タグ 懐かし助っ人 が登録されている動画 : 151 件中 33 - 64 件目
種類:
- タグ
- キーワード
対象:
懐かしの助っ人選手 ベン・リベラ
つべより。メジャー時代には1993年に13勝を挙げている。中華リーグ時代は抑えとして19セーブを挙げている。1998年に阪神と契約。阪神では150km超の速球を使い抑えとして活躍しこの年27セーブを挙げる。翌年はシーズン途中までは防御率0.70、13セーブを挙げるも故障で帰国。走者を背負った場面に対しての不安定さからそのまま退団となった。現阪神タイガース中南米担当スカウト。
懐かしの助っ人選手 デイヴ・ハンセン
つべより。メジャー時代は主に代打要員として活躍した。1998年にNPBと親交のあるトミー・ラソーダからの推薦で阪神と契約。当初は打率3割、90打点は行けるという触れ込みの元の契約でクリーンナップを組んだが、結果として打率は253となった。また三塁手だったが、17失策を記録している。この年限りで退団。
懐かしの助っ人選手 ケビン・ライマー
つべより。メジャーで通算52本塁打、1991~93年まで100安打を達成した実績を持って1994年ホークスと契約。ホークスの選手として初の福岡ドームでの満塁本塁打を記録するなど大活躍をし、この年、打率298、26本塁打、97打点をマークし、外野手としてベストナインに輝いた。翌年は一転、故障により成績ががた落ちとなり1996年の開幕直前になって解雇された。
懐かしの助っ人選手 ハービー・プリアム
つべより。1998年にオリックスと契約。ニールと共にクリーンナップを組んでいた時期もあった。当初は成績を残せなかったがシーズン途中から急成長を遂げる。ロッテの17連敗を記録した試合で9回2アウト2ストライクから逆転のホームランを黒木から放っている。この年は18本塁打を放ち、翌年20本塁打を放っている。1999年退団。
懐かしの助っ人選手 エドウィン・ハタド
つべより。1998年にオリックスと契約。自慢の速球を武器に1年目は先発・中継ぎ・抑えフルに活躍しオールスターにも出場した。この年は8勝を挙げている。翌年も中継ぎとして活躍したものの、眼の負傷によりこの年限りで退団した。
懐かしの助っ人選手 ブライアン・ギブンス
つべより。2m近くの長身から投げおろすサウスポーとして1997年に西武と契約。来日初登板初先発で完封勝利を挙げた。その後も完封勝利を挙げたが徐々にコントロールの悪さを露呈し、77イニングで62個の四球を出すお粗末な結果となってしまった。この年限りで同期入団のロバートと共に解雇となった。
懐かしの助っ人選手 ロバート・ウィッシュネフスキー
つべより。1997年に西武と契約。メジャー経験はなく、台湾リーグでストッパーを務めていた経歴がある。156Kmの速球がアピールポイントで、主にストッパーとして勤めていた。前半は防御率が1点台だったのが徐々に弱点を突かれたのか最終的には4点台までに悪化した(これが影響しストッパーからは外されている)。同期のギブンスと共に解雇された。
懐かしの助っ人選手 ルディ・ペンバートン
つべより。1997年途中に西武と契約。しかしその直後に故障になり、復帰後もろくな成績を残せずにいたが最終戦で満塁本塁打を放ち残留。1998年は9月までろくな働きをしなかったが、9月あたりから急激に調子を上げ一時期は4番を任せられるようになった。しかし守備面にやや雑さが目立ったためこの年限りで解雇となった。
懐かしの助っ人選手 ロブ・マットソン
つべより。1998年に近鉄と契約。メジャー経験はなく(主にメキシカンリーグでプレー)また当時としてはNPBとしては珍しいナックルボーラーだった。この年はチームの勝ち星稼ぎとなり、チーム最多の9勝を挙げる。翌年は敵球団に徹底的に攻略され解雇となった。
懐かしの助っ人選手 ダリン・ジャクソン
つべより。メジャー時代は通算77本塁打を放った実績を持つ走攻守が三拍子揃った現役バリバリのメジャーリーガーとして1995年に西武と契約。安定した打率と長打力で打線を引っ張った。また足も速い上外野守備も強肩好守と非の打ち所が無く、従前の打つだけという助っ人打者像を覆す活躍を見せた。またメジャーリーガーという肩書を鼻にかけることなくチームとなじんでいた。1996年退団。
