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Voicepeak防長路巡り・三士誠忠碑 と東沢瀉 終焉の地 リメイク版 岩国市横山〜保津〜通津
東澤瀉(たくしゃ)、栗栖天山(てんざん)、南部五竹(ごちく) 幕末岩国領(藩)の三人の尊皇攘夷の志士。
前作は二本でhttps://www.nicovideo.jp/watch/sm406601376分:56秒https://www.nicovideo.jp/watch/sm4073087010分16秒の二本(元動画を読み込み)統合した上でカット、追加等して再編集した。
Voicepeakフリモメン、彩澄りりせにて語りを追加して元動画のSiriのものと入れ替えた。
「
城下町 岩國散策」紫陽花と吉香神社・三士誠忠碑 →前半紫陽花や公園、神社映像の前半をカットし本題である歴史的な話中心の内容に絞り後半5分あたりからを使用している。
幕末岩國三士 陽明学者「東沢瀉(ひがし たくしゃ) 記念館 」と終焉の地は大半をそのまま残し
一部カットして、イヌマキ巨樹の映像を追加増補
BGMを大幅に入れ替えをさせていただき歴史人物紹介へ雰囲気を変えた。
補足的に字幕を追加。
東澤瀉=岩国の吉田松陰という感じの人物。
幕末岩國三士 陽明学者「東沢瀉(たくしゃ) 記念館 」 山口県岩国市保津保津の住宅街
海岸近くJR線路側にある。流罪(先生曰く流刑地で学問が一番進んだという)
赦免後その徳をしたい人が教えを聞きに集まり塾ができたという。
栗栖天山(同じく流刑)=島を島抜け(脱出)し東沢瀉先生を救出する手立てを練るうち周りの理解を得られず漢詩1編を残し自刃。
南部五竹=尊王攘夷派。建尚隊を結成。東、栗栖らと深く交流した。藩政改革の同志で流刑中の東先生救出のため奔走、毛利本藩の有力諸隊 奇兵隊などと連携しようとして失敗し捕縛され刑死。
終焉の地=通津 岩国方面から通津に入り何度か来てる通津のイヌマキ巨樹のすぐ近くでした。
東沢瀉先生事歴〜wiki東沢瀉記事、岩国市観光サイト、現地解説など参照
広告御礼
はに 様
盤上のマジック/ニック 様
ホリー 様
nopposan 様
龍休宗庵 様
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第194回:小西郷の琥陣】
嫌なこと、辛いこと、全部呑みこんじゃる!
明治政府陸軍・海軍の重役を渡り歩いた維新志士:西郷従道(さいごう/じゅうどう または つぐみち)
西郷隆盛の弟であり、兄の隆盛は大西郷と称され、従道は小西郷と称される。
薩摩藩下級藩士:西郷家の三男として生まれ、長男が隆盛でありその年齢差は16歳差。
従道が9歳の時に父が死没した為、当時25歳であった隆盛が兄であり父代わりでもあった。
19歳の頃、尊皇攘夷運動過激派として活動していたが謹慎処分を受け
続く薩英戦争と共に謹慎が解かれ、戊辰戦争にも従軍。
明治維新後は政府重役となり、征韓論政争では従道は隆盛と意見が分かれて反対派に属した。
兄:西郷隆盛はこの政争に敗れて鹿児島へ戻ったが、ここで最悪の事態に陥った。
西郷支持派の士族が隆盛を担ぎ上げて武力蜂起を開始してしまったのである。
従道は明治政府による討伐隊の指揮官として立候補したが
隆盛の弟であり離反の可能性が大いにあった為、政府はこれを拒否。
この最大最後の士族反乱:西南戦争は速やかに鎮圧され、兄:隆盛は亡き人となり
その翌年には自身を弟のように可愛がってくれた大久保利通も暗殺される。
西南戦争後、明治政府の名立たるポストを歴任。
日清戦争を経て海軍に至っては日本史上初の元帥位に至った。
内閣総理大臣に就任するように何度も推されるが、逆賊の弟であることを理由にして断り続けたという。
そして日露戦争が近づく1902年。享年60歳の天寿を全うし、兄たちの元へ旅立った。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第178回:大胆なる弾圧「幕末の風雲児争奪戦」】
一度食らいついたら、離れんぞ!
