キーワード 後醍醐天皇 が含まれる動画 : 128 件中 1 - 32 件目
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オーバーキング【歴代天皇陛下+α替え歌】
タイトル名オーバーエンペラーにしようと思ったけどオーバー(Over)の意味が上、超えるという意味だったので王を越えし者というニュアンス(ゴリ押し)でオーバーキングという名前にしました!
南北朝時代の編集くそだるかった...
後醍醐天皇許さん...!
お借りした素材など
本家様(吉田夜世様)
https://youtu.be/LLjfal8jCYI?si=KFeSTAjxQBDSmlor
参考にさせていただいた天皇陛下関連のサイト
(名前、在任期間)
https://www.n-p-s.net/tennou.html
(画像)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
サムネのずんだもんイラスト(椛子様)
https://x.com/inunarimomiko
ずんだもんの立ち絵を作ってくださった坂本アヒル様のTwitter https://twitter.com/sakamoto_AHR
NEUTRINO様 https://studio-neutrino.com/
新番組「女性神主が語る國體論~建武中興と楠木正成の真実:第1章ー楠木正成と彼らが目指した建武中興を知らずして『國體』は語れない(1)」山下弘枝 AJER2024.5.1(4)
【会員制サイト:AJERcast】
http://ajer.jp/
【後半映像】
http://ajer.jp/video/show/18f65f228b986a55b951220c8c79554a
#楠木正成
#山下弘枝
#楠公研究会
#湊川神社
#後醍醐天皇
Facebookユーザー名 channel Ajer
Facebookページ名 チャンネルAjer
新番組
「女性神主が語る國體論」
第2回
建武中興と楠木正成の真実
第1章
楠木正成と彼らが目指した建武中興を知らずして『國體』は語れない
(1)
山下弘枝氏
【会員制サイト:AJERcast】
http://ajer.jp/
【声変版】皇居に鎮座する「南朝」の象徴楠木正成
西暦1,331年10月22日
慣例により後伏見上皇の詔によって、両統迭立から三種の神器の無いまま持明院統の光厳天皇を践祚させ、光厳天皇が初代北朝天皇に即位する。父である後伏見上皇は院政を開始した。また、後醍醐天皇一派の倒幕計画には大覚寺統全体が関与したわけではないとして、大覚寺統嫡流から皇太子を輩出し両統迭立を維持すべきとの理由により、持明院統の同意の下に木寺宮康仁親王が皇太子に選出された。
宇宙一元化 公式HP
https://universe-centralization.com/top.html
極楽征夷大将軍 2023/5 垣根 涼介 (著) 【アラ還・読書中毒】足利尊氏を弟、直義、家老、高師直の視点で描く。決断も出来ない、定見もない、勉強もしなかったが、出会っていく武将は彼に魅せられた
極楽征夷大将軍
垣根涼介
2023/8
足利尊氏を
直義
高師直
の視点で描く。
冒頭、海に枝を投げてどちらに流れるか?
兄弟でかけをした。
最後、タダヨシは病死のように書かれていたが
史実?尊氏に毒殺された、となっていた。
大河ドラマでも。
ただ流されるだけで
何も決められない
もともと、次男三男で
どうでもよい存在だった。
嫡男が死亡したことにより
立場が激変。
タダヨシは秀才だった。
タダ冬は出来がよかった(タダよし似)
義詮は尊氏似。
2人がいなくなってから
尊氏はしっかりとしだす。
タダヨシは戦はうまくはなかった。
後醍醐天皇と大東野宮は
権力欲もほかのよくもいよう強かった。
尊氏はなだたる武将に好かれて心酔された。
検索するには、ここに入力します
室町幕府の権力変遷
タダヨシ
高師直
尊氏
タダヨシが権力にしがみついたドラマだったが、
小説では全く未練を持っていなかった
(引退したがっていた)
大河も鎌倉幕府が倒れるよりも
その後を長くやってもらったほうが
わかりやすかったと思えた。
【声変版】後醍醐天皇の倒幕計画
西暦1,324年10月7日
早朝、鎌倉幕府が小串範行・山本時綱に軍を率いさせ、以下3名の討伐を命じる。また、六波羅探題が多治見国長と土岐頼有に出頭命令を下した。六波羅探題の2,000騎の兵を率いた山本時綱が堀川三条の宿所を急襲、土岐頼兼と多治見は少数の手勢で奮戦したが、最終的には館の裏手を突破され、頼兼は寝所で自刃、多治見も自害した。
①土岐頼兼
②多治見国長
③第7代足助家惣領足助重範
斎藤利行の倒幕計画に関する報告により、以下4名が鎌倉幕府の討幕を計画したという嫌疑をかけられていた。また、西暦1,324年10月11日を挙兵の日と定めていた。午後、六波羅探題は関東申次西園寺実衡を通じ、日野資朝・日野俊基の勾留を朝廷に要請し、夜に両名は六波羅探題に出頭した。
①第96代天皇後醍醐天皇
②公卿日野資朝
③公家日野俊基
④土岐頼兼
宇宙一元化 公式HP
https://universe-centralization.com/top.html
[南朝へ赴く]逃げ上手の若君 第115話を読んで
週刊少年ジャンプ2023年30号掲載
逃げ上手の若君 第115話について語ります
時行と逃若党の再始動
作者 松井優征先生
Weekly jump 2023 vol30
The Elusive Samurai ep115 impressions
Restart of Tokiyuki and his fellowers
Story and Art by Yuusei Matsui
#0:00 前説
greeting
#0:21 第115話について
about ep115
#1:14 伊豆から南朝へ
from Izu to the Southern Court
