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ハチ公
忠犬ハチ公(ちゅうけんハチこう)は、日本の忠犬。大正末期から昭和初期にかけて、
東京市の渋谷駅まで飼い主の帰りを出迎えに行き、飼い主の死去後も約10年にわた
って通い続けて飼い主の帰りを待ったという逸話を残す。
犬種は秋田犬(あきたいぬ)で、性別はオス。名前はハチ。ハチ公の愛称でも知られる。
ハチが飼い主を待ち続けた渋谷駅の出入り口の前にはハチの銅像が設置されており、
この「忠犬ハチ公像」は渋谷のシンボルともなっている。観光名所としても有名である。
ハチの飼い主は東京帝国大学の教授である上野英三郎であった。彼は大変な愛犬家であり、出
かける時には渋谷駅までハチを伴うことも多かった。しかしながらハチを飼い始めた翌
年にあたる1925年(大正14年)に上野は急死した。
上野英三郎の死後も渋谷駅前で亡くなった飼い主の帰りを毎日待ち続けたハチの姿は、
新聞記事に掲載され、人々に感銘を与えたことから「忠犬ハチ公」と呼ばれるようになった。
さらに、1934年(昭和9年)には渋谷駅前にハチの銅像が設置されることとなり、その除
幕式にはハチ自身も参列した。
渋谷駅前に現れ故主を待つようになったハチは、通行人や商売人からしばしば虐待を
受けたり、子供のいたずらの対象となったりしていた。
一方、上野を迎えに渋谷駅に通うハチのことを知っていた日本犬保存会初代会長の斎藤
弘吉は1932年(昭和7年)、渋谷駅周辺で邪険に扱われているハチを哀れみ、ハチの事を
新聞に寄稿した。
その内容は人々の心を打った。ハチについては翌1933年(昭和8年)にも新聞報道され、
さらに広く知られるようになり、有名となったハチは「ハチ公」と呼ばれ、かわいがられるようになる。
ハチに食べ物を持参する者も多く現れるようになり、またその人気から渋谷駅はハチが
駅で寝泊りすることを許すようになった。
上野が死去してから10年近くが経った1935年(昭和10年)3月8日午前6時過ぎ、ハチは
渋谷川に架かる稲荷橋付近、滝沢酒店北側路地の入口(現在の渋谷ストリーム駐車場
入り口付近)で死んでいるのを発見された。満11歳没。ここは渋谷駅の反対側で、普段
はハチが行かない場所であった。
ハチの死後、渋谷駅では12日にハチの告別式が行われ、上野の妻・八重や、富ヶ谷の
小林夫妻、駅や町内の人々など多数参列した。また、渋谷・宮益坂にあった妙祐寺の僧
侶など16人による読経が行われ、花環25、生花200、手紙や電報、更には180,200円を超
える香典など、人間さながらの葬儀が執り行われたという。
星の界_初出歌詞版
事故での怪我を理由に、千葉の山奥に住まわされたお金持ちの息子の元へ
借金のため売られた娘が、30町(約3.3km)の雪道を、星を見上げながら歩くときに口ずさむ感じの間を入れて、当時の歌詞で制作してみました。
コーラスを入れたのは、歌詞に
無窮の遠(おち)に
いざ其の星の界(よ) 究めも行(ゆ)かん
と、
果てしない宇宙のその縁へ真理を探しに旅しようと唄う子を
独唱すなわち一人でネットの宇宙に送り出すのは忍びないなと。
歩き出しは独りでも、サポートを付けたかった。
というのも、
果てしない宇宙の縁なんて行けるはずがないことは分かっている。
なのに歩き続けるんだと唄っているように聞こえるから。
そんなこと無駄じゃんと迷い歩き出せない僕らへ届くように。
そう聞こえたから、自分もいくよ・・ということでコーラスを。
星の界は詩人杉谷代水の作詞で1910年(明治43年)に発表された。
しかし今に歌われる歌詞は、1935年(昭和10年)から1950年(昭和25年)の間に一番の4行目 ”いざ其の星の界” が ”いざ其の星影” に変えられている。
理由は不明だが、その間 1941/12/8-1245/8/15は太平洋戦争があった。
そのため一番内に同じ言葉を繰り返すという詞の構造を損ねてまでの改変が、単純な間違いではなく、何かの意図があるとすれば、戦勝国の国旗に見られる”星”とその”世界”に抵抗したのではないか?
