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【捲土重来】陸奥国赤館城 平成26年(2014) 仲秋
2014年の9月中旬、福島県東白川郡棚倉町の赤館城址を訪れました。
北は阿武隈川、南は久慈川と東北と関東の分水嶺に位置する赤館城は、
建武年間に赤館伊賀次郎が赤館城主であった記録があることから、
南北朝時代以前に築城されていたと考えられています。鎌倉時代初期は、
伊達氏の飛地でしたが、南北朝時代以降は白河結城氏の勢力地として
常陸の佐竹氏との最前線になり、1560年頃には、上遠野盛秀が城代となり
、度々合戦の舞台となりました。
1590年、豊臣秀吉の奥州仕置により白河結城氏は改易、佐竹領、天領を経て、
1609年に立花宗茂が入城しますが、1622年、丹羽長重が入部し棚倉城を築くと
赤館城は廃城となりました。
お城→mylist/37297571
【百万石への野望】陸奥国岩出山城 平成26年(2014) 夏
2014年の8月、宮城県大崎市の岩出山城(臥牛城、岩出沢城)を訪れました。
岩出山城は、奥州探題大崎家の家臣、氏家直益が応永年間(1394~1427)に
築城した岩手沢城を、豊臣秀吉による奥州仕置によって米沢から
葛西・大崎旧領に移封となり新しく本城を築く必要があった伊達政宗が
大改築しました。
天正19年(1591)、政宗は入城し、岩出山城と名を改めます。
政宗が築いた岩出山城は、館と大手門の前面には二の構えという500mもの
防塁と城下町全体を一の構えという土塁で囲む、総構えの大城郭でした。
政宗が仙台城に移った後は、政宗の四男の宗泰を初代とする岩出山伊達氏の
居城となり、明治時代を迎え廃城となりました。
若林城→sm21747404
お城→mylist/37297571
【城井谷崩れ】豊前国城井谷城(城井ノ上城) 平成26年(2014) 冬
文治2年(1186)、平家滅亡に伴い豊前地頭職に任じられた宇都宮信房が
城井谷の一帯を本拠とし、その城井谷の奥に城井谷城はあります。
城井谷には他にも城があるので、城井ノ上(きいのこう)城と呼んで、
他の城と区別しているようです。
天正15年(1587)、太閤秀吉の伊予国への転封を拒んだ城井(宇都宮)鎮房は、
黒田長政に攻められますが、城井谷城に籠って抵抗し、黒田勢を敗走させます。
黒田官兵衛・長政親子は城井氏と和議を結びましたが、鎮房を中津城へ
招いて暗殺、肥後国一揆鎮圧の為に官兵衛に同行していた息子朝房も暗殺し、
城井谷を攻め落として、城井宇都宮氏は滅亡し、廃城となりました。
お城→mylist/37297571
【太閤の野望】肥前国名護屋城 其の五 平成26年(2014) 冬
天下統一を果たした豊臣秀吉によって、天正19年(1591年)から翌年にかけて、
加藤清正、寺沢広高が普請奉行となり、わずか8ヶ月で築城され、
唐入りの為の文禄・慶長の役の前線基地となりました。
当時、大阪城に次ぐ二番目の規模の巨城が肥前の漁村に突如として現れ、
朝鮮へ渡った兵士約20万、名護屋在陣の兵士約10万の計30万もの陣立ての
中心となっていました。
太閤秀吉の死後に廃城となり、唐津城へ石垣が移植されたり、
島原の乱以降に石垣の破却等ありましたが、
当時の遺構がほぼそのまま残る貴重な城址となっています。
今回は弾正丸から本丸を散策します。
前、山里丸→sm24058473
名護屋城其の一→sm23934577
お城→mylist/37297571
【太閤の野望】肥前国名護屋城 其の三 平成26年(2014) 冬
天下統一を果たした豊臣秀吉によって、天正19年(1591年)から翌年にかけて、
加藤清正、寺沢広高が普請奉行となり、わずか8ヶ月で築城され、
唐入りの為の文禄・慶長の役の前線基地となりました。
当時、大阪城に次ぐ二番目の規模の巨城が肥前の漁村に突如として現れ、
朝鮮へ渡った兵士約20万、名護屋在陣の兵士約10万の計30万もの陣立ての
中心となっていました。
太閤秀吉の死後に廃城となり、唐津城へ石垣が移植されたり、
