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安田登 聞き手=山本貴光「禍の時代を生きるための古典講義――第4回『論語』を読む」(2020/7/15収録)@eutonie @yakumoizuru #ゲンロン200715
ゲンロンαにイベントのレポート記事を掲載しています。ぜひお読みください。
記事URL= https://genron-alpha.com/article20200720_01/
【収録時のイベント概要】
いよいよ最終回! 大好評シリーズを締めくくるのは『論語』!
第1回『古事記』、第2回『平家物語』、第3回『おくのほそ道』『鶉衣』と、さまざまな古典を読み解くことで、現代に生きるわれわれへのヒントを探ってきた「禍の時代を生きるための古典講義」シリーズ。講師を務める能楽師の安田登さん、聞き手を務める文筆家の山本貴光さんの刺激的なかけ合いと読み解きには、毎回大きな反響をいただいています(過去3回のアーカイブ動画はVimeoで公開しているほか、ゲンロンαにレポート記事を掲載しています)。
『論語』は、中国の春秋時代の思想家で、儒教の始祖である孔子と、その弟子たちとの問答などが集録された書物です。古来より、日本人の思想や生活習慣にも大きな影響を与え、多くの人々に読み継がれてきました。安田さんは『論語』をひも解く名手として知られ、『10のキーワードで味わう『論語』』『身体感覚で『論語』を読みなおす。』『あわいの時代の『論語』』『すごい論語』など、数々の著書を通して『論語』の新たな魅力を発信し続けています。
孔子が生きたのは、それまでの伝統的な価値観や制度が崩れ、社会が大きく変わっていく激動の時代でした。コロナ禍のいま『論語』を読み直すことで、どのような発見があるのか。シリーズを締めくくるに相応しい、白熱の講義をご期待ください!
禍の時代を生きるための古典講義 – ゲンロンカフェ
https://genron-cafe.jp/event/20200715/
【討論】韓国は滅びるのか?[桜H31/3/23]
◆韓国は滅びるのか?
パネリスト:
黄文雄(作家・評論家)
高永喆(拓殖大学主任研究員・元韓国国防省北朝鮮分析官)
石平(評論家)
高山正之(コラムニスト)
西村幸祐(批評家・岐阜女子大学客員教授・関東学院大学講師)
三浦小太郎(評論家)
宮崎正弘(作家・評論家)
室谷克実(評論家)
司会:水島総
※チャンネル桜では、自由且つ独立不羈の放送を守るため、『日本文化チャンネル桜二千人委員会』の会員を募集しております。以下のページでご案内申し上げておりますので、全国草莽の皆様のご理解、ご協力を、何卒宜しくお願い申し上げます。
http://www.ch-sakura.jp/579.html
◆チャンネル桜公式HP
http://www.ch-sakura.jp/
【神道シリーズ・シーズン2】第31回・藤田東湖と会澤正志斎(後期水戸学)
藤田幽谷の息子の藤田東湖と水戸藩士・会澤正志斎は、幽谷が始めた私塾青濫舎で四書五経などの儒教の書とともに儒教的な農本主義的な経世救民論、および水戸藩や日本全体を取り囲む国際情勢を学び、同時に剣術や槍術などの武道も学びつつ、文武両道の実学の大切さを教えられた。
幽谷が生きていた時代は、班内の旧守派・保守派の反対や妨害もあって実現しなかった幽谷の儒教的道理に基づく藩改革は9代藩主武公水戸斉昭の時代になると積極的に取り上げられ、実践されていったものの、商品経済貨幣経済が発達した19世紀に時代錯誤的な儒教的な農本主義政策はまったく効果がなく、また、江戸幕府が迫りくる外国勢力に対して弱腰の姿勢を取りづつける現状を片目に水戸藩では会澤正志斎や藤田東湖らの尊王攘夷論は高まりを見せ、次第に幕府への批判が強まる中、とうとう藩主斉昭も藤田東湖も蟄居の処罰が下り、斉昭は強制隠居も命じられて4年間、東湖は8年間の蟄居生活を余儀なくされることとなった。
会澤正志斎は「新論」を著し、平和ボケしてる幕府や諸藩の危機管理意識の低さを厳しく批判したが、その内容があまりにも過激すぎたために当時の藩主哀公斉修に上呈したものの、出版は差し控えられた。
一方、藤田東湖は8年間の長い蟄居生活の間に「弘道館記述義」や「回天詩史」などを執筆し、彼自身の歴史観や尊王攘夷論を訴えた。
この両者の著作は、水戸藩のみならず、この両者に会いに来た、長州の吉田松陰、高杉晋作や薩摩の西郷隆盛など、その後討幕の主力勢力となった勤王の志士たちにも多大な影響を与えた。
しかし、藤田東湖の死後、彼がまとめてきた班内の尊王攘夷過激派たちは暴走を始め、桜田門外の変や天狗党の乱を引き起こし、水戸藩内は保守派の諸政党と急進派の天狗党との間の血で血を洗う熾烈な内部抗争が続き、明治維新を挟んでの報復合戦の末、ついには水戸藩出身者が新政府の一翼を担うことなく終わってしまうのであった。
【神道シリーズ・シーズン2】第38回・光格天皇と古儀復興
明和8年(1771年)、皇位継承直流より7親等離れた閑院宮典仁(すけひと)親王の第6子として生まれた祐宮(さちのみやや)親王は、21歳という若さで崩御された第118代天皇の御桃園帝の皇位継承者として白羽の矢があたるが、当時4世襲宮家の一つであった閑院宮が本流より離れていたことや、実母の身分が低かったことや、そして何より既に天台宗の寺院・聖護院に入寺して皇籍降下をしていたことなどから様々な異論は出ていたものの、直流よりはるかに離れすぎた伏見家本流の王子による継承は考えられず、結局9歳にして、御桃園前天皇の実の娘である欣子(よしこ)内親王に養子縁組する形で119代天皇の地位を継承することとなった。
9歳で即位した光格天皇は、11歳の頃より学者肌の公家たちを講師として「論語」や「孟子」「中庸」「大学」などの儒教の教育を徹底して受けることになり、これを通じて次第に儒教的君主論における天子としての自覚を深めて行った。
その光格天皇が17歳の時、長引いた天明の大飢饉の中困窮する京都の庶民たちが御所の千度参りの際に御所の周りに集まった6万人にも及ぶ民衆が直訴の内容を書いた紙で賽銭をくるみ投げ入れたことから天皇が幕府に民衆救済を申し入れたことが禁中並び公家諸法度に違反するとして問題となったが、事情が事情だけにやむを得ないとし、幕府側は天皇を諫めなかった一部の公家たちを処分はしたものの、緊急米として1500石を京都庶民に放出することなった。
また、同年に、5年前に京都大火で焼失した京都御所の復興において光格天皇は平安時代の復古調の御所の再現を要求したが、幕府の予算の関係で建材を倹約した状態での紫宸殿と清涼殿の復古調復興は認めたが、神嘉殿の復興は認められず、仮御所をその代用にするように命じられた。
新嘗祭や大嘗祭など応仁の乱以降中絶していた朝廷儀式は、徳川幕府が始まってからその朱子学的な天子君主論の建前から幕府が中心となって復興されてきたが、その後また何度か中断され、光格天皇の時代になり、新嘗祭が本来の神嘉殿で行われるよう完全復興を目指したが、結局、仮御所を神嘉殿として見立てて復興することとなった。
しかし、天皇とはならなかった実父の閑院宮典仁親王を上皇にしたいという尊号一件の問題については幕府に押し切られ、要求したこととの罰として大量の公家たちが幕府により処分されることとなった。
光格天皇は様々な朝廷古儀の復興を目指したが、それは必ずしも宮中儀礼だけではなく、宮中真言院、つまり、亡くなられた前天皇の後七日供養を行ったり、歴代天皇が真言密教形式の天皇灌頂という皇位継承の儀式を行う宮中の建物の復興や石清水八幡宮の臨時祭放生会、つまり仏式の儀礼などの復興も同時に求めていた。
【神道シリーズ・シーズン2】第21回・吉川神道(吉田神道陰陽論と朱子学力説のフュージョン)
吉田神道吉田家の萩原兼従より吉田神道第54代の道統を継いだ魚屋出身の吉川コレタリは、吉田家出身ではない惟足をよろしく思わない吉田家の反発をよそに神道理論の奥義を深める研鑽を続けたが、時のはやりの朱子学の理気学説に影響を受け、やがて両者を統合するような独自の神道理論を確立し、吉川神道として吉田家とは断絶した。
しかし、独自神道理論とは言え、ベースは伊勢神道や吉田神道のような道教理論に基づく混沌からの万物発生論であり、そこに朱子学理気論を接ぎ木して朱子学的な陰陽五行説で日本書紀の神代巻を解説しようとしたのが吉川神道である。
理気学神道を唱える一方で、伊勢神道、吉田神道の流れで一貫してる心の内清浄、つまり正直な心が神と一体化する道だと説く真言密教さながらの即身成仏論を彷彿させる論理は吉川神道の底辺を流れており、吉川惟足はこの正直な心なるものを陰陽五行説で強引に儒教徳目でもっとも重視される敬に結び付け、さらには真言密教の即身成仏を彷彿させるような神人合一、つまり神と人は敬を通じて一体化するという論理に至った。
吉川神道の目指したところは、最高絶対神である国常立と人は、自然と湧き上がる国常立への至上と言われる感謝と敬の気持ちがこの絶対神の末裔である天皇を敬う気持ちに繋がるのだと結論づけることで、実はこの論理の飛躍が彼の神道論全体に大きな矛盾を生むこととなる。