と自分は邪推する。ここは 星の界 と唄うほうが意味が通じるし、
代水の想いを曇りなく伝えることになると信じる。
2番の銀河のよみは、初出では”ぎんか”と読む。
この読み方は今でも名前で使われることがあるらしい。
このほうが響きがキラキラしていて(ギラギラでなく)良きと思う。
動画の最後は広島大学図書館教科書コレクション画像データベースからの
初出本の画像です。当時の色使い、フォント等の雰囲気をお楽しみください。
尾瀬―山小屋三代の記 1984/04 by 後藤 允 (著)【アラ還・読書中毒】長蔵小屋に暮らし尾瀬を守った平野家の記録・水力発電(ダム)、道路建設計画を阻止。今の風光明媚は努力によって維持されてきた
平野長蔵 親子三代はつつましく
自然と共生する道を探してきた
四県の県境に尾瀬はある
水郷
願わくばあるがままの尾瀬の姿を維持したい。
長蔵・柚物乱獲、水力発電と激しく戦う 60才
二代目、長英·.明治36年~山守
三代目、長靖(ちょうせい)
自動車道陶止 三平峠で凍死 36歳
戰争
学者が実は賛成して(武田久吉)
利根発電:群馬県側を買収
県は道路建設
環境庁長官が歩いて、止めた
首一枚つながった
昭和10年 尾ヶダム計画
長英 出征
昭和46年大石長官
沼山も今はバスでしか入れない
鳩待峠も同じく
大石長官:国立公園にドライブウェイが通るのは良く無い。
国立公園の自然保護行政は弱い面があった。
田中角栄通産相
村は推進、国に散らばっている保護派を
尾瀬の自然を守る会
尾瀬の自然はかろうじて破壊から最後の一線で守られた。
マイカー規制:沼山峠側がゆるやか
後記
58年から3ヶ月74回の連載
「尾瀬 ひとと自然」
三代90年
東京の「江古田」植物化石層
長靖君とは高校以来の友人だった。
次男:大学生の時に水死
長男:北海道新聞に勤めるも、尾瀬に帰る。
お父さん以上に尾瀬を愛している。
沼渡船
尾瀬の熊はめったに襲ってこない
(熊目撃情報があった)
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【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第50回・岡本天明と日月神【前編】
岡本天明は、1897年(明治30年)12月4日 - 岡山県浅口郡玉島(現、倉敷市玉島)で豪農であった家に、父岡本藤太郎、母弥栄の三人兄弟の二男として生まれたが、父親が酒造のビジネスに失敗した為に天明が17歳の時に神戸に移転し、その後、上京して明治大学の夜学に通ったが、学費を自分で稼ぐ為に栃木の足尾炭鉱や北海道の炭鉱で働いたが、生活が続かず、東京に戻った後、無一文であった為、神戸まで無銭旅行で帰る事となった。神戸に戻るとたまたま開かれていた大本の神戸講演会に参加し、そのまま大本に入信することとなった。大本に入ると、彼の画家としての美術的才能が認められ、大本が買収した大正日日新聞の美術記者として働くこととなり、その後、同社の系列の金沢の北国夕刊新聞の記者となり、一時期名古屋で大本とは無関係の名古屋新聞の記者となるが、その後、昭和5年1930年に東京に大本の世界愛善新聞社が出来ると出口日出麿の強い勧めで記者として入社することとなり、天明の東京生活が始まった。その後、天明は大本と提携した中国の道教系慈善団体・世界紅卍会にも入会し、フーチーという卜占法を学び、その中で天日津久神が千葉の麻賀多神社の境内で祀られてるという神示を得、同地に向かい、その神社を発見すると同時に初めての日月神示という自動書記現象を体験した。時は昭和10年の大本第二次弾圧事件を過ぎ、既に太平洋戦争末期の昭和19年になっていた。大本で自動書記を行った出口なおは艮の金神が憑依した時も記憶があったが、天明は自動書記が行われた時の記憶は無く、完全に天日津久神に体も意識も乗っ取られた状態で自動書記が行われた。しかし、日月神示は意味不明の文字記号の集合体で天明本人にも解読出来ず、天明の三番目の妻・三典による解析で解読は進むこととなった。天明が大本から独立して「ひかり教会」を創立し、日月神示の示す「大立て直し」の活動を始めたのは戦後2年後の昭和22年1947年になってからであった。
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第37回・大本教と朝鮮半島
出口王仁三郎は、昭和10年1921年の第一次大本弾圧事件の後の入蒙以後からの5年間と、昭和10年1935年の第二次大本事件の2年前の1年間のトータル7年間に渡って自らが瞑想の中で見た霊界の様子を綴った
幽界物語全81巻を書き上げた。
