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沖縄の原点・英祖王統と三山分裂
西暦1,313年10月10日
英慈が死去し、英慈の参男で玉城城主の玉城が第4代英祖王統王に即位する。玉城は自分の弟を玉城城主・玉城按司とし、拡張修築工事を行わせた。また、玉城は酒に溺れ、狩猟を好み、政務を疎かにし、道楽三昧の生活を送っていた為、人心が離れていった。
宇宙一元化 公式HP
http://universe-centralization.com/top.html
「琉球と蝦夷ヶ島の変動」第87回黒田裕樹の歴史講座 5/7
この動画は第87回黒田裕樹の歴史講座「鎌倉時代その2 ~琉球と蝦夷ヶ島の変動~」のうち「琉球と蝦夷ヶ島の変動」の講演を、令和4(2022)年8月に新たに収録したものです。
動画のレジュメは「黒田裕樹の百万人の歴史講座」から入手できます。ぜひご加入ください。過去からの全てのレジュメを読むことができます。今なら20,000円で永久会員です!
http://1000000reki.jugem.jp/
ブログ「黒田裕樹の歴史講座」
http://rocky96.blog10.fc2.com/
「黒田裕樹の歴史講座」講演申し込みサイト
https://kokuboukai.com/category/history-study-session/kuroda-hiroki/
黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編
https://www.mag2.com/m/0001672748
#黒田裕樹
#按司
#グスク
#擦文文化
#十三湊
#黒田裕樹の歴史講座
①旧石器時代~古琉球時代以前の先史時代~琉球王朝以前の古琉球時代(1322年ごろから1609年まで)までの画像と説明
沖縄県となる以前の状況は、おおまかに先史時代、琉球王国時代、琉球藩時代との経緯をたどります。
まず先史時代の農耕は紀元前8世紀頃ころから、本格的な農耕社会が成立したのは12世紀頃だとされています。
先史時代の旧石器時代の様子は県内最古、かつ日本最古の人骨が那覇市で見つかった山下洞人で、今からおよそ3万2千年前のものだと推測されています。
また、1967年に具志頭村(現在の八重瀬町)で発見された港川人骨はおよそ1万8000年前のものとされ、日本で初めて見つかった完全な形に近い旧石器時代人骨として有名であります。
英祖王統5代西威王を滅ぼした察度が治める中部の中山、承察度が治める南部の南山(山南)、帕尼芝が治める北部の北山(山北)たちが戦争を初めた。
この時代を三山時代と呼び、約100年続いた。
佐敷按司尚巴志が統一し首里城を王都とした。
これが第一尚氏王統の始まりである。
資料引用
WEB街道より
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/6252?p=2
著者紹介
山本博文(やまもと・ひろふみ)
東京大学史料編纂所教授
1957年、岡山県生まれ。東京大学史料編纂所教授。専門は日本近世史。東京大学文学部卒業。同大学院修了。文学博士。『江戸お留守居役の日記』(講談社学術文庫、日本エッセイスト・クラブ賞受賞作)、『歴史をつかむ技法』『「忠臣蔵」の決算書』(以上、新潮新書)、『日本史の一級史料』『天皇125代と日本の歴史』(以上、光文社新書)、『東大流 よみなおし日本史講義』(PHP研究所)など著書多数。ベストセラー「角川まんが学習シリーズ 日本の歴史」の監修も務めている。
琉球王国 国歌「石なぐの歌」
https://www.youtube.com/watch?v=hRW5lyLNxSo
琉球時代の面影 Old days of Okinawa YouTube 360p
https://www.youtube.com/watch?v=_1m2trmLuE4