一方で人は自然と絶対神の末裔たる天皇に敬の気持ちを抱くとしつつ、一方では不徳の天皇は追放されても当然であるという所謂放伐論が共存し、絶対真理たる朱子学の理ともいえる国常立の子孫ながら不徳の者がいるのかはまったく説明されていない。
吉川神道では和歌を声を上げて読むことにより人と神は一体となることができるとしたが、実は後に国学者たちが和歌の研究に力を入れ、そこから純日本を発見しようとした動きはこの頃から端を発していると言われる。
一方吉川神道の天皇放伐論はその後の儒学や国学にも大きな影響を与えることになった。
【神道シリーズ・シーズン2】第34回・山鹿素行の士道と日本中朝主義
山鹿素行は、元和8年1622年、陸奥国会津(福島県会津若松市)にて浪人・山鹿貞以の子として生まれたが、父は当時の会津藩主・蒲生 忠郷の家老・町野長門守幸和に身を寄せていたところ、藩主の死による蒲生家の断絶のため、町野幸和は幕府に直接仕えることとなり、素行親子も一緒に江戸に移住することとなったが、江戸移住以降、済松寺の袒心禅尼に養われ、書を学び始めるようになると天才的な才を発揮し、周りの者たち驚異する中、素行はまたたくまに四書、五経、七書はいうに及ばず、詩文などまでをマスターしてしまった。
素行の尋常ならぬ天才ぶりは注目を集め、わずか9歳にして幕府の大学頭/林羅山の門下に入り、朱子学を学ぶ運びとなった。
そして翌年10歳になると林門下の生徒たちに師として教えるほどの立場となり、さらに11歳になると松江城主/堀尾山城守から、2百石で召し抱えるとの申し出があったが、父が「安い給料で束縛されたくない」と辞退したのだ。
素行と父は素行の幕府召し抱えか1万石以上での高給での藩仕えかのどちらかを望んだが、幕府召し抱えはあとわずかなところで希望していた三代将軍家光の死去により実現せず、また、31歳の時に、1年余りの間赤穂藩で1千石でのレンタル移籍を行うものの、その後の契約条件が折り合わず江戸に戻り、全国に6千人もの門下生を抱えながら著作活動を進めた。
その間、素行は、諸藩からの指南役などのオファーを断り続ける一方、北条氏長から北条兵学を、光宥から両部神道、広田担斎から忌部神道を学び、さらに40代に入ると儒教の古学に関心を寄せるようになり、次第に幕府の御用学問であった朱子学を古学の立場から批判するようになった。
その頂点が素行45歳の時に著した「聖教要録」で、この内容は、当時会津藩主であり、同時に4代将軍家綱の後見役でもあった保科正之の逆鱗に触れ、その後、正之の死後3年まで続く赤穂藩預かり謫居、つまり、指定された屋敷の敷地の中での禁固刑が9年間続くこととなる。
これは、素行が生涯求めていた幕府仕えへの道を完全に絶たれることを意味はしたが、ただ、この9年間の間に素行は自分が属していた北条兵学からの離脱と山鹿兵学の独立、そして彼独自の日本中朝主義、つまり、儒教とは実は中国ではなく日本のオリジナルであり、日本書紀に書かれてるのは儒教の歴史であり、日本自体が中国であり、日本人こそ中国人であると言う儒教日本起源説を展開し、やがては陰陽五行説に基づく易学理論の象数宇宙論に至り生涯を閉じることとなった。
山鹿素行の士道的武士道論は、彼より少し遅れて佐賀藩にて葉隠武士道を確立した山本常朝の武士道論とともに江戸時代の武士道観を形成して行ったのである。
【神道シリーズ・シーズン2】第25回・荻生徂徠(古文辞学の立場より孔子・朱子批判)
江戸時代に入り、林羅山、山崎闇斎、中江藤樹など朱子学や陽明学の研究は全盛となり、本来の古典的な儒教の教えが隅に押しやられてしまっていた中、古学派の伊藤仁斎は儒教本来の孔子が論語で訴えた徳目修身の原点に立ち返り朱子学・陽明学を批判していたところ、苦学独学で儒教を習得した荻生徂徠はその伊藤仁斎の朱子学批判では飽き足らず、孔子の論語ではなく、孔子以前に中国の先王聖人らが打ち立てた礼楽刑政の思想に立ち返り、先王たちの礼楽を
たんなる仁義礼智という、個人で習得すべし徳目として把握していた孔子を痛烈に批判し、さらにはその孔子の論語の立場にたつ伊藤仁斎も厳しく批判した。
荻生徂徠は、孔子とか朱子と言った先王聖人の時代からみて後世の学者たちによる六経の偏向的解釈を論破する為、古代の中国語を学び、五経も日本語の訓読みではなく、オリジナルの中国語の発音で読み理解するという方法論を採った。
そこから徂徠が得たものとは、本当に理解すべきは堯舜以前の時代から先王たちにより築かれて行った経世済民を目指す礼楽の制度そのものがあればこそ民は仁義礼智のような徳を身に着けた民なれ、天下も丸く治まるのだ、という政治制度の重要さで、それを孔子や朱子のように個人の努力で皆が徳目を習得する修身に心がけるとか、宇宙の理と個人の性を一致させる努力などに歪曲して解釈されてることが許せなかったのである。
尚、この徂徠の、古典をその時代の言葉で読み解くという古文辞学という方法論は、対象はまったく異なるものの、後の国学者本居宣長の古事記の万葉仮名読みによる分析にも引き継がれていくことなり、この宣長の古事記解釈はその後の復古神道を産むきっかけとなり、一方荻生徂徠はその復古神道派からは中国かぶれの批判的評価が下されるという皮肉な運命になるのであった。
【神道シリーズ・シーズン2】第13回・内宮により継承される伊勢神道(儒教(朱子学)色強める伊勢神道)
伊勢神道の開祖・渡会行忠を継いだ渡会家行の後、外宮では伊勢神道を継ぐ者たちがなく伊勢神道は途絶えようとしていたが、そんな中、伊勢神道書を保管して写書を通じて引き継いでいったのが内宮の禰宜たちであった。
しかし、内宮禰宜の荒木田氏は、伊勢神道の中の外宮を内宮より上とする豊受大神=天御中主神論を省き写書活動を続け、やがて荒木田守晨(もりあさ)の時代になると「守晨引付」という総括書を出し、伊勢神道の中の道教的宇宙観と仏教的観念から引き出した「正直」(内清浄)部分を伊勢神道の核部分として描き出したが、ただ、同時期に伊勢神道の後継者を名乗った北畠親房による「正直」の朱子学的解釈が注入され、伊勢神道は儒教(朱子学)色の強い神道となって行きました。
【神道シリーズ・シーズン2】第20回・林羅山の理当心地神道(「日本書紀」神代記述の否定と「書紀」の儒教的書き換え
林羅山は、朝鮮の朱子学者カンハンから学んだ藤原惺窩を師とし、封建領主を君主とする封建体制の支配体制を正当化する朝鮮朱子学の流れを汲み、支配者は除外し、たみだけに性即理の実現の道徳的努力を強要する朱子学思想を引き継いだ。
君主に賢人聖人たる努力を求めない朝鮮朱子学の思想は封建支配体制を正当化するものとして徳川幕府に重宝され、羅山も徳川将軍家のブレーンとして天台僧天海や臨済僧崇伝らとともに徳川指南役として活躍することとなった。
さらに羅山は、朝鮮朱子学のもう一つの特徴としての強い廃仏思想に裏打ちされ、仏教的解釈を一切排除した日本書紀の分析を行い、中国儒学独特の考証主義によって中国や朝鮮の歴史書と日本書紀の記述を突合し、日本書紀のみにみられる箇所はことごとく否定し、
特に突合ができない神代の部分は作り話として切り捨て、天地開闢や天孫降臨の部分も実は中国の呉の泰伯が九州の高千穂に漂流して神武天皇となった事実の粉飾であり、その後の8代の天皇やヤマトタケルは架空の存在で、太極であるクニタチノミコトの理の反映である歴代天皇が朱子学的道徳律に沿って日本の歴史は作られたと、日本書紀の記述をことごとく儒教的に書き換えていった。
これを林羅山の理当心地神道と言い、神道という名の儒教神道説で、のちの国学者たちからは厳しい批判の的となるものの、羅山に続く日本の朱子学者や陽明学者たちの間ではあるいみ共通した日本書紀解釈となっていったのである。
【神道シリーズ】第23回・日本陽明学の祖・中江藤樹
中江藤樹は、同時代の林羅山、吉川惟足、山崎闇斎らが朱子学の枠内でいかに情を抑え、性即理を実現させるべきかを模索していた時、彼らが論理の探求のみに熱中する中、藤樹は自ら儒教の道徳の原点に立ち、徹底した儒教徳目の実践を通じての性即理の実現を目指したが多くの面でその理想追求は挫折することとなった。
はたから見ると藤樹は「近江聖人」として理想的な儒者のイメージを放つのだが、本人としては理想と現実の矛盾のはざまで悩み苦しみ続けていたのだ。
一切の妥協を拒む藤樹には他の朱子学者たちの行動が偽善的であり、立身出世の為だけに朱子学者の立場を利用するものや、ひたすら読書だけに没頭して現実生活の中で徳目を実践しない朱子学者たちと映り、藤樹は彼らを俗儒と呼んで心底軽蔑した。
しかし、他を批判しようともみずからの自己研鑽実践の中での自己矛盾の問題は解決せず、また自分を取り囲む周囲の社会がまったく変わるわけでもなく、朱子学の理気論による「情を抑えて性即理を目指す」という自己抑制的理論そのものへの限界を感じ始めていた。
どうしたら心は他を敬う気持ち、つまり敬と一体になれるのか?