#1:56 後醍醐天皇との面会
meeting with Emperor Godaigo
#2:50 天狗と玄蕃
Tengu and Genba
#3:43 当時の伊豆について
about Izu at the time
アニメ逃げ若公式ティザーPV
https://youtu.be/__9tLo8qjqc
【BGM素材】まんぼう二等兵 様
アンゴラたちの踊り sm36249773
西に浸る sm42892137
楠木正成の孫・楠木正勝が開いた寺院・山形県「耕福寺」
山形県置賜郡高畠町の耕福寺は、楠木正勝(能勝傑堂禅師)が開いた寺院。
建武2年、楠木正成は後醍醐天皇から、この地を所領として安堵され、楠木家の領地となった。
正成の孫・正勝(能勝傑堂)が、自身の寺である耕雲寺(現・新潟県村上市)から、旧楠木家所領近くの、日本三大文珠の一つで古刹「亀岡文珠」に参詣に訪れた際、高畠の地元の人々が「是非とも、元領主・正成の孫であるあなた(正勝)に、この地で寺院を開いてほしい」と依頼された。
地元の人々の熱い誓願を受け、正勝(能勝傑堂)が建立したのが耕福寺である。
関西から遠く離れた山形県で、楠木家の元所領があった事に驚きであった。
この発見があった現地調査の帰り道、大きな虹が出現。
先祖の御霊が喜んでくれている事を強く感じた。
伊達家 南北朝時代編 戦国大名家紹介シリーズ#21-4【ゆっくり&VOICEVOX日本史解説】
全国の戦国大名を紹介する動画シリーズ「戦国大名家紹介シリーズ」。
引き続き、鎌倉以来の名門にして奥州筆頭・伊達家を紹介します。
今回は南北朝時代を扱います。
0:00 導入
1:04 オープニングテーマ
1:21 1.後醍醐天皇と足利尊氏のお気に入り、伊達政長
6:44 2.7代・伊達行朝の栄光と没落
17:15 3.8代・伊達宗遠
24:04 編集後記
【参考文献】
・「陸奥伊達一族」吉川弘文館 著・高橋富雄
・「伊達一族の中世」吉川弘文館 著・伊藤喜良
・「南北朝武将列伝 南朝編」戎光祥出版 著・亀田俊和・生駒孝臣
・「南朝の真実 忠臣という幻想」吉川弘文館 著・亀田俊和
・「動乱の東北史4 南北朝内乱と東国」吉川弘文館 著・桜井 彦
・「下総・奥州相馬一族」新人物往来社 著・七宮涬三
【今回の動画で使用した音楽素材】
・フリーBGM・音楽素材MusMus
http://musmus.main.jp/
・全曲無料・フリー音楽素材/魔王魂
https://maoudamashii.jokersounds.com/
・龍的交響楽 -Dragonic Symphony-
http://d-symphony.com/
・効果音ラボ
https://soundeffect-lab.info/about/
・甘茶の音楽工房
http://amachamusic.chagasi.com
【各キャラクター音源】
・うp主・シカリマツ音源「ゆっくりムービーメーカー4」
https;//manjubox.net/ymm4
・入力文字読み上げソフト「VOICEPEAK」
https://www.ah-soft.com/voice/zunko/
VOICEPEAK:東北ずん子
・テキスト読み上げソフト「VOICEVOX」
https;//voicevox.hiroshiba.jp
VOICEVOX:ずんだもん
VOICEVOX:もち子(cv明日葉よもぎ)
【各キャラクター立ち絵】
・うp主・シカリマツ立ち絵
饅頭→作:伊達胆振守(うp主)
兜・頭巾→作:いらすとや様
・東北ずん子立ち絵(作:こーすけさんたまりあ様)
・ずんだもん立ち絵(作:moiky様)
・もち子&あん子立ち絵(作:490様、公式立ち絵)
後醍醐天皇が流された隠岐島に向かい、日御碕灯台から詩吟「小楠公の母」を詠じてきました
楠公研究会会員で、岡崎功先生が建学された湘南高校の元教員・須藤文義様と、同じく楠公研究会会員の浜田博之様のお招きを賜わり、出雲へ。
須藤様が仕えられた岡崎功先生は大東亜戦争の無条件降伏に際して、松江騒擾事件で知られる方。
須藤様ご自身、神社本庁の芦原総長や元掌典職で現亀山神社(広島県三原市)の潮宮司、住吉大社の加藤権宮司等多くの卒業生をお待ちになられる。
当日、まずは日御碕灯台から隠岐島を望み、後醍醐天皇と楠公、南朝の遺徳を偲び讃えるべく、詩吟「小楠公の母を詠ず」を吟じさせて頂いた。
護国活動を行う中、日々、敵勢力はもちろん同じ志を持つ者からも攻撃を受ける事は当然あるのだが、時に、保守を騙って私に近づき私の名を利用して悪事を働く者が若干1名出現し、私の行ってきた顕彰活動に少々自信喪失していた中、今回の須藤様、浜田様からのご高配は、私にとって、今後の更なる顕彰活動に向けての何よりの励みとなるものとなった。
天は、神は、私にまだまだ引退してはならない、表舞台から去ってはならない、とお命じになられていると感じた。
ご神意を知り、天命を悟りて、神意と天命には絶対的に従わねばならない。
それこそが神国日本の民として命を授かった者としての責務である。
隠岐島を望みつつ、そう固く誓った。
https://youtu.be/UqYsNeeeJW4?si=LfgSZ2M6yQC7Zcr9
金胎寺から笠置寺に行幸の後醍醐天皇が渡った「祝橋」・休まれた「養生の芝」・女官が産気づいた「産坂」〜京都府和束町〜
今回は元弘の変で御所を脱出した後醍醐帝が東大寺・春日大社を経て金胎寺へ遷幸、その後笠置寺へ遷られる際に京都府和束町の知られざる秘境に伝わる逸話を、現地の方から現地取材。
楠公研究会賛助会員で、京都府和束町で「和所美土里屋」オーナーでもある和所氏にご案内頂いた。
金胎寺から笠置寺へ遷幸される際に、村人が祝橋という橋をかけた。
橋の用材として使われた木は和束町内に鎮座する八坂神社のご神木が用いられた。
今回は八坂神社調査の目的もあり、某神社のベテラン神職で、楠公研究会賛助会員でもある伊藤氏も同行。