沖縄県の歴史ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E8%B2%9D%E5%A1%9A%E6%96%87%E5%8C%96#%E6%97%A7%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3
沖縄の原人達ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%AF%E5%B7%9D%E4%BA%BA
八重瀬グスク「カニカマルー」の伝説や民話、桜の名所
八重瀬グスクは一名富盛城とも呼ばれ島尻の世の主、八重瀬の按司の居城であったと伝えられ、今から約600年前に築かれたのではないかといわれている。
現在でもグスク内には「城火の神」「ナカジク火の神」「グスク井泉」と呼ばれる三ヵ所の拝所・井泉があり、又「カニカマルー」の伝説や民話などが残されており村人たちの深い信仰の場となっている。
昔、八重瀬町富盛にいた大変美しい娘と位の高い男が恋に落ちました。
しかし、二人は身分が違いすぎるため、結婚することはできませんでしたが、人目を避けながら逢瀬を繰り返していく内に、娘はいつの間にか身ごもってしまいます。
妊娠したことが周りの人達に知られるとマズいことになる。
流産させようとしたが、お腹の中の赤ちゃんが語りかけてきます。
「もし私を産むのであれば、お母さんは死んでしまうかもしれないのですが、それでも私を産みますか?」と・・・
娘は、「自分の命を落としてしまっても、あなたの命が大切です」と言って、決死の覚悟で産みました。
その子の名前が「カニカマルー」と言い、八重瀬グスクに多大なる貢献をし電設や1や民話が残されました。
又沖縄県南部の桜の名所として知られており、毎年1月下旬から2月上旬にかけて「やえせ桜まつり」が開催されます。
久米島情話(島情) - 唄:吉里和美, 稲嶺八重子 -
https://www.youtube.com/watch?v=bGbVuguPxII
沖縄本島最南端の城跡 喜屋武岬(きゃんみさき)の 具志川城跡
具志川城跡概略
ここは沖縄本島最南端の城跡 喜屋武岬(きゃんみさき)の西海岸に突き出た断崖に築かれた城で、城門の東側以外は三方が海に面しています。城壁は高さが5~10mあり、陸続きの東側の城門は切石積みで、さらに崖を沿って野面積みの石垣がめぐらされています。正確な居城年代は不明ですが、伝承によると、久米島具志川城の按司(あじ:領主的豪族)が久米島を追われて喜屋武に逃げ延び、具志川城をだ築いたと言われています。
ウィキペディア具志川城 (糸満市)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B7%E5%BF%97%E5%B7%9D%E5%9F%8E_(%E7%B3%B8%E6%BA%80%E5%B8%82)
写真具志川城跡https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g1023466-d1373514-Reviews-Gushikawa_Castle_Ruins-Itoman_Okinawa_Prefecture.html#photos;aggregationId=&albumid=101&filter=7
糸満アン小 - 唄:糸数カメ
https://www.youtube.com/watch?v=HpYgbUFaygs
世界遺産 中城城 (歌:波田間武健&宮里恵美子)
中城城概略
創始は明らかではないが、14世紀後半頃迄に先中城按司(さちなかぐずくあじ)が数世代にわたり南の郭、西の郭、一の郭、二の郭の主要部分を築き上げ、1440年に読谷の座喜味城から移ってきた護佐丸盛春によって、三の郭、北の郭が増築され現在の形が完成したようだ。
2000年(平成12年)11月、首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されている
