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明治撃剣-1874- 第壱話 「東京」
時は明治7年1月。元会津藩士の静馬は、東京でしがない車夫として生業を立てていたが、今も侍としての魂は持ち続けていた。同時に彼は、戊辰戦争で生死不明となった許嫁・澄江の行方を捜してもいた。仮に死んでいたとしても、そのことを自分の目で確かめるまではと思っているのだ。そんなある日、街中でポリスの巡査・小山内と牧野からふいに尋問を受け、岩倉具視暗殺未遂の犯人として捕らえられそうになる。もちろん身に覚えのない静馬は前日客として乗せた士族の男・武市が怪しいと直感し、小山内達を振り切って捜しに走る!
折笠静馬:中村悠一/修羅神狂死郎:三上哲/鹿又澄江/雛鶴:黒沢ともよ/黒木せんり:Lynn/平松武兵衛:山路和弘/守屋龍三:宝亀克寿/川路利良:飛田展男/藤田五郎:興津和幸/小梅:佐藤みゆ希/中澤琴:園崎未恵/緑川順平:粕谷大介/ダリオ:青木瑠璃子/幻丞:松山鷹志/愚円:蓮岳大/大久保利通:咲野俊介
原案:櫻井 司 (つむぎ秋田アニメLab 代表)・戸塚直樹/監督:玉村 仁(「あかねさす少女」)/シリーズ構成:戸塚直樹 (「よくわかる現代魔法」)/キャラクターデザイン:錦織成(「アリスと蔵六」)・小峰正頼(「泣きたい私は猫をかぶる」)/音楽:片山修志(「幼女戦記」「オーバーロード))/制作スタジオ:つむぎ秋田アニメLab(「転生したら第七王子だったので、気ままに魔術を極めます」)
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次話→so43288294
近藤勇も楠公崇敬者だった!〜会津松平家墓所に隣接する楠木正勝開基の寺『天寧寺』に眠る近藤勇〜
なんと、あの佐幕派の急先鋒ともいうべに会津藩に、朝廷側だった楠木正成の孫・楠木正勝(傑堂能勝禅師)が建立した寺「天寧寺」があるとの事で、東北での取材の帰り、急遽、会津若松市に立ち寄った。
天寧寺は、応永28年(1422)、会津に来た傑堂禅師が、11代芦名盛信の依頼を受け開基した寺。
かつては会津曹洞宗の僧録司で、末寺33カ寺、12の寺院を誇った。
後に、伊達氏の侵攻にあって焼けた為、芦名氏の菩提寺としての面影は、本堂の礎石にわずかに残るのみ。
江戸期になり、この地を会津松平家が治めるようになって以来、天寧寺の門前を中心に武家屋敷が建てられた。
また、天寧寺の程近くには、会津松平家の墓所もあり、天寧寺に隣接している事を意識した墓所の配置であった事が窺われる。
つまり、会津松平家もまた、楠木氏を崇敬していたという事を表している。
天寧寺の裏手の墓地には新選組の近藤勇の墓がある。
戦後、GHQによって楠公の名が消されてからは、天寧寺に参詣に来る人のお目当ては皆、近藤勇の墓所であり、楠木正勝に焦点をあてる人は皆無である。
しかし、本堂の屋根の至る所にはしっかりと菊水紋が掲げられており、この寺が楠氏ゆかりの寺院である事をしっかりと証明していた。
実は、近藤勇は幼少期から太平記を始めとした楠公の伝記を好んで読み、幼い頃から楠公に憧れて育った。
新選組に志願した近藤勇の心中には、やはり楠公精神が宿っていた事であろう。
そんな近藤勇の遺志を偲び、楠公ゆかりの寺院で眠らせようと、新選組の盟友だった土方歳三が遺髪などを持ってきて、会津戦の折、楠氏ゆかりの天寧寺に仮埋葬した。
もちろん、新選組は当時、京都守護代を務めた会津藩の配下として組織されているので、会津松平家の墓所に隣接する天寧寺に新選組隊長が眠る事もよしとしたのであろう。
つまり、当時、佐幕派も尊王攘夷派も、共に、楠公を敬慕していたという事であり、これは今回の取材を通して明らかになった、紛れもなき事実である。
敵味方、思想信条を超えた尊さが、楠公精神にはある。
日本民族のイデオロギーの根幹こそが楠公精神なのである。
4月25日の近藤勇の命日には、墓前祭りが開催されている。
また、藩主松平容保が京都守護職にあった際の国家老で、戊辰戦争の責任者となり明治2年に切腹した萱野権兵衛と、その次男郡長正の墓もある。
闘う悲劇の美少女・中野竹子と楠公精神 〜会津戦争・福島県会津若松市・大河ドラマ「八重の桜」もう1人のヒロイン〜
大河ドラマ「八重の桜」で、山本八重(後の新島八重)が取り上げられてからは、八重さんの方ばかりが有名になり忘れられがちだが、「八重の桜」放送以前は、どちらかといえば中野竹子の方がよく知られていた。
中野竹子は、江戸詰勘定役会津藩士・中野平内の長女として江戸の会津藩藩邸で生まれ、僅か5歳で百人一首を全て暗唱し、幼少期からその聡明さはずば抜けていたという。
また、薙刀や書道の腕前も一流で、薙刀では道場の師範代を、書道では祐筆(ゆうひつ・武家の秘書役、事務官僚)を務め、文武両道に非常に優れた才能を発揮した。
