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【神道シリーズ・シーズン2】第31回・藤田東湖と会澤正志斎(後期水戸学)
藤田幽谷の息子の藤田東湖と水戸藩士・会澤正志斎は、幽谷が始めた私塾青濫舎で四書五経などの儒教の書とともに儒教的な農本主義的な経世救民論、および水戸藩や日本全体を取り囲む国際情勢を学び、同時に剣術や槍術などの武道も学びつつ、文武両道の実学の大切さを教えられた。
幽谷が生きていた時代は、班内の旧守派・保守派の反対や妨害もあって実現しなかった幽谷の儒教的道理に基づく藩改革は9代藩主武公水戸斉昭の時代になると積極的に取り上げられ、実践されていったものの、商品経済貨幣経済が発達した19世紀に時代錯誤的な儒教的な農本主義政策はまったく効果がなく、また、江戸幕府が迫りくる外国勢力に対して弱腰の姿勢を取りづつける現状を片目に水戸藩では会澤正志斎や藤田東湖らの尊王攘夷論は高まりを見せ、次第に幕府への批判が強まる中、とうとう藩主斉昭も藤田東湖も蟄居の処罰が下り、斉昭は強制隠居も命じられて4年間、東湖は8年間の蟄居生活を余儀なくされることとなった。
会澤正志斎は「新論」を著し、平和ボケしてる幕府や諸藩の危機管理意識の低さを厳しく批判したが、その内容があまりにも過激すぎたために当時の藩主哀公斉修に上呈したものの、出版は差し控えられた。
一方、藤田東湖は8年間の長い蟄居生活の間に「弘道館記述義」や「回天詩史」などを執筆し、彼自身の歴史観や尊王攘夷論を訴えた。
この両者の著作は、水戸藩のみならず、この両者に会いに来た、長州の吉田松陰、高杉晋作や薩摩の西郷隆盛など、その後討幕の主力勢力となった勤王の志士たちにも多大な影響を与えた。
しかし、藤田東湖の死後、彼がまとめてきた班内の尊王攘夷過激派たちは暴走を始め、桜田門外の変や天狗党の乱を引き起こし、水戸藩内は保守派の諸政党と急進派の天狗党との間の血で血を洗う熾烈な内部抗争が続き、明治維新を挟んでの報復合戦の末、ついには水戸藩出身者が新政府の一翼を担うことなく終わってしまうのであった。
【神道シリーズ・シーズン2】第29回・本居宣長【後編】「直毘霊」「古事記伝」と妄想的皇国至上主義へ (2)
医者になるために京都に遊学し、堀景山から医学のみならず契沖や荻生徂徠などの国学を学んだ宣長は、松坂の一夜で出会った賀茂真淵の指導の下、万葉集の読解に精を出したが、興味の方向は、真淵の嫌う中世風の源氏物語や新古今集で、次第に粗削りで素朴な古代日本人を好む真淵の教えから離れて、優雅で儒仏の影響を受けた中世文学を溺愛するようになった。
しかし、その一方では宣長がライフワークとした古事記の解釈研究にも取り組み、次第に宣長の思想は、皇国日本を中心とする強烈な国粋主義に走って行き、万葉仮名や日本語文法の研究、そして独自の字音仮名の開発とともに独善的とも言える唯我独尊的な古事記解釈を進めて行った。
源氏物語を溺愛した宣長は、一方では男女の色恋事の不条理や不貞行為を肯定的に受け止める「もののあわれ」の感情を日本人の気質とし、またその一方では、
太陽の神アマテラスを皇祖皇宗として戴く皇国日本は、その末裔たる天皇が国を治め、今日まで持続してることこそ日本が世界を君臨すべき地位になると豪語するような、ある意味偏狭とも言えるウルトラナショナリズム的な主張をする、という両極端な思想に走って行くのであった。
儒仏や道家を嫌う宣長は、外来の思想が入ってくる以前の皇国日本には「皇国の正音」というオリジナルな日本語があり、古事記に書かれたような日本の神々の信仰があったのだという主張の下、古事記をバイブル視するようになるが、残念ながらその主張の根拠となるものはなく、そこを同じ国学者の上田秋成から突かれた宣長は「あるからあるんだ」的な強弁になり、宣長は自ら作った復古神道にますますのめりこんで行った。
古事記を一般人が読める書にした宣長の功績は大きいものの、誇大妄想とも言える皇国日本中心主義は、皮肉なことに幕末の水戸藩天狗党の悲劇や昭和の日中戦争、太平洋戦争推進のスローガンともなり、戦後も日本保守運動の骨格部分となったのであった。
【神道シリーズ・シーズン3】第5回・明治以前からの廃仏毀釈(岡山藩・津和野藩・土佐藩)まなすさんの土佐廃仏毀釈解説付き
