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新年度からいざ東京進出!
今年度から、保守系YouTube番組「チャンネルAJER」( https://youtube.com/@channelajer?si=F-7SKoeZusOXMFY6 )で、「女性神主が語る國體論」と題し、月2回の配信ペースで私の番組シリーズが始まります。初回は私の生い立ち。2回目以降は昨年出版した拙著『建武中興と楠木正成の真実』(Amazonはコチラから→ https://amzn.asia/d/fr9XAof)を、チャンネルAJERの栗山社長との対談形式でシリーズで詳しく解説していきます。ぜひ、「チャンネルALER」をお気に入り登録して頂き、また、拙著をお手に取って頂いてテキストとして頂きつつ、南北朝時代と楠木正成の事蹟について知って頂ければと願っています。
【告知】
4月24日(水)14時より、兵庫県神戸市の湊川神社・楠公会館(1階にて13:30より受付)にて第46回楠公研究会・第7回総会を開催致します。
総会では昨年度の活動報告と今年度の活動指針、午後3時から正式参拝に続き、神職による通常非公開の殉節地を含めた境内案内、神社由緒解説です。
会費は会員3千円、非会員は4千円(玉串料・会場使用料・神職謝礼含む)。
JR神戸駅徒歩3分。
高速神戸駅徒歩1分。
自家用車でお越しの方は、湊川神社地下のタイムズ神戸北をご利用ください。
午後5時からロイヤルホスト湊川店にて懇親会も予定しています(懇親会費別途)。
ご参加ご希望の方は以下リンクの参加表明ボタンからお申し込み頂くか、楠公研究会事務局(□ 090 -3723-4251 ✉️ [email protected] 担当:西山)までご連絡ください。
https://facebook.com/events/s/%E7%AC%AC46%E5%9B%9E%E6%A5%A0%E5%85%AC%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A%E7%AC%AC7%E5%9B%9E%E7%B7%8F%E4%BC%9A%E6%B9%8A%E5%B7%9D%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E6%A5%A0%E5%85%AC%E4%BC%9A%E9%A4%A8/790522212509100/
楠木正成の孫・正勝が開いた秋田県由利本荘市の寺院「高建寺」
山形県から出羽三山、鳥海山を越えて、楠木正勝が開いた寺院・秋田県由利本荘市の高建寺へ。
楠木正成の孫・楠木正勝は、本坊の新潟県村上市の耕雲寺から修験の道を経て山形県由利本荘市に入ったと思われる。
高建寺の創建年には諸説あり、応永元年(1394)とも応永11年(1404)とも応永34年(1427)とも云われる。
開山者は耕雲寺(新潟県村上市)の住職である傑堂能勝禅師。
傑堂能勝禅師は南北朝時代の南朝の有力武将だった楠正成の三男である楠木正儀の長男。
応永元年(1394)に耕雲寺を創建し応永34年(1427)に没している事から高建寺の創建年は応永11年(1404)説が有力とされる。
一方、信州佐久間郡大井郷出身の大井義久が応仁元年(1467)に当地に入封し高建寺を菩提寺とした事から、高建寺を創建したのは大井義久で、2世切叟が開創、傑堂能勝禅師を勧請開山とした為、遡った没年を創建年としたとも。
実際、元々の境内地が大井家の居館である根城館の二の丸付近に境内を構えている事からも義久が開基者だったと推察されます。大井氏の後継である矢島満安が天正年間(1573~1593年)に本城を根城館から新荘館に遷すと、高建寺も館に近い矢島町坂之下に境内が遷され、満安が中興開基者となっている。
寛永16年(1639)の大洪水により境内が大破した事を受け、明暦2年(1656)に矢島城下から見て子吉川を挟んで反対に位置する現地に再興された。
現在の高建寺本堂は元禄7年(1694)に造営され明治に改修したもので、木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、平入、正面軒唐破風、桁行9間、外壁は真壁造白漆喰仕上げ、花頭窓付。
総門は切妻、銅板葺き、一間一戸、薬医門、袖壁潜り戸付き。
山門は安永年間(1772~1781年)に造営されたもので、入母屋、銅板葺き、三間一戸、八脚楼門、上層部には高欄、「嶺松山」の山号額、下層部左右には仁王像安置、楼門建築としては旧矢島町唯一のもので改修をかなり重ねておりかなり古い。
朱色の仁王像は1丈3尺の大きなもので200年以上前のもので京都の仏師が製作したものを運ばせたとされる。
楠木正成の孫・正勝が創建した山形・荘内地方の古刹・泉藏寺
泉蔵寺は当時この地方を治めていた横山城の城主・武藤氏の菩提所として建立された寺院。
御本尊として釈迦牟尼如来・両祖大師がお祭りしてあり、楠正成の孫である楠正勝が創建した。
古刹・泉蔵寺の本堂には二基の石碑がある。
その一つが五輪塔で横山城の城主・武藤氏廣の墓,
この塔は天正年代の創設と推測され、重厚でかつ地方色豊かな造りになっている。
