俗に「都の西北」と呼ばれることが多いが、正式な曲名は「早稲田大学校歌」。この音源は昭和3年に録音されたもので、流通盤としては、早稲田大学交響楽団・早稲田大学グリークラブ最古の録音である。mylist/4693634
3:08|2008年01月26日 03:56:46 投稿
早稲田大学旧応援歌 敵塁如何に
明治38年11月12日、戸山球場における早慶野球戦第3戦で披露された、早稲田最初の応援歌。昭和50年頃までは(部分的にではあったにせよ)神宮球場で歌い継がれていた。曲は小山作之助「敵は幾万」からの借用。応援歌における曲の借用(いわゆる替え歌)は現在でも多く見受けられるが、早稲田においては他に大正年間の「見よや早稲田の健男児」(原曲「リパブリック賛歌」)、「ああ愉快なり」(原曲「うさぎとかめ」)などが確認できる程度で、昭和以降はオリジナルの応援歌が作られていくことになる。mylist/4693634
1:11|2008年01月26日 03:45:46 投稿
早稲田大学創立20周年記念行進歌 煌々五千の炬火は
明治35年10月19日、東京専門学校は創立20周年をもって早稲田大学と改称し、記念式典が催された。式典後、全学5000人が「煌々五千の炬火は」と歌いながら早稲田から皇居前まで提灯行列をなしたという。この曲は現在確認できる最古の早稲田ソングであり、明治40年に校歌(いわゆる「都の西北」)が制定されるまで、事実上の校歌として用いられていた。曲は永井建子「元寇」からの借用、歌詞は坪内逍遙による。画像は当日撮られた写真で、中央上部の提灯に「早」の文字が確認できる。なお、完全な録音は存在せず、この録音で歌われているのは一、二、六番。mylist/4693634
0:57|2008年01月26日 03:17:52 投稿