タグ 後醍醐天皇 が登録されている動画 : 57 件中 1 - 32 件目
種類:
- タグ
- キーワード
対象:
【声変版】後醍醐天皇の倒幕計画
西暦1,324年10月7日
早朝、鎌倉幕府が小串範行・山本時綱に軍を率いさせ、以下3名の討伐を命じる。また、六波羅探題が多治見国長と土岐頼有に出頭命令を下した。六波羅探題の2,000騎の兵を率いた山本時綱が堀川三条の宿所を急襲、土岐頼兼と多治見は少数の手勢で奮戦したが、最終的には館の裏手を突破され、頼兼は寝所で自刃、多治見も自害した。
①土岐頼兼
②多治見国長
③第7代足助家惣領足助重範
斎藤利行の倒幕計画に関する報告により、以下4名が鎌倉幕府の討幕を計画したという嫌疑をかけられていた。また、西暦1,324年10月11日を挙兵の日と定めていた。午後、六波羅探題は関東申次西園寺実衡を通じ、日野資朝・日野俊基の勾留を朝廷に要請し、夜に両名は六波羅探題に出頭した。
①第96代天皇後醍醐天皇
②公卿日野資朝
③公家日野俊基
④土岐頼兼
宇宙一元化 公式HP
https://universe-centralization.com/top.html
楠木正成の孫・楠木正勝が開いた寺院・山形県「耕福寺」
山形県置賜郡高畠町の耕福寺は、楠木正勝(能勝傑堂禅師)が開いた寺院。
建武2年、楠木正成は後醍醐天皇から、この地を所領として安堵され、楠木家の領地となった。
正成の孫・正勝(能勝傑堂)が、自身の寺である耕雲寺(現・新潟県村上市)から、旧楠木家所領近くの、日本三大文珠の一つで古刹「亀岡文珠」に参詣に訪れた際、高畠の地元の人々が「是非とも、元領主・正成の孫であるあなた(正勝)に、この地で寺院を開いてほしい」と依頼された。
地元の人々の熱い誓願を受け、正勝(能勝傑堂)が建立したのが耕福寺である。
関西から遠く離れた山形県で、楠木家の元所領があった事に驚きであった。
この発見があった現地調査の帰り道、大きな虹が出現。
先祖の御霊が喜んでくれている事を強く感じた。
金胎寺から笠置寺に行幸の後醍醐天皇が渡った「祝橋」・休まれた「養生の芝」・女官が産気づいた「産坂」〜京都府和束町〜
今回は元弘の変で御所を脱出した後醍醐帝が東大寺・春日大社を経て金胎寺へ遷幸、その後笠置寺へ遷られる際に京都府和束町の知られざる秘境に伝わる逸話を、現地の方から現地取材。
楠公研究会賛助会員で、京都府和束町で「和所美土里屋」オーナーでもある和所氏にご案内頂いた。
金胎寺から笠置寺へ遷幸される際に、村人が祝橋という橋をかけた。
橋の用材として使われた木は和束町内に鎮座する八坂神社のご神木が用いられた。
今回は八坂神社調査の目的もあり、某神社のベテラン神職で、楠公研究会賛助会員でもある伊藤氏も同行。
なぜ、八坂神社の御神木を祝橋の用材としたのか、その知られざる意図を知る事ができた。
また、道中に腹痛を起こされた後醍醐天皇が暫し休息をとられた「養生の芝」へもご案内頂いた。
ここは金胎寺のある鷲峰山山麓の茶畑の真ん中にあり、地元の方の案内無しでは辿り着けない地である。
「養生の芝」は、新たに和束町長となられた馬場正実町長にお教え頂いた後醍醐天皇ゆかりの地である。
地元でしか知り得ぬ貴重な情報をご教示頂いた馬場町長に感謝です。
歴史書では語られぬ南北朝動乱前夜の真実の歴史がここにある。
【ゆっくり解説】念願の政権は3年で終了?絶対に諦めない不屈の天皇【後醍醐天皇】
ご視聴ありがとうございます!
今回は、とにかく諦めない後醍醐天皇について解説しました!
ちなみに、後醍醐天皇に反旗を翻している足利尊氏ですが、皇室を重んじていたようで、敵対勢力である護良親王の死を悲しんだといわれているほどです!
そんな足利尊氏の「尊氏」の名は後醍醐天皇から授かったものだそう!
このチャンネルは、歴史上の偉人の敗北や失敗を学び、少しでも生き方の参考になるような動画づくりを目指しています。感想・リクエストお待ちしていますので、気軽にコメントください!もちろん、チャンネル登録もよろしくお願いします!
