キーワード 作曲家ロクリアン正岡 が含まれる動画 : 242 件中 1 - 32 件目
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ロクリアン正岡:弦楽四重奏曲第一番「無伴奏聴人楽器」
(自然)Locrian MASAOKAString Quartet No.1 Unaccompanied Listener Instrument-the 7 notes of diatonic scaleTBSラジオ 「菊地成孔の粋な夜電波」の2011年12月2日の特集「第33「狂気」/ピンクフロイド欠席の、奇人たちの晩餐>でそのシンセサイザーバージョンが取沙汰されたらしいが、こちらは2013年1月18日東京におけるライブ。 誰にも聴きやすく誰もが歌える全音階七音を現代音楽の作曲家が避けるようになって久しい。きっとその陳腐さを嫌っての事であろうが、どっこい、ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シの七つの音は人知れず各個人の内側深くに住み着き営々とその個性と演技欲を強めつつ、“純粋芸術の舞台”へと解放される機会を待ち望んでいたのである。弦楽四重奏曲「無伴奏聴人楽器」は、あなた内側の際以降の音楽役者の為の独擅場なのだ。
ロクリアン正岡:弦楽四重奏曲第一番「無伴奏聴人楽器」
(R-18)TBSラジオ 「菊地成孔の粋な夜電波」の2011年12月2日の特集「第33「狂気」/ピンクフロイド欠席の、奇人たちの晩餐>でそのシンセサイザーバージョンが取沙汰されたらしいが、こちらは2013年1月18日東京におけるライブ。 誰にも聴きやすく、誰もが歌える全音階七音を現代音楽の作曲家が避けるようになって久しい。きっと、その陳腐さを嫌っての事であろうが、どっこい、ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シの七つの音は人知れず各個人の内側深くに住み着き、営々とその個性と演技欲を強めつつ、“純粋芸術の舞台”へと解放される機会を待ち望んでいたのである。弦楽四重奏曲「無伴奏聴人楽器」は、あなた内側の際以降の音楽役者の為の独擅場なのだ。
ロクリアン正岡:無伴奏人体ソナタ(音楽の臓物としての人間)
(演奏してみた)Written and performed by Locrian MASAOKA “Sonata for corpus without accompaniment” ⇒ “Humans as the entrails of music” (September 1976) これは1976年9月 NHK教育テレビ番組「音楽の世界」-『からだと音楽』②人体楽器、において放送されたもので、3分半ほどの演奏の後、若き日の小泉文夫(民族音楽学者)、西口久美子(歌手)両氏と正岡泰千代の会話が続きます。 原作(1972)は厳格なソナタ形式で15分ほどかかりますが、ここでは時間的制約のために大幅に短縮、もはやソナタとは言えず、「音楽の臓物としての人間」とした方が良いでしょう。 なお、SN比が小さい為に終始大きな雑音を伴っていることをお許しください。そのうち、原曲の楽譜をHPに掲げます。
L.正岡:SQ.3「異形・日本・かぐや姫」-全音音階の6音のみ使用
(アニメ)ノッペラボー!まず、この楽曲には全音音階の6音しか使われていない。その0・2・4・6・8・10・というように奇数を見殺しにした均一でスベスベの偶数列、その茫漠とした無の広がりは男(認識)を途方に暮れさせるに十分だ。今の日本がまさにそうだ。表面清潔化の為に張り巡らされた諸々の法規から各システム。表現ぼかすために馬鹿丁寧化した日本の日常語等々、枚挙にいとまはない。まさに世の中は女性たちに都合の良いかのように変貌しつつあるのだが、その権化と言えば何と言ってもかぐや姫!5人もの男を無視しきった拒絶の姿はまさにお月様のような綺麗さだが、それに対抗するためには、かぐや姫ほどの冷たさを持たない私は、彼女に一目置いて六つもの奇数列音を捨てなければならなかった。
ロクリアン正岡:「善霊かな?」-音楽による二つの問いかけ-第二楽章