中城城ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9F%8E%E5%9F%8E
沖縄民謡 中城情話 歌:波田間武健と宮里恵美子
https://www.youtube.com/watch?v=OnI5131b7f4
世界遺産 今帰仁城 (歌:今帰仁の春 by 大城バネサ)
今帰仁城の歴史
『中山世鑑(ちゅうざんせかん)』や『中山世譜(ちゅうざんせふ)』によると「琉球は有史以来統一王統によって統治されてきたが、英祖王統玉城王代の延祐年間(1314年~1320年)に至って国政が乱れ、今帰仁按司と大里按司が離反して山北・南山を形成したため、統一王統は崩れ中山の勢力範囲が限定された」といわれます。その見解は、『北山由来記』や野史(やし)、各地の門中(もんちゅう)の持つ『元祖由来記(がんそゆらいき)』などの背景になっていて、今でも根強く語られる歴史認識となっています。しかし、現在の研究では三山は諸按司(しょあじ)の抗争から形成された小国家であると理解されています。
中国の史書『明実録』に登場する山北の王は、怕尼芝(はにじ)・珉(みん)・攀安知(はんあんち)の三王で、各王の交易記録を見ますと琉球国山北王怕尼芝(1383年~1390年)は7年間に6回、琉球国山北王珉(1395年)が1回の交易、琉球国山北王攀安知(1396年~1416年)が19年間に11回の交易を行っています。
交易は時の中国明との間に公的に行われ宝物として冠帯や衣服などの品々を賜りました。三山でも中山は最も数多くの進貢(しんこう)を行うとともに留学生を送り直接中国の学問や政治・社会制度を学ばせ、中国から技術を持った人々を帰化(きか)させるなど、大陸の新しい文化を積極的にとりいれていきました。そのことがやがて他の二つの小国家をしのぐ勢力を築くことになり、琉球を統一する礎(いしずえ)となりました。
「大城バネサ」
アルゼンチン生まれの日系アルゼンチン人2世(父親は沖縄県生まれの日系1世、母親は祖父母が沖縄県出身の日系2世)。祖父母が沖縄県出身のため、幼少の頃から沖縄民謡や日本の音楽に親しみ、日系人の間で開催されるカラオケ大会などで演歌を唄い始めた。3歳の時に最初に人前で唄った曲は、牧村三枝子の「みちづれ」。日本の歌(主に演歌)は、衛星放送の歌番組や日本の親戚から送られてくるミュージックビデオやカセットテープを何回も聴き、歌詞をアルファベットに直して独学で覚えた。
大城バネサ『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9F%8E%E3%83%90%E3%83%8D%E3%82%B5
今帰仁の春 大城バネサ
https://www.youtube.com/watch?v=2TDwYlE9f0Q
【忠臣護佐丸】琉球国中城(なかグスク) 平成30年(2018) 晩春
2018年の4月中旬、 沖縄県中頭郡中城村の中城(なかグスク)を訪れました。
築城は、14世紀後半頃迄に先中城按司(さちなかぐずくあじ)が
数世代にわたり南の郭、西の郭、一の郭、二の郭の主要部分を築き上げ、
1440年に読谷の座喜味城から移ってきた護佐丸盛春によって、
三の郭、北の郭が増築され現在の形が完成したとされています。
かつて、貿易が行われていた屋宜の港から2kmほど離れた標高160mの丘の上にあり、
東に太平洋、西に東シナ海、北東に勝連半島を一望できる要衝の地に築かれています。
中城城主の護佐丸盛春は勝連城の阿麻和利を抑える為に入城しますが、
阿麻和利の策略により、護佐丸に謀反の疑いありと誤解した中山王・尚泰久が中城に軍勢を派遣し、
護佐丸は中山の軍に抵抗することはなく、城門を開き自害したといわれています。
1853年に来島したペリー探検隊一行が現地調査を行い、
城壁やアーチ門の素晴らしさを賞賛し、画家のハイネもその時の絵を残しています。
2000年には、琉球王国のグスク及び関連遺産群として
ユネスコの世界遺産に登録されています。
護佐丸が築城した「座喜味グスク」→sm33092887