なぜ、八坂神社の御神木を祝橋の用材としたのか、その知られざる意図を知る事ができた。
また、道中に腹痛を起こされた後醍醐天皇が暫し休息をとられた「養生の芝」へもご案内頂いた。
ここは金胎寺のある鷲峰山山麓の茶畑の真ん中にあり、地元の方の案内無しでは辿り着けない地である。
「養生の芝」は、新たに和束町長となられた馬場正実町長にお教え頂いた後醍醐天皇ゆかりの地である。
地元でしか知り得ぬ貴重な情報をご教示頂いた馬場町長に感謝です。
歴史書では語られぬ南北朝動乱前夜の真実の歴史がここにある。
後醍醐天皇陵のある如意輪寺の御忌法要へ ~後醍醐天皇ご命日の日~
後醍醐天皇のご命日に、後醍醐天皇御陵がある奈良県吉野山の如意輪寺での宮内庁立ち会いのもとでの御忌法要にお招き頂き、参列して参りました。
この日は後醍醐天皇ご自身が手彫りされた自作の後醍醐天皇ご尊像が御霊殿からお出ましになり、本堂へ移られて法要が執り行われます。
御霊殿から本堂までの道程に、御輿を担いでおられるのは後醍醐天皇がご生前の折にお傍でお世話をされた方々のご子孫達です。
法要では、ご住職様のお計らいにて、私の本『建武中興と楠木正成の真実』も本堂の後醍醐天皇のご霊前にお供え頂きました。
本堂の法要後は、宮内庁畝傍陵墓管轄区職員によって後醍醐天皇御陵の御鍵が開けられ、通常は立ち入れぬお傍近くにて慰霊の祈りをお捧げさせて頂きました。
今年も後醍醐帝のご法要へお招き頂いたので参列してきます
明日の後醍醐天皇御命日を前に、ふと自身の今までの生い立ちを思い返し、その重さを痛感している。
生まれてからこのかた、先祖の名に恥じぬよう、先祖を貶める行いをせぬよう、それに相応しい品格を保つよう、幼い頃から父母に教育されて育ってきた。
特に、父親は旧帝国海軍中尉であったから、教育勅語を始めとした戦前ばりの家庭教育を受けたし、先祖を祀る某神社の神事にも一緒に参列しなさい、と訳も分からず連れて行かれた。
また、茶道教授と華道教授であった母親は私が幼い頃から、当然の嗜みとして茶道・華道・能楽・着付け・礼法・ピアノ・習字を修練させられてきた。
私にとってはそれが当たり前の生活だったし、周りの子も私と同じだと思っていた。
しかし、小学校に進学してから、同級生は明らかに自分とは違った。
歴史の授業では、家庭や神社で教えられたものとは全く違う事を教えられ、父が私に教えてきた事は全て嘘と教えられ、かなりのカルチャーショックを受けた。
そんな訳で、子供の頃はなんでこんな家系に生まれてしまったのだろう、と心底、自分の生まれを憎んだ少女時代だった。
戦前から戦後、大きく捏造され変遷していく歴史の真っ只中を諸に生きたという貴重経験である。
今ではその葛藤を乗り越えた事が糧となり、現在の活動に繋がっている。
と、そんな事に思いを致しつつの、静かな秋の夜長であった。
闘う悲劇の美少女・中野竹子と楠公精神 〜会津戦争・福島県会津若松市・大河ドラマ「八重の桜」もう1人のヒロイン〜
大河ドラマ「八重の桜」で、山本八重(後の新島八重)が取り上げられてからは、八重さんの方ばかりが有名になり忘れられがちだが、「八重の桜」放送以前は、どちらかといえば中野竹子の方がよく知られていた。
中野竹子は、江戸詰勘定役会津藩士・中野平内の長女として江戸の会津藩藩邸で生まれ、僅か5歳で百人一首を全て暗唱し、幼少期からその聡明さはずば抜けていたという。
また、薙刀や書道の腕前も一流で、薙刀では道場の師範代を、書道では祐筆(ゆうひつ・武家の秘書役、事務官僚)を務め、文武両道に非常に優れた才能を発揮した。
慶応4(1868)年8月23日、十六橋、戸ノ口等、会津藩の要衝を破り、若松城下に新政府軍が攻め寄せた。
そこで、竹子たちは同じ道場の薙刀の稽古仲間の女性達に呼び掛け、娘子隊(あるいは婦女隊)と呼ばれる女性だけで編成する義勇軍を結成した。
来るべき戦闘にむけて髪を短く切り、女子用の袴を履き、男装に準じた姿となった。
娘士隊に入隊しなかった八重に対して、竹子は
「あなたはなぜ、娘子隊に入らないの⁉︎」と激しく非難したという。
8月25日夕方、娘子隊は、現在の福島県松岡市神指町大字黒川にかかる柳橋(涙橋)に於いて、新政府軍と遭遇し、戦闘となった。
武勇に秀でた中野竹子は何人かの兵を薙刀で斬り殺し善戦したが、敵の放った銃弾が彼女の額に命中してしまう。
頭を撃たれた(胸を撃たれたとも)竹子は、まだ息があり、自身の首を取られないようにと、母のこう子(当時まだ16歳だった妹・優子であったとも)に介錯を頼む。
落とされた首級は、法界寺の梅の木の根元に埋葬された。
竹子が死の間際まで握っていた薙刀の柄には、次の辞世が書かれた短冊が括り付けられていた。
〜もののふの 猛き心にくらぶれば
数にも入らぬ 我が身ながらも〜
この辞世は、楠木正成の嫡男・楠木正行が、四條畷の戦いに向かう直前に、吉野皇居の後村上天皇に拝謁すべく吉野に立ち寄った際、後醍醐天皇御陵のある如意輪寺本堂に髻を切って収め、その扉に刻んだ辞世
〜かへらじと かねて思へば 梓弓
なき数に入る 名をぞとどむる〜
の「なき数に入る」をなぞらえ「数にも入らぬ」と詠んだものと思われる。
実際、正行らが髻を切ったと同じように、竹子らも従軍が正式に決定された際、髪を切っており、この行為もまた、四條畷に向かう正行に倣ったものと思われる。
会津藩では、楠公父子の桜井の訣別にみる「忠孝両全」の精神を藩士らに手本として教えていた事が今回の現地調査で判明したので、竹子もまた、楠公父子について詳しく知っていたのは当然の事である。
楠木正成の盟友・結城宗広の治めた白河へ!その壮絶な生涯
福島県白河市の関川寺は白河結城家の菩提寺で、結城宗広が開基とされる。
白河結城氏は、下総結城氏の庶流にあたる。
鎌倉時代、結城氏の祖で鎌倉幕府御家人の小山朝光が得た白河荘を、孫にあたる結城裕広に与え、裕広が白河に下向して以来、結城家は白河城を本城としてこの地を治めた。
裕広の子・宗広は、幕府の御家人として、後醍醐天皇の起こした倒幕活動・元弘の変には幕府方で参陣。