土佐藩士にして土佐藩参政:吉田東洋の義理の甥:後藤象二郎。
後の板垣退助とは幼少の頃からの幼馴染であり
吉田東洋が開いた鶴田塾では、後の三菱財閥創始者となる岩崎弥太郎と共に学問を修めた。
東洋に推挙される形で土佐藩幡多郡奉行に抜擢され、大坂藩邸の普請奉行に昇進するが
東洋が土佐勤皇党に暗殺されると失脚。
政治的不利に陥ったことから一旦勉学の為に江戸に出て航海術を修めた後に
土佐藩指導者である山内容堂に見込まれて藩政に復帰。公武合体を唱えていた象二郎は
禁門の変後、山内容堂が土佐勤皇党弾圧に動いたことに便乗して
(叔父の仇&失脚の恨みもある為)尊皇攘夷派の急先鋒である土佐勤皇党を弾圧。
土佐勤皇党の盟主である武市半平太を断罪した。
その後、坂本龍馬との交流から政治思想を公武合体派から攘夷派へ転換。
坂本龍馬の船中八策を元に、幕府へ大政奉還建白書を提出し
これが受理されたことから幕府は大政奉還に踏み切った。
上記から坂本龍馬への恩返しとして脱藩罪の取り消しを山内容堂に認めさせたという。
明治維新後は政府要職のポストを得るが、政争(征韓論支持)に破れて辞職。
以降は板垣退助と共に自由民権運動に参加して政府批判へと動くが
それと同時に内閣大臣へ就任するなどの行動は党や派閥を越えた政治家と評される反面
前述の幕末時の思想転換と同様に「お前はいったい誰の味方なのか?」と批判を受けた。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
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白虎隊と楠公精神 〜会津藩・飯盛山の少年たちの悲劇・忠義に敵味方無し・戊辰戦争〜
白虎隊とは、日本の幕末維新における戊辰戦争の一環である会津戦争に際して、会津藩が組織した、武家男子を集めた部隊である。
中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいたほか、幼少組として13歳の少年も加わっていた。
名称は、中国の伝説の神獣「白虎」に由来している。
慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発。
会津藩主で京都所司代も務めた松平容保は、新選組等を傘下に置き尊皇攘夷派を厳しく取り締まった経緯もあり、強硬な佐幕派と見なされ、会津藩は新政府軍の仇敵とされ、新政府軍は会津藩の城・若松城(鶴ヶ城)に攻め寄せた。
重要な進軍路であった十六橋を落とすことに失敗したという防衛戦略上の不備も重なり、本来は城下町防衛の任に当たる予備兵力として組織された白虎隊も、これを支援する形で前線へと進軍した
隊は士中隊、寄合隊、足軽隊から成り、充足数はおよそ340名程度であった。
しかし会津軍の劣勢は如何ともし難く、白虎隊も各所で苦戦を強いられ、最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされた。
このうち一番隊は藩主・松平容保の護衛に当たったが、二番隊は戸ノ口原の戦いで決定的打撃を受けて潰走し、そこで数名の戦死者が出た。
8月23日に負傷者を抱えながら残りの合計7人(20人という説もある)が郊外の飯盛山へと落ち延びた。
滝沢峠の間道を通り、戸の口堰の洞門をくぐり飯盛山に辿り着くと、鶴ヶ城の天守閣は黒煙に包まれ、姿が見えなかった為に落城したと思い込んでしまった。