北山王の居城「今帰仁グスク」→sm33128989
阿麻和利の居城「勝連グスク」→sm33168574
お城→mylist/37297571
【肝高】琉球国勝連城(かつれんグスク) 平成30年(2018) 晩春
2018年の4月中旬、 沖縄県うるま市の勝連(かつれん)グスクを訪れました。
13~14世紀に茂知附(もちづき)按司(あじ)によって築城されたとされ、
勝連半島の付け根にある標高80m程の丘の上にあります。
15世紀の初め、阿麻和利(あまわり)が城主となり、
大和の鎌倉に例えられる程の繁栄をみせますが、
護佐丸・阿麻和利の乱で、中山(首里)の軍勢に攻められ、
勝連グスクは落城、阿麻和利は自害しました。
一の郭~四の郭と東の郭の五つの郭からなるグスクで、
布積みの綺麗な城壁に蘇鉄の木が印象的でした。
2000年には、琉球王国のグスク及び関連遺産群として
ユネスコの世界遺産に登録されています。
護佐丸が築城した「座喜味グスク」→sm33092887
北山王の居城「今帰仁グスク」→sm33128989
護佐丸最期の城「中グスク」→sm33203091
お城→mylist/37297571
【読谷山】琉球国座喜味城(ざきみグスク) 平成30年(2018) 晩春
2018年の4月中旬、沖縄県中頭郡読谷村にある座喜味(ざきみ)グスクを訪れました。
15世紀初期、読谷山の按司(あじ=王族)の護佐丸(ごさまる)が築城したと伝わり、
沖縄島中南部の座喜味集落の北端に位置し、標高127mの山頂に築かれました。
沖縄島中南部のグスクは琉球石灰岩崖上に築城されることが多いですが、
このグスクは国頭マージ(赤~黄色の土壌)の台地上に立地しています。
石灰岩の城壁は屏風状に屈曲しており、カーブの各角に丸みをもつ
沖縄特有の城郭形態をしており、アーチ型の拱門(きょうもん)の上部に
はめこまれているくさび石はこのグスクにしか見られないそうです。
2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺跡群」として世界遺産に登録されました。
動画の途中には泊城(トゥマイグシク)跡も登場します。
※城址・史跡巡り備忘録 殿、広告ありがとうでござる
※タグを追加してくれた方ありがとうございます
北山王の居城「今帰仁グスク」→sm33128989
阿麻和利の居城「勝連グスク」→sm33168574
護佐丸最期の城「中グスク」→sm33203091
お城→mylist/37297571
沖縄古武道 ‐ 本部御殿手古武術、上原清吉宗家による取手術
これって、レスリングじゃない?!
本部流
http://www.motobu-ryu.org/
最後に奥伝として、本部御殿手には武の舞とも呼ばれる舞いの手があります。空手が一般に型の中に技を隠
蔽したように、御殿手では舞いの中に取手などの奥義が隠されています。
「按司方の舞方ただおもてみるな わざにわざする奥手やりば」という朝勇師の琉歌は、この舞いの手の極意を詠ったものです。
人頭税はなかった-伝承・事実・真実 来間泰男(沖縄国際大学名誉教授)
2015/10/4収録榕樹書林刊「人頭税はなかった」発売記念トークイベント人頭税をめぐる議論の閉塞状況に斬り込み、新しい歴史像を追求した果敢なる挑戦!トーク出演:沖縄国際大学名誉教授 来間泰男さん来間泰男(くりまやすお)1941年、那覇市に生まれる。1965年、宇都宮大学農学部農業経済学科を卒業後、3年間、琉球政府農林局に勤めて、同大学院農学研究科(修士課程)に入り、1970年修了。1970年-2010年、沖縄国際大学、現在は名誉教授。著書に、『沖縄の農業』(日本経済評論社)、『沖縄経済論批判』(同社)、『沖縄経済の幻想と現実』(同社・伊波普猷賞受賞)、『沖縄県農林水産行政史』第1・2巻(農林統計協会・九州農業経済学会学術賞受賞)、『沖縄の米軍基地と軍用地料』(榕樹書林)、『沖縄の覚悟-基地・経済・“独立”』(日本経済評論社)など。現在、日本経済評論社から「沖縄史を読み解くシリーズ」を刊行中。第1巻『稲作の起源・伝来と”海上の道“』(上・下)、第2巻『<流求国>と<南島>』、第3巻『グスクと按司』(上・下)、第4巻『琉球王国の成立』(上・下)。
