タグ 西国街道 が登録されている動画 : 68 件中 1 - 32 件目
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国道2号を走ってみた②
国道2号下り線を走ってみた車載動画
神戸市中央区→兵庫県明石市
①→sm42216430
③→sm43441663
BGM:走行音のみ
文字フォント:ぱんかれ 様 GD-高速道路ゴシックJA-OTF
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:https://twitter.com/yuyu_trip
【フリモメン動画投稿祭2023】フリモメンと行く宿場町海田「千葉家住宅」と江戸期中期改修の「泉庭」の紅葉2022完全版
基本は同じですが、記録として。動画、写真の増補改修完全版(長目) 間に合ったぜ
良い声のリリせちゃんはわしの中ではフリモメンの2号機です。
千葉家住宅の江戸中期に座敷等建て替えの時 1774年改修のお庭(江戸初期築庭)泉庭がある
広島県の名勝指定。座敷棟=県の重要文化財指定。
2022年11月に訪問時のもの(iPhoneで撮影なので画質はそれなり)。
この時iPhoneしかなかったので紅葉の写真が日陰のあたりは厳しいですね。
西国街道(旧山陽道)広島から東へ最初の海田宿。現在も街道の雰囲気を僅かに残す町。そこには旧千葉家住宅が現存する。千葉家は元武士で上総、下総で勢力を張った千葉氏の一族で永正年間(1504〜42年)安芸の国へ下向した。大内氏や毛利に仕えたのち毛利氏が防長移封の時に武士を止め広島城下で商人となり神保屋を起こす。
広島藩により海田宿が整備されると海田にて神保屋は酒造業などを営む傍ら天下送り、宿送りの業務に携わるとともに宿場の重要な役を務めた。
注)天下送り=幕府の公文書や荷物も運搬 継ぎ送り(広島城下及び上瀬野まで)宿(しゅく)送り=広島藩の公文書類、荷物の継ぎ送り(尾道奉行との連絡を中心)〜
家紋が蔵などにありますが=月星紋(つきほしもん)妙見信仰に関係した千葉氏の家紋。
微修正しました。
街道歩きは2019年に行ったかな 再度 海田や瀬野を歩いてみたい。
広告礼申し上げます
めし太郎 様
イルカッパ星人 様
赤城山登頂記念 様
龍休宗庵 様
【フリモメン動画投稿祭2023】フリモメンと行く宿場町海田「千葉家住宅」と江戸期中期改修の「泉庭」の紅葉2022抜粋
上書き完了。今増補改訂に入ったけど間に合えば完全版も上げます
明日から三日仕事なんだよなあw 厳しい?
千葉家住宅の江戸中期に座敷等建て替えの時 1774年改修のお庭(江戸初期築庭)がある。
泉庭=広島県の名勝指定。座敷棟=県の重要文化財指定。
見学は第2、第4土曜前日からの4日間(音声は正しいが、字幕間違えてた^^; )
後半プロジェクトが消失したのでこのままいく。
2022年11月に訪問時のもの(iPhoneで撮影なので画質はそれなり)。
この時iPhoneしかなかったので紅葉の写真が日陰のあたりは厳しいですね。
西国街道(旧山陽道)広島から東へ最初の海田宿。
現在も街道の雰囲気を僅かに残す町。そこには旧千葉家住宅が現存する。千葉家は元武士で上総下総国、で勢力を張った千葉氏の一族である。永正年間(1504〜42年)安芸の国へ下向した。大内氏や毛利に仕えたのち毛利氏が防長移封の時に武士を止め広島城下で商人となり神保屋を起こす。
広島藩により海田宿が整備されると海田にて神保屋は酒造業などを営む傍ら天下送り、宿送りの業務に携わるとともに宿場の重要な役を務めた。
注)天下送り=幕府の公文書や荷物も運搬 継ぎ送り(広島城下及び上瀬野まで)宿(しゅく)送り=広島藩の公文書類、荷物の継ぎ送り(尾道奉行との連絡を中心)〜
家紋が蔵などにありますが=月星紋(つきほしもん)妙見信仰に関係した千葉氏の家紋。
尺とニコニコの動画祭期間の時間の関係上写真中心で短めに。
〜広告御礼申し上げます ^^;人〜
龍休宗庵 様
nanashinogonbei 様
nopposan 様
イルカッパ星人様
めし太郎 様
国道2号を走ってみた①
国道2号下り線を走ってみた車載動画
大阪梅田新道→神戸三ノ宮
②→まだ
BGM:走行音のみ
文字フォント:ぱんかれ 様 GD-高速道路ゴシックJA-OTF
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【Voicepeak】〜御朱印祭2023〜久遠山 海蔵寺と江戸時代の作庭〜石組庭園 【禅宗寺院庭園】 広島市西区草津
Voicepeak版リニューアル増補 曹洞宗 久遠山 海蔵寺と石組庭園(池泉庭園)