最も早い時期から神社統廃合や寺院統廃合が行われていたのは水戸藩と岡山藩で、岡山藩では陽明学者の熊沢蕃山の影響を強く受けた藩主池田光政はまず淫祠と呼ばれる陰陽行に基づく男女性器をシンボルにした陰陽石や道祖神およびそうした神体を祀る小詞・堂宇・庵などが破却整理の対象となった。そして権現神や明神を祀ってる社から記紀の神々を切り離して寄宮という場所にまとめて祀るという、所謂「寄宮」政策が行われた。
しかし、こうした政策は神仏分離というよりも実は民間信仰の否定破壊であり、その上にさらに仏教葬祭を禁止して神道葬祭に強制的に切り替えさせるという政策も民衆の抵抗があり、結局徹底した寺院整理は実現できず、神道葬祭強制も結局もとの仏教葬祭に戻す武家や民衆の動きにより実現できなかった。
しかし、岡山藩では神社統廃合は徹底して行われ、約94%の神社的祠、堂宇、庵が破壊された。
一方の寺院統廃合では特に日蓮宗不受不布施派がターゲットにされ大半が破却された。
島根県西部の津和野藩では、幕末に平田派の国学者、大国隆正や福羽美静の影響を受けた藩主・亀井茲監は廃仏を目的とする寺院統廃合は行わなかったものの神仏分離政策は徹底され、当時急増していた新創建神社の整理とともに寺院の神社化や平田国学者による社伝の書き換えなどは徹底された。
さらに寺請制度の廃止と神社請制度による置き換えを目指したが幕府からの圧力により頓挫した。ここでも仏教葬祭の廃止と神道葬祭の強制が行われたがうまく行かなかった。
土佐藩では、明治直前より平田国学の影響を強く受けた藩役職の者たちにより寺院統廃合と廃寺化した寺院の神社化が進められた。
この三藩に共通していることは、寺を失い、僧侶を失っても民衆の仏教信仰は止まず、
仏教葬祭の廃止と神道葬祭の強制はことごとく失敗し、同時に民衆の信仰の中心であった民間信仰が徹底的に破壊され、巨大な心の空洞を産みだした。一連の廃仏毀釈および寺社統廃合により仏教を消し去ることには失敗したが、日本人の古くから引き継がれてきた民間神道は徹底的に破壊され、明治以降はそうした民間信仰の維持を願う民衆と神道という名の平田派系の新興宗教との静かなるせめぎ合いが続いていくのであった。
【神道シリーズ・シーズン2】第30回・藤田幽谷と中期水戸学
藤田幽谷は安永3年2月18日1774年3月29日常陸国水戸城下の奈良屋町に、古着商藤田屋を営む藤田与右衛門の次男として生まれ、頭脳明晰の才が認められ、父与右衛門の英才教育の下、寺社奉行下役の小川勘助や医師の青木侃斎から儒教を学び、その後、彼らの推挙により10歳にして荻生徂徠の古辞学派の、のちに水戸藩の彰考館総裁となる立原翠軒の門人となった。
その後15歳で彰考館の正式な館員となり、水戸藩の修史事業である『大日本史』の編纂に携わるようになった。
そして17歳になると「神皇正統記」の研究をはじめ、「天皇考」「幽谷随事」を著して国体論を確立し、この時より幽谷を名乗るようになる。
18歳になった年には老中松平正信の求めにより、天皇と幕府と諸藩との間の君臣上下の名分を正すことの重要さを説いた「正名論」を寄稿し、24歳以降は、封事という、藩主への直訴とも言える訴えを行い、幽谷は、文公治保、武公治紀、哀公斉修の藩主三代に渡り生涯に26回の封事を行った。
29歳の時には、水戸梅香の自宅に青藍舎という私塾を開き、ここに日本全国から尊王攘夷に燃える若者たちが集まり、その中にはのちに長州で松下村塾を始めた吉田松陰も含まれていた。
幽谷の封事は、迫りくる外国勢力からの海防国防の為の強兵策と悪化し続ける水戸藩の財政の立て直しを目指して行われたが、幽谷の在任中は藩内の旧守派藩閥派にことごとく阻まれ実行されることはなかったが、幽谷の死後、9代藩主となった列公水戸斉昭は幽谷の海防論と藩財政立て直しの為の経世救民論を受け入れ、それを実行しようと心がけたのだ。
しかしながら、海防を充実するだけの財政余裕はなく、また、藩財政の立て直しに関しても、江戸中期以降発達した商品経済貨幣経済にまったく対応のできない儒教的な農本主義に基づく名分再建論で水戸藩の財政を止めることは出来なかった。
幽谷の儒教的経世救民的財政再建策はなんの効果も無かったものの、度重なる処分や死の覚悟をしてまで藩主に直訴を続けた姿勢と尊王攘夷の気概は、彼の開いた青藍舎を通じて全国の勤王の志士たちに大きな影響を与えることとなったのである。
【神道シリーズ】第24回・前期水戸学(水戸光圀と「大日本史」)