知念城跡
凸名称・知念グスク、知念城跡、知念城、知念森城、知念森グスク、知念城址 凸築城主・古城.天孫氏、知念按司、新城.内間大親 凸築城年・古城12世紀末から13世紀ごろ(推定)、新城15世紀後半 凸形状・山城(標高約100m) 凸指定文化財・国指定史跡(昭和47年指定)
糸数城跡/sm25932756
この動画は序盤の説明、城跡の撮影動画、一部省略した城跡までの車載動画の3つのパートに分かれています。
※グスクの撮影動画では明るくなるよう録画設定されていた為全体的に映像がまぶしくなっています、また使用したカメラの性質上手振れが激しくなっています。
補足・聞得大君職は王妃などの王族から選ばれました。
車載動画での字幕訂正
誤・佐敷、知念分屯基地→正・知念分屯基地
糸数城跡
凸名称・糸数グスク、糸数城跡、糸数城、糸数城址、 凸築城主・糸数按司 凸築城年・14世紀前半(推定) 凸形状・山城(標高約180m) 凸指定文化財・国指定史跡(昭和47年指定)
知念城跡/sm25948412
この動画は序盤の説明、城跡の撮影動画、一部省略した城跡までの車載動画の3つのパートに分かれています。
※グスクの撮影動画及び車載動画では明るくなるよう録画設定されていた為全体的に映像がまぶしくなっています、また使用したカメラの性質上手振れが激しくなっています。
※車載動画では分割時のミスにより同じ映像が2回流れる箇所があります。
浦添グスクと浦添ようどれ
凸名称・浦添グスク、浦添城跡、浦添大公園、浦添城 凸築城主・浦添按司 凸築城年・13世紀頃 凸形状・山城(約130m) 凸指定文化財・国の史跡 (平成元年指定)
尚巴志と関係のある主なグスク ※印が付いているリンク先は違う うp主があげた動画になります。
佐敷上グスク(さしきうぃー、1402年に島添大里グスクを攻略するまで居城)、島添大里グスクsm25104702(しまぞえおおざと、1402年に落城)、首里グスク※sm21572863、※sm8780732(しゅり、中山攻略後に居城)、今帰仁グスク※sm21580311(なきじん、1416年に落城)、南山グスク(なんざん、1429年に落城)、尚巴志のお墓※sm22485869
浦添城関連 http://www.urasoenavi.jp/tokushu/2014050100045/file_contents/urasoejyoato.pdf
http://www.shimatate.or.jp/20kouhou/simatatei/sima_32/sima32-25-27.pdf
島添大里グスクとミーグスク 【改訂版】
〇名称・島添大里グスク、大里城跡、島添大里城跡、大里城址公園 〇築城主・島添大里按司 〇築城年・不明 〇形状・山城(約150m) 〇指定文化財・国の史跡 (平成24年指定)
尚巴志と関係のある主なグスク ※リンク先は違う うp主があげた動画になります。
佐敷上グスク(さしきうぃー、1402年に島添大里グスクを攻略するまで居城)、浦添グスク(うえそえ、1405~6年頃に城主が滅ぼされる)、首里グスク※sm21572863、※sm8780732(しゅり、中山攻略後に居城)、今帰仁グスク※sm21580311(なきじん、1416年に落城、以後北山監視の為「北山監守」を派遣した)、南山グスク(なんざん、1429年に落城、三山統一、)、尚巴志のお墓※sm22485869
南城なび島添大里城跡 http://nanjo-navi.jp/spot/spot.php?id=9
沖縄の旅 11 「世界遺産 座喜味城跡
座喜味城(ざきみじょう)跡」は、1416年-1422年に読谷山の按司護佐丸(ごさまる)が築城したとされている。城門のアーチに楔石を用いており、アーチ門では古い形態とされる。