タグ レゲエ が登録されている動画 : 2252 件中 1 - 32 件目
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『ボブ・マーリー/ルーツ・オブ・レジェンド』予告編
(ムビコレTOPはこちら)http://www.moviecollection.jp
T.O.K./フォーエヴァー【SPOT VER.】
“泣きアゲ四銃士”によるダンス革命!
鉄板のセツナ系“泣き”歌から激“アゲ”パーティー・アンセムまで、テンションアップ↑決定版!!
レーベルサイト:
Strictly The Best 2012 TV Spot (Vol. 46 & Vol. 47)
毎冬恒例・鉄板人気シリーズ本年度盤登場決定!今年も『シンガー/歌もの編=VOL.46』&『DJ/ダンスホール編=VOL.47』の2作同時発売!
Reggae Gold 2012 CM
先月26日にリリースされたばかりの毎年夏恒例超大型コンピ「REGGAE GOLD 2012」。こちらの海外CMをご紹介!
ROMIE / MY FRIEND ,YOSAKOI FOREVER, LOVELY DAY
HEMO+MOOFIRE presents CLUB CACTUS HITS 収録☆ROMIE NEW TUNES♪MY FRIENDYSOAKOI FOREVER LOVELY DAY CHECK IT !!!!!!http://www.hemoandmoofire.comhttp://www.bacchanal45.com
ジョセフ、ラスタレゲエの伝記を翻訳してみた ①/ 44A ( 編集 )
こんにちは、昔ジャマイカで買った本を訳して見ました。当時は辞書で一つ一つ調べていたんですが、今は生成AIの時代なので翻訳は簡単ですね、訳もAI,画像もAIです。まぁ時代ですね。またこれを連載していきます。
ナオライオン 感謝 (Natural Mystic Riddim)
NaturalMystic 風のRiddimで
自然や世界そのものへの感謝を歌った曲です
現在の地元である横芝光町
の景色や動物たち畑の映像や
鶏たちとのふれあい動画です
今回は女性コーラスにsynthesizerV使いました
楽曲の購入はこちらから
https://www.youtube.com/watch?v=9cS5XDMoVdY
ナオライオン元祖おじいちゃんの代からCIA 記者会見2018-12-05 文部科学省
おじいちゃんの代からCIAというフレーズは黒川敦彦氏が
NHKの日曜討論で歌ったことで有名ですが
もともとは2018年ごろから歌っている私のオリジナル曲の
歌詞の一節なのですが
こちらのテイクは2018年12月5日に文部科学省で行われた
加計学園問題追及の記者会見にて、歌ってみた動画ですが
突然歌いだした私を見て、この段階の黒川氏はしびれた表情なのが
面白いっす
すぐにこうなる / 44A
このタイトルにある、すぐにこうなるというのは例えばジェスチャーで両手で真っ直ぐならえみたいな感じのあれです。それしか見えない的な、最近ではカメラをズームしすぎて木を見て森を見ず的な撮影ですかね。確かに今思うと恋してもそんなもの、回りが見えてくると家族がいたり友達がいたり、すでに恋人がいたり、するものですから、つまりケアマネで言うとアセスメント不足でケアプラン実行してるものです。てか今の私に必要なのはつまりその能力ですわ。はい分かりました。焦って前にドカってなってるだけでした。はい
【初音ミク】HAPPY+LUCKY=LUPPY
YouTube ver.:https://youtu.be/fPy-gvoHs-8
Vocal:初音ミク
作曲:Pico
作詞:LAdybug
編集:Babybug
映像:Pexels( https://www.pexels.com/ )
videoAC( https://video-ac.com/ )
制作:アァ虫 s(AaBugs)
Twitter(現X):https://twitter.com/bug_hug64/
Instagram:https://www.instagram.com/aabugs89/
ややこしいのはイヤだ / 44A
今回のはほんとに心の叫びです。ややこしいのはイヤだというのは
例えば、あー失恋したそこにいたら気まずいなぁ、でも行かなきゃならない。どのつらさげてとこっちは思うけど自己中心的な相手は何も思わない。これは昔の話しですけどそんなのはイヤだ。って話しです。恋愛感情なんてのは勝手に湧き上がるものなのですので、ほとんど失恋する私にとってはここまできたら心に穴が空きっぱなしなのです。だから本当はもっとどこでもイヤだと声を上げなければいけないのかもしれませんね。
【PV】Namewee 黃明志 DANNOK
Listen to this song while eating LEAVES and you will fly~□
Dannok, a vibrant gem nestled at the Thailand-Malaysia border, beckons travelers with its unique blend of culture, cuisine, and charm. Here, visitors can immerse themselves in an array of enchanting attractions, from serene temples to bustling markets. The region's culinary landscape is a feast for the senses, offering an array of mouth-watering Thai delicacies, from spicy Tom Yum soup to the sweet, subtle flavors of Mango Sticky Rice. Dannok's beauty extends beyond its landscape, embodied in the warm smiles and hospitality of its people. The nightlife buzzes with energy, presenting an opportunity to experience the local culture in its most colorful form...