水戸光圀は、初代水戸藩主徳川頼房の三男として生まれ、幼くして二代水戸藩主の継承者に指名されたが、兄の頼重をさておいて継承者になったことに負い目を感じ、複雑な心境から荒れ狂った少年時代を送るが、18歳の時に読んだ史記の伯夷伝に強く感動し、儒教の長幼の功、つまり、長子こそが王位を継承すべき、という説に心を打たれ、以降人が変わったように孔子の儒教の勉強に励んだ。
史記の伯夷伝にならって漢文体で日本史の編纂を始めた光圀は、藩主になって以降、これを藩全体の中核事業に添え、日本の歴史を儒教的観点から見直すという作業を本格的に始めた。
その中で光圀は同じく儒教的立場から日本の歴史書を書いた幕府の指南役の林羅山と同様、儒教的合理主義に基づき、日本書紀の神代巻は妖怪迷信のたぐいとして対象から外し、あくまで神武天皇からの天皇の歴史書を作成することを目指していた。
結局、光圀が編纂した「大日本史」は神武から100代の後小松天皇までの歴史記録となっているが、中でも強調したのは、神功皇后が天皇ではなく女傑であったこと、壬申の乱で自害した大友皇子を「天皇大友」としたこと、そして、なんといっても南朝正統論である。
しかしながら、光圀の儒教道理論、つまり、聖人君主や長幼の功論からするとどうしても北朝の方が正統となってしまうのだが、それでも南朝が三種の神器を持っていたことを根拠に南朝正統論を強弁する理由は楠木正成の忠臣ぶりを評価したかったからである。
晩年光圀は、正成を賞賛するために湊川神社や各地に楠社を創建させたが、この中心の武勇の魂を祀るという思想は儒教の招魂思想からくるもので、この思想は後に長州藩が幕末の尊王の志士たちを祀った桜山神社や京都霊山、そして明治以降の東京招魂社、つまり靖国神社の創建につながる思想となったのである。
【神道シリーズ・シーズン2】第33回・天狗党の乱と水戸学の崩壊
義公斉昭や藤田東湖亡き後の水戸藩では、彼らの思想を受け継いだ急進派を抑える者がいなくなり、天狗党と言われた彼らは、万延元年1860年の桜田門外の変における大老井伊直弼暗殺や、文久2年1862年の坂下門外の変による老中安藤政信襲撃など、過激な尊王攘夷派として暴走する者が増えて行った。
一方、尊皇攘夷急進派に藩の主導権を取られた長州藩や土佐藩では、天皇のいる京へ進出し、頻繁なテロ行為などにより攘夷派の勢いを増し、三条実朝や姉小路公知などを尊王攘夷派に傾かせ、公武合体派の幕府や薩摩・会津らと激しく対立を続けていた。
しかし、文久3年1863年の8月18日の政変という孝明天皇によるクーデターにより、攘夷派の公家たちや長州勢力は追い出され、一旦勢いを増していた尊王攘夷派は公武合体派に押し返されることとなった。
その間、水戸藩における急進派天狗党は、横浜港の鎖港問題において強力に鎖港の実行を幕府や朝廷に求めるため翌年の元治元年1864年の3月に藤田東湖の四男の小四郎が筑波山で挙兵し、日光東照宮を目指していた。
同年6月に京の池田屋で宮部鼎蔵や吉田 稔麿ら多くの長州藩士たちが会津藩管轄下の新選組によって殺害されると、長州藩では攘夷急進派の来島又兵衛や久坂玄瑞らは長州藩兵2千人を連れて報復の為に上京し、武力で京都御所の奪還を試み、結果、壊滅的な打撃を受けて敗退するという、所謂禁門の変が勃発する。
その頃、関東では、筑波で挙兵した藤田小四郎や武田耕雲斎らの天狗党は、水戸藩を中心とした尊皇攘夷政治を目指し、そのトップに徳川慶喜を添えるという計画で、幕府率いる大発勢と激戦を続けた上敗退したが、その間、軍資金が底を突くたびに各地で略奪や放火・殺人を繰り返し、関東での敗北が決定的となると、同年の11月からは慶喜のいる京を目指し、幕府軍の追討を避けながらの迂回コースで中部日本の山岳地帯を駆け抜け、12月には加賀まで到達するが、皮肉な事にじぶんたちが持ち上げた徳川慶喜自身の率いる幕府追討軍により追い詰められ、とうとう加賀の地で降伏することとなった。
降伏し捕らえられた天狗党員828名のうち、352名が斬首となり、これでこの年1864年には水戸の天狗党も長州の尊皇攘夷急進派も壊滅的な打撃をうけることとなった。
しかし、この後の3年間のうちに事態は急変を続け、わずか3年間のうちに尊王攘夷派は奇跡の大逆転を続け、慶応三年(1867年)10月24日には将軍徳川慶喜による大政奉還が行われ、さらに同年の12月9日には新政府による王政復古の大号令が出され、新政府構想の中から慶喜が外され、さらに徳川からの領地没収の令も出されたため、新政府に不満をもつ旧幕臣たちはその後1年半に渡る戊辰戦争を起こすことなったのである。