昭和49年に山形県東田川郡三川町横山の文化財に指定され現在に至る。
当日はアポ無しで参拝したが、偶然にも副住職様からお話しをお伺いする事ができ、楠木正勝と当寺との貴重なお教えを頂いた。
楠木正成の孫・楠木正勝が開いた寺院・山形県「耕福寺」
山形県置賜郡高畠町の耕福寺は、楠木正勝(能勝傑堂禅師)が開いた寺院。
建武2年、楠木正成は後醍醐天皇から、この地を所領として安堵され、楠木家の領地となった。
正成の孫・正勝(能勝傑堂)が、自身の寺である耕雲寺(現・新潟県村上市)から、旧楠木家所領近くの、日本三大文珠の一つで古刹「亀岡文珠」に参詣に訪れた際、高畠の地元の人々が「是非とも、元領主・正成の孫であるあなた(正勝)に、この地で寺院を開いてほしい」と依頼された。
地元の人々の熱い誓願を受け、正勝(能勝傑堂)が建立したのが耕福寺である。
関西から遠く離れた山形県で、楠木家の元所領があった事に驚きであった。
この発見があった現地調査の帰り道、大きな虹が出現。
先祖の御霊が喜んでくれている事を強く感じた。
ここが「水戸学」の根源の地だ!〜茨城県常陸太田市・耕山寺〜
楠木正成の嫡孫・楠木正勝が開いた広澤山耕山寺へお参り、ご住職からお話をお伺いする事ができた。
国見山の南麓、瑞竜山の西山麓にある。
瑞龍山東山麓には、楠公精神を厚く崇敬、景仰し、湊川の殉節地の「嗚呼忠臣楠子之墓」墓碑建碑に始まる「水戸学」を全国の憂国の志士に興隆させた水戸徳川家の墓所がある。
曹洞宗で広澤(こうたく)山と号する。
本尊は聖観世音菩薩。
寛文三年(1663)の開基帳(彰考館蔵)によると、越後耕雲寺の末寺で、朱印地60石を有し、元は新宿(あらじゆく)村の山吹という地にあった。
楠木正成が湊川の戦いで殉節後、その後を継いで長男・楠木正行が楠木家の棟梁となるも四條畷の戦いで弟・正時と差し違えて殉節。
その後は、三男の正儀が家督を継ぎ、以後、正儀流が楠木家嫡流となった。
その楠木家嫡流の祖ともいえる正儀の嫡男・楠木小太郎正勝は、24歳の時、戦で負った足の怪我をきっかけに仏門に入り「傑堂能勝」と称し、全国を行脚し一六ヵ寺を創建した。
耕山寺もその一つで、佐竹義仁が施主となって庇護した。
佐竹家は楠木家を重んじ、自領内にも関わらず、楠木家の家紋・菊水の使用を耕山寺に促し、現在に至るまで菊水紋が寺紋として継承されている。
佐竹氏が去った後、この地を治めた水戸徳川家は、楠木氏ゆかりの耕山寺と同じ瑞龍山を墓所に選び、楠木氏ゆかりの霊地を墓所と定めた。
水戸徳川家がどれほど楠氏を崇めたのか、非常に窺われる事蹟である。
後醍醐天皇が流された隠岐島に向かい、日御碕灯台から詩吟「小楠公の母」を詠じてきました
楠公研究会会員で、岡崎功先生が建学された湘南高校の元教員・須藤文義様と、同じく楠公研究会会員の浜田博之様のお招きを賜わり、出雲へ。
須藤様が仕えられた岡崎功先生は大東亜戦争の無条件降伏に際して、松江騒擾事件で知られる方。
須藤様ご自身、神社本庁の芦原総長や元掌典職で現亀山神社(広島県三原市)の潮宮司、住吉大社の加藤権宮司等多くの卒業生をお待ちになられる。
当日、まずは日御碕灯台から隠岐島を望み、後醍醐天皇と楠公、南朝の遺徳を偲び讃えるべく、詩吟「小楠公の母を詠ず」を吟じさせて頂いた。
護国活動を行う中、日々、敵勢力はもちろん同じ志を持つ者からも攻撃を受ける事は当然あるのだが、時に、保守を騙って私に近づき私の名を利用して悪事を働く者が若干1名出現し、私の行ってきた顕彰活動に少々自信喪失していた中、今回の須藤様、浜田様からのご高配は、私にとって、今後の更なる顕彰活動に向けての何よりの励みとなるものとなった。
天は、神は、私にまだまだ引退してはならない、表舞台から去ってはならない、とお命じになられていると感じた。
ご神意を知り、天命を悟りて、神意と天命には絶対的に従わねばならない。
それこそが神国日本の民として命を授かった者としての責務である。
隠岐島を望みつつ、そう固く誓った。
https://youtu.be/UqYsNeeeJW4?si=LfgSZ2M6yQC7Zcr9
金胎寺から笠置寺に行幸の後醍醐天皇が渡った「祝橋」・休まれた「養生の芝」・女官が産気づいた「産坂」〜京都府和束町〜
今回は元弘の変で御所を脱出した後醍醐帝が東大寺・春日大社を経て金胎寺へ遷幸、その後笠置寺へ遷られる際に京都府和束町の知られざる秘境に伝わる逸話を、現地の方から現地取材。
楠公研究会賛助会員で、京都府和束町で「和所美土里屋」オーナーでもある和所氏にご案内頂いた。
金胎寺から笠置寺へ遷幸される際に、村人が祝橋という橋をかけた。
橋の用材として使われた木は和束町内に鎮座する八坂神社のご神木が用いられた。
今回は八坂神社調査の目的もあり、某神社のベテラン神職で、楠公研究会賛助会員でもある伊藤氏も同行。
なぜ、八坂神社の御神木を祝橋の用材としたのか、その知られざる意図を知る事ができた。
また、道中に腹痛を起こされた後醍醐天皇が暫し休息をとられた「養生の芝」へもご案内頂いた。
ここは金胎寺のある鷲峰山山麓の茶畑の真ん中にあり、地元の方の案内無しでは辿り着けない地である。
「養生の芝」は、新たに和束町長となられた馬場正実町長にお教え頂いた後醍醐天皇ゆかりの地である。
地元でしか知り得ぬ貴重な情報をご教示頂いた馬場町長に感謝です。