懐かしの助っ人選手 エリック・アンソニー
つべより。メジャー5球団を渡り歩き1998年にヤクルトとシーズン途中で契約。1997年本塁打王のホージーの不振、新入団のムートンの途中解雇もあって期待も大きかったが故障癖があり、44試合で12本塁打を放ったがこの年限りで解雇。ポジションは外野手だったが1試合しか守る機会がなく大半は1塁を守っていた。
懐かしの助っ人選手 ロブ・デューシー
つべより。メジャー時代は3球団を渡り歩き、1995年に日ハムと契約。主に1番として起用され、1番起用なのに良く本塁打を放つことから「恐怖の1番打者」と呼ばれた。1995年は25本塁打、1996年には26本塁打放つなどなかなかの活躍を見せたが、打率が低打率なのがネックだったために1996年限りで退団となった。
懐かしの助っ人選手 D・J(ダグ・ジェニングス)
つべより。1995年にオリックスと契約。当初は不調だったが7月ごろから調子が良くなり、7、8月の月間MVPに輝く活躍を見せこの年のリーグ優勝に貢献。翌年は成績が落ちたが、チームの日本一に貢献する活躍を見せた。1997年はシーズンの大半を二軍で過ごし、この年限りで退団した。
懐かしの助っ人選手 ルイス・ロペス
ようつべより。1996年に広島と契約。キャンプで不安定なスイングの矯正を行い、この年と翌年に打点王を獲得。1997年には最多安打のタイトルを獲得した。97年オフに退団し、不祥事で謹慎していた小久保の代わりの主砲を探していたホークスと契約。しかし小久保の復帰で1年で退団し、2000年シーズン途中に広島と再契約。2001年まで主砲クラスの活躍を見せたが、2002年に前田智徳とのトラブルでシーズン途中で退団した。
懐かしの助っ人 キップ・グロス
ようつべより。開幕早々に解雇となったカンポスの代わりに1994年日ハムに入団。メジャー通算は8勝しか挙げていなかったものの、3年連続二桁勝利(95、96年は最多勝を受賞)を挙げるなど日ハムの先発ローテーションを担う存在となっていた。1998年に退団し、レッドソックスでメジャー復帰を果たしている。
懐かしの助っ人 グレン・ブラッグス
つべより。メジャーでは通算70本塁打を放ちワールドシリーズ制覇に貢献した実績を持つ現役バリバリのメジャーリーガーとして1993年にベイスターズと契約。29試合連続ヒットを放ち歴代助っ人の連続安打記録を更新する。翌年はベイの4番として35本塁打を放つなど凄まじい活躍を見せたが96年は死球による不調でこの年限りで引退した。ちなみに同期は後の「マシンガン打線」の一角を担ったロバート・ローズ。
懐かしの助っ人 C・D(クリス・ドネルス)
つべより。メジャー3球団を渡り歩き1996年に近鉄と契約。20本塁打を放つが1年で退団。翌年オリックスに移籍し、1年目は打率3割と17本塁打を放つも2年目以降は成績がガクンと落ち3年目は1軍登録なしで解雇された。引退後はオリックスバファローズのスカウトを務めた。
懐かしの助っ人選手 グレン・デービス
つべより。メジャー時代はドラフト1位指名でアストロズに指名されその後通算190本塁打を放ち1986年のアストロズ地区優勝に貢献するなど華やかな経歴を掲げながら1995年阪神と契約。同期入団のクールポーとクリーンナップを組んでこの年23本塁打の成績を残す。しかし翌年は首脳陣とトラブルを起こし2軍暮らしが続き、1軍復帰後は代打満塁本塁打を放つ活躍を見せるがクールポーと共にシーズン途中で解雇された。
懐かしの助っ人選手 マーク・キャリオン
つべより。(一部映像乱れあり)メジャー時代は4球団を渡り歩き通算69本塁打を放っている。1997年にロッテと契約したものの、試合を無断欠席するなどやる気のなさに批判が挙がっていた。1年目は打率279、本塁打14本、打点77ながらチーム内での三冠王に輝く。翌年は新入団のフランコと争ったが腰痛で戦力外となり、引退した。
懐かしの助っ人選手 バーナード・ブリトー