慶応4(1868)年8月23日、十六橋、戸ノ口等、会津藩の要衝を破り、若松城下に新政府軍が攻め寄せた。
そこで、竹子たちは同じ道場の薙刀の稽古仲間の女性達に呼び掛け、娘子隊(あるいは婦女隊)と呼ばれる女性だけで編成する義勇軍を結成した。
来るべき戦闘にむけて髪を短く切り、女子用の袴を履き、男装に準じた姿となった。
娘士隊に入隊しなかった八重に対して、竹子は
「あなたはなぜ、娘子隊に入らないの⁉︎」と激しく非難したという。
8月25日夕方、娘子隊は、現在の福島県松岡市神指町大字黒川にかかる柳橋(涙橋)に於いて、新政府軍と遭遇し、戦闘となった。
武勇に秀でた中野竹子は何人かの兵を薙刀で斬り殺し善戦したが、敵の放った銃弾が彼女の額に命中してしまう。
頭を撃たれた(胸を撃たれたとも)竹子は、まだ息があり、自身の首を取られないようにと、母のこう子(当時まだ16歳だった妹・優子であったとも)に介錯を頼む。
落とされた首級は、法界寺の梅の木の根元に埋葬された。
竹子が死の間際まで握っていた薙刀の柄には、次の辞世が書かれた短冊が括り付けられていた。
〜もののふの 猛き心にくらぶれば
数にも入らぬ 我が身ながらも〜
この辞世は、楠木正成の嫡男・楠木正行が、四條畷の戦いに向かう直前に、吉野皇居の後村上天皇に拝謁すべく吉野に立ち寄った際、後醍醐天皇御陵のある如意輪寺本堂に髻を切って収め、その扉に刻んだ辞世
〜かへらじと かねて思へば 梓弓
なき数に入る 名をぞとどむる〜
の「なき数に入る」をなぞらえ「数にも入らぬ」と詠んだものと思われる。
実際、正行らが髻を切ったと同じように、竹子らも従軍が正式に決定された際、髪を切っており、この行為もまた、四條畷に向かう正行に倣ったものと思われる。
会津藩では、楠公父子の桜井の訣別にみる「忠孝両全」の精神を藩士らに手本として教えていた事が今回の現地調査で判明したので、竹子もまた、楠公父子について詳しく知っていたのは当然の事である。
白虎隊と楠公精神 〜会津藩・飯盛山の少年たちの悲劇・忠義に敵味方無し・戊辰戦争〜
白虎隊とは、日本の幕末維新における戊辰戦争の一環である会津戦争に際して、会津藩が組織した、武家男子を集めた部隊である。
中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいたほか、幼少組として13歳の少年も加わっていた。
名称は、中国の伝説の神獣「白虎」に由来している。
慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発。
会津藩主で京都所司代も務めた松平容保は、新選組等を傘下に置き尊皇攘夷派を厳しく取り締まった経緯もあり、強硬な佐幕派と見なされ、会津藩は新政府軍の仇敵とされ、新政府軍は会津藩の城・若松城(鶴ヶ城)に攻め寄せた。
重要な進軍路であった十六橋を落とすことに失敗したという防衛戦略上の不備も重なり、本来は城下町防衛の任に当たる予備兵力として組織された白虎隊も、これを支援する形で前線へと進軍した
隊は士中隊、寄合隊、足軽隊から成り、充足数はおよそ340名程度であった。
しかし会津軍の劣勢は如何ともし難く、白虎隊も各所で苦戦を強いられ、最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされた。
このうち一番隊は藩主・松平容保の護衛に当たったが、二番隊は戸ノ口原の戦いで決定的打撃を受けて潰走し、そこで数名の戦死者が出た。
8月23日に負傷者を抱えながら残りの合計7人(20人という説もある)が郊外の飯盛山へと落ち延びた。
滝沢峠の間道を通り、戸の口堰の洞門をくぐり飯盛山に辿り着くと、鶴ヶ城の天守閣は黒煙に包まれ、姿が見えなかった為に落城したと思い込んでしまった。
深手を負っていた隊士達は、入城か突撃か激論を交わしたものの、敵に捕まり生き恥を晒すよりはと、武士の本分を明らかにするために、結果として7名(20名という説もある)が自刃を決行し、6名(19名という説もある)が自刃を決行した。
唯一、飯沼貞吉(のち貞雄と改名)のみが蘇生し、一命を取り留めた。
白虎隊自刃後も籠城戦は1か月続いたが、最終的に会津藩は降伏した。
白虎隊の生存者の飯沼翁は、電信技士として明治・大正を生き抜き、昭和6年に77歳で没した。
飯盛山での出来事についてその重い口を開いたのは晩年だったそうで、そこから白虎隊の悲劇が現在に伝わる事となる。
飯沼の遺骨は遺言により飯盛山に眠る同志と同じ場所に埋葬され、同じく飯盛山に墓碑が建立されている。
墓所には松平容保揮毫「嗚呼忠烈白虎隊」の慰霊碑が建立されているが、これは紛れもなく、楠木正成自刃の地・湊川の大楠公墓碑として水戸藩藩主・徳川光圀が建立した「嗚呼忠臣楠子之墓」に準えたものである。
https://youtu.be/vLZS4cjcI0M
けものフレンズ3ビャッコフレンズストーリー_km3
個人的に四神の中で一番神様らしいと思います。