歴史書では語られぬ南北朝動乱前夜の真実の歴史がここにある。
今年も後醍醐帝のご法要へお招き頂いたので参列してきます
明日の後醍醐天皇御命日を前に、ふと自身の今までの生い立ちを思い返し、その重さを痛感している。
生まれてからこのかた、先祖の名に恥じぬよう、先祖を貶める行いをせぬよう、それに相応しい品格を保つよう、幼い頃から父母に教育されて育ってきた。
特に、父親は旧帝国海軍中尉であったから、教育勅語を始めとした戦前ばりの家庭教育を受けたし、先祖を祀る某神社の神事にも一緒に参列しなさい、と訳も分からず連れて行かれた。
また、茶道教授と華道教授であった母親は私が幼い頃から、当然の嗜みとして茶道・華道・能楽・着付け・礼法・ピアノ・習字を修練させられてきた。
私にとってはそれが当たり前の生活だったし、周りの子も私と同じだと思っていた。
しかし、小学校に進学してから、同級生は明らかに自分とは違った。
歴史の授業では、家庭や神社で教えられたものとは全く違う事を教えられ、父が私に教えてきた事は全て嘘と教えられ、かなりのカルチャーショックを受けた。
そんな訳で、子供の頃はなんでこんな家系に生まれてしまったのだろう、と心底、自分の生まれを憎んだ少女時代だった。
戦前から戦後、大きく捏造され変遷していく歴史の真っ只中を諸に生きたという貴重経験である。
今ではその葛藤を乗り越えた事が糧となり、現在の活動に繋がっている。
と、そんな事に思いを致しつつの、静かな秋の夜長であった。
楠木正成の盟友・結城宗広の治めた白河へ!その壮絶な生涯
福島県白河市の関川寺は白河結城家の菩提寺で、結城宗広が開基とされる。
白河結城氏は、下総結城氏の庶流にあたる。
鎌倉時代、結城氏の祖で鎌倉幕府御家人の小山朝光が得た白河荘を、孫にあたる結城裕広に与え、裕広が白河に下向して以来、結城家は白河城を本城としてこの地を治めた。
裕広の子・宗広は、幕府の御家人として、後醍醐天皇の起こした倒幕活動・元弘の変には幕府方で参陣。
朝廷側の楠木正成が籠る千早城攻めにも幕府方として、足利高氏、新田義貞らと共に参陣した。
しかし、千早城が全く落ちる気配が無く、幕府のていたらくを目の当たりにした矢先に、伯耆国の豪族・名和長年の尽力によって、配流先の隠岐島から脱出、名和館の裏手の船上山に行在所を設けた後醍醐天皇が発した幕府倒幕の綸旨を受け、宗広は幕府方から離脱し、朝廷側へ味方する事となる。
同時期に、新田義貞や足利高氏も幕府方から朝廷方へ寝返っており、「千早城未だ陥ちず」の報が鎌倉幕府滅亡の決定打となった。
建武の中興成立後は、楠木正成・名和長年・千種忠顕らと共に建武四天王「三木一草」の1人に数えられ、権勢を誇った(一説に次男の結城親光とも)。
後醍醐天皇から厚い信任を受けて北畠顕家が多賀城に入ると、諸郡奉行に任じられて共に奥州方面の統治を任された。
宗広の長男・親朝は、奥州府の式評定衆として、北畠親房とその子で陸奥守の北畠顕家に尽くした。
征夷大将軍の座を狙う足利尊氏によって後醍醐天皇皇子・大塔宮護良親王が暗殺され、尊氏討伐の綸旨がくだり、朝廷方と足利方との戦いとなる。
箱根・竹ノ下の戦いで新田義貞率いる朝廷軍を破って尊氏が入洛するが、宗広の次男・親光は尊氏を暗殺する目的のもと、偽って足利方に降伏した。
親光へ応対した大友貞載に、「降参人のくせになぜ鎧を脱がない」と詰め寄られ、尊氏暗殺の企てが見破られたと思った親光は、せめて敵将の1人でも討ち取ろうと貞載を斬殺、群がってきた足利兵を手当たり次第に斬り倒したが、足利兵により斬殺された。
親光の死後も宗広は怯む事無く、顕家や正成らと共に軍を率いて足利軍を攻め、京都奪還の大功を挙げた。
九州に逃れた尊氏が再起を果たして東上して来ると、顕家と共にこれと戦ったが、延元3年に顕家が高師直と戦って敗死し、朝廷軍は壊滅。
宗広は命からがら南朝皇居の置かれた吉野へ。
宗広は南朝方再起のために、義良親王(後の後村上天皇)を奉じて伊勢国安濃津(現在の三重県津市・結城神社辺りの港)より北畠親房・伊達行朝・中村経長等と共に海路から奥州へ向かおうとしたが、海上で遭難し、安濃津の港に漂着。
間も無く、老齢での無理が祟ったのか、体調を崩し、その地で病没した。
皇居外苑から今も日本を見守る大楠公 〜東日本大震災でのエピソード〜
皇居外苑の大楠公像にて、今回の湯島での講演も大盛況、お越しになられた多くの方々に楠公精神と國體の真実について伝え、大和魂を発揚させて頂いた事をご報告した。
「雨の日も風の日も、こうして私達を見守ってくださっているのですね」
ふと、そう仰る声が聴こえた。
実は、東日本大震災の時、帰宅難民となられた方々の為の救護テントが張られたのもここ大楠公像前。
現代に亘って尚、楠公の魂は生き続けている。
大楠公に感謝の言葉を述べ、講演の大成功をお伝えした直後、一陣の風が大楠公像の方角から吹き抜けた。
神威が発動される時には神風が吹く。
まさに、これは大楠公の神威を表した神風であった。
私のご先祖・楠木正勝公のお墓参りへ 〜奈良県吉野郡十津川村・湯泉寺温泉〜
私の先祖は楠木正成だが、楠木正成の三男・正儀の長男・正勝は、楠木家直系の池田家に対して、楠木家嫡流であり、伊勢楠氏の祖である。
私はこの伊勢楠氏の血脈にあたる。