「建武の新政」第89回黒田裕樹の歴史講座 2/7
この動画は第89回黒田裕樹の歴史講座「室町時代その1 ~南北朝の動乱と義満の野望~」のうち「建武の新政」の講演を、令和4(2022)年8月に新たに収録したものです。
動画のレジュメは「黒田裕樹の百万人の歴史講座」から入手できます。ぜひご加入ください。過去からの全てのレジュメを読むことができます。今なら20,000円で永久会員です!
http://1000000reki.jugem.jp/
ブログ「黒田裕樹の歴史講座」
http://rocky96.blog10.fc2.com/
「黒田裕樹の歴史講座」講演申し込みサイト
https://kokuboukai.com/category/history-study-session/kuroda-hiroki/
黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編
https://www.mag2.com/m/0001672748
#黒田裕樹
#後醍醐天皇
#建武の新政
#足利尊氏
#中先代の乱
#黒田裕樹の歴史講座
「鎌倉幕府の滅亡」第89回黒田裕樹の歴史講座 1/7
この動画は第89回黒田裕樹の歴史講座「室町時代その1 ~南北朝の動乱と義満の野望~」のうち「鎌倉幕府の滅亡」の講演を、令和4(2022)年8月に新たに収録したものです。
動画のレジュメは「黒田裕樹の百万人の歴史講座」から入手できます。ぜひご加入ください。過去からの全てのレジュメを読むことができます。今なら20,000円で永久会員です!
http://1000000reki.jugem.jp/
ブログ「黒田裕樹の歴史講座」
http://rocky96.blog10.fc2.com/
「黒田裕樹の歴史講座」講演申し込みサイト
https://kokuboukai.com/category/history-study-session/kuroda-hiroki/
黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編
https://www.mag2.com/m/0001672748
#黒田裕樹
#両統迭立
#後醍醐天皇
#正中の変
#元弘の変
#黒田裕樹の歴史講座
建武中興の立役者・万里小路藤房の終焉地・滋賀県湖南市三雲【妙感寺】
滋賀県湖南市三雲の南朝ゆかりの地・妙感寺へ参詣。
妙感寺の開山は授翁宗弼(じゅおうそうひつ)。
俗名は藤原藤房。
後醍醐天皇の建武中興に尽力した楠木正成、新田義貞と並ぶ「建武三忠臣」の一人。
万里小路藤房(までのこうじふじふさ)とも称され、楠木正成の最たる盟友の1人である。
この藤房の終焉の地として、彼の墓所があるのがここ妙感寺であり、南朝とは深い縁がある。
楠木正成の妻は藤房の妹・滋子と伝わる。
拙著『建武中興と楠木正成の真実』でも触れているが、楠木家と万里小路家との縁戚関係から、笠置挙兵時の後醍醐天皇の「南木の夢」の折、藤房は義理の弟にあたる正成を後醍醐天皇に推挙したと考えられる。
実際、正成に笠置参陣の勅使として楠木館に遣わされたのも、万里小路藤房であり、全ての辻褄が合致する。
元弘元年(1331)9月28日未明、風嵐に見舞われる中、鎌倉幕府方で組まれた決死隊の急襲を受け、笠置城は陥落。
瞬く間に猛火に包まれ、50ヶ寺と共に本尊の弥勒菩薩もろとも焼失した。
後醍醐天皇と藤房は辛くも笠置城を脱出し、正成の籠る河内の赤阪城を目指したが、程無く道に迷い、有王山(京都府井手町)の山中に迷い込んでしまう。
有王山麓の松の下で「さしてゆく笠置の山を出でしより、あめが下には隠れ家もなし」とお詠みになると、藤房卿は「いかんせん慿む蔭とて立ち寄れば、なお袖濡らす松の下露」と返され、天皇を慰められた逸話は余りにも有名である。
この後、天皇と藤房は幕府方の追っ手に捕らえられ、隠岐島に配流となる。
天皇が配流された後も、楠木正成は赤阪城、千早城で籠城戦を展開した。
楠木軍によって散々に翻弄される幕府の大軍を目の当たりにし、鎌倉幕府の御家人・新田義貞、足利高氏らが幕府に失望し相次いで離叛。
伯耆国の豪族・名和長年が隠岐島から天皇を奪還すると、形勢が宮方有利に転じた。
足利高氏が京都の六波羅探題を、新田義貞が鎌倉を陥落させ、北条一門は自刃、鎌倉幕府は滅亡し、ここに建武の中興が成立した。
