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【きずゆか中世史(補遺1)】 足利尾張家はいつ斯波になったのか? ~三宝院満済の視点から~
八十八(やそや)です。
室町幕府の三管領家の一角を占めた斯波家はかつて足利尾張家だった。この動画はこの足利尾張家がいつ斯波家になったのかを考察するものです。なお、本動画は裏足利家の興亡シリーズの補遺にあたります。また本動画にていわし@超ビビリさん主催の「解説動画祭 ~ニコニコアカデミー~」に参加させていただきます。
関連動画!
【きずゆか中世史:裏足利家の興亡】
前々:斯波家って結局何(前編) sm41872489
前 :斯波家って結局何(後編) sm41937767
X:https://twitter.com/yasoya_night
なお、今回の動画は30分越えなので、前回動画の広告者様の紹介並びに参考文献、お借りしたものは以下リンク先に表記させていただきました。
X:https://twitter.com/yasoya_night/status/1720656809583886404
(参考文献:敬称略)
満済准后日記人名索引:満済准后日記研究会編
満済准后日記:続群書類従補遺一 続群書類従完成会編,宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム,大日本史料データベース、国立国会図書館デジタルコレクション
看聞御記(看聞日記):続群書類従補遺二 続群書類従完成会編、大日本史料データベース
斯波氏の動向と系譜:木下聡(管領斯波氏 木下聡編著所収)
足利将軍と御三家:谷口雄太
足利一門守護発展史の研究:小川信
研究対象は細川・畠山・斯波氏だけでよいのか?:谷口雄太(初期室町幕府研究の最前線 亀田俊和編 日本史史料研究会監修所収)
室町殿の"身体護持"を担う門跡寺院と護持僧:生駒哲郎(「室町殿」の時代 安定期室町幕府研究の最前線 久水俊和編 日本史史料研究会監修所収)
武家護持僧:佐藤稜介(足利将軍辞典 木下昌規・久光俊和編所収)
満済:森茂暁
増補改訂新版 日本中世史入門:論文を書こう:秋山哲雄、田中大喜、野口華世
※11/4 さっそく視聴者様の査読をいただき、訂正しました。ありがとうございます。
10:29 基元冬 → 基冬に訂正しました。
18:41 義持と義教は兄弟 → あかりちゃんの台詞訂正しました。
31:34 義郷は持有の異母兄→ 同母兄に訂正しました。
2011年春の京都に行ってきた(3)【醍醐寺】
地下鉄で移動。醍醐駅から桜の名所、醍醐寺にやってきました。
その2→sm14214956/その4→sm14252534 京都関連動画→mylist/15106515
他HD動画→mylist/15759523 アップ一覧他→mylist/15106514 user/12128395
京都の桜の開花状況(2013/3/24)
2013年3月24日撮影した京都の桜の開花状況です。取り急ぎアップしてみました。
いずれも枝垂れ桜で、大石神社が六分咲き・岩屋寺が七分咲き・醍醐寺の三宝院が七分咲き・霊宝館が八分咲き、伽藍が三~四分咲き、花山稲荷神社が見頃、宇治市植物公園が見頃、地蔵院(井手町)が五分咲きでした。
ソメイヨシノはいずれも開花前か開花したばかりで今週末あたりが見頃になりそうです。
京都関連動画→mylist/15106515 他HD動画→mylist/15759523
アップ一覧(その1)→mylist/15106514 (その2)→mylist/33326050
【神道シリーズ・シーズン2】第7回・両部(真言)神道の理論書(真言付法纂要抄・中臣祓訓解・麗気記など)
今回は、両部神道を形成した両部神道の理論書の主なものを紹介したいと思います。