楠木正勝は、南北朝合一に尽くし、北朝に走った父・正儀と対立し、北朝と徹底抗戦を続けた。
しかし、間も無く、楠木本城である千早城が落城し、祖父・楠木正成の頃から懇意にしていた十津川郷士を頼った。
十津川郷で持病を煩い、同郷の湯泉寺温泉で湯治を行いつつ、再起を図ったが、志半ばにして病死した。
十津川郷で持病を煩い、同郷の湯泉寺温泉で湯治を行いつつ、再起を図ったが、志半ばにして病死し、その死を悼んだ地元の人々が、正勝が隠棲していた十津川郷武蔵の地に墓碑を建立し、菩提を弔った。
正勝の長男・正顕は、伊勢国司の北畠氏を頼り、北伊勢へ基盤を移し、現在の三重県四日市市の楠城、同県いなべ市の治田城を築き入城し、伊勢楠氏は隆盛を誇る事となる。
時代くだり、戦国時代、織田信長の重臣だった佐久間信盛が信長の不興を買って追放された後、十津川郷にやって来て、自身が尊崇していた楠木正勝の史跡の傍で隠棲した。
彼の墓も、その遺言通り、彼の尊崇してやまぬ正勝公の墓碑の隣に建立された。
今回、楠公研究会賛助会員で「俵屋工房」の絵師・高橋亮馬画伯にご招待頂き、ご先祖・楠木正勝公のお墓参りにお連れ頂いた。
また、正勝公が実際に入ったという湯泉寺温泉にも宿をとって頂き、大変温かいご歓待を賜わった。
高橋亮馬画伯の作品は、東京国立博物館に展示されており、今後は、日本の神々を描きたいと益々、その尊い志を立てていらっしゃった。
長年にわたり、いつも大変お世話になっている高橋画伯に心より感謝申し上げます。
國體護持派と反日勢力との熾烈な死闘
また在庫切れ表示‼️これは異常事態だ‼️本の中で安倍晋三元首相と私との知られざるやり取りを書いているからその全容を知られたくない勢力の圧力だ‼️版元には在庫ありAmazonの在庫切れは誤表示で注文できるのでどしどしご注文を‼️反日勢力の圧力には屈ない‼️御協力宜しくです‼️
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建武中興と楠木正成の真実 ~大楠公の地元で洗いざらい事実をお話ししてきました~
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建武中興の立役者・万里小路藤房の終焉地・滋賀県湖南市三雲【妙感寺】
滋賀県湖南市三雲の南朝ゆかりの地・妙感寺へ参詣。
妙感寺の開山は授翁宗弼(じゅおうそうひつ)。
俗名は藤原藤房。
後醍醐天皇の建武中興に尽力した楠木正成、新田義貞と並ぶ「建武三忠臣」の一人。
万里小路藤房(までのこうじふじふさ)とも称され、楠木正成の最たる盟友の1人である。
この藤房の終焉の地として、彼の墓所があるのがここ妙感寺であり、南朝とは深い縁がある。
楠木正成の妻は藤房の妹・滋子と伝わる。
拙著『建武中興と楠木正成の真実』でも触れているが、楠木家と万里小路家との縁戚関係から、笠置挙兵時の後醍醐天皇の「南木の夢」の折、藤房は義理の弟にあたる正成を後醍醐天皇に推挙したと考えられる。
実際、正成に笠置参陣の勅使として楠木館に遣わされたのも、万里小路藤房であり、全ての辻褄が合致する。
元弘元年(1331)9月28日未明、風嵐に見舞われる中、鎌倉幕府方で組まれた決死隊の急襲を受け、笠置城は陥落。
瞬く間に猛火に包まれ、50ヶ寺と共に本尊の弥勒菩薩もろとも焼失した。
後醍醐天皇と藤房は辛くも笠置城を脱出し、正成の籠る河内の赤阪城を目指したが、程無く道に迷い、有王山(京都府井手町)の山中に迷い込んでしまう。
有王山麓の松の下で「さしてゆく笠置の山を出でしより、あめが下には隠れ家もなし」とお詠みになると、藤房卿は「いかんせん慿む蔭とて立ち寄れば、なお袖濡らす松の下露」と返され、天皇を慰められた逸話は余りにも有名である。
この後、天皇と藤房は幕府方の追っ手に捕らえられ、隠岐島に配流となる。
天皇が配流された後も、楠木正成は赤阪城、千早城で籠城戦を展開した。
楠木軍によって散々に翻弄される幕府の大軍を目の当たりにし、鎌倉幕府の御家人・新田義貞、足利高氏らが幕府に失望し相次いで離叛。
伯耆国の豪族・名和長年が隠岐島から天皇を奪還すると、形勢が宮方有利に転じた。
足利高氏が京都の六波羅探題を、新田義貞が鎌倉を陥落させ、北条一門は自刃、鎌倉幕府は滅亡し、ここに建武の中興が成立した。
建武中興の成立後、藤房は後醍醐天皇の親政のもとで恩賞方を務めた。
武家への恩賞が余りに薄い事を受け、武家の離叛を恐れた藤房は後醍醐天皇に対して諫言したものの聞き入れられず、藤房は政治に絶望。
建武元年(1334)に39歳で突如出奔して出家し、諸国を放浪した。
「授翁宗弼」と号し、公卿時代の知行地であった江州三雲の郷に於いて、後醍醐天皇念持仏の千手観音を奉安する持仏堂を建立したのが妙感寺の開基で、持仏堂が本堂。病を得、療養の為、三雲に移り妙感寺に穏棲。
天授六年(1380年)3月28日、85歳で亡くなった。
本堂の横には、五輪塔が立つ大師の墳墓がある。
6月も宜しくお願い致します 〜収録中にまさかの放送事故・本当にあった恐い話・臨死体験・近況報告etc〜
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今秋、1000人超えの大イベントに出演します!