ヒントを探す旅にでよう / 44A
ぶっちゃけ私は恋に落ちやすいです。しかもプラトニックで胸の奥にしまい込んでおくという。深い深いものが、小学校の頃からですかね。
それはさておき、1つの答えは恋とは旅です。結婚とかしたことがないので一所に落ち着かないんでしょうが。また恋が旅をさせるのか、旅が恋をさせるのか。自分だけの心の中にしまっときましょう。
一寸先は闇 2024年1月23日 / 44A
こんにちは、昔作った歌を少し変えて歌って見ました。まぁずっと一寸先は闇なのですが、特に最近、能登で地震があって多くの被害がありましたし、正月の4時といったら団欒で酒でも飲んだり、子供はお年玉もらってなんてことが大半でしょう。それが大地震でそれどころじゃなくなって。そういうことでしょうね。まぁいいこともあるでしょうけどね。そんなわけで先程、奥能登ではないですが能登の中間にある七尾に行って歩いて色々見てきました。地割れが多くて道が波打った所をもうコンクリートでなおした感じです。奥能登の方は地面の隆起やら津波などもありさらに酷い被害にあったと思います。例えばボランティアに行けるような状態までいければいいなと思います。
【鉄道PV】さよなら三鷹跨線人道橋
跨線橋から中央線と三鷹車両センターが一望できた。
そんな地元の人達だけじゃなく鉄道ファンからも愛された三鷹跨線橋も、2023年12月10日をもって閉鎖。
12月11日からは撤去工事が始まる。
約93年の歳月に終止符を打つ。
地元民じゃないがお世話になりました、ありがとう。
ジャングルジム - BIBLO(AWAKE MONSTAR)
【鉄道PV】VSEロマンスカーにつたえきれない
2006年に初乗車して、それから小田急ロマンスカーに乗る時はVSE50000形ほぼ一択で新宿~箱根湯本をスーパーはこね、はこね、ホームウェイで17年程乗ってました。
最後の乗車は2023年の某団臨で乗ったり撮ったり堪能しました。
ありがとうVSE、今度は海老名で逢おうな。
つたえきれない - SHOCK EYE,TAK-Z
私のジャマイカ滞在記 最終回 / 44A
日本に着いた。
成田空港から東京へ向かう列車内はどんよりとしており、周囲の人々は皆、疲れ切っているように見えた。これはジャマイカのバス内の雰囲気とは大きく異なっていた。ジャマイカではバスの中でたいていダンスホールレゲエが流れていたが、ここはその対照的な光景だった。
ニューヨークの人々も、親しみやすい人が多かったことを思い出す。その点で、日本人はぐったりしているように見えた。
私はサニーさんと会う約束をしていた。東京のどこかで待ち合わせをする予定だったが、具体的な場所はほとんど忘れてしまっていた。それでも、サニーさんやアイナ、ジャーゴンさん、サニーさんの妹さんを含む多くの人々が集まってくれた。
私は東京特有の路上で、ビールケースを椅子に見立てた居酒屋で、目を輝かせながらジャマイカの話をした。酔っ払っていたが、サニーさんやジャーゴンさんも喜んでくれていたようだが、その話の詳細は覚えていない。
そして、ジャマイカから帰国した私は、路地裏で立ち小便をしてしまった。みんな、私がジャマイカで何を学んでいたのだろうと疑問に思ったかもしれない。ここは日本だ、ジャマイカのやり方は通用しない。みんな心の中ではそう思っていただろうが、その時ばかりはジャマイカのバイブスに満ちた私を歓迎してくれた。それはリスペクトだった。
そう、大切なのは何を学び、どこでどう活かすかだ。残念ながら、私はレゲエ的な意味でそれを活かすことはできなかった。
その後、石川県に戻った。良い思い出だけが残った。
仕方がない、しかし、それが夢だったので、それで良しとする。
私は成人式の際、あまり友達がいないと感じていた。完全にではないが、これが私の居場所でないと思っていた。そして、ドレッドヘアのジャマイカ人の友達を作り、誰かに自慢してやろうと夢見ていた。