大本では、霊界で起きた事件は大本で起き、さらに大本で起きたことは世界で起きると言う雛形論思想があり、故に幽界で起きた事は、たとえそれがいかに荒唐無稽な事であっても形を変えた比喩的な方法で大本、つまり顕界と言われる現実の世界でも形を変えて起こるのだと言う。
その幽界では、スサノオは天界より霊界のコーカサス地方に降臨し、カスピ海より西の中東からヨーロッパにかけての地域を統治していたが、数多くの邪神と戦う為に決意を新たにする為、母神のいる根堅洲国、つまり朝鮮半島に向かったが、その前に姉神のいる高天原、つまり、霊界における古代の富士山である綾部の弥仙山を訪ねたが、姉神天照は弟神が襲撃に来たと勘違いし、弟神スサノオが誠意を示すために姉神天照とカスピ海にて誓約を行う事となった。その後、スサノオは、根堅洲国である朝鮮に降り立ち、その地を長く治め、その後、息子の五十猛命とともに出雲に向かい、その後、オノコロ島と言われる日本列島を治めたと言う。
その霊界でのスサノオと朝鮮半島の歴史を反映するように、顕界、つまり現実世界の歴史では、大本の見解では、スサノオは、朝鮮半島のソシモリ、つまり、牛頭山である伽耶山に降り立ち、江原道を中心として伽耶を含む新羅を長らく治め、その後、息子の五十猛命とともに出雲に移り、日本の国造りに励んだと言う。
大本では、日本の古代国家は朝鮮の伽耶からの移民により成され、日本の皇統も檀君であるスサノオから続くものであり、日韓同祖論に基づく歴史観を持っている。
出口王仁三郎は、霊界で、ユダヤ人、トルキスタン人、コーカサス人、満蒙人、朝鮮人、日本人は同じセム語族に属するとという事実を見ており、一方、アラブ人、ペルシャ人、インド人、中国人はハム語族だとしている。
このセム語族説自体は王仁三郎の、霊界で見たとする妄想であるとしても、現在、日本の古代学者の間でも朝鮮南部の伽耶と呼ばれた地域から日本列島に移民した倭人たちが日本の古代国家を築いたのだというのは定説になりつつある。
しかし、この王仁三郎の霊界物語に始まる日韓同祖論は、その後、大本より派生した多くの平田神道系カルト教団にも引き継がれて行ったのである。
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第35回・第二次大本弾圧事件
1935年(昭和10年)12月8日、警官隊500人が綾部と亀岡の聖地を急襲した。当局は大本側が武装していると信じており、警官達は決死の覚悟であったが大本の施設をいざ急襲してみると、竹槍一本見つからず、幹部も信徒も全員が全くの無抵抗であった。王仁三郎は巡教先の松江市で検挙され、罪名は不敬罪並びに治安維持法違反。6日間の捜索で5万点の証拠品を押収し、取り締まりは地方の支部や関連機関にも及び、検束や出頭を命令された信徒は3000人に及び、最終的に987人が検挙され、318人が検事局送致、61人が起訴された。
この逮捕の後、特別高等警察の激しい拷問で起訴61人中16人が死亡している。
20名の信者が獄死あるいは発狂したと伝えられ、 異端審問とも言われた。王仁三郎の後継者と目された娘婿・出口日出麿は拷問により精神的異常をていし、王仁三郎は「日出麿は竹刀で打たれ断末魔の悲鳴あげ居るを聞く辛さかな」と辛い心境を詠った。しかし、こうした厳しい取調べにも関わらず転向者は少なく、王仁三郎・すみ夫妻のカリスマと人間性が信者達の抵抗を支えた。内務省警保局長の唐沢俊樹は京都府会議事堂で全国特高課長を集め「大本教は地上から抹殺する方針である」「わが国教と絶対相容れず、許すべからざる邪教」と宣言したが、翌日二・二六事件が勃発して現地視察も祝宴も取りやめとなった。つまり、第二次大本弾圧は226事件をまたいで行われたのだ。
後に同事件で逮捕・処刑された北一輝は大本と軍部の関係について訊問され、「大本教は邪霊の大活動」と述べて関連性を否定した。しかし、北は第二次大本弾圧の1週間前に王仁三郎にクーデター資金5億円を要求して断られており、しかも大本にも多くの皇道派将校が出入りしていたことから当局は一層大本と北の周辺を厳重に調査を進めていた。
しかし、当局が革新軍部と右翼勢力が大本事件に関係する可能性はなくなったと判断したためさらなる強硬手段を準備していた。
裁判前にも関わらず、政府は亀山城址にあった神殿をダイナマイトで爆破し、綾部や地方の施設も全て破壊、財産も安価で処分し、人類愛善会など大本関連団体も解散や活動停止に追い込まれ、出版物も全て発行禁止処分となった。
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第34回・昭和神聖会と昭和維新
第一次大本弾圧ののち、出口王仁三郎は、満蒙に神の国の建設を目指し内蒙古入りするが、張作霖に部隊に逮捕され処刑直前に命を救われるという九死に一生を得る体験をするが、その後は、開祖出口なお亡き後、大本は王仁三郎を中心に、なおの時代には曖昧だった教義を整理し、欲得ですべてが動く乱れた世界を正すために弥勒菩薩の降臨を求める昭和維新の運動を展開して行った。