神社本庁所属神主・第25代楠公嫡孫・楠公研究会代表理事・表千家茶道教授者・池坊教授・作家
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【奈良まほろば円舞会】→ https://mahoroba-dance.or.jp/
「まほろば円舞会」は2009年平城遷都1300年祭のプレイベントで、天平衣装を着てワルツ(円舞)を 踊ろうとの発想で生まれ、県庁前回廊特設ステージで始まり,2010年まほろば円舞会実行委員会を設立、平城遷都1300年祭に県民事業として、「2010まほろば円舞会」・なら100年会館大ホールで開催。
2015年秋に「NPO法人まほろば円舞会」を設立。 「まほろば円舞会®」の名称を特許庁に申請、商標登録を取得する。“まほろば円舞会®”
以後、なら100年会館大ホールで毎年開催を経て、2021年13年目を迎えた。
1階席部分使用、ステージ所要時間3時間30分間、18~20ステージ団体が参加。スタッフを入れて「2019まほろば円舞会」では総動員数約1500人の人気イベントとなる。
“「まほろば円舞会」は1幕と2幕で休憩を挟んで3部構成。
1幕は“万葉ダンスファンタジー”・万葉集をテーマにした音楽劇のダンスファンタジー演出。
2幕は生涯学習で学んでいる、子供から高齢者・障がい者が一同に集い、世代やダンスジャンル垣根を越えた、一般市民参加の音楽とダンスの祭典。
楠公祭、無事終わりました 〜湊川神社・湊川の戦い〜
楠公祭本祭、無事、斎了されました。
687年前の旧暦の本日、楠木正成公は、ここ湊川の地にて七生報國を誓い殉節されました。
その後、水戸藩主・徳川光圀公によってこの地に「嗚呼忠臣楠子之墓」墓碑が建立され、幕末に維新の志士らの崇敬の対象地となりました。
大東亜戦争末期には、楠公の精神を背負った英霊による菊水作戦、則ち沖縄特攻のもと、七生報國の鉢巻を巻き、護国の英霊が散華された事は記憶に新しいところです。
戦後GHQにより、大和魂の根源というべき楠公精神は封印されましたが、民族の尊厳として、この精神を後世に伝えていく事の必要性を尚一層、強く感じております。
楠公祭では、本殿での神事に引き続き、神能殿にて柳生新陰流兵法による演武と楠公歌の会による奉納、直会があり、多くの方々がご参列くださり、大いに賑わいました。
昨日今日と素晴らしい晴天に恵まれ、大楠公の神恩に感謝すると共にご参列くださいました皆様の楠公崇敬の思いに、深く感動しております。
まずは、無事の祭典斎了のご報告と御礼とさせて頂きます。
今後共、楠公嫡孫として精進して参りますので、引き続き、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
ご好評頂いております『建武中興と楠木正成の真実』https://amzn.asia/d/iBKeVYi も併せて宜しくお願い申し上げます。
#楠木正成 #末裔 #南北朝
【秘伝】楠流兵法 〜ご質問にお答えしていたら、超レアネタが飛び出した□〜
宝暦9年(1759年)に予州(現在の愛媛県)松山の法眼明逸が書き残した書物『通機図解』で、南北朝時代の武将・楠木正成が兵法戦略上、日頃から空を見上げて、雲の様子などから地震や嵐など天変地異を予測していたことが紹介されている。
南北朝の動乱を描いた『太平記』によると、元弘2年(1332年)、正成は四天王寺に入り、長老の寺僧に、聖徳太子が著し、四天王寺に納められている予言書「未来記」を拝見したいと申し出た。
正成は、長老の特別の計らいにより「未来記」を拝した処、次の一文を見出した。
「人王九十六代に当たつて、天下一たび乱れて、主安からず。この時、東魚来たつて四海を呑む。日西天に没すること三百七十余ヶ日、西鳥来たつて東魚を喰らふ。その後、海内一に帰すること三年、獼猴(みごう)の如くなる者天下を掠むること二十四年、大凶変じて一元に帰す。」
正成は記述を
「後醍醐天皇の世に天下が乱れ、東の魚(関東の幕府・北条高時)が天下を飲みこもうとする。日が西天に没してから(後醍醐天皇が隠岐に流されてから)三百七十余日の後、西の鳥(新田義貞)が東の魚を食らう(倒す)」
と解釈し、討幕が果たされて天皇の治天が近いことを確信した。
しかし、「未来記」ではそれに続き、建武政権が3年で崩壊し、足利尊氏が24年にわたって世を治める後や、湊川の戦いで、正成が義貞を逃し、玉砕する事によって、江戸の幕末、正成の楠公精神が日本人のイデオロギーとなって多くの志士の魂を揺さぶり、正成の魂が永遠のものとなる事、それによって、凶事が一変して本来の平和な国家となる事も予言している。
つまり、正成の湊川での玉砕は、600年先まで予知し計算し尽くされたた上での、未来の日本人のDNAを宿らせる為の自ら望んだ選択であったのだった。
正成は、義貞に見捨てられて孤立無縁となり、致し方無く自刃したのではなく、自身が描いた通りの自身の幕引き、いや、永遠の魂となる為の晴れ舞台として、自ら、そうゆう陣型で布陣しただった。
そんな訳であるから、無論、正成には一片の悲劇性たりとも皆無である。
天国の安倍元首相に届けたい想い ~吉田松陰の志~
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楠木正成、その生涯~その1~ 【小学生でも解るダイジェスト解説】
最近では教科書で習わない楠木正成。ご存知無い現代人は多い。また、イデオロギーが絡む南北朝時代は語るには難しい時代とされるが、これらを小学生でも解るようにダイジェスト解説してみました。南北朝という時代がほぼ理解頂けると思います。
YouTube版はこちら□
https://youtu.be/8xdy8-GpHDA
明日の誕生日10月4日から新曲CD「楠木正成/千早城」リリースします!