【神道シリーズ・シーズン3】(戦後編)第61回・儒教招魂社・靖国神社その①
靖国神社のルーツを辿ると、江戸初期の水戸藩主・徳川光圀が唱える南朝正統論の中で、特に天皇の為に命を尽くして戦死した楠本正成を崇敬し、現在の神戸市中央区の湊川神社のルーツとなる楠木正成の招魂墓碑を建てたが、この水戸藩に伝わる楠木正成崇拝は、江戸中期以降、倒幕を目指す勤王の志士たちの間に広まり、幕末になると、この水戸藩の藩士たちと接触のあった長州藩士たちが下関戦争で戦死した長州藩士たちを下関桜山に招魂場を作り、儒教式で戦没者たちを祀ったところから始まる。
この動きは、慶応4年1968年に新政府が京都東山に幕末の勤王の志士たちの戦死者たちを祀った霊山官祭招魂社を創建し、この儒教的な招魂思想は明治2年1869年の東京招魂社の創建に繋がり、さらにこの儒教的招魂社が明治12年1879年に靖国神社と改称され、儒教的招魂社でありながら神社の体裁を整えて行くこととなる。
招魂とは、亡くなった人の魂を呼び寄せることで、儒教では、魂は不滅のものだり、死後もこの世
に存在すると信じられていた為、招魂の儀式は行われていた。儀式では、故人の墓の前で食べ物や飲物、香などを供え、亡くなった人の冥界での幸せを祈った。招魂の儀式は、故人の魂を慰め、冥界で幸せに暮らせるようにするために行われるが、同時に、生きてる者たちの心を慰める意味もあった。
故に、靖国神社の前身である東京招魂社の時代には、戦没者たちは忠魂霊と呼ばれ、天皇の為に戦争で戦い、その忠誠の下で戦死した忠臣たちの霊魂を招魂し、天皇が参拝して慰霊する、という形が採られていた。しかし、明治12年になり、靖国神社と改称され、神社の形式を採るようになると、儒教的な招魂思想はそのままで、外観や祭祀の在り方だけを変え、やがて、明治37年1904年の日露戦争の頃になると、それまで忠魂霊と呼ばれていた戦没者たちは英霊と呼ばれるようになった。この英霊という言葉は、水戸の儒学者・藤田東湖の中国宋代の忠臣文天祥(ぶんてんしょう)の詩から引用した英霊という言葉から来ており、やはり、儒教の思想がその底辺にあった。
そして、やがて靖国神社は、このように儒教的な招魂思想に神社という衣をかぶり、日清日露戦争、第一次大戦と進むにつれ、戦没者の数が急増する中、大きな発展を遂げることとなったのである。
【神道シリーズ・シーズン3】第1回・廃仏毀釈と平田国学の復古神道①
日本の歴史史上最大の汚点とされる廃仏毀釈は、大政奉還の翌年3月の慶応4年1868年3月に薩長新政府により神仏混淆禁止令がだされると翌4月に日吉社の社司・樹下茂国と生源寺希徳らが吉田神道配下の者たちで結成した神威隊40名を引き連れ、日吉社に祀られた仏像仏具経典などを破壊しつくした暴力的破壊活動を契機に明治元年以降の数年間に全国いくつかの地域で過激な寺院破壊活動が展開された事件のことを言う。
廃仏寺院統合の動きは明治前より水戸藩、岡山藩、薩摩藩、土佐藩、津和野藩などいくつかの朱子学・陽明学・国学の影響が強かった藩で江戸時代初期、中期、後期、末期から見られていたが、それらはあくまで寺院の統廃合であって仏像仏具什器などの破壊を意図するものではなかった。
しかし大政奉還後に始まった廃仏毀釈運動は仏教や僧侶たちに対する憎悪と嫌悪が動機となっており、この上からの仏教破壊活動は仏教を信仰する住民
との間に大きな摩擦を引き起こしていった。
廃仏毀釈運動の特徴は、長州・薩摩・津和野など陽明学国学の影響を強く受けた旧藩主や藩士たちがこぞって新政府の神仏分離政策を口実に各地で過激な仏教破壊活動を行い、仏教を信仰する村民たちや浄土真宗を中心とした仏教勢力からの根強い抵抗を受けることとなり、やがて新政府によってそうした破壊活動が罰せられることにより収束に向かった一連の暴力活動を指す。
廃仏毀釈活動は明治元年から4年ぐらいまでの間に集中し、明治9年にはほとんどの破壊活動は終了するが、
廃仏毀釈運動とは別に進められた神仏分離政策も地元の抵抗に会いながら新政府は朝廷からの命令という言葉を盾に強引に推し進め、結果、明治10年頃には日本の寺院の約半数は消滅し、さらに廃仏毀釈で失われた国宝クラスの文化財は日本の文化財全体の三分の二以上に及んだと言われる。
廃仏毀釈活動は、慶応4年の日吉社の仏像仏具経典破壊を引きりに明治元年から明治4年ぐらいにかけ、松本、苗木、佐渡、富山、隠岐などで特に酷い暴力的破壊活動が行われ、これらの破壊活動の首謀者は旧藩主、旧長州藩士、平田国学の影響を強く受けた旧幕臣らで、いずれのケースも平田国学という点で一つの線で結ばれている。
