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【講義アーカイブ】『五輪九字明秘密釈』を読む 第13回(講師:亀山隆彦)[2021年7月28日]
※ この講義のレジュメ( http://ow.ly/QFQT30rPkmO )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
院政期を代表する真言密教僧、覚鑁(1095~1144)には既にまとまった研究がいくつも存在するが、それらは等しくある研究課題を克服できないままと考える。日本仏教史であれ真言密教史であれ、従来の研究は常に覚鑁を一つないし複数の思想潮流の「中途」に位置付け、その観点からしか同僧とその思想の意義を分析してこなかった。
具体例をいくつか挙げておくと、覚鑁は空海没後、荒廃の極みにあった高野山と真言教学を「復興」し、後の真言宗隆盛の礎を作ったと先ず主張される。あるいは鎌倉中期の頼瑜(1226~1304)に先んじて、後の新義真言教学の基礎を樹立したともいわれる。さらに平安「旧」仏教から鎌倉「新」仏教への転換期に生き、それらの橋渡し役となる、法然や親鸞にとっての先駆の役割を果たしたと説かれることもある。今日の古義と新義の両真言宗、あるいは鎌倉「新」仏教を目的地とする道程の途中に、覚鑁のための場が設けられてきた。
フランスの哲学者であるルイ・アルチュセール(1918~1990)の言葉を借りれば、覚鑁は常に「目的地」を想定し「前未来形」で書かれる歴史の中で解釈され、その外に出ることは稀であった。このような「目的論的」(teleological)な理解から覚鑁とその言葉を解放し、同僧の思想の全体性・体系性を回復することこそが、本講義の最終的な目標である。
具体的には平安末期の日本仏教界と真言密教の状況を細かく把握した上で、覚鑁の主著ともいわれる『五輪九字明秘密釈』の読解を試みる。『五輪九字明秘密釈』は、非常に複雑な構造を有す文献でありながら、例えばその「密教浄土教」的な主張ばかり強調される等、総体として本書を読む試みはほとんどなされてこなかった。本講義では、まさにこの『五輪九字明秘密釈』を総体として読み、その中に隠された体系を解明すると共に、覚鑁の言葉や思考を規定していただろう深層の「規範」(paradigm)についても分析したい。
【講義アーカイブ】『成唯識論』を読む 第19回(講師:師茂樹)[2021年7月14日]
※ レジュメ( http://ow.ly/Xw5F30rNN7F )と現代語訳①(〜103ページ)( http://ow.ly/enXn30rA57W
)、現代語訳②(104ページ〜)( http://ow.ly/XJTv30rNN7N )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。今回は、現代語訳①の99ページから読んでいます。
『成唯識論』(じょうゆいしきろん)は、唯識思想を大成したとされる世親(ヴァスバンドゥ)の『唯識三十頌』に対する注釈書を、三蔵法師・玄奘(602-664)が編集・翻訳したとされる文献です。冒頭(第1〜2巻)で我(アートマン)と法(ダルマ)の実在を主張する諸説を徹底的に批判したあと、唯識思想の大きな特徴である八識説、すなわちアーラヤ識(第2〜4巻)、マナ識(第4〜5巻)、六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)と煩悩などの心所法(第5〜7巻)について説明されます。続いて、あらゆるものが識を離れないこと(一切唯識)について説明され(第7〜8巻)、空思想の唯識思想的説明である三性・三無性説が説かれます(第8〜9巻)。そして最後の第10巻では、修行の階梯が明らかにされます。
東アジアにおける唯識思想はこの『成唯識論』の注釈・解釈を中心に発展しました。前近代の日本仏教において大きな勢力を持っていた興福寺が、根本聖典の一つとしていたことでも知られています。東アジア仏教、日本仏教を考える上で大変重要な文献です。
これほど重要なテキストでありながら、現在のところ『成唯識論』を手軽に読めるような状況ではありません。本講義は、『成唯識論』の通読を試みるものです(したがって、全何回になるかはわかりません)。あまり細かい議論を追いかけることはせず、最後までたどり着くことを目指します。
【書評チャンネル in シラス】第2回: 「批判仏教」とは何だったのか
「書評チャンネル in シラス」第2回のアーカイブです。
1980年代の仏教学界では、「如来蔵思想は仏教にあらず」「本覚思想批判」などといった挑発的なステートメントとともに、仏教とは何か?という問題提起と、それに対する批判、議論が巻き起こりました。後に「批判仏教 Critical Buddhism」と総称されるようになるその運動は、一部の海外での展開を除くと、現在ではほとんど話題になることはありません。「批判仏教」とは何だったのか。その意義はどこにあるのか。代表的な著作をとりあげて「書評」を行いたいと思います。
【講義アーカイブ】『五輪九字明秘密釈』を読む 第12回(講師:亀山隆彦)[2021年6月23日]
※ この講義のレジュメ( http://ow.ly/zVAv30rML8A )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
院政期を代表する真言密教僧、覚鑁(1095~1144)には既にまとまった研究がいくつも存在するが、それらは等しくある研究課題を克服できないままと考える。日本仏教史であれ真言密教史であれ、従来の研究は常に覚鑁を一つないし複数の思想潮流の「中途」に位置付け、その観点からしか同僧とその思想の意義を分析してこなかった。
具体例をいくつか挙げておくと、覚鑁は空海没後、荒廃の極みにあった高野山と真言教学を「復興」し、後の真言宗隆盛の礎を作ったと先ず主張される。あるいは鎌倉中期の頼瑜(1226~1304)に先んじて、後の新義真言教学の基礎を樹立したともいわれる。さらに平安「旧」仏教から鎌倉「新」仏教への転換期に生き、それらの橋渡し役となる、法然や親鸞にとっての先駆の役割を果たしたと説かれることもある。今日の古義と新義の両真言宗、あるいは鎌倉「新」仏教を目的地とする道程の途中に、覚鑁のための場が設けられてきた。
フランスの哲学者であるルイ・アルチュセール(1918~1990)の言葉を借りれば、覚鑁は常に「目的地」を想定し「前未来形」で書かれる歴史の中で解釈され、その外に出ることは稀であった。このような「目的論的」(teleological)な理解から覚鑁とその言葉を解放し、同僧の思想の全体性・体系性を回復することこそが、本講義の最終的な目標である。