1話#00:16
2話#08:14
3話#16:14
ビャッコ(白虎)は、中国神話における四神のひとつで、西方の守護者です。また、季節としては秋を象徴します。中国では人生を、青春、朱夏、白秋、玄冬の4つの色と季節で表しますが、白虎の司る白秋は、仕事を終えた後の人の優美な白髪を現すようにも感じられます。
白虎は、他の四神と共に、日本でも古くから信じられてきました。東京の官庁街がある「虎ノ門」は、江戸城の「虎ノ門」に由来する名前ですが、この「虎」は白虎であるという説があります。また、戌辰戦争の時には会津藩で、まだ少年の侍からなる「白虎隊」が結成されたことも有名です。白虎に限らず、トラはその気品ある毛並みと勇猛さから、神格化されることも多くあります。たびたび、毘沙門天の使いとされることから、毘沙門天をご本尊とする寺院では、狛犬に代わって狛「トラ」が置かれているところも多くあるので、注意して探してみると面白いですよ。東京では、神楽坂の善国寺などで見ることができます。また、大阪の大江神社では、口を閉じた(阿吽の吽の)狛トラが明治時代に移されてしまいましたが、阿吽を一体にしたら阪神タイガースが優勝するのではと地元の有志が再建しました。その年に実際に阪神タイガースが優勝したことで、阪神タイガースの守護神として知られています。(外来生物学者 坂本洋典 フォト解説より)
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第19回:狂狼の豪剣】
俺様の豪剣、受けてみやがれェェ!!
新選組の前身、浪士組初代筆頭局長:芹沢鴨(せりざわ/かも)。
彼の前半生については出自が定かではないが、尊皇攘夷結社:水戸天狗党に属していたとも言われる。
[鴨]という印象的な名前も、芹(セリ)が来たなら鴨だろう(鍋を表した冗談)ということで
名乗っていただけの可能性が高く、正確な名前なのかどうかも定かではない。
剣術流派は永倉新八や桂小五郎と同流派:神道無念流。
壬生浪士組のリーダー格として近藤勇派閥と派閥闘争を繰り広げた。
酒乱で粗暴な行動が目立っていた為、学が無い乱暴者のような印象を受けるが
浪士組の寝所として世話になっていた八木家の者に対しては礼儀正しく、子供の面倒見もよく、教養も兼ね揃える人物であった。
壬生浪士組の活動資金を(全部がまともな行動ではないとはいえ)賄っていたのも芹沢一派の功績であるのは事実であったが、芹沢のあまりの問題行動に業を煮やした会津藩は近藤派へ芹沢の処分を下命。(諸説あり)
八月十八日の政変/禁門の変に出動し活躍していた壬生浪士組は既に一定の評価をもらっており、既に芹沢の集金力が無くとも隊士を養えつつあった近藤派は派閥統一を狙って芹沢鴨の暗殺を決行。
芹沢の剣豪としての腕前を警戒した土方は、芹沢を酒宴の席にてもてなした後
寝室に移り泥酔した彼を四人がかり(土方・原田・山南・沖田)で討ち取り、長州藩士により暗殺されたと世間的に公表。
この暗殺事件により芹沢一派を排除したことで近藤派主導の新選組が誕生した。
ちなみにるろうに剣心の「志々雄真実」のモデルは芹沢鴨である。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第15回:維新の礎/御楯の烈士】
狂わねばこの国は救えない・・進めッ!
最後の瞬間まで!この命を燃やし尽くすッッ!!
長州藩士:吉田矩方(よしだ/のりかた)。通称:吉田松陰。
長州藩の兵学を担う立場にあったが黒船来航後に思想家としての面が非常に強く出るようになる。
叔父が開いた私塾「松下村塾」を継ぎ、勉学・思想の教授を担った。
この松陰による松下村塾での講義は二年程度の活動に過ぎなかったが、ある塾生は維新の先鋒となり、ある塾生は後の日本新政府の総理大臣となるなど、後世名を残す門下を多数排出。
後に井伊直弼主導で対外不平等条約の締結が行われると、これを批判したとして処断された(安政の大獄)。
享年30歳。
同じく長州藩士:久坂通武(くさか/みちたけ)。通称:久坂玄瑞(くさが/げんずい)。
松下村塾の塾生の中でも吉田松陰から特に優秀であると評価された(晋作は勉学に於いて久坂に劣ると評価)
安政の大獄が起きると幕府を大いに敵視。尊皇攘夷過激派の若手衆先鋒となり御楯組を結成。
そのリーダー格であった高杉晋作と久坂玄瑞は英国公使館焼き討ちを実行に移した。
後の下関戦争を通して長州藩のあまりのエキサイティングぶりに会津藩と薩摩藩は朝廷からの長州藩排除を決行(八月十八日の政変)。
八月十八日の政変と池田屋事件に大きく憤った久坂は武力クーデター(禁門の変)を起こすが
この禁門の変に敗れた久坂は自刃することなった。
享年25歳。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第14回:誅殺の号令】
これが天の意志だ!覚悟を決めろッ!
