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【日本史雑学談】大名生活の現実~最後の広島藩主浅野長勲侯爵の回顧談
大名生活の現実について、最後の広島藩主で昭和まで存命であった浅野長勲侯爵の回顧談を紹介します。
【フリモメン動画投稿祭2023】フリモメンと行く宿場町海田「千葉家住宅」と江戸期中期改修の「泉庭」の紅葉2022完全版
基本は同じですが、記録として。動画、写真の増補改修完全版(長目) 間に合ったぜ
良い声のリリせちゃんはわしの中ではフリモメンの2号機です。
千葉家住宅の江戸中期に座敷等建て替えの時 1774年改修のお庭(江戸初期築庭)泉庭がある
広島県の名勝指定。座敷棟=県の重要文化財指定。
2022年11月に訪問時のもの(iPhoneで撮影なので画質はそれなり)。
この時iPhoneしかなかったので紅葉の写真が日陰のあたりは厳しいですね。
西国街道(旧山陽道)広島から東へ最初の海田宿。現在も街道の雰囲気を僅かに残す町。そこには旧千葉家住宅が現存する。千葉家は元武士で上総、下総で勢力を張った千葉氏の一族で永正年間(1504〜42年)安芸の国へ下向した。大内氏や毛利に仕えたのち毛利氏が防長移封の時に武士を止め広島城下で商人となり神保屋を起こす。
広島藩により海田宿が整備されると海田にて神保屋は酒造業などを営む傍ら天下送り、宿送りの業務に携わるとともに宿場の重要な役を務めた。
注)天下送り=幕府の公文書や荷物も運搬 継ぎ送り(広島城下及び上瀬野まで)宿(しゅく)送り=広島藩の公文書類、荷物の継ぎ送り(尾道奉行との連絡を中心)〜
家紋が蔵などにありますが=月星紋(つきほしもん)妙見信仰に関係した千葉氏の家紋。
微修正しました。
街道歩きは2019年に行ったかな 再度 海田や瀬野を歩いてみたい。
広告礼申し上げます
めし太郎 様
イルカッパ星人 様
赤城山登頂記念 様
龍休宗庵 様
【フリモメン動画投稿祭2023】フリモメンと行く宿場町海田「千葉家住宅」と江戸期中期改修の「泉庭」の紅葉2022抜粋
上書き完了。今増補改訂に入ったけど間に合えば完全版も上げます
明日から三日仕事なんだよなあw 厳しい?
千葉家住宅の江戸中期に座敷等建て替えの時 1774年改修のお庭(江戸初期築庭)がある。
泉庭=広島県の名勝指定。座敷棟=県の重要文化財指定。
見学は第2、第4土曜前日からの4日間(音声は正しいが、字幕間違えてた^^; )
後半プロジェクトが消失したのでこのままいく。
2022年11月に訪問時のもの(iPhoneで撮影なので画質はそれなり)。
この時iPhoneしかなかったので紅葉の写真が日陰のあたりは厳しいですね。
西国街道(旧山陽道)広島から東へ最初の海田宿。
現在も街道の雰囲気を僅かに残す町。そこには旧千葉家住宅が現存する。千葉家は元武士で上総下総国、で勢力を張った千葉氏の一族である。永正年間(1504〜42年)安芸の国へ下向した。大内氏や毛利に仕えたのち毛利氏が防長移封の時に武士を止め広島城下で商人となり神保屋を起こす。
広島藩により海田宿が整備されると海田にて神保屋は酒造業などを営む傍ら天下送り、宿送りの業務に携わるとともに宿場の重要な役を務めた。
注)天下送り=幕府の公文書や荷物も運搬 継ぎ送り(広島城下及び上瀬野まで)宿(しゅく)送り=広島藩の公文書類、荷物の継ぎ送り(尾道奉行との連絡を中心)〜
家紋が蔵などにありますが=月星紋(つきほしもん)妙見信仰に関係した千葉氏の家紋。
尺とニコニコの動画祭期間の時間の関係上写真中心で短めに。
〜広告御礼申し上げます ^^;人〜
龍休宗庵 様
nanashinogonbei 様
nopposan 様
イルカッパ星人様
めし太郎 様
