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2015年9月号1回目(なまべちvol.61)
2015年9月11日放送「なまべちでGO!」61回目
先生の弾丸トークが今回も炸裂♪
お見逃しなく!
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GHQ焚書図書開封 第145回:西尾幹二全集刊行記念講演会3[桜H26/2/5]
占領下、大東亜戦争を戦った日本人の物語を断ち切るかのように、7千冊以上の戦前・戦中の書物がGHQによって没収された。
理不尽な“焚書”に遭ったそれらの図書を“開封”し、当時の日本の実相を読み解いていきます。
今回も前回に引き続き、「西尾幹二全集刊行記念講演会」の模様をお送りします。
第145回:西尾幹二全集刊行記念講演会3、大東亜戦争の文明論的意義を考える-父祖の視座から
出演 : 西尾幹二 (評論家)
※チャンネル桜では、自由且つ独立不羈の放送を守るため、『日本文化チャンネル桜二千人委員会』の会員を募集しております。以下のページでご案内申し上げておりますので、全国草莽の皆様のご理解、ご協力を、何卒宜しくお願い申し上げます。
http://www.ch-sakura.jp/579.html
◆チャンネル桜公式HP
http://www.ch-sakura.jp/
【日帰り旅行祭】水戸学の道に行ってきました【CeVIO旅行/ささらのまんぞく】
フミさん主催の「日帰り旅行祭」に参加させていただくべく、
茨城県水戸市の「水戸学の道」をめぐりました!
諸事情()により遠出ができない私たちですが、
近所の旅もまた発見に満ちた楽しいものでした!
※っていうか、いつもご近所散策動画だろう、とも言えます(/ω\)
いいねのお礼は、個人的にこっそり駅で買って帰った水戸のオススメお土産です!(^^)!
★前回も引き続き動画へのあたたかいコメント・いいね本当にありがとうございます!
★そして広告・フォローしてくれた皆様本当にありがとうございます!
★秘剣つばめ返しさん https://twitter.com/tsubame_return
に前回の「炊飯器ケーキ編」のとっても素敵なイラストを描いていただきました!
本当にありがとうございます(*´ω`*)!動画内で紹介させていただいております!
皆様のあたたかい反応に日々元気をいただいております!
また、週刊ニコニコインフォにて「笠間市北山公園」を観光した動画(後編)を取り上げていただきました(*'▽')!
これもいつも動画をご覧いただき、話題にしていただいている皆様のおかげです!本当にありがとうございます!
※タイムシフトをご覧になれる方は、下記リンクよりぜひどうぞ♪
https://live.nicovideo.jp/watch/lv338565346
GHQ焚書図書開封 第150回
※「GHQ焚書図書開封」は、過去放映分を隔週水曜日に公開していきます。
占領下、大東亜戦争を戦った日本人の物語を断ち切るかのように、7千冊以上の戦前・戦中の書物がGHQによって没収された。理不尽な"焚書"に遭ったそれらの図書を"開封"し、当時の日本の実相を読み解いていきます。
第150回:『弘道館記』『弘道館記述義』暼見
出演:西尾幹二
平成26年4月16日 放送
水戸黄門こと水戸光圀の実像
ドラマで親しまれている虚構の水戸黄門。
モデルは実在の家康の孫である徳川光圀。
大日本史の編纂を指令し、イデオロギー水戸学の
源流となり悪影響を残した人物でもあった。
その人物の人間として藩主としての実像です。
mylist/49175856
新日本学 『新江戸学(漢意に支配される日本)』 其ノ捌
So - TVに加入しますと、この様な優良な番組が過去に遡って自由に閲覧可能と成ります。民放では決して得られる事のない知識、情報が得られます。草莽崛起の志のある方は是非加入してみては如何でしょうか? チャンネル桜 http://www.ch-sakura.jp/ So - TV http://www.so-tv.jp/main/
