前 sm36838895 mylist/68236991 次 sm36870714 恐怖と聞いて琴葉茜が思い浮かべるのはある梅雨の夜のことだ。ボイスの収録を終えた茜はスタジオから車で自宅へ帰っていた。その日は大雨で時刻はすでに0時を回っていたこともあり暗くて見通しが悪く、路面の状態も最悪だったことは覚えている。ワイパーを最大で動かしわずかに見える道路の白線をにらむようにフロントガラスに顔を近づけ運転していた。車体を打ち付ける雨の音に負けないように音楽のボリュームを上げて気を紛らわせながらなんとか自宅の近くまで走った。駐車場へ入ろうとしたところで今朝出かけ際に葵が言っていたことを思い出した。「今日からしばらく駐車場が工事で使えないから代わりに向こうのアパートの前に止めてって大家さんが言ってたよ」そうだった。茜は自宅を通り過ぎ件のアパートへ向かった。そのアパートはかなり年季の入った建物で、窓にはいつもアルミのブラインドが下がっていて人の気配がしなかった。誰かが出入りをしているところを見たことがないし、もしかしたら誰も住んでいないのではと茜は思っていた。指定された場所に車を止めると茜は車を出ようとしてためらってしまった。外は大雨で傘がないのだ。家まで走ればほんの数十秒なのだがそれすら戸惑わせる激しい雨だった。仕方なく茜は雨の勢いが収まるまで車の中で待つことにした。お気に入りの曲をスピーカーから流してスマホをいじる。するとしばらくしてから何かが動いた気配がした。何だろうと周りの様子をうかがうと、ルームミラー越しに見える車の後ろ、おんぼろアパートの窓に違和感がある。茜は振り返って後ろをじっと見つめた。微かな違和感だった。だがそれは見間違いなどではなかった。アパートの閉じられているはずのブラインドが少しだけ広げられ、その隙間から誰かがこちらを見つめていたのだ。誰も住んでいないはずの部屋、明かりもついていない暗闇の中から誰かの瞳が茜を凝視していた。間違いなくブラインドが一部だけ持ち上げられている。誰かが外を見ているのだ。明かりもない暗い部屋で。夜中の0時過ぎに。まるで茜を待ち構えていたように。茜は思わず悲鳴を上げると雨に濡れるのも構わず家へ走った。途中一度だけ振り返ったが離れていても目が合ったように感じた。背筋を冷たいものが撫でていく感覚。その日、茜は震えながら眠った。本当にあったことなので忘れてください。