どうしたら心は性、つまり、自分そのものを敬の気持ちでいっぱいにできるのか?
この問に答えるために藤樹は心学、つまり心の学問というものを唱えだしたが、実際には論理で心の作用をコントロールできるものではなく、結局はタイイツシンという古代儒教の神様への信仰へと逃げ込むことになり、日本の伊勢神宮のアマテラスもタイイツシンの眷属のひとつだと主張するようになった。
しかし、この藤樹の陽明学への踏み込みはその後、朱子学を否定する国学の心の爆発、感情の爆発への道を開くこととなったのである。
【神道シリーズ・シーズン2】第12回・伊勢神道の完成(仏教・道教・儒教の思想注入へ)
13世紀後半に渡会行忠によって創設された伊勢神道は、真言密教系の両部神道をベースにし、そこから仏教用語を取り去り、道教理論を導入する事により外宮を主とす両宮の存在流を説明しましたが、室町時代の14世紀から15世紀にかけて行忠を継いだ渡会家行は、行忠と違い、堂々と仏教・儒教・道教などの書からの引用を憚らず、それらを伊勢神道理論完成の為に導入して行きました。
中でも梵網経(ぼんみょうきょう)の中で説かれた弟子たちの釈迦に対する忠誠心や浄土真宗(一向宗)開祖の親鸞聖人の「教行信証」に書かれた門徒たちの極楽往生への迷いなき信心からの「正直」な心などに強く感銘を覚え、そこから自らの神道論の中心となる「内清浄」の観念を生み出して行きました。
【神道シリーズ・シーズン3】(戦後編)最終回・神社本庁と神社神道の崩壊
戦後の昭和21年1946年、戦前の神祇院が廃された後、民間の神職団体であった大日本神祇会と、明治時代に出雲と伊勢で祭神論争が行われた神道事務局の後継団体の皇典講究所と、祭神論争の後、神道事務局を出て独立した神宮奉斎会の三つの民間の組織が戦前の神祇院と国家神道体制の復活を目指し、神社本庁を設立した。戦前までは国家によって運営されてきた全国神社がいきなり自活せねばならなくなるという将来への不安から、稲荷系神社を除く全国約8万社と言われる神社のほとんどがこの神社本庁に加盟した。
神社本庁は、後継者のいない神社に他の神社の宮司を兼任させ神社の第三者による乗っ取りを防いだり、神職者たちの教育研究などの機会を与える一方で、包括的宗教法人法の枠組みの中で傘下神社に多額の上納金を要求したり、宮司や役職の人事に介入したり、また、神社の財産処分などの経営にも干渉する性質を持っていた。
神社本庁の組織は、総裁をトップに、統理、総代、役人理事会から成り、総裁や統理には旧皇族者や元華族の血統のある者たちを充てたが、これはあくまで形式的な名誉職で、実験は役員会と総代が握っていた。
明治以前の神社は代々続く社家と言われる宮司家が継承していくのが普通だったが、明治以降は社家による宮司継承が禁止された為に素人上りの神職たちが神社局や神祇院によって派遣される形で神社運営がされていた。しかし、戦後になると長い伝統を持つ神社は鮭が宮司職を取り戻し、氏子たちもそれを強力に支持するという形を取り戻してきた。
しかし、国家神道形式の復活に拘る神社本庁は、反逆する宮司や女性神職による宮司継承をとことん嫌い、特に前宮司が死去して娘が宮司職を継承しようとした神社には悉く干渉し、大手神社の宇佐八幡宮や香川県の冠纓神社などを神社派遣の新宮司によって乗っ取っている。神社本庁の役員会理事や総代は、代々社家の宮司職を継承してきたような神社出身者ではなく、むしろ保守的思想が動機で神職を目指したような者が多く、一般人の家庭生まれで国学院や皇学館を卒業して神職資格を取り、本庁派遣で各地の神社の宮司を体験したのちに本庁で登り詰めて役員や総代になった者たちによって構成されているので、代々宮司の社家を守りたいとする由緒ある大手神社とそれを支える地元の氏子たちとの思惑や利害関係は大きく対立するものがあった。
こうした本庁の態度を見ても、口だけの尊王で、実際には国家神道と戦前の儒教的秩序の復活が目的で、靖国神社と同様、皇室への軽視が手に取るように見られる。
私たち日本人は日本人の真の伝統文化を取り戻すためにもこの神社本庁の解体が一日も早く実現されることを望むばかりである。
【神道シリーズ・シーズン2】第14回・「神皇正統記」北畠親房(伊勢神道を継ぐ者たち①)
渡会家行の後、後継者なく途絶えそうになっていた伊勢神道は、内宮の荒木田氏により救出され引き継がれることとなったものの、その法統も南北朝の戦乱の中、再び途絶えようとしていた時期に、南朝の重臣の北畠親房や天台僧の慈円らによってその流れが引き継がれることになりました。
伊勢神道自体の復興は江戸時代の 度会延佳の時代を待たねばならなかったものの、この南北朝時代に伊勢神道の流れを継いだ北畠親房の「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」の中では、道教的な思想が中心であった伊勢神道に儒教(朱子学)的なイデオロギーを注入したのが特徴で、実はこの流れはこの先の吉田神道や江戸時代の儒家神道・水戸国学・復古神道にも強い影響を与えて行くことになります。
【神道シリーズ・シーズン2】第16回・吉田神道(時代に乗ったフェイク神道)
吉田神道は、南北朝の争いで南朝方に加担した伊勢神宮が伊勢神道の影響力が地に落ち、そして戦国時代の夜明けとも言える応仁の乱のあとに伊勢神道を受け継ぐようなかたちで京都の吉田神社で誕生した。
吉田神道の創始者の吉田かねともはアメノコヤネを始祖とする中臣氏の流れの卜部氏の系統のヨシダケ出身で、ある意味武家社会が本格的に朝廷を上回る政治的立場を確立した時代にマッチした神道理論を提案する絶好の機会であったとも言える。
当時も農民を中心とした一般庶民の信仰は100%仏教で、神道理論は庶民というよりも貴族や武家などその時代の支配者たちに提供された体制保障の論理であり、それがこれまで末法時代の克服論であったり救民救済であったりしたのが、武家社会が朝廷を圧倒する戦国時代になると封建支配体制正当化の儒教朱子学理論を軸とした神道理論が武家の間で重宝されるようになったのである。
吉田かねともはそうした時代の流れに狡猾にもうまく乗り、仏教儒教道教を総合しつつも儒教的君民統治論に重点をシフトした神道論を武家の支配層への時代ソルーションとして提供することに成功した。
しかし、その為にかねともは過去に存在してなかった自称古書を自らの著作で捏造し、あたかも太古の昔から吉田神道が存在したような主張をし、さらにかつて密教勢力や伊勢神道の渡会行忠がやったような偽書捏造を通じて京都の吉田神社境内に建てたサイジョウこそが絶対神の国常立のみことの聖地とし、この日本書紀書き換えには伊勢神宮からの強い反発を招き、両者は鋭く対立を続けることとなったのである。
吉田かねともは、吉田神道こそはアメノコヤネ以来日本で唯一こんにちまで伝えられた唯一の元本宗源神道であると主張し、仏教も儒教も道教も同一の理念である理由はこの吉田神道がそれらの起源であるからだとまで豪語したが、問題はその中味がその仏教儒教道教の理論書からの切り貼りであり、すべての宗教の根源とする神道なるものの姿がまったく見えてこないところにあった。
しかしながら、これまで豪族貴族の始祖か御霊のみに限り死者を神と祀って来た過去の歴史を刷新するように時の権力者や儒教的な忠君論的立場より死者を神として祀ることを提唱した吉田神道は、豊臣秀吉や徳川家康など時の権力者たちから受け入れらることとなり、吉田神道は政治的にその地位を確保することになったのであった。