2 人生を良くする国学「数の檻」を質で覆す「一瞬の陰陽」数との対決
▼主な登場名称及び関連名称茶道 剣道 柔道 合気道 能登京都学派 水戸学派 国学四天王 新田四天王 新田一門 大日本史 明治維新 超自我 無意識 エス 象徴 右翼 左翼 皇室 天皇制 西南戦争 差別 解放 精神病 神経症 分裂症 ヒステリー レイシスト カウンター 第二次世界大戦 大東亜戦争 人種平等 日章の下に黒線一本 旧日本国旗(新田紋・横黒一本・新田一つ引き・一竜引き・横一太刀・一瞬の陰陽・線・棒)新田肩衝 鬼切丸 鬼丸国綱 最大客船新田丸 重要文化財 御物 階位 正一位 清和源氏 平氏政権 日本のタブー 君民共治 一君万民 家職制度 八紘一宇 お母さんお兄ちゃん制度 世界農業遺産 株主経営経済 事業主経営経済 ・mylist/47805964
GHQ焚書図書開封 第151回
※「GHQ焚書図書開封」は、過去放映分を隔週水曜日に公開していきます。
占領下、大東亜戦争を戦った日本人の物語を断ち切るかのように、7千冊以上の戦前・戦中の書物がGHQによって没収された。理不尽な"焚書"に遭ったそれらの図書を"開封"し、当時の日本の実相を読み解いていきます。
第151回:意気天を衝き、人を圧する藤田東湖の風情
出演:西尾幹二
平成26年4月30 放送
GHQ焚書図書開封 第149回
※「GHQ焚書図書開封」は、過去放映分を隔週水曜日に公開していきます。
占領下、大東亜戦争を戦った日本人の物語を断ち切るかのように、7千冊以上の戦前・戦中の書物がGHQによって没収された。理不尽な"焚書"に遭ったそれらの図書を"開封"し、当時の日本の実相を読み解いていきます。
第149回:後期水戸学「新論」と現代グローバリズム
出演:西尾幹二
平成26年4月2日 放送
GHQ焚書図書開封 第148回
※「GHQ焚書図書開封」は、過去放映分を隔週水曜日に公開していきます。
占領下、大東亜戦争を戦った日本人の物語を断ち切るかのように、7千冊以上の戦前・戦中の書物がGHQによって没収された。理不尽な"焚書"に遭ったそれらの図書を"開封"し、当時の日本の実相を読み解いていきます。
第148回:後期水戸学『新論』の原文を読む魅力
出演:西尾幹二
平成26年3月19日 放送
GHQ焚書図書開封 第147回
※「GHQ焚書図書開封」は、過去放映分を隔週水曜日に公開していきます。
占領下、大東亜戦争を戦った日本人の物語を断ち切るかのように、7千冊以上の戦前・戦中の書物がGHQによって没収された。理不尽な"焚書"に遭ったそれらの図書を"開封"し、当時の日本の実相を読み解いていきます。
第147回:厳正なる父に鍛えられた藤田東湖の三度死を決する人生
出演:西尾幹二
平成26年3月5日 放送
GHQ焚書図書開封 第146回
※「GHQ焚書図書開封」は、過去放映分を隔週水曜日に公開していきます。
占領下、大東亜戦争を戦った日本人の物語を断ち切るかのように、7千冊以上の戦前・戦中の書物がGHQによって没収された。理不尽な"焚書"に遭ったそれらの図書を"開封"し、当時の日本の実相を読み解いていきます。
第146回:水戸学中興の祖、藤田幽谷の位置とその意義
出演:西尾幹二
平成26年2月19日 放送
GHQ焚書図書開封 第139回
※「GHQ焚書図書開封」は、過去放映分を隔週水曜日に公開していきます。
占領下、大東亜戦争を戦った日本人の物語を断ち切るかのように、7千冊以上の戦前・戦中の書物がGHQによって没収された。理不尽な"焚書"に遭ったそれらの図書を"開封"し、当時の日本の実相を読み解いていきます。
第139回:光圀「大日本史」の主要モチーフ
出演:西尾幹二
平成25年11月6日 放送
水戸学 藤田東湖 回天詩史
藤田 東湖(ふじた とうこ(1806-1855))は江戸時代後期の幕末に活躍した水戸藩の政治家、水戸学藤田派の学者。東湖神社の祭神。「回天詩史」は天保15年(1844)5月6日、水戸藩主徳川斉昭と共に東湖が幽囚の身となった「甲辰の国難」の時期に書いた詩史。憂憤の中、半生を振り返りつつ、密かな”回天”の気概が詠まれている。藤田東湖「正気歌」→sm7489721、橋本左内→sm5110938、西郷南洲翁遺訓→sm6932526