朝廷側の楠木正成が籠る千早城攻めにも幕府方として、足利高氏、新田義貞らと共に参陣した。
しかし、千早城が全く落ちる気配が無く、幕府のていたらくを目の当たりにした矢先に、伯耆国の豪族・名和長年の尽力によって、配流先の隠岐島から脱出、名和館の裏手の船上山に行在所を設けた後醍醐天皇が発した幕府倒幕の綸旨を受け、宗広は幕府方から離脱し、朝廷側へ味方する事となる。
同時期に、新田義貞や足利高氏も幕府方から朝廷方へ寝返っており、「千早城未だ陥ちず」の報が鎌倉幕府滅亡の決定打となった。
建武の中興成立後は、楠木正成・名和長年・千種忠顕らと共に建武四天王「三木一草」の1人に数えられ、権勢を誇った(一説に次男の結城親光とも)。
後醍醐天皇から厚い信任を受けて北畠顕家が多賀城に入ると、諸郡奉行に任じられて共に奥州方面の統治を任された。
宗広の長男・親朝は、奥州府の式評定衆として、北畠親房とその子で陸奥守の北畠顕家に尽くした。
征夷大将軍の座を狙う足利尊氏によって後醍醐天皇皇子・大塔宮護良親王が暗殺され、尊氏討伐の綸旨がくだり、朝廷方と足利方との戦いとなる。
箱根・竹ノ下の戦いで新田義貞率いる朝廷軍を破って尊氏が入洛するが、宗広の次男・親光は尊氏を暗殺する目的のもと、偽って足利方に降伏した。
親光へ応対した大友貞載に、「降参人のくせになぜ鎧を脱がない」と詰め寄られ、尊氏暗殺の企てが見破られたと思った親光は、せめて敵将の1人でも討ち取ろうと貞載を斬殺、群がってきた足利兵を手当たり次第に斬り倒したが、足利兵により斬殺された。
親光の死後も宗広は怯む事無く、顕家や正成らと共に軍を率いて足利軍を攻め、京都奪還の大功を挙げた。
九州に逃れた尊氏が再起を果たして東上して来ると、顕家と共にこれと戦ったが、延元3年に顕家が高師直と戦って敗死し、朝廷軍は壊滅。
宗広は命からがら南朝皇居の置かれた吉野へ。
宗広は南朝方再起のために、義良親王(後の後村上天皇)を奉じて伊勢国安濃津(現在の三重県津市・結城神社辺りの港)より北畠親房・伊達行朝・中村経長等と共に海路から奥州へ向かおうとしたが、海上で遭難し、安濃津の港に漂着。
間も無く、老齢での無理が祟ったのか、体調を崩し、その地で病没した。
【ゆっくり解説】念願の政権は3年で終了?絶対に諦めない不屈の天皇【後醍醐天皇】
ご視聴ありがとうございます!
今回は、とにかく諦めない後醍醐天皇について解説しました!
ちなみに、後醍醐天皇に反旗を翻している足利尊氏ですが、皇室を重んじていたようで、敵対勢力である護良親王の死を悲しんだといわれているほどです!
そんな足利尊氏の「尊氏」の名は後醍醐天皇から授かったものだそう!
このチャンネルは、歴史上の偉人の敗北や失敗を学び、少しでも生き方の参考になるような動画づくりを目指しています。感想・リクエストお待ちしていますので、気軽にコメントください!もちろん、チャンネル登録もよろしくお願いします!
「建武の新政」第89回黒田裕樹の歴史講座 2/7
この動画は第89回黒田裕樹の歴史講座「室町時代その1 ~南北朝の動乱と義満の野望~」のうち「建武の新政」の講演を、令和4(2022)年8月に新たに収録したものです。
動画のレジュメは「黒田裕樹の百万人の歴史講座」から入手できます。ぜひご加入ください。過去からの全てのレジュメを読むことができます。今なら20,000円で永久会員です!
http://1000000reki.jugem.jp/
ブログ「黒田裕樹の歴史講座」
http://rocky96.blog10.fc2.com/
「黒田裕樹の歴史講座」講演申し込みサイト
https://kokuboukai.com/category/history-study-session/kuroda-hiroki/
黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編
https://www.mag2.com/m/0001672748
#黒田裕樹
#後醍醐天皇
#建武の新政
#足利尊氏
#中先代の乱
#黒田裕樹の歴史講座
「鎌倉幕府の滅亡」第89回黒田裕樹の歴史講座 1/7
この動画は第89回黒田裕樹の歴史講座「室町時代その1 ~南北朝の動乱と義満の野望~」のうち「鎌倉幕府の滅亡」の講演を、令和4(2022)年8月に新たに収録したものです。
動画のレジュメは「黒田裕樹の百万人の歴史講座」から入手できます。ぜひご加入ください。過去からの全てのレジュメを読むことができます。今なら20,000円で永久会員です!
http://1000000reki.jugem.jp/
ブログ「黒田裕樹の歴史講座」
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「黒田裕樹の歴史講座」講演申し込みサイト
https://kokuboukai.com/category/history-study-session/kuroda-hiroki/
黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編
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#黒田裕樹
#両統迭立
#後醍醐天皇
#正中の変
#元弘の変
#黒田裕樹の歴史講座
[楠木と帝]逃げ上手の若君 第112話を読んで
週刊少年ジャンプ2023年27号掲載
逃げ上手の若君 第112話
読んで感じたことを交えつつ作品を紹介
九州の足利尊氏、京の楠木正成が対照的
作者 松井優征先生
アニメ逃げ若公式ティザーPV
https://youtu.be/__9tLo8qjqc
【BGM素材】まんぼう二等兵 様
アンゴラたちの踊り sm36249773
動画検索用
足利尊氏 楠木正成 後醍醐天皇
「太平記」に登場する山城を解説!!。
皆さん、こんにちわ。
STOP ORION★です!!.