広島市西区草津 行者山山腹にある西国街道沿いの古刹。最寄駅 広島電鉄 宮島線 草津電停
米帝の原爆投下で焼けたため広島市内の古庭園はほとんどない。
江戸期庭園の遺構が残るのは=貴重なものであります。今回で3回目訪問。
Voicepeakは音声案内してもらっいてます。公式の立ち絵はOP・EDのみ利用しました。
広告大変恐れ入ります^^;人 感謝感謝であります
久遠山海蔵寺 御本尊=十一面観世音菩薩
本堂=天保年間建立で江戸期の寺の本堂建築を今に残す。被曝建物でもあります。
旧市内は古い寺院本堂はほとんど焼けているため残るものが大変少ない。
本堂は方丈の形式だが通常より大きな作りになっているそうです。
西区草津
草津の旧西国街道沿いにある寺社である。周囲には草津八幡(近代に遷座している)、鷺森神社や古い蔵元、寺社、コテ絵を観れる古民家なども点在するエリア。漁師町でしたが今は都市化され埋め立てが進んでいる。現在の牡蠣養殖を盛んにしたのも草津かららしいですね。
石組庭園=元禄時代に築庭された寺院庭園。本堂北側の斜面にあり。
本堂(方丈)書院から見る形式かな。岩が多用されていて三角形に近い池がある。石組は池の護岸から池上部にかけて重厚に組まれている。
西側(向かって左)には滝石組があり落水されていた(今もわずかにあるそうですが、枯れたりもしてるみたい)この時は枯滝のようでした。
滝石の横(左)にも横石を用いた石組が築山から下の方へ組まれている。滝石と横石の石組のあたりの築山はちょうど谷のような形状になっている。庭園ガイドさんのHPを拝見すると以前の写真からしたら山からの土砂が石の間に増えていますね。
夏なので草が茂っています。
海蔵寺サイト、海蔵寺さんの御由緒書、新広島八十八ヶ所H P寺院紹介、庭園ガイド(庭の紹介HP) サイト海蔵寺の項参照させていただきました。
音楽
ニコニ・コモンズ のる様作
忘却の都~ノスタルジックなBGM~他
Voicepeak【フリモメンと行く神社巡り2】 西国街道に御鎮座「黒川 大歳神 社」 〜 広島県大竹市 テスト用(別音声)
フリモメン版 ようつべ用なんだけど テストなんで今週いっぱい公開にしてみます
こういう寺社動画には声はどっちが合うんだろうか?
内容は一緒です^^
広島県の神社巡りその2 広島県西端の大竹市黒川。旧街道西国街道筋に面した神社。
玖波宿と小方間宿(主に一時的休息に使われた宿場)との中間に位置する旧黒川村の鎮守。時代の波に翻弄されながら今も静かに鎮座しています。なかなか良い。
広島岩国道路建設(正式にはバイパス扱いなんだけど、まあ山陽道ね)により大歳の杜を切り開き遷座している。
祭祀は玖波大歳神社さんで兼務
神社案内ガイドはフリモメン(voice peak)さんです。音声案内は最小限にとどめております。
テスト投稿2 フリモメンのご案内による神社参拝記。
できるだけ声を抑え目にしてナレーション重視で調整。
こまめにプロジェクト保存しないとたまに落ちたり、自動保存はしてくれない注意だよん。
趣味的には音楽だけの方が、場所柄 ここだとより静寂の雰囲気はあるかな。
ただ音声が入るとわかりやすい(読むことに集中しなくて良い)
Voicepeak【彩澄りりせと行く神社巡り2】 西国街道に御鎮座「黒川 大歳神 社」 〜 広島県大竹市
広島県の神社巡りその2 広島県西端の大竹市黒川。旧街道西国街道筋に面した神社。
玖波宿と小方間宿(主に一時的休息に使われた宿場)との中間に位置する旧黒川村の鎮守。時代の波に翻弄されながら今も静かに鎮座しています。なかなか良い。
広島岩国道路建設(正式にはバイパス扱いなんだけど、まあ山陽道ね)により大歳の杜を切り開き遷座している。
祭祀は玖波大歳神社さんで兼務
神社案内ガイドは彩澄りりせちゃん(voice peak)さんです。音声案内は最小限にとどめております。
テスト投稿2 りりせさんのご案内による神社参拝記。
できるだけ声を抑え目にしてナレーション重視で調整。
こまめにプロジェクト保存しないとたまに落ちたり、自動保存はしてくれない注意だよん。
趣味的には音楽だけの方が、場所柄 ここだとより静寂の雰囲気はあるかな。
ただ音声が入るとわかりやすい(読むことに集中しなくて良い)
【西国街道海田宿】旧千葉家住宅の紅葉 抜粋版
西国街道の海田宿跡にある 天下送りの中継も受けた千葉家の旧住宅
座敷棟 県文化財
庭園 県名勝
ダイジェスト版
桜の頃「 草津八幡宮 」と広島湾と市街地の展望 広島市西区草津(令和4年4月下旬)
裏参道から賛否。