♪♪ Voicepeak ♫ 彩澄りりせ&フリモメン1分弱登山祭F【 RTA (R滝attack)伏谷 白井の滝 】広島市湯来町伏谷
1分時弱登山祭F 広島佐伯区湯来町の東郷山麓の伏谷川にある〜白井の滝へのRTA外伝
この動画の要素=いつもの神社(〜1:45)に、山(林道風景)散策、渓流、メインの滝、
フリモメンさんとりりせちゃん他
割と山が迫るので海岸近くの地域でも近年、熊が出たとか言われる。海岸近くから車で少し行けば山深く熊注意バリバリです。一人は特に念の為鈴など音が出るものがある方が良い。最近は携行しています。あの岩国の錦帯橋近くでも熊注意の看板見たよ。
江戸時代の広島藩士で絵師の岡岷山(おかみんざん)著=都志見往来日記、同諸勝図に記載の滝
湯来〜筒賀、加計、(現北広島町の)都志見の駒ヶ滝までの旅程を分と絵で記録した書物。
湯来町についても名所をいろいろ書き残しているようです。日記の存在と名前と絵師というのだけは知ってました。
神社 00:00
スタート 00:40
林道へ渓流 02:34
滝の案内板 03:30
植林帯と渓流 04:20
滝への下り口、滝へ 05:38
已む無く実際に撮影した滝の映像はかなりカットをしました。
撮影=大半は OMD EM1markⅢ(カメラ テストを兼ねて、滝のライブND撮影も試した)、iPhoneSE2少し。
東郷山の向こう安佐南区沼田方面には戸山の大谷渓谷に五段返しの滝もあるぜ!
音楽 動画に記載した曲に花の窓1曲追加しました。ニコニ・コモンズ のる様
わたしだけの楽しみ。.*:+☆明るくほのぼの 日常系ピアノソロBGM
mountain breeze~爽やか&軽快なピアノソロ~
花の窓。.*:+☆ゆったりカフェ おしゃれな癒し系ピアノソロBGM
立ち絵はVoicepeak公式のものを拝借
神楽山 薬師寺【広島新四国八十八箇所第4番霊場】広島県西端〜大竹市元町
広島県西端の街大竹市 (訪問は2022年春)
真言宗 神楽山「薬師寺」
小さなお寺ですが、広島新四国88ヶ所霊場四番札所となっている。後ろの山上にかつて存在したという西福寺の後継の寺院で護摩堂を麓に移し創建したと言われている。
市内でも古い宝篋印塔(なかなか大きなもの)や古い仏像も多いようです。これらは江戸時代の災害など多い頃建立されたらしい火伏せ地蔵、法華塔の地蔵尊(宝篋印塔の守護)などもある
一願地蔵尊、日限地蔵(日を決めて祈願すると功徳がある)なども祀られています。
本堂(薬師堂)=本尊は薬師瑠璃光如来(六十年ごとにしか拝めませんです)
大師堂は明治期に裏山に88箇所巡拝路が設けられた時建立されたらしいです。現在のお堂は昭和14年再建の模様。本尊=弘法大師像、脇侍=不動明王、三鬼大権現が祀られている。
本堂上に浅生塚があり、芭蕉の弟子で軽みを継いだという芭蕉の弟子 志太(浅生庵)野坡(やば)の門人で、ここ大竹の芦蕗たち竹里連(俳諧を行う集まり)が野坡三十三回忌に建立した石碑。
野坡は西国方面で活動し、ここ広島藩最西端の地へも何度も訪れ連句を巻き、指導をおこなった。
以前の薬師寺映像の完全版を作成うpしました。
信仰の里山< 玖波(くば)行者山 展望の行者堂までの山行 >【1分弱登山祭2022 】ガイド音声入
初参加ですよろしく!。
すいません最初に作った数本は要領得ないんでなんか長くなった。
大竹市玖波 江戸時代までは近世の西国街道 広島藩領西端の宿場町として栄えたところ。
この山麓に石鎚本教の教会があり今でも現役の修験道の山です(そこが管理されていると思う)。
やはり寄進とかないと大変なんでしょうね。昔に比べるとだいぶ痛んでいますね。デフレ30年地方の寺社の疲弊はひどいものですよ。
今回は丁塚を見ながら=西山社〜登拝登山道〜禊場〜行者堂までを登った。
ナビゲーター=Siriちゃんです。
通常コースタイムは山頂まで数回登りましたが3〜40分程度と思う。