それを実現できた。それだけで、私のジャマイカ留学は大成功だったと言ってもいいだろう。
終わり。
私のジャマイカ滞在記番外編② / 44A
ニューヨークでの記憶は断片的だが、鮮明な一部が心に刻まれている。食事はあまり取らず、思いつくままに入ったマクドナルドで、ジャマイカでの経験と同じように、黒人の少年にカンフーの真似をされてからかわれたことを覚えている。街の弁当屋で買った見たこともないような不味い弁当を、宿に持ち帰って食べたが、あれは一体何だったのだろう。
その夜、宿に泊まっていたレゲエ好きの兄ちゃんたちと一緒にイベントに行った。どこかのビルの中で行われていたそのイベントでは、ガーネットシルクやモーガンヘリテージの曲が流れていた。フロアにはドレッドヘアの黒人たちが大勢おり、彼らの目は今まで見たどの目よりもギラギラと輝いていて、何か悪そうな雰囲気を醸し出していた。これがニューヨークのジャマイカ人の姿なのかもしれない。
次の日は霧に包まれた街を歩き回った。まさにニューヨークの象徴的な風景だ。敷居が高くてほとんどの店には入らなかったが、ただ街を見ているだけで心は躍った。そして、訪れることが絶対に外せない場所があった。それはメトロポリタンミュージアムだ。子供の頃にテレビで見たあの場所。館内は本当に広く、世界各国の美術品が展示されていた。
私のジャマイカ滞在記番外編① / 44A
ジャマイカからの帰り道、私の足はマイアミを経由してニューヨークへと向かっていた。マイアミの暑さから一転、ニューヨークの肌寒さは私にスーツケースの中からダウンジャケットを取り出させた。
ニューヨークと聞けば、誰もが夢のような場所を想像するだろう。実際にその地を踏むと、そこはまさに近代的な都市の姿をしていた。異国での旅に慣れた私は、A列車かC列車に乗り、ラブリッシュのニューヨーク支店を目指した。ジャマイカ滞在中、オーナーに頼んでいたおかげでスムーズに移動できた。
アメリカに住む黒人の方々は、親切で心温かい。飛行場で迷っていた私を案内してくれたり、列車を降りた後も別の人が道を教えてくれた。ブルックリンの人々は、実はとても親切なのだ。
ジャマイカで覚えた感謝の言葉を口にしながら、目指す場所に着いたのは、まさにニューヨークらしい建物が立ち並ぶアベニューだった。薄暗い階段を登り、ピンポンを鳴らすと、ドミトリーの管理人が出迎えてくれた。そこは二段ベッドのある部屋で、数人が寝泊まりしていた。
そして彼らは、レゲエを愛し、留学や旅行でここに来ている人々だった。男女の区別なく、みな同じ情熱を共有しているように思えた。
私のジャマイカ滞在記 ㉒ / 44A
さらばジャマイカ
慣れ親しんだ土地を離れるとき、その別れをどう受け止めたのか、今となってははっきりとは覚えていない。ウィリーとは会って話をしたのだろうか。リッキーベンズには何と言ったのだろうか。彼らにとっては、日常の一部が消えただけのことで、深くは感じていなかったのかもしれない。
夜中か、あるいは朝方、ラブリッシュの運転手であるアイジャに空港までの送迎を依頼していた。愛想のいいニット帽をかぶったラスタの彼と、車中で何を話したのか、それとも無言で過ごしたのか。ダウンタウンのダンスに寄るという粋な計らいをしてくれたが、そこは男女がワイニーして盛り上がるいつもの光景だった。パサパサとは通り過ぎるという意味で、私は文字通りその時間を通り過ぎた。涙はあったのだろうか、忘れてしまった。アイジャとの別れ際、互いにヤーマンと言い交わし、私は空港へと向かった。彼が最後の友人になるとは思ってもみなかったが、彼は長いこと見送ってくれたように思う。今となっては、彼に最大のリスペクトを感じている。
