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グルジア侵攻(2008)【A.I.VOICE解説】
茜ちゃんは呪術廻戦0見に行ってる
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マイリスト:mylist/65021865
お借りしている立ち絵
琴葉茜・葵立ち絵素材!/八塚スピナ様[im8204989]
Youtube版:https://youtu.be/pgHKREdFZX0
Twitter:https://twitter.com/Yuharumuri
ゆっくり東方(オリエント)物語 第三十七話「誰が伴侶に相応しいか」
TRPGのおまけにアップしていたコーカサス解説を別の動画で作ろうかな…。
あと今回の参考資料は胸糞内容が多いです(;´Д`)
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参考文献&ブロマガ→ar1563679
マイリスト→mylist/57305104
twitterアカウント@golubayavenera
【替え歌】いとし赤の星
第九回政歴M@D祭用に作りました。多少でも賑やかしになれば幸いです。プロパガンダ風に仕上げようとしたら失敗しました。赤字幕が歌詞、緑が説明です。原曲は「いとしあの星」。■今までの→mylist/10267760
lezginka レズギンカ
カフカス地方(コーカサス)で踊られている民族舞踊です。名前の通り元はレズギン人が踊っていた踊りと思われます。今ではレズギン人、ダゲスタン人、オセチア人、チェチェン人、グルジア人、アゼリ人などのアルメニア(ごく稀に踊るが)を除くカフカス地方で踊られている舞踊です。
トビリシでの戦没者追悼式典の模様(2009/8/7)
つべより転載。グルジア軍のツヒンヴァリ攻撃により勃発した南オセチア紛争の開戦一周年にあたる2009年8月7日に、グルジアの首都トビリシにある戦没者墓地で行われた追悼式典の模様。大統領のサアカシュヴィリも出席している。なお、グルジア政府は未だにロシアが先制攻撃を行ったと主張しており、戦没者たちは“祖国をロシアの侵略から守った英霊”という位置づけになっているらしい。サアカシュヴィリの野心に基づいた杜撰な戦略の下、貧弱な装備で前線に投入され、無意味に死んでいったグルジア兵の冥福を祈りたい。合掌。
グルジアの牢獄リアリティ番組「監獄第5房」
つべより。現在グルジアの民放局「マエストロTV」で放映されている“牢獄リアリティ番組” 「監獄第5房」についてのドキュメンタリー。この番組は、著名な反体制派のラッパーがスタジオ内の特設監獄に自ら”入獄”し、同じく反体制派の“面会者”とともに体制批判をするという政治色の濃い番組。ラッパーは、現大統領のサアカシュヴィリが政権にある限り、出てくるつもりはないらしい。当局が黙認しているのは、この民放局が首都以外だと見られないローカル局なのと、あと、“これ以上”欧米諸国の支持を失うのを警戒しているからだと言われている。これが一年前だったら、間違いなくTV局自体が潰されていただろう。ちなみに、「5」は前回の大統領選の際のサアカシュヴィリの候補者番号。
アブハジア方面に鉄道輸送される露軍戦車
つべより転載。2008年8月、鉄道でアブハジア方面に輸送されるロシア軍の戦車。アブハジア国内では、ロシア国境から首都スフミまでの路線は大分前から復旧しており、普通に旅客便も走っている。そこから東はここ十数年もの間廃線同然になっていたが、グルジア側の言い分では既にこちらも修復され、アブハジアーグルジア国境まで軍需物資を運べるようになっているというが、事実か否かは不明。
グルジアのPV「こんにちは!アブハジア!」