つべより。メジャー時代はマイナーでは良く打つものの、メジャー昇格だと全く打てないため「ミスター・マイナーリーグ」と呼ばれていた。1995年途中に不振のマッキントッシュの代わりに入団し、56試合で21本と驚異のペースで打つが身内の不幸で帰国。1996年は29本塁打を放つが、練習法が合わないとしてそのまま退団した。
懐かしの助っ人選手 ロバート・ローズ
つべより。1993年にベイスターズと契約。当初は同期のブラッグスの方に注目されていたが驚異的な勝負強いバッティングが評価され正二塁手として活躍。98年の日本一貢献や99年の153打点、3回のサイクル安打などまさに横浜の最強助っ人に相応しい活躍を残した。2000年に退団、2003年にロッテのキャンプに参加したが開幕戦直前に突如退団した。
懐かしの助っ人選手 ウィリー・フレーザー
つべより。メジャー時代はエンゼルス在籍時に2年連続二桁勝利を挙げている。1996年にオリックスと契約し、その年リーグ優勝・日本一を経験する。強面であるが性格は繊細だという。98年まで在籍し、通算25勝を挙げた。現在は評論家を務めている。
懐かしの助っ人外国人選手 ジャスティン・ジャマーノ
つべより。リトルリーグ時代にマーク・マグワイアのシーズン最多本塁打記録を破ったことがある。メジャーでは通算8勝を挙げ2009年にホークスと契約。交流戦での広島戦で雨天コールドだったものの初先発での完投で来日初勝利を挙げている。シーズン通して14試合登板で5勝を挙げたものの本人のメジャー志向により1年で退団。その後はインディアンズで中継ぎとしてプレーするものの、2011年は韓国でプレーしている。
懐かしの助っ人外国人選手 スコット・アッチソン
つべより。メジャー通算53試合登板の実績を評価され2008年に阪神に入団。当初は先発で起用されたがなかなか結果を出せず中継ぎに転向すると約1か月の間無失点を続けた。翌年は藤川と勝利の方程式で活躍するも本人のメジャー志向によって退団。現在はレッドソックスに所属。
懐かしの助っ人外国人選手 ジャレッド・フェルナンデス
つべより。アストロズ時代は防御率54.00と自己ワースト記録を出している。2007年に広島へ入団。いわゆる「ナックルボーラー」と呼ばれるタイプの投手で、主にナックルを使いプレーしていた。しかし牽制は上手いものの、肝心のナックルが100km/h程しか出ないことから打ちこまれることが多く、防御率6点台とあまり活躍できずに1年限りで退団した。
懐かしの助っ人外国人選手 トロイ・ニール
ようつべより。メジャー時代にはマーク・マグワイアとクリーンナップを組んでいた事もある。95年に「アスレチックスの4番打者」という触れ込みでオリックスに入団。この年指名打者としてベストナインに輝くなど当時のオリックス全盛期を支えた選手の一人である。2000年オフに退団後は韓国でプレーしていたが暴力事件を起こし解雇。98年には下痢を我慢しながらホームランを放ったり、翌年にはグリーンスタジアムで結婚式を挙げている。
懐かしの助っ人外国人選手 アダム・リグス
つべより。05年にヤクルトに入団。06年には「バントをしない二番打者」として39本塁打を放つ活躍をする。翌年は主軸の岩村が抜けたことにより代わりの主軸として活躍を期待されたが怪我などがあり全く活躍できなかった。さらに翌年は不振とやる気の無さから首脳陣の怒りを買い、シーズン途中で解雇となった。
懐かしの助っ人外国人選手 フランク・ボーリック
つべより。99年に長打力不足に悩んでいたロッテに入団。キャンプでは不調で当初は二軍暮らしが続いたが一軍に上がると来日初打席で本塁打を放つなどの活躍を見せた。01年には指名打者でのベストナインに選ばれるなどの活躍を見せたが、翌年は新ストライクゾーンが採用されると瞬く間に不振になり解雇となった。99年にはボーリックが本塁打を放った試合は負けないという「ボーリック神話」も生まれた。
懐かしの助っ人外国人選手 フリオ・フランコ
つべより。メジャー時代に3度のシルバースラッガー賞受賞・91年には首位打者を獲得した実績を評価されて95年にロッテに入団。しかし、助っ人としては長打力不足であることと当時のGMとの確執で一度退団する。その後メジャーの球団を転々とし確執相手のGMが辞任したことにより98年に再びロッテに入団。その時は助っ人では珍しくチームの主将を務めた。