ジャマイカに着いた初日、迎えに来てくれたのはウィリアムさんだった。彼は「ウェルカム トゥ ジャマイカ」と言った。その日の夕方、キングスゲートのラスタは「ロンコム」と言った。それは久しぶりという意味だろうか。リッキーベンズやウィリーは分かれ際に「レター」と言うが、それは「後で」という意味なのだろうか。
しかし、なんとなくもう彼らに会うことはないような気がする。時間が経つにつれて、日本で心が変わってしまった自分と、再びジャマイカに行けるようなお金もないからだ。
ジャマイカはハリー・ベラフォンテが歌うほどロマンチックではなく、かなり騒がしい場所だった。それでも、そこで過ごした時間は私の物語の中でいつまでも色褪せない重要な一部となるに違いない。
私のジャマイカ滞在記 ㉑ / 44A
ジャマイカの日差しのもと、わたしの青春は、写真には残らない、ささやかな冒険の連続だった。自分の姿を捉えることには無頓着で、そのために残された数枚の写真は、とりとめもなく奇妙なものばかり。誰かがそれらを見たなら、わたしを誤解してしまうかもしれない。派手な外見とは裏腹に、わたしは無口で地味な男だったからだ。
ジャマイカに来て二ヶ月が経った頃、わたしの日常はリッキーベンズという男とその友達に彩られていた。彼のアーティストとしての才能は確かなもののそれごなかなか花開かないでいた。それでも彼のことを不思議に思いながらも魅了されていた。彼の家族とも親しくなり、小さな弟妹や母親に何度か会った。父親については、ニューヨークで悲劇的な最期を遂げたと聞いた。
彼の庭には昔使っていたというタクシーがあったが、彼がどうやって家族を養っているのかは、街の人々にはよく知られた謎の一つだった。彼の知人にはスタジオ経営者やダンサーがおり、街のあちこちに彼のビジネスの痕跡があった。
写真の中の背の高い男、レジャーはビデオカメラを持ち歩く男で、リッキーベンズのプロモーションビデオ撮影のためにいつも忙しく動いていた。屋上ビアホールでの撮影は夜遅くまで続き、わたしは機材運びを手伝っていた。レジャーは周囲の若者たちにも手伝いを促し、彼らに対する厳しい愛情を注いでいた。
撮影が終わると、夜更けにパーティへの誘いがあったが、わたしは疲れ果てていた。リッキーベンズは彼の部屋で眠るように言ってくれた。朝方、彼が帰宅する音で目を覚ますと、なぜか彼はわたしのポケットを探っていた。何が起こったのかを尋ねる前に、彼は何も言わずに部屋を出ていった。
何かを盗まれたわけではないが、その夜はジャマイカの普通の生活を垣間見たような気がした。その後すぐにわたしはリッキーベンズの家を離れたが、彼はバス停まで送ってくれ、別れ際に近くになっていたマンゴーをちぎり2人で食べあった。わたしたちが同じ29歳でありながら、あの夏はまるで少年のような無邪気な日々を過ごしていたことに、後になって気づいたのだった。
私のジャマイカ滞在記 ⑳ / 44A
空港での偶然の出会い。名は知らずとも、その青年の存在は僕の記憶に刻まれた。ジャマイカの光満ちる日々、僕は名も無き人々との断片的な交流に心を委ねていた。彼らは実際には名を持つ人々だが、僕の記憶の中では、ただの風景の一部として残っている。ある青年は空港で何かを言っていた。名前は覚えていないが、その一瞬の出会いが心に残っている。その他、お金を渋って返さなかった男、北海道出身の女性、日本で水商売をしているのかもしれないと耳にした話。彼らはすべて、ジャマイカでのほんの一コマだ。
ほとんどの滞在を日本人が経営する宿で過ごしながらも、日中はジャマイカ人と共に時間を過ごした。帰れば、いつも誰かがいて挨拶を交わし、時にはラップバトルのようなことに興じたこともあった。人それぞれの事情があり、短い滞在の人もいれば、長くいる人もいた。ジミー・クリフが歌う「Many Rivers to Cross」のように、僕たちの出会いも川の流れに任せた偶然の産物だ。