【神道シリーズ・シーズン2】第30回・藤田幽谷と中期水戸学
藤田幽谷は安永3年2月18日1774年3月29日常陸国水戸城下の奈良屋町に、古着商藤田屋を営む藤田与右衛門の次男として生まれ、頭脳明晰の才が認められ、父与右衛門の英才教育の下、寺社奉行下役の小川勘助や医師の青木侃斎から儒教を学び、その後、彼らの推挙により10歳にして荻生徂徠の古辞学派の、のちに水戸藩の彰考館総裁となる立原翠軒の門人となった。
その後15歳で彰考館の正式な館員となり、水戸藩の修史事業である『大日本史』の編纂に携わるようになった。
そして17歳になると「神皇正統記」の研究をはじめ、「天皇考」「幽谷随事」を著して国体論を確立し、この時より幽谷を名乗るようになる。
18歳になった年には老中松平正信の求めにより、天皇と幕府と諸藩との間の君臣上下の名分を正すことの重要さを説いた「正名論」を寄稿し、24歳以降は、封事という、藩主への直訴とも言える訴えを行い、幽谷は、文公治保、武公治紀、哀公斉修の藩主三代に渡り生涯に26回の封事を行った。
29歳の時には、水戸梅香の自宅に青藍舎という私塾を開き、ここに日本全国から尊王攘夷に燃える若者たちが集まり、その中にはのちに長州で松下村塾を始めた吉田松陰も含まれていた。
幽谷の封事は、迫りくる外国勢力からの海防国防の為の強兵策と悪化し続ける水戸藩の財政の立て直しを目指して行われたが、幽谷の在任中は藩内の旧守派藩閥派にことごとく阻まれ実行されることはなかったが、幽谷の死後、9代藩主となった列公水戸斉昭は幽谷の海防論と藩財政立て直しの為の経世救民論を受け入れ、それを実行しようと心がけたのだ。
しかしながら、海防を充実するだけの財政余裕はなく、また、藩財政の立て直しに関しても、江戸中期以降発達した商品経済貨幣経済にまったく対応のできない儒教的な農本主義に基づく名分再建論で水戸藩の財政を止めることは出来なかった。
幽谷の儒教的経世救民的財政再建策はなんの効果も無かったものの、度重なる処分や死の覚悟をしてまで藩主に直訴を続けた姿勢と尊王攘夷の気概は、彼の開いた青藍舎を通じて全国の勤王の志士たちに大きな影響を与えることとなったのである。
【神道シリーズ】第24回・前期水戸学(水戸光圀と「大日本史」)
水戸光圀は、初代水戸藩主徳川頼房の三男として生まれ、幼くして二代水戸藩主の継承者に指名されたが、兄の頼重をさておいて継承者になったことに負い目を感じ、複雑な心境から荒れ狂った少年時代を送るが、18歳の時に読んだ史記の伯夷伝に強く感動し、儒教の長幼の功、つまり、長子こそが王位を継承すべき、という説に心を打たれ、以降人が変わったように孔子の儒教の勉強に励んだ。
史記の伯夷伝にならって漢文体で日本史の編纂を始めた光圀は、藩主になって以降、これを藩全体の中核事業に添え、日本の歴史を儒教的観点から見直すという作業を本格的に始めた。
その中で光圀は同じく儒教的立場から日本の歴史書を書いた幕府の指南役の林羅山と同様、儒教的合理主義に基づき、日本書紀の神代巻は妖怪迷信のたぐいとして対象から外し、あくまで神武天皇からの天皇の歴史書を作成することを目指していた。
結局、光圀が編纂した「大日本史」は神武から100代の後小松天皇までの歴史記録となっているが、中でも強調したのは、神功皇后が天皇ではなく女傑であったこと、壬申の乱で自害した大友皇子を「天皇大友」としたこと、そして、なんといっても南朝正統論である。
しかしながら、光圀の儒教道理論、つまり、聖人君主や長幼の功論からするとどうしても北朝の方が正統となってしまうのだが、それでも南朝が三種の神器を持っていたことを根拠に南朝正統論を強弁する理由は楠木正成の忠臣ぶりを評価したかったからである。
晩年光圀は、正成を賞賛するために湊川神社や各地に楠社を創建させたが、この中心の武勇の魂を祀るという思想は儒教の招魂思想からくるもので、この思想は後に長州藩が幕末の尊王の志士たちを祀った桜山神社や京都霊山、そして明治以降の東京招魂社、つまり靖国神社の創建につながる思想となったのである。
【神道シリーズ】シーズン2・第27回・賀茂真淵(神道論無き日本人アイデンティティーの追求)
元禄10年(1697年)遠江国敷智郡浜松庄伊庭村(現在の静岡県浜松市)で賀茂神社の神職の家に生まれた真淵は、近所の稲荷神社の神職家の杉浦国頭の家に通い、小さな頃から和歌にいそしむ生活をしていたが、26歳の時、京と江戸を行き来していた京都の伏見稲荷大社の神官の家出身の有名歌人・荷田春満が途中浜松の杉浦国頭の催す歌会に寄った際に歴史的な出会いをし、以後、春満が浜松による度に和歌の手ほどきを受けたが、やがて37歳になると春満の門人になることを目指し上京し、以後、7年後に春満が死ぬまで真淵は京都と浜松を行き来した。
その後、時の将軍徳川吉宗の次男で、徳川御三卿の一つ田安家の当主となった田安宗武に使えていた春満の末子の荷田在満の勧めで江戸に出向した真淵は、春満の弟の荷田信名の江戸宅をひきりに、荷田家人脈の門人を頼りに寄宿し、やがて江戸の豪商・村田春海の家に寄宿することとなり、和歌研究と著述の日にあけくれた。
やがて、50歳の時に荷田在満の推薦で、田安宗武に和学御用として仕えることとなり、
以後、64歳で隠居するまでの14年間宗武の下で仕える事となった。
その間に、新古今和歌集を推す在満と万葉集を推す宗武の間で、所謂「国歌八論」論争というものが起き、在満は新古今和歌集の技巧を重んじ、宗武は万葉集の中に現れる儒教的な「ことわり」を重視し、この埋まらない対立の末、在満は田安家を去る事となり、残った真淵は、万葉集支持の立場より宗武の側についたものの、和歌を儒教の六経の詩経の道徳観や儒教独特の勧善懲悪的な和歌評価には賛同できず、両者の見解の深い溝は埋まらぬまま真淵は粛々と独自の万葉集研究を続けた。
真淵はその後64歳になって隠居生活に入るが、宝暦13年(1763年)に宗武の命により
大和を訪ねた際、その江戸への帰り道で三重県の松坂に寄り、真淵門下入門を志していた青年・本居宣長と両者生涯一回限りの面会を果たし、そこで宣長は古事記注釈書作成への情熱を熱く語ったと言う。
賀茂真淵の生涯の圧倒的部分は万葉集研究に注がれ、真淵がその中に見出したのは、自由奔放で雄々しく素朴で、しかもみやびある古代日本人であり、それは「ますらおぶり」という言葉で表現されている。
しかし、真淵の神道に関する関心は低く、「天皇は日本の風土に合っている」とは述べたものの、その根拠は語られず、しかも、後の国学者たちのように独自の神道理論を構築しようとする姿勢は見られず、あくまで古代の日本人という日本人のアイデンティティー追求に人生をかけていたと言える。
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)大石凝真素美と言霊学
言霊というと、あたかも太古の昔より「言葉には魂が宿ると言われてきた」と考えがちであるが、実は江戸時代より前に残る記録の中で言霊という言葉を使っていたのは9世紀に空海が書いた「声字実相(しょうじじっそうぎ)」という書の中で「五大に皆響き有り、十界に言語を具す、六塵悉く文字なり、法身は是れ実相なり」と、真言密教の真言について述べていたわけで神道とはまったく無関係だったのだが、言霊を神道と結び付けようという動きは、幕末の国学者・中村孝道から始まっている。