つべより転載。グルジアの歌手たちが歌う「こんにちは!アブハジア!」のPVです。その中では、ある日、グルジアによるアブハジアの統合が実現。グルジア本土で生活していた難民らは帰還を開始し、他地域のグルジア人らもこぞって観光に出かける様子が描かれているのですが.....もはや実現は不可能でしょう。
アブハジア紛争(1992‐93)におけるグルジア軍
つべより転載。1993年9月、アブハジアの首都スフミに侵攻したアブハジア側の連合軍を迎撃に向かうグルジア軍部隊。しかしながら、当時はグルジア本土でも大統領派と反大統領派の間で内戦が繰り広げられているような有様であり、とても連合軍の攻勢を食い止められるような状況ではなかった。その結果、スフミの陥落後はほとんど壊走状態となり、後に取り残された20万以上のグルジア系住民は、パニック状態でグルジア本土に逃れることとなった。その脱出経路は主にアブハジア軍がまだ制圧していなかった山岳地帯を経由するルートであり、その過程で多くの人々が犠牲になったといわれている。
グルジア国 旧国歌(1991~2004)
つべより転載。1991年の独立から2003年のバラ革命(笑)まで歌われていたグルジアの国歌です。現行のものよりもグルジアっぽいと思います。なお、それまでは国旗も別なものが使われていました。
アブハジア紛争(1992‐93)の実戦記録映像
つべより転載。アブハジア紛争(1992‐93)における実戦記録をばらばらにまとめたものだが、一応92年の西部の都市ガグラの攻略戦から、93年9月30日の事実上の終戦まで時系列的に並んでいるらしい。
アブハジア軍のラタ攻略(1994年3月24~25日頃)
つべより転載。アブハジア軍が、1994年の3月24~25日頃、コドリ渓谷のラタ村を攻撃し、グルジア人勢力を駆逐した菜の記録映像。これによってアブハジアとグルジアの停戦ラインはラタ村の北東に引かれることとなった。以後、約10年以上に渡って両軍が衝突することはなかった(2001年にチェチェン+グルジアのゲリラが渓谷に侵入したことはあった)が、2008年の8月、アブハジアは南オセチア紛争に乗じてラタ村以東に軍を侵攻させ、結局、渓谷全域を占領してしまった。その模様はこちら→sm4726827
アブハジアで踊る若き日のバサーエフ
つべより転載。1992-93年のアブハジア紛争では、北カフカスの山岳民族は一致してアブハズ人側を支援し、派遣された義勇軍はアブハジア側に立ってグルジア軍と戦いました。チェチェン人部隊は特に目覚ましい活躍を見せましたが、その中には後にチェチェン独立派の重鎮となる若き日のシャーミリ=バサーエフもありました。この動画の前半で、バサーエフの前に踊っているイマーム=アリムスルタノフも後の著名な野戦軍司令官です。
アブハジア紛争(1992‐93)でアブハジア軍に参加した義勇兵たち
つべより転載。1992~93年のアブハジア紛争は、人口の半数を占めるグルジア系住民(正確には“メグレリ人”)と残りの半数を占めるアブハズ系+アルメニア系+ロシア系住民の間の戦いでした。前者がグルジア政府軍の庇護を受けていたのに対し、後者には主にトルコから来た在外アブハズ人義勇兵、コサックなどのロシア系義勇兵、それにアブハズ人と民族的に近い関係にある北カフカスの山岳民族連盟(アディゲ、チェチェン人等)の義勇兵が参加し、さらにその背後にロシアの現地駐留軍があって、兵器や武器を供給していました。中でもチェチェン人部隊の活躍は目覚しく、その中にはバサーエフなど後にロシアで「テロリスト」とされた人々が多数含まれているにもかかわらず、アブハジアでは今なお「英雄」とされています。
未加工映像:アブハジア紛争におけるスフミの陥落(1993/9/27)