仏教の神・権現神や仏教帰依した氏神明神が長く定着していた日本の国土に平田国学の復古神道というこれまでの歴史に無かった新興宗教を強制的に根付かせる事が一連の破壊活動の根底にあった。
形式的には神仏分離という名目で過去に長く定着していた権現明神信仰を消し去り、新設神社に新たな由緒社伝を捏造したものの、それは同時に信仰の無い神社を増産していくことになったのである。
【神道シリーズ・シーズン3】第3回・明治以前より始まっていた廃仏毀釈①(水戸藩<前期・後期>・長州藩)
一般的にすべてを丸めて廃仏毀釈と呼ばれることが多いが、実は廃仏毀釈という概念は大きく三つのジャンルに分類される。一般的に言われるのは大政奉還直後から明治4年ぐらいの4年間ぐらいの間に松本・苗木・佐渡・隠岐など一部の地域で行われた過激な廃仏毀釈活動で、一つは江戸初期より水戸藩や岡山藩で行われていた寺社統廃合政策と幕末に水戸学や国学に影響されて行われたより進んだ寺院統廃合であり、
いまひとつは明治以降明治10年過ぎ頃まで続いた新政府による神仏分離政策である。
広義での廃仏毀釈には江戸初期より水戸藩・岡山藩で行われた儒学的な廃仏主義・祭祀思想に基づく寺社統廃合より始まり、当初は仏教の完全否定ではなく、無住の寺、宗教活動をしていない寺、祈祷のみで葬儀を行っていない寺などが統廃合の対象となっていた。
しかし、幕末になると後期水戸学、陽明学、平田国学に影響されてより過激な廃仏思想に基づく寺院統廃合が進み、薩摩藩のように藩内の寺院がゼロになるような藩も出て来た。
危険な思想の兆しは長州藩にみられる淫祠の破却思想で、これは荻生徂徠による儒教経典礼経によるもので儒教的な排仏主義から来ている民間信仰破壊で、民衆の最も身近な信仰対象である小祠、堂宇、石仏、庚申塚、地蔵菩薩像などが破壊尽くされ、民衆を不安と恐怖のどん底に突き落とす事となった。
確かに明治以前の寺院統廃合においては明治以降のような暴徒による暴力的な廃仏毀釈活動は見られなかったものの、長い歴史の中で定着していた民間信仰の破壊や火葬仏教葬儀の廃止など、国民の伝統を破壊する活動は続けられた。それまで仏教の神々を祀っていた権現社や仏教に帰依した氏神を祀っていた明神社は古事記や日本書紀に出てくる神々に祭神に変えられ、新設神社とされ、ありもしなかった由縁や社伝を付け加えられて行った。
藩主たちは儒学や国学に基づき権現社・明神社の神社化を民衆の抵抗を抑えながら進めて行ったが、彼らの提唱する神道なるものにより民衆の間に生まれた心の空白を埋めることはできなかった。なぜならもともと仏教に無関係な古事記日本書紀に基づく神々の信仰などというものは存在しなかったからである。
【神道シリーズ・シーズン3】第4回・薩摩・宮崎(日向)における廃仏毀釈
薩摩藩の島津家は元々は仏教信仰の篤い家柄で、戦国時代の島津家15代当主の貴久の時代には「仏を信じざる者は我が子孫にあらず」とまで言われ、菩提寺・曹洞宗の福昌寺や勅願寺の心岳寺などを中心に代々敬虔な仏教信仰を行って来たが、幕末の11代藩主斉彬の時代になると、薩摩藩士・田中頼傭が京都より持ち込んだ国学の影響で廃仏思想が高まり、それが藩内の財政改革や富国強兵の必要性などと事情が重なり、
厳しい廃寺政策が採られることとなった。
藩主・斉彬が目をつけたのは水戸藩における神社統廃合による財政改革や寺院の破却によって得られる梵鐘や金仏や金属什器が溶かして大砲や鉄砲製造の為の素材になるという点で、先代より引き継いだ500万両以上の借金と外国勢力の侵略に備えた軍備の充実の点からみても一石二鳥の政策であった。
しかし、斉彬の後を継いだ12代藩主忠義の父・久光は、
我が息子で幼い忠義の後見役として藩の実験を握り、国学の影響も強く受け、さらに藩の廃仏政策を強力に推し進めて行った。
寺院の破却を加速させ、そこから得られた金属類は大砲や鉄砲などの武器のみならず鋳貨の偽造、つまり贋金作りにまで利用され、それによって得られた資金でますます藩の軍事力を強大化して行った。
やがて廃仏政策は藩内に一つの寺も残らないところまで推し進められ、
一方ではかつて大寺院であった天台宗の書写山円教寺を破却して霧島神宮という神社に改編し、社伝も6世紀から神武天皇らが祀られてきたかのように書き換えられた。
