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懐かしの助っ人選手 ブレント・ブリード
つべより。1999年にロッテと契約。入団当時27歳と若く、球団からの期待も高かった。開幕スタメンで起用されたが、徐々に打てなくなりシーズン途中に手術で帰国。そのまま退団した。ちなみに同期はフランク・ボーリック。登録名は「ブレイディー」。
懐かしの助っ人外国人選手 ライアン・グリン
つべより。2006年は楽天に在籍し7勝を挙げるも交渉決裂で2007年日ハムに移籍。この年は交流戦で最優秀選手に選ばれるなど前年とはウソのような活躍を見せたが翌年はリーグワースト14敗を記録し解雇。2009年は先発不足に悩む横浜に移籍するも外国人投手としては20年ぶりの15敗を記録しこの年限りで退団した。
懐かしの助っ人選手 マイケル・ブロワーズ
1999年に阪神と契約。メジャー時代は三度の二桁本塁打を記録した実績を持つ。
阪神時代は主に四番を務めたが、外角のスライダーに極端に弱い事が発覚してからの成績は急激に落ちた。
2年契約で総額2億2000万円の年俸に見合う成績とは言い難く、一年のシーズン途中で解雇となった。
懐かしの助っ人 キップ・グロス
ようつべより。開幕早々に解雇となったカンポスの代わりに1994年日ハムに入団。メジャー通算は8勝しか挙げていなかったものの、3年連続二桁勝利(95、96年は最多勝を受賞)を挙げるなど日ハムの先発ローテーションを担う存在となっていた。1998年に退団し、レッドソックスでメジャー復帰を果たしている。
【東北楽天】ロペス内野手
再うp。05年在籍。序盤は大不振だったにもかかわらず選手層の薄さのおかげで三塁スタメンで使い続けられ、最終的には普通のハズレ外国人程度の数字は残した。異常に高かった得点圏打率とネタ応援のおかげでファンからの人気は高かった。
懐かしの助っ人選手 D・J(ダグ・ジェニングス)
つべより。1995年にオリックスと契約。当初は不調だったが7月ごろから調子が良くなり、7、8月の月間MVPに輝く活躍を見せこの年のリーグ優勝に貢献。翌年は成績が落ちたが、チームの日本一に貢献する活躍を見せた。1997年はシーズンの大半を二軍で過ごし、この年限りで退団した。
懐かしの助っ人外国人選手 ヘクター・カラスコ
つべより。メジャー通算498試合登板の実績を売りに近鉄に2004年在籍。それまでクローザーを務めていた大塚が抜けてしまったので新たなクローザーとして期待されたが制球難からよく炎上が発生するため勝てる試合も負けてしまう事が多々あった。因みにこの年近鉄・オリックスの吸収合併騒動があった為、メジャー時代のストライキの経験をアドバイスをしていた。
【千葉ロッテマリーンズ】アブレイユ 投手
08年在籍。シーズン序盤は監督に重用され防御率も悪くなかったが、細かい制球ができなかったためかいまひとつ信頼が得られないまま5月末までに20試合登板したところで腕を骨折して帰国。シーズン終了後に再来日してフェニックス・リーグでテストを行ったが結局解雇された。
【大阪近鉄バファローズ】バーンズ外野手
再うp。04年在籍、登録は外野手だったがほとんどDH専門。シーズン序盤の故障が響き34試合出場、打率.252、4本塁打といまいちの成績だった。長打力のあるマリオが途中入団して以降は投手3人制(パウエル・バーン・カラスコ)に阻まれ藤井寺暮らし。(アレな画質は勘弁してください)
懐かしの助っ人選手 シェーン・バワーズ
つべより。2001年に森新監督率いる横浜と契約。先発ローテーションの一角を担う存在としての入団だったが1年目は3勝(13敗)、2年目は4勝(8敗)しか挙げられなかった。2002年オフに退団。04~05年在籍のバワーズとは無関係。
懐かしの助っ人選手 バーナード・ブリトー
つべより。メジャー時代はマイナーでは良く打つものの、メジャー昇格だと全く打てないため「ミスター・マイナーリーグ」と呼ばれていた。1995年途中に不振のマッキントッシュの代わりに入団し、56試合で21本と驚異のペースで打つが身内の不幸で帰国。1996年は29本塁打を放つが、練習法が合わないとしてそのまま退団した。
【オリックスブルーウェーブ】シェルドン内野手
youtubeから02~03年在籍。『メジャー時代に(消化試合で)1試合中に全ポジションを守った珍記録保持者』というあまり期待できない売り文句だった。日本では主に一・三塁を守り、1年目は26本塁打を放ったものの得点圏打率.168ととんでもなくチャンスに弱くかったうえリーグ最多の155三振を記録。2年目はオーティズ・ブラウンの現役メジャーコンビの陰に隠れあまり目立てなかった。
懐かしの助っ人外国人選手 スコット・アッチソン