今日は、岡山県総社市に位置する、「福山」という山に行ってきました。
っということで今回は、岡山県総社市にかつて存在した福山城について解説していきます。
福山城は総社市南部の福山(標高302メートル)山上に存在した山城である。南北朝時代に『太平記』に記された福山合戦の舞台となりました。
奈良時代より平安時代にかけて山岳寺院「福山寺」が存在していました。建武2年(1335年)に荘兼祐がこの山岳寺院を改造し城郭としました。築城主は真壁是久とも言われる。城は一の段、二の段、三の段が連なって配されていました。現在の遺構として一、二の段の間に城門跡の石垣が確認でます。また空堀、石列、井戸跡などがあります。1936年(昭和11年)12月16日、国の史跡に指定されました。
次に「福山合戦」について解説する。
建武3年(延元元年、1336年)2月、九州に敗走していた足利尊氏が30万人とも言われる軍勢を擁し東上を開始した。備後国鞆の浦で軍は海上を行く尊氏軍7,500隻と、陸上を行く足利直義軍20万人の二手に分かれた。
4月3日、後醍醐天皇方の新田義貞軍の先鋒隊大井田氏経は足利方に加担していた城主の荘兼祐を追い、足利軍の東上を阻止すべく籠城した。足利軍は5月上旬に備中国に達し、5月14日にはこの地に到着し城を包囲した。直義の率いる足利軍20万人に対し、大井田軍は僅か1,500人であったとされる。5月15日夕刻より攻城戦が始まった。籠城軍はよく奮戦し、足利軍は2万の死傷者を出した。
しかし、大軍を前には抗しきれず17日には火をかけられ落城した。氏経は僅かに400人ばかりとなった将兵と共に足利軍の布陣を突破した。20回以上の戦闘を繰り返しながら本陣のある播磨国との国境にほど近い備前国三石城に逃れた。
この戦いの7日後には楠木正成が戦死した湊川の戦いが行われた。
っという感じで今回の動画、良いなと思ったら、イイねとフォローよろしくね!!。
建武中興の立役者・万里小路藤房の終焉地・滋賀県湖南市三雲【妙感寺】
滋賀県湖南市三雲の南朝ゆかりの地・妙感寺へ参詣。
妙感寺の開山は授翁宗弼(じゅおうそうひつ)。
俗名は藤原藤房。
後醍醐天皇の建武中興に尽力した楠木正成、新田義貞と並ぶ「建武三忠臣」の一人。
万里小路藤房(までのこうじふじふさ)とも称され、楠木正成の最たる盟友の1人である。
この藤房の終焉の地として、彼の墓所があるのがここ妙感寺であり、南朝とは深い縁がある。
楠木正成の妻は藤房の妹・滋子と伝わる。
拙著『建武中興と楠木正成の真実』でも触れているが、楠木家と万里小路家との縁戚関係から、笠置挙兵時の後醍醐天皇の「南木の夢」の折、藤房は義理の弟にあたる正成を後醍醐天皇に推挙したと考えられる。
実際、正成に笠置参陣の勅使として楠木館に遣わされたのも、万里小路藤房であり、全ての辻褄が合致する。
元弘元年(1331)9月28日未明、風嵐に見舞われる中、鎌倉幕府方で組まれた決死隊の急襲を受け、笠置城は陥落。
瞬く間に猛火に包まれ、50ヶ寺と共に本尊の弥勒菩薩もろとも焼失した。
後醍醐天皇と藤房は辛くも笠置城を脱出し、正成の籠る河内の赤阪城を目指したが、程無く道に迷い、有王山(京都府井手町)の山中に迷い込んでしまう。
有王山麓の松の下で「さしてゆく笠置の山を出でしより、あめが下には隠れ家もなし」とお詠みになると、藤房卿は「いかんせん慿む蔭とて立ち寄れば、なお袖濡らす松の下露」と返され、天皇を慰められた逸話は余りにも有名である。
この後、天皇と藤房は幕府方の追っ手に捕らえられ、隠岐島に配流となる。
天皇が配流された後も、楠木正成は赤阪城、千早城で籠城戦を展開した。
楠木軍によって散々に翻弄される幕府の大軍を目の当たりにし、鎌倉幕府の御家人・新田義貞、足利高氏らが幕府に失望し相次いで離叛。
伯耆国の豪族・名和長年が隠岐島から天皇を奪還すると、形勢が宮方有利に転じた。
足利高氏が京都の六波羅探題を、新田義貞が鎌倉を陥落させ、北条一門は自刃、鎌倉幕府は滅亡し、ここに建武の中興が成立した。
建武中興の成立後、藤房は後醍醐天皇の親政のもとで恩賞方を務めた。
武家への恩賞が余りに薄い事を受け、武家の離叛を恐れた藤房は後醍醐天皇に対して諫言したものの聞き入れられず、藤房は政治に絶望。
建武元年(1334)に39歳で突如出奔して出家し、諸国を放浪した。
「授翁宗弼」と号し、公卿時代の知行地であった江州三雲の郷に於いて、後醍醐天皇念持仏の千手観音を奉安する持仏堂を建立したのが妙感寺の開基で、持仏堂が本堂。病を得、療養の為、三雲に移り妙感寺に穏棲。
天授六年(1380年)3月28日、85歳で亡くなった。
本堂の横には、五輪塔が立つ大師の墳墓がある。
【秘伝】楠流兵法 〜ご質問にお答えしていたら、超レアネタが飛び出した□〜
宝暦9年(1759年)に予州(現在の愛媛県)松山の法眼明逸が書き残した書物『通機図解』で、南北朝時代の武将・楠木正成が兵法戦略上、日頃から空を見上げて、雲の様子などから地震や嵐など天変地異を予測していたことが紹介されている。
南北朝の動乱を描いた『太平記』によると、元弘2年(1332年)、正成は四天王寺に入り、長老の寺僧に、聖徳太子が著し、四天王寺に納められている予言書「未来記」を拝見したいと申し出た。