となりの宮崎は、当時、飫肥藩・佐土原藩・高鍋藩などの小藩に分かれ、いずれも大藩である隣国の薩摩藩の影響下にあり、廃仏政策も薩摩藩の意向を忖度するかの如くに行われ、結果的に薩摩藩を上周るレベルでの廃仏毀釈が行われた。
しかし、宮崎南部の高鍋藩ではそうした廃仏政策に抵抗する寺も多く、浄土宗の円福寺では住職の関代が体を張って抵抗して廃寺を免れたり、また、明治3年1870年には真言宗智山派の伊満福寺の僧侶が宮崎藩の役人によって崖から投げ落とされて殺害されるような事件さえ起きている。
こうした一連の厳しい廃仏政策はこの両県から大半の寺院を消滅させ、強引に神道化を進めたが、しかし、彼らが進めた神道化政策とは、やってることは仏教と変わらないが、形を彼らが創り出した神道式に変えると言う換骨奪胎に過ぎなかったのである
【神道シリーズ・シーズン3】第2回・廃仏毀釈②(佐渡・隠岐・富山)
廃仏毀釈は、慶応4年1868年3月8日の吉田神道配下と日吉社社司ら40名による日吉社の仏壇仏具の破壊焼却に始まり平田国学の影響を強く受けた一部の藩主藩士や庄屋豪農らにより明治元年より明治4年の終わりぐらいまでの間に全国5か所ぐらいの地域で過激な仏教排撃、寺院破壊と僧侶の強制還俗と帰農、そしてぶっそうさい火葬の禁止と神葬祭土葬の強要が実施され、やがて寺院や民衆の方から政府や朝廷に抗議の請願が出され、実地調査をした新政府がその惨状に驚き、事件関係者を処罰し明治4年の後半頃より収束をみることとなった。明治以前より廃仏寺院統合や廃仏毀釈が行われてきた水戸藩、薩摩藩、岡山藩、津和野藩、土佐藩などを除くと明治以降に平田国学の影響を強く受けて過激で破壊的な廃仏毀釈が行われたのは、松本、苗木、佐渡、隠岐、富山の5地域であるが、これらの地域に共通している点は、いずれも浄土真宗の強力な勢力圏であり、真言宗や
天台宗や浄土宗、禅宗の寺院が次々と破壊され、僧侶たちには還俗が強制される中、浄土真宗だけは民衆門徒やtouzai本願寺の政治力も含め、実に根強い抵抗を見せ、この力がやがてこうした一連の過激な廃仏毀釈活動を終息させていくこととなった。
結局一連の過激な廃仏毀釈活動が齎したものは、実行犯たちの思惑に反していかに仏教が国民にとって切り離せない唯一の信仰になっていたかを改めて証明した結果になったのだ。
【Pc】Age of Empires II HD~エルシッド編~[Age76]
今回の主人公、エルシッドは母国では歌にもなる位に、
有名な偉人だそうです。
この国、歌で偉人を歌う文化ないな・・・
ちなみにですが、水戸黄門がテレビで紋所出して
有名な背景には、徳川光圀(水戸藩主)が庶民に対し良い政治を行い、
やがて好感度の高かった黄門様は、歌舞伎や講談のネタにされ、
歌舞伎などの話をテレビ版に改変したのが、昔やってた水戸黄門。
偉人を「偉人」と称えず、娯楽のネタに使う文化は昔からあったらしい。
一説にはタコの浮世絵が・・・やっぱ何でもないです。
Age of Empires II実況 series/30909
ぱーと1まとめ mylist/65779833
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白虎隊と楠公精神 〜会津藩・飯盛山の少年たちの悲劇・忠義に敵味方無し・戊辰戦争〜
白虎隊とは、日本の幕末維新における戊辰戦争の一環である会津戦争に際して、会津藩が組織した、武家男子を集めた部隊である。
中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいたほか、幼少組として13歳の少年も加わっていた。
名称は、中国の伝説の神獣「白虎」に由来している。
慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発。
会津藩主で京都所司代も務めた松平容保は、新選組等を傘下に置き尊皇攘夷派を厳しく取り締まった経緯もあり、強硬な佐幕派と見なされ、会津藩は新政府軍の仇敵とされ、新政府軍は会津藩の城・若松城(鶴ヶ城)に攻め寄せた。
重要な進軍路であった十六橋を落とすことに失敗したという防衛戦略上の不備も重なり、本来は城下町防衛の任に当たる予備兵力として組織された白虎隊も、これを支援する形で前線へと進軍した
隊は士中隊、寄合隊、足軽隊から成り、充足数はおよそ340名程度であった。
しかし会津軍の劣勢は如何ともし難く、白虎隊も各所で苦戦を強いられ、最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされた。