今回8合目までだがここも木がない分 相当展望が良いです。
ここは昔から駅から近いし眺めがよろしいので結構登ってます
里山散策です。R4.4.24
山は海から程近く急峻に見えるがあややあれ加減ながら意外に登りやすい。登山靴が良いです。
標高は323.5mほどの里山であるが、古来修験の山として知られ今も石鎚本教の行場である。
山頂には頂上社 石鎚神社の祠がある。
主要コースは以下
*西山社(本日のコース)からの参道コース
*石鎚本教の教会・社殿裏から正面を岸壁の下を迂回しつつ上るルート(鎖場は修行用なので使用不可)
*谷和林道から玖波槍(岩峰)へ尾根伝いに灌木が茂る中を抜けるコース、
*西山社を過ぎ憩いの森へ至り途中から玖波槍と行者山の間に抜ける(灌木やシダの間を抜け
る)また黒川地区の大膳川の渓谷沿いに錦龍の滝をへても憩いの森へ入れる。
もし行かれる方がいれば登山ガイドなどよく調べてね。足元良くないところも多いので。
音楽 ニコニ・コモンズ のる様作
mountain breeze~爽やか&軽快なピアノソロ~
坂道のカフェ。.*:+☆軽快でおしゃれなピアノソロ
忘却の都~ノスタルジックなBGM~
大竹市元町 疫神社・大治社と神楽山 薬師寺【芭蕉の弟子 志太野坡 記念の浅生塚】
広島県西端の街大竹市 鎮守大瀧神社の元の鎮座地(弥ヶ迫)にある「疫神社」(疫病を鎮めるため祭られた)と大治(おおち)社(宗像三神中でも田心姫命を祀る)大瀧神社〜御神幸の終点でもある。
言い伝えではここの場所あたりに厳島神社創建社として知られる佐伯鞍職(くらもと)が居住していた場所と言われる。伝説では所の翁とも呼ばれる。山の方に所塚(佐伯鞍職の形代をおさめているという)
真言宗 神楽山「薬師寺」
小さなお寺ですが、広島新四国88ヶ所霊場四番札所となっている。後ろの山上にかつて存在したという西福寺の後継の寺院で護摩堂を麓に移し創建したと言われている。
市内でも古い宝篋印塔(なかなか大きなもの)や古い仏像も多いようです。これらは江戸時代の災害など多い頃建立されたらしい火伏せ地蔵、法華塔の地蔵尊(宝篋印塔の守護)などもある
本堂の写真は没でした(失敗)本尊は薬師瑠璃光如来(六十年ごとにしか拝めませんです)
本堂上に浅生塚があり、芭蕉の弟子で軽みを継いだという芭蕉の弟子 志太(浅生庵)野坡(やば)の門人で、ここ大竹の芦蕗たち竹里連(俳諧を行う集まり)が野坡三十三回忌に建立した石碑。
野坡は西国方面で活動し、ここ広島藩最西端の地へも何度も訪れ連句を巻き、指導をおこなった。
玖波 大歳神社と神生(みあれ)石(西国街道 玖波宿の鎮守) 広島県大竹市 記録
広島藩(芸州藩)西端の宿場 玖波(クバ)宿のすぐ近くに、行者山麓の鎮座する。行者山は修験道の山で現在は石鎚神社系の修験道の山である。ハイカーがよく訪れる山でもある。
玖波(クバ)大歳神社=恵川の傍に鎮座し、後ろは行者山がある。鎮守の森がこん森している。
やや山側には山陽新幹線、神社の南には広島岩国道路(山陽自動車道へ接続)の橋脚があり現代と古いものが混在している。
社殿は昭和42年コンクリート再建(拝殿は流造、向拝付瓦葺き、神殿は神明作り銅板葺)昭和20年の枕崎台風以来3度の大きな風水害で痛み再建されたものだ。
社殿は白を基調にしていて造りも自然な感じなので意外に周囲の感じとあっていると思い悪くはない。
また神社の社殿の横には神の降り来る磐座が今も祀られており神生石(みあれいし)として鎮座している。社殿はこの祭祀対象の石を避けて横へのちに建立されてきたものらしい。
ここ玖波と周防の山里=山代地方(今の岩国市になる)の生見は昔から縁が深いようです。御幣が玖波から山代の生見まで飛んでいったというようなお話もの残る。また岩国の堅石明神(御神体の大岩がある)の縁起にもここの神社が出てくるらしい。