深手を負っていた隊士達は、入城か突撃か激論を交わしたものの、敵に捕まり生き恥を晒すよりはと、武士の本分を明らかにするために、結果として7名(20名という説もある)が自刃を決行し、6名(19名という説もある)が自刃を決行した。
唯一、飯沼貞吉(のち貞雄と改名)のみが蘇生し、一命を取り留めた。
白虎隊自刃後も籠城戦は1か月続いたが、最終的に会津藩は降伏した。
白虎隊の生存者の飯沼翁は、電信技士として明治・大正を生き抜き、昭和6年に77歳で没した。
飯盛山での出来事についてその重い口を開いたのは晩年だったそうで、そこから白虎隊の悲劇が現在に伝わる事となる。
飯沼の遺骨は遺言により飯盛山に眠る同志と同じ場所に埋葬され、同じく飯盛山に墓碑が建立されている。
墓所には松平容保揮毫「嗚呼忠烈白虎隊」の慰霊碑が建立されているが、これは紛れもなく、楠木正成自刃の地・湊川の大楠公墓碑として水戸藩藩主・徳川光圀が建立した「嗚呼忠臣楠子之墓」に準えたものである。
https://youtu.be/vLZS4cjcI0M
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※この動画は、令和5年6月1日に生放送した特番からの抜粋となります。
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【無料】竹田恒泰の幕末・孝明天皇論20~文久4年と崇徳天皇の怨霊~(前編)
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【ニンポー】始まりもしなかった恋とG7広島サミットの展望 その3【ニコ生】
【ニンポー】始まりもしなかった恋とG7広島サミットの展望 その3【ニコ生】
(-60分)
60
62
尊皇攘夷思想を語る
68
僕も婚活して嫁をゲットし結婚したい
など
https://live.nicovideo.jp/watch/lv341420684
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第98回:萩の乱「池田屋事件 新選組」】
俺は手加減ができない男だぞ、いいかぁ?
長州藩士:佐世家嫡男にして尊皇攘夷派志士:前原一誠。(前原姓は後に改姓したもの)
23歳の時に吉田松陰の松下村塾に入塾。
久坂玄瑞や高杉晋作といった名立たる面々と肩を並べた。
松陰曰く「勇あり、智あり。誠実人に過ぐ」と評価され
「その才は久坂に及ばず、その識は高杉に及ばず、されど総合力では二人とも前原に及ばない」と称された。
藩内の派閥が分かれた際は高杉晋作らと共に正義派に所属。
第二次長州征討、続く戊辰戦争では北越軍参謀として活躍し、明治政府の樹立に尽力した。
しかし、前原一誠は長州藩士。つまり「武士」である。
明治政府が立ち上がった後の政策、四民平等、廃藩置県、廃刀令、版籍奉還、秩禄処分etc・・・
どれもこれもが武士の特権を奪う政策ばかりが謳われ制定されていく情勢を前にして
前原は政府と袂を分かち、故郷である萩に戻った。
この頃、不平士族の決起が各地で勃発しており
それらに呼応する形で前原一派も決起。殉国軍を自称して武力蜂起を開始するも総兵力は200~300と僅か。
さらに予め萩に不穏の動きありと行動を読んでいた木戸孝允(桂小五郎)の手配が早く
1週間余りで完全に鎮圧。その他首謀者と共に前原一誠は斬首された。(萩の乱)
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第86回:盟主の号令】
獣ども、私が支配してやろう・・・!