このうち一番隊は藩主・松平容保の護衛に当たったが、二番隊は戸ノ口原の戦いで決定的打撃を受けて潰走し、そこで数名の戦死者が出た。
8月23日に負傷者を抱えながら残りの合計7人(20人という説もある)が郊外の飯盛山へと落ち延びた。
滝沢峠の間道を通り、戸の口堰の洞門をくぐり飯盛山に辿り着くと、鶴ヶ城の天守閣は黒煙に包まれ、姿が見えなかった為に落城したと思い込んでしまった。
深手を負っていた隊士達は、入城か突撃か激論を交わしたものの、敵に捕まり生き恥を晒すよりはと、武士の本分を明らかにするために、結果として7名(20名という説もある)が自刃を決行し、6名(19名という説もある)が自刃を決行した。
唯一、飯沼貞吉(のち貞雄と改名)のみが蘇生し、一命を取り留めた。
白虎隊自刃後も籠城戦は1か月続いたが、最終的に会津藩は降伏した。
白虎隊の生存者の飯沼翁は、電信技士として明治・大正を生き抜き、昭和6年に77歳で没した。
飯盛山での出来事についてその重い口を開いたのは晩年だったそうで、そこから白虎隊の悲劇が現在に伝わる事となる。
飯沼の遺骨は遺言により飯盛山に眠る同志と同じ場所に埋葬され、同じく飯盛山に墓碑が建立されている。
墓所には松平容保揮毫「嗚呼忠烈白虎隊」の慰霊碑が建立されているが、これは紛れもなく、楠木正成自刃の地・湊川の大楠公墓碑として水戸藩藩主・徳川光圀が建立した「嗚呼忠臣楠子之墓」に準えたものである。
https://youtu.be/vLZS4cjcI0M
刀の鍔を復刻する - Utsushi - in search of Katsuhira's tiger.
You Tubeより転載・元動画:https://youtu.be/wGMj7o6AwnM
萩谷勝平(江戸末期~明治時代に活躍した水戸藩の彫金師)作の鍔のレプリカを
現代の彫金師 Ford Hallam 氏 https://www.fordhallam.com/ が製作するドキュメンタリーです。
【坂東太郎】常陸国太田城 令和4年(2022) 仲冬
2022年の1月上旬、茨城県常陸太田市にある太田城跡を訪れました。
城の起源は明らかではありませんが、天仁2(1109)年に藤原通延(藤原秀郷の四世)が、下野国から太田郷に入り、太田大夫と称して築城したのが始まりであると伝わります。
後に佐竹隆義が当時の太田城主・藤原通盛(通延の孫)を服属させたのち、通盛を小野台地(瑞竜中学校周辺)に移して「小野崎氏」を名乗らせ、自らが太田城に入りました。
以降、佐竹氏代々の居城でしたが、戦国末期の当主・佐竹義宣が水戸城に本拠を移しました。
その後、江戸幕府の一国一城令により廃城となりましたが、城の機能は一部残され「太田御殿」と呼ばれ、水戸藩の附家老の中山氏が管理していたようです。
本郭は現在の太田小学校一帯。 二の郭は内堀町から若宮八幡宮一帯。 三の郭は栄町の大部分で北側が搦手とよばれている。 これらの郭は明治の初期に国から町の有志に払い下げられ、土塁をくずし堀を埋めて宅地や道路が造られたが、大正末期まで土塁や郭の一部が残っていたとのことですが、発掘調査により、江戸時代の古地図にはない大規模な堀跡等も発見されており、今後の調査によって縄張が大きく変わる可能性もある城です。
常陸太田駅から、鯨ヶ丘・法然寺・若宮八幡宮・太田城・駒柵(帰願寺)・久昌寺・西山公園・三峯神社・梅照院と訪れています。城は鯨ヶ丘という南北に長い河岸段丘の上に築かれており、長野県の飯田城や後の佐竹氏の居城である水戸城との類似点も興味深かったです。
佐竹氏の次の居城・水戸城 → sm21235924
佐竹氏の次の次の居城・久保田城 → sm26949128
お城→mylist/37297571
提灯の灯りが未来を照らす黄門さまの街 -茨城・水戸市-
黄門様や納豆で知られる水戸は、岐阜や福岡の八女と並ぶ提灯の三大産地のひとつ。水戸の別の呼び名「水府」から水府提灯と呼ばれている。約100年前から提灯の製造販売を行っている青野商店では先代の後を継ぎ、三姉妹で伝統の水府提灯を守っている。一方街では水戸藩開藩400年を記念し、市民達による映画作りが始まっているほか、コミックマーケットが開かれ、伝統工芸である提灯と萌えキャラのコラボで盛りあがる…
タイムボカン 逆襲の三悪人 第9話 水戸黄門と日本テレビ水卜アナのビックリドッキリな関係とは!?