令和4年晩春記録。広島市西区草津 江戸時代は西国街道の間宿(あいのしゅく)で正規の宿場の間にあり休息などに利用された。海辺の街で海運、漁業牡蠣養殖などで栄えた今は沖が埋め立てられ住宅や商工施設が立つ 戦国時代 水軍城「草津城」もあった。
神社の在る山について、神功皇后の三韓征伐の伝説でこの地で軍船を整え 弓矢(箭)の訓練をさせたと伝承され力箭山(りきやさん)と呼ばれる。
草津八幡宮の今の社殿や境内域、自体はそう古いものではない。
昭和六年に山腹を切り開き境内が新造され現在地に遷座され新たに社殿建立されたもの。
古は海の近くにあり再建のたび内陸に移っていったと言う。
高台にあり草津の町〜広島湾や島々などの景観が優れています。時々眺めに行きたくなる場所。
社殿も大変姿が良いし189段の石段も風情がある。
御朱印もいただけます。
宮嶋口や旧市内からチンチン電車で行き 草津駅で降りて散策も楽しいですよ。
草津沖周辺は埋め立てられ近代化されているが、古い街並みや神社仏閣、うだつやコテ絵などのある古民家や蔵なども今だ点在している。歴史散策も楽しい。御幸川の河口あたりに飲食店スーパー専門店などが入るレクトがある。洒落ているので休息などに良い。
西国街道を進んだ宮内にある 宮内天王社sm37969384
西にある厳島神社外宮 地御前神社 sm37384152
上平良にある延喜式内社名神大社 速谷神社 sm35298947
西国街道〜広島市草津 神社巡り 「幸(こう)神社」〜「龍宮神社」 広島市西区草津
庚申信仰・猿田彦命の幸神社、漁民の守護神 龍宮神社
草津は漁業で栄えていた町でした。今は埋立で都市化された。
旧山陽道(西国街道)が通り間宿(補助的な宿場で休憩に主に使われた宿場)でもあった。
草津には=草津八幡、龍宮神社、幸神社、鷺森神社、住吉神社、幸福稲荷などがあるね。
住吉神社(以前画像が消えたんで)をまだ再撮影しとらんな・・。
西国街道 大野中山 疣観音堂と今川了俊歌碑 広島県廿日市市
西国街道(旧街道の山陽道)の廿日市の宮内〜四郎峠を西へ下ったところにあるお堂。弘法大師のイボ取り伝説のある御堂である。端正な石仏の観音像である。
川のの合流点にありここよりやや下った場所が一里塚の松があった場所らしい。
今川了俊は貞世と言い遠州今川氏であるらしい足利義満に仕え九州探題として赴任、大内氏や九州大名の力を糾合し南朝方と戦を繰り広げた。
文化人としても優れ 和歌、紀行文(道ゆきぶり)、歴史書(難太平記)などを残す
今川了俊公の歌碑(後2箇所)歌碑の歌は道ゆきぶりに書かれているようだね。
JR大野浦駅、宮浜温泉に近い向原石畳道の上の方にあり
防府市の鞠生にもあるらしいんだけど(老松神社参拝の後に探したが迷ってしまい)いまだ行けてない。
この旧山陽道(高速建設などもあり大体この辺りだが)四郎峠(この辺りを昔大野氏とかいう兄弟が入植開拓したとか言われ大野四郎が開拓したことからその名があるらしい)はさみしいところなので昔は追い剥ぎなんかも出ていたらしい。
今川了俊は地御前神社、厳島参拝後 地御前あたりから山に入りおおの中山へ抜けたと何かで読んだ(HPか本だか忘れたんだが)
西国街道 〜 芸州 草津 街歩き〜「鷺森神社」界隈 広島市西区草津
芸州(安芸国)西国街道風景冬編 師走頃 力箭(りきや)山の麓 街道筋に古より鎮座する鷺森神社へ訪れた。
草津は神功皇后伝説の戦津から草津と呼ばれたともいわれる。草津湾の西には草津城跡の山があり水軍城であった戦略の要衝。
江戸時代 支藩の三次藩の領地となっていた時期もあるようです。西国街道の間宿(宿場の間にあり主に休息などになどに使われた)としても栄えた。
映像には街道筋の周辺の寺社や風景もいくつか載せています
西国街道に沿った町草津。広島市西区の草津はかつて漁業の盛んな港町として栄えた。今も生活道として西国街道は生きています。
西国街道沿いの町草津〜漁民の守護神「龍宮神社」 広島市西区草津
広島市西区草津 西国街道に沿った漁民の町だった。埋立が進み現在では都市化が進んでいる。
御幸川の河口付近の堤防の下一段低い場所に龍宮神社が鎮座する。
かつては豊漁を祈願する神社として漁民に尊崇され時代は変わり今は静かに佇んでいる。
久々にこちらで投稿
久遠山 海蔵寺と江戸時代の作庭〜石組(いわぐみ)池泉庭園 【禅宗寺院庭園】 広島市西区草津
広島市西区草津 曹洞宗 久遠山 海蔵寺と石組庭園(池泉庭園)
米帝の原爆投下で焼けたため広島市内の古庭園はほとんどない。
江戸期庭園の遺構が残るのは=貴重なものであります。今回で3回目訪問。
本堂=天保年間建立で江戸期の寺の本堂建築を今に残す。被曝建物でもあります。
旧市内は古い寺社はほとんど焼けているため残るものが大変少ない。