建武中興の成立後、藤房は後醍醐天皇の親政のもとで恩賞方を務めた。
武家への恩賞が余りに薄い事を受け、武家の離叛を恐れた藤房は後醍醐天皇に対して諫言したものの聞き入れられず、藤房は政治に絶望。
建武元年(1334)に39歳で突如出奔して出家し、諸国を放浪した。
「授翁宗弼」と号し、公卿時代の知行地であった江州三雲の郷に於いて、後醍醐天皇念持仏の千手観音を奉安する持仏堂を建立したのが妙感寺の開基で、持仏堂が本堂。病を得、療養の為、三雲に移り妙感寺に穏棲。
天授六年(1380年)3月28日、85歳で亡くなった。
本堂の横には、五輪塔が立つ大師の墳墓がある。
【秘伝】楠流兵法 〜ご質問にお答えしていたら、超レアネタが飛び出した□〜
宝暦9年(1759年)に予州(現在の愛媛県)松山の法眼明逸が書き残した書物『通機図解』で、南北朝時代の武将・楠木正成が兵法戦略上、日頃から空を見上げて、雲の様子などから地震や嵐など天変地異を予測していたことが紹介されている。
南北朝の動乱を描いた『太平記』によると、元弘2年(1332年)、正成は四天王寺に入り、長老の寺僧に、聖徳太子が著し、四天王寺に納められている予言書「未来記」を拝見したいと申し出た。
正成は、長老の特別の計らいにより「未来記」を拝した処、次の一文を見出した。
「人王九十六代に当たつて、天下一たび乱れて、主安からず。この時、東魚来たつて四海を呑む。日西天に没すること三百七十余ヶ日、西鳥来たつて東魚を喰らふ。その後、海内一に帰すること三年、獼猴(みごう)の如くなる者天下を掠むること二十四年、大凶変じて一元に帰す。」
正成は記述を
「後醍醐天皇の世に天下が乱れ、東の魚(関東の幕府・北条高時)が天下を飲みこもうとする。日が西天に没してから(後醍醐天皇が隠岐に流されてから)三百七十余日の後、西の鳥(新田義貞)が東の魚を食らう(倒す)」
と解釈し、討幕が果たされて天皇の治天が近いことを確信した。
しかし、「未来記」ではそれに続き、建武政権が3年で崩壊し、足利尊氏が24年にわたって世を治める後や、湊川の戦いで、正成が義貞を逃し、玉砕する事によって、江戸の幕末、正成の楠公精神が日本人のイデオロギーとなって多くの志士の魂を揺さぶり、正成の魂が永遠のものとなる事、それによって、凶事が一変して本来の平和な国家となる事も予言している。
つまり、正成の湊川での玉砕は、600年先まで予知し計算し尽くされたた上での、未来の日本人のDNAを宿らせる為の自ら望んだ選択であったのだった。
正成は、義貞に見捨てられて孤立無縁となり、致し方無く自刃したのではなく、自身が描いた通りの自身の幕引き、いや、永遠の魂となる為の晴れ舞台として、自ら、そうゆう陣型で布陣しただった。
そんな訳であるから、無論、正成には一片の悲劇性たりとも皆無である。
第41回楠公研究会『建武中興と楠木正成の真実』出版記念講演会in靖国(令和5年2月25日 於:靖國会館「偕行の間」)
00:28 国家斉唱
01:45 来賓紹介
02:26 主賓・稲田朋美元防衛大臣 祝電披露
04:00 共催者・株式会社青林堂代表取締役社長・蟹江幹彦様 ご祝辞
05:42 来賓挨拶・靖國八千代食堂オーナー・高取宗茂様 ご祝辞
14:35 来賓挨拶・沖縄県議会議員・又吉清義様 ご祝辞
19:45 来賓挨拶・桜井の駅陣宿・清水家末裔・倉田美春様 ご祝辞
21:28 山下弘枝 講演
43:44 懇親会 於:不二楼4階BAR(通常入室不可)
第41回楠公研究会『建武中興と楠木正成の真実』出版記念講演会in靖国、約100名の方々にご出席頂き、満員御礼の大盛況裡にて開催させて頂きました!
主賓の稲田朋美代議士は、沖縄からの飛行機が天候による遅延により間に合わず、代理として大河内公設秘書がご臨席くださいました。
ここ大舞台を無事に終える事ができましたのは、ひとえにお支えくださる皆様のお陰様と、感謝に絶えぬ思いでございます。
Amazon歴史部門ベストセラーとして、拙著『建武中興と楠木正成の真実』連日上位ランキング入りを継続し続けており、大好評!
楽天等では売り切れ続出!
拙著は約80年かけてGHQが作り上げてきた自虐史観を思いっきり粉砕する内容となっております。
その為、私、現在、左翼陣営からの多くの圧力を受けております。
攻撃上等!戦い続けます!