(R-18)人々にとって気になって仕方ない筈の最難問は自身の死後についてではなかろうか?それは未来からの最大の出来事。また、音楽の音波もやはり未来からの侵入者。となれば、音楽は問いかけそのものだ。 さて、皆さんは霊ご自身だ。①「悪霊かな?」の方に居心地の良さを感じられれば、貴方様は悪霊派。②の方であれば、善霊派。ほかに、どっちもならば?どっちも不快なら?となると、事はそう簡単ではなくなる。そして、音楽を複雑化するのは西洋の七音音階の「三全音」。音声にあっては「し」。だが、明言しなくてはならないのはこの曲達を作曲しているとき、私の意識の上層部は霊のものであった、ということです。 なお両楽章とも予めそれぞれ一つの短歌を用意しコンセプトを定めておいての作詞作曲であった。
ロクリアン正岡:弦楽四重奏曲第一番「無伴奏聴人楽器」
(科学)Locrian MASAOKAString Quartet No.1 Unaccompanied Listener Instrument-the 7 notes of diatonic scaleTBSラジオ 「菊地成孔の粋な夜電波」の2011年12月2日の特集「第33「狂気」/ピンクフロイド欠席の、奇人たちの晩餐>でそのシンセサイザーバージョンが取沙汰されたらしいが、こちらは2013年1月18日東京におけるライブ。 誰にも聴きやすく誰もが歌える全音階七音を現代音楽の作曲家が避けるようになって久しい。きっとその陳腐さを嫌っての事であろうが、どっこい、ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シの七つの音は人知れず各個人の内側深くに住み着き、営々とその個性と演技欲を強めつつ“純粋芸術の舞台”へと解放される機会を待ち望んでいたのである。弦楽四重奏曲「無伴奏聴人楽器」はあなた内側の際以降の音楽役者の為の独擅場なのだ。
ロクリアン正岡:奇蹟的な錯覚を引き起こす音楽
(歴史)「あれ!短3度上昇のメロディーのはずが、楽譜を見ると長二度(全音)であるとは?」これは、正真正銘の錯覚です。だが、作曲者が意図した訳ではない。頻繁には起こりえないこのような事象がなぜかくもあっけなく与えられたのか?本人自らいうのもなんですが、聴き手への限りない信頼、そして、そこに無限な潜在能力を夢見てしまう無垢さ(大江健三郎氏が強調する大江光氏の無垢さとは違うものかもしれぬ)がこのような帰結をもたらしたのでしょう。 この、仕掛けられたものではないからこその“快い錯覚”をさあ、どうか皆さんでお楽しみください。しかるに、それは人間が本来有する意識の高次ベクトル性(LM造語)の参与により生じる、皆様の自発性によるものだからです。
ロクリアン正岡:話と「余ハン ロクリアン バッハ デス」の演奏
(R-18)かの大バッハがセバスチャンからロクリアンに大変身したのでした。話と演奏;作曲者本人 2012年5月 すみだトリフォニー小ホールTalk about "Lion" and Performance of a "I am Locrian Bach."28/10/2013 at Sumida Triphony Recital Hall
ロクリアン正岡:ピアノ・ミニチュア曲集より「柱時計の子守歌」楽譜HP
(R-18)1986年作第一曲目(ペダルは踏みっぱなしです) 赤ん坊上がりの小さくモミジのような手でも、また人生の辛酸を舐めた傷んだ手でも、要するに大人から子供までバイエル上巻を終えたばかりの超初心者に進んで演奏して頂きたく、これからこのミニチュア曲を継続してネット上に発表してゆくことにしました。また、CD「ロクリアン正岡作品集・Ⅳ」にも収録されています。楽譜はその都度HPに書き込みます。音源は生演奏ではなく、フィナーレでステップ録音したものですが、皆様お一人お一人の心身を通してどのような音楽が実現するか大変楽しみです。 なお、絵画の名前は「ドッチンツッカーズマン」。芸術がその本性に有するどっちつかずの性格、ニュートラル性(演戯性の原点)のキャラなのです。
ロクリアン正岡:弦楽五重奏曲「残忍性の独房/霊性の要塞」