つべより転載。1993年9月27日、ロシア軍の支援を受けたアブハズ人+アルメニア人+ロシア人の各武装勢力、それに加えて北カフカス山岳諸民族連盟の義勇軍(この中には後のチェチェン独立派の重鎮、バザーエフも居た)、アブハズ系トルコ人(19世紀にトルコに移住したアブハズ人の子孫)の義勇軍、コサック義勇軍といった雑多な勢力からなる連合軍は、グルジア側が保持していたアブハジアの首都スフミに総攻撃をかけ、短時間でこれを陥落させた。現地に督戦に来ていた当時のグルジア大統領シェドヴァルナゼはすんでの所で脱出できたが、グルジア側アブハジア自治共和国の首長は逮捕されて処刑。この後、連合軍は南下してアブハジアの全域を掌握し、20万を越えるグルジア系住民が難民と化すことになる。
在りし日のグルジア沿岸警備隊
つべより転載。在りし日のグルジア海軍・沿岸警備隊の訓練風景です。近年、サアカシュヴィリ政権の下で増強された沿岸警備隊は、アブハジア沖で操業中のロシア漁船を「領海侵犯」の名目で拿捕、乗組員を裁判にかけてあちらの物価水準からすると莫大な額の罰金(一人あたり3000~5000$くらい)を巻き上げるなど、李承晩時代の韓国のそれみたいな強気な活動をしてきましたが、2008年8月13日、グルジア海軍の本拠地ポティ港を制圧したロシア軍部隊によって警備艇の大半を撃沈され、このように→sm4672663なってしまったのでした.....。
グルジア紛争が題材のロシア製ゲーム「対立‐平和の強制‐」の紹介
つべより転載。来月から販売されるという、ロシアのゲーム会社が作ったグルジア紛争をネタにしたシュミレーションゲーム「対立‐平和の強制‐」についての報道です。「平和の強制」というのは2008年8月にロシア軍がグルジアに侵攻した時に、実際に用いられた作戦名ですが、このゲームの場合は西側の「某国」から支援されたウクライナがクリミア半島のセヴァストーポリにあるロシア海軍の基地を封鎖、同じくグルジアも南オセチアへの侵攻を開始したために、ロシア軍が反撃を余儀なくされると言う、実に生々し過ぎる「架空」の設定となっています。番組に少し出てくるタイトル画面によれば、プレイヤーは「NATO/グルジア軍」か「ロシア軍」のいずれかを選べるらしい。
アブハジアの切手
つべより転載。これまでアブハジア共和国で発行された切手を集めたものです。ただ、現在のアブハジアでは郵便制度は機能していないため、これらは事実上「記念切手」としてしか使われてなかったりします。なお、アブハジアではロシアの通貨ロシア・ルーブルが使われているため、切手に書かれている数字は「~ルーブル」ということになります。その下の単位はコペイカ。
強気なサアカシュヴィリvs逃げるサアカシュヴィリ
つべより。前半は2007年10月末、アブハジアとの停戦ラインでの紛争でロシア平和維持軍に食ってかかるサアカシュヴィリ。そもそもこの紛争は、グルジア政府が2006年に停戦ラインから1kmも離れていないガンムフリ村に青少年用の「愛国キャンプ村」を作ったことに起因します。紛争の火種になるという事で、国連から撤去を勧告されても無視。その翌年に案の定、平和維持軍がこの施設にいた警官を拘束する事件が起きると、即座にメディアを引き連れて現地に飛び、自分が勇ましく抗議する姿をTVで全国放映させます。丁度この時期、首都ではまさに反大統領デモが盛り上がりつつありました。今回の狙撃事件(2008/11/23)も、背景は同じでしょう。トラブルはトラブルで解決‐それがサアカシュヴィリという男です。後半の説明は省略。
トルコで起きた南オセチア/アブハジアの独立承認を要求するデモ
つべより転載。2008年8月27日、トルコのイスタンブルで行われた、トルコ政府に対し南オセチアとアブハジアの独立承認を求めるデモの模様。19世紀、数十年に渡って帝政ロシアと戦った北カフカスの諸民族が当時のオスマン帝国に追放された関係で、今のトルコにはその子孫が数百万単位で住んでいます。「チェルケス人」と総称される彼らは言語的にはトルコ化していますが、独自のアイデンティティを持っており、チェチェン紛争の時はチェチェン人を、一連のグルジア紛争においてはオセット人とアブハズ人をそれぞれ支持する人が多かったと言われます。今年8月のグルジア紛争はロシアとグルジアの対立と面にばかり注目されますが、その中間にある彼らにとってみれば、グルジアもロシアも同様の地域大国なのです。