つきましては、お志あられる皆様、ぜひ、沢山、お買い求め頂き、広く拡散のご協力を宜しくお願い申し上げます!
https://amzn.to/3J4G78l
靖国神社正式参拝に引き続き、当日の講演会の一部、Ban(多分大丈夫だと思います□)にならない程度に緩くしたものを一般公開しておりますので、是非、来賓の皆様、そして、私のド迫力のスピーチ、講演をご覧頂けましたらと存じます。
私の講演をご覧になられた皆様、一様に、見た目は可愛らしい女性だが、中身は何故か男性、しかも武将で、間違って女性に生まれてきてしまった、とご感想を頂き、光栄な限りでございます。
https://youtu.be/uNNuZo_BpIQ
懇親会は、八千代食堂オーナー・高取様の格別のご厚意にて、茅場町「不二楼」様の4階を貸切頂き、とても珍しい絶品の熟成寿司を有難く頂き、楽しい懇親の場となりました。
高取様のご配慮に、心より厚くお礼申し上げます。
#歴史 #わかりやすく #南北朝時代
戦後教育を粉砕する歴史本の出版記念講演会
実は私、疲労困憊だったりします。
毎日投稿チャンネルです。
※マスクを外して飲酒会食を楽しもう(西山飲酒会食俱楽部)。
&本動画に関する質疑応答会(西山塾)。
&マスク販売(武装マスク)
https://nohohondensha.jimdosite.com/
2月24日金曜日16時からオフ会。
残席はありません。
3月5日日曜日14時30分から西山塾
残席11名(老若男女不問)。
同日17時からの懇親会残席6名。
参加申し込み大募集中(老若男女不問)。
3月18日土曜日14時からオフ会。
残席はありません。
3月25日土曜日14時から飲酒会食倶楽部
残席4名。参加申し込み受付中(有資格者のみ)。
詳細は上記ホームページにてご確認ください。
西山塾への参加申し込み、大募集中です。
※以下、ご理解をお願いします。
当サイトの動画は私個人の感想や意見を述べており必ずしも真実ではありません。
独自の考え方、切り口を示す事により視聴者様の思考を促進する事を目的としています。
宜しくご理解ください。
また当サイトでは本音を喋っており善人を気取るつもりはありません。
視聴して不愉快になられる方はご視聴をお控えください。
もう一点、当サイトで公開している内容に著作権はありません。
知名度に関わらず自由にご発言ください。
ご意見、ご要望、ご感想やご提案はアメブロやツイッターでも受け付けています。
https://ameblo.jp/nohohondensha/
https://twitter.com/nohohondensha?lan...
後醍醐天皇の倒幕計画
西暦1,324年10月7日
早朝、鎌倉幕府が小串範行・山本時綱に軍を率いさせ、以下3名の討伐を命じる。また、六波羅探題が多治見国長と土岐頼有に出頭命令を下した。六波羅探題の2,000騎の兵を率いた山本時綱が堀川三条の宿所を急襲、土岐頼兼と多治見は少数の手勢で奮戦したが、最終的には館の裏手を突破され、頼兼は寝所で自刃、多治見も自害した。
①土岐頼兼
②多治見国長
③第7代足助家惣領足助重範
斎藤利行の倒幕計画に関する報告により、以下4名が鎌倉幕府の討幕を計画したという嫌疑をかけられていた。また、西暦1,324年10月11日を挙兵の日と定めていた。午後、六波羅探題は関東申次西園寺実衡を通じ、日野資朝・日野俊基の勾留を朝廷に要請し、夜に両名は六波羅探題に出頭した。
①第96代天皇後醍醐天皇
②公卿日野資朝
③公家日野俊基
④土岐頼兼
宇宙一元化 公式HP
http://universe-centralization.com/top.html
野々原茜=後醍醐天皇説
野々原茜学会追放も覚悟の上です。様々なネタバレがあると思います。頂いたコメントは後学のための励みと致します。
読み上げ音声はVOICEVOX:冥鳴ひまりです。
建武中興十五社・後醍醐天皇皇子 懐良親王を祀る八代宮と、自ら「日本国王」と名乗った足利義満
南北朝時代の歴史「建武中興十五社・後醍醐天皇皇子 懐良親王を祀る八代宮」
Emperor Go-Daigo: AMV/MAD【まんが日本史】後醍醐天皇(泥中に咲く)
https://youtube.com/channel/UCRNrlPq08nf_8MUoeTd_bYw
なぜ建武政権はわずか2年で崩壊したのか 〜「二条河原の落書(※現代語訳有り)」に仕掛けられた罠〜【小学生でも分かる南北朝時代の歴史】
つまり、建武政権瓦解の直接的キッカケの役割を担ったのは、建武政権樹立一年後に「京童(身元不明の京都市民の何者か)」によって突如建てられた立札で、建武政権の欠点を皮肉たっぷりにこき下ろした「二条河原の落書」の存在。