玖波(クバ)について余談
この玖波という地区は古くは古代山陽道 遠管駅家が置かれた場所といわれ古代から安芸の国西部のにおける交通の要衝の一つであった。
厳島にも近く瀬戸内の海運の港として、玖波谷へ山から降る道は周防山代など山間部地域から物資の降ってくるルートとして用いられたようだ。現代では役目を終え静かな町でわずか昔の面影を残す。
今は海が近く国道2号線が走りますが、昔は海側に道が無く廿日市から山越えで鳴川の石畳(遺跡がある)を抜け鉾の峠〜から唐船浜を経て馬試しの山をこえて玖波宿へ入っていようである。今はうま試しの山には隧道が通り玖波宿へ(旧道)また海側はおそらく削られ国道2号が開通している。江戸時代までは山側に旧山陽道が通っていた。
*神社の歴史などは玖波大歳神社サイトと大竹歴史研究会サイトを参照させていただいた。人
なかなか詳しいです。
【廿日市 天神 山麓界隈散策】〜真宗 蓮教寺と大蘇鉄 (はつかいち市天然記念物)
天満宮の山麓界隈を散策。本陣後の楠と石碑〜JR駅側からの風景〜西側山麓の浄土真宗 古刹 蓮教字と県下第4位ソテツの古木、境内風景。広島県歴史散歩に出ていたのでお参りしてきた。結構風情があります。
注)三業惑乱(さんごうわくらん)=浄土真宗で江戸時代本山学頭 功存により 意(心)口(言葉) 身(身体活動)の三業を通して弥陀仏に救済を求め全てに信心帰命の姿が伴わねばばらぬとした自力要素のあるものだった。これに対し批判が起こり 安芸の学僧大瀛(だいえい)らはその資料を集め団結、批判を展開した。宗派内では解決できず幕府の寺社奉行の前で討論がなされ古義派の安芸学僧らが勝って異安心(異端説)が正された。しかし騒動中に死者や獄死者や遠島、本山の閉門100日間の沙汰も出るほどの騒動となり真宗史上の大事件であった。wiki参照
廿日市天満宮 創建は厳島神主家 藤原氏の桜尾城の鎮守として建立された。篠尾山sasao yamaちょいとだけ山登りです。大変眺めが良い。都市化されてしまっていますが広島湾の島々がよく見て取れます。宮島なども指呼の間に見えて厳島神主家の支配の出城とされた場所です。
厳島神主家が滅んだ後、次第に社運衰微して慶長五年に広島藩西の商業都市廿日市の氏子により再建されたといい「別当寺天神坊」と号した。その後、町の鎮守として続いてきた。
江戸期は、佐方八幡(佐方地区)、新宮社(下平良)をも勧請し広島藩の西の大きな宿場である廿日市の総氏神とされた。
明治以後、別当寺正覚院と天満宮が分離独立された。山上で並んでますけどね。
廿日市総鎮守 篠尾山「廿日市天満宮」からの夏の展望 風景
廿日市天満宮 創建は厳島神主家 藤原氏の桜尾城の鎮守として建立された。篠尾山sasao yamaちょいとだけ山登りです。大変眺めが良い。都市化されてしまっていますが広島湾の島々がよく見て取れます。宮島なども指呼の間に見えて厳島神主家の支配の出城とされた場所です。
快晴より多少雲がある方が変化があり景色は面白いですね。
創建は古く鎌倉時代承久2年(1220年)文官中原親能(大江広元の兄)の一族とも言われるている(毛利などと元は同族らしい)鎌倉幕府・御家人藤原親実が、厳島神主に任命され桜尾城に着任。wiki参照。
厳島神主家が滅んだ後、次第に社運衰微して慶長五年に広島藩西の商業都市廿日市の氏子により再建されたといい「別当寺天神坊」と号した。その後、町の鎮守として続いてきた。
江戸期は、佐方八幡(佐方地区)、新宮社(下平良・動画あり)をも勧請し広島藩の西の大きな宿場である廿日市の総氏神とされた。
明治以後、別当寺正覚院と天満宮が分離独立された。山上で並んでますけどね。
【2分歴史】『福島正則の一生』【ゆっくりしていない解説】
着実に手柄を挙げたが最後は運が悪かった羽柴秀吉の武人。(年齢は数え年)