土佐勤王党(※)盟主:武市瑞山(たけち/ずいざん)。通称:武市半平太(たけち/はんぺいた)。
(※土佐勤王党/土佐勤皇党:天[皇]陛下の為に[勤]めるの文字通り、尊皇攘夷を掲げる政治結社)
郷士(豪農の一部、武士待遇を受ける身分)であった武市家に生まれ、剣術家として藩内でも評価を受けた。
土佐藩は土佐藩参政:吉田東洋を始めとした開国派に流れがあったが、黒船来航以降に土佐勤王党が台頭。
半平太はその盟主として吉田東洋の暗殺を実行。同時に吉田派を土佐藩から排除して藩論を尊皇攘夷へと移した。
しかし、その後に会津藩と薩摩藩が結託して長州藩が朝廷から追放(八月十八日の政変)されてからは状況が一変。
土佐藩主:山内容堂は土佐勤王党の弾圧に動き、吉田東洋暗殺が怪しまれた武市一派を捕縛。
本人は頑なに容疑を否認し続けたが、人斬り以蔵があっという間に白状した為に罪状が確定。切腹の沙汰となった。
(武市半平太はこの切腹に於いて三度腹を切る「三文字切腹」を果たした唯一の武士と言われている)
この件について、武市半平太を失うべきではなかったと山内容堂は生涯悔いたとされる。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【神道シリーズ・シーズン2】第34回・山鹿素行の士道と日本中朝主義
山鹿素行は、元和8年1622年、陸奥国会津(福島県会津若松市)にて浪人・山鹿貞以の子として生まれたが、父は当時の会津藩主・蒲生 忠郷の家老・町野長門守幸和に身を寄せていたところ、藩主の死による蒲生家の断絶のため、町野幸和は幕府に直接仕えることとなり、素行親子も一緒に江戸に移住することとなったが、江戸移住以降、済松寺の袒心禅尼に養われ、書を学び始めるようになると天才的な才を発揮し、周りの者たち驚異する中、素行はまたたくまに四書、五経、七書はいうに及ばず、詩文などまでをマスターしてしまった。
素行の尋常ならぬ天才ぶりは注目を集め、わずか9歳にして幕府の大学頭/林羅山の門下に入り、朱子学を学ぶ運びとなった。
そして翌年10歳になると林門下の生徒たちに師として教えるほどの立場となり、さらに11歳になると松江城主/堀尾山城守から、2百石で召し抱えるとの申し出があったが、父が「安い給料で束縛されたくない」と辞退したのだ。
素行と父は素行の幕府召し抱えか1万石以上での高給での藩仕えかのどちらかを望んだが、幕府召し抱えはあとわずかなところで希望していた三代将軍家光の死去により実現せず、また、31歳の時に、1年余りの間赤穂藩で1千石でのレンタル移籍を行うものの、その後の契約条件が折り合わず江戸に戻り、全国に6千人もの門下生を抱えながら著作活動を進めた。
その間、素行は、諸藩からの指南役などのオファーを断り続ける一方、北条氏長から北条兵学を、光宥から両部神道、広田担斎から忌部神道を学び、さらに40代に入ると儒教の古学に関心を寄せるようになり、次第に幕府の御用学問であった朱子学を古学の立場から批判するようになった。
その頂点が素行45歳の時に著した「聖教要録」で、この内容は、当時会津藩主であり、同時に4代将軍家綱の後見役でもあった保科正之の逆鱗に触れ、その後、正之の死後3年まで続く赤穂藩預かり謫居、つまり、指定された屋敷の敷地の中での禁固刑が9年間続くこととなる。
これは、素行が生涯求めていた幕府仕えへの道を完全に絶たれることを意味はしたが、ただ、この9年間の間に素行は自分が属していた北条兵学からの離脱と山鹿兵学の独立、そして彼独自の日本中朝主義、つまり、儒教とは実は中国ではなく日本のオリジナルであり、日本書紀に書かれてるのは儒教の歴史であり、日本自体が中国であり、日本人こそ中国人であると言う儒教日本起源説を展開し、やがては陰陽五行説に基づく易学理論の象数宇宙論に至り生涯を閉じることとなった。
山鹿素行の士道的武士道論は、彼より少し遅れて佐賀藩にて葉隠武士道を確立した山本常朝の武士道論とともに江戸時代の武士道観を形成して行ったのである。
【Fate/MMD】タイニーバニー【斎藤一】
延命ばかり積み上げて
お借りしたものは動画内クレジット及びコンテンツツリーにて(敬称略)
会津藩士様、いずみ様、優輝(ゆき)様、新選組様、新選組隊士様、エリィー様、たかあき様、グレイラン様、日和見様、やまと様、柚子桜様、シャロン様、193様、やくも様、りん様、ひいらぎ様
宣伝ありがとうございます
【神道シリーズ・シーズン2】第33回・天狗党の乱と水戸学の崩壊
義公斉昭や藤田東湖亡き後の水戸藩では、彼らの思想を受け継いだ急進派を抑える者がいなくなり、天狗党と言われた彼らは、万延元年1860年の桜田門外の変における大老井伊直弼暗殺や、文久2年1862年の坂下門外の変による老中安藤政信襲撃など、過激な尊王攘夷派として暴走する者が増えて行った。