中村孝道は自ら開発した水茎文字というハングルに酷似した文字を神代文字だとし、それを現在のかな75音に置き換え、この75音は宇宙全体の神霊エネルギーを発していると主張した。
大石凝真素美は、天保3年(1832年)伊賀の国上野に生まれ、本名は望月春雄といい、医者の家系の家に運れたが、中村孝道の門人だった祖父の幸智から国学を教えられ、自ら医者の道を絶ち、国学者として生きていく決意をした。
1868(慶応4)年には、美濃の修験者で中村孝道の言霊思想を深く理解していると言う山本秀道の噂を聞いて訪ね、その知識と霊威に感じ入って師事し、そのまま居候して孝道の言霊学を学んだ。
その秀道と行った本田霊学の鎮魂帰神法の結果、自分はイシコリドメの生まれ変わりと悟り、名前を大石凝真素美と改名した。
大石凝は、中村孝道の真須美鏡を元にして言霊による宇宙や地球や人類の発生を説明しようとし、それによると、日本語の清音・半濁音・濁音を合わせた75音は「こえのこ」と呼ばれる神霊元子であり、この神霊元子の発生が宇宙を誕生させ、至大天球と言われる儒教の天空宇宙観を思わせる宇宙空間はこの神霊元子による言霊パワーによって形成され、その天球の中心部に大気が結晶して「地球」になったと主張する。
さらには、最初の人間達は、土の中で何年も過ごして、体が成熟すると土から出て来て爬虫類のような姿で何年も過ごし、その後で脱皮して人間の姿になったと言う。
人間は、眼・耳・鼻・舌・身・意識の「六識」を持ち、欲である「七識」と良心である「八識」、そして仏の智である「十識」を持つ、という実に仏教的な人間観を持っている。
大石凝は、宇宙を司るのは天御中主で、地球を司るのは大国主だとし、事代主は75音を司り、スクナビコナは外国語を司るとしたが、大国主が司る日本語は宇宙発生時以来の75音であり、日本語は世界言語のルーツだとまで主張した。
【神道シリーズ・シーズン3(思想編)】第15回・大国隆正と国家神道
明治以降、平田篤胤の思想の影響を受けた者たちは、基本的に、人は死後、地球上の周りにある幽界という空間を霊魂となって彷徨い、体は風、火、土、金というエレメントになって循環し、やがてはそれに魂が宿り、人間は再生する、という道教的な死生観と、地球を創生したのは日本の神のイザナギとイザナミであるからして、日本の天皇が全世界の上に総主として君臨すべし、という超誇大妄想的天皇世界総主論だけは引き継ぐという傾向を共有していたが、本田親徳は、平田思想の中でも特に人と神霊とのコミュニケーションに興味を持ち、その研究と実践のほとんどは神霊の人間への憑依を目指すことに向けられた。
死者や動物や神仏の憑依は修験道や民間信仰の間にも古くからあったが、そうした憑依が可能なのは特定の能力を持った者か、あるいは神や仏や死者などから指名された特定の人物に限られていたが、本田は、誰でも一定の術式に従って行えば神霊の人への降臨・憑依は可能であるとした。
本田は、神憑りには36通りの在り方があると言ったが、それを大きく3つに分類して、霊がいきなり憑依する場合、一部の素質のある人が一人で神霊を呼び寄せる場合、そして本田が提唱した審神者と神主を通じて、たとえ能力者や偶然の邂逅でなくても意識的に神霊を呼び寄せ憑依させることが可能な鎮魂帰神法があり、本田は自ら開発したこの鎮魂帰神法を通じ、神の言葉を直接聞くという方法で古事記理解の正誤を確認するという作業を行い、「難古事記」という著作にまとめた。
それによると、人はみな神の子であり、直霊という正しい心の霊を持ち、勇気と調和と愛と探求の心を呼び出す荒魂、和魂、幸魂、奇魂という四つの魂を持っているとし、善を行えばこれらの魂の量は増え、悪を行えば減るとした。
儒教の魂観の擦り直しと見れないこともないが、とにかく、本田の神霊降臨術・鎮魂帰神法は、その後、弟子の
長澤雄盾を通じ、大本教の出口王仁三郎や大本教を経た神道天行居の友清歓真ら多数の平田系神道カルト教祖たちに伝えられ、明治以降、古神道を名乗る平田派神道系カルトの中核的思想となって行った。
本田の鎮魂帰神法を継いだ者たちは、鎮魂帰神法とともに平田篤胤の超誇大妄想とも言える
天皇世界総主論、つまり、地球上の世界を創ったのは日本の神だから天皇が世界を治めるべきだと言う部分を強く受け継いでおり、彼らが本田の鎮魂帰神法による神託を担保とし、彼らはますます狂信的に持論にのめり込み、それは世界恐慌後の社会不安が広がる中、その狂気は国民を戦争の時代へと引き込んでいくこととなったのである。
【神道シリーズ・シーズン3】(戦後編)第61回・儒教招魂社・靖国神社その①
靖国神社のルーツを辿ると、江戸初期の水戸藩主・徳川光圀が唱える南朝正統論の中で、特に天皇の為に命を尽くして戦死した楠本正成を崇敬し、現在の神戸市中央区の湊川神社のルーツとなる楠木正成の招魂墓碑を建てたが、この水戸藩に伝わる楠木正成崇拝は、江戸中期以降、倒幕を目指す勤王の志士たちの間に広まり、幕末になると、この水戸藩の藩士たちと接触のあった長州藩士たちが下関戦争で戦死した長州藩士たちを下関桜山に招魂場を作り、儒教式で戦没者たちを祀ったところから始まる。
この動きは、慶応4年1968年に新政府が京都東山に幕末の勤王の志士たちの戦死者たちを祀った霊山官祭招魂社を創建し、この儒教的な招魂思想は明治2年1869年の東京招魂社の創建に繋がり、さらにこの儒教的招魂社が明治12年1879年に靖国神社と改称され、儒教的招魂社でありながら神社の体裁を整えて行くこととなる。
招魂とは、亡くなった人の魂を呼び寄せることで、儒教では、魂は不滅のものだり、死後もこの世
に存在すると信じられていた為、招魂の儀式は行われていた。儀式では、故人の墓の前で食べ物や飲物、香などを供え、亡くなった人の冥界での幸せを祈った。招魂の儀式は、故人の魂を慰め、冥界で幸せに暮らせるようにするために行われるが、同時に、生きてる者たちの心を慰める意味もあった。
故に、靖国神社の前身である東京招魂社の時代には、戦没者たちは忠魂霊と呼ばれ、天皇の為に戦争で戦い、その忠誠の下で戦死した忠臣たちの霊魂を招魂し、天皇が参拝して慰霊する、という形が採られていた。しかし、明治12年になり、靖国神社と改称され、神社の形式を採るようになると、儒教的な招魂思想はそのままで、外観や祭祀の在り方だけを変え、やがて、明治37年1904年の日露戦争の頃になると、それまで忠魂霊と呼ばれていた戦没者たちは英霊と呼ばれるようになった。この英霊という言葉は、水戸の儒学者・藤田東湖の中国宋代の忠臣文天祥(ぶんてんしょう)の詩から引用した英霊という言葉から来ており、やはり、儒教の思想がその底辺にあった。
そして、やがて靖国神社は、このように儒教的な招魂思想に神社という衣をかぶり、日清日露戦争、第一次大戦と進むにつれ、戦没者の数が急増する中、大きな発展を遂げることとなったのである。
【神道シリーズ】第23回・春日信仰(藤原氏の正体(百済人)・真言密教系神道(両部神道)の影)②
春日大社は藤原氏(不比等・永手ら)によって政治的な意図で作られた神社であることは①の方で説明しましたが、そもそもこの藤原氏とは何なのか?
今回はそれと三社託宣(春日・八幡・伊勢)に見られる両部神道(真言密教が作った神道)の影響に焦点を当て春日大社創建の背景を見て行きたいと思います。
藤原氏の出自に関してはさまざまな研究と見解がありますが、どれも共通していることは「日本人ではなく百済人である」という点です。
朝廷の祭祀を司る役職にいた中臣氏の家系の中に滅亡百済王族がどのように入り込んで来たのか?