ネットショップのURLはこちら↓
https://www.nankou-kenkyukai.com/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%B0/
更に多くの方々へ楠公の名を広く知って頂く為の新たな一大プロジェクトを極秘裡に長らく進めて参りましたが、明日、令和3年10月4日にCDデビューが正式決定しましたので、新曲『千早城』にてCDデビューをさせて頂きます。
このプロジェクトは、大楠公誕生地近くにお住まいで音楽事務所「KAZUO SETOGI Music Office」を運営されていらっしゃる炭谷泰佑先生から「楠公の名を世に広く知って頂く為、是非とも、楠公をテーマとした歌を歌ってほしい」との有難きご依頼を賜り、後世に、楠公精神を継承する事を強く願いつつ、謹みまして、お申し出をお受けさせて頂き、この度のCDデビューに至りました。
歌のご指導と編曲は、ミュージシャン・みね栄二郎先生がお引き受けくださり、歌手としての経験が無く歌が不得手な私を、懇切丁寧にご指導くださいました。
また、スタジオレコーディングでは、レコーディングエンジニア・上田秀夫先生に大変お世話になりました。
CD推薦人として、楠公ゆかりの市の市長様や寺社様のご理解も頂きました。
そして、何より、この度の企画をしてくださいました弊会会員で「KAZUO SETOGI Music Office」運営の炭谷様には感謝の絶えぬ思いでございます。
企画が始まってからは、私の日々の顕彰研究活動も決して怠る事無く、本業である活動の合間を縫ってスキマ時間を見つけては、1日数分だけでも毎日、ボイストレーニングを欠かさず続けました。
みね先生からは、「努力とは、口に出さず、人知れず黙って行う努力こそが本物の努力」との薫陶を頂きました。
誠にその通りであると、今改めて、感じております。
#大楠公 #CDデビュー #武士道
皇居 大楠公像に楠公精神復活と日本再生を誓う 〜七生報國〜
元航空自衛隊パイロットで楠公研究会賛助会員の守谷幸彦様の招聘によりパラリンピック開催の中、関東訪問へ。
関東入りしまずは皇居を遥拝、外苑の先祖の銅像へご挨拶をさせて頂きました。
大楠公像は、御所のすぐ目前にて、皇室をしっかりとお護りしておられます。
毎回ここに立ちますと、第二の故郷へ戻ってきた想いが致し感慨無量です。
この地は、日本人の大和魂が蘇る聖域と思っています。
まずは、守谷様が大楠公に「山下氏を関東にご案内させて頂く」旨のご挨拶をされ、続いて、守谷様と共に御歓迎をくださいましたBlooming Lotusの佐倉亜希子様が藤田東湖先生の『文天祥正気の歌に和す』を奉唱されました。
ここ数日、関東巡礼のハードスケジュールにて暫し投稿が途絶え失礼致しました。
守谷様はじめ関東の同志の皆様に、御心尽くしのご歓迎を賜りました事、心より厚く御礼申し上げます。
今後の投稿では、関東訪問の行程を発信して参ります。
【YouTube版→https://youtu.be/jUfvqnRzoN4】
※今回の訪問は、楠公研究会の公的行事ではなく、私個人がお招きを頂いた私的訪問となりますので、楠公研究会会員の皆様には何卒ご理解の程宜しくお願い申し上げます。
#皇居 #楠木正成 #國體護持
南朝とは何だったのか・國體を世に示したという意義 ~長慶天皇終焉の地・涼を求めて奈良天河みたらい渓谷へ~
南朝とは何だったのか・國體を世に示したという意義 ~長慶天皇終焉の地・奈良天河みたらい渓谷~
第12回楠公研究会会「葛木神社と国見城跡~金剛山攻防戦の戦跡を辿る~」
平成30年7月27日金曜日午後1時半より、奈良県御所市の葛木神社にて開催させて頂きました「第12回楠公研究会・葛木神社と国見城跡~金剛山攻防戦の戦跡を辿る~」の活動記録動画です。
【ameblo】
https://www.nankou-kenkyukai.com/%E6%B4%BB%E5%8B%95%E5%A0%B1%E5%91%8A%EF%BC%93/
当日は葛城宮司様のお心づくしのお心遣いと、多くの皆様のご参加のお陰をもちまして、盛況裡に終える事ができました事、心より厚く御礼申し上げます。
葛木神社での正式参拝に引き続き、楠公研究会会員の伊藤氏より、葛木神社の御祭神とゆかりの深き「イージス艦こんごう」の模型奉納と、葛城宮司様の温かいご厚意にて、模型奉納奉告祭も斎行いただきました。
その後、社殿にて宮司様から、神社のご由緒と大楠公の事跡についてのご講話を賜り、その後、金剛山頂の国見城跡へ移動し、今も遺る千早攻防戦当時の城跡の石垣や井戸、手水鉢等を見学させていただきつつ、国見城の構造を学びました。
また、国見城跡の傍の茶店では、千早城の戦い時から使われている井戸水を使ったコーヒーもご馳走になりました。
一般的には、「千早城をはじめ、金剛山には大楠公当時の遺構は全く残っていない」等と流布されていますが、実際には千早城跡にも石垣は一部残されておりますし、葛木神社には「福石」をはじめとした南北朝当時創建の矢刺神社の祠、国見城には石垣や手水鉢、井戸等多くの遺構が遺されているのです。
こういった事実は、現地に赴き、現地にゆかりの深き方々からお教えいただかなくては判らない事であり、だからこそ、私共楠公研究会が学び続ける意義があるのだと改めて痛感いたしました。
学会等にて定説とされている「大楠公に纏わる遺構はほとんど残っていない」の常識は、意識的に楠木一族の事蹟を幻のものとし、封印、風化させんが為の意図もあるのかもしれません。
しかし、私は、末裔として、先祖の真実が消されていくのを黙認はできない、その一念において、今後も微力ながら、顕彰活動を続けていきたいと思っています。