島原の乱以降に石垣の破却等ありましたが、
当時の遺構がほぼそのまま残る貴重な城址となっています。
今回は本丸を散策します。
前、馬場~二ノ丸~遊撃丸→sm24026910
次、山里丸→sm24058473
お城→mylist/37297571
【太閤の野望】肥前国名護屋城 其の二 平成26年(2014) 冬
天下統一を果たした豊臣秀吉によって、天正19年(1591年)から翌年にかけて、
加藤清正、寺沢広高が普請奉行となり、わずか8ヶ月で築城され、
唐入りの為の文禄・慶長の役の前線基地となりました。
当時、大阪城に次ぐ二番目の規模の巨城が肥前の漁村に突如として現れ、
朝鮮へ渡った兵士約20万、名護屋在陣の兵士約10万の計30万もの陣立ての
中心となっていました。
太閤秀吉の死後に廃城となり、唐津城へ石垣が移植されたり、
島原の乱以降に石垣の破却等ありましたが、
当時の遺構がほぼそのまま残る貴重な城址となっています。
今回は馬場、二ノ丸、遊撃丸を散策します。
前、大手口~三ノ丸→sm23934577
次、本丸→sm24045813
お城→mylist/37297571
【太閤の野望】肥前国名護屋城 其の一 平成26年(2014) 冬
佐賀県唐津市にある名護屋城址は
天下統一を果たした豊臣秀吉によって、天正19年(1591年)から翌年にかけて、
加藤清正、寺沢広高が普請奉行となり、わずか8ヶ月で築城され、
唐入りの為の文禄・慶長の役の前線基地となりました。
当時、大阪城に次ぐ二番目の規模の巨城が肥前の漁村に突如として現れ、
朝鮮へ渡った兵士約20万、名護屋在陣の兵士約10万の計30万もの陣立ての
中心となっていました。
太閤秀吉の死後に廃城となり、唐津城へ石垣が移植されたり、
島原の乱以降に石垣の破却等ありましたが、
当時の遺構がほぼそのまま残る貴重な城址となっています。
今回は大手口から、東出丸、三ノ丸を散策します。
次、馬場~二ノ丸→sm24026910
お城→mylist/37297571
【七六三】筑前国岩屋城 平成25年(2013) 冬
2013年の12月下旬。
福岡県太宰府市ある岩屋城を訪れました。
古代山城である大野城があった四王寺山の中腹の岩屋山の山頂に位置し、
文明十年(1478)前後に、大内氏の軍事拠点として築城され、
大内氏滅亡後、豊後の戦国大名大友宗麟が、高橋鑑種を城督としていましたが、
鑑種が反旗を翻したので、吉弘鎮種が高橋家と岩屋城を継いで、後の高橋紹運となります。
九州制覇を目論む島津軍の前に城兵七百余名全員が討ち死にした
壮絶な岩屋城合戦の舞台になりました。
秀吉の九州平定後、筑前の国は小早川隆景の領国となり、岩屋城は廃城になりました。
今回の動画はテキストが多めです。
立花城→sm23434878
お城→mylist/37297571
【古代国防】筑紫国大野城 平成25年(2013) 冬
2013年の12月下旬、福岡県大野城市にある大野城を訪れました。
日本書紀に665年に築城された記録が残っており、1300年以上前の古代の城です。
663年の朝鮮半島における白村江の敗戦により、同盟国の百済の高官が
築城に関わり、国防の最前線として、太宰府の北の四王寺山の周囲8Kmを
土塁と石塁の城壁で覆った「朝鮮式山城」とも呼ばれています。
歴史の教科書に出てくる防人が、遥か遠く東国(関東)等から、
ここ大野城のような北部九州各地の軍事施設を防衛していました。
※JT殿、広告ありがとさんでござんす♡
お城→mylist/37297571
【鎮西一】筑前国立花山城 平成25年(2013) 冬
2013年の12月下旬。
福岡県粕屋郡と福岡市東部にまたがる立花山城を訪れました。
立花山城周辺の香椎郷は鎌倉後期に大友氏の所領となり、
建武年間(1334-1338)に一族の立花貞載(さだとし)が築城したと伝わります。
永禄年間(1558-1570)に立花鑑載(あきとし)が毛利方に転じ没落し、
大友家の宿老、戸次鑑連(べつきあきつら、後の立花道雪)を城主としました。