新選組に中途参加ながら参謀となり、後に御陵衛士を結成。
その盟主となった男:伊東甲子太郎。諱は武明。
常陸志筑藩士の子として生まれた武士であるが父の借金が原因となり一家は領外へ追放された。
その後、水戸へ遊学した際に北辰一刀流剣術:伊東道場に入門。
類稀な剣術の才を見込まれ、伊東家の婿養子となった為に「伊東」姓となった。
(元の姓は鈴木であり、同じくカード化された新選組九番隊組長:鈴木三木三郎は甲子太郎の弟)
新選組八番隊組長:藤堂平助はかつて伊東道場にて剣を学んだ過去があり
規模拡大に伴い隊士を募っていた新選組に藤堂平助の推薦/紹介もあり参加した。
水戸という尊皇攘夷の考えが根深い地で遊学していた甲子太郎の思想は強烈な尊皇攘夷派であり
かつて袂を分かつこととなった清河八郎に似た思想者を新選組は招き入れる形となったのである。
新選組局長:近藤勇との思想の違いはすぐに発覚するが
新選組の鉄の掟「局を脱するを許さず」がある以上は個人脱退は不可能。
そこで甲子太郎は新選組と同志ながらも分離という形で御陵衛士を結成。
これにより隊士が分散した為、甲子太郎の参加は結果的には新選組を弱体させたとも考えられた。
甲子太郎はその後、近藤勇との会談を行うが
その帰り道で新選組隊士に囲まれ大石鍬次郎によって斬殺されたと伝わる。
さらに新選組は甲子太郎の死体を利用して油小路にて御陵衛士メンバーへの襲撃を実行に移す。
(油小路事件には多数の隊士を動員していることから局長あるいは副長命令であったのはほぼ間違いない)
これらは後に大きな恨みとなり、近藤勇の運命を決めることとなる。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第70回:安政の大獄】
鬼となった我に、亡者の声は聞こえぬッ!
戦国時代よりその地位を確固たるものとした井伊家。
幕末に至り老中陣の中でも有事の際に設立される最高位[大老]にまで上り詰めた男:井伊直弼。
井伊直弼は元々家督争いや出世には縁の無い井伊家の十四男であり庶子であり若き頃の直弼は剣術に没頭。独自の流派と極意書を著すほどであった。
転機が訪れたのは兄の井伊直元が急死したことで、彦根藩第15当主として指名されたことである。
そして直弼が藩主となった3年後、彼の運命を決定付ける事件が起きる。黒船来航である。
この対応の為、幕府に赴き、初め鎖国を主張していたものの不可能と判断した直弼は一転して開国派となった。
さらに将軍:徳川家定からの指名を受けて、大老職を拝命する。
その外交政策の中で不平等条約と名高い「日米修好通商条約」への調印を実質上、黙認した。
天皇からの勅許を取っていないこの行動に関して反幕府の諸藩士の猛烈な批判を受けたが
この世論に関して反論者を捕縛、隠居、謹慎、あるいは処刑して黙らせる「安政の大獄」を決行。
反幕府側の怒りは頂点に達した。
江戸幕府が開かれ250年以上、江戸市中の大名駕籠が襲撃された事件は唯の一度も無い太平の世。
1860年3月3日。雛祭りの祝賀の為に諸侯が登城しようとしていたその日。
江戸城に向かう彦根藩行列の前に直訴状を持った男が立ちはだかった。
これを取り押さえようと藩士の注意が移ったその時、他から直弼の駕籠に向け凶弾が発砲された。
これが命中した為、かつて磨いた剣術は発揮されることもなく、瞬く間に襲い掛かってきた尊皇攘夷派により絶命した。
後に「桜田門外の変」と呼ばれるこの事件から、幕府側と反幕府側の対立は決定的に深まっていくこととなる。
ちなみにNHK大河ドラマの第1作のタイトルは「花の生涯」 井伊直弼はその主役である。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第65回:暗殺剣】
人斬り彦斎、参るっ!!
肥後細川藩下級藩士:小森貞助の次男、河上彦斎。幕末四大人斬りの一人に数えられる。
(生家である小森家と姓が異なっているのは一般的に長男=嫡男である故に、河上家へ養子に出されたため)
若き頃は剣道だけではなく、儒学や兵法についての知識を高めた。
その流れで肥後藩:宮部鼎蔵に兵法を師事した関係で尊皇攘夷過激派(排外派)への意識を高めた。
池田屋事件にて師の一人であった宮部鼎蔵が討たれ、その報復として京に上がり
開国論者であった佐久間象山を暗殺。
しかしながら彼の属した肥後藩は佐幕派であった為、幕府と対立した彼は投獄された。
明治の世が開けた後は、ガチガチの攘夷論者であった彦斎は反乱分子と見なされ斬首に至った。
人斬りとして名を馳せた一方で愛妻家かつ親孝行者であり
落城台詞には彼の愛妻家たる逸話を反映させたものとなっている。
ちなみに、色白かつ小柄な体格であった為、女性に見間違われることがあったという逸話が残るが
小柄な幕末の人斬り・・・
実は彼は「るろうに剣心の主人公:緋村剣心」のモデルとなった人物である。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第59回:天誅】
人の斬り方、わしが教えてやるよ・・!