(R-18)現代音楽の分野に目をやれば、「全体なるもの」から放逐されたようなデザイナー音楽が主流である。全体を諦めてしまい、部分性として開き直っている。だから、やれ「しっかりとしたコンセプトを!」とか、「作品には一貫性がなければ」とか、はたまた「芸術音楽に大衆性は必要か?」などと、苦慮を強いられることになる。それらは土台かつ所詮、本質から目がそれてしまった人たちの物言い(ほとんど屁理屈)なのだ。「音楽という時間芸術を物すには時間を超越(時間経過に沿うやり方ではなく、時間次元を一挙に同時的・瞬間的に体験)するしかなく、そのためには全体なるもの(=不可知の何様)に与るしかない!」LM
L.正岡:SQ3「異形・日本・かぐや姫」-全音音階の6音のみ使用
(R-18)ノッペラボー!まず、この楽曲には全音音階の6音しか使われていない。その0・2・4・6・8・10・というように奇数を見殺しにした均一でスベスベの偶数列、その茫漠とした無の広がりは男(認識)を途方に暮れさせるに十分だ。今の日本がまさにそうだ。表面清潔化の為に張り巡らされた諸々の法規から各システム。表現ぼかすために馬鹿丁寧化した日本の日常語等々、枚挙にいとまはない。まさに世の中は女性たちに都合の良いかのように変貌しつつあるのだが、その権化と言えば何と言ってもかぐや姫!5人もの男を無視しきった拒絶の姿はまさにお月様のような綺麗さだが、それに対抗するためには、かぐや姫ほどの冷たさを持たない私は、彼女に一目置いて六つもの奇数列音を捨てなければならなかった。
ロクリアン正岡:ピアノデュオ「鍵盤の上を歩く四足の爬虫類」+大声
(R-18)1)無垢なる爬虫類2)標本から出た爬虫類3)猪突猛進する爬虫類4)逐電する爬虫類5)進化する爬虫類演奏は、向かって右、第一ピアノ:瀬川由馬、第二ピアノ:野口裕紀会場:すみだトリフォニーホール(小ホール) 日本・東京・墨田区日時:2010年5月9日(日)Locrian MASAOKAPiano Duo Suite:Four-legged reptiles walking on the keyboard(1987/2010)1st pf:Yuhma SEGAWA 2nd pf:Yuhki NOGUCHI生物学では「個体発生は系統発生を模倣する」と言われている。そこで、私は自分の内なる爬虫類性に徹してこの曲を編んだ。
ロクリアン正岡:「悪霊かな?」-音楽による二つの問いかけ-第一楽章
(R-18)人々にとって気になって仕方ない筈の最難問は自身の死後についてではなかろか?それは未来からの最大の出来事。また、集中して聴取する人々からすれば、音楽の音波もやはり未来からの侵入者。となれば、音楽は問いかけそのものだ。 ①「悪霊かな?」の方に居心地の良さを感じられれば、貴方様は悪霊派。②の方であれば、善霊派。ほかに、どっちもならば?どっちも不快なら?となると、事はそう簡単ではなくなる。そして、音楽を複雑化するのは西洋の七音音階の「三全音」。音声にあっては「し」。だが、明言しなくてはならないのはこの曲達を作曲しているとき、私の意識の上層部は霊のものであった、ということ。 なお両楽章とも予めそれぞれ一つの短歌を用意しコンセプトを定めておいての作詞作曲であった。
ロクリアン正岡:奇蹟的な錯覚を引き起こす音楽
(ニコニコインディーズ)「あれ!短3度上昇のメロディーのはずが、楽譜を見ると長二度(全音)であるとは?」これは、正真正銘の錯覚です。だが、作曲者が意図した訳ではない。頻繁には起こりえないこのような事象がなぜかくもあっけなく与えられたのか?本人自らいうのもなんですが、聴き手への限りない信頼、そして、そこに無限な潜在能力を夢見てしまう無垢さ(大江健三郎氏が強調する大江光氏の無垢さとは違うものかもしれぬ)がこのような帰結をもたらしたのでしょう。 この、仕掛けられたものではないからこその“快い錯覚”をさあ、どうか皆さんでお楽しみください。しかるに、それは人間が本来有する意識の高次ベクトル性(LM造語)の参与により生じる、皆様の自発性によるものだからです。
ロクリアン正岡:弦楽四重奏曲第一番「無伴奏聴人楽器」