一方、尊皇攘夷急進派に藩の主導権を取られた長州藩や土佐藩では、天皇のいる京へ進出し、頻繁なテロ行為などにより攘夷派の勢いを増し、三条実朝や姉小路公知などを尊王攘夷派に傾かせ、公武合体派の幕府や薩摩・会津らと激しく対立を続けていた。
しかし、文久3年1863年の8月18日の政変という孝明天皇によるクーデターにより、攘夷派の公家たちや長州勢力は追い出され、一旦勢いを増していた尊王攘夷派は公武合体派に押し返されることとなった。
その間、水戸藩における急進派天狗党は、横浜港の鎖港問題において強力に鎖港の実行を幕府や朝廷に求めるため翌年の元治元年1864年の3月に藤田東湖の四男の小四郎が筑波山で挙兵し、日光東照宮を目指していた。
同年6月に京の池田屋で宮部鼎蔵や吉田 稔麿ら多くの長州藩士たちが会津藩管轄下の新選組によって殺害されると、長州藩では攘夷急進派の来島又兵衛や久坂玄瑞らは長州藩兵2千人を連れて報復の為に上京し、武力で京都御所の奪還を試み、結果、壊滅的な打撃を受けて敗退するという、所謂禁門の変が勃発する。
その頃、関東では、筑波で挙兵した藤田小四郎や武田耕雲斎らの天狗党は、水戸藩を中心とした尊皇攘夷政治を目指し、そのトップに徳川慶喜を添えるという計画で、幕府率いる大発勢と激戦を続けた上敗退したが、その間、軍資金が底を突くたびに各地で略奪や放火・殺人を繰り返し、関東での敗北が決定的となると、同年の11月からは慶喜のいる京を目指し、幕府軍の追討を避けながらの迂回コースで中部日本の山岳地帯を駆け抜け、12月には加賀まで到達するが、皮肉な事にじぶんたちが持ち上げた徳川慶喜自身の率いる幕府追討軍により追い詰められ、とうとう加賀の地で降伏することとなった。
降伏し捕らえられた天狗党員828名のうち、352名が斬首となり、これでこの年1864年には水戸の天狗党も長州の尊皇攘夷急進派も壊滅的な打撃をうけることとなった。
しかし、この後の3年間のうちに事態は急変を続け、わずか3年間のうちに尊王攘夷派は奇跡の大逆転を続け、慶応三年(1867年)10月24日には将軍徳川慶喜による大政奉還が行われ、さらに同年の12月9日には新政府による王政復古の大号令が出され、新政府構想の中から慶喜が外され、さらに徳川からの領地没収の令も出されたため、新政府に不満をもつ旧幕臣たちはその後1年半に渡る戊辰戦争を起こすことなったのである。
【神道シリーズ】第22回・山崎闇斎と垂加神道(朱子学理気論と改竄された日本書紀神代巻)
京都の針医の子息の山崎闇斎は、家の方針で最初比叡山に僧侶となる為の修行に出され、その後京都の妙心寺で僧籍を得た闇斎は19歳で土佐の吸号寺(ぎょうこうじ)に移り、そこで出会った儒学者の谷時中から朱子学を学ぶと一気に思想が朱子学に傾倒し、仏経を批判するようになり、結局臨済宗妙心寺派の吸号寺を追放されることとなった。
しかし、吸号寺でともに谷時中から朱子学を学んでいた盟友で、土佐藩の家老でもあった野中兼山に見込まれて経済面も門下生の紹介などの援助を受け、土佐にて朱子学の研究を続けていた。
その後京都に戻った闇斎は自らの朱子学塾・闇斎塾を開き、多くの門下生を抱えるようになり、さらに江戸と京都を行き来するようになると会津藩主の保科正之の目に留まり、賓師(ひんし)と呼ばれる不定期の朱子学の家庭教師を頼まれ、それに応じると、当時正之の指名で幕府神道方となっていた吉川惟足との
出会いもあり、惟足より神道理論を学ぶ事となる。
闇斎は惟足以外にも伊勢神道を引き継ぐ外宮宮司の渡会延佳からも神道理論を学ぶ事となった。
しかし、幕府や藩主など君主だけに賢者たる性即理の修養を訴え、民は聖人君主を持てば自然と治世は収まると言う論理は朱子学の理気論的に見ていろいろな矛盾を抱えることとなり、そこで持論の根拠として強引に神道論に結び付けると言う手法、言い換えれば、日本はクニトコタチという宇宙発生以前から存在してるメタなゼッタイシンの直系の子孫であるスサノオやアマテラスを持ち、その子孫が天子天皇である国だからそもそもその血を引く君主たちは聖人君主、つまり賢人になる素質は十分に持ってるのだと言う論理に逃げ込んだともとれないことはない。
しかしながら、この天孫系天子を頂く日本国の優越性を説く部分はその後、本来の意味を離れて幕末の尊皇攘夷論や明治以降の国粋主義思想に繋がっていくこととなったのである。
【Front Japan 桜】「怨念」を超えて - 国に尽くした父祖の物語 / 商業捕鯨再開から1年 - 鯨食文化の危機[桜R2/7/15]
気鋭のキャスター陣が、ますます混迷を深める日本の現状や国際情勢を読み解くべく、日本最前線(Front Japan)の気概で、日々のニュースや時事のほか、様々なテーマについて取り上げ、日本が進むべき正道を追求します!