土佐藩郷士:岡田宜振。通称:岡田以蔵。
河上彦斎と共に幕末四大人斬りに数えられる尊皇攘夷派志士。
けっして高い身分ではなかったが、以蔵の剣才を見込んだ武市瑞山(半平太)に拾われ
彼に師事して九州諸藩を回って小野派一刀流を修めた。
半平太主導の土佐勤王党に参加した後は京に上り、天誅と称して佐幕派要人を次々に殺害。
(その反面で坂本龍馬との交流もあった為、幕府軍事総裁:勝海舟の警護を行ったこともある)
彼の運命が狂うのは攘夷過激派であった長州藩が朝廷から追放された「八月十八日の政変」の発生である。
これによって土佐藩主だった山内容堂は、尊皇攘夷派の一斉弾圧に舵を切った。
土佐勤王党により土佐藩軍政:吉田東洋暗殺が行われたことを半ば確信していた容堂は速やかに武市半平太を捕縛。
後ろ盾を失った以蔵も急速に身を崩していき、京での押し入り強盗として捕縛されてしまう。
土佐勤王党の犯行を吐かせるために拷問を受けるが、軽い拷問でも喚き散らした為に半平太に呆れられ
このままではすぐに白状すると判断した半平太による以蔵毒殺計画も謀られたが
あっという間に以蔵が土佐勤王党の犯行を吐露した為に、勤王党幹部と共に処刑された。
最後があまりにもダラしないエピソードで土佐勤王党崩壊の理由となった為に
土佐維新志士の顕彰碑名簿に載せてもらえない等の冷遇が続いたが
大河ドラマ「龍馬伝」の放送から一般的イメージがかなり見直された人物である。
ちなみに近年の岡田以蔵のイメージに首巻き(マフラー)が描かれるのは
大河ドラマ「龍馬伝」で岡田以蔵役であった佐藤健氏が細身であった為
首周りを太く強そうに見えるようにする目的で着用されたものが
岡田以蔵=マフラーのイメージとなったものである。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
第4期カツドンチャンネル【緊急釈明】すみません、国旗で誤解させてしまいました。
4期マイリストmylist/73670525
カツドンからのお願い。
前職に関する固有名詞のコメントはしないようにお願い致します。
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第44回:天才号令】
これが国家の財産、天才の策よ!
松代藩士:佐久間象山。外国勢力に対して開国を行うべきと考える開国論者。
兵学者・思想家でありながら発明家でもある。
その他にも儒学・朱子学にも精通しており、洋学も修めた本人の弁通りまさしく天才であり
坂本龍馬、吉田松陰、勝海舟と名立たる面々が彼に師事。
ただし、彼には才ある自分への自尊心・自信のせいか傲慢かつ危機意識に疎い面があった。
公武合体論及び親和開国論派であった佐久間象山の存在は尊皇攘夷派の維新志士から見ると
邪魔な存在である中で京都で生活をしていた為、河上彦斎等の刺客の手によって暗殺された。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第31回:報国之志】
維新への道は、俺が創るッ!!