王仁三郎の提唱する昭和維新は、腐敗した政財界を無くし、国民が国常立やその下で世界を統治する天皇を世界人民が崇敬し、世界の人民は人種宗教思想を超えて皆平等で階級の無い豊かな社会で暮らせるようにすると言うものであったが、この思想は、国常立や天皇を除けば、まさにマルクスレーニン主義、つまり、世界の労働者が団結し、資本家や政府を倒し、世界規模で搾取や階級の無い共産社会を築くという発想とまさに瓜二つであった。
王仁三郎は、一方では、世界宗教連合会を結成し、世界のありとあらゆる宗教の代表を集め、信仰の違いを超えての宗教界の団結を目指し、また、人類愛善会を結成し、当時、農業恐慌や東北地方の冷害干害で飢餓に苦しむ農民たちに二毛作や愛善陸稲と呼ばれる陸稲の栽培などを現地で実地指導して広め、日本全国で多くの飢餓農民たちを救ったりしたが、また一方では、満州事変以降進行する中国大陸での関東軍を中心とした軍事作戦の展開進行に対して絶大な支持と賛同賛美を送り、多くの軍人の支持を取り付ける事に成功している。
そして、昭和10年1935年の第二次大本弾圧事件の1年前には、昭和神聖会と言う、ありとあらゆる救国団体の大同団結を訴えた連合組織を立ち上げるが、この大本が主導した昭和神聖会の結成式には、内務大臣、逓信大臣、多くの国会議員、そして陸海軍の中将クラス以上の幹部軍人たち、全国の右翼団体、さらには、全国著名大学教授や著名文化人たちが多数集まり祝辞を述べ、中には日本初の女性解放運動家の平塚らいちょうまでも含まれていた。
こうした昭和神聖会の運動に賛同する国民は当時の日本の人口約4千万人のうち800万人、つまり5人に1人が賛同したほどに支持された。
そして、その賛同者たちの中には、王仁三郎の熱烈な信奉者で満州事変を企画実行した陸軍中将石原莞爾や、後に日中戦争で主要な働きをした陸軍大将板垣征四郎、さらには226事件でクーデター計画を実行した青年将校の西田税までもが含まれていた。
人道的な慈善活動と戦争推進論と言う両極端な思想に揺れた王仁三郎の皇道主義は、きたる第二次大本弾圧事件を跨いで、大本から派生した極右の神道系カルト教団も含め、日本の第二次世界大戦への道を確実に進めて行くこととなったのである。
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第33回大本教(その⑦)エスペラント語運動と王仁三郎の入蒙
第一次大本弾圧ののち、出口王仁三郎は、満蒙に神の国の建設を目指し内蒙古入りするが、張作霖に部隊に逮捕され処刑直前に命を救われるという九死に一生を得る体験をするが、その後は、開祖出口なお亡き後、大本は王仁三郎を中心に、なおの時代には曖昧だった教義を整理し、欲得ですべてが動く乱れた世界を正すために弥勒菩薩の降臨を求める昭和維新の運動を展開して行った。
王仁三郎の提唱する昭和維新は、腐敗した政財界を無くし、国民が国常立やその下で世界を統治する天皇を世界人民が崇敬し、世界の人民は人種宗教思想を超えて皆平等で階級の無い豊かな社会で暮らせるようにすると言うものであったが、この思想は、国常立や天皇を除けば、まさにマルクスレーニン主義、つまり、世界の労働者が団結し、資本家や政府を倒し、世界規模で搾取や階級の無い共産社会を築くという発想とまさに瓜二つであった。
王仁三郎は、一方では、世界宗教連合会を結成し、世界のありとあらゆる宗教の代表を集め、信仰の違いを超えての宗教界の団結を目指し、また、人類愛善会を結成し、当時、農業恐慌や東北地方の冷害干害で飢餓に苦しむ農民たちに二毛作や愛善陸稲と呼ばれる陸稲の栽培などを現地で実地指導して広め、日本全国で多くの飢餓農民たちを救ったりしたが、また一方では、満州事変以降進行する中国大陸での関東軍を中心とした軍事作戦の展開進行に対して絶大な支持と賛同賛美を送り、多くの軍人の支持を取り付ける事に成功している。
そして、昭和10年1935年の第二次大本弾圧事件の1年前には、昭和神聖会と言う、ありとあらゆる救国団体の大同団結を訴えた連合組織を立ち上げるが、この大本が主導した昭和神聖会の結成式には、内務大臣、逓信大臣、多くの国会議員、そして陸海軍の中将クラス以上の幹部軍人たち、全国の右翼団体、さらには、全国著名大学教授や著名文化人たちが多数集まり祝辞を述べ、中には日本初の女性解放運動家の平塚らいちょうまでも含まれていた。
こうした昭和神聖会の運動に賛同する国民は当時の日本の人口約4千万人のうち800万人、つまり5人に1人が賛同したほどに支持された。