正成は、長老の特別の計らいにより「未来記」を拝した処、次の一文を見出した。
「人王九十六代に当たつて、天下一たび乱れて、主安からず。この時、東魚来たつて四海を呑む。日西天に没すること三百七十余ヶ日、西鳥来たつて東魚を喰らふ。その後、海内一に帰すること三年、獼猴(みごう)の如くなる者天下を掠むること二十四年、大凶変じて一元に帰す。」
正成は記述を
「後醍醐天皇の世に天下が乱れ、東の魚(関東の幕府・北条高時)が天下を飲みこもうとする。日が西天に没してから(後醍醐天皇が隠岐に流されてから)三百七十余日の後、西の鳥(新田義貞)が東の魚を食らう(倒す)」
と解釈し、討幕が果たされて天皇の治天が近いことを確信した。
しかし、「未来記」ではそれに続き、建武政権が3年で崩壊し、足利尊氏が24年にわたって世を治める後や、湊川の戦いで、正成が義貞を逃し、玉砕する事によって、江戸の幕末、正成の楠公精神が日本人のイデオロギーとなって多くの志士の魂を揺さぶり、正成の魂が永遠のものとなる事、それによって、凶事が一変して本来の平和な国家となる事も予言している。
つまり、正成の湊川での玉砕は、600年先まで予知し計算し尽くされたた上での、未来の日本人のDNAを宿らせる為の自ら望んだ選択であったのだった。
正成は、義貞に見捨てられて孤立無縁となり、致し方無く自刃したのではなく、自身が描いた通りの自身の幕引き、いや、永遠の魂となる為の晴れ舞台として、自ら、そうゆう陣型で布陣しただった。
そんな訳であるから、無論、正成には一片の悲劇性たりとも皆無である。
鎮西探題滅亡、行方不明の尊良親王彼杵に現る
西暦1,333年4月27日
6時、菊池武時が後醍醐天皇から譲り受けた錦の御旗を掲げ挙兵し、松原口辻堂(現在の福岡県福岡市博多区博多駅前)から鎮西探題館にかけて阿蘇惟直と共に放火を行った。鎮西探題の使いが早良小路を下り「着到を受け付ける」と大声で叫びながら櫛田浜口にて武時と対陣する。そこに少弐の家来で兵庫の允の饗場が事の詳細を尋問しようと陣の前に出て来た所、若党一人と共に討たれた。また、北条一族の武蔵四郎・武田八郎等が息浜(現在の福岡県福岡市西区)の武時の宿所に押し掛けたが不在であったので、洲崎(現在の福岡県福岡市博多区)から回って櫛田浜口で武時と交戦した。鎮西探題側は武田八郎が負傷し、以下の人間が死亡した。武時は最終的に敗れ、息子の菊池頼隆を始めとする菊池氏一族と共に犬射馬場で戦死した。武時のもう一人の息子の菊池武重は阿蘇と共に肥後国へ落ち延びた。武時の弟菊池覚勝は若党を率い御壺まで攻め込むが全員が打ち取られた。9時に戦闘は終了し武時側は70名余りの死者を出した。その後も少弐・大友の部下が残党を各地で仕留め、200名余りの首が鎮西探題館に届けられ、武時を始めとする270名余りの首を犬射馬場に掛けた。夕方、少弐は堅粕で斬首した八幡宗安含む使者2名の首を北条英時に差し出した。やがて北条貞義が到着し、 北条師頼も博多に向かう途上、武時の孫と若党を横隈(現在の福岡県小郡市)で討ち、首を博多に持参した。鎮西探題は菊池氏の本拠菊池城(現在の熊本県菊池市隈府)攻撃を決定し、英時は部下を菊池城に出陣させた。夜、犬射馬場に掛けられた首は鎮西探題館の中に入れられた。
①竹井孫七
②竹井孫八
③安富貞泰
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【ボイパロイド】双葉湊音ちゃんに、まんが日本史の(仮題)場面転換のテーマを歌ってもらった。
まんが日本史(日テレ版)のBGMで、
節目節目の場面でよく登場するBGMをアップしました。
このBGMは、次のシーンなど多くの場面で利用されています。
・怪僧・道鏡、流罪
・後醍醐天皇、隠岐の島に流罪
・足利義持、(お尻のおできを引っ搔いて)病死のため
くじ引きで義教に将軍交代
・嘉吉の乱で足利義教討ち死に
・応仁の乱の最中に9代将軍足利義尚就任
・天正遣欧少年使節、ローマに派遣
作曲:佐藤 健
音源取得方法:合法動画配信サービスを利用し場面を耳コピ
お借りしたもの
背景…wikimediaより
①道鏡流刑地・栃木県薬師寺 ②足利義尚 ③天正遣欧少年使節
双葉湊音立ち絵 im11114797 mochi0101_831様
いいね!ボタン im10742089 nakatomi様
第41回楠公研究会『建武中興と楠木正成の真実』出版記念講演会in靖国(令和5年2月25日 於:靖國会館「偕行の間」)
00:28 国家斉唱
01:45 来賓紹介
02:26 主賓・稲田朋美元防衛大臣 祝電披露
04:00 共催者・株式会社青林堂代表取締役社長・蟹江幹彦様 ご祝辞
05:42 来賓挨拶・靖國八千代食堂オーナー・高取宗茂様 ご祝辞
14:35 来賓挨拶・沖縄県議会議員・又吉清義様 ご祝辞
19:45 来賓挨拶・桜井の駅陣宿・清水家末裔・倉田美春様 ご祝辞
21:28 山下弘枝 講演
43:44 懇親会 於:不二楼4階BAR(通常入室不可)
第41回楠公研究会『建武中興と楠木正成の真実』出版記念講演会in靖国、約100名の方々にご出席頂き、満員御礼の大盛況裡にて開催させて頂きました!