尊皇攘夷派幕末志士にして、陸援隊隊長:中岡慎太郎。
土佐国の大庄屋(※)の長男として何不自由の無い人生が約束されていたが
剣術家でもあった武市半平太(→sm40787613)の道場で剣術を学び
そこで坂本龍馬(→sm40617065)との出会いも果たす。
剣術の師でもあり志が一致していた武市半平太の土佐勤王党に入党していたが
八月十八日の政変以降の弾圧を逃れ脱藩。長州へと亡命した。
その後、下関戦争を目の当たりにして攘夷派から開国富国強兵派へと思想を転換。
国家の展望と土佐藩の在るべき姿を書いた「時勢論」を著しており
その展望の実現のため薩長同盟締結へ尽力してついには大政奉還の達成にまでこぎつけた。
大政奉還から2ヶ月後、京都近江屋にて坂本龍馬と会談。
その際、何者かの刺客によって龍馬は即死(または明朝死亡)。
慎太郎は即死は免れたが致命傷を受けて2日後に死亡した。
今日のドラマ等での近江屋で何があったかの再現は慎太郎が死ぬまでの間の証言を元にしたものである。
※庄屋:地方三役の一つであり、村政を担当。大庄屋ともなれば地方一体の首長であり
藩政幹部の上級武士よりも遥かに裕福であることも多い超金持ち。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第29回:赤報隊の陣】
俺が魁となり、幕府を打ち倒すッッ!!
赤報隊一番隊隊長:相楽総三。
郷士の子として生まれ、長男ではなかったが後に家督を相続。
尊皇攘夷派志士として倒幕運動へ傾倒していた総三は
倒幕派の最先鋒である薩摩藩の西郷隆盛配下となり、ある命令を受けそれを実行に移した。
幕府との戦の理由を作りたい薩摩藩から
江戸城下で市民への暴行・殺人・強盗・略奪・放火と悪の限りを尽くしてから
薩摩藩邸へ出入りするのを市民や幕府役人に目撃させるように命令されたのである。
この挑発行為に対して幕府側による江戸薩摩藩邸焼討事件が発生し、鳥羽伏見の戦いの口実を手に入れた。
鳥羽伏見の戦いでは薩摩軍の先鋒として年貢半減を唄って農民を吸収しつつ進軍。
しかし戦費問題から財政難に陥った新政府側からすると年貢半減はとても約束を果たせる状態ではなくなり
これを流布して兵を集めていた総三を偽官軍扱いにして捕縛することで年貢半減を反故にしたのである。
(もちろん年貢半減での兵集めは総三の独断ではなく命令されたものだった)
前述の江戸城下での狼藉と合わせて赤報隊幹部と共に総三は処刑された。
この維新志士側にいい様に扱われて最後は切り捨てられる最期となった話は
るろうに剣心の相楽左之助の回想として描かれている(相楽の姓も相楽総三から受け継いだもの)
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第19回:狂狼の豪剣】
俺様の豪剣、受けてみやがれェェ!!
新選組の前身、浪士組初代筆頭局長:芹沢鴨(せりざわ/かも)。
彼の前半生については出自が定かではないが、尊皇攘夷結社:水戸天狗党に属していたとも言われる。
[鴨]という印象的な名前も、芹(セリ)が来たなら鴨だろう(鍋を表した冗談)ということで
名乗っていただけの可能性が高く、正確な名前なのかどうかも定かではない。
剣術流派は永倉新八や桂小五郎と同流派:神道無念流。
壬生浪士組のリーダー格として近藤勇派閥と派閥闘争を繰り広げた。
酒乱で粗暴な行動が目立っていた為、学が無い乱暴者のような印象を受けるが
浪士組の寝所として世話になっていた八木家の者に対しては礼儀正しく、子供の面倒見もよく、教養も兼ね揃える人物であった。
壬生浪士組の活動資金を(全部がまともな行動ではないとはいえ)賄っていたのも芹沢一派の功績であるのは事実であったが、芹沢のあまりの問題行動に業を煮やした会津藩は近藤派へ芹沢の処分を下命。(諸説あり)
八月十八日の政変/禁門の変に出動し活躍していた壬生浪士組は既に一定の評価をもらっており、既に芹沢の集金力が無くとも隊士を養えつつあった近藤派は派閥統一を狙って芹沢鴨の暗殺を決行。
芹沢の剣豪としての腕前を警戒した土方は、芹沢を酒宴の席にてもてなした後
寝室に移り泥酔した彼を四人がかり(土方・原田・山南・沖田)で討ち取り、長州藩士により暗殺されたと世間的に公表。
この暗殺事件により芹沢一派を排除したことで近藤派主導の新選組が誕生した。
ちなみにるろうに剣心の「志々雄真実」のモデルは芹沢鴨である。
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【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第15回:維新の礎/御楯の烈士】
狂わねばこの国は救えない・・進めッ!