そして、その賛同者たちの中には、王仁三郎の熱烈な信奉者で満州事変を企画実行した陸軍中将石原莞爾や、後に日中戦争で主要な働きをした陸軍大将板垣征四郎、さらには226事件でクーデター計画を実行した青年将校の西田税までもが含まれていた。
人道的な慈善活動と戦争推進論と言う両極端な思想に揺れた王仁三郎の皇道主義は、きたる第二次大本弾圧事件を跨いで、大本から派生した極右の神道系カルト教団も含め、日本の第二次世界大戦への道を確実に進めて行くこととなったのである。
安治川トンネル
安治川で忘れてならないのが、河底トンネルである「安治川トンネル」の存在であろう。日本初の、沈埋工法によるトンネルである。
安治川の両岸は特に往来が盛んで渡船航路も多数あったが、安治川での各渡船運航は困難を極めた。と言うのも、安治川は河川舟運の重要航路で運搬船が頻繁に行き交い、渡船はその航路を横に遮るからである。一方で船舶の高さ限界との関係から、架橋も容易でない。可動橋案も出たが、やはり舟運との兼ね合いで却下となった。
このため昭和初期、全国でも類を見ない河底トンネルが計画された。特に渡航量の多かった源兵衛渡跡に1935年(昭和10年)から建設が始められ、戦時中供出された鉄材を受けてまで工事は進み、1944年(昭和19年)に竣工した。約14m下にある川面下の通路まで、両岸のエレベーターや階段で降りる方式。かつては人用の他に車両用エレベーターもあった(排ガス問題などにより1977年に閉鎖され、ゴンドラの入口が封鎖された状態で残されている。車両用エレベーターを閉鎖した後にスロープ型のトンネルに改造する計画があったものの、地元住民の了解が得られず頓挫したという説もある)が、安治川への架橋が進んだ現在では、歩行者・自転車用のみが両岸1台ずつ運行されている。歩行者・自転車用の通路は幅約2m、長さ約80mになっている。渡船と同じく無償で、朝夕のラッシュ時には1時間あたり約250人の利用者があると言われている。なお、エレベーター運行は午前6時から午後11時まで(冬季は午後10時まで)。但し階段は24時間開放されている。階段にスロープは無い。
現在、防犯面などを考慮して両岸のエレベーターには運転者がついている。しかし大阪市の財政難などから、エレベーターを無人化して代わりに防犯カメラを増設する計画が出ている。
両岸にはエレベーターのための塔がそれぞれ立っており、JR西日本大阪環状線西九条駅~弁天町駅間の安治川鉄橋からなどの遠方でもよく見える。
アクセス
最寄交通機関(北側):大阪環状線・阪神西大阪線(2009年延伸線開通後は阪神なんば線に改称)の西九条駅から南へ300~400m。
最寄交通機関(南側):安治川トンネル前バス停(幹84)すぐあるいは地下鉄中央線九条駅北西約550メートル
住所
北側:大阪市此花区西九条2-1
南側:大阪市西区安治川1-2
エレベータ運転開始時刻 夏季(5月1日~10月31日)6時00分/冬季(11月1日~4月30日)7時00分
エレベータ運転終了時刻 夏季(5月1日~10月31日)23時00分/冬季(11月1日~4月30日)22時00分
エレベータ運転間隔 随時運転
[小山ひな子‛s 朗読AudioBook字幕付]昭和12年2月3日発行『尋常小学四年修身書-第四-渡邉崋山:孝行は自分の身も助ける』2019(令和1)0606木曇♪BGM昭和10年四年唱歌「渡邉崋山」
[小山ひな子‛s 朗読AudioBook字幕付]昭和12年2月3日発行『尋常小学四年修身書-第四-渡邉崋山:孝行は自分の身も助ける』StoryTeller:KoyamaHinako字幕入り朗読版2019(令和1)0606木:曇♪BGM:昭和10年:第四学年:児童唱歌「渡邉崋山の歌」
[小山ひな子‛s朗読AudioBook]昭和12年2月3日発行『尋常小学四年修身書-第四-渡邉崋山:孝行は自分の身も助ける』音声朗読版2019(令和1)0606木:曇
[小山ひな子‛s朗読AudioBook]昭和12年2月3日発行『尋常小学四年修身書-第四-渡邉崋山:孝行は自分の身も助ける』StoryTeller:KoyamaHinako音声朗読版2019(令和1)0606木:曇♪BGM:昭和10年:第四学年:児童唱歌「渡邉崋山の歌」
小山ひな子‛s朗読AudioBook字幕付]昭和12年2月3日発行『尋常小学四年修身書-第四-渡邉崋山孝行は自分の身も助ける』2019(令和1)0606木曇
[小山ひな子‛s 朗読AudioBook字幕付]昭和12年2月3日発行『尋常小学四年修身書-第四-渡邉崋山:孝行は自分の身も助ける』StoryTeller:KoyamaHinako字幕入り朗読版2019(令和1)0606木:曇♪BGM:昭和10年:第四学年:児童唱歌「渡邉崋山の歌」mp4動画