本堂は方丈の形式だが通常より大きな作りになっているそうです。
西区草津
草津の旧西国街道沿いにある寺社である。周囲には草津八幡(近代に遷座している)、鷺森神社や古い蔵元、寺社、コテ絵を観れる古民家なども点在するエリア。漁師町でしたが今は都市化され埋め立てが進んでいる。現在の牡蠣養殖を盛んにしたのも草津かららしいですね。
石組庭園=元禄時代に築庭された寺院庭園。本堂北側の斜面にあり。
本堂(方丈)書院から見る形式かな。岩が多用されていて三角形に近い池がある。石組は池の護岸から池上部にかけて重厚に組まれている。
西側(向かって左)には滝石組があり落水されていた(今もわずかにあるそうですが、枯れたりもしてるみたい)この時は枯滝のようでした。
滝石の横(左)にも横石を用いた石組が築山から下の方へ組まれている。滝石と横石の石組のあたりの築山はちょうど谷のような形状になっている。庭園ガイドさんのHPを拝見すると以前の写真からしたら山からの土砂が石の間に増えていますね。
夏なので草が茂っています。
海蔵寺サイト、海蔵寺さんの御由緒書、庭園ガイド(庭の紹介HP) サイト海蔵寺の項参照しました。
音楽
ニコニ・コモンズ のる様作
春は歌う。.*:+☆軽やか&華やかなピアノソロBGM
静寂の庭。.*:+☆しっとり和風なピアノソロBGM
忘却の都~ノスタルジックなBGM~
草津八幡からの広島湾の夕暮れ R3
草津八幡の夕暮れ 広島湾や町の眺め。草津は海のそばでで漁業が盛んだった。
麓にある旧道は江戸の昔からの旧街道の西国街道が伸びています
いい風景なんで、フト海や島を眺めに来たくなります。
バイパスを西から走り井口でおりますとバイパス下を潜ってすぐ商工センターへ降りていく時、そこから見える島の景色が大きく見えて一番好きなんですが止めてみるわけにもいかないんですよね。
最近(ここ3年)鈴が峰にもいかないなぁ。
玖波 大歳神社と神生(みあれ)石(西国街道 玖波宿の鎮守) 広島県大竹市 記録
広島藩(芸州藩)西端の宿場 玖波(クバ)宿のすぐ近くに、行者山麓の鎮座する。行者山は修験道の山で現在は石鎚神社系の修験道の山である。ハイカーがよく訪れる山でもある。
玖波(クバ)大歳神社=恵川の傍に鎮座し、後ろは行者山がある。鎮守の森がこん森している。
やや山側には山陽新幹線、神社の南には広島岩国道路(山陽自動車道へ接続)の橋脚があり現代と古いものが混在している。
社殿は昭和42年コンクリート再建(拝殿は流造、向拝付瓦葺き、神殿は神明作り銅板葺)昭和20年の枕崎台風以来3度の大きな風水害で痛み再建されたものだ。
社殿は白を基調にしていて造りも自然な感じなので意外に周囲の感じとあっていると思い悪くはない。
また神社の社殿の横には神の降り来る磐座が今も祀られており神生石(みあれいし)として鎮座している。社殿はこの祭祀対象の石を避けて横へのちに建立されてきたものらしい。
ここ玖波と周防の山里=山代地方(今の岩国市になる)の生見は昔から縁が深いようです。御幣が玖波から山代の生見まで飛んでいったというようなお話もの残る。また岩国の堅石明神(御神体の大岩がある)の縁起にもここの神社が出てくるらしい。
玖波(クバ)について余談
この玖波という地区は古くは古代山陽道 遠管駅家が置かれた場所といわれ古代から安芸の国西部のにおける交通の要衝の一つであった。
厳島にも近く瀬戸内の海運の港として、玖波谷へ山から降る道は周防山代など山間部地域から物資の降ってくるルートとして用いられたようだ。現代では役目を終え静かな町でわずか昔の面影を残す。
今は海が近く国道2号線が走りますが、昔は海側に道が無く廿日市から山越えで鳴川の石畳(遺跡がある)を抜け鉾の峠〜から唐船浜を経て馬試しの山をこえて玖波宿へ入っていようである。今はうま試しの山には隧道が通り玖波宿へ(旧道)また海側はおそらく削られ国道2号が開通している。江戸時代までは山側に旧山陽道が通っていた。
*神社の歴史などは玖波大歳神社サイトと大竹歴史研究会サイトを参照させていただいた。人
なかなか詳しいです。
旧厳島神社兼帯社 「大頭(おおがしら)神社」と豪快な妹背の滝 広島県廿日市市大野
厳島神社摂社として推古天皇の時代に創建(603年)された古社。
江戸時代までは厳島神社の(兼帯七社の一つ)兼帯社であった。祭祀や修築の用材提供などを厳島神社が全て行っていた。
大正2年に周囲の開発化が進んだため元宮のあった桑原というところから城山の東の麓にある昔から景勝地で知られた妹背の滝のある現在地へ遷座した。
インター近くの朱の両部鳥居の扁額は東久世熾仁親王の筆。