最後の瞬間まで!この命を燃やし尽くすッッ!!
長州藩士:吉田矩方(よしだ/のりかた)。通称:吉田松陰。
長州藩の兵学を担う立場にあったが黒船来航後に思想家としての面が非常に強く出るようになる。
叔父が開いた私塾「松下村塾」を継ぎ、勉学・思想の教授を担った。
この松陰による松下村塾での講義は二年程度の活動に過ぎなかったが、ある塾生は維新の先鋒となり、ある塾生は後の日本新政府の総理大臣となるなど、後世名を残す門下を多数排出。
後に井伊直弼主導で対外不平等条約の締結が行われると、これを批判したとして処断された(安政の大獄)。
享年30歳。
同じく長州藩士:久坂通武(くさか/みちたけ)。通称:久坂玄瑞(くさが/げんずい)。
松下村塾の塾生の中でも吉田松陰から特に優秀であると評価された(晋作は勉学に於いて久坂に劣ると評価)
安政の大獄が起きると幕府を大いに敵視。尊皇攘夷過激派の若手衆先鋒となり御楯組を結成。
そのリーダー格であった高杉晋作と久坂玄瑞は英国公使館焼き討ちを実行に移した。
後の下関戦争を通して長州藩のあまりのエキサイティングぶりに会津藩と薩摩藩は朝廷からの長州藩排除を決行(八月十八日の政変)。
八月十八日の政変と池田屋事件に大きく憤った久坂は武力クーデター(禁門の変)を起こすが
この禁門の変に敗れた久坂は自刃することなった。
享年25歳。
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【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第14回:誅殺の号令】
これが天の意志だ!覚悟を決めろッ!
土佐勤王党(※)盟主:武市瑞山(たけち/ずいざん)。通称:武市半平太(たけち/はんぺいた)。
(※土佐勤王党/土佐勤皇党:天[皇]陛下の為に[勤]めるの文字通り、尊皇攘夷を掲げる政治結社)
郷士(豪農の一部、武士待遇を受ける身分)であった武市家に生まれ、剣術家として藩内でも評価を受けた。
土佐藩は土佐藩参政:吉田東洋を始めとした開国派に流れがあったが、黒船来航以降に土佐勤王党が台頭。
半平太はその盟主として吉田東洋の暗殺を実行。同時に吉田派を土佐藩から排除して藩論を尊皇攘夷へと移した。
しかし、その後に会津藩と薩摩藩が結託して長州藩が朝廷から追放(八月十八日の政変)されてからは状況が一変。
土佐藩主:山内容堂は土佐勤王党の弾圧に動き、吉田東洋暗殺が怪しまれた武市一派を捕縛。
本人は頑なに容疑を否認し続けたが、人斬り以蔵があっという間に白状した為に罪状が確定。切腹の沙汰となった。
(武市半平太はこの切腹に於いて三度腹を切る「三文字切腹」を果たした唯一の武士と言われている)
この件について、武市半平太を失うべきではなかったと山内容堂は生涯悔いたとされる。
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【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第9回:長州大割拠】
長州男児の肝っ玉!これよりお見せしよう!!