キャスター:上島嘉郎・葛城奈海
■ 「怨念」を超えて - 国に尽くした父祖の物語
■ 商業捕鯨再開から1年 - 鯨食文化の危機
◆チャンネル桜・別館
https://www.youtube.com/channel/UCGbSDhzR4hbRAmSuRK-z_ng
※チャンネル桜では、自由且つ独立不羈の放送を守るため、『日本文化チャンネル桜二千人委員会』の会員を募集しております。以下のページでご案内申し上げておりますので、全国草莽の皆様のご理解、ご協力を、何卒宜しくお願い申し上げます。
http://www.ch-sakura.jp/579.html
◆チャンネル桜公式HP
http://www.ch-sakura.jp/
ゆかりさんと青森・北海道旅行 #49
ゆかりさんと一緒に青森から北海道を約3週間旅してきました。
基本、徒歩+公共交通機関のみで移動しています。
今回は、田中家ひなげし館(鴛泊)~利尻山神社~ペシ岬~鴛泊港あたり(16日目)
尺の都合で船に乗る所までお見せ出来なかったのはご愛敬(大汗)
利尻を出発する前に名残を惜しむように鴛泊周辺の近場を散策しています。
実際の島内観光などでの時間調整の参考になれば良いのですが・・・。
シリーズ series/35603 #0 sm35411518
前回 sm36386851 今回 sm36418880 次回 sm36444417
田中家ひなげし館 https://www.rishiri-hinageshi.com/
利尻山神社 https://hokkaidojinjacho.jp/%E5%88%A9%E5%B0%BB%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE/
ペシ岬 https://www.rishiri-plus.jp/shima-place/347/
会津藩士の墓 https://www.jalan.net/kankou/spt_01519aj2200024982/
鴛泊フェリーターミナル https://www.rishiri-plus.jp/shima-place/369/
丸善(フェリーターミナル内) https://www.rishiri-plus.jp/shima-shop/1604/
【加藤嘉明】- 知って涙の泣ける日本史 - voiceroid講談
- 知って涙の泣ける日本史 - voiceroid講談
じゃじゃ馬娘「きり姫」と指南役の「せんごく」がお送りするボイロ講談。
歴史解説ではなく、軍記物として「創作」としてお楽しみ頂けたらと思います。
今回は、【加藤嘉明】殿をご紹介するゾ!
激動の戦国期に、浪人の子から大大名にまで出世した苦労人。
賤ケ岳七本槍の一人として数えられる戦国武将。
会津藩40万石を収めた彼は、一体どのような人物であったのか??
Youtubeにて高画質版動画を配信中です。
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軽い感じで見てください!コメント等はお手柔らかに~!
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- 知って涙の泣ける日本史 - voiceroid講談
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【Front Japan 桜】MMTによる令和新経済論 / 天皇即位に思う-国民和合の道[桜R1/10/25]
気鋭のキャスター陣が、ますます混迷を深める日本の現状や国際情勢を読み解くべく、日本最前線(Front Japan)の気概で、日々のニュースや時事のほか、様々なテーマについて取り上げ、日本が進むべき正道を追求します!