【原文】
此比都に流行る物、夜討、強盗、偽綸旨
召人、早馬、虚騒動、生頸、還俗、自由出家
俄大名、迷者、安堵、恩賞、虚軍
本領離るる訴訟人 文書入れたる細葛
追従、讒人、禅律僧 、下克上する成出者
器用の堪否沙汰も無く 漏るる人無き決断所
着付けぬ冠上の衣 持ちも慣らわぬ笏持ちて
内裏交わり珍しや 賢者顔なる伝奏は
我も我もと見ゆれども 巧みなりける詐りは
愚かなるにや劣るらん 為中美物に飽き満ちて
まな板烏帽子歪めつつ 気色めきたる京侍
黄昏時に成りたれば 憂かれて歩く色好
幾ぞ許ぞや数知れず 内裏拝みと名付けたる
人の妻鞆の憂かれ目は 他所の見る目も心地悪し
尾羽折れ歪むエセ小鷹 手ごとに誰も据えたれど
鳥獲る事は更に無し 鉛作りの大刀
太刀より大に拵えて 前下がりにぞ指折らす
バサラ扇の五骨 広輿、痩せ馬、薄小袖
日銭の質の古具足 関東武士の籠出仕
下衆上﨟の際も無く 大口に着る美精好
鎧直垂なお捨てず 弓も引き得ず犬逐物
落馬矢数に勝りたり 誰を師匠と無けれども
遍く流行る小笠懸 事新しき風情無く
京鎌倉を掻き混ぜて 一座揃わぬエセ連歌
在々所々の歌連歌 点者になる人ぞ無き
譜代非成の差別無く 自由狼藉世界なり
犬田楽は関東の 滅ぶる物と云いながら
田楽は尚流行るなり 茶香十火主の寄合も
鎌倉釣に有鹿と 都はいとど倍増す
町ごとに立篝屋は 荒涼五間板三枚
幕引き廻す役所鞆 その数知らず満ちにたり
諸人の敷地定まらず 半作の家これ多し
去年火災の空地ども 禍福にこそなりにけり
適残る家々は 点定せられて置き去りぬ
非職の兵仗流行りつつ 路次の礼儀辻々は無し
花山桃林寂しくて 牛馬華洛に遍満す
四夷を鎮めし鎌倉の 右大将家掟より
只品有りし武士も皆 成めんたらにぞ今は成る
朝に牛馬を飼いながら 夕に変在る功臣は
左右に及ばぬ事ぞかし させる忠功無けれども
過分の昇進するも在り 定めて損ぞ在るらんと
仰いで信をとるばかり 天下一統珍しや
御代に生きて様々の 事を見聞くぞ不思義とも
京童の口ずさみ 十分一をも漏らすなり
後醍醐天皇の第2次倒幕運動「元弘の変」【小学生にも分かりやすい南北朝時代のダイジェスト解説】
正中の変が未遂のままに発覚し、討幕計画は頓挫したが、その7年後、再び、後醍醐天皇は鎌倉幕府に対して討幕の密議を秘密裡に進めた。
その一つが、醍醐寺座主・文観に施させた「鎌倉幕府調伏の秘儀」なる「立川流」の加持祈祷である。
討幕の為の加持祈祷は、後醍醐天皇皇子・大塔宮護良親王が天台座主を務める比叡山延暦寺でも行われた。
また、前回の討幕計画・正中の変で放免された日野俊基は、修験者に成りすまし、全国を行脚して、天皇の味方になり得る地方武家を勧誘、把握する活動を行った。
しかし、今回もまた、後醍醐天皇の側近である大納言・吉田定房の幕府への密告により、討幕計画が露見。
今回ばかりは見逃せぬとし、前回も首謀者であった天皇の側近・日野資朝、俊基はそれぞれ処刑されてしまう。
この報せを受けて危機を察した後醍醐天皇は、女房装束によって御所を取り巻く幕府方を撹乱し、まんまと御所を脱出し、一路、奈良・東大寺へ向かう。
しかし、東大寺内は朝廷方と幕府方とに分裂、拮抗しており、このまま東大寺で挙兵をすれば再び奈良の都を焦土にしてしまう事を恐れた後醍醐天皇は、東大寺を出て春日大社を経由し、奈良郊外の笠置寺へ入られる。
この笠置の地にて、後醍醐天皇は南の木の御霊夢をご覧になり、大楠公が初めて歴史の表舞台に躍り出る事となる。
世界を苦しみから救う弥勒信仰の聖地の笠置寺を後醍醐帝は皇居とされ、倒幕の綸旨が下された。
世に言う「元弘の変」である。
後醍醐天皇が挙兵の地として奈良の都を避けた事、弥勒信仰の地・笠置を皇居とされた事に、帝の民を思う御叡慮が顕れている。
尚、文観のもとで後醍醐天皇も修行をされたという「立川流」については、教義本全てが邪教として焼かれ現存していないのでその実態は不明であるが、元の経典が「理趣経」であり、尊像が「聖天」であったと推測されており、ここから紐解けば、一切衆生、人類全ての穢れや醜さの全てを救済し解脱するという修法であったと思われ、ここからも後醍醐天皇の建武中興にかけた、全ての人々を安寧に幸せに導くという真の理念が窺われる。
籠城する事、約1ヶ月の9月28日の台風の夜。
僅か50余りの幕府側の白装束を纏った決死隊が、朝廷側の籠城する笠置寺を急襲、寺に火を放ち寺は全焼し陥落。