具体的には平安末期の日本仏教界と真言密教の状況を細かく把握した上で、覚鑁の主著ともいわれる『五輪九字明秘密釈』の読解を試みる。『五輪九字明秘密釈』は、非常に複雑な構造を有す文献でありながら、例えばその「密教浄土教」的な主張ばかり強調される等、総体として本書を読む試みはほとんどなされてこなかった。本講義では、まさにこの『五輪九字明秘密釈』を総体として読み、その中に隠された体系を解明すると共に、覚鑁の言葉や思考を規定していただろう深層の「規範」(paradigm)についても分析したい。
【講義アーカイブ】生成と多重視点の仏教学:「論争」から考える日本仏教の思想 第二十二回(近世編7)(講師:亀山隆彦)[2021年6月19日]
※ この講義のレジュメ( http://ow.ly/MSAd30rML84 )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
この講義では、様々な「視点」(パースペクティブ)とその切り替えを鍵に、日本仏教の思想について考えてみたいと思います。
例えば真言密教と空海、専修念仏と法然などが分かりやすいですが、我々はしばしば、個別の仏教思想と僧個人の密接な繋がりを前提に仏教の歴史を考えます。しかし、それこそ真言密教を空海の思索や内面の産物とするように、それぞれの思想を個々の僧に還元してよいか疑問は尽きません。
それは、決して歴史的な「視点」ではなく、むしろ近代の我々が考案した思想史の「視点」なのではないでしょうか?詳しくは講義内で紹介しますが、そのような我々の近代の「視点」を打ち砕く歴史的な物証は、既に多数発見されています。
したがって、むしろ次のように考えるべきかも知れません。
奈良・平安から江戸・明治までの日本仏教の歴史をふりかえるに、それまでにない斬新な仏教理解が登場する背景として、常に僧達の「多重視点」(マルチ・ペースペクティブ)が存在しました。その「多重視点」の交差から、真言密教も、天台本覚思想も、専修念仏も、純粋禅も生成してきました。
(あるいは、我々の「多重視点」も交差し、新たな仏教の理解を生成し続けているのかも知れません。)
僧達の「多重視点」がもっとも鮮明に観察できる事象がなにかといえば、彼らの間の「論義」「談義」、広義の「論争」でしょう。インドや中国、チベットと同じく、日本の仏教にも長い論争の歴史があります。それは奈良から平安時代の初めにかけて輸入された「空有の諍論」に始まり、中世の諸宗の組織的で洗練された論義の伝統、そして近世のキリスト教を対象とする異端論争へつながっていきます。
この講義では、上に述べた「視点」や「多重視点」をキーワードに日本仏教の論争の歴史を概観し、その思想の生成の局面についてお話します。
【講義アーカイブ】寄付講座「知恵の庭」第2シーズン第3回「近現代美術の中の仏教的主題」(講師:君島彩子)[2021年6月13日]
※ 本講義の配布資料はありません。
今回の講義では、前近代から信仰の対象であった仏像や仏画が明治維新以降どのように変化したのか、さらに現代美術にどのように接続しているのか、実際の作品をあげながら講義いたします。
虚空蔵菩薩 真言 21返 mantra 【記憶力増進】
虚空象菩薩様の御真言です。
【ノウボウアキャシャキャラバヤオンアリキャマリボリソワカ】
虚空蔵菩薩様は、宇宙全体に生きている雄大な智恵を一身にお持ちになられている仏様です。弘法大師様は青年時代に虚空象菩薩様の真言を100万遍お唱えする虚空蔵菩薩求聞持法を修行され仏様の智恵を得られました。
年忌では、33回忌を司る仏様です。
御真言は3回か、7回か、21回か、108回唱えます。□
※宗派や伝により唱え方は様々です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ご視聴いただきましてありがとうございます。□
毎月28日には、不動護摩供を厳修しております。どなたでもご参拝いただけます。ニコニコで生放送を配信しています。(会員限定)
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【講義アーカイブ】『成唯識論』を読む 第18回(講師:師茂樹)[2021年6月9日]
※ この回は配信が不安定で、アーカイブ映像もあまりよくありませんが、ご了承ください。声は問題ないと思います。
※ レジュメ( http://ow.ly/x9Hf30rKeYw )と現代語訳( http://ow.ly/enXn30rA57W )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。今回は、現代語訳の96ページから読んでいます。
『成唯識論』(じょうゆいしきろん)は、唯識思想を大成したとされる世親(ヴァスバンドゥ)の『唯識三十頌』に対する注釈書を、三蔵法師・玄奘(602-664)が編集・翻訳したとされる文献です。冒頭(第1〜2巻)で我(アートマン)と法(ダルマ)の実在を主張する諸説を徹底的に批判したあと、唯識思想の大きな特徴である八識説、すなわちアーラヤ識(第2〜4巻)、マナ識(第4〜5巻)、六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)と煩悩などの心所法(第5〜7巻)について説明されます。続いて、あらゆるものが識を離れないこと(一切唯識)について説明され(第7〜8巻)、空思想の唯識思想的説明である三性・三無性説が説かれます(第8〜9巻)。そして最後の第10巻では、修行の階梯が明らかにされます。
東アジアにおける唯識思想はこの『成唯識論』の注釈・解釈を中心に発展しました。前近代の日本仏教において大きな勢力を持っていた興福寺が、根本聖典の一つとしていたことでも知られています。東アジア仏教、日本仏教を考える上で大変重要な文献です。
これほど重要なテキストでありながら、現在のところ『成唯識論』を手軽に読めるような状況ではありません。本講義は、『成唯識論』の通読を試みるものです(したがって、全何回になるかはわかりません)。あまり細かい議論を追いかけることはせず、最後までたどり着くことを目指します。
【講義アーカイブ】『五輪九字明秘密釈』を読む 第11回(講師:亀山隆彦)[2021年5月26日]
※ この講義のレジュメ( http://ow.ly/GKwd30rJiGQ )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