ここが「水戸学」の根源の地だ!〜茨城県常陸太田市・耕山寺〜
楠木正成の嫡孫・楠木正勝が開いた広澤山耕山寺へお参り、ご住職からお話をお伺いする事ができた。
国見山の南麓、瑞竜山の西山麓にある。
瑞龍山東山麓には、楠公精神を厚く崇敬、景仰し、湊川の殉節地の「嗚呼忠臣楠子之墓」墓碑建碑に始まる「水戸学」を全国の憂国の志士に興隆させた水戸徳川家の墓所がある。
曹洞宗で広澤(こうたく)山と号する。
本尊は聖観世音菩薩。
寛文三年(1663)の開基帳(彰考館蔵)によると、越後耕雲寺の末寺で、朱印地60石を有し、元は新宿(あらじゆく)村の山吹という地にあった。
楠木正成が湊川の戦いで殉節後、その後を継いで長男・楠木正行が楠木家の棟梁となるも四條畷の戦いで弟・正時と差し違えて殉節。
その後は、三男の正儀が家督を継ぎ、以後、正儀流が楠木家嫡流となった。
その楠木家嫡流の祖ともいえる正儀の嫡男・楠木小太郎正勝は、24歳の時、戦で負った足の怪我をきっかけに仏門に入り「傑堂能勝」と称し、全国を行脚し一六ヵ寺を創建した。
耕山寺もその一つで、佐竹義仁が施主となって庇護した。
佐竹家は楠木家を重んじ、自領内にも関わらず、楠木家の家紋・菊水の使用を耕山寺に促し、現在に至るまで菊水紋が寺紋として継承されている。
佐竹氏が去った後、この地を治めた水戸徳川家は、楠木氏ゆかりの耕山寺と同じ瑞龍山を墓所に選び、楠木氏ゆかりの霊地を墓所と定めた。
水戸徳川家がどれほど楠氏を崇めたのか、非常に窺われる事蹟である。
GHQ焚書図書開封 第142回
※「GHQ焚書図書開封」は、過去放映分を隔週水曜日に公開していきます。
占領下、大東亜戦争を戦った日本人の物語を断ち切るかのように、7千冊以上の戦前・戦中の書物がGHQによって没収された。理不尽な"焚書"に遭ったそれらの図書を"開封"し、当時の日本の実相を読み解いていきます。
第142回:支那の道徳史観から脱却した皇道史観の近代性
出演:西尾幹二
平成25年12月18日 放送
GHQ焚書図書開封 第140回
※「GHQ焚書図書開封」は、過去放映分を隔週水曜日に公開していきます。
占領下、大東亜戦争を戦った日本人の物語を断ち切るかのように、7千冊以上の戦前・戦中の書物がGHQによって没収された。理不尽な"焚書"に遭ったそれらの図書を"開封"し、当時の日本の実相を読み解いていきます。
第140回:前期水戸学の主張
出演:西尾幹二
平成25年11月20日 放送
水戸学 藤田東湖 文天祥の正気歌に和す
藤田 東湖(ふじた とうこ(1806-1855))は江戸時代後期の幕末に活躍した水戸藩の政治家、水戸学藤田派の学者。東湖神社の祭神。東湖といえば正気の歌を思い、正気の歌から東湖を連想するほど、東湖の正気の歌は世上に喧伝され、愛誦されきたったのは理由あるところ、乃ちここに東湖の人格と志操、そして神州の正気乃ち日本の道統の万国に冠絶した所以を、日本の歴史の事実に徴して歌い上げた、東湖の真面目が見られるからである。藤田東湖「回天詩史」→sm7498295、橋本左内→sm5110938、西郷南洲翁遺訓→sm6932526
保守なのに楠木正成を知らない人が多過ぎる事が不思議でたまらない
保守とか特攻とか水戸学とか吉田松陰とか言いつつ、楠木正成や湊川墓碑について知らない人が余りにも多過ぎる事に、現代日本の問題の根源がある。
楠木正成を知らずして、國體は語れない。
日本は国防的な面のみならず、日本精神すら存続の危機にある。
精神性つまり魂を失った民族は滅ぶという。
これは国家存続の危機である。
では、國體とは一体何であるのか。
それを知って頂くならば、拙著をお読み頂ければ一目瞭然だ。
ちなみに、拙著『建武中興と楠木正成の真実』は、紀伊國屋書店新宿本店・紀伊國屋書店大阪梅田本店・ジュンク堂書店三宮店など、大型書店の歴史コーナーに平積み頂いている。
Amazonでも高評価頂き感謝!