豊臣家の九州征伐の際は、秀吉に「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一」と
賞賛された立花統虎(むねとら、後の宗茂)が城主を務め。
九州国分け後に小早川隆景の支城となりますが、
関ヶ原後の黒田家の時代に廃城になったと考えられます。
岩屋城→sm23764210
お城→mylist/37297571
【四百三十七】越後国春日山城 平成26年(2014) 春
2014年の4月13日。
新潟県上越市の春日山城を訪れました。
動画を投稿する今日4月19日はグレゴリオ暦の上杉謙信公の命日になります。
さらに、上杉景虎公、上杉景勝公も現在の暦だと4月19日が命日にあたります。
三公への手向けとしてこの動画を投稿します。
太陽暦だと月日と季節は合うはずなので、旧暦の命日である3月13日よりは
当時の季節に近い雰囲気だと思います。
※霞舞伎殿、広告ありがとさんでござんす
夏の春日山城→sm21440268
冬の春日山城→sm23331974
お城→mylist/37297571
【雪と山と】越後国春日山城 平成26年(2014) 冬
2014年の2月上旬。
新潟県上越市の春日山城を訪れました。
春日山城は、越後長尾家の祖、長尾景恒公の息子の長尾高景公が
南北朝時代の1300年代の後半に築城したとされ、
謙信公の父、長尾為景公が拡張し、現在の形となりました。
独立山塊で三方が山に囲まれ、西南方面が傾斜はやや緩いですが、
他は急斜していて、難攻不落の自然の大城郭です。
越後兵の強さの秘密が、この雪道を歩けば分かるような気がしました。
雪道でバランスを保つ為のインナーマッスルが鍛えられていたのだと思います。
雪に不慣れな方でこの時期に行かれる方は雪山の装備をしっかりとすることを
お勧めします。
※きりち殿・霞舞伎殿、広告ありがとさんでござんす。
春→sm23358865
夏→sm21440268
お城→mylist/37297571
【慶長出羽合戦】出羽国長谷堂城 平成25年(2013) 初冬
2013年の12月初旬。
山形県山形市にある長谷堂城址を訪れました。
長谷堂城は、永正11年(1514)に伊達稙宗(だてたねむね、伊達政宗の曽祖父)が
最上氏より落城させた事が一番古い記録として残っています。
慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の時期に、東軍方の最上氏は西軍方の上杉氏と
ここ長谷堂城を舞台に激しい攻防を繰り広げました。
関ヶ原での西軍敗退により、上杉軍は撤退し、直江兼続の見事な撤退戦等も
ありましたが、最上氏が城を守り抜きました。
その後、元和8年(1622)最上氏の改易とともに廃城になったようです。
お城→mylist/37297571
【三日月の…】陸奥国三戸城 平成25年(2013) 晩秋
2013年の11月初旬。
青森県三戸郡三戸町にある三戸城を訪れました。
三戸城は、三戸南部氏により、戦国時代(16世紀中ごろ)、
それまで居城としていた聖寿寺館(現南部町)の焼失に伴って、
南部晴政が現在の三戸町中央部の独立した段丘に築城しました。
江戸時代に入ると南部氏の本拠は盛岡城へと移り、三戸城は御古城として
盛岡藩主により大切にされました。
※waka殿、広告ありがとうでござる。
お城→mylist/37297571
【清党牙城】下野国飛山城 平成25年(2013) 秋
2013年の10月。
栃木県宇都宮市にある飛山城址を訪れました。
飛山城は芳賀高俊によって、鎌倉期の永仁年間(1293~98)に
築かれたと伝えられています。
芳賀氏は元は清原氏であり、源頼朝の奥州合戦に参加した
宇都宮朝綱の有力武将であり、
宇都宮氏の益子氏(紀氏)と並び紀清両党と称せられ、武勇を誇っていました。
西に鬼怒川、北は崖に守られた飛山城は
鎌倉期より度々戦の舞台となりましたが、
豊臣秀吉の小田原征伐後の城の破却命令により、
廃城になったと考えられています。