PBS製作のドキュメンタリー「独立を求めるアブハジア」
つべより転載。米国のTV局PBSのニュース番組「The NewsHour with Jim Lehrer」で、2008年8月21日に放映されたアブハジアについてのドキュメンタリー。事実上「ロシアの傀儡」とみなされがちなアブハジアですが、ロシアとの統合を求める南オセチアとは違って、こちらの方は元々独立志向が強かったりします。その背景には、19世紀にアブハズ人の先祖らがチェチェン人らとともに数十年にわたって帝政ロシアと戦い、大幅に人口が減少したという歴史がありました。ただ90年代の紛争では、自治を認めないグルジア中央に対抗するために、ロシア系やアルメニア系住民らと同盟して「独立戦争」を展開することになります。ちなみに、戦前の人口比率はグルジア系と非グルジア系が半々、アブハズ人はその中で17パーセントほどでした。
アブハジア独立15周年を祝う軍事パレード
つべより転載。2008年9月30日、アブハジアの独立15周年を祝って首都スフム(スフミ)で行われた軍事パレードの映像。ロシアによる独立承認はその一ヶ月前くらいの話ですが、実は1993年に「独立戦争」に勝利して以来、アブハジアにはグルジアの実効支配は一切及んでいません。後半の方で献花が行われている慰霊碑は1992~93年の「独立戦争」の際のもの。この戦争はまさに総力戦で、犠牲者の数も難民の数も今回の南オセチア紛争とは比較にならないほど膨大なものでした。なお、首脳らが立っている雛壇の背後に見える建物はソ連時代のアブハジア自治共和国の政治庁舎であり、「独立戦争」の際はグルジア人勢力最後の砦として総攻撃を受け、炎上。今でも廃墟のままになっています。
グルジア艦隊の残骸
つべより転載。sm4672663で火が消えた後のグルジア艦隊の残骸です。この中に出てくるミサイル艇「ディオスクリア」はグルジア艦隊の旗艦であり、アブハジア沖海戦(sm4713375)にも参加したらしい。ちなみに、「ディオスクリア」は現在のアブハジアの首都スフム(スフミ)のギリシア語での古名。アブハジアの奪回を祈願して命名されたと思われます。他の沿岸警備艇は、一時期アブハジアの近海で操業中のロシア漁船をじゃんじゃん拿捕して名を馳せたことがありました。あたかもかつての李承晩が竹島絡みでやったように、米国の後ろ盾を頼みにアブハジアの領有権を強気で示してみせたのでしょうが、相手が相手だけに、実に高い代償を払う羽目になったわけです。
アブハジアの首都で開催されたグ‐露戦争の戦利品展覧会(2008年8月)
つべより。2008年8月のグルジア紛争では、アブハジア軍がアブハジアの中で唯一グルジア側が保持していたコドリ渓谷を制圧する一方で、アブハジア経由でグルジア西部に侵攻したロシア軍はセナキの陸軍基地とポティの海軍基地を占領、設備を破壊しました。この際に各方面で鹵獲されたグルジア軍の兵器や弾薬等はアブハジアの首都スフム(スフミ)に運ばれ、一部は一般向けに公開されたのですが、それがこの展覧会だったのです。かつて「ソ連のフロリダ」と呼ばれたアブハジアには、この時期大勢のロシア人観光客がいたらしい。展示品は小は米国・イスラエル製の小火器から大はウクライナ製の対空ミサイル(SU25を何機か落としたとのこと)までバラエティに富んでいたようで....。
在りし日のグルジア軍