昔は厳島神社の神事である烏喰式なども境内で行われていたようですが最近はやってないみたい。
この辺りは〜西国街道にあたり長州征伐の時、長州軍VS幕府軍の激戦地の一つ。千人塚も残る。
妹背の滝
雄滝と雌滝の二つがあり雌雄滝、めおと滝とも呼ばれていた。神社遷座の頃か妹背の滝と命名された。
雌滝=落差50mの優雅な滝である。雄滝=落差30mの岩のすごい豪壮な滝である。
城山=厳島と本土の間の海峡を睨んだ大内氏の城で門山城があった山。厳島合戦前に毛利が攻め落として廃城となる。妹背の滝の上の公園から登山道がある。また大野浦駅近くからも登れる。戦国時代などは妹背の滝あたりから敵が攻めてきたり合戦なども行われたようである。
行き方
山陽自動車道の大野インターを降りて、右折します(左へ行くと国道2号線方面や新幹線高架沿いに阿品台団地やバイパス方面へ抜ける)
神社前に市の借りているらしい駐車場があるのでそこへ止めましょう。
国道2号線からインター方面への道を(大野中央)抜けてもいけます。
山陽本線の電車だとJR大野浦駅から30分くらい東へ歩くことになるかな。駅から駅前通りを東へと 向かいスーパー藤三のところを左折して山の方へ両部鳥居を抜けて、大野インター前を過ぎたらすぐ。
【山口・周南の神社巡り】遠石(Toishi)八幡宮 本編 <周南有数の古社〜 影向石と社殿> 記録編
周南市遠石へ(旧徳山市=徳山藩のあった場所)午後 花岡八幡宮を出てからJRで櫛ヶ浜へ出てバスで旧徳山内の神社へ向かい巡拝した記録本編(長いです・・・・・・・)
工業都市徳山のコンビナート群を見下ろす鎮守の森 2年越しで参拝できたできた満足。
Toishi Hachimangu Shrine (built 1400 years ago).
Kodama Shrine (Kodama Gentaro's shrine. General Kodama Gentaro is a hero of the Russo-Japanese War and Governor-General of Taiwan)
遠石八幡宮=和銅元年社殿創建。この辺りは遠石の荘と呼ばれたところで清水八幡宮の荘園だったらしい。平安時代石清水八幡宮の別宮とされた古社。
現社殿は、社殿焼失のため昭和15年(1940年)再建で近代における伝統に則った神社建築。
国の登録有形文化財指定。
拝殿は山口県特有の楼拝殿形式。本来門だが板を貼り拝殿機能を持たせて用いる。
推古天皇30年にこの地の浜の大石(おおいわ)へ神馬に乗られた八幡神が降臨された御神託の・・・・「嗚呼遠し」が地名の由来です。
【実際の参拝は近いので櫛ヶ浜〜バス〜遠石下車=遠石八幡宮〜バス〜桜馬場で下車=児玉神社へ帰りは徳山駅まで歩きました】
周南の神社巡り 遠石八幡、児玉神社 抜粋版(ショート) sm39898664
紅葉が美しい境内/素盞嗚命と神武天皇を祀る 旧村社 宮内天王社〜黄落と大銀杏 (旧・厳島神社兼帯社) 2021
2021年 R3三年。初冬。今年最後の参道大イチョウの黄落が鮮やかな境内風景。定点観測。紅葉時期 今年は1週間あけて2回参拝したのでまとめ。
場所
廿日市市宮内は県道30号線が走り県道と御手洗川がぶつかる所の旧道を少し川沿いに遡ると参道入り口がある。ちょうど交番のところを入れば良い(交差点のところには吉賀町の柿木村アンテナショップがある)駐車スペースは細長く社前の道は意外に車が来るので注意。ゆっくり待ってバックでいれるのが吉か?すぐ近くのスーパー(買い物でもして)に止める手もある。
廿日市駅近くに廿日市天満宮があり(低い山だがかつての城跡)廿日市のそう鎮守でここの祭祀もしている。展望が良い。合わせてわせて参拝をお勧めする。
歴史
元来は広田神社の元鎮座地の麓にあったが、天正年間に海の近くなので津波災害で現在の宮内へ遷座した。元来は祇園社で牛頭天王を習合した神仏混交の社だった。
祭神=素戔鳴命、神武天皇など
明治後は八坂神社と改称したが戦後昭和44年頃 氏子の希望で宮内天王社へ社号を再度改称した。
名称は長い神仏習合時代の牛頭天王の語感を生かしたか神武天皇伝説の絡みからなどと言われる。
江戸時代〜厳島神社兼帯七社の一つだった(祭祀を厳島神社の祀官が行い社殿などの修築も厳島神社が賄った神社)境内にあります社殿修築の寄進者を記載した石碑を見ますと、厳島神社が多くの寄進をしていました。
境内は大木も多くあり村社として守られてきたようです。旧山陽道が近くを通っていた場所でもある。御手洗川沿いあたりは大体山陽道にあたるらしい。
西国街道 玖波宿を出て〜黒川へ向けての高台から海の景色 (広島県大竹市)