院政期を代表する真言密教僧、覚鑁(1095~1144)には既にまとまった研究がいくつも存在するが、それらは等しくある研究課題を克服できないままと考える。日本仏教史であれ真言密教史であれ、従来の研究は常に覚鑁を一つないし複数の思想潮流の「中途」に位置付け、その観点からしか同僧とその思想の意義を分析してこなかった。
具体例をいくつか挙げておくと、覚鑁は空海没後、荒廃の極みにあった高野山と真言教学を「復興」し、後の真言宗隆盛の礎を作ったと先ず主張される。あるいは鎌倉中期の頼瑜(1226~1304)に先んじて、後の新義真言教学の基礎を樹立したともいわれる。さらに平安「旧」仏教から鎌倉「新」仏教への転換期に生き、それらの橋渡し役となる、法然や親鸞にとっての先駆の役割を果たしたと説かれることもある。今日の古義と新義の両真言宗、あるいは鎌倉「新」仏教を目的地とする道程の途中に、覚鑁のための場が設けられてきた。
フランスの哲学者であるルイ・アルチュセール(1918~1990)の言葉を借りれば、覚鑁は常に「目的地」を想定し「前未来形」で書かれる歴史の中で解釈され、その外に出ることは稀であった。このような「目的論的」(teleological)な理解から覚鑁とその言葉を解放し、同僧の思想の全体性・体系性を回復することこそが、本講義の最終的な目標である。
具体的には平安末期の日本仏教界と真言密教の状況を細かく把握した上で、覚鑁の主著ともいわれる『五輪九字明秘密釈』の読解を試みる。『五輪九字明秘密釈』は、非常に複雑な構造を有す文献でありながら、例えばその「密教浄土教」的な主張ばかり強調される等、総体として本書を読む試みはほとんどなされてこなかった。本講義では、まさにこの『五輪九字明秘密釈』を総体として読み、その中に隠された体系を解明すると共に、覚鑁の言葉や思考を規定していただろう深層の「規範」(paradigm)についても分析したい。
【講義アーカイブ】生成と多重視点の仏教学:「論争」から考える日本仏教の思想 第二十一回(近世編6)(講師:亀山隆彦)[2021年5月15日]
※ この講義のレジュメ( http://ow.ly/Jnjx30rI7PD )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
この講義では、様々な「視点」(パースペクティブ)とその切り替えを鍵に、日本仏教の思想について考えてみたいと思います。
例えば真言密教と空海、専修念仏と法然などが分かりやすいですが、我々はしばしば、個別の仏教思想と僧個人の密接な繋がりを前提に仏教の歴史を考えます。しかし、それこそ真言密教を空海の思索や内面の産物とするように、それぞれの思想を個々の僧に還元してよいか疑問は尽きません。
それは、決して歴史的な「視点」ではなく、むしろ近代の我々が考案した思想史の「視点」なのではないでしょうか?詳しくは講義内で紹介しますが、そのような我々の近代の「視点」を打ち砕く歴史的な物証は、既に多数発見されています。
したがって、むしろ次のように考えるべきかも知れません。
奈良・平安から江戸・明治までの日本仏教の歴史をふりかえるに、それまでにない斬新な仏教理解が登場する背景として、常に僧達の「多重視点」(マルチ・ペースペクティブ)が存在しました。その「多重視点」の交差から、真言密教も、天台本覚思想も、専修念仏も、純粋禅も生成してきました。
(あるいは、我々の「多重視点」も交差し、新たな仏教の理解を生成し続けているのかも知れません。)
僧達の「多重視点」がもっとも鮮明に観察できる事象がなにかといえば、彼らの間の「論義」「談義」、広義の「論争」でしょう。インドや中国、チベットと同じく、日本の仏教にも長い論争の歴史があります。それは奈良から平安時代の初めにかけて輸入された「空有の諍論」に始まり、中世の諸宗の組織的で洗練された論義の伝統、そして近世のキリスト教を対象とする異端論争へつながっていきます。
この講義では、上に述べた「視点」や「多重視点」をキーワードに日本仏教の論争の歴史を概観し、その思想の生成の局面についてお話します。
【講義アーカイブ】『成唯識論』を読む 第17回(講師:師茂樹)[2021年5月12日]
※ レジュメ( http://ow.ly/ncFX30rHrNr )と現代語訳( http://ow.ly/enXn30rA57W )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
※ 今回は、現代語訳の「心性本浄説に対する批判」(90ページ)から95ページまで読んでいます。心性本浄説に関連する如来蔵思想の説明などもしています。
『成唯識論』(じょうゆいしきろん)は、唯識思想を大成したとされる世親(ヴァスバンドゥ)の『唯識三十頌』に対する注釈書を、三蔵法師・玄奘(602-664)が編集・翻訳したとされる文献です。冒頭(第1〜2巻)で我(アートマン)と法(ダルマ)の実在を主張する諸説を徹底的に批判したあと、唯識思想の大きな特徴である八識説、すなわちアーラヤ識(第2〜4巻)、マナ識(第4〜5巻)、六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)と煩悩などの心所法(第5〜7巻)について説明されます。続いて、あらゆるものが識を離れないこと(一切唯識)について説明され(第7〜8巻)、空思想の唯識思想的説明である三性・三無性説が説かれます(第8〜9巻)。そして最後の第10巻では、修行の階梯が明らかにされます。
東アジアにおける唯識思想はこの『成唯識論』の注釈・解釈を中心に発展しました。前近代の日本仏教において大きな勢力を持っていた興福寺が、根本聖典の一つとしていたことでも知られています。東アジア仏教、日本仏教を考える上で大変重要な文献です。
これほど重要なテキストでありながら、現在のところ『成唯識論』を手軽に読めるような状況ではありません。本講義は、『成唯識論』の通読を試みるものです(したがって、全何回になるかはわかりません)。あまり細かい議論を追いかけることはせず、最後までたどり着くことを目指します。
【講義アーカイブ】『五輪九字明秘密釈』を読む 第10回(講師:亀山隆彦)[2021年4月28日]
※ この講義のレジュメ( http://ow.ly/NJip30rGlGA )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