https://amzn.asia/d/7ltl8lc
【神道シリーズ・シーズン2】第31回・藤田東湖と会澤正志斎(後期水戸学)
藤田幽谷の息子の藤田東湖と水戸藩士・会澤正志斎は、幽谷が始めた私塾青濫舎で四書五経などの儒教の書とともに儒教的な農本主義的な経世救民論、および水戸藩や日本全体を取り囲む国際情勢を学び、同時に剣術や槍術などの武道も学びつつ、文武両道の実学の大切さを教えられた。
幽谷が生きていた時代は、班内の旧守派・保守派の反対や妨害もあって実現しなかった幽谷の儒教的道理に基づく藩改革は9代藩主武公水戸斉昭の時代になると積極的に取り上げられ、実践されていったものの、商品経済貨幣経済が発達した19世紀に時代錯誤的な儒教的な農本主義政策はまったく効果がなく、また、江戸幕府が迫りくる外国勢力に対して弱腰の姿勢を取りづつける現状を片目に水戸藩では会澤正志斎や藤田東湖らの尊王攘夷論は高まりを見せ、次第に幕府への批判が強まる中、とうとう藩主斉昭も藤田東湖も蟄居の処罰が下り、斉昭は強制隠居も命じられて4年間、東湖は8年間の蟄居生活を余儀なくされることとなった。
会澤正志斎は「新論」を著し、平和ボケしてる幕府や諸藩の危機管理意識の低さを厳しく批判したが、その内容があまりにも過激すぎたために当時の藩主哀公斉修に上呈したものの、出版は差し控えられた。
一方、藤田東湖は8年間の長い蟄居生活の間に「弘道館記述義」や「回天詩史」などを執筆し、彼自身の歴史観や尊王攘夷論を訴えた。
この両者の著作は、水戸藩のみならず、この両者に会いに来た、長州の吉田松陰、高杉晋作や薩摩の西郷隆盛など、その後討幕の主力勢力となった勤王の志士たちにも多大な影響を与えた。
しかし、藤田東湖の死後、彼がまとめてきた班内の尊王攘夷過激派たちは暴走を始め、桜田門外の変や天狗党の乱を引き起こし、水戸藩内は保守派の諸政党と急進派の天狗党との間の血で血を洗う熾烈な内部抗争が続き、明治維新を挟んでの報復合戦の末、ついには水戸藩出身者が新政府の一翼を担うことなく終わってしまうのであった。
GHQ焚書図書開封 第141回
※「GHQ焚書図書開封」は、過去放映分を隔週水曜日に公開していきます。
占領下、大東亜戦争を戦った日本人の物語を断ち切るかのように、7千冊以上の戦前・戦中の書物がGHQによって没収された。理不尽な"焚書"に遭ったそれらの図書を"開封"し、当時の日本の実相を読み解いていきます。
第141回:幕府大老に堂々と忠言した十八歳の藤田幽谷
出演:西尾幹二
平成25年12月4日 放送
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第27回・大本教(その①)出口なおと艮の金神
出口なおは1837年1月22日(天保7年12月16日)、大工の父/桐村五郎三郎と母/すみの長女として福知山藩領の丹波国天田郡上紺屋町に生まれたが、父の五郎三郎はその放蕩癖の為に家計は傾き、さらになおが10歳の時にコレラで亡くなった為、なおは10歳の時から米屋や饅頭屋や呉服屋などで下女奉公をして家計を支えることとなった。金光教の信者であったなおは、その教え通り母親を大事にし、下女奉公の給金のすべてを母親に送り、その孝行ぶりが藩主に認められ、福知山藩の三人の孝行娘の一人として表彰された。
1855年(安政2年)なおが20歳になった時、母の実母の実家の出口家に家督後継者が無く、祖母の出口ゆりからの要請でなおは出口家の養女となり、そこに養子縁組で出口家入りした四方豊助と結婚し、夫は出口政五郎と改名した。夫の政五郎も優秀な大工だったが、その楽天的な人の良さから知り合いたちからの金の無心を断れず、次々と返済されない金貸しをするうちに出口なおの家の家計は傾き、なおとの間には3男5女の8人の子供がいたにもかかわらず家の財産は底をつき、1888年明治16年に出口家は破産した。