火は三日三晩燃え続け、巨岩に掘られた弥勒菩薩もこの時の猛火によって消失し、後醍醐天皇は万里小路藤房と2名のみで笠置寺の御所を脱出し、楠木正成が立て籠る下赤坂城を目指して、有王山方面へと御潜幸遊ばされる事となる。
#楠木正成 #太平記 #立川流
楠木正成、その生涯 ~後醍醐天皇の第1次倒幕運動・正中の変とは〜【小学生にも分かりやすくダイジェスト解説】
非常に難しいとされる南北朝時代を、小学生にも分かりやすく解説。
昨今では、教科書でも教えられない時代となったが、この時代を正しく知っておかねば、国家の形を理解する事ができない。
拠って、わずか数年の出来事であるが、我々の先人らの精神性とイデオロギーに大きな影響を与えた、非常に重要な時代である。
今回のお話は、前回の補足として、鎌倉時代が如何なる時代であったか、後鳥羽上皇と後醍醐天皇が何を目指して討幕を志されたのか、そして、後醍醐天皇による第一次鎌倉幕府討幕活動たる「正中の変」をダイジェスト解説している。
特に、無礼講の内容と、日野俊基・資朝のスパイ活動、更に、予期せぬ身内の情報漏洩による討幕計画の露見の経緯に注目。
ちなみに、日野俊基の息女(遺児)は、後に、楠木正成の長男・正行の婚約者となる弁内侍である。
#大楠公 #太平記 #日本史
楠木正成、その生涯~その1~ 【小学生でも解るダイジェスト解説】
最近では教科書で習わない楠木正成。ご存知無い現代人は多い。また、イデオロギーが絡む南北朝時代は語るには難しい時代とされるが、これらを小学生でも解るようにダイジェスト解説してみました。南北朝という時代がほぼ理解頂けると思います。
YouTube版はこちら□
https://youtu.be/8xdy8-GpHDA
ゆっくり太平記2 後醍醐天皇の討幕計画・正中の変
太平記に描かれた後醍醐天皇による鎌倉幕府討幕計画、正中の変を解説します。
南朝とは何だったのか・國體を世に示したという意義 ~長慶天皇終焉の地・涼を求めて奈良天河みたらい渓谷へ~
南朝とは何だったのか・國體を世に示したという意義 ~長慶天皇終焉の地・奈良天河みたらい渓谷~
「楠公焼」と呼ばれた幻の名陶・桜井焼/桜井の駅趾 ~楠公研究会緊急企画「楠木家とその陣宿・清水家」(令和3年7月9日開催)
楠公研究会会員限定・緊急企画として、『近世やきもの桜井焼』展示を島本町立歴史文化資料館に観覧に伺う催しをさせていただきました。
桜井焼とは別称「楠公焼」と呼ばれ、大阪府三島郡島本町桜井で焼成された陶器を呼びます。
地元に庄屋・清水寛蔵が、天明2年(1782年)に開窯して以降、京都の名工たちの指導で一時期興隆しましたが、大正初年に廃窯され、今では幻の焼物となりました。
桜井焼を開窯した清水氏は、延元元年5月、九州から都に向け攻め上ってきた足利勢を迎え討つべく湊川の地に赴く途上の楠公父子が同月22日、陣宿とした清水家の末裔に当たる家筋。
清水家では、楠公父子の陣宿を務めた先祖の事蹟と、先祖から語り継がれた父子訣別の詳細な様子を後世に伝えるべく訣別の様を絵に遺し、楠公父子を讃えるべく桜井焼を開窯しました。
楠公研究会の広報部長を務める倉田美春部長(旧姓・清水)は、楠公陣屋清水家の末裔に当たられ、そのご縁もあり、今回、急遽の催し立ち上げに至りました。
希望者の会員の皆さんに会場にお集まり頂き、同資料館の学芸員さんから桜井焼(別称・楠公焼)の説明をお聴きしつつ、館内を見学しました。
見学後は、資料館前に遺る桜井の駅趾に於いて、楠公父子訣別について私から御説明をさせていただきつつ、駅趾を巡りました。
当日は、倉田部長のみならず、同じく清水家末裔で島本町議会議員・清水さだはる町議もご一緒くださり、清水家の由緒の口伝もお伺いさせていただき、短時間ではありましたが、大変有意義なひと時となりました。
この日は終日に亘り大雨でした。
そして、私より先に、役員3名が駅趾に先着しておりましたが、十数分程、現地に遅参した私が駅趾に到着したと同時に、駅趾周辺で断続的に猛烈に降っていた雨が突如あがり、リハーサル用のLINE解説動画の撮影を始めると同時に、厚い雲間が除かれ、太陽が姿を現して一瞬にして天候が変化し、日差しが差しつけてきた事は、その場に立ち合わせた役員一同、驚愕の出来事となりました。
この、神憑りとも思える不思議な現象の一部始終は、以下の動画冒頭部にハッキリと映っています。
この不思議な事象を皆様にもご覧頂ければ幸甚に存じます。
替え歌歴史シリーズ3「Sparking Daydream」
「替え歌歴史シリーズ」は、私が運営していた
「歴史系ジョークサイト(仮)」ってブログのコンテンツを
動画化したものです。
つまり替え歌が本体であって動画はそのおまけで(略