昔の西国街道は玖波宿を出ると山麓を黒川村〜小方村〜さらに苦の坂をこえ小瀬川河畔の木野へ出ていた。開発が進み山麓は道路と住宅街となり昔の街道筋はわからなくなっている。
ガイドブックなどでは大筋街道沿いの山裾をゆく道を紹介しており、高台なので景色がよく雰囲気も良い。恵川を越え坂を登った病院があるところから海を眺めた様子。
この辺りは廿日市から山陽自動車道沿いに走る、国道2号線の混雑を避ける抜け道になっており意外に車が多い。転々と景色のいい場所がある。
ここを抜けると黒川あたりに出て亀居城北側を抜け大竹駅方面や山越で立戸(途中動物の彫刻が可愛い河内神社がある)から小瀬川河畔の採石場のある場所にでれる(この間見てきたのでまた動画あげます)
信仰の山 玖波行者山 山麓からの風景 広島県大竹市
西国街道玖波宿後にある 行者山 山頂には小祠の石鎚神社がある。現在も息づく修験道の山である。ハイカーも手頃な展望の良い山として多いところ。西国街道散策ついでに玖波谷と河口から眺めてきた。
ここは10回以上登ってる。登りやすいし、岩や、展望、お堂など盛りだくさん。
本当は登りたいんでだけど・・体調崩してから無理なんだよね。
【廿日市 天神 山麓界隈散策】〜真宗 蓮教寺と大蘇鉄 (はつかいち市天然記念物)
天満宮の山麓界隈を散策。本陣後の楠と石碑〜JR駅側からの風景〜西側山麓の浄土真宗 古刹 蓮教字と県下第4位ソテツの古木、境内風景。広島県歴史散歩に出ていたのでお参りしてきた。結構風情があります。
注)三業惑乱(さんごうわくらん)=浄土真宗で江戸時代本山学頭 功存により 意(心)口(言葉) 身(身体活動)の三業を通して弥陀仏に救済を求め全てに信心帰命の姿が伴わねばばらぬとした自力要素のあるものだった。これに対し批判が起こり 安芸の学僧大瀛(だいえい)らはその資料を集め団結、批判を展開した。宗派内では解決できず幕府の寺社奉行の前で討論がなされ古義派の安芸学僧らが勝って異安心(異端説)が正された。しかし騒動中に死者や獄死者や遠島、本山の閉門100日間の沙汰も出るほどの騒動となり真宗史上の大事件であった。wiki参照
廿日市天満宮 創建は厳島神主家 藤原氏の桜尾城の鎮守として建立された。篠尾山sasao yamaちょいとだけ山登りです。大変眺めが良い。都市化されてしまっていますが広島湾の島々がよく見て取れます。宮島なども指呼の間に見えて厳島神主家の支配の出城とされた場所です。
厳島神主家が滅んだ後、次第に社運衰微して慶長五年に広島藩西の商業都市廿日市の氏子により再建されたといい「別当寺天神坊」と号した。その後、町の鎮守として続いてきた。
江戸期は、佐方八幡(佐方地区)、新宮社(下平良)をも勧請し広島藩の西の大きな宿場である廿日市の総氏神とされた。
明治以後、別当寺正覚院と天満宮が分離独立された。山上で並んでますけどね。
廿日市総鎮守 篠尾山「廿日市天満宮」からの夏の展望 風景
廿日市天満宮 創建は厳島神主家 藤原氏の桜尾城の鎮守として建立された。篠尾山sasao yamaちょいとだけ山登りです。大変眺めが良い。都市化されてしまっていますが広島湾の島々がよく見て取れます。宮島なども指呼の間に見えて厳島神主家の支配の出城とされた場所です。
快晴より多少雲がある方が変化があり景色は面白いですね。
創建は古く鎌倉時代承久2年(1220年)文官中原親能(大江広元の兄)の一族とも言われるている(毛利などと元は同族らしい)鎌倉幕府・御家人藤原親実が、厳島神主に任命され桜尾城に着任。wiki参照。
厳島神主家が滅んだ後、次第に社運衰微して慶長五年に広島藩西の商業都市廿日市の氏子により再建されたといい「別当寺天神坊」と号した。その後、町の鎮守として続いてきた。
江戸期は、佐方八幡(佐方地区)、新宮社(下平良・動画あり)をも勧請し広島藩の西の大きな宿場である廿日市の総氏神とされた。
明治以後、別当寺正覚院と天満宮が分離独立された。山上で並んでますけどね。
【西国街道】 広島山口県境 〜小瀬川ながれと吉田松陰の故郷決別の歌〜 岩国市小瀬
古代山陽道の石國駅家に比定される山陽道は中世には一時荒廃したが近世になると 整備され江戸時代には参勤交代の道などとして用いられました。
関戸〜小瀬へ かつての国境の川 秋の気配がする流れを眺める。
車載が少し。小瀬川の日本の風景。定点観測。初秋。
歌碑は岸信介氏の揮毫であり、吉田松陰が安政の大獄で江戸へ送られるときこの渡し場付近を詠んだ歌らしい。
悲壮な感じですね。
川と山が綺麗だったので満足であります。
ただ惜しいのは錦帯橋で一時停止違反の切符を切られました< (^_^;) 気をつけます。