360_12_0.39_Apr102019昭和10年:第四学年:児童唱歌『渡邉崋山(歌詞付カラオケ)オルゴール』製作:小山ひな子1分37秒2019(平成31)0410水6.86MB640x480
昭和10年:第四学年:児童唱歌『渡邉崋山(歌詞付カラオケ)オルゴール』製作:小山ひな子1分37秒2019(平成31)0410水6.86MB640x480
昭和10年:第四学年:児童唱歌『渡邉崋山(歌詞付カラオケ)オルゴール』製作:小山ひな子1分37秒2019(平成31)0410水6.86MB640x480
昭和10年:第四学年:児童唱歌『渡邉崋山(歌詞付カラオケ)オルゴール』製作:小山ひな子1分37秒2019(平成31)0410水6.86MB640x480
児童唱歌『渡邉崋山』昭和10年.小学校四年.歌♪小山ひな子KoyamaHinako240x426.13.93MB133MP4
児童唱歌『渡邉崋山』昭和10年/小学校四年/歌♪小山ひな子KoyamaHinako240x426/13.93MB1:33MP4
※歌詞と伴奏:カラオケ.サークルおけら
沖縄県知事選候補者 渡口初美「第一声」9月13日「正直、公正、ベーシックインカム。」
「正直、公正、ベーシックインカム。」
9月13日(木)10:00から那覇三原のまんがんにて行われた、
沖縄県知事選候補者 渡口初美の「第一声」のノーカット映像の前半です。
(訂正:動画内で「久米小学校」と出ておりますが、正しくは「久辺小学校」です。)
渡口初美のメッセージ
みなさん、
渡口初美も83歳のおばあちゃんになりました。今も現役でバリバリ働いています!
現在は沖縄じゅう、村から街へと、ゆんたくと琉球料理を指導し、温故知新で、古きを訪ね新しきを知る。つまり、昔の物事を研究し、吟味して、そこから新しい知識や見解を言えるということです。
昔の暮らしは、皆仲良く助け合いの精神で、冠婚葬祭の行事など、部落中で手伝い、助け合い、貧しいながらも平和に暮らせました。今の生活は全て金まかせで、金のない人には、地獄の思いです。
静かな選挙、新しい選挙、お金をかけない選挙。
この世界観がベーシックインカムです。
沖縄では、それはイーマールと言いました。
または、イーマールに次いでヌチャーシー。お互いに出し合って協力する思いやりの精神がありました。
ベーシックインカムは、昔の人情そのものでございます。
みなさん発信しましょう。
世界から注目されるような、
素晴らしいウチナー作りをしませんか!
2018年9月13日
琉球料理研究家 渡口初美
渡口 初美(渡口 はつみ)
昭和10年1月15日、政治家・高良一(たからはじめ)の長女として生まれる。
元那覇市議会議員。
漫画「美味しんぼ」にも登場する琉球料理研究家。
那覇市三原にて郷土料理の店「まんがん」経営、沖縄の年中行事・祖先供養・伝統料理などの書籍の出版、琉球料理講習会を各地で開催している。
公式サイト|www.toguchihatumi2.com/
#沖縄県知事選2018
#渡口初美
#正直公正ベーシックインカム
【日韓併合前後の朝鮮⑤】朝鮮の飢餓とコメ不足は日本が救った
当時の新聞には、日本から朝鮮へ米を送っていたという記事がある。1935年(昭和10年)8月21日東亜日報:「日本内地払下米 朝鮮へ逆移入 政府米払下を要望」とある。
寺山修司~人生についての名言(大橋直久)
ヒーリングカウンセラーの大橋直久が、人生についての名言をお伝えします。
●寺山修司「私の存在そのものが質問なのだ。その答えを知りたくて生きてるんだ。」
寺山 修司(てらやま しゅうじ、1935年(昭和10年)12月10日 - 1983年(昭和58年)5月4日)は日本の歌人、劇作家。演劇実験室「天井桟敷」主宰。
「言葉の錬金術師」「アングラ演劇四天王のひとり」「昭和の啄木」などの異名をとり、上記の他にもマルチに活動、膨大な量の文芸作品を発表した。
https://twitter.com/oohashinaohisa
[いにしえの発動機たち] 1935年頃 トバタ陸用発動機 SL型 1.5馬力
日本製の農業用石油発動機の中では異端の存在とも言える、トバタ陸用発動機SL型です。エンジンで熱的に一番厳しい箇所はシリンダーヘッドとされ、その上に冷却水を配置したレイアウトはアメリカ製の発動機「NOVO」sm27551974に倣ったと思われますが、高重心故の不安定さが影響したのか日本国内においては稀な事例となり、こうして実働機として残されている事に敬意を感じた発動機でした。
トバタ陸上発動機 SL型
出力 : 1.5馬力/1,000rpm
ボア&ストローク : 69.5mmx80mm 約303cc
製造年代 : 1935年頃(昭和10年頃)
製造会社 : 久保田鉄工所
所在地 : 大阪府大阪市浪速区
2016年鈴鹿みどりのだいち発動機運転会で見学させていただきました。