第12回楠公研究会会「葛木神社と国見城跡~金剛山攻防戦の戦跡を辿る~」
平成30年7月27日金曜日午後1時半より、奈良県御所市の葛木神社にて開催させて頂きました「第12回楠公研究会・葛木神社と国見城跡~金剛山攻防戦の戦跡を辿る~」の活動記録動画です。
【ameblo】
https://www.nankou-kenkyukai.com/%E6%B4%BB%E5%8B%95%E5%A0%B1%E5%91%8A%EF%BC%93/
当日は葛城宮司様のお心づくしのお心遣いと、多くの皆様のご参加のお陰をもちまして、盛況裡に終える事ができました事、心より厚く御礼申し上げます。
葛木神社での正式参拝に引き続き、楠公研究会会員の伊藤氏より、葛木神社の御祭神とゆかりの深き「イージス艦こんごう」の模型奉納と、葛城宮司様の温かいご厚意にて、模型奉納奉告祭も斎行いただきました。
その後、社殿にて宮司様から、神社のご由緒と大楠公の事跡についてのご講話を賜り、その後、金剛山頂の国見城跡へ移動し、今も遺る千早攻防戦当時の城跡の石垣や井戸、手水鉢等を見学させていただきつつ、国見城の構造を学びました。
また、国見城跡の傍の茶店では、千早城の戦い時から使われている井戸水を使ったコーヒーもご馳走になりました。
一般的には、「千早城をはじめ、金剛山には大楠公当時の遺構は全く残っていない」等と流布されていますが、実際には千早城跡にも石垣は一部残されておりますし、葛木神社には「福石」をはじめとした南北朝当時創建の矢刺神社の祠、国見城には石垣や手水鉢、井戸等多くの遺構が遺されているのです。
こういった事実は、現地に赴き、現地にゆかりの深き方々からお教えいただかなくては判らない事であり、だからこそ、私共楠公研究会が学び続ける意義があるのだと改めて痛感いたしました。
学会等にて定説とされている「大楠公に纏わる遺構はほとんど残っていない」の常識は、意識的に楠木一族の事蹟を幻のものとし、封印、風化させんが為の意図もあるのかもしれません。
しかし、私は、末裔として、先祖の真実が消されていくのを黙認はできない、その一念において、今後も微力ながら、顕彰活動を続けていきたいと思っています。
当日大変丁重なる御教授を賜りました葛城宮司様、そして、遠路も含め各地域からお運びくださいましたご参加者の皆様に、心から感謝でございます。
神戸ともみ組発足記念式典 併山下弘枝会長誕生日会
令和2年10月4日、大楠公御殉節地・湊川神社にて神戸ともみ組繁栄祈願祭、併せて、湊川神社楠公会館にて、神戸ともみ組発足記念式典併山下弘枝会長誕生日会を開催致しました。
当日は、新型コロナ禍という困難な中にあって、70名という大勢の同志の方々にお越し頂きました事、心より篤く御礼申し上げます。
大勢の出席となりましたので、密防止等コロナ対策は厳重にし、行いました。
御来賓として、衆議院議員・盛山正仁先生、参議院議員・加田裕之先生、参議院議員・末松信介先生(代理)、兵庫県議会議員・黒川治先生、兵庫県議会議員・橘秀太郎先生を始め、多くの国会議員、県議会議員、市議会議員、財界や学界等各界でご活躍の皆様にお越し頂き、光栄でございました。
式典の始めに当たり、湊川神社御本殿にて、一同正式参拝し、神戸ともみ組の今後の発展を大楠公に祈願申し上げました。
正式参拝後は、湊川神社楠公会館にて、発足記念式典と題し、衆議院議員・稲田朋美代議士の記念講演を頂きました。
また引き続いて、当日10月4日に誕生日を迎える神戸ともみ組会長にして大楠公第25代嫡孫たる山下弘枝会長の誕生日会も開催。
稲田代議士を始め、出席者の多くの方々から山下会長へプレゼントを渡されました。
式典終了後は、稲田代議士を大楠公墓碑と大楠公殉節地へご案内させていただきました。
遡る事150年前、同じくこの地で、吉田松陰先生は涙を流され、國體の中興を誓われました。
そして、今、大楠公から維新の志士、そして大楠公末裔・山下会長を介して稲田代議士へと、大楠公が目指された國體中興の理念は引き継がれました。
これより、山下家祖の日本最大武神にして軍神・大楠公の御神威のあらん限りを以て、稲田代議士の国家大業をお助けさせていただきます。
千早城攻防戦全容 〜千早城・葛木神社・金剛山頂〜(一般公開版)
今回、楠公研究会の一部有志役員と会員にて、千早城攻防戦の全容再調査の為、金剛山頂と千早城、葛木神社に取材へお伺いしました。
葛城宮司様より特別な許可を頂き、金剛山頂まで私の自家用車『千早号』で乗り入れさせていただいております。
現在、金剛山ロープウェイは運行を停止していますので、通常は、山頂までは徒歩となります。