県名勝「千葉家住宅」江戸期中期改修の「泉庭」と重要文化財「座敷棟」
千葉家住宅の江戸中期に座敷等建て替えの時1774年改修のお庭(江戸初期築庭)部分中心に編集。
広島県の名勝指定。座敷棟=県の重要文化財指定。
庭と座敷棟はセットなので残した。曇りでやや暗め。
植栽が茂っているので緑は濃い。
ただ、築山などがややわかりにくい感じ。築山には石が置かれ、妙見社の祠がある。
植木をいい具合に刈り込んだらもっと姿がよくなるかもしれませんね。
千葉家の歴史=平氏の流れの関東武士団中の房総で威を振るった豪族千葉氏の一族である。安芸国へ移住したのち戦国期 大内、毛利(小早川隆景)などに仕えた。
毛利が防長二州に移封後、武士をやめてしまい「神保屋」と号し広島藩で商人となる。西国街道の宿場として整備された海田へ移住し酒造業などを営む傍、宿場の要職を務めた。
また、天下送り、宿送り(幕府や藩の書簡、文書、荷物の継ぎ送り)の業務を担う。
家紋が蔵などにありますが=月星紋(げっせいもん)妙見信仰に関係した千葉氏の家紋。
音声修正。
西国街道 廿日市宿のみなと 海の守護神「住吉神社」の小さな御社 広島県廿日市市
廿日市宿は西側の重要な宿場。海が傍なので港は物資集積と海上交通輸送の拠点であった。
廿日市宿が、厳島明神の鬼門に当たることもあり港へ出入りする船舶や漁業者などの 安全祈願の「海の守護神」として祀られたのが住吉神社(住吉さん)である。三度遷座している。
御祭神 住吉大明神=墨江三前神(底筒男命 中筒男命 表筒男命)
桜(葉桜でしたが)並木の住吉堤防敷を散策 (sm38677372) してそのまま宮島街道へ出ると境内があった。横は公園。
宮島街道沿いで廿日市中心部から宮島街道を西に走り中国醸造所を西へわずか過ぎ海の方へ左折するとすぐ。
初めて参拝かなと。
【西国街道 海田宿】千葉家住宅と泉庭 完全版 (サムネ=千葉氏 月星紋のある新蔵)
旧千葉家住宅 角屋(明治〜昭和期の居間 台所再現 展示あり)、重要文化財=座敷棟玄関、泉庭園(江戸中期作庭。元は江戸初期のものを修築)座敷棟は広島県重要文化財指定で江戸中期建て替えられたもの。
海田=今の安芸郡海田町。海田宿として江戸初期整備され広島藩の物流、開運の拠点の一つ。
千葉家=神保屋と号した商人で酒造業の傍ら天下送り、宿送りを司る。宿場の要職にあった。
元は房総半島の御家人千葉氏の一族で、室町期に芸州へ下向、大内、毛利氏に仕えた。関ヶ原以後、武士を辞めたという。明治以後町長も務め街に貢献しているらしい。
千葉家住宅=主屋、角屋、座敷棟、納屋、蔵などからなる。現在は角屋にて明治〜昭和にかけての居間や台所の様子が道具類とともに再現されている。
天下送り=幕府の公文書、荷物の継送るの役目(千葉氏は上瀬野、広島城下までをカバーしていた)
宿送り=広島藩の文書手紙などを継ぎ送る(主に尾道奉行とのやりとり)
庭園=江戸中期に江戸初期の庭を座敷棟の改修時に改修したと言われる。本座敷から目の前に見え一体にして客をもてなす趣向。浅野家の庭〜縮景園を参考にしているとも。
角屋=つのや。台所などの機能があったらしい。
画像を大幅追加して全体イメージがよくわかるようにした。
お近くの方は街道散策がてら一度見学をお勧め。
広島市の神社巡り【西国街道】旧村社 古江 「 新宮神社 」 広島市西区古江東
西国街道 沿いの古江の丘の上に鎮座する古社。創建は南北朝時代の延文年間(1356年〜1361年)で熊野三山の中の熊野新宮社を勧請したもの。
元来の御祭神は泉津事解男命(よもつことさかおのみこと)一座であったが明治初年伊奘美命を加えたという。
明治四十年県令の指示で八幡宮と大日社を加えて相殿に祀り現在に至る。
社殿は平成に入り焼失したため平成三年再建であるがなかなかいい。
境内は広場のような公園になっている。見晴らしは良かったと思われるが今は海は遠くなり住宅街の真っ只中でマンションなどが立ち並ぶ。
2018年の西国街道ウオーキングで見つけられなくて調べてようやく行ってきた。
古江電停から山側へ行くと西国街道に出てファミマの横を入り少し進むと参道入り口が見つかる。周囲に駐車場はあるが1時間200円くらいだった。
【 旧山陽道 関戸宿跡 】 吉田松陰先生「東遊記念碑」の桜 令和三年春
嘉永4年(1853年)春 松蔭先生22歳 初の東(江戸)遊学 したことを記念した石碑。
傍に立つ桜木の花。隣は解体された旧本陣跡である。
二十年くらい前 初めてここへ来た時も桜が咲いていたなと思い出します。
記念碑の立つ場所は関戸公会堂の街道に面した場所にある。
詩文は石碑裏面に刻まれている。松蔭先生がこの地で詠んだ漢詩であります。