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・スペック・製造年代には推定を含みます。
赤塚不二夫~生死について考えた時に読みたい名言(大橋直久)
ヒーリングカウンセラーの大橋直久が、生死について考えた時に読みたい名言をお伝えします。
●赤塚不二夫「60才を過ぎた男がね、「死ぬのが怖い」と言っちゃダメだって。
それまでの人生、何をやって来たんだと言うことでしょ?」
赤塚 不二夫(1935年(昭和10年)9月14日 - 2008年(平成20年)8月2日)は、日本の漫画家。
1962年に『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』の大ヒットで一躍人気作家となる。
代表作『天才バカボン』。ギャグ漫画の王様。
関連リンク:
http://profile.ameba.jp/healing-counseling-room/
[いにしえの発動機たち] 1935年頃 クスド石油軽油発動機 3馬力
エンジンスターターの力を借りて始動される、戦前に製造された岡山県生まれの農業用石油発動機です。銘板には、大正時代にアメリカから日本へ輸入された発動機「ストーバー発動機関西総代理店」の記載がありますが、この頃になると国産の発動機が販売数の大半を占めていたと思われます。マフラーはヨシダ発動機の物を装備しているようです。水冷ホッパの有機的な縁取りのカーブが美しい発動機でした。
クスド石油軽油発動機
出力 : 3馬力/600rpm
製造年代 : 1935年頃(昭和10年頃)
製造会社 : 楠戸商会
所在地 : 岡山県岡山市北区下石井
2016年高知宮の前発動機運転会で見学させていただきました。
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・スペック・製造年代には推定を含みます。
むらさき小唄(二胡演奏)
昭和10年(1935)公開の松竹映画『雪之丞変化』の主題歌です。長谷川一夫が、主役の雪之丞と彼を助ける侠盗・闇太郎、母親の3役を演じ、東海林太郎が歌っていました。1 流す涙が お芝居ならば なんの苦労も あるまいに 濡れて燕の 泣く声は あわれ浮き名の女形2 好いちゃいけない 好かれちゃならぬ あだな一夜の 浮気舟 乗せて流れて いつまでか 忍び逢うのも 恋じゃない3 嘘か真か 偽むらさきか 男心を だれか知る 散るも散らすも 人の世の 命さびしや 薄ボタン
[いにしえの発動機たち] 1950年頃? アサヒ 2.5馬力
恐らく、昭和10年代中~後半から戦後間も無くの頃に製造されたのではないかと思われる、詳細な正体が不明な農業用石油発動機です。銘板は擦れて、メーカー名と所在地は読み取れない状態になっていました。読み取りづらいですが、「アサヒ」の文字は右書きで右側から書かれています。
アサヒ
出力 :2.5馬力/600rpm
製造年代 : 1950年頃?(昭和25年頃?)
製造会社 : ?
所在地 : ?
2016年鴨方発動機運転会で見学させていただきました。
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・スペック・製造年代には推定を含みます。
吉川英治~壁に直面したときに読みたい名言(大橋直久)
ヒーリングカウンセラーの大橋直久が、壁に直面しているときに読みたい名言をお伝えします。
●吉川英治「よし、今度も立派に乗り越えてみせるぞ。朝のこない夜はないのだから…。」
吉川 英治(よしかわ えいじ、1892年(明治25年)8月11日 - 1962年(昭和37年)9月7日)は、日本の小説家。本名、英次(ひでつぐ)。神奈川県生まれ。様々な職についたのち作家活動に入り、『鳴門秘帖』などで人気作家となる。1935年(昭和10年)より連載が始まった『宮本武蔵』は広範囲な読者を獲得し、大衆小説の代表的な作品となった。戦後は『新・平家物語』、『私本太平記』などの大作を執筆。幅広い読者層を獲得し、「国民文学作家」といわれる。
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[いにしえの発動機たち] 1935年頃 オートリ発動機 2.5馬力
恐らく昭和10年前後に製造されたのではないかと思われる、兵庫県生まれの農業用石油発動機です。やや小振りな簡素で武骨なマフラーからは素朴さが感じられますが、クランクケースカバーは銘柄入板金の凝った造りです。シリンダーヘッドにおけるブラグ切欠きの形状が独特で、私が見てきたオートリ発動機の中でも個性的な一台でした。
オートリ発動機
出力 : 2.5馬力/550rpm
製造年代 : 1935年頃?(昭和10年頃?)