つべより。メジャー通算53試合登板の実績を評価され2008年に阪神に入団。当初は先発で起用されたがなかなか結果を出せず中継ぎに転向すると約1か月の間無失点を続けた。翌年は藤川と勝利の方程式で活躍するも本人のメジャー志向によって退団。現在はレッドソックスに所属。
懐かしの助っ人外国人選手 トッド・リンデン
つべより。2009年シーズン途中に楽天に入団。アマチュア時代に両打席本塁打のシーズン記録を達成した経験を持つ。途中加入ながら楽天創立初のAクラス入りの原動力となった。しかしそれ以上に目立ってたのは素行の悪さで暴言や監督との対立など数々のトラブルを起こしている(アマチュア時代にも葉巻密輸で退部している)。翌年は前年よりも成績が落ち退団した。
懐かしの助っ人選手 ルイス・アキーノ
つべより。メジャー時代は通算31勝を挙げている。96年、近鉄と契約した。その風貌から「投げるマリオ」とも呼ばれ、この年11勝と好成績を残すもわずか1年で解雇となった。因みに西武戦では滅法強く、6勝を西武から勝ち星を挙げている。
懐かしの助っ人選手 マーク・キャリオン
つべより。(一部映像乱れあり)メジャー時代は4球団を渡り歩き通算69本塁打を放っている。1997年にロッテと契約したものの、試合を無断欠席するなどやる気のなさに批判が挙がっていた。1年目は打率279、本塁打14本、打点77ながらチーム内での三冠王に輝く。翌年は新入団のフランコと争ったが腰痛で戦力外となり、引退した。
懐かしの助っ人 C・D(クリス・ドネルス)
つべより。メジャー3球団を渡り歩き1996年に近鉄と契約。20本塁打を放つが1年で退団。翌年オリックスに移籍し、1年目は打率3割と17本塁打を放つも2年目以降は成績がガクンと落ち3年目は1軍登録なしで解雇された。引退後はオリックスバファローズのスカウトを務めた。
懐かしの助っ人選手 ロブ・デューシー
つべより。メジャー時代は3球団を渡り歩き、1995年に日ハムと契約。主に1番として起用され、1番起用なのに良く本塁打を放つことから「恐怖の1番打者」と呼ばれた。1995年は25本塁打、1996年には26本塁打放つなどなかなかの活躍を見せたが、打率が低打率なのがネックだったために1996年限りで退団となった。
懐かしの助っ人選手 ケビン・ライマー
つべより。メジャーで通算52本塁打、1991~93年まで100安打を達成した実績を持って1994年ホークスと契約。ホークスの選手として初の福岡ドームでの満塁本塁打を記録するなど大活躍をし、この年、打率298、26本塁打、97打点をマークし、外野手としてベストナインに輝いた。翌年は一転、故障により成績ががた落ちとなり1996年の開幕直前になって解雇された。
懐かしの助っ人選手 ウィリー・フレーザー
つべより。メジャー時代はエンゼルス在籍時に2年連続二桁勝利を挙げている。1996年にオリックスと契約し、その年リーグ優勝・日本一を経験する。強面であるが性格は繊細だという。98年まで在籍し、通算25勝を挙げた。現在は評論家を務めている。
懐かしの助っ人選手 グレン・デービス
つべより。メジャー時代はドラフト1位指名でアストロズに指名されその後通算190本塁打を放ち1986年のアストロズ地区優勝に貢献するなど華やかな経歴を掲げながら1995年阪神と契約。同期入団のクールポーとクリーンナップを組んでこの年23本塁打の成績を残す。しかし翌年は首脳陣とトラブルを起こし2軍暮らしが続き、1軍復帰後は代打満塁本塁打を放つ活躍を見せるがクールポーと共にシーズン途中で解雇された。
元東北楽天ゴールデンイーグルス デイモン・マイナー
YouTubeから転載 誕生日記念のはずだが1月9日という可能性もあるらしい 投手は小林宏之
懐かしの助っ人選手 ロバート・ウィッシュネフスキー
つべより。1997年に西武と契約。メジャー経験はなく、台湾リーグでストッパーを務めていた経歴がある。156Kmの速球がアピールポイントで、主にストッパーとして勤めていた。前半は防御率が1点台だったのが徐々に弱点を突かれたのか最終的には4点台までに悪化した(これが影響しストッパーからは外されている)。同期のギブンスと共に解雇された。
090326 横浜ベイスターズ D・ジョンソン
正面から見るとすんごいオープンスタンスw mylist/11662967
懐かしの助っ人外国人選手 クリフ・ブランボー
つべより。2005年に合併オリックス新助っ人第一号として入団。その年はオリックスの主砲として活躍するが翌年は打撃不振で解雇となった。打撃フォームがアッパースイングの為、ポップフライが多かった。
懐かしの助っ人選手 ルディ・ペンバートン
つべより。1997年途中に西武と契約。しかしその直後に故障になり、復帰後もろくな成績を残せずにいたが最終戦で満塁本塁打を放ち残留。1998年は9月までろくな働きをしなかったが、9月あたりから急激に調子を上げ一時期は4番を任せられるようになった。しかし守備面にやや雑さが目立ったためこの年限りで解雇となった。