お城→mylist/37297571
Elona 爆弾正プレイ その25
生麦生米生弾正
本当は三神爆殺動画を弾正の日に上げたかったが叶わなかった。最近忙しくなったので投稿ペースは落ちる見込み。一応多少の撮り貯めはあるが。
第一回:sm21198146 前回:sm21982798 次回:sm22033895
一覧:mylist/37607853
【相模の獅子初陣】武蔵国小沢城 平成25年(2013) 夏
2013年の9月。
神奈川県川崎市と東京都稲城にある小沢城を訪れました。
平安時代末期より、源頼朝の家臣稲毛三郎重成が城主を務め、
小沢郷を領した為、子孫は小沢性を称していました。
鎌倉時代末期の分倍河原の戦い後、幕府軍を打ち破った新田義貞によって
攻め落とされ、1530年には城近くの小沢原の戦いで、北条氏康が見事に
初陣を飾っています。
府中街道、鎌倉街道、多摩川を見下ろし、その立地だけでも
多摩地方の重要な拠点であったことが分かります。
※解説板の字が小さいかもしれませんので、
右下から画面を大きくして見ることをお勧めします。
※JT殿、広告ありがとさんでござんす♡
お城→mylist/37297571
【ふるき郭】武蔵国深大寺城 平成25年(2013) 夏
2013年の8月、東京都調布市にある深大寺城を訪れました。
天文六年(1537)年春に、扇谷上杉朝定によって再興され、
南の後北条氏への備えとして家臣の難波田弾正が配されていましたが、
同年夏、後北条氏によって河越城が落城した為、
難波田弾正は城を打ち捨て撤退。そのまま廃城となり、後北条氏の改修のない
扇谷上杉氏の中世城郭の特徴を伝える貴重な城跡となっています。
漫画『東京城址女子高生』の第3話の舞台でもあります。
※タグの追加と沢山のコメントありがとうございます(__)
お城→mylist/37297571
【残躯天所赦】陸奥国若林城 平成25年(2013) 夏
2013年の8月。
宮城県仙台市若林区の若林城を訪れました。
寛永五年(1628年)に伊達政宗公の隠居の城として築城され、
寛永十三年(1636年)に公の死とともに廃城になったとされています。
「独眼竜」や「遅れて来た風雲児」等の苛烈な印象の公ですが、
晩年はこの若林城で「馬上少年過」のような余生を過ごしたはずです。
現在の状況が少し残念ですが、いつか城址として整備されるのを期待したいと
お城→mylist/37297571
【一の巓嶽】陸奥国向羽黒山城 平成25年(2013) 夏
2013年の8月。
福島県大沼郡会津美里町の向羽黒山城(むかいはぐろやま)を訪れました。
奥州会津の地を四百年に渡って治めた葦名氏の、
第十六代盛氏公が永禄4年(1561)頃に築城し、
直線で6Km離れた黒川城(鶴ヶ城)の詰めの山城、
盛氏公の隠居城として使用されていたようです。
伊達氏、蒲生氏、上杉氏と数々の大名家が改修を加えたようですが、
上杉氏の米沢移封により、廃城になったと伝えられています。
東日本最大級山城の名に恥じぬ。巨大な山城です。
最後は葦名家廟にも訪れています。
お城→mylist/37297571
【奥羽に天下を】陸奥国神指城 平成25年(2013) 夏
2013年の8月。
福島県会津若松市の神指城(こうざしじょう)を訪れました。
築城は慶長五年(1600)三月、上杉景勝が直江兼続に命じ、
佐竹家、前田家から石垣職人が数百人応援に来て、
領内から八万人を動員して大城郭が築かれるはずでしたが、
六月に徳川家の上杉遠征の為、工事は中止となり、
関ヶ原後の上杉家の米沢転封の為、そのまま廃城となりました。
廃城後、石垣等は若松城に転用されたようです。
お城→mylist/37297571
【直江山城】越後国与板城 平成25年(2013) 夏
2013年の7月。
新潟県長岡市の与板城を訪れました。
築城時期は天正年間(年数は不明)で、
直江実綱(景綱)の代と考えられています。
東頸木丘陵の北端にある城で、
弥彦・新潟方面への抑えとして軍事上の要衝でした。
上杉氏の会津転封まで、直江氏三代の居城となりました。