ボブ・マーリーのカレンダーをくれた青年もいたし、帰りのバスで僕に電話番号を窓ガラスに書いたサーファーの兄ちゃんもいた。そしてゲトーでの生活を夢見るドレッドヘアの男性、四国のラジオ番組に出る兄ちゃんと共に撮った写真がどこにあるのか、今となっては思い出すだけだ。
ラブリッシュのロビーで、パソコンに向かう僕のことを「パソコン小僧」と呼んだ女性もいた。僕が作業を終えると、彼女は既に眠っていて、僕は毛布を掛けてやりドミトリーに戻った。それも今は遠い思い出だ。
僕は何度も出会いと別れを繰り返してきた。それらの人々には名前があったが、今の僕にはもう、何年も前の名もなき思い出の中の人々に過ぎない。
私のジャマイカ滞在記 ⑲ / 44A
ジャマイカでの恋愛は、実際のところ、空白のままだった。私の話を読む人からすれば、何の面白味もない話だろう。日本には付き合っている人がいたにも関わらず、ダンスホールの賑わいやゲストハウスでの交流がそこにある。長い時間を共にして、何も起こらないのは、まるで奇跡のような話だ。けれども、その平淡さが、かすかながらも記憶に残っている。
時おり、日本人やジャマイカ人の若者と連絡先を交換したことはある。ただ、それが何らかの関係に発展することはなかった。振り返ると、一度だけ、向こうから連絡をくれた女性がいた。ジャマイカ人の警備員の女性だ。彼女との出会いはウィリーの紹介によるものだったが、それも長続きはしなかった。不思議なことに、ジャマイカのバスガイドにまで電話番号を聞かれ、交換したが、こちらから連絡を取ることは一度もなかった。その後、ふとした日に道端で彼女に見つけられ、「待てー」と大声で呼び止められたが、私は走ってその場を去った。
前にもどこかで書いたが、「レゲエが恋人さ」と言っていたあの人と、私の恋愛事情は何も変わらない。そう考えると、ウィリーだとかリッキーベンツとかの友人たちの方が、実は紳士かもしれない。
この話、自慢のつもりはない。ただの自己反省だ。あの時以来、色恋沙汰からますます遠ざかる一中年男の泣き言に過ぎない。
私のジャマイカ滞在記 ⑱ / 44A
ジャマイカの陽光のもと、ジャークチキンの香ばしい煙が青空を突き抜ける。通りを歩けば、ドラム缶で焼かれるチキンから立ち昇る匂いが、空腹を誘うリズムを奏でる。その煙は、この地の生活と深く結びつき、食の記憶を育む。
多くはジャークチキンをジャマイカ料理の代名詞とするが、私にとっては遠く離れた日本で味わったモモ肉のジャークチキンの味が、かけがえのないものである。その理由は単純で、日本風に調理したその料理が、家庭の味としての温かさを伝えてくれるからだ。そう、日本のラーメンがその起源の地を超えたように、私にとってのジャークチキンは日本で完成する。
しかし、ジャマイカでのジャークチキンは、その価格の安さとは裏腹に、コストコのチキンのあばら骨の部分のようなものや、ゲットーの露店で見る頭付きのグロテスクなもの、さらにはケチャップをかけただけの胸肉に比べると、この地で出会うフィッシュスープやミートパイのようなパティの方が、はるかに私の心を惹きつけた。
そして、なにより忘れられないのが、アキーアンドソルトフィッシュだ。ラブリッシュのジュンさんがゲストハウスで提供してくれたその料理は、ジャマイカの朝を象徴するかのように、素朴でありながら味わい深い。アキーの果肉は卵のような食感を持ち、塩漬けのタラと炒め合わせることで、忘れがたい美味しさを生み出していた。10年以上が経つが、その味は今も鮮明だ。おばちゃんが黄色いアキーを剥く光景も、ジャマイカの暮らしの一コマとして、私の心に焼き付いている。
その土地のマンゴーの木の下では、子供たちが柿泥棒のように果実をついばんでいた。ジャマイカの熱気と共に生きる彼らの姿は、いつまでも色褪せることのない風景として、私の記憶に留まっている。そんな日々を過ごしたジャマイカは、食文化だけでなく、そのすべてが、小さな宝石箱のように私の中にしまわれている。