製造会社 : おほとり商店機械部
所在地 : 兵庫県姫路市琴岡町
2016年鴨方発動機運転会で見学させていただきました。
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スペック・製造年代には推定を含みます。
小坂一也『青春サイクリング』台湾語版…林英美「青春的飛輪」
♪サイクリング、サイクリング、ヤッホー、ヤッホー♪の曲ですが、台湾人も山に登ったら「ヤッホー」と言うみたいで。「ヤッホー」はもともとドイツ語で、昭和10年代に日本で流行ったようですが…。
[いにしえの発動機たち] 1935年頃? 農工用発動機 3馬力
銭湯の浴槽を想わせる冷却ホッパの開口部から湯気をくゆらせる、広島県生まれの農業用石油発動機です。飾り気が無く武骨な造りの印象を受けるクランクケースカバーは、広島県芦品郡にあったメーカー製造の発動機によく見られる傾向があり、曲面が多用された同世代の発動機たちと比べて特徴的です。バッフル板3点止めのマフラーなど、当時の面影がよく感じられた発動機でした。
農工用発動機
3馬力/600rpm
製造年代 : 1935年頃? (昭和10年頃?)
製造会社 : 内田鉄工所
所在地 : 広島県福山市新市町宮内
2015年鴨方発動機運転会で見学させていただきました。
動画で辿る石油発動機の歴史 mylist/39931443
・スペック・製造年代には推定を含みます。
[いにしえの発動機たち] 1935年頃? タコマ軽量発動機 2.5馬力 その2
戦前から大阪には、クボタ・ヤンマーを始めとした多くの農業用石油発動機メーカーが操業していましたが、それらの中でも小型の発動機を得意としていたタコマエンヂン製作所による戦前製の発動機です。機能的かつ洗練された美しいその外観からは、当時にして既に工業デザインを意識していたのかのようにも感じられます。
タコマ軽量発動機
出力 : 2.5馬力/850rpm
ボア&ストローク : 90mmX108mm 約687cc
製造年代 : 1935年頃? (昭和10年頃?)
製造会社 : タコマエンヂン製作所
所在地 : 大阪府大阪市西区北堀江
2015年高知宮の前発動機運転会で見学させていただきました。
動画で辿る石油発動機の歴史 mylist/39931443
・スペック・製造年代には推定を含みます。
[いにしえの発動機たち] 1935年頃? カルイ式発動機 8馬力
「カルイ」の名を掲げながらも重厚感に満ちた筐体の、愛媛県生まれのカルイ式発動機です。独特のシリンダーヘッドと、そこから飛び出るように目立つ吸排気バルブの造形は、まるで不動明王が目を見開いて私達を圧倒しているような迫力があります。この発動機と対面していた時、平安時代の不動明王像を拝観した事を思い出した発動機でした。
カルイ式発動機
出力 :8馬力
製造年代 : 1935年頃?(昭和10年頃?)
製造会社 : 高橋製作所
所在地 : 愛媛県四国中央市
2015年群馬やすらぎの湯発動機運転会で見学させていただきました。
動画で辿る石油発動機の歴史 mylist/39931443
・スペック・製造年代には推定を含みます。
[いにしえの発動機たち] 1935年頃? 小林式石油軽油発動機 20馬力
巨大なクランクが丸見えの、重量感に満ち溢れた石油発動機です。屈強な四角い弁当箱のようなシリンダーヘッドにも目を引かれます。「石油軽油発動機」とありますが、ディーゼルエンジンではなくガソリンエンジンと同じ仕組みで動いており、巨大なシリンダーヘッドと比べると小さく見えてしまう点火プラグで、キャブレターで霧化された灯油や軽油に点火しています。
小林式石油軽油発動機
出力 : 20馬力/500rpm
製造年代 : 1935年頃?(昭和10年頃?)
製造会社 : 小林兄弟鉄工所
所在地 : 広島県福山市新市町下安井
2015年朝霞発動機運転会で見学させていただきました。
動画で辿る石油発動機の歴史 mylist/39931443
・スペック・製造年代には推定を含みます。