当日大変丁重なる御教授を賜りました葛城宮司様、そして、遠路も含め各地域からお運びくださいましたご参加者の皆様に、心から感謝でございます。
無病息災を祈る蘇りの神事『お火焚祭』のお火焚串を今年も拝受しました ~湊川神社摂社・楠本稲荷神社~
湊川神社のお火焚祭は、毎年12月8日に湊川神社の摂社・楠本稲荷神社で斎行される神事。
巫女が釜で沸かし米や酒を入れたお湯に笹を浸し、周りに振りまいて穢れを祓う『湯立神事』によって家内安全や商売繁盛、無病息災を祈願します。
また、神職らによって崇敬者の願文が書かれたお火焚串を焚き上げる「お焚上神事」も行われます。
12月8日という日付は、大東亜戦争開戦日ではあるが、当神事はそれに因んだものではなく、神道に於ける『事始め・事納め』という節目の日であり、その年の豊作への感謝、翌年の豊作の祈願のみならず、歳神をお迎えする準備に入る日とされる為に、この日に行うものです。
間もなく冬至も近く、日神の力を蘇らせる為に火を焚きその力を養うという意味も込められている、言わば『蘇りの神事』なのです。
尚、楠本稲荷神社は、湊川神社が鎮座する前からこの地に鎮まる神であった為に、『もとからあった神社』として『楠本稲荷神社』と名付けられました。
現在では、赤燈籠の美しい社殿内がインスタ映えするとして人気を博しています。
神戸ともみ組発足式並びに稲田朋美代議士記念講演会・神戸ともみ組会長山下弘枝誕生日会、満席にて申込受付締切の御報告
来る10月4日日曜日午後12時から神戸湊川神社本殿にて執り行います『神戸ともみ組発足記念式、並びに稲田朋美代議士記念講演会・神戸ともみ組会長山下弘枝誕生日』のお申し込みは、昨日を以て、満席となりました為に、受付を締め切らせて頂きます。
アフターコロナによるソーシャルディスタンスへの配慮の為、人数制限が厳格となりました事につきましては御理解の程宜しくお願い申し上げます。
尚、当日は稲田代議士には、懇親会までご同席頂きますが、それを以て致しましても、大人数の御参加者となりますので、稲田代議士、又、私共に、全てのご出席者の皆様お1人お1人とゆっくりお話しをさせていただく事が難しいかもしれませんが、何卒、ご理解の程、宜しくお願い申し上げます。
では、当日、皆様とお目にかかれます事を心より楽しみに致しております。
☆神戸ともみ組会是☆
我が国は元来、皇祖神の男系嫡流末孫にして、皇祖神の霊統を最も強く継承する天皇陛下を仰ぎ、皇祖神や八百万神の御神徳を戴く事により国土国民を平安に治らしてきた神国である。
本朝開闢以降の悠久なる年月を通し、神々と共にある国民は道義心に溢れ、互いに助け合い、互いに譲り合い、互いに尊重し合ってきた。
しかし現状は全く趣が異なる。
これは大東亜戦争終了後のアメリカ進駐軍による統治以来、今まさに八百万の神々が本来の日本精神を取り戻すべく動き始めたのと時を同じくし、現代を生きる者として日本精神の復興を率先的に目指す使命が我々神戸ともみ組に与えられたと考える。
一つ一つの政策など枝葉末節に対する是々非々はあれど、稲田朋美代議士が日本精神を取り戻す事を真柱として活動をされている事は紛れも無き事実であり、なれば、我が神戸ともみ組は稲田朋美代議士を支持、支援する事と同時に、大楠公末裔たる山下弘枝を会長に据える事により、楠公精神の元に日本精神を発揚する事を目的とし、以下の通り、会是とする。
一 我が神戸ともみ組は真の国士たる稲田朋美代議 士を支持支援するものである。
一 神戸ともみ組は大楠公末裔である山下弘枝を会長に据える事により、楠公精神のもと、日本精神の復興を目指す
一 戦後教育によって貶められた日本精神と日本民族の誇りを復興し、且つ、日本民族本来の和の心と互いを思いやる温かく豊かな国民性を取り戻す事により、笑顔が溢れる社会作りに向けて邁進する。
以上
神戸ともみ組会長 山下弘枝
千早城攻防戦全容 〜千早城・葛木神社・金剛山頂〜(一般公開版)
今回、楠公研究会の一部有志役員と会員にて、千早城攻防戦の全容再調査の為、金剛山頂と千早城、葛木神社に取材へお伺いしました。
葛城宮司様より特別な許可を頂き、金剛山頂まで私の自家用車『千早号』で乗り入れさせていただいております。
現在、金剛山ロープウェイは運行を停止していますので、通常は、山頂までは徒歩となります。
ハイキング初心者で、約2時間弱で山頂へ登山できます。
許可車以外の車両の乗り入れは厳禁ですので、絶対に乗り入れないでください。
山頂では、葛城氏当主でいらっしゃる葛城宮司様の温かいご歓迎と御教授を賜り、千早城攻防戦の遺構を取材調査させていただきました。
山頂には、楠木正成が築いた石垣や正成も用いた手水鉢や井戸も当時の姿のままに残されています。
戦後の歴史学会では否定されていますが、この動画が真実です。
大変お世話になりました葛城宮司様、楠公研究会会員で美具久留御魂神社の青谷名誉宮司様、同じく会員で地元にて作曲家としてご活躍の炭谷様に心より篤く深謝御礼申し上げます。
♯戦後の歪んだ歴史観を糾す
『太平記』と「スパイゾルゲ事件」、そして今も尚続く情報戦 ~戦後自虐史観の虚に吠える~
現在、BSにて平成3年にNHK大河ドラマにて放送された『太平記』が再放送中という事で、丁度良い機会であるからその虚に吠えさせて頂く。