つべより転載。2008年5月26日、グルジアの独立記念日に首都トビリシで行われた軍事パレードの模様。まさかこの2ヵ月半後に実戦でボコボコにされるなんて、この場にいる誰が予想したでしょうか。閲兵している大統領はどうか知りませんが。敗戦によりその大統領はこう→sm4595728なり、ここに出てくる兵器の大半もロシア軍に鹵獲(→sm4706651)されたのではないかと思われます。後半の映像は同じ日に行われた反大統領デモ。当局はその中を自走砲を走らせるなどして嫌がらせしています。
ロシアによるアブハジア独立承認を祝うアブハズ系トルコ人
つべより。ロシアによるアブハジアの独立承認を祝うアブハズ系トルコ人たち。かつてアブハジアにはギリシア正教徒とムスリムの双方が住んでいましたが、長い間オスマン朝の影響下にあったため、後者の方が多数派でした。しかし、19世紀に帝政ロシアが南下してきた際はチェチェン人らとともに徹底抗戦したため、その大部分がオスマン帝国領のアナトリア(現トルコ)に追放されてしまいます。その子孫の数はアブハジアに住むアブハズ人よりもはるかに多いほど。言語的にはトルコ化してアブハズ語を話せる人は少ないようですが、伝統文化の維持には努めているようです...。
ロシアによる独立承認を祝うアブハジアの人々
つべより。2008年9月26日、ロシアにより独立を承認されたアブハジア共和国の首都スフム(スフミ)の住民がこれを祝っている映像です。2008年10月現在、ロシアの他に承認したのは中米のニカラグアのみですが、ベネズエラやキューバなども続くかもしれません。なお、実は南オセチアやナゴルノ・カラバフ、沿ドニエストルといった「国々」ははるか以前から互いに独立を承認しあっているのですが、非承認国家どうしということで国際的にはカウントされてませんでした。今でもそうです。
コドリ渓谷を制圧するアブハジア軍
つべより転載。2008年8月13日、アブハジアでグルジア側が唯一保持していたコドリ渓谷の東側にアブハジア軍が進駐。グルジアの守備隊は、ロシア軍の空爆が始まった段階で逃げたらしい。おかげで戦死者は出なかった。渓谷は、その地形の険しさから、実は1990年代からアブハジア、グルジア双方の実効支配の及ばない曖昧な場所となっていたのですが、2006年にサアカシュヴィリは「逃げた山賊の討伐」の名目でグルジア軍を進駐させ、「アブハジアの一部回復」を宣言します。これは1994年の停戦協定違反でした。気の毒なのはこの地の住民(少数民族のスヴァン人)で、グルジアの守備隊と一緒に逃げる羽目になり、現在はグルジア本土で難民として暮らしています。地図はこちら→http://en.wikipedia.org/wiki/Image:2008_South_Ossetia_war.svg
アブハジア沖海戦(2008/8/10)の詳細な説明~CG配置図つき~
つべより転載。南オセチアでグルジア軍の敗勢が決した2008年8月10日、黒海のアブハジア沖ではロシアの黒海艦隊とグルジア海軍のミサイル艦などが衝突。その経過を、ロシアのニュース番組が詳しく解説しています。ただ、この中で沈んだとされるグルジア海軍のミサイル艦「トビリシ」はその3日後にポティ港で燃えている所が確認(sm4672663参照)されており、哨戒艇「ギオルギ=トレリ」の間違いらしい。それと、「アメリカの専門家が考案した作戦」というのも何だか怪しく、単に空爆を逃れてウロウロしてたグルジア艦隊と遭遇しただけでは?という気もするのですが、船が沈んだのは事実のようです。なお、この海戦で生き残った艦は、「トビリシ」以外も後にポティ港を占領したロシア地上軍により沈められました。合掌。
ポティ港で撃沈されるグルジア海軍の艦艇
Youtubeより転載。2008年8月10日、グルジア海軍はアブハジア沖を航行中のロシア黒海艦隊に対し攻撃をかけるも、失敗。逆に掃海艇一隻を撃沈され、本拠地であるポティの軍港に撤退した。その後、アブハジアからポティへと侵攻したロシア陸軍は港湾内に停泊していた軍用艦艇、警備艇などを全て破壊。これにより、グルジア海軍は事実上壊滅した。