お城→mylist/37297571
【直江三代】越後国本与板城 平成25年(2013) 夏
2013年の7月。
新潟県長岡市の本与板城を訪れました。
築城時期は不明ですが、
建武元年(1334年)に新田氏一族の籠沢入道が築城したと伝えられ、
その後、越後守護上杉氏の重臣である飯沼氏が居城としていました。
飯沼氏が長尾家によって滅ぼされた後は、直江氏が景綱・信綱・兼続の
三代に渡って治めました。
直江氏が本拠を与板城に移した後も支城として機能していたようですが、
上杉氏の会津移封と共に廃城になったと考えられています。
お城→mylist/37297571
【越後の龍】越後国栃尾城 平成25年(2013) 夏
2013年の7月。
新潟県長岡市の栃尾城を訪れました。
築城主は不明ですが、
築城年は室町時代初期~中期と言われ、
1610年に堀氏の没落に伴い廃城となりました。
謙信公の頃は本庄氏が城主を務めていました。
謙信公が十四歳~十九歳まで過ごし、
栃尾城の戦いで初陣を見事に飾った地だと思うと
ただの山郷には見えなくなってしまいます。
お城→mylist/37297571
【毘沙門天】越後国春日山城 平成25年(2013) 夏
2013年の7月。
新潟県上越市の春日山城を訪れました。
春日山城は、越後長尾家の祖、長尾景恒公の息子の長尾高景公が
南北朝時代の1300年代の後半に築城したとされ、
謙信公の父、長尾為景公が拡張し、現在の形となりました。
独立山塊で三方が山に囲まれ、西南方面が傾斜はやや緩いですが、
他は急斜していて、難攻不落の自然の大城郭です。
最後は林泉寺と東城砦、御館も訪れています。
春→sm23358865
冬→sm23331974
お城→mylist/37297571
【関東管領】上野国平井城 平成25年(2013) 夏
2013年の7月。
群馬県藤岡市の平井城を訪れました。
永享10年(1438年)、関東管領上杉憲実が築城したと言われ、
永禄3年(1560年)、後北条家の侵攻により越後へ逃れた関東管領
上杉憲政の要請を受けた長尾景虎が北条から奪還後、
関東の拠点を厩橋城(後の前橋城)に移したため、平井城は廃城となりました。
現在は本丸以外は開発され、見る所は少ないですが、
関東管領や謙信公好きな方は一度は訪れるべき場所ではないでしょうか。
藤岡の町と西上州の風景もなかなか良かったですよ。
※タグの追加とたくさんのコメントありがとうございます(_ _)
お城→mylist/37297571
【我に七難八苦を】出雲国月山富田城 平成24年(2012) 夏
2012年の7月に島根県安来市にある
尼子氏ゆかりの城、月山富田城を訪れました。
天気が悪かったのもあったのですが、
三連休の初日なのに、城で会った人は2組4人だけでした。。。
でも、凄く良い所ですよ。
みなさんも是非、月山富田城を訪ねてみてください。
お城→mylist/37297571
廃城 八王子城
北条氏の本城、小田原城の支城であり、関東の西に位置する軍事上の拠点であった。延喜13年(913年)に華厳菩薩妙行が山頂で修行中に牛頭天王と8人の王子が現れた因縁で延喜16年(916年)、この城の山頂に八王子権現を祀ったことから、八王子城と名付けられた。本来、籠城戦は敵味方双方の人命を優先する戦法が主流だった。しかし、八王子城攻めは小田原への見せしめの意味もあり、秀吉軍は全滅目的で徹底的に攻撃した。多くの婦女子は首を刎ねられ、小田原でさらし首にされたのだ。
高井城址(茨城県取手市)
茨城県取手市、近くまで行ったので撮影
取手市内で最も大きい城跡で、築城時期は不明、相馬氏の城であったが、戦国時代後期の天正18年(1590)に小田原の役で北条氏に味方したため、その後廃城になったとの事
取手という名の由来は、平将門が砦を築いたからだという説があります
YouTube(HD)http://www.youtube.com/watch?v=jXCCWCXvBhM
いままでに上げたもの mylist/8024589