平成3年放送の大河ドラマ『太平記』は、古典『太平記』とは全くの別物であり、かの大河ドラマを以て『太平記』と認識せる現代人の多き事に強き遺憾の念を禁じ得ない。本来、『太平記』とは南朝側視点から描かれたものである。ところが、大河ドラマ『太平記』は足利尊氏視点から描いており、根本の本義が異質のものであり、かのドラマに『太平記』と銘打った事に悪意があった事は紛れも無き事である。足利尊氏視点から描くのでれば『梅松論』又は『足利尊氏』なるタイトルで良かったであろう。それを敢えて『太平記』と銘打った事に、裏で暗躍する工作員の意図を垣間見る事ができる。実は、大河ドラマ『太平記』の監修を担当したのが、大東亜戦争前夜の日本を震撼に陥れた、かの「スパイゾルゲ事件」首謀者・尾崎秀実の弟・尾崎秀樹であったのだ。ご存知の通り、朝日新聞記者であった尾崎秀実は、当時のソビエト連邦コミンテルン工作員として、近衛文麿に接近、そのブレーンとして近衛からの絶大なる信頼を得、近衛内閣に深く入り込み徹底した諜報活動を行った。日本が日支の泥沼戦闘へと引きずりこまれた挙句敗戦、占領という筋書へと導いた素地を作った者こそ、この尾崎秀実である。かくなる人物の弟が監修を手掛けた『太平記』の内容が如何なるものであるか、推して知るべし。果たして、従来の古典『太平記』は封じられ、後醍醐天皇の目指された『建武中興』の理念も歪曲、正成を単なる平和主義の河内の農夫然に位置付け、大衆に広く意識付けた。戦前から仕掛けられてきた情報戦は今も尚続いて仕掛けられ続けている。嘗て、この国にスパイなる工作員が存在し、その系譜は現代日本に今も蔓延り続けて、戦後日本を洗脳支配している事に国民は1日も早く気付かねばならない。
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配信1周年記念日 ~相方・山下弘枝の発信力~
無関心層への訴求力、私は有意義で、力は相方が圧倒的。
毎日投稿チャンネルです。
※当サイトの動画は私個人の感想や意見を述べており必ずしも真実ではありません。
独自の考え方、切り口を示す事により視聴者様の思考を促進する事を目的としています。
宜しくご理解ください。
また当サイトでは本音を喋っており善人を気取るつもりはありません。
視聴して不愉快になられる方はご視聴をお控えください。
もう一点、当サイトで公開している内容に著作権はありません。
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戦後の自虐史観により、建武の中興と勤皇の志士たち、護国の為に殉じた英霊の事蹟は封印されました。
建武中興の真の理念とは、神国の中興である。
大楠公の評価も「悲劇の武将」という観点から脱却せねば、建武中興の真実には迫る事ができません。
単に、南朝と北朝との戦いという局所的なものではなく、在るべき国家の、神国なる国體を再び中興すべく、全国の志士たちが奮起した大業、それこそが建武中興の真の姿と考えます。
後醍醐天皇が目指された尊き理念を、今再び、明らかにすべく、我々、楠公研究会は、国體護持と神国中興の一助となるべく、今後も尚一層、邁進していきます。
☆PV内のロケ地紹介☆
皇居外苑内大楠公像(東京都)
金剛山葛木神社(奈良県御所市)
元伊勢街道(三重県伊勢市)
国史跡斎宮趾内「正殿」(三重県明和町)
塔尾山如意輪寺「後醍醐天皇御忌法要」(奈良県吉野町)
佐原の大祭山車巡行・東関戸区山車「大楠公」(千葉県香取市)
湊川神社楠公武者行列「発輿祭」(兵庫県神戸市)
湊川神社楠公武者行列「発輿祭」(兵庫県神戸市)
湊川神社本殿・内拝殿(兵庫県神戸市)
靖国神社神門(東京都千代田区)
予科練平和祈念館「雄翔館」(茨城県稲敷市)
神武天皇聖蹟鵄邑顕彰碑(奈良県生駒市)
大台ケ原 (奈良県上北山村)
熊野那智大社那智御瀧「飛瀧神社」(和歌山県那智勝浦町)
神戸空港 (兵庫県神戸市)
鳥見霊畤・等彌神社御神紋「金鵄」(奈良県桜井市)
熊野本宮大社旧社地「大斎原」(和歌山県田辺市)
伊勢神宮内宮「宇治橋」(三重県伊勢市)
笠置皇居前・本尊「弥勒摩崖仏」(京都府笠置町)
如意輪寺「後醍醐天皇御陵正辰祭」(奈良県吉野町)
楠木氏氏神・美具久留御魂神社(大阪府富田林市)
名和神社 (鳥取県西伯郡大山町)
後醍醐天皇御腰掛岩(鳥取県西伯郡大山町)
金ヶ崎宮(福井県敦賀市)
鎌倉宮(神奈川県鎌倉市)
小御門神社一の鳥居(千葉県成田市)
小御門神社拝殿(千葉県成田市)
檜尾山観心寺「楠木正成公御首塚」(大阪府河内長野市)
櫻井の驛趾・乃木希典揮毫「楠公父子訣別之處」碑(大阪府島本町)
南朝三帝皇居・堀家住宅「賀名生皇居」(奈良県五條市)
水郷佐原山車会館・東関戸区山車蔵(千葉県香取市)
佐原の大祭・東関戸区山車「大楠公」(千葉県香取市)
水戸駅北口「水戸黄門・助さん・格さん像」(茨城県水戸市)
南朝皇居・吉水神社「北闕門」(奈良県吉野町)
以上
【ゆっくり解説】世界の奇人・変人・偉人紹介【楠木正成】
コミュあります→co2018467
遅くなりました体調を崩しておりました。こんばんわ!今回は日本の忠義の男【楠木正成】です。出自に諸説あるこの人ですが、今回は悪党説で進めていきます!そっちの方がかっこいいからね!
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戦国武将紹介→sm33200014
戦術・作戦紹介→sm34573343
料理動画→sm32754859
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絵師様Twitter→@GesoSquidIka
主Twitter→@itukayaru0
K13様の作成してくれたMMDモデル→td43602
BGM→甘茶の音楽工房様、Music is VFR様 OtoLogic様
画像→Jonas Buddeberg, Bernhard Jenny
The Cartography and Geovisualization Group at Oregon State University
CC-SA-BY
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