主賓の稲田朋美代議士は、沖縄からの飛行機が天候による遅延により間に合わず、代理として大河内公設秘書がご臨席くださいました。
ここ大舞台を無事に終える事ができましたのは、ひとえにお支えくださる皆様のお陰様と、感謝に絶えぬ思いでございます。
Amazon歴史部門ベストセラーとして、拙著『建武中興と楠木正成の真実』連日上位ランキング入りを継続し続けており、大好評!
楽天等では売り切れ続出!
拙著は約80年かけてGHQが作り上げてきた自虐史観を思いっきり粉砕する内容となっております。
その為、私、現在、左翼陣営からの多くの圧力を受けております。
攻撃上等!戦い続けます!
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靖国神社正式参拝に引き続き、当日の講演会の一部、Ban(多分大丈夫だと思います□)にならない程度に緩くしたものを一般公開しておりますので、是非、来賓の皆様、そして、私のド迫力のスピーチ、講演をご覧頂けましたらと存じます。
私の講演をご覧になられた皆様、一様に、見た目は可愛らしい女性だが、中身は何故か男性、しかも武将で、間違って女性に生まれてきてしまった、とご感想を頂き、光栄な限りでございます。
https://youtu.be/uNNuZo_BpIQ
懇親会は、八千代食堂オーナー・高取様の格別のご厚意にて、茅場町「不二楼」様の4階を貸切頂き、とても珍しい絶品の熟成寿司を有難く頂き、楽しい懇親の場となりました。
高取様のご配慮に、心より厚くお礼申し上げます。
#歴史 #わかりやすく #南北朝時代
戦後教育を粉砕する歴史本の出版記念講演会
実は私、疲労困憊だったりします。
毎日投稿チャンネルです。
※マスクを外して飲酒会食を楽しもう(西山飲酒会食俱楽部)。
&本動画に関する質疑応答会(西山塾)。
&マスク販売(武装マスク)
https://nohohondensha.jimdosite.com/
2月24日金曜日16時からオフ会。
残席はありません。
3月5日日曜日14時30分から西山塾
残席11名(老若男女不問)。
同日17時からの懇親会残席6名。
参加申し込み大募集中(老若男女不問)。
3月18日土曜日14時からオフ会。
残席はありません。
3月25日土曜日14時から飲酒会食倶楽部
残席4名。参加申し込み受付中(有資格者のみ)。
詳細は上記ホームページにてご確認ください。
西山塾への参加申し込み、大募集中です。
※以下、ご理解をお願いします。
当サイトの動画は私個人の感想や意見を述べており必ずしも真実ではありません。
独自の考え方、切り口を示す事により視聴者様の思考を促進する事を目的としています。
宜しくご理解ください。
また当サイトでは本音を喋っており善人を気取るつもりはありません。
視聴して不愉快になられる方はご視聴をお控えください。
もう一点、当サイトで公開している内容に著作権はありません。
知名度に関わらず自由にご発言ください。
ご意見、ご要望、ご感想やご提案はアメブロやツイッターでも受け付けています。
https://ameblo.jp/nohohondensha/
https://twitter.com/nohohondensha?lan...
令和5年2月25日出版します!『建武中興と楠木正成の真実』〜「楠木正成悪党説」「後醍醐天皇愚君説」を一刀両断!〜
令和5年2月25日、出版します!
衆議院議員で元防衛大臣の稲田朋美先生も推薦!
出版前から既に、Amazonのニューリリース部門でランクインしており、大変ご好評頂き、感謝です!
楠木正成は悪党ではありませんでした。
「悪党とは強い意味であり、現代の悪党という意味ではない」と戦後の教科書では教えられ、保守界隈の方々の間でも楠木正成を悪党として広く認識されているのは誠に残念。
真実は、楠木正成を悪党と表記している当時の史料はたった一つだけ。
他の史料の中で、敵方の足利側から書かれた『梅松論』ですら、楠木正成を悪党とは表記していません。
後醍醐天皇が愚かな帝であったという説も覆しています。
後醍醐天皇と楠木正成との主従関係は、互いに魂が通じ合い、正成はこの主君の為ならば命を投げ出していい!という思いがあったのでした。
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後醍醐天皇が隠岐島を脱出、船上山の戦い
西暦1,333年4月14日
鎌倉幕府軍は隠岐守護佐々木清高が2,000名の兵を率い船上山を包囲したが大軍であると考え攻撃を躊躇していた。後醍醐天皇の軍に名和長年の弟で大山寺(現在の鳥取県西伯郡大山町)の僧兵であった信濃坊源盛も若い僧兵達を引き連れ加わり、後醍醐天皇の軍は小勢と見破られない様に時折矢を放っていた。やがて鎌倉幕府軍は攻撃を開始したが、麓で指揮を執っていた佐々木昌綱が流れ矢を眼に受けて戦死し、昌綱が率いていた500名の兵は怖気付き戦意を失った。また、搦手で800名の兵を率いていた佐々木定宗が降伏した。この状況を知らない清高は味方が船上山に近づいていると誤認した儘進軍するが、日暮れに激しい暴風雨に遭い木陰に避難した。この機を逃さず名和は射手を率いて攻撃に転じた。鎌倉幕府軍が慌てた所を斬り付け、行き場を失った1,000名の幕府側の兵が谷底に落ち多数の死傷者を出した。清高は700名の兵を率い小波城(現在の鳥取県米子市淀江町)へ敗走した。その後後醍醐天皇は山頂に行宮を建て、倒幕勢力を結集させる為に第12代菊池氏当主菊池武時等に綸旨を送ったり、倒幕計画を練りながら滞在した。
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皇居に鎮座する「南朝」の象徴楠木正成