キャスター:上島嘉郎・藤井聡
■ ニュースPick Up
■ MMTによる令和新経済論
■ 天皇即位に思う-国民和合の道
※チャンネル桜では、自由且つ独立不羈の放送を守るため、『日本文化チャンネル桜二千人委員会』の会員を募集しております。以下のページでご案内申し上げておりますので、全国草莽の皆様のご理解、ご協力を、何卒宜しくお願い申し上げます。
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ねこねこ日本史 第4期 第111話・第112話 「いろいろ試して百二十年、江戸三大改革!」/「山本八重は見た、幕末会津物語!」
第111話:江戸時代、お金に困っていた幕府を救うため、徳川吉宗(とくがわよしむね)をはじめとした三人の改革野郎たちが立ち上がった。「質素、倹約!」を合言葉に猫たちを裸にしていく厳しい改革は果たしてうまくいくのか!?【ゲスト声優】松平定信 役:杉田智和/第112話:幕末の会津藩で砲術を教える一家に生まれた山本八重(やまもとやえ)は、力持ちのうえ猫なのに大きな音がする鉄砲が大好きだった。そんな中、幕府軍と新政府軍の衝突が起きてしまう。大パニックにおちいる会津の猫たちの中、一体どうする、八重!?【ゲスト声優】一橋(徳川)慶喜 役:島﨑信長
出演:山寺宏一、小林ゆう
原作:そにしけんじ/プロデューサー:山田 周、宮本 未来/監督:河村 友宏/シリーズ構成:清水 匡/脚本:平林 佐和子/キャラクターデザイン:河村友宏、蝦名芙美
©2019「ねこねこ日本史」製作委員会
so35639758←前話|次話→so35793824 第一話→so34902444
ファンタジスタカフェにて 西郷どんに絡めて幕末トーク会津藩の苦悩
ファンタジスタカフェとは 宮城県仙台市青葉区一番町2丁目5ー31 5Fにあるサッカーバー。サッカーバーではありますがそれぞれ他にも多彩な趣味をもったお客さんもいらっしゃいます。
ニコ生 co3767564
ツイッター https://twitter.com/fantasistacafe2
バー雑談配信等 mylist/65580031 基本趣旨はサッカー等様々なことを語り合いたいというところです。 コミュ参加よかったらお願いします。
Totalwar Shogun2 会津藩史,戊辰戦争,明治維新,ゲーム映画
会津戦争(あいづせんそう,庆応4年/明治元年(1868年))は,戊辰戦争の局面の一つであり,会津藩の処遇をめぐって,萨摩藩*土佐藩を中心とする明治新政府军と,会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの徳川旧幕府军との间で行われた戦いである.现在の福岛県会津地方が主戦场となった.なお,同时期に进行していた长冈藩をめぐる戦いは北越戦争として别记する.
会津战役—在线播放—优酷网,视频高清在线观看
视频:http://v.youku.com/v_show/id_XMTU3MjMwNTQ0OA==.html视频:#(null) http://v.youku.com/v_show/id_XMTU3MjMwNTQ0OA==.html
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『(特番)鈴木荘一氏出版記念講演会『幕末会津藩松平容保の慟哭』-北方領土を守った男たちの最期⑤』佐藤和夫 AJER2018.10.29(x)
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ー【特番】鈴木荘一氏出版記念講演会『幕末会津藩松平容保の慟哭』-北方領土を守った男たちの最期ー
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『(特番)鈴木荘一氏出版記念講演会『幕末会津藩松平容保の慟哭』-北方領土を守った男たちの最期④』佐藤和夫 AJER2018.4.4(x)
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『(特番)鈴木荘一氏出版記念講演会『幕末会津藩松平容保の慟哭』-北方領土を守った男たちの最期③』佐藤和夫 AJER2019.4.3(x)
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ー【特番】鈴木荘一氏出版記念講演会『幕末会津藩松平容保の慟哭』-北方領土を守った男たちの最期ー
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『(特番)鈴木荘一氏出版記念講演会『幕末会津藩松平容保の慟哭』-北方領土を守った男たちの最期②』佐藤和夫 AJER2019.4.2(x)
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『(特番)鈴木荘一氏出版記念講演会『幕末会津藩松平容保の慟哭』-北方領土を守った男たちの最期①』佐藤和夫 AJER2018.10.29(x)
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初音ミクによる 抜刀隊 改 Fullver (再投稿版 日本軍歌 6番まで)
あけてしまいました、おめでとうございました、じじい(作者)です。
軍歌好きな方なら説明不要の歌を、うちの孫(ミクさん)と一緒にお届け致します。
何でわざわざ再投稿したのかと言いますと、YouTubeに転載してもらった旧「抜刀隊」が、それなりの再生数(約85000再生)になってしまい申し訳なくなったからですねん。
じじいとしては旧「抜刀隊」は昔、実験的に作った代物ですので、もうね正直「技術的に見てらんない」んですわ。多分この作品もあと数年して生きてたら「見てらんない」に変わるのは分かっておるが・・・。まぁ、今年も宜しゅう!