(政治)Locrian MASAOKAString Quartet No.1 Unaccompanied Listener Instrument-the 7 notes of diatonic scaleTBSラジオ 「菊地成孔の粋な夜電波」の2011年12月2日の特集「第33「狂気」/ピンクフロイド欠席の、奇人たちの晩餐>でそのシンセサイザーバージョンが取沙汰されたらしいが、こちらは2013年1月18日東京におけるライブ。 誰にも聴きやすく誰もが歌える全音階七音を現代音楽の作曲家が避けるようになって久しい。きっとその陳腐さを嫌っての事であろうが、どっこい、ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シの七つの音は人知れず各個人の内側深くに住み着き、営々とその個性と演技欲を強めつつ、“純粋芸術の舞台”へと解放される機会を待ち望んでいたのである。弦楽四重奏曲「無伴奏聴人楽器」はあなた内側の際以降の音楽役者の為の独擅場なのだ。
ロクリアン正岡:トランペット二重奏曲「柴犬賛歌」2011(楽譜はHPに)
(アイドルマスター)Locrian MASAOKATrumpet duet“A song in praise of the brushwood dog”(2011)散歩中に柴犬に吠え着かれた経験からの作曲。その割れ鐘が連打されているような吠え声はとても一匹のものとは思えない。柴犬は素朴だ、果敢だ、忠実だ。書いているうち、柴犬みたいな気持ちになってしまったので「柴犬になった―」とかのタイトルも浮かんだが「柴犬賛歌」にした。柴犬好きのトランペット奏者は大勢いらっしゃると思う。HPに、実音楽譜、移調楽譜の両方掲げておいたので自由にお使いください。
L.正岡:SQ3「異形・日本・かぐや姫」-全音音階の6音のみ使用
(歴史)ノッペラボー!まず、この楽曲には全音音階の6音しか使われていない。その0・2・4・6・8・10・というように奇数を見殺しにした均一でスベスベの偶数列、その茫漠とした無の広がりは男(認識)を途方に暮れさせるに十分だ。今の日本がまさにそうだ。表面清潔化の為に張り巡らされた諸々の法規から各システム。表現ぼかすために馬鹿丁寧化した日本の日常語等々、枚挙にいとまはない。まさに世の中は女性たちに都合の良いかのように変貌しつつあるのだが、その権化と言えば何と言ってもかぐや姫!5人もの男を無視しきった拒絶の姿はまさにお月様のような綺麗さだが、それに対抗するためには、かぐや姫ほどの冷たさを持たない私は、彼女に一目置いて六つもの奇数列音を捨てなければならなかった。
ロクリアン正岡:奇蹟的な錯覚を引き起こす音楽
(ニコニコ技術部)「あれ!短3度上昇のメロディーのはずが、楽譜を見ると長二度(全音)であるとは?」これは、正真正銘の錯覚です。だが、作曲者が意図した訳ではない。頻繁には起こりえないこのような事象がなぜかくもあっけなく与えられたのか?本人自らいうのもなんですが、聴き手への限りない信頼、そして、そこに無限な潜在能力を夢見てしまう無垢さ(大江健三郎氏が強調する大江光氏の無垢さとは違うものかもしれぬ)がこのような帰結をもたらしたのでしょう。 この、仕掛けられたものではないからこその“快い錯覚”をさあ、どうか皆さんでお楽しみください。しかるに、それは人間が本来有する意識の高次ベクトル性(LM造語)の参与により生じる、皆様の自発性によるものだからです。
ロクリアン正岡:ピアノデュオ「鍵盤の上を歩く四足の爬虫類」+大声
(アイドルマスター)1)無垢なる爬虫類2)標本から出た爬虫類3)猪突猛進する爬虫類4)逐電する爬虫類5)進化する爬虫類演奏は、向かって右、第一ピアノ:瀬川由馬、第二ピアノ:野口裕紀会場:すみだトリフォニーホール(小ホール) 日本・東京・墨田区日時:2010年5月9日(日)Locrian MASAOKAPiano Duo Suite:Four-legged reptiles walking on the keyboard(1987/2010)1st pf:Yuhma SEGAWA 2nd pf:Yuhki NOGUCHI生物学では「個体発生は系統発生を模倣する」と言われている。そこで、私は自分の内なる爬虫類性に徹してこの曲を編んだ。
ロクリアン正岡:南無阿弥陀仏第一番―わが師、松村禎三に捧ぐ
(R-18)テノール(大貫浩史)+チェロ(安田謙一郎)「松村禎三さんお別れの会」が2007年9月にあり作曲は同10月、本作品には現存のモデルが二人いる。そのうちの一人は、私の高校時代の恩師で神道系育ちのクリスチャン村上光雄。日本中のカトリック教会のスケッチをして回っては展覧会を繰り返し開いており画集「やすらぎのカトリック教会」も出版。「いったい神というものは、諸々の宗教からいろいろに生まれてきた、つまり人類から生まれて来たものにすぎないのだろうか?私は氏が〝神の起源、存在、働き“を人類のそれらを超えたところからのものだと、人格の内臓”で強く実感しておられるのを覚えるのである。」とプログラムノートに記しておいた。
