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山陽自動車道の傍の側道から 晩秋の厳島の海峡の眺め 広島県廿日市市
旧山陽道付近〜宮島の眺め。錦帯橋へ行くので、国道2号線から阿品台を抜け旧道に入り〜廿日市市の西にある宮浜温泉を過ぎ、大竹市玖波へ抜ける 迂回路からの眺め。抜け道は狭いのだが車の交通は結構多いです。真後ろの少し上には山陽自動車道が走ります。
この辺は大雑把に言いますと旧山陽道(西国街道)が走っていた場所の近くです。
「大野浦を これかととえばやまなしの かたえの紅葉色に出つつ」 今川了俊
<室町時代初期九州探題の今川了俊がこの辺りを九州へ向かう途中詠んだという歌らしいです
南朝方を殲滅し九州を鎮圧する室町幕府の最高司令官でした>
大野浦駅近くを通過した時よく見えそうな場所から大内氏の門山城跡の山をしたから眺めて写真を撮ったのでまたあげます。昔何回か登山で行きました。
真冬の厳島へ2 眺めの良い対岸の岡から「宮島(厳島)」厳島の海峡を眺める
宮島へ向かう途中対岸からの風景2 宮島口の上にある対厳山 の小さな公園から宮島の全景と宮島と本土の間の海峡を眺めの映像。この後宮島へ渡りました。
この公園は例年夏の海上花火大会などでは見物客が多く集まる。だいぶ以前ここから初日の出を見たことがあります。普段はあまり人がいない静かな公園。滑り台の上から撮影しました^^;
バイパスから阿品台を抜け、宮島口あたりの国道2号線を避け西へ向かう抜け道になっているので結構走ることが多い。
ここを下ると更地地区に出て右へ行くと旧山陽道(山側に未舗装路がのこる)沿いの道で新幹線高架や山陽自動車道の下を並走し大竹方面へと続く。左にいくと国道2号線へ合流する。
今川了俊=足利義満から九州探題を拝命し南朝軍と戦った武将、歌人でもあり「難太平記」、紀行文「道行きぶり」などを現す。おおの浦・・・の和歌は〜西国街道を了俊が通過した折に残したもので。道行きぶりに記載されている歌。了俊は宮内から地御前神社へさらに山越えで中山に入り西へ進んだらしいです。
西国街道 玖波宿を出て〜黒川へ向けての高台から海の景色 (広島県大竹市)
昔の西国街道は玖波宿を出ると山麓を黒川村〜小方村〜さらに苦の坂をこえ小瀬川河畔の木野へ出ていた。開発が進み山麓は道路と住宅街となり昔の街道筋はわからなくなっている。
ガイドブックなどでは大筋街道沿いの山裾をゆく道を紹介しており、高台なので景色がよく雰囲気も良い。恵川を越え坂を登った病院があるところから海を眺めた様子。
この辺りは廿日市から山陽自動車道沿いに走る、国道2号線の混雑を避ける抜け道になっており意外に車が多い。転々と景色のいい場所がある。
ここを抜けると黒川あたりに出て亀居城北側を抜け大竹駅方面や山越で立戸(途中動物の彫刻が可愛い河内神社がある)から小瀬川河畔の採石場のある場所にでれる(この間見てきたのでまた動画あげます)
厳島神社外宮「地御前神社」と「地御前本道(ほんみち) 」【まとめ記録編】
サムネ=客人宮と大楠。いくつか画像を追加、整理 し直して記録として流れでまとめておく。
西国街道から宮内串戸あたりで西へ分岐した古い道で、宮内〜地御前へ抜ける。地御前=じのごぜんの意で、本宮厳島神社が御前、本土側が地の御前という意味。
行程=藤掛橋、宮内別れ〜宮内串戸・道の始まり〜御手洗川〜新広島四国八十八ヶ所5番智秀山 観音堂〜真宗 西向寺山門〜西向寺参拝(見事な蓮華松)〜正行寺〜釈迦堂、大歳神社や大銀杏〜地御前神社境内と国道開鑿碑。
明治維新後、旧西国街道に替わり交通の利便性の高い新しいみちが求められ開削され。小己斐峠(井口)〜地御前〜大竹へかけて今の海岸沿いの国道2号線が作られた。それまでは海岸沿いの道路はなく宮内から 峠、山越えのある険しいみちであった。
地御前神社のところまで続く。昔の地御前神社へ至る参詣の道でもあり、生活道として使われた(今も現役)
参考資料=地御前コミュニティセンター地御前の史跡、広島大百科、wikiを参照しています)
20年くらい前は古い街並みなど残っていたようです。現在もまだまだ幾らか町家やその風情が残っている。絵を残しておこう。古い道標なども残っていたり、御堂、お寺、神社、大木などいろいろある。
最近参拝に行くと新しくなった家が増えていますね時代です。
余談〜昔、海側の宮島街道が開かれるまでは、西へ行く道は宮内村から四郎峠を越えて行く(今も迂回路として交通量が多い)旧山陽道(西国街道)しかなかった。ただ、厳島に参詣し、その後 地御前から旧山陽道のおおの中山へ抜けた話が、室町初期の九州探題=今川了俊の道行ぶり(紀行文)にもあり迂回路も存在したようです。山越えですが。
旧厳島神社兼帯社 「大頭(おおがしら)神社」と豪快な妹背の滝 広島県廿日市市大野
厳島神社摂社として推古天皇の時代に創建(603年)された古社。