まずは真言宗小野流(三宝院流の系統)の成尊(せいぞん)著作の「真言付法纂要抄(しんごんふほうさんようしょう)」、そして伊勢神宮の仙宮院で生まれた「中臣祓訓解(なかとみはらえのくんげ)」、それから室生山で生まれた御流神道(真言系)の「麗気記(れいきき)」の三つを中心に紹介します。
特に後者2著は後の伊勢神道や吉田神道の形成に絶大な影響を与えて行くことのなります。
【神道シリーズ】第44回・八百万の神とは?(仏神・外国神・人格神・家祖神・職祖神・女性神・・)
八百万の神と言えば、日本にはありとあらゆる所に神様がいるというイメージで、特に保守愛国系の人たちの間では
「八百万の神こそは神道」と言う人が多いですが、実は、八百万の神とは、縄文のアニミズムから生まれたものでもなければ、古事記・日本書紀に出てくる多くの神々そのものが実際に存在した日本各地の神々を取り上げてるわけでもなく、奈良時代から平安時代にかけて雑密や純密と言った密教系の仏教勢力を中心に形成された山岳信仰や地方信仰が確立していく中で、本地垂迹説的に後世になってから古事記や日本書紀の神々が(密教系の中世神学によって)あてはめられて行ったというのが実体です。
古事記や日本書紀に出てきた数々の神々は基本的に名前の羅列だけでその背景の詳細が書かれてるものではありませんでした。
それが、真言宗(三宝院)や天台宗(聖護院)の密教系神道を通じて本尊を仏の眷属としつつ、その垂迹(仮の姿)としての神々として古事記や日本書紀に名前の羅列だけだった神々を借用し(これを比定と言います)、中世の神道説(これが現在まで地方祭祀に反映されて行きますが)が形成され、定着して行きます。
そこには、外国神(中国・朝鮮からの播神)や仏教天部の神々、道教の神々、ヒンズー教の神々などがさまざまな形で八百万の神を形成して行く姿が見られます。
一方、中世以降の御霊信仰(古事記・日本書紀無関係)なども仏教(密教)の法会によって慰撫するという形で鎮霊・除霊がされ、天神などの御霊も八百万の神の一部となって行きます。
【神道シリーズ】第42回・両部神道④吉野修験(八百万の神信仰の始まり)
日本で最初の山岳信仰が始まったのは、671年に役小角が葛城山に登り、蔵王権現という神様を感得(インスピレーションで頭の中に現れること)し、桜の木で蔵王権現を掘って葛城山に祀ったところから始まると言われています。
山そのものに対する畏敬のような原始信仰は日本を含め世界中ありとあらゆるところにあった(むしろ無いところを探すほうが大変w)わけですが、単純な自然信仰としての山信仰の時代は人々が山に登るということはなかったのですが、日本で6世紀頃から朝鮮半島(新羅)から伝わった雑密(ぞうみつ)と呼ばれる初期の密教は不動明王や孔雀明王の呪術の法に基づきながら山に登り山岳修行の道を開いて行きます。
7世紀後半に役小角が葛城山に登るり、蔵王権現という祭神が成立すると、その蔵王権現山岳信仰は全国へ広がり、日本の山岳信仰は雑密の優婆塞(在家の僧侶)たちによって普及します。
9世紀になり真言密教が伝わり、真言僧の聖宝が醍醐寺(三宝院)を根本道場として吉野修験の建設に乗り出して行き、朝廷からの援助も後押しして、吉野は真言密教の修験の場となり、吉野は両部神道(真言密教系神道)で言うところの「金剛界」(熊野は「胎蔵界」)とされ、蔵王権現は「金剛蔵王権現」と称されるようになり、それは今日にまで至ることになります。
もふと仁王2 part42【醍醐寺:前半戦】
醍醐寺は、京都府京都市伏見区醍醐東大路町にある真言宗醍醐派総本山。
醍醐の花見は、秀吉がその最晩年に京都の醍醐寺三宝院裏の山麓において催した花見の宴で、豊臣秀頼・北政所・淀殿ら近親の者を初めとして、諸大名からその配下の女房女中衆約1300人を召し従えた盛大な催し、とのこと。(by Wikipedia
いよいよ終盤戦。