ロクリアン正岡:サクソフォーン八重奏曲「ライオン」
(アニメ)雄ライオンの威容とライオン家族の集まりであるプライドの生活の諸相を克明に描き出す。絶対音楽の堅牢さも兼ねた本格派の楽曲を、著名なサクソフォーン奏者小串俊寿氏の指揮と東京音大の優秀な学生8人のサクソフォーンによる好演でお楽しみください。
ロクリアン正岡:弦楽四重奏曲第二番「あの世から愛されし喜怒哀楽」
(R-18)演奏、アティレ弦楽四重奏団、第2ヴァイオリン:亀井庸州2013年10月28日、すみだトリフォニー小ホールにて -雑音多し如何なる生き物が感情豊かかといって、それは人間に決まってるじゃないか。表情筋一つ比べても人間様にゃかなわない。その点、宇宙人にすら負けないかも。特に女性は・・・。きっと神様もあの世から人間劇場を楽しんで覗いているんじゃないかな。愛おしみつつ。という心境で作曲したのがこれ。聴く人々が二分されることは間違いない。「私達の喜怒哀楽、見て見て!」というタイプと、あの世から冷たくも愛のまなざしで覗いてやろうというタイプと。どうか御自身を音楽のリトマス試験紙でお試しください。
ロクリアン正岡:弦楽おーけストア曲第一番「異次元航路」2013
(動物)指揮:鷹羽弘晃演奏:桐朋学園大学音楽学部弦楽専攻生有志府中の森芸術劇場ウィーンホール(東京)2014年3月12日Locrian MASAOKAString orchestra work No.1"The route to another dimension"2013. premiereConductor:Hiroaki TAKAHAPerformer:Toho Gakuen College Music Strings course studentsFuchu-no-Mori Theater(Tokyo JAPAN)March 12.2014日本現代音楽協会主催した「現代の音楽展2014-触発と対話」の枠内で行われた弦楽オーケストラ展~21世紀の弦楽の魅力で演奏されたもの。チラシにも明記されていたこのコンサートの謳い文句は「プロ・アマを問わず広く取り上げていただける作品の可能性を求めて‐」であった。しかし私の知る限り、どの新聞や雑誌にも批評が載った形跡はない。一体全体どうしたことか?
ロクリアン正岡:トランペット二重奏曲「柴犬賛歌」2011(楽譜はHPに)
(政治)Locrian MASAOKASymphonic Suite: “Keen Insight”(1995)*画面にあるのは画家、恒松正敏氏の「百物語」からの4枚。音楽も4曲ありますから、下記の4つのタイトルともども、うまく対応させてください。以下、もちろん順不同です。自我の化身Embodiment of the Ego異形の遊女A Suspicious Harlot観音の瞬きThe flickering of Kannon冥界の祭りFestival in the Other World
ロクリアン正岡:弦楽オーケストラ曲第一番「異次元航路」
(ニコニコ技術部)指揮:鷹羽弘晃演奏:桐朋学園大学音楽学部弦楽専攻生有志府中の森芸術劇場ウィーンホール(東京)2014年3月12日Locrian MASAOKAString orchestra work No.1"The route to another dimension"2013. premiereConductor:Hiroaki TAKAHAPerformer:Toho Gakuen College Music Strings course studentsFuchu-no-Mori Theater(Tokyo JAPAN)March 12.2014日本現代音楽協会主催した「現代の音楽展2014-触発と対話」の枠内で行われた弦楽オーケストラ展~21世紀の弦楽の魅力で演奏されたもの。チラシにも明記されていたこのコンサートの謳い文句は「プロ・アマを問わず広く取り上げていただける作品の可能性を求めて‐」であった。しかし私の知る限り、どの新聞や雑誌にも批評が載った形跡はない。一体全体どうしたことか?