(今回のコメント観てると、やっぱり皆さん「よう知っとるの~」と関心しておま。)
★この動画分は締め切りましたが、リクエストをとっておりました。
・募集期間は、本動画の投稿時間~2019年1月10日(木)の、次の動画投稿時間まで
・御一人様1曲まで(複数リクエストしてこられた方の分は全て「却下」致します。)
・この動画についたコメントのみ採用
・リクエストはこの動画の冒頭11秒までと、本編暗転後についたコメントのみ採用(要は、この動画の頭と尻尾のみにリクエストしてつかぁさい、守らずばそのコメントは無きものとみなします。)
・今回は採用枠を定め、こちらで採用の可否も決めてみます。内容は以下
日本軍歌2曲、ドイツ軍歌2曲、ソビエト・ロシア軍歌2曲、その他4曲(過去の人気順、全10曲)
無論、過去投稿作品・作成予定曲はリクエストより除外。最低限曲名をコメント下さい。(出来れば歌詞の冒頭も欲しい) 発表は来週にでも。以上。
次弾装填:大陸行進曲
★本日のうちのMMD的家系図
Lat式ミク でで型
広告に関する謝辞:ベルカ公国国家宣伝省様、Buttogo様、スター★ファイター様、どっかん様、STF様、777様、紅月様、会津藩様、 ギタパン 様、ベルカ公国宣伝省兼文化院様、皆様の広告ありがたく頂戴いたしました。今年も宜しくお願い致します。
『_鈴木荘一氏著「幕末会津藩松平容保の慟哭」①』佐藤和夫 AJER2018.11.23(3)
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シリーズ ― 「佐藤和夫の著者が語る新書紹介コーナー」(第4回) ―
ー幕末会津藩松平容保の慟哭ー
佐藤 和夫氏
鈴木荘一氏
前半
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【松明あかし】陸奥国須賀川城 平成30年(2018) 初秋
2018年の8月中旬、福島県須賀川市にある須賀川城を訪れました。
応永6年(1399年)、二階堂行続が築城したと伝わり、二階堂氏の居城だったようですが、
天正9年(1581年)、城主・二階堂盛義が死去後は、後室である大乗院(伊達晴宗の娘・阿南姫)が城主を務めましたが、伊達政宗の攻撃を受け、佐竹氏の援軍と共に防戦するも須賀川城は落城し、大乗院は佐竹家を頼り落ちのびていきました。
伊達政宗は石川昭光に須賀川城を守らせますが、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の奥州仕置により、須賀川城は蒲生氏郷領となり、田丸具直が城主となりました。
慶長3年(1598年)、上杉景勝が会津に入り、部下の栗田国時が愛宕山の城から一帯を統治しました。
慶長6年(1601年)、蒲生秀行が会津藩主となると、家臣の蒲生郷成が須賀川城に入りました。
寛永4年(1627年)、加藤嘉明が会津藩主となった後、まもなく廃城となったようです。
現在、本丸跡は二階堂神社となっており、城の大部分は宅地化されていますが、周囲の寺院・神社に土塁や堀等の城の名残を見ることができます。
また、二階堂神社は須賀川城攻防戦の故事に由来する「松明あかし」と呼ばれる須賀川の祭りで、ご神火を奉受
する場所となっています。
お城 → mylist/37297571
【710】鶴丸国永で45秒【踊ってみた】
Attention!
※コスプレ初心者、ダンス初心者が踊っています。
※本家様の振り付けに多少アレンジが加えられています。
※投稿主がもつキャラのイメージと、ご覧になる方がもつ
キャラのイメージが多少異なる場合がございます。
※誹謗中傷、無断転載はおやめください。
上記の内容について大丈夫な方のみ
ご覧いただけますよう、お願いいたします。
8月23日は、わが故郷会津若松が誇る「白虎隊」の日。
1868(明治元)年のこの日、戊辰戦争にて16~17歳で構成される
会津藩の白虎隊が飯盛山で自刃しました。
何日に投稿しようかと調べていて、この日いい!と思ったので
この日を投稿日にしました。投稿内容との関連はありません笑
今年会津若松は戊辰150年ということで刀の展示を
数多く開催しております。ぜひ遊びに来てくださいね!
楽曲・振付本家さま:sm20982791
参考動画さま:sm27364182
踊:710(@710a_nut mylist/60934214)
編集:杜若ひよ子(@pipipi_18 mylist/55367639)
舞台「もののふ白き虎 ‐幕末、「誠」に憧れ、白虎と呼ばれた若者達 ‐」
当時、会津藩の男子は10歳になると藩校・日新館に入学する決まりがあった。慶応元年(1864年)、後の白虎隊となる少年たちは日新館に入学し、盟友たちとともに武士の心得を学び、勉学に励む。ある日 “壬生狼(みぶろ)” と呼ばれる新撰組と運命的に出逢い、彼らは幕末という時代を疾走することになる。いつか白き虎となり、狼より遥か高い所まで──狼に憧れた若き虎たちは、命を懸けて会津を守ろうと固く心に誓う。各々の心情を抱きながら、友情を深めていく少年たちに待ち受ける運命とは──(C)舞台「もののふ白き虎」
【予告】舞台「もののふ白き虎 ‐幕末、「誠」に憧れ、白虎と呼ばれた若者達 ‐」
当時、会津藩の男子は10歳になると藩校・日新館に入学する決まりがあった。慶応元年(1864年)、後の白虎隊となる少年たちは日新館に入学し、盟友たちとともに武士の心得を学び、勉学に励む。ある日 “壬生狼(みぶろ)” と呼ばれる新撰組と運命的に出逢い、彼らは幕末という時代を疾走することになる。いつか白き虎となり、狼より遥か高い所まで──狼に憧れた若き虎たちは、命を懸けて会津を守ろうと固く心に誓う。各々の心情を抱きながら、友情を深めていく少年たちに待ち受ける運命とは──(C)舞台「もののふ白き虎」
着物姿で歌うセカンド・ラブ
コント。モっくん・・南無。この着物姿は。。会津藩か?明菜HD高画質スペシャルメドレー➡sm31895541