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Twitter→https://twitter.com/2fun_history
★毎週土曜日 19:00に投稿
▼参考
Wikipedia:福島正則
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E6%AD%A3%E5%89%87
肖像画出典元:東京国立博物館 ※Wikipedia内
▼素材
イラストAC様
https://www.ac-illust.com/
CraftMAP様
http://www.craftmap.box-i.net/
きつねゆっくり様
http://www.nicotalk.com/charasozai_kt.html
甘茶の音楽工房様
http://amachamusic.chagasi.com/
福島正則画像:信長の野望・創造 戦国立志伝
▼作成ソフト
ゆっくりムービーメーカー3
https://manjubox.net/ymm3/
県名勝「千葉家住宅」江戸期中期改修の「泉庭」と重要文化財「座敷棟」
千葉家住宅の江戸中期に座敷等建て替えの時1774年改修のお庭(江戸初期築庭)部分中心に編集。
広島県の名勝指定。座敷棟=県の重要文化財指定。
庭と座敷棟はセットなので残した。曇りでやや暗め。
植栽が茂っているので緑は濃い。
ただ、築山などがややわかりにくい感じ。築山には石が置かれ、妙見社の祠がある。
植木をいい具合に刈り込んだらもっと姿がよくなるかもしれませんね。
千葉家の歴史=平氏の流れの関東武士団中の房総で威を振るった豪族千葉氏の一族である。安芸国へ移住したのち戦国期 大内、毛利(小早川隆景)などに仕えた。
毛利が防長二州に移封後、武士をやめてしまい「神保屋」と号し広島藩で商人となる。西国街道の宿場として整備された海田へ移住し酒造業などを営む傍、宿場の要職を務めた。
また、天下送り、宿送り(幕府や藩の書簡、文書、荷物の継ぎ送り)の業務を担う。
家紋が蔵などにありますが=月星紋(げっせいもん)妙見信仰に関係した千葉氏の家紋。
音声修正。
【西国街道 海田宿】千葉家住宅と泉庭 完全版 (サムネ=千葉氏 月星紋のある新蔵)
旧千葉家住宅 角屋(明治〜昭和期の居間 台所再現 展示あり)、重要文化財=座敷棟玄関、泉庭園(江戸中期作庭。元は江戸初期のものを修築)座敷棟は広島県重要文化財指定で江戸中期建て替えられたもの。
海田=今の安芸郡海田町。海田宿として江戸初期整備され広島藩の物流、開運の拠点の一つ。
千葉家=神保屋と号した商人で酒造業の傍ら天下送り、宿送りを司る。宿場の要職にあった。
元は房総半島の御家人千葉氏の一族で、室町期に芸州へ下向、大内、毛利氏に仕えた。関ヶ原以後、武士を辞めたという。明治以後町長も務め街に貢献しているらしい。
千葉家住宅=主屋、角屋、座敷棟、納屋、蔵などからなる。現在は角屋にて明治〜昭和にかけての居間や台所の様子が道具類とともに再現されている。
天下送り=幕府の公文書、荷物の継送るの役目(千葉氏は上瀬野、広島城下までをカバーしていた)
宿送り=広島藩の文書手紙などを継ぎ送る(主に尾道奉行とのやりとり)
庭園=江戸中期に江戸初期の庭を座敷棟の改修時に改修したと言われる。本座敷から目の前に見え一体にして客をもてなす趣向。浅野家の庭〜縮景園を参考にしているとも。
角屋=つのや。台所などの機能があったらしい。
画像を大幅追加して全体イメージがよくわかるようにした。
お近くの方は街道散策がてら一度見学をお勧め。
【西国街道 廿日市宿場跡】厳島神主家 桜尾城の鎮守「 廿日市 天満宮 」(旧廿日市の総氏神)(一)