百済王族は、藤原氏の計らいで百済王氏としてその後も朝廷の中で生き続け、桓武天皇の母親(高野新笠)などを輩出したりしてますが、百済村と呼ばれる地域に住み、百済人の濃厚な血筋を維持しながら朝廷内で生き続けて行きました。
一方、三社託宣では、春日・八幡・伊勢の三社が同時に儒教・道教的な道徳的訓示を託宣発表するという事になり、その中でアマテラスは真言密教理論に基づく両部神道で描かれた雨宝童子という16歳の少女として描かれています。
百済系の藤原氏の政治的思惑と興福寺のバックアップの中で生まれ、真言密教によって理論づけされ春日信仰は誕生します。
【神道シリーズ・シーズン3】第16回・本田親徳と鎮魂帰神法
明治以降、平田篤胤の思想の影響を受けた者たちは、基本的に、人は死後、地球上の周りにある幽界という空間を霊魂となって彷徨い、体は風、火、土、金というエレメントになって循環し、やがてはそれに魂が宿り、人間は再生する、という道教的な死生観と、地球を創生したのは日本の神のイザナギとイザナミであるからして、日本の天皇が全世界の上に総主として君臨すべし、という超誇大妄想的天皇世界総主論だけは引き継ぐという傾向を共有していたが、本田親徳は、平田思想の中でも特に人と神霊とのコミュニケーションに興味を持ち、その研究と実践のほとんどは神霊の人間への憑依を目指すことに向けられた。
死者や動物や神仏の憑依は修験道や民間信仰の間にも古くからあったが、そうした憑依が可能なのは特定の能力を持った者か、あるいは神や仏や死者などから指名された特定の人物に限られていたが、本田は、誰でも一定の術式に従って行えば神霊の人への降臨・憑依は可能であるとした。
本田は、神憑りには36通りの在り方があると言ったが、それを大きく3つに分類して、霊がいきなり憑依する場合、一部の素質のある人が一人で神霊を呼び寄せる場合、そして本田が提唱した審神者と神主を通じて、たとえ能力者や偶然の邂逅でなくても意識的に神霊を呼び寄せ憑依させることが可能な鎮魂帰神法があり、本田は自ら開発したこの鎮魂帰神法を通じ、神の言葉を直接聞くという方法で古事記理解の正誤を確認するという作業を行い、「難古事記」という著作にまとめた。
それによると、人はみな神の子であり、直霊という正しい心の霊を持ち、勇気と調和と愛と探求の心を呼び出す荒魂、和魂、幸魂、奇魂という四つの魂を持っているとし、善を行えばこれらの魂の量は増え、悪を行えば減るとした。
儒教の魂観の擦り直しと見れないこともないが、とにかく、本田の神霊降臨術・鎮魂帰神法は、その後、弟子の
長澤雄盾を通じ、大本教の出口王仁三郎や大本教を経た神道天行居の友清歓真ら多数の平田系神道カルト教祖たちに伝えられ、明治以降、古神道を名乗る平田派神道系カルトの中核的思想となって行った。
本田の鎮魂帰神法を継いだ者たちは、鎮魂帰神法とともに平田篤胤の超誇大妄想とも言える
天皇世界総主論、つまり、地球上の世界を創ったのは日本の神だから天皇が世界を治めるべきだと言う部分を強く受け継いでおり、彼らが本田の鎮魂帰神法による神託を担保とし、彼らはますます狂信的に持論にのめり込み、それは世界恐慌後の社会不安が広がる中、その狂気は国民を戦争の時代へと引き込んでいくこととなったのである。
【神道シリーズ・シーズン2】第40回・熊沢蕃山【後編】人物史編(あえて選んだ不器用な生き方)
熊沢蕃山は、元和5年(1619年)京都稲荷(現・京都府京都市下京区)の浪人であった父・野尻藤兵衛一利と母・亀女の6人兄弟の長男として生まれたが、口減らしのため8歳の時、母方の祖父、熊沢守久の養子となり熊沢姓を名乗るようになった。
15歳の時、池田輝政の女婿であった丹後国宮津藩主京極高広の紹介で輝政の孫である備前国岡山藩主池田光政の児小姓役として出仕したが、寛永14年(1637年)島原の乱に参陣することを願い出たが受け入れられず一旦は池田家を離れ、近江国桐原(現・滋賀県近江八幡市)の祖父の家へ戻り、その時、同じ近江の小川村に帰郷していた中江藤樹の門下に入り陽明学を学ぶことなったが、ここで蕃山の思想の基礎が築かれることなった。
藤樹への入門が功を奏し、再び京極高広の紹介で岡山藩に出仕することとなったが、当時の藩主・池田光政は陽明学に傾倒しており、また中江藤樹の信奉者でもあったことから蕃山を大歓迎して迎えた。
その後、光政と蕃山は最強のタッグを組み、儒教的経世救民論による藩政改革を推し進めて行き、
大飢饉や大洪水の被害を最小限にとどめるよう農民の生活を中心に考えた徳政を進めて行った。
しかし、陽明学的立場より身分の上下無関係に藩内の役職者たちに手厳しい指導と批判を続けたため、藩内の保守派から猛烈な反発を受け、39歳にして隠居することを余儀なくされた。
岡山藩を去った蕃山は、その後、京都、明石と居住地を変えて行くが、50歳で明石に移転して以降は厳しく藩主光政や、かつての盟友だった津田重二郎たちを批判するようになり、池田光政と蕃山の関係は悪化の一途を辿って行った。
やがて明石も追われた蕃山は、大和国の郡山(現・奈良県大和郡山市)へ移り住み、自らの思想の仕上げ作業とも言える著作活動を続け、67歳にして、中国の呉の泰伯イコールアマテラス論を格子とする儒教的神道論の書かれた「三輪物語」や、69歳にして幕府の参勤交代制度の批判や武士の帰農主義などを書いた「大学或門」を著し、結局後者の「大学或門」が幕府批判と取られた為、
古河藩預かりの蟄居謹慎の処分を受け、古河の地で残りの4年間の人生を過ごす事となった。
陽明学の至良知にこだわったが故に、せっかくの幕府の将軍指南役の職のオファーも断り、さらには生涯蟄居という割に合わない処遇を受けてしまうという、ある意味、才能に溢れながらも不器用な人生を送ってしまった熊沢蕃山であった。
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第60回・長澤雄盾・水谷清・岡田茂吉・九鬼盛隆・鬼倉足日公
平田篤胤にルーツを持つ平田系神道カルトは、明治以降の展開として、その中核になったのは、平田の死者の黄泉がえりや死者の生まれ変わりなどの体験に基づいた幽界研究にルーツを持つ霊界と現界との交流を目指す本田親徳の確立した本田霊学・鎮魂帰神法にあり、この神憑依法を駆使することにより、古事記に登場する神々を降ろし、実際にインタビューしてみると実は古事記に書かれたことはすべてデタラメで、実は、篤胤が言っていたように宇宙を創ったのも地球や月や太陽を創ったのも日本の神々で、気も遠くなるような太古の時代には地上には日本しかなく、日本の天皇が全世界を君臨しており、世界中の人たちは日本の神道を信仰していたと言う。
しかし、長い長い歴史の中で地上は乱れ、神道は間違って伝わり、それがキリスト教になったり仏教になったり儒教や道教になったりとし、まるで世界は仏教で言うところの末法の世の厭離穢土となってしまったと言う。
こうした超誇大妄想といういうべきオカルト的新興宗教勢力はみずからを古神道と名乗り、この信念の下、言霊学や神代文字や神霊学などを産みだし、このスピリチャリズムは、世界大戦や世界恐慌の中で混乱した当時の日本社会の中で軍人を中心に多くの信者が集まり、太古の日本や世界天皇としての天皇の復活など、ウルトラ国粋主義者たちの間で強い支持者たちを集めた。
長澤雄盾は、本田霊学の直系の継承者として大本の出口王仁三郎らに鎮魂帰神法を伝え、水谷清は、大石凝眞素美の言霊学を伝え、九鬼盛隆は、道教仙術家として長澤から鎮魂帰神法を学び、浅野和三郎は、著名な翻訳家・英文学者でありながら息子の病気をきっかけに神霊療法に興味を持ち、大本に入信するが、後に心霊科学研究所を設立し、日本におけるスピリチャリズムの先駆けとなった。岡田茂吉は大本教を経たのち、自らの神秘体験を通じて世界救世教を設立する。鬼倉足日公は、右翼団体玄洋社のメンバーで朝鮮や中国大陸で様々な諜報活動に励んでいたが、やがて神祇伯の白川伯家神道の復活を目指し、すめら教を創立した。