江戸時代までは厳島神社の(兼帯七社の一つ)兼帯社であった。祭祀や修築の用材提供などを厳島神社が全て行っていた。
大正2年に周囲の開発化が進んだため元宮のあった桑原というところから城山の東の麓にある昔から景勝地で知られた妹背の滝のある現在地へ遷座した。
インター近くの朱の両部鳥居の扁額は東久世熾仁親王の筆。
昔は厳島神社の神事である烏喰式なども境内で行われていたようですが最近はやってないみたい。
この辺りは〜西国街道にあたり長州征伐の時、長州軍VS幕府軍の激戦地の一つ。千人塚も残る。
妹背の滝
雄滝と雌滝の二つがあり雌雄滝、めおと滝とも呼ばれていた。神社遷座の頃か妹背の滝と命名された。
雌滝=落差50mの優雅な滝である。雄滝=落差30mの岩のすごい豪壮な滝である。
城山=厳島と本土の間の海峡を睨んだ大内氏の城で門山城があった山。厳島合戦前に毛利が攻め落として廃城となる。妹背の滝の上の公園から登山道がある。また大野浦駅近くからも登れる。戦国時代などは妹背の滝あたりから敵が攻めてきたり合戦なども行われたようである。
行き方
山陽自動車道の大野インターを降りて、右折します(左へ行くと国道2号線方面や新幹線高架沿いに阿品台団地やバイパス方面へ抜ける)
神社前に市の借りているらしい駐車場があるのでそこへ止めましょう。
国道2号線からインター方面への道を(大野中央)抜けてもいけます。
山陽本線の電車だとJR大野浦駅から30分くらい東へ歩くことになるかな。駅から駅前通りを東へと 向かいスーパー藤三のところを左折して山の方へ両部鳥居を抜けて、大野インター前を過ぎたらすぐ。
厳島神社外宮「地御前神社」と「地御前本道(ほんみち) 」【後編】(西向寺〜釈迦堂〜外宮 地御前神社まで)
西国街道から宮内串戸あたりで西へ分岐した古い道で、宮内〜地御前へ抜ける。地御前=じのごぜんの意で、本宮厳島神社が御前、本土側が地の御前という意味。
行程=〜西向寺参拝(見事な蓮華松)〜正行寺〜釈迦堂、大歳神社や大銀杏〜地御前神社境内と国道開鑿碑。長くなってしまった・・。
明治維新後、旧西国街道に替わり交通の利便性の高い新しいみちが求められ開削され。小己斐峠(井口)〜地御前〜大竹へかけて今の海岸沿いの国道2号線が作られた。それまでは海岸沿いの道路はなく宮内から 峠、山越えのある険しいみちであった。
地御前神社のところまで続く。昔の地御前神社へ至る参詣の道でもあり、生活道として使われた(今も現役)
参考資料=地御前コミュニティセンター地御前の史跡、広島大百科、wikiを参照しています)
20年くらい前は古い街並みなど残っていたようです。現在もまだまだ幾らか町家やその風情が残っている。絵を残しておこう。古い道標なども残っていたり、御堂、お寺、神社、大木などいろいろある。
最近参拝に行くと新しくなった家が増えていますね時代です。
余談〜昔、海側の宮島街道が開かれるまでは、西へ行く道は宮内村から四郎峠を越えて行く(今も迂回路として交通量が多い)旧山陽道(西国街道)しかなかった。ただ、厳島に参詣し、その後 地御前から旧山陽道のおおの中山へ抜けた話が、室町初期の九州探題=今川了俊の道行ぶり(紀行文)にもあり迂回路も存在したようです。山越えですが。
前編行程=藤掛橋、宮内別れ〜宮内串戸・道の始まり〜御手洗川〜新広島四国八十八ヶ所5番智秀山 観音堂〜真宗 西向寺山門まで。長すぎるのでとりあえずここまでで。
晴海臨海公園(宮島海峡を望む海に面した公園)と小方港 広島県大竹市
ローカルスポット。宮島の海峡の西端に面した臨海公園と小方港散策。廿日市のおおの自然観察の森へ森林浴へ行こうとしたが林道通行止めで行けず 大竹に回る。
大竹市玖波の錦龍の滝も通行止めらしいので、国道2号線近くの小方港方面へ。
宮島の隣 阿多多島(牡蠣やはまち養殖などで有名)への航路などが出ている港、漁船なども停泊している。防潮堤では釣り人などもいましたね。
傍には晴海臨海公園があり散策や球技など運動やウオーキングができる デイキャンプも可能らしい。
県がコロナ緊急事態で散策のみおkでありました。瀬戸の島や山が見えて悪くはない。晴れてれば良いでしょうな。海の傍だが木陰がないので夏は暑そうw
西側入り口〜東入り口へ一回りして景色を眺めただけの記録。ストーンアートなどもありました。弥栄ダム建設時に出た岩石を使い市内各所にあるらしい。
【夏の瀬戸内の青い海】宮島と本土の海峡 狭隘部 大野瀬戸、西端の下灘〜鳴川海岸
観光では見ない安芸の宮島(厳島)の別の顔。夏の瀬戸内の青い海と島。
1廿日市の大野瀬戸と呼ばれる厳島と本土の海峡の最短部分。島の浜辺は室浜海岸である。
2下灘〜鳴川の海岸 よくマリンスポーツや海釣りをしている人がいる国道2号線沿いの浜辺あ〜宮島の最西端部分を眺める。西側のコンビナートは隣の大竹市の重化学工業のもの。
鳴川を越えると昔でいえば旧山陽道の玖波宿である