はつかいちの天神山 (篠尾山sasao yama)ちょいとだけ山登りです。創建は古く鎌倉時代承久2年(1220年)文官中原親能(大江広元の兄)の一族とも言われるている(毛利などと元は同族らしい)鎌倉幕府・御家人藤原親実が、厳島神主に任命され桜尾城に着任 。wiki参照。
天福三年(1233年)篠尾山に荏柄天神より守護神としてより勧請したものと伝わる。やがて室町期に安芸へ下向して国人領主化していく。 戦国末期郡山合戦ののち大内氏に反旗を翻した 厳島神主家が滅んだ後、次第に社運衰微して慶長五年に広島藩西の商業都市廿日市の氏子により再建されたといい「別当寺天神坊」と号した。その後、町の鎮守として続いてきた。神仏習合なんかわくわくします。
江戸期は、佐方八幡(佐方地区)、新宮社(下平良)をも勧請し広島藩の西の大きな宿場である廿日市の総氏神とされた。
明治以後、別当寺正覚院と天満宮が分離独立された。山上で並んでますけどね。
調べてみて元々桜尾城にあったものを遷座したか? 笹尾山(支城)に初めから社殿があったのか?いくつか微妙に違う説明を読みましたが一度郷土関係の本を探して調べてみないと。
廿日市宿本陣あとの石碑〜参道を上り、山上の社殿前〜展望の休息所南〜東方面の眺めまで。
狭い山頂に社寺のある山腹にあるコンクリートの補強と大楠が印象的な山。
2018年に西国街道筋をぽつぽつ歩いたり散策するようになってからたまに参拝します。なかなかいいです梅とか景色とか巨木とか歴史とかね。
長いのでその2 後半は西方面の展望〜正覚院・千年大楠。
天満宮関連神社
新宮神社(藤掛城主が建立した〜下平良の氏神)sm38156694
西国街道を少し進んだ宮内にある 宮内天王社(宮内上組の氏神)sm37969384
桜尾城支城があった藤掛山の広田神社 sm36972757
少し西にある厳島神社外宮 地御前神社 sm3738415
上平良にある二ノ宮 延喜式内社名神大社 速谷神社 sm35298947
<坂と猫の港町> 尾道の寺社巡り(二) 艮神社〜妙宣寺〜御袖天神・大山寺 まで *猫も出ます (=^ェ^=)
コース=艮(うしとら)神社〜妙宣寺〜御袖(みそで)天満宮〜大山寺。御袖天神の参道は大林宣彦監督の尾道三部作〜転校生の主人公二人の心が入れ替わる場面の舞台です。
艮神社=旧村社 旧尾道 最古の神社 楠の巨木群は県天然記念物指定。
妙宣寺=日蓮宗寺院 文和三年(1354年)大覚妙実(元真言僧で、日像上人の弟子。妙顕寺二世)が開基だそうです。本堂は江戸期天明年間再建。幕末広島藩が駐屯し福山藩に備え、尾道を鎮撫した史跡でもある。猫がたくさんいました。
御袖(みそで)天満宮、大山寺(元は神仏習合で旧天神坊だが明治時代以後分離した)石段が大林宣彦監督転校生の舞台。御袖天神は菅原道真が尾道に寄港し残した袖が由来。大山寺は真言宗で西大寺の慶鑁(keiban)和尚が再興した。
寒風にからからなるや絵馬の宮 アーカムハウスダーレス
その(3)〜sm37499235
尾道は歴史も深いところなのでお寺が多くて1日では回りきれませんね。
令和二年巡拝記録集
<広島県の神社> 天照大神を祀る 廣田神社 廿日市市串戸
広島県の西部にある廿日市串戸 藤掛山の山腹に鎮座する 廣田神社。西国街道沿いの宮内村下組の氏神だった古い神社。広島藩の通史芸藩通志に記載されている。
御祭神=天照大神 鉄筋コンクリート製で吹き抜けの拝殿が再建されていました。
境内には稲荷社 御免石(藤掛山遷座したとき社頭にあった岩で参拝者は昔から「御免なさいませ」などと挨拶して 通った故事による)などある。
桜が植えられている境内から広島湾、宮島などが眺められる。
元は御衣尾山の山麓にあり、宮内〜地御前へ流れる御手洗川の瀬替えでこの山の谷に移転(現在そこには御旅所跡の石碑が残る川のそばで山のようなものは現在はない)さらに宝暦年間社殿焼失したために宝暦十二年藤掛山の現在地へ遷座した。