院政期を代表する真言密教僧、覚鑁(1095~1144)には既にまとまった研究がいくつも存在するが、それらは等しくある研究課題を克服できないままと考える。日本仏教史であれ真言密教史であれ、従来の研究は常に覚鑁を一つないし複数の思想潮流の「中途」に位置付け、その観点からしか同僧とその思想の意義を分析してこなかった。
具体例をいくつか挙げておくと、覚鑁は空海没後、荒廃の極みにあった高野山と真言教学を「復興」し、後の真言宗隆盛の礎を作ったと先ず主張される。あるいは鎌倉中期の頼瑜(1226~1304)に先んじて、後の新義真言教学の基礎を樹立したともいわれる。さらに平安「旧」仏教から鎌倉「新」仏教への転換期に生き、それらの橋渡し役となる、法然や親鸞にとっての先駆の役割を果たしたと説かれることもある。今日の古義と新義の両真言宗、あるいは鎌倉「新」仏教を目的地とする道程の途中に、覚鑁のための場が設けられてきた。
フランスの哲学者であるルイ・アルチュセール(1918~1990)の言葉を借りれば、覚鑁は常に「目的地」を想定し「前未来形」で書かれる歴史の中で解釈され、その外に出ることは稀であった。このような「目的論的」(teleological)な理解から覚鑁とその言葉を解放し、同僧の思想の全体性・体系性を回復することこそが、本講義の最終的な目標である。
具体的には平安末期の日本仏教界と真言密教の状況を細かく把握した上で、覚鑁の主著ともいわれる『五輪九字明秘密釈』の読解を試みる。『五輪九字明秘密釈』は、非常に複雑な構造を有す文献でありながら、例えばその「密教浄土教」的な主張ばかり強調される等、総体として本書を読む試みはほとんどなされてこなかった。本講義では、まさにこの『五輪九字明秘密釈』を総体として読み、その中に隠された体系を解明すると共に、覚鑁の言葉や思考を規定していただろう深層の「規範」(paradigm)についても分析したい。
薬師如来真言(やくしにょらい)七返 ※宗派や伝により唱え方は様々です。
阿弥陀如来様の御真言です。【オンコロコロセンダリマトウギソワカ】
薬師如来様は手に薬壺をお持ちになられています。その薬で人々の心身の痛みを癒してくださいます。
七七日忌に亡くなられた方をお導きくださる仏様です。
御真言は、3回か、7回か、108回唱えます。□
15.「天山南北」新疆天山 融合する現代の水源保全と地元仏教僧の信仰
Storyline
中国北西部・新疆ウイグル自治区にそびえる天山、その奥深くに位置するバヤンブラク(巴音布魯克)草原では、近代的な水の保全という概念と、水の神聖性に対する地元仏教僧の信仰が天衣無縫に融合している。
これは、中国国際テレビ(CGTN)が16日に公開した新しいドキュメンタリー「天山南北~新疆での生活」で語られた数々の物語の一つだ。この80分間のドキュメンタリーは、新疆ウイグル自治区に住む24人の感動的な物語を取り上げ、社会経済が変化する中で彼らの生活がどのように変化してきたかに着目し、地域内外の固定観念を打ち破り、誤解を解くことも目的としている。
地元の仏教僧たちは水の清浄さを崇拝している。すべての川にはそれぞれの命があり、仏が宿っていると信じている。僧侶にとって、仏を拝むには清らかな水をたむけることが必要不可欠であり、それによって仏の恩恵に感謝し、命の調和を祈る。
<巴潤庫熱(Balun Kure)寺 Tiemerbat Darimzhan住職>
「小さい頃、山々は氷雪に覆われていたが、今はほとんど溶け始めている。こうした変化は、人口増加や環境汚染、地球温暖化によるものだ」
地元政府は、人々の環境保護意識の向上に取り組んでいる。バヤンブラクは国家級自然保護区に指定されたほか、家畜の放牧を制限する「退牧還草」や定住促進など一連の政策措置の取り組みが進んでいる。
Tiemerbat Darimzhan氏は、水源を守る環境保護策が宗教的信仰に合致していると考えているとして政府による取り組みを評価している。
<巴潤庫熱(Balun Kure)寺 Tiemerbat Darimzhan住職>
「動物であろうと人類であろうと、水がなければすべての生き物も生きられない。だから水を特に大切にし、しっかりと守ることが大事だ。先祖伝来の信仰によれば、大地が母親で、天が父親であるという。これがずっと守ってきた教えだ。故に水はある意味で、母なる大地のミルクのようなもので、大切にして守るべきものだ」
【講義アーカイブ】生成と多重視点の仏教学:「論争」から考える日本仏教の思想 第二十回(近世編5)(講師:亀山隆彦)[2021年4月17日]
※ この講義のレジュメ( http://ow.ly/4XSC30rFcC0 )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
この講義では、様々な「視点」(パースペクティブ)とその切り替えを鍵に、日本仏教の思想について考えてみたいと思います。
例えば真言密教と空海、専修念仏と法然などが分かりやすいですが、我々はしばしば、個別の仏教思想と僧個人の密接な繋がりを前提に仏教の歴史を考えます。しかし、それこそ真言密教を空海の思索や内面の産物とするように、それぞれの思想を個々の僧に還元してよいか疑問は尽きません。
それは、決して歴史的な「視点」ではなく、むしろ近代の我々が考案した思想史の「視点」なのではないでしょうか?詳しくは講義内で紹介しますが、そのような我々の近代の「視点」を打ち砕く歴史的な物証は、既に多数発見されています。
したがって、むしろ次のように考えるべきかも知れません。
奈良・平安から江戸・明治までの日本仏教の歴史をふりかえるに、それまでにない斬新な仏教理解が登場する背景として、常に僧達の「多重視点」(マルチ・ペースペクティブ)が存在しました。その「多重視点」の交差から、真言密教も、天台本覚思想も、専修念仏も、純粋禅も生成してきました。
(あるいは、我々の「多重視点」も交差し、新たな仏教の理解を生成し続けているのかも知れません。)
僧達の「多重視点」がもっとも鮮明に観察できる事象がなにかといえば、彼らの間の「論義」「談義」、広義の「論争」でしょう。インドや中国、チベットと同じく、日本の仏教にも長い論争の歴史があります。それは奈良から平安時代の初めにかけて輸入された「空有の諍論」に始まり、中世の諸宗の組織的で洗練された論義の伝統、そして近世のキリスト教を対象とする異端論争へつながっていきます。
この講義では、上に述べた「視点」や「多重視点」をキーワードに日本仏教の論争の歴史を概観し、その思想の生成の局面についてお話します。
【講義アーカイブ】『成唯識論』を読む 第16回(講師:師茂樹)[2021年4月16日]