51歳になったなおは、幼い四女と五女をかかえながら餅屋や古紙回収業を行い糊口を凌いだが、翌年事故で半身不随になっていた夫・政五郎が死去し、貧困多忙の生活を続ける中、三女の福島ひさと長女の大槻よねが精神異常を来たした後に神憑りになり、1893年明治26年、58歳になった出口なおまでが神憑りになり、突然騒いだり喚いたりするようになった為、近所の放火事件で容疑者扱いされ、警察に逮捕され牢に入れられてしまった。しかし、その牢屋の中で文盲であったはずのなおが突然、自分に憑依した艮の金神のメッセージを全文ひらがなで半紙に書き留め、これが出口なおの初のお筆先となった。
その筆先には、人類の改心と三千世界の立替え立直しを唱えるメッセージが書かれており、それは、その5年後、なおの三女福島ひさの営む茶屋を通じてなおの筆先を知った上田喜三郎の共感を得、やがてふたりで金明霊学会という教団を立ち上げることとなる。
なおは、喜三郎を出口家の婿養子とし、五女のすみに嫁がせ、名も王仁三郎に改名させた。
王仁三郎は鎮魂帰神法で艮の神を国常立神だと断定し、なおはそれを受け入れた上で、男神の国常立が宿るじぶんを変性男子とし、豊雲野尊という女神の宿る王仁三郎を変性女子とし、ふたりは霊的な意味での夫婦という設定で教団は形成された。しかし、その後、教団内の保守派たちは王仁三郎の文化開明的な考え方に反発し、王仁三郎は一時教団を離れることを余儀なくされ、その間に皇典講究所にて国学や水戸学を学び、彼が教団に戻ると、その教団の教義の中にはより国学色が強くなっていった。
【神道シリーズ・シーズン3】第3回・明治以前より始まっていた廃仏毀釈①(水戸藩<前期・後期>・長州藩)
一般的にすべてを丸めて廃仏毀釈と呼ばれることが多いが、実は廃仏毀釈という概念は大きく三つのジャンルに分類される。一般的に言われるのは大政奉還直後から明治4年ぐらいの4年間ぐらいの間に松本・苗木・佐渡・隠岐など一部の地域で行われた過激な廃仏毀釈活動で、一つは江戸初期より水戸藩や岡山藩で行われていた寺社統廃合政策と幕末に水戸学や国学に影響されて行われたより進んだ寺院統廃合であり、
いまひとつは明治以降明治10年過ぎ頃まで続いた新政府による神仏分離政策である。
広義での廃仏毀釈には江戸初期より水戸藩・岡山藩で行われた儒学的な廃仏主義・祭祀思想に基づく寺社統廃合より始まり、当初は仏教の完全否定ではなく、無住の寺、宗教活動をしていない寺、祈祷のみで葬儀を行っていない寺などが統廃合の対象となっていた。
しかし、幕末になると後期水戸学、陽明学、平田国学に影響されてより過激な廃仏思想に基づく寺院統廃合が進み、薩摩藩のように藩内の寺院がゼロになるような藩も出て来た。
危険な思想の兆しは長州藩にみられる淫祠の破却思想で、これは荻生徂徠による儒教経典礼経によるもので儒教的な排仏主義から来ている民間信仰破壊で、民衆の最も身近な信仰対象である小祠、堂宇、石仏、庚申塚、地蔵菩薩像などが破壊尽くされ、民衆を不安と恐怖のどん底に突き落とす事となった。
確かに明治以前の寺院統廃合においては明治以降のような暴徒による暴力的な廃仏毀釈活動は見られなかったものの、長い歴史の中で定着していた民間信仰の破壊や火葬仏教葬儀の廃止など、国民の伝統を破壊する活動は続けられた。それまで仏教の神々を祀っていた権現社や仏教に帰依した氏神を祀っていた明神社は古事記や日本書紀に出てくる神々に祭神に変えられ、新設神社とされ、ありもしなかった由縁や社伝を付け加えられて行った。
藩主たちは儒学や国学に基づき権現社・明神社の神社化を民衆の抵抗を抑えながら進めて行ったが、彼らの提唱する神道なるものにより民衆の間に生まれた心の空白を埋めることはできなかった。なぜならもともと仏教に無関係な古事記日本書紀に基づく神々の信仰などというものは存在しなかったからである。