ハイキング初心者で、約2時間弱で山頂へ登山できます。
許可車以外の車両の乗り入れは厳禁ですので、絶対に乗り入れないでください。
山頂では、葛城氏当主でいらっしゃる葛城宮司様の温かいご歓迎と御教授を賜り、千早城攻防戦の遺構を取材調査させていただきました。
山頂には、楠木正成が築いた石垣や正成も用いた手水鉢や井戸も当時の姿のままに残されています。
戦後の歴史学会では否定されていますが、この動画が真実です。
大変お世話になりました葛城宮司様、楠公研究会会員で美具久留御魂神社の青谷名誉宮司様、同じく会員で地元にて作曲家としてご活躍の炭谷様に心より篤く深謝御礼申し上げます。
♯戦後の歪んだ歴史観を糾す
精魂込めて打ち込む姿って美しいので紹介します ~余談・遊び~
小さなご縁ではありますが。
毎日投稿チャンネルです。
※当サイトの動画は私個人の感想や意見を述べており必ずしも真実ではありません。
独自の考え方、切り口を示す事により視聴者様の思考を促進する事を目的としています。
宜しくご理解ください。
また当サイトでは本音を喋っており善人を気取るつもりはありません。
視聴して不愉快になられる方はご視聴をお控えください。
もう一点、当サイトで公開している内容に著作権はありません。
知名度に関わらず自由にご発言ください。
ご意見、ご要望、ご感想やご提案はアメブロやツイッターでも受け付けています。
https://ameblo.jp/nohohondensha/
https://twitter.com/nohohondensha?lan...
南北朝正閨論 ~南朝が正統か、北朝が正統か~
南北朝時代は、かの司馬遼太郎も題材としなかった、という事で、論じるのが非常にややこしい時代と思われているが、その原因は、皇統が二天同時に両立した事に尽きる。しかし、日本の国史と国體を論ずるに、決して、この時代を外しては語れぬ。皇統とは何か、天皇のご存在とは、日本人とは何か。それらの答えこそがこの時代にあると言えよう。何故、皇居外苑に大楠公像が建られたのか。南朝とは、北朝とは何だったのか。日々頂く多くのご質問に、お答えする。
【ゆっくり解説】世界の奇人・変人・偉人紹介【楠木正成】
コミュあります→co2018467
遅くなりました体調を崩しておりました。こんばんわ!今回は日本の忠義の男【楠木正成】です。出自に諸説あるこの人ですが、今回は悪党説で進めていきます!そっちの方がかっこいいからね!
前→sm36905669 マイリスト→【mylist/55555326】 次→sm37327152
戦国武将紹介→sm33200014
戦術・作戦紹介→sm34573343
料理動画→sm32754859
コミュあります→co2018467
絵師様Twitter→@GesoSquidIka
主Twitter→@itukayaru0
K13様の作成してくれたMMDモデル→td43602
BGM→甘茶の音楽工房様、Music is VFR様 OtoLogic様
画像→Jonas Buddeberg, Bernhard Jenny
The Cartography and Geovisualization Group at Oregon State University
CC-SA-BY
https://commons.wikimedia.org/wiki/User:Avala
【サクサク解説】「継体・後醍醐・熊沢」
sm34712445←前 次→sm34782230
マッカーサー ギルガメシュ
パ○ズリに興味がある方は是非こちらもどうぞ
サクサク日本神話→sm35231308
アイドルと見る鳥取県の民話「天皇水と強力」
346プロ所属の鳥取県出身アイドルのお2人に鳥取県の民話をドラマ形式で演じていただきました
え、広告まっじっでぇ?
ゲスト出演:大和亜季
マイリスト:mylist/64346167
前の:sm34497558
次の:sm34572140
ゆっくり歴史トリビア 第1回 「太平記」 は・・・
某動画様のパクリです。言い訳はしません、こういう動画を作ってみたかったんです。使用素材、参考動画はコンテツリー参照です。※動画内容はあくまで諸説ある中の一つです。 次→sm33600220、mylist/62781559
吉野神宮のここがツボ・雅流塾
奈良県吉野町の吉野神宮は、明治に建てられた官幣大社。御祭神は言わずと知れた後醍醐天皇でっす(≧▽≦)たっしー&たー坊が分かりやすく解説しますブログはこちらからhttp://kyonara.xyz/archives/70718640.html