※ レジュメ( http://ow.ly/cEfc30rEron )と現代語訳( http://ow.ly/enXn30rA57W )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
※ 今回は、現代語訳の3.2.2.2.「種子は本有か新熏か」(84ページ)から「心性本浄説に対する批判」(90ページ)の手前まで読んでいます。
『成唯識論』(じょうゆいしきろん)は、唯識思想を大成したとされる世親(ヴァスバンドゥ)の『唯識三十頌』に対する注釈書を、三蔵法師・玄奘(602-664)が編集・翻訳したとされる文献です。冒頭(第1〜2巻)で我(アートマン)と法(ダルマ)の実在を主張する諸説を徹底的に批判したあと、唯識思想の大きな特徴である八識説、すなわちアーラヤ識(第2〜4巻)、マナ識(第4〜5巻)、六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)と煩悩などの心所法(第5〜7巻)について説明されます。続いて、あらゆるものが識を離れないこと(一切唯識)について説明され(第7〜8巻)、空思想の唯識思想的説明である三性・三無性説が説かれます(第8〜9巻)。そして最後の第10巻では、修行の階梯が明らかにされます。
東アジアにおける唯識思想はこの『成唯識論』の注釈・解釈を中心に発展しました。前近代の日本仏教において大きな勢力を持っていた興福寺が、根本聖典の一つとしていたことでも知られています。東アジア仏教、日本仏教を考える上で大変重要な文献です。
これほど重要なテキストでありながら、現在のところ『成唯識論』を手軽に読めるような状況ではありません。本講義は、『成唯識論』の通読を試みるものです(したがって、全何回になるかはわかりません)。あまり細かい議論を追いかけることはせず、最後までたどり着くことを目指します。
【講義アーカイブ】『五輪九字明秘密釈』を読む 第9回(講師:亀山隆彦)[2021年3月24日]
※ この講義のレジュメ( http://ow.ly/CPOg30rC4sn )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
院政期を代表する真言密教僧、覚鑁(1095~1144)には既にまとまった研究がいくつも存在するが、それらは等しくある研究課題を克服できないままと考える。日本仏教史であれ真言密教史であれ、従来の研究は常に覚鑁を一つないし複数の思想潮流の「中途」に位置付け、その観点からしか同僧とその思想の意義を分析してこなかった。
具体例をいくつか挙げておくと、覚鑁は空海没後、荒廃の極みにあった高野山と真言教学を「復興」し、後の真言宗隆盛の礎を作ったと先ず主張される。あるいは鎌倉中期の頼瑜(1226~1304)に先んじて、後の新義真言教学の基礎を樹立したともいわれる。さらに平安「旧」仏教から鎌倉「新」仏教への転換期に生き、それらの橋渡し役となる、法然や親鸞にとっての先駆の役割を果たしたと説かれることもある。今日の古義と新義の両真言宗、あるいは鎌倉「新」仏教を目的地とする道程の途中に、覚鑁のための場が設けられてきた。
フランスの哲学者であるルイ・アルチュセール(1918~1990)の言葉を借りれば、覚鑁は常に「目的地」を想定し「前未来形」で書かれる歴史の中で解釈され、その外に出ることは稀であった。このような「目的論的」(teleological)な理解から覚鑁とその言葉を解放し、同僧の思想の全体性・体系性を回復することこそが、本講義の最終的な目標である。
具体的には平安末期の日本仏教界と真言密教の状況を細かく把握した上で、覚鑁の主著ともいわれる『五輪九字明秘密釈』の読解を試みる。『五輪九字明秘密釈』は、非常に複雑な構造を有す文献でありながら、例えばその「密教浄土教」的な主張ばかり強調される等、総体として本書を読む試みはほとんどなされてこなかった。本講義では、まさにこの『五輪九字明秘密釈』を総体として読み、その中に隠された体系を解明すると共に、覚鑁の言葉や思考を規定していただろう深層の「規範」(paradigm)についても分析したい。
【講義アーカイブ】最澄・徳一論争を読み解く(生成と多重視点の仏教学 特別講義)(講師:師茂樹)[2021年3月20日]
平安時代初期におきた最澄と徳一の論争は、「三一権実諍論」などとも呼ばれ、日本仏教史のなかでも広く知られた論争である。この論争は、一乗思想と三乗思想、一切皆成仏(すべての衆生がブッダになれる)説と一分不成仏(一部の衆生はブッダになれない)説といったインド以来の対立の延長線上にあり、その最高潮である、という見方がされてきた。しかし、実際に『守護国界章』などの文献を読んでみると、そのような単純な二項対立ではなく、様々な思想がモザイクのように引用されており、そのこみいった議論にたじろぐ人も少なくない。なぜこんなに複雑なのか。そしてなぜ、この複雑な論争が、単純な二項対立として語られてきたのか。
近年、この論争がより広範な思想的対立が絡み合う中で成立したものであることが明らかになっている。特に、奈良時代から平安時代初期にかけての列島の仏教界で大きな問題であった、三論宗と法相宗の対立――いわゆる「空有の論争」が大きな背景としてあった。この対立も、「空」vs.「有」という単純な対立ではなかった。三論・法相の対立や最澄・徳一論争を読み解くには、広範な東アジア仏教思想の文脈を読み解く必要がある。
本講義では、最澄・徳一論争が東アジア仏教思想史の中でどのように位置付けられるのか、近年の研究をふまえつつご紹介したい。そして、この広範な文脈が、一乗/三乗の対立、という二項対立として理解されるきっかけとなった最澄の歴史叙述についても、言及することになるだろう。
※ レジュメ: http://ow.ly/I6HW30rBnKZ
【講義アーカイブ】『成唯識論』を読む 第15回(講師:師茂樹)[2021年3月10日]
※ レジュメ( http://ow.ly/S9iW30rA58L )と現代語訳( http://ow.ly/enXn30rA57W )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
※ 今回から、現代語訳が新しくなりました。今回から八識説の中のアーラヤ識の説明に入っています。