西暦1,331年10月22日
慣例により後伏見上皇の詔によって、両統迭立から三種の神器の無いまま持明院統の光厳天皇を践祚させ、光厳天皇が初代北朝天皇に即位する。父である後伏見上皇は院政を開始した。また、後醍醐天皇一派の倒幕計画には大覚寺統全体が関与したわけではないとして、大覚寺統嫡流から皇太子を輩出し両統迭立を維持すべきとの理由により、持明院統の同意の下に木寺宮康仁親王が皇太子に選出された。
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鎌倉幕府 滅亡の真因【鎌倉幕府滅亡シリーズ・導入編】
新シリーズを開始します
鎌倉幕府の滅亡についての諸々の事件、政治体制について
考察を交えながら解説していきます
次⇒sm41119924
鎌倉滅亡シリーズ⇒series/355070
参考文献
秋山哲雄『鎌倉幕府滅亡と北条氏一族』吉川弘文館
石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』中公文庫
石原比伊呂『北朝の天皇』中公新書
伊藤喜良『後醍醐天皇と建武政権』吉川弘文館
伊原弘(編)『宋銭の世界』勉誠出版
筧雅博『蒙古襲来と徳政令』講談社
笠松宏至『徳政令』講談社学術文庫
亀田俊和(編)『初期室町幕府研究の最前線』洋泉社
亀田俊和『南朝の真実』吉川弘文館
河内祥輔・新田一郎『天皇の歴史4 天皇と中世の武家』講談社学術文庫
河合康『源平の内乱と公武政権』吉川弘文館
久保田和彦『六波羅探題研究の軌跡』文学通信
黒田俊雄『日本の歴史8 蒙古襲来』中公文庫
呉座勇一(編)『南朝研究の最前線』洋泉社
呉座勇一『陰謀の日本中世史』角川新書
呉座勇一『頼朝と義時』講談社現代新書
小林一岳『元寇と南北朝の動乱』
坂井孝一『承久の乱』中公新書
坂口太郎『公武政権の競合と強調』吉川弘文館
佐藤進一『鎌倉幕府訴訟制度の研究』岩波書店
田中大喜(編)『図説 鎌倉幕府』戎光祥出版
田中大喜『足利氏と新田氏』吉川弘文館
永井晋『北条高時と金沢貞顕』山川出版社
永井晋『鎌倉幕府はなぜ滅びたのか』吉川弘文館
七海雅人(編)『鎌倉幕府と東北』
西田友広『悪党召し取りの中世』吉川弘文館
日本史史料研究会(編)『将軍・執権・連署』吉川弘文館
野口実 長村祥知 坂口太郎『公武政権の競合と協調』吉川弘文館
野口実(編)『図説 鎌倉北条氏』戎光祥出版
服部英雄『武士と荘園支配』山川出版社
兵頭裕己『後醍醐天皇』岩波新書
福島金治『北条時宗と安達泰盛』山川出版社
細川重男『鎌倉幕府抗争史』光文社新書
細川重男『鎌倉幕府の滅亡』吉川弘文館
細川重男『北条氏と鎌倉幕府』講談社選書メチェ
細川重男(編)『鎌倉将軍執権連署列伝』日本史史料研究会
松本一夫『鎌倉時代の合戦システム』戎光祥出版
山田徹『南北朝内乱と京都』吉川弘文館
山田徹 谷口雄太 木下竜馬 川口成人『鎌倉幕府と室町幕府』光文社新書
山本幸司『日本の歴史09 頼朝の天下草創』講談社学術文庫
湯浅治久『蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡』吉川弘文館
村井章介『北条時宗と安達泰盛』講談社学術文庫
森茂暁『建武政権』講談社学術文庫
後醍醐天皇の倒幕計画
西暦1,324年10月7日
早朝、鎌倉幕府が小串範行・山本時綱に軍を率いさせ、以下3名の討伐を命じる。また、六波羅探題が多治見国長と土岐頼有に出頭命令を下した。六波羅探題の2,000騎の兵を率いた山本時綱が堀川三条の宿所を急襲、土岐頼兼と多治見は少数の手勢で奮戦したが、最終的には館の裏手を突破され、頼兼は寝所で自刃、多治見も自害した。
①土岐頼兼
②多治見国長
③第7代足助家惣領足助重範
斎藤利行の倒幕計画に関する報告により、以下4名が鎌倉幕府の討幕を計画したという嫌疑をかけられていた。また、西暦1,324年10月11日を挙兵の日と定めていた。午後、六波羅探題は関東申次西園寺実衡を通じ、日野資朝・日野俊基の勾留を朝廷に要請し、夜に両名は六波羅探題に出頭した。
①第96代天皇後醍醐天皇
②公卿日野資朝
③公家日野俊基
④土岐頼兼
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【MMD+人力】我らの夏を【鬼丸、小竜】
1333年5月22日は鎌倉幕府滅亡(東勝寺合戦)の日で1336年5月25日は湊川の戦いの日です。
前者は鬼丸の最初の主である家系、北条得宗家が滅亡した日であり北条高時が自害した日です。後者は小竜の最初の主である楠木正成が自害をした日です。そしてその両日の当日が本日7月4日となります。
2振りの大切な主が年は違えど同じ日に自害をしてしかも2振りは上記の戦二つに関係もしてるんですよ。
14代目執権北条の当主と家臣(楠木得宗被官説採用)の刀であり、後醍醐天皇の部下として共に戦った仲間同士の刀でもあり、明治の帝の下に約62年も一緒にいた関係でもある2振りですよ。因みに北条時代の小竜は10才以下で鬼丸は約70~100才くらいだったんですよ、二振りともぺーぺーだったであろう時期ですね……最後に一言だけ……旧暦の5月は夏だったんですよ。
お借りしたインスト音源→https://www.youtube.com/watch?v=bH9rtjzPL74
追記:各シーンの解説を書きました→ https://privatter.net/p/9997957
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野々原茜=後醍醐天皇説
野々原茜学会追放も覚悟の上です。様々なネタバレがあると思います。頂いたコメントは後学のための励みと致します。
読み上げ音声はVOICEVOX:冥鳴ひまりです。