ロクリアン・正岡:「無伴奏人体ソナタ」(音楽の臓物としての人間)
(歌ってみた)Written and performed by Locrian MASAOKA “Sonata for corpus without accompaniment” ⇒ “Humans as the entrails of music” (September 1976) これは1976年9月 NHK教育テレビ番組「音楽の世界」-『からだと音楽』②人体楽器、において放送されたもので、3分半ほどの演奏の後、若き日の小泉文夫(民族音楽学者)、西口久美子(歌手)両氏と正岡泰千代の会話が続きます。 原作(1972)は厳格なソナタ形式で15分ほどかかりますが、ここでは時間的制約のために大幅に短縮、もはやソナタとは言えず、「音楽の臓物としての人間」とした方が良いでしょう。 なお、SN比が小さい為に終始大きな雑音を伴っていることをお許しください。そのうち、原曲の楽譜をHPに掲げます。
ロクリアン正岡:話と「余ハン・ロクリアン・バッハ・デス」の演奏
(ニコニコ技術部)かの大バッハがセバスチャンからロクリアンに大変身したのでした。話と演奏;作曲者本人 2012年5月 すみだトリフォニー小ホールTalk about "Lion" and Performance of a "I am Locrian Bach."28/10/2013 at Sumida Triphony Recital Hall
ロクリアン正岡:話と「余ハン・ロクリアン・バッハ・デス」の演奏
(自然)かの大バッハがセバスチャンからロクリアンに大変身したのでした。話と演奏;作曲者本人 2012年5月 すみだトリフォニー小ホールTalk about "Lion" and Performance of a "I am Locrian Bach."28/10/2013 at Sumida Triphony Recital Hall
ロクリアン正岡:弦楽オーケストラ曲第一番「異次元航路」-2013
(アイドルマスター)指揮:鷹羽弘晃演奏:桐朋学園大学音楽学部弦楽専攻生有志府中の森芸術劇場ウィーンホール(東京)2014年3月12日Locrian MASAOKAString orchestra work No.1"The route to another dimension"2013. premiereConductor:Hiroaki TAKAHAPerformer:Toho Gakuen College Music Strings course studentsFuchu-no-Mori Theater(Tokyo JAPAN)March 12.2014日本現代音楽協会主催した「現代の音楽展2014-触発と対話」の枠内で行われた弦楽オーケストラ展~21世紀の弦楽の魅力で演奏されたもの。チラシにも明記されていたこのコンサートの謳い文句は「プロ・アマを問わず広く取り上げていただける作品の可能性を求めて‐」であった。しかし私の知る限り、どの新聞や雑誌にも批評が載った形跡はない。一体全体どうしたことか?
ロクリアン正岡:奇跡的な”錯覚”を引き起こす音楽
(歌ってみた)「あれ!短3度上昇のメロディーのはずが、楽譜を見ると長二度(全音)であるとは?」これは、正真正銘の錯覚です。だが、作曲者が意図した訳ではない。頻繁には起こりえないこのような事象がなぜかくもあっけなく与えられたのか?本人自らいうのもなんですが、聴き手への限りない信頼、そして、そこに無限な潜在能力を夢見てしまう無垢さ(大江健三郎氏が強調する大江光氏の無垢さとは違うものかもしれぬ)がこのような帰結をもたらしたのでしょう。 この、仕掛けられたものではないからこその“快い錯覚”をさあ、どうか皆さんでお楽しみください。しかるに、それは人間が本来有する意識の高次ベクトル性(LM造語)の参与により生じる、皆様の自発性によるものだからです。
ロクリアン正岡:話と「余ハン・ロクリアン・バッハ・デス」の演奏
(スポーツ)かの大バッハがセバスチャンからロクリアンに大変身したのでした。話と演奏;作曲者本人 2012年5月 すみだトリフォニー小ホールTalk about "Lion" and Performance of a "I am Locrian Bach."28/10/2013 at Sumida Triphony Recital Hall
ロクリアン正岡:弦楽五重奏曲「残忍性の独房/霊性の要塞」
(歴史)現代音楽の分野に目をやれば、「全体なるもの」から放逐されたようなデザイナー音楽が主流である。全体を諦めてしまい、部分性として開き直っている。だから、やれ「しっかりとしたコンセプトを!」とか、「作品には一貫性がなければ」とか、はたまた「芸術音楽に大衆性は必要か?」などと、苦慮を強いられることになる。それらは土台かつ所詮、本質から目がそれてしまった人たちの物言い(ほとんど屁理屈)なのだ。「音楽という時間芸術を物すには時間を超越(時間経過に沿うやり方ではなく、時間次元を一挙に同時的・瞬間的に体験)するしかなく、そのためには全体なるもの(=不可知の何様)に与るしかない!」LM