『成唯識論』(じょうゆいしきろん)は、唯識思想を大成したとされる世親(ヴァスバンドゥ)の『唯識三十頌』に対する注釈書を、三蔵法師・玄奘(602-664)が編集・翻訳したとされる文献です。冒頭(第1〜2巻)で我(アートマン)と法(ダルマ)の実在を主張する諸説を徹底的に批判したあと、唯識思想の大きな特徴である八識説、すなわちアーラヤ識(第2〜4巻)、マナ識(第4〜5巻)、六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)と煩悩などの心所法(第5〜7巻)について説明されます。続いて、あらゆるものが識を離れないこと(一切唯識)について説明され(第7〜8巻)、空思想の唯識思想的説明である三性・三無性説が説かれます(第8〜9巻)。そして最後の第10巻では、修行の階梯が明らかにされます。
東アジアにおける唯識思想はこの『成唯識論』の注釈・解釈を中心に発展しました。前近代の日本仏教において大きな勢力を持っていた興福寺が、根本聖典の一つとしていたことでも知られています。東アジア仏教、日本仏教を考える上で大変重要な文献です。
これほど重要なテキストでありながら、現在のところ『成唯識論』を手軽に読めるような状況ではありません。本講義は、『成唯識論』の通読を試みるものです(したがって、全何回になるかはわかりません)。あまり細かい議論を追いかけることはせず、最後までたどり着くことを目指します。
【講義アーカイブ】学侶の世界 第1シーズン 第2回「慈恩会 後編〜竪義」(講師:高次喜勝)[2021年3月6日]
※ この講義のレジュメ( http://ow.ly/kOXt30rzC1H )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。このレジュメは個人で学ぶために提供されているものです。再配布や法会に持ち込むことは厳にお控えください。
南都六宗のひとつである法相宗では、学問を究めることで悟りにいたろうと学侶(学問僧)は精進します。古来、学侶にとって日頃の修学を披露する場が南京三会に代表される大会でした。特に、口頭試問ともいえる「竪義(りゅうぎ)」は学侶の関門として南都北嶺で今も続けられています。法相宗では、宗祖慈恩大師の命日11月13日の慈恩会に併せて「競望者(けもうしゃ)」がある年に限って竪義が執行されます。竪者(受験者)は、春日明神のご神火とともに21日間の前加行(予備試験)を行い、日々の試験を突破して一世一代の竪義に挑みます。
慈恩会竪義と前加行は「学解仏教」や「神仏習合」といった、まさに南都仏教の矜恃を現代に伝えている行です。令和2(2020)年、薬師寺の慈恩会で竪義を遂業した講師が、あまり知られていない学解仏教の世界を紹介します。前編では竪義までの21日間の前加行を中心に、後編は慈恩会と竪義についてお話ししています。法相論義の世界。ご視聴下さい。
講師
高次喜勝(法相宗大本山薬師寺・唯識学寮 研究員)
【講義アーカイブ】『五輪九字明秘密釈』を読む 第8回(講師:亀山隆彦)[2021年2月24日]
※ この講義のレジュメ( http://ow.ly/YoSj30ryhgR )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
院政期を代表する真言密教僧、覚鑁(1095~1144)には既にまとまった研究がいくつも存在するが、それらは等しくある研究課題を克服できないままと考える。日本仏教史であれ真言密教史であれ、従来の研究は常に覚鑁を一つないし複数の思想潮流の「中途」に位置付け、その観点からしか同僧とその思想の意義を分析してこなかった。
具体例をいくつか挙げておくと、覚鑁は空海没後、荒廃の極みにあった高野山と真言教学を「復興」し、後の真言宗隆盛の礎を作ったと先ず主張される。あるいは鎌倉中期の頼瑜(1226~1304)に先んじて、後の新義真言教学の基礎を樹立したともいわれる。さらに平安「旧」仏教から鎌倉「新」仏教への転換期に生き、それらの橋渡し役となる、法然や親鸞にとっての先駆の役割を果たしたと説かれることもある。今日の古義と新義の両真言宗、あるいは鎌倉「新」仏教を目的地とする道程の途中に、覚鑁のための場が設けられてきた。
フランスの哲学者であるルイ・アルチュセール(1918~1990)の言葉を借りれば、覚鑁は常に「目的地」を想定し「前未来形」で書かれる歴史の中で解釈され、その外に出ることは稀であった。このような「目的論的」(teleological)な理解から覚鑁とその言葉を解放し、同僧の思想の全体性・体系性を回復することこそが、本講義の最終的な目標である。
具体的には平安末期の日本仏教界と真言密教の状況を細かく把握した上で、覚鑁の主著ともいわれる『五輪九字明秘密釈』の読解を試みる。『五輪九字明秘密釈』は、非常に複雑な構造を有す文献でありながら、例えばその「密教浄土教」的な主張ばかり強調される等、総体として本書を読む試みはほとんどなされてこなかった。本講義では、まさにこの『五輪九字明秘密釈』を総体として読み、その中に隠された体系を解明すると共に、覚鑁の言葉や思考を規定していただろう深層の「規範」(paradigm)についても分析したい。
【講義アーカイブ】生成と多重視点の仏教学:「論争」から考える日本仏教の思想 第十九回(近世編4)(講師:亀山隆彦)[2021年2月20日]
※ この講義のレジュメ( http://ow.ly/jLhZ30rxJR5 )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
この講義では、様々な「視点」(パースペクティブ)とその切り替えを鍵に、日本仏教の思想について考えてみたいと思います。
例えば真言密教と空海、専修念仏と法然などが分かりやすいですが、我々はしばしば、個別の仏教思想と僧個人の密接な繋がりを前提に仏教の歴史を考えます。しかし、それこそ真言密教を空海の思索や内面の産物とするように、それぞれの思想を個々の僧に還元してよいか疑問は尽きません。
それは、決して歴史的な「視点」ではなく、むしろ近代の我々が考案した思想史の「視点」なのではないでしょうか?詳しくは講義内で紹介しますが、そのような我々の近代の「視点」を打ち砕く歴史的な物証は、既に多数発見されています。
したがって、むしろ次のように考えるべきかも知れません。
奈良・平安から江戸・明治までの日本仏教の歴史をふりかえるに、それまでにない斬新な仏教理解が登場する背景として、常に僧達の「多重視点」(マルチ・ペースペクティブ)が存在しました。その「多重視点」の交差から、真言密教も、天台本覚思想も、専修念仏も、純粋禅も生成してきました。
(あるいは、我々の「多重視点」も交差し、新たな仏教の理解を生成し続けているのかも知れません。)