【神道シリーズ】第39回・両部神道①(まずは真言密教とは何か?から)
いよいよ日本の中世から近世にかけて圧倒的な宗教的ヘゲモニーを握った真言密教系神道である両部神道のお話に入りますが、その前にまずは真言宗(真言密教)とは何か?を理解していないと、両部神道のみならず、その後に展開された伊勢神道や吉田神道という中世から近世にかけて重要な役割をした中世神道を理解することが出来ません。
ちなみに、伊勢神道は両部神道(真言密教系)と道家(道教)の結合によって生まれ、さらに吉田神道は、その伊勢神道(両部神道+道教)に儒教思想が加わって出来ています。
奈良時代までは雑密と言う未完成な呪術中心の密教の下で朝鮮半島由来の古代信仰(神祇信仰)と習合が進み、神宮寺の形成により雑密仏教が神祇信仰を支配する仕組みが出来ていましたが、中世以降は純密と言われる真言宗系密教が神祇信仰をその傘下において発展していきます。
【神道シリーズ・シーズン3】(戦後編)第62回・儒教招魂社/靖国神社その②
靖国神社は、明治2年1869年、大村益次郎の献策のもと、明治天皇の勅許をうけて、東京九段の土地に東京招魂社として誕生し、明治12年1879年には社名を靖国神社と改め、中身は極めて儒教的な招魂社でありながら外装は神社の装いを採ることとなり、以後、戦前戦後を通じて戦没者の魂を招魂し、天皇の参拝を以って慰霊するという形式を続けていたが、この形式は戦後の1978年に第6代宮司の松平永芳がA級戦犯を合祀するまでは国内外からの干渉や非難批判を浴びる事なく粛々と続いていた。戦後の靖国神社は、いかにわだかまりなく天皇の参拝を続けることが出来るようになるかに焦点を置き、A級戦犯合祀には極めて慎重な姿勢を採ってきた。しかし、第5代宮司筑波藤麿が 1978年3月20日に急死すると、国内の要職にあった極右勢力は、右翼思想家の平泉たかしや元最高裁総裁の石田和外や元A級戦犯容疑者で参議院議員の青木一男らが強力に松平永芳を推し、結局同年に松平が第6代靖国神社宮司に就任することとなった。
松平は、特に、戦後、きゅうじょう事件と言って、昭和天皇を殺害して幼い皇太子を擁立して戦争継続を行うというクーデター計画を立てた陸軍将校たちを門下生に持つ極右思想家の平泉きよしの強い影響を受けており、この松平の代より極東軍事裁判批判や東京裁判史観批判や大東亜戦争肯定論などが訴えられるようになった。
松平は、入江すけまさ侍従を通じて、昭和天皇の側近である徳川侍従長にA級戦犯の意志を伝えたが、昭和天皇は徳川侍従長を始め、複数の侍従たちにA級戦犯合祀への不満を述べており、それが徳川侍従長から入江侍従を通じて松平宮司に伝わったものの、昭和天皇の意志は無視したままA級戦犯の合祀は実行された。
この事は、入江氏の死後、入江侍従日記から伝えられていたのだが、靖国支持派はこれを徳川侍従長の陰謀と受け止めていたものの、2000年代になってから卜部侍従日記や小林忍侍従日記や富田メモが発掘されることにより、徳川侍従長陰謀説は否定されることとなった。
いずれにせよ、靖国問題とはこの松平永芳宮司によるA級戦犯合祀から始まっており、靖国神社の歴史は松平前と松平後で分けられ、そしてこのことが靖国問題は永遠に解決できない問題としてしまったのである。
【神道シリーズ・シーズン3】(戦後編)第64回・儒教招魂社・靖国神社その④
明治2年に東京招魂社として明治天皇の勅命により創建された時に合祀されたのは戊辰戦争での官軍の戦没者たちだけだったのが、明治14年に靖国神社と改名し、明治16年には幕末の薩長土佐の勤王の志士たちが国事殉難者として合祀され、本来であれば、天皇の為に戦って戦死、ないしは暗殺された者たちだけを天皇の忠臣の魂、つまり忠魂として祀り、天皇が親拝、つまり、直接参拝して顕彰慰霊するという性質の招魂社でったのだが、その後、日清日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵などと戦没者が急増するうちに、戦地での病没者や軍属たちで戦地で亡くなった者たちも祭神として祀られるようになり、第一次上海事変以降は司令官の責任自決までもをが合祀の対象となって行った。
日中戦争・太平洋戦争を経て終戦を迎えると戦没者の数は飛躍的に跳ね上がり、戦後の合祀作業は困難多忙を極めるものとなった。戦後は、GHQの指導下、政教分離の立場から日本政府と靖国神社側の協力関係は戦前のようにスムーズには行かず、大きな制約を受ける中、水面下で厚生省の引揚者援護局と、旧陸海軍で構成する復員局と靖国神社、3者の間で目立たぬよう粛々と戦没者情報の交換と靖国神社での合祀作業が続けられた。
戦前は、靖国神社そのものが内務省と陸海軍省の管轄下だった為、合祀作業はスムーズに進んでいたものの、戦後は、靖国神社は民間の単一宗教法人となり、陸海軍省は廃止され、内務省は厚生省として生まれ変わっており、新憲法下、政教分離の原則が厳しくなり、合意作業は困難を極めることとなった。
しかし、厚生省の援護局も、復員局も、そして靖国神社も旧陸海軍の軍人たちが主要なポストをしめており、そして、戦前と同様に合祀がそのまま遺族恩給支給の資格対象とされることから、政府と各都道府県と靖国神社の緊密な連携が必要とされた。
【神道シリーズ・シーズン3】(戦後編)第63回・儒教招魂社・靖国神社その③(富田メモ)
日本の神社で明治以前に実在の人物が合祀されたのは、古代から中世にかけては恨みを以って亡くなった豪族や貴族の怨霊を鎮めるための目的で建てられた御霊神社や、近世になると、道教と儒教に基づいた神道理論を立て、時の権力者であった豊臣秀吉や徳川家康に取り立てられた吉田兼倶の創設した吉田神道に基づく、権力者や大名藩主の死後の神格化の為の神社などに限られており、少なくとも、戦没者が神として祀られることは一度もなかった。また、人の死後の埋葬に
関しては、鎌倉時代前頃までは、豪族・貴族は、中国や朝鮮半島と同様に墳丘墓が一般的で、庶民に至ってはそのまま死体が道端に遺棄されるのが普通であった。しかし、仏教伝来以降、豪族貴族皇族および天皇に至るまで仏教式に火葬して墓に納骨する者が増え、鎌倉時代以降は、庶民もそうした仏教的な火葬を行うのが一般的になってきた。幕末頃から造られた神式葬儀とは、中身は儒教の葬儀と同じで、火葬したり四十九日とかいう観念も仏教と同じものである。こうした実在人物の死後の神社合祀として戦没者が祀られるのは靖国神社が日本史上初であり、それまでの日本の伝統的死生観とはまったく異なるものであった。
これはむしろ、中国の儒教や道教で死後軍神として祀られた関帝廟のようなもので、しかも、歴史的に一座に複数の神が祀られた神社はなく、靖国神社のように一座に240万柱もの神が鎮座するというのも靖国神社のみである。よって、これは日本の伝統ではなく、靖国神社という新宗教による合祀方式である。
また、合祀基準も、当初は戊辰戦争や西南戦争で官軍として従軍し、戦死した戦没者だけが対象だったのが、明治16年に国事受難者全体が合祀の対象となると、幕末の勤王の志士で幕府と戦って無くなった長州薩摩土佐などの藩士や暗殺された藩士たちも合祀の対象となった。
しかし、この無原則な合祀対象の拡大は、日清日露戦争以降戦没者の数が跳ね上がると同時に
国威高揚の意味からも従軍者で病死や自殺した者から軍属全体にまで合祀対象が広がり、
さらには、日中戦争や太平洋戦争に突入すると、そうした合祀対象の把握さえ困難になって行ったのである。
【神道シリーズ】特別会(初詣・七五三・七夕<道教>おみくじ<仏教>と神道無関係w)
初詣、七五三、七夕、おみくじと言えば、日本に長く根付いた「日本特有の伝統文化」であり「やはり日本は神道だなあ」と思いたいところですが、
ただ、実はこれらはまったく神道には無関係な、道教(陰陽五行>陰陽道)や仏教からの習慣で、さらには、意外と歴史が浅く、おみくじ(平安時代)以外では、庶民の間に初詣、七五三、七夕が普及したのは江戸時代以降、しかも、本格的に世間一般の行事になったのは明治末以降というのが現実です。