おもしろき こともなき世を おもしろく
長州藩士:高杉春風。通称:高杉晋作。
高杉氏は毛利家の名門であり、高杉晋作は名門出かつ嫡男の身分である。
武士の中でもエリートと言える身分であるため幼い頃から英才教育を受け、剣術は柳生新陰流を学び免許皆伝に至った腕前を持つ。
松下村塾では吉田松陰に師事して、尊皇攘夷に傾倒。米仏との間で下関戦争が起こると志願兵を募り奇兵隊を組織した。
八月十八日の政変、禁門の変、第一次長州征討を経て苦しい立場となった長州藩では保守派(幕府に従おう派)が台頭したが
自らの尊皇攘夷派を「正義派」と自称して、保守派の面々を排除。長州藩の実権を得るに至った。
第二次長州征討では幕府軍兵力10万超に対して長州藩は兵力5000前後の圧倒的兵力差でありながら幕府軍を撃退。
この戦にて決定的な権威失墜を巻き起こした幕府は大政奉還の実行を已む無しとされる。
晋作はこの大政奉還を悲願の一つとしていたが、大政奉還を見る前に肺結核の悪化により27歳の若さで病死。
驚くべきことに、長州藩を引っ張った風雲児のこれらの逸話は、20前半~半ばの若者の話なのである。
ちなみに、CVもあいまって開戦台詞での一人称「僕」はかなりの違和感があるが
これは師の吉田松陰が一人称を「僕」、二人称を「君」と言い始めた最初の人物であるという説があり、師の特徴的な言葉使いについて松下村塾生が強い憧れを抱いていたことを反映したものである。
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【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第4回:壬生狼の号令】
誠の旗の下!真の武士共よ集えッ!!
時は幕末。京都周辺の警備に当たった新選組。その局長:近藤昌宜。通称:近藤勇(こんどう/いさみ)。
元服前の14歳の時に天然理心流「試衛館」に入門。12年後、26歳の若さで天然理心流宗家を継ぐ。
それから数年後、徳川家茂(第14代将軍)の警護を目的とした浪士組に入隊するが
この浪士組の真の姿が親幕府組織ではなく朝廷側に付くことを重視した「尊皇攘夷」組織であったことが
判明したために、大多数の隊員とは袂を分かつこととなった。
江戸に駐屯することとなった浪士組からは離れ、「壬生浪士組[※みぶ:京都の地名]」を結成。
副長:土方歳三と共に厳しい隊の規律を完成させ、新選組(新撰組)の名を賜った後に、隊の中での別派閥であり大きな影響力を持った筆頭局長:芹沢鴨を暗殺した。
その後、池田屋事件/禁門の変への出動と活躍するが、補充隊員であった伊東甲子太郎を思想上の違いから危険分子として暗殺。
後に幕府が崩れると、伊東甲子太郎の弟:鈴木三樹三郎(元:新選組9番隊組長)の襲撃を受けて肩を負傷してしまう。(この負傷で"剣豪"では無くなった)
旧幕府軍と新政府軍の戦いが始まると、旧幕府軍に所属するが劣勢はどうしようもなく敗走し捕縛。斬首となった。
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【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第3回:風雲之志】
俺のやり方で、この世界を切り拓いていくぜよッ!
日本を今一度洗濯いたし申し候。
土佐藩、明治維新志士の一人:坂本直陰。通称:坂本竜馬(龍馬)。
武市半平太を筆頭とする尊皇攘夷結社「土佐勤王党」に加盟するが、後に脱藩。
かねてより西洋の技術、そしてその脅威に目をつけていた龍馬は海軍の祖:勝海舟に師事して海軍操練所の設立に尽力した。
池田屋事件後はその操練所も閉鎖となってしまうが、薩摩藩の助力を受けて長崎に日本最初の商社と呼ばれる亀山社中(後の海援隊)を設立。
その後、禁門の変にて武力衝突を起こして非常に険悪な状態となっていた(というよりも孤立した長州藩)と薩摩藩の仲を取り持ち、海援隊による海運能力を活用して「薩長同盟」へと導いた。
・・が、大政奉還が成ったことを見届けた翌月、京都近江屋にて龍馬は刺客の手によって暗殺されてしまう。(指示組織/実行犯ともに不明)
風雲之志を遂げ、次なる大志に向けて奔走しようとしていた矢先の出来事であった。
今回が初のERカード(※)となります。
(ER→英傑レアの略。英傑大戦でのカードレアリティはER>SR>R>Nの4種類)
英傑大戦ではSR以下のグラフィックが無い代わりに、ERに関してはカードイラストを忠実に再現したグラフィックで作られています。
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