僧達の「多重視点」がもっとも鮮明に観察できる事象がなにかといえば、彼らの間の「論義」「談義」、広義の「論争」でしょう。インドや中国、チベットと同じく、日本の仏教にも長い論争の歴史があります。それは奈良から平安時代の初めにかけて輸入された「空有の諍論」に始まり、中世の諸宗の組織的で洗練された論義の伝統、そして近世のキリスト教を対象とする異端論争へつながっていきます。
この講義では、上に述べた「視点」や「多重視点」をキーワードに日本仏教の論争の歴史を概観し、その思想の生成の局面についてお話します。
【講義アーカイブ】『成唯識論』を読む 第14回(講師:師茂樹)[2021年2月10日]
※ レジュメ( http://ow.ly/A0eO30rwiHM )と現代語訳( http://ow.ly/pw6f30rhrdD )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
※ 今回は、現代語訳の67ページぐらいから読み進めています。ついに外小破段を読み終えました!
『成唯識論』(じょうゆいしきろん)は、唯識思想を大成したとされる世親(ヴァスバンドゥ)の『唯識三十頌』に対する注釈書を、三蔵法師・玄奘(602-664)が編集・翻訳したとされる文献です。冒頭(第1〜2巻)で我(アートマン)と法(ダルマ)の実在を主張する諸説を徹底的に批判したあと、唯識思想の大きな特徴である八識説、すなわちアーラヤ識(第2〜4巻)、マナ識(第4〜5巻)、六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)と煩悩などの心所法(第5〜7巻)について説明されます。続いて、あらゆるものが識を離れないこと(一切唯識)について説明され(第7〜8巻)、空思想の唯識思想的説明である三性・三無性説が説かれます(第8〜9巻)。そして最後の第10巻では、修行の階梯が明らかにされます。
東アジアにおける唯識思想はこの『成唯識論』の注釈・解釈を中心に発展しました。前近代の日本仏教において大きな勢力を持っていた興福寺が、根本聖典の一つとしていたことでも知られています。東アジア仏教、日本仏教を考える上で大変重要な文献です。
これほど重要なテキストでありながら、現在のところ『成唯識論』を手軽に読めるような状況ではありません。本講義は、『成唯識論』の通読を試みるものです(したがって、全何回になるかはわかりません)。あまり細かい議論を追いかけることはせず、最後までたどり着くことを目指します。
【講義アーカイブ】学侶の世界 第1シーズン 第1回「慈恩会 前編〜前加行」(講師:高次喜勝)[2021年1月30日]
※ この講義のレジュメ( http://ow.ly/Z8AD30ruR8X )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。このレジュメの再配布は厳にお控えください。
南都六宗のひとつである法相宗では、学問を究めることで悟りにいたろうと学侶(学問僧)は精進します。古来、学侶にとって日頃の修学を披露する場が南京三会に代表される大会でした。特に、口頭試問ともいえる「竪義(りゅうぎ)」は学侶の関門として南都北嶺で今も続けられています。法相宗では、宗祖慈恩大師の命日11月13日の慈恩会に併せて「競望者(けもうしゃ)」がある年に限って竪義が執行されます。竪者(受験者)は、春日明神のご神火とともに21日間の前加行(予備試験)を行い、日々の試験を突破して一世一代の竪義に挑みます。
慈恩会竪義と前加行は「学解仏教」や「神仏習合」といった、まさに南都仏教の矜恃を現代に伝えている行です。令和2(2020)年、薬師寺の慈恩会で竪義を遂業した講師が、あまり知られていない学解仏教の世界を紹介します。前編では竪義までの21日間の前加行を中心に、後編は慈恩会と竪義についてお話しています。法相論義の世界。ご視聴下さい。
講師
高次喜勝(法相宗大本山薬師寺・唯識学寮 研究員)
【講義アーカイブ】『五輪九字明秘密釈』を読む 第7回(講師:亀山隆彦)[2021年1月27日]
※ この講義のレジュメ( http://ow.ly/6MhH30rurzY )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
院政期を代表する真言密教僧、覚鑁(1095~1144)には既にまとまった研究がいくつも存在するが、それらは等しくある研究課題を克服できないままと考える。日本仏教史であれ真言密教史であれ、従来の研究は常に覚鑁を一つないし複数の思想潮流の「中途」に位置付け、その観点からしか同僧とその思想の意義を分析してこなかった。
具体例をいくつか挙げておくと、覚鑁は空海没後、荒廃の極みにあった高野山と真言教学を「復興」し、後の真言宗隆盛の礎を作ったと先ず主張される。あるいは鎌倉中期の頼瑜(1226~1304)に先んじて、後の新義真言教学の基礎を樹立したともいわれる。さらに平安「旧」仏教から鎌倉「新」仏教への転換期に生き、それらの橋渡し役となる、法然や親鸞にとっての先駆の役割を果たしたと説かれることもある。今日の古義と新義の両真言宗、あるいは鎌倉「新」仏教を目的地とする道程の途中に、覚鑁のための場が設けられてきた。
フランスの哲学者であるルイ・アルチュセール(1918~1990)の言葉を借りれば、覚鑁は常に「目的地」を想定し「前未来形」で書かれる歴史の中で解釈され、その外に出ることは稀であった。このような「目的論的」(teleological)な理解から覚鑁とその言葉を解放し、同僧の思想の全体性・体系性を回復することこそが、本講義の最終的な目標である。
具体的には平安末期の日本仏教界と真言密教の状況を細かく把握した上で、覚鑁の主著ともいわれる『五輪九字明秘密釈』の読解を試みる。『五輪九字明秘密釈』は、非常に複雑な構造を有す文献でありながら、例えばその「密教浄土教」的な主張ばかり強調される等、総体として本書を読む試みはほとんどなされてこなかった。本講義では、まさにこの『五輪九字明秘密釈』を総体として読み、その中に隠された体系を解明すると共に、覚鑁の言葉や思考を規定していただろう深層の「規範」(paradigm)についても分析したい。
※前編※三木住職の不可思議相談室 2020年総集編「初めての不可思議相談室Ⅱ」
全編をご覧いただくには、有料チャンネルへのご登録が必要になります。
https://ch.nicovideo.jp/fukashigi-soudan/blomaga/ar1899260
ご登録をお済みの方はこちらよりご覧くださいませ。
https://www.nicovideo.jp/watch/so38181195
総集編「初めての不可思議相談室Ⅱ」
今回は、2020年の総集編Ⅱです!