【神道シリーズ・シーズン2】第33回・天狗党の乱と水戸学の崩壊
義公斉昭や藤田東湖亡き後の水戸藩では、彼らの思想を受け継いだ急進派を抑える者がいなくなり、天狗党と言われた彼らは、万延元年1860年の桜田門外の変における大老井伊直弼暗殺や、文久2年1862年の坂下門外の変による老中安藤政信襲撃など、過激な尊王攘夷派として暴走する者が増えて行った。
一方、尊皇攘夷急進派に藩の主導権を取られた長州藩や土佐藩では、天皇のいる京へ進出し、頻繁なテロ行為などにより攘夷派の勢いを増し、三条実朝や姉小路公知などを尊王攘夷派に傾かせ、公武合体派の幕府や薩摩・会津らと激しく対立を続けていた。
しかし、文久3年1863年の8月18日の政変という孝明天皇によるクーデターにより、攘夷派の公家たちや長州勢力は追い出され、一旦勢いを増していた尊王攘夷派は公武合体派に押し返されることとなった。
その間、水戸藩における急進派天狗党は、横浜港の鎖港問題において強力に鎖港の実行を幕府や朝廷に求めるため翌年の元治元年1864年の3月に藤田東湖の四男の小四郎が筑波山で挙兵し、日光東照宮を目指していた。
同年6月に京の池田屋で宮部鼎蔵や吉田 稔麿ら多くの長州藩士たちが会津藩管轄下の新選組によって殺害されると、長州藩では攘夷急進派の来島又兵衛や久坂玄瑞らは長州藩兵2千人を連れて報復の為に上京し、武力で京都御所の奪還を試み、結果、壊滅的な打撃を受けて敗退するという、所謂禁門の変が勃発する。
その頃、関東では、筑波で挙兵した藤田小四郎や武田耕雲斎らの天狗党は、水戸藩を中心とした尊皇攘夷政治を目指し、そのトップに徳川慶喜を添えるという計画で、幕府率いる大発勢と激戦を続けた上敗退したが、その間、軍資金が底を突くたびに各地で略奪や放火・殺人を繰り返し、関東での敗北が決定的となると、同年の11月からは慶喜のいる京を目指し、幕府軍の追討を避けながらの迂回コースで中部日本の山岳地帯を駆け抜け、12月には加賀まで到達するが、皮肉な事にじぶんたちが持ち上げた徳川慶喜自身の率いる幕府追討軍により追い詰められ、とうとう加賀の地で降伏することとなった。
降伏し捕らえられた天狗党員828名のうち、352名が斬首となり、これでこの年1864年には水戸の天狗党も長州の尊皇攘夷急進派も壊滅的な打撃をうけることとなった。
しかし、この後の3年間のうちに事態は急変を続け、わずか3年間のうちに尊王攘夷派は奇跡の大逆転を続け、慶応三年(1867年)10月24日には将軍徳川慶喜による大政奉還が行われ、さらに同年の12月9日には新政府による王政復古の大号令が出され、新政府構想の中から慶喜が外され、さらに徳川からの領地没収の令も出されたため、新政府に不満をもつ旧幕臣たちはその後1年半に渡る戊辰戦争を起こすことなったのである。
【神道シリーズ・シーズン2】第30回・藤田幽谷と中期水戸学
藤田幽谷は安永3年2月18日1774年3月29日常陸国水戸城下の奈良屋町に、古着商藤田屋を営む藤田与右衛門の次男として生まれ、頭脳明晰の才が認められ、父与右衛門の英才教育の下、寺社奉行下役の小川勘助や医師の青木侃斎から儒教を学び、その後、彼らの推挙により10歳にして荻生徂徠の古辞学派の、のちに水戸藩の彰考館総裁となる立原翠軒の門人となった。
その後15歳で彰考館の正式な館員となり、水戸藩の修史事業である『大日本史』の編纂に携わるようになった。
そして17歳になると「神皇正統記」の研究をはじめ、「天皇考」「幽谷随事」を著して国体論を確立し、この時より幽谷を名乗るようになる。