前回は秋に訪れたが春の桜が印象深いので記録しておく。
関連=吉田松陰 歌碑と小瀬川の渡し場跡の桜 sm38512625
ここ関戸の画像は何回か挙げていますがまあ好みなんで四季折々趣がある。
山口県 西国街道 吉田松陰 詩碑 神社 宿場町 跡の風景。
令和3年4月 宮島桜の名所散策 sm38597393
広告いただき謹んで御礼申し上げます。
【福島正則夢のあと】「 亀居城跡 」と桜(5分咲き) 後編(公園南側入り口〜亀居城城跡本丸へ)
【西国街道】江戸初期に福島正則が五年の歳月をかけて築城した要塞 亀居城である。
完成後間も無くわずか3年余りで幕府の命令により破却された城。あまりに大規模な堅城であったのが、災いしたのかもしれませんね。長く忘れさられていたが発掘され石垣など遺構が保存され城跡 亀居公園となっている。
元々は小方白と言われていたが山が亀の甲羅のような形なので亀居と呼ばれるようになった。
現代では広島県西端の桜の名所として有名。本丸跡からの眺めも良い。
行程=JR玖波駅で下車〜駅から西へまっすぐに国道2号沿いに進み(この方が早い)〜黒川地区から間の宿(あいのしゅく、休憩などに使われた宿場)小方(おがた)へ入り〜陸橋を越え線路向こうの西念寺横を抜けて城跡公園入り口(松の丸辺り)〜松の丸〜なしの丸、有の丸〜三の丸〜二の丸〜本丸展望所。
小方あたりには古代山陽道の遠管(おが)駅があったと言われているそうです。海側から道はあまり広くなく坂がキツい。山の北側に車が入る公園入り口があり駐車場もある。北側には山陽自動車道が走る。
南は海、堀を巡らし、北側は急峻な山があり、西は山陽道苦の坂の難所があり要害の地であった。
4月初め再訪したので別に桜満開の補遺編をあげます。
お城歴史的な事項に関しての情報〜 公園掲示板、大竹歴史研究会記事より参照。
福島正則の亀居城跡へ(西国街道沿い)前編 sm38506561
補遺編 亀居城 満開の花模様 sm38557402
旧山陽道(西国街道)【 旧跡 】小瀬の渡し場跡の桜 R3年
大竹市木野と岩国市小瀬を結ぶ両国橋。西国街道(旧山陽道)の国境線である渡し場があった場所。
令和三年3月下旬2019年以来久しぶりに川辺に桜が咲いていたので眺めてきた。
岩国領と芸州藩の境に位置しており江戸時代までは防衛上の問題から橋はかけられず船で渡っていた。安芸国側=木野(この)渡し場、周防側=小瀬の渡し場と言われた。
この先に錦帯橋の川上、関戸の国道2号線へ出る関々バイパスがあるため車が次々の通過して離合したりする。渡し場跡あたり〜バイパスまでの道が狭い。
安政の大獄のおり吉田松陰が最後にこの川を渡った時 惜別の歌を読んだので歌碑が建てられている。
歌碑の近くあたりには昔は一里塚があったらしい。その奥は旧道の小瀬峠越えの道がある。狭いが今も車で通過できる。急なのと狭いので一部離合がキツイ部分がある。
この後松陰東遊記念碑を見に旧道を辿り関戸へ向かった。
小瀬峠越えで関戸へ(サブ垢)sm34599992
【福島正則夢のあと】「 亀居城跡 」と桜 前編(JR玖波駅〜亀居城公園へ入るまで)
【西国街道】江戸初期に福島正則が五年の歳月をかけて築城した要塞 亀居城。
完成後間も無くわずか3年余りで幕命ににより破却された城。長く忘れさられていたが発掘され石垣など遺構が保存され城跡 亀居公園となっている。現在公園から離れた海側の「妙見丸」には厳神社がある。
現代では広島県西端の桜の名所として有名。本丸跡からの眺めも良い。
行程前半部分=JR玖波駅で下車〜駅から西へまっすぐに国道2号沿いに進み(この方が早い)〜黒川地区から間の宿(あいのしゅく、休憩などに使われた宿場)小方(おがた)へ入り〜陸橋を越え線路向こうの西念寺横を抜けて城跡公園入り口(松の丸辺り)まで。小方あたりには旧山陽道の遠管(おが)駅があったと言われているそうです。
道はあまり広くなく坂がキツい。ちょいと長いので分けた。ようつべにあげたものを増補改訂した。
山の北側に車が入る公園入り口があり駐車場もある。
後編は城跡や桜を散策します。sm38555020
補遺編(満開の時期の様子) sm38557402
浄土宗 知海山 西念寺 追記=調べ直してみた。厳島光明院の運誉上人が破却された亀居城址のあたりに隠棲念仏修行されていたところ。民衆は大変上人を慕い、領民からの嘆願があり上人を尊崇していた領主の福島正則が元和元年(1615年)旧城内にあった圓通寺の建物を寄進して移築し西念寺としたようです。大楠は樹齢は四百年だそうです。
幕末長州征伐のおりは長州軍が占拠し幕府軍により砲撃がありその跡もああるそうです。
大竹歴史研究会記事、西念寺HPより参照。