参道入り口の由緒書きによれば、現在の社殿は藤掛山が開発された時、再建されたものだそうです。 戦国時代は桜尾城の支城=藤掛城があった藤掛山〜現在住宅開発や道路建設で団地に大きく姿を変えています。旧山陽道の街道は藤掛山が大きく迫り出していたので海側は通行できず街道は山側を抜けて宮内へ向かっていたそうです。
また麓の東側には下平良(へら)地区の氏神 新宮神社(藤掛城の元 鎮守社)がある。
JR宮内串戸駅、広電宮内駅近く。
史跡 広島藩主・旧湯治場と霊泉の鎮守社 湯之山大明神と大森八幡宮 広島市佐伯区湯来町
芸州広島藩主の旧湯治場で藩の事業で建てられた湯治場。250年の歴史がある。広島市佐伯区湯来町湯の山温泉 伝承では開湯は1200年前とも言われる古い湯治場。
行程 広島市佐伯区から一路湯来(ゆき)へ向かう八幡川沿いに登り魚切ダムの側を通り山間の中を抜け・・・
湯来伏谷の大森八幡宮〜湯来温泉(休憩)〜湯の山温泉、湯治場跡、湯の山明神社へ。
江戸時代も幾度か温泉が湧出し 1749年藩主 浅野吉長公により藩の儒者が湯の山霊泉記を著す。
翌1750年藩の事業として湯治場が建設され合わせて鎮守の湯の山明神が再建された。
その後、一般庶民にも解放され効能も高く湯治場として賑わったと云う。祭祀は佐伯区の観音神社さんで行われている。
神社でいただいてきた資料みますと、岡岷山(広島藩士で絵に秀でて、城下から湯の山温泉などを経て、豊平の駒ケ滝を見に行く行程を描いた 都志見往来日記などを書いた)の文によれば、中秋に入浴、寒いので8、9人しか湯治客はなく 湯は人肌で、湯坪に入るうちに暖かくなるが、湯に入った気分にはならと書いています。
その昔は源泉にそのまま入ったようです^^; 効能はその方が良いでしょうな。
現在は、温泉水源泉は23.5度なので温泉館で加温してある。
泉質は放射能泉(ラドン温泉です)
江戸の昔からある4mの落差の岩場から落ちる名物打たせ湯は源泉で23.5度ですので冬は・・・・やはり寒いねw。夏はいいですけど。
現在は旅館や、民宿が数件あるようで湯の山温泉館が公衆浴場としてあります。
湯の山明神社は温泉館の上にあり 旧湯治場跡もあって歴史を感じます。
旧湯治場跡は、県の史跡指定されており外から見学しました。
温泉館は何度も来てるけど、湯の山大明神さんは初めて参拝。
湯の山明神へ参拝して霊泉を汲み湯の山を後にした。
湯来町には他に湯来温泉もあり、旅館や湯来ロッジ(日帰り入浴できる)などがある。施設は湯来ロッジの方が良い。風情は湯の山の方かな。広島市周辺で最安の歴史ある温泉。
広島市 旧浅野家 回遊式庭園 「縮景園」紹介(上田宗箇 作庭) 観梅2019
広島県広島市 旧広島藩浅野家 回遊式日本庭園 縮景園(しゅっけいえん)
2019年 2月 観梅編
日帰りで丁度見頃なので山仲間と観梅してきました。
縮景園=築庭者は、武家茶道の上田宗箇(そうこ)流の流祖で浅野家家老で茶人上田宗箇。
その名は西湖を模したともいくつもの名勝を縮めて表現したともいわれる。
原爆の被害から庭園や建物も再建されて現在は県民、観光で訪れる方の憩いの場所。
四季折々の花や樹木が迎えてくれる庭園。茶室が3ヶ所あり一般向けの御茶会などもよく開かれてます
今はビル群が周りを囲み借景みたいですがね、臨営岡あたりからは宮島が望めたという話ですが今は、無理ですね。昔の風情は想像するしかありません。
広島のチンチン電車なら八丁堀電停で白島線に乗り換え縮景園前下車徒歩すぐ。
八丁堀から歩いてもいいでしょう。広島駅から歩いてもいけますよ意外に近い。
隣は県立美術館あり。
是非広島観光の折は立ち寄ってみてください。
音源 尺八は以前参加してた謡曲の会を記録した中のもの。尺八をされている方がおられ名演奏を発表されたものです。このときの演奏したものを使わせてもらいました。
諸井誠の曲らしいっす