18歳になった年には老中松平正信の求めにより、天皇と幕府と諸藩との間の君臣上下の名分を正すことの重要さを説いた「正名論」を寄稿し、24歳以降は、封事という、藩主への直訴とも言える訴えを行い、幽谷は、文公治保、武公治紀、哀公斉修の藩主三代に渡り生涯に26回の封事を行った。
29歳の時には、水戸梅香の自宅に青藍舎という私塾を開き、ここに日本全国から尊王攘夷に燃える若者たちが集まり、その中にはのちに長州で松下村塾を始めた吉田松陰も含まれていた。
幽谷の封事は、迫りくる外国勢力からの海防国防の為の強兵策と悪化し続ける水戸藩の財政の立て直しを目指して行われたが、幽谷の在任中は藩内の旧守派藩閥派にことごとく阻まれ実行されることはなかったが、幽谷の死後、9代藩主となった列公水戸斉昭は幽谷の海防論と藩財政立て直しの為の経世救民論を受け入れ、それを実行しようと心がけたのだ。
しかしながら、海防を充実するだけの財政余裕はなく、また、藩財政の立て直しに関しても、江戸中期以降発達した商品経済貨幣経済にまったく対応のできない儒教的な農本主義に基づく名分再建論で水戸藩の財政を止めることは出来なかった。
幽谷の儒教的経世救民的財政再建策はなんの効果も無かったものの、度重なる処分や死の覚悟をしてまで藩主に直訴を続けた姿勢と尊王攘夷の気概は、彼の開いた青藍舎を通じて全国の勤王の志士たちに大きな影響を与えることとなったのである。
【神道シリーズ】第24回・前期水戸学(水戸光圀と「大日本史」)
水戸光圀は、初代水戸藩主徳川頼房の三男として生まれ、幼くして二代水戸藩主の継承者に指名されたが、兄の頼重をさておいて継承者になったことに負い目を感じ、複雑な心境から荒れ狂った少年時代を送るが、18歳の時に読んだ史記の伯夷伝に強く感動し、儒教の長幼の功、つまり、長子こそが王位を継承すべき、という説に心を打たれ、以降人が変わったように孔子の儒教の勉強に励んだ。
史記の伯夷伝にならって漢文体で日本史の編纂を始めた光圀は、藩主になって以降、これを藩全体の中核事業に添え、日本の歴史を儒教的観点から見直すという作業を本格的に始めた。
その中で光圀は同じく儒教的立場から日本の歴史書を書いた幕府の指南役の林羅山と同様、儒教的合理主義に基づき、日本書紀の神代巻は妖怪迷信のたぐいとして対象から外し、あくまで神武天皇からの天皇の歴史書を作成することを目指していた。
結局、光圀が編纂した「大日本史」は神武から100代の後小松天皇までの歴史記録となっているが、中でも強調したのは、神功皇后が天皇ではなく女傑であったこと、壬申の乱で自害した大友皇子を「天皇大友」としたこと、そして、なんといっても南朝正統論である。
しかしながら、光圀の儒教道理論、つまり、聖人君主や長幼の功論からするとどうしても北朝の方が正統となってしまうのだが、それでも南朝が三種の神器を持っていたことを根拠に南朝正統論を強弁する理由は楠木正成の忠臣ぶりを評価したかったからである。
晩年光圀は、正成を賞賛するために湊川神社や各地に楠社を創建させたが、この中心の武勇の魂を祀るという思想は儒教の招魂思想からくるもので、この思想は後に長州藩が幕末の尊王の志士たちを祀った桜山神社や京都霊山、そして明治以降の東京招魂社、つまり靖国神社の創建につながる思想となったのである。
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靖国神社は後期水戸学の流れを汲む朱子学(中国思想)であり、日本古来から伝わる精神文化とはまったく無関係です。 神社の定義から大きく逸脱している儒教(朱子学)の招魂社です
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靖国神社が古来から伝わる神道だと勘違いしてる人が多いようですが、靖国は実は神道でも神社でもなく、幕末に一時的に下級武士の間で流行した後期水戸学(朱子学=中国思想)の招魂社から発するものです