おみくじを始めたのは天台宗(比叡山)18世の元三(がんぞう)太師と言われた良源上人で、比叡山の延暦寺の根本中堂で発行したのが初めてと言われます。
初詣は、儒教や道教や仏教(大乗仏教)の伝統を持つ東アジア諸国では名称は異なれ、新年を祝う東洋的宗教行事として中国(道教や仏教寺院で)、韓国(仏教寺院で)、ベトナム(仏教寺院)などで日本と同様に行われています。
日本で初の「初詣」と言われるのが源頼朝の鶴岡八幡宮での新年の詣でだと言われますが、これは道教の陰陽五行思想を継ぐ陰陽道の方角説から生まれたもの(恵方詣で・大歳神<陰陽道神>)で、庶民の間で寺社への信念の詣でが広がるのは江戸時代末期になってから。
七五三は、道教の「天地三歳論」をルーツとして、江戸中期の呉服商人が広めたと言われます。
これを考えると、元々日本にあったものと思ってるものでも実は外国の宗教習慣や思想から来てたり、それで日本へ伝わってからの歴史が意外と浅い(江戸時代以降とか明治以降とか)ということがよくあります。
【神道シリーズ・シーズン3】第3回・明治以前より始まっていた廃仏毀釈①(水戸藩<前期・後期>・長州藩)
一般的にすべてを丸めて廃仏毀釈と呼ばれることが多いが、実は廃仏毀釈という概念は大きく三つのジャンルに分類される。一般的に言われるのは大政奉還直後から明治4年ぐらいの4年間ぐらいの間に松本・苗木・佐渡・隠岐など一部の地域で行われた過激な廃仏毀釈活動で、一つは江戸初期より水戸藩や岡山藩で行われていた寺社統廃合政策と幕末に水戸学や国学に影響されて行われたより進んだ寺院統廃合であり、
いまひとつは明治以降明治10年過ぎ頃まで続いた新政府による神仏分離政策である。
広義での廃仏毀釈には江戸初期より水戸藩・岡山藩で行われた儒学的な廃仏主義・祭祀思想に基づく寺社統廃合より始まり、当初は仏教の完全否定ではなく、無住の寺、宗教活動をしていない寺、祈祷のみで葬儀を行っていない寺などが統廃合の対象となっていた。
しかし、幕末になると後期水戸学、陽明学、平田国学に影響されてより過激な廃仏思想に基づく寺院統廃合が進み、薩摩藩のように藩内の寺院がゼロになるような藩も出て来た。
危険な思想の兆しは長州藩にみられる淫祠の破却思想で、これは荻生徂徠による儒教経典礼経によるもので儒教的な排仏主義から来ている民間信仰破壊で、民衆の最も身近な信仰対象である小祠、堂宇、石仏、庚申塚、地蔵菩薩像などが破壊尽くされ、民衆を不安と恐怖のどん底に突き落とす事となった。
確かに明治以前の寺院統廃合においては明治以降のような暴徒による暴力的な廃仏毀釈活動は見られなかったものの、長い歴史の中で定着していた民間信仰の破壊や火葬仏教葬儀の廃止など、国民の伝統を破壊する活動は続けられた。それまで仏教の神々を祀っていた権現社や仏教に帰依した氏神を祀っていた明神社は古事記や日本書紀に出てくる神々に祭神に変えられ、新設神社とされ、ありもしなかった由縁や社伝を付け加えられて行った。
藩主たちは儒学や国学に基づき権現社・明神社の神社化を民衆の抵抗を抑えながら進めて行ったが、彼らの提唱する神道なるものにより民衆の間に生まれた心の空白を埋めることはできなかった。なぜならもともと仏教に無関係な古事記日本書紀に基づく神々の信仰などというものは存在しなかったからである。
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第22回・宮地水位と宮地神仙道
嘉永5年1852年に土佐の国潮江村(現・高知市土居町)に潮江天満宮の祠官の家に生まれた宮地水位の宮地常盤は、平田篤胤の没後門人で、異界と現界を往来し、道教の神仙思想と古神道を融合させた宮地神仙道の祖であった。水位は10歳の頃より父・常盤より脱魂法による異界訪問、つまり、特殊な瞑想法により、自分の意識が、平田篤胤が唱えた幽冥界に飛び、異界を彷徨い、また現実の世界に戻ってくる、という修行を繰り返していた。しかし、その父・常盤は、その霊能力が優れて門人を増やしたことや、当時、山崎闇斎の崎門派と言われた垂加神道が土佐の神職たちの間で中心となっており、垂加神道の儒教的要素を否定する平田国学を信奉する宮地常盤はまわりの神職たちから嫌われた為、潮江天満宮の祠官の職を追われてしまい、当時12歳だった宮地水位が父の祠官の職を継ぐこととなり、幼くして神職としての自覚を促される結果となった。
水位は、神職としてだけではなく、10代前半にして神職の身でありながら、高野山や法隆寺に住み込み、仏学などの見聞も広め、やがて17歳になると、四国の手箱山、石鎚山、金比羅を巡拝し、鉱山や薬草の知識に長けていた水位は、途中鉱山を発見したり、仙薬を開発したりしていた。
宮地水位は多数の著作を残しているが、彼の人生のほとんどは潮江天満宮の中での瞑想による異境訪問で費やされており、その異境訪問は、10歳の頃から53歳で帰幽するまで数百回におよぶと言われており、その異境、つまり平田篤胤の言う幽界での体験をまとめたものが「異境忘備録」という彼自身の著作であった。
客観的にはたから見れば、ただ単に神社の中で座って一日中瞑想にふけっているだけのように見えるものの、彼自身の中では何度も何度も頭のイメージの中で繰り返されっる異境幽界訪問であり、その幽界のイメージには一貫性があり、4層に分かれる神界と彼が呼んだ幽冥界の様子が「異境忘備録」には詳細に記述されている。
しかしながら、そこに描かれている神仙界の世界はまさに道教の神仙思想の描く神仙界に酷似しており、自らも土佐の高山手箱山で出会ったと言う推定年齢2300歳の朝鮮国から来た仙人・川丹に導かれた、と主張するが、水位に言わせれば、中国の道教とは、出雲の神の少名彦那が中国で作ったものであり、元は日本の神道であると主張する。
【神道シリーズ・シーズン2】第36回・平田篤胤【中編】「霊能御柱」篤胤の宇宙観・死生観
文化9年(1812年)、平田篤胤37歳のとき、相思相愛で結ばれた妻、織瀬を亡くし、これを契機に篤胤は亡き妻の死後のありかを気にかけ、間違っても師宣長が言うような黄泉の国という暗くて汚く恐ろしいところではなく、死後も自分の身の回りにいて自分を見守ってほしいという気持ちから人の死後の世界、幽冥界のイメージを作り上げ、「霊能御柱」という著書を書き上げた。
これは、篤胤の師である宣長の高弟子・服部中庸が宣長の著「古事記伝」の付録として書かれた宇宙形成論「三大考」をベースとして書かれているものだが、そもそも中庸自身も師宣長の宇宙観を逸脱して、
当時日本に流入した最新の西洋天文学の惑星宇宙の知識が導入されており、もともと一つであった天と地と泉、つまり、天津国と国津国と黄泉の国は、実は分離して太陽・地球・月となっており、
人は死ぬと黄泉の国、つまり月に行くのだという宇宙観・死生観になっていた。
篤胤は、この中庸の「三大考」という10段階の変化図を、人は死後黄泉の国、つまり月には行かず、あくまで人の住む地球上のどこかに魂だけは彷徨い続けるのだと言う幽冥界論を展開して書き換え、その10段階変化を自著「霊能御柱」の中に書き留めた。
自説をベースに書き換えられた服部中庸はそれでも篤胤に対して一定の理解を示したが、故・宣長の門人たちの間ではこうした篤胤による恩師宣長の根本思想、つまり、人は死後黄泉の国へ行くんだという主張を否定され、篤胤に対する反発は強まって行った。
篤胤の宇宙観や死生観は、仏経・儒教・道教陰陽五行、そしてキリスト教からの借用が多々見られるが、実は、これは借用というよりも、こうした宗教諸思想のいいとこ取りの総合作品と言った方が的確にその性質を示していると言える。
しかし、篤胤はそうした借用や盗用を否定し、彼に言わせれば、46億年前に宇宙や神々が誕生した時から神道はあり、仏経や儒教やキリスト教は、そうした皇国日本の神道が誤ってインドや中国や西洋に伝わったものだと主張し、皇国の神道がすべての宗教思想の起源であると居直り強弁するのであった。