三木住職が解説する、難しい仏教の言葉の意味や、
視聴者の皆さまより頂戴したご質問、ご相談の回答について、
まとめて振り返ります!
初めての方は是非番組の雰囲気を、会員の皆さまは観直しの
機会として、是非お楽しみください!
今回は収録放送となります。
沢山の不可思議なお写真や動画をお寄せ下さり、有難うございます!
引き続き<心霊写真募集中!> です!
三木住職に相談したい、または番組で紹介したい不可思議なお写真をお持ちの方は
番組TwitterのDMまで下記内容を添えてお送り下さい。
・いつ頃、どんな場所で撮影されたものか。
・撮影時の様子や状況
・お写真・動画にまつわるエピソードや後日談
また、お写真だけでなく動画の募集もしております。
ご提供いただいたお写真は番組内で使用させていただきます。
※転載・転用・転借は致しません。
番組Twitterはこちら↓
https://twitter.com/@fukashigi_miki
毎週金曜日に21:00放送予定です。
今回は収録放送となります。
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※全編※三木住職の不可思議相談室 2020年総集編「初めての不可思議相談室Ⅱ」
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今回は、2020年の総集編Ⅱです!
三木住職が解説する、難しい仏教の言葉の意味や、
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まとめて振り返ります!
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引き続き<心霊写真募集中!> です!
三木住職に相談したい、または番組で紹介したい不可思議なお写真をお持ちの方は
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・いつ頃、どんな場所で撮影されたものか。
・撮影時の様子や状況
・お写真・動画にまつわるエピソードや後日談
また、お写真だけでなく動画の募集もしております。
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※転載・転用・転借は致しません。
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毎週金曜日に21:00放送予定です。
今回は収録放送となります。
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②釈迦如来真言
釈迦如来様の御真言です。
【ノウマクサマンダボダナンバク】
仏教を開かれたお釈迦様。ブッダ(目覚めた人)とも言われています。梵字はバク。手塚治虫の漫画にもなっています。
御真言は3回か、7回か、21回か、108回唱えます。□
#釈迦如来#お釈迦さま#ブッダ#真言#マントラ#高野山#上野原#インド
【講義アーカイブ】寄付講座「知恵の庭」第1シーズン 第2回「覚鑁からみる院政期の王権と顕密仏教:高野山大伝法院の創建をめぐって」(講師:郭佳寧)[2021年1月23日]
※ この講義のレジュメ( http://ow.ly/c4PT30rtUC1 )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
講義概要
興教大師覚鑁(1095~1143)は、真言教学を振興するため、当時随一の権力者である鳥羽院の外護を得て高野山において鳥羽院の御願寺として大伝法院を建立し、長く中絶したままの伝法会を再興した。覚鑁聖人における真言密教を復興する一連の活動において、当時の権力の頂点に立つ鳥羽院の外護は絶大な影響力を及ぼしたが、聖人が在世中に経験した高野山、及び当時の宗教界の状況は、必ずしも平穏ではなく、様々な局面で騒乱が起き続けるた時代であったる。そのような覚鑁聖人が生きていた時代は、日本における中世のはじまりであり、いわゆる院政期である。
本講義は、高野山大伝法院創建の経緯及び寺院組織の確立への考察を通じし、大伝法院をめぐる本願鳥羽院の意志とその建立の主体である覚鑁の意図を再確認し、大伝法院の御願寺としての歴史的意義を論ずる。また、諸資料を読解し、高野山大伝法院創建にあらわれる鳥羽院の宗教政策、及び覚鑁が追及する密教実践の実態と王権への認識を検討する。更に、それらの考察を踏まえて、鳥羽院政権のもとに復興された伝法会の儀礼、及び大伝法院という宗教空間建立の意義を改めて考えてみたい。
寄付講座「知恵(スキエンティア)の庭〜人文学の最前線〜」
ラテン語で「知恵」「知識」などを表すscientia(スキエンティア/シエンツィア)は、英語のscience(サイエンス)の元となった言葉です。science(サイエンス)は「科学」と日本語訳され、現在では主に自然科学を指す言葉として使われていますが、元々は学問全般を指す言葉です。連続講義「知恵(シエンツィア)の庭〜人文学の最前線〜」は、若手・中堅研究者による先端的な研究がクロスオーバーする場として企画されました。
本寄附講座は、人文学の「知恵」を未来につなぐために、若手研究者の発表の場を作りたい、という上七軒文庫の志に賛同してくださった小野嶋祥雄氏のご寄付により開講されます。本講座では、発表の機会に乏しい若手研究者とともに、今まさに研究の最前線を切り拓いている研究者にもご登壇いただき、多くの方々に人文学の面白さを知っていただく機会となればと思っています。