時代劇“水戸黄門”でおなじみの水戸藩二代目藩主『徳川光圀』を探して、1697年の水戸藩へやって来た三悪。すると、うまかっぺ~と叫ぶ黄門さまの声。食べる事が大好きらしく水餃子を頬張りご満悦の様子。そこへタイムボカンして現れたのは…日本テレビアナウンサーのミトちゃん!?
トキオ:若山 晃久/カレン:鬼頭 明里/美麗:皆口 裕子/O-3(オースリー):津田 健次郎/ビマージョ:喜多村 英梨/ツブヤッキー:平田 広明/スズッキー:三宅 健太
チーフプロデューサー:菊川 雄士、桑原 勇蔵/プロデューサー:永井 幸治、渡邊 季之/監督:稲垣 隆行/シリーズ構成:加藤 陽一/クリエイティブ・プロデューサー:日野 晃博/企画協力/キャラクターメカ原案:レベルファイブ/キャラクターデザイン:吉松 孝博/メカニックデザイン(ボカンメカ):川原 智弘/メカニックデザイン(アクダーマメカ):大河原 邦男/音楽:蓑輪 単志/原作・アニメーション:タツノコプロ/制作:読売テレビ・タツノコプロ
© タツノコプロ・読売テレビ
so42420042←前話|次話→so42420040 第一話→so42420114
北辰一刀流兵法組太刀
江戸時代より東武館に伝わる北辰一刀流。北辰一刀流の形は43本で、代表的なものに「一つ勝」「二本目」「三本目」「乗り身」「高霞」「拳の払」「浮」「地生」などがあります。平成25年2月に、水戸市指定の無形文化財に登録されました。
新田宮流抜刀術の動画はこちら
水戸市公式チャンネル「Mito Movie Report」はこちら
ビデオ広報水戸 VOL.33 「田谷の棒術」(平成7年2月作成)
水戸市のビデオ広報のアーカイブ映像です。(平成7年2月作成)田谷の棒術は、正式には無比流兵杖術といいます。関ケ原の合戦(1600年)で奮戦した、黒田家の槍の名人、佐々木哲斎徳久という人物によりあみだされ五尺五寸(1.67m)の樫の棒を自由自在にあやつり威力を発揮する武術です。古くは戦災や飢饉の折に、野武士や盗賊の侵入を防ぐため、水戸藩が民衆自衛の武術として農民、漁民に奨励し定着したといわれています。平成23年10月に、水戸市の無形文化財の保持団体に指定されました。※水戸芸術館HPから転載
北辰一刀流剣術
youkuより。北辰一刀流開祖、千葉周作が水戸藩で指導した北辰一刀流です。代々水戸東武館に伝わりました。演じられる組太刀は格と呼ばれており、北辰一刀流の元になった一刀流(中西派もしくは小野派)の組太刀とほぼ一緒です。形の一本目『一ツ勝』の最初の業が、有名な一刀流の切落の代表とされているようですね。使っている大きい小手は鬼篭手といって、他の一刀流諸流(小野派、中西派、無刀流)でも使用されている由緒正しい一刀流の稽古道具です。最近雑誌で紹介される北辰一刀流は、東京の玄武館(小西師範)ばかりで、こちらの玄武館では一刀流の形は紹介されない(今は稽古されていない?)ようなので、伝統的な北辰一刀流の形はめずらしいと思います。その他日本の伝統武術http://www.nicovideo.jp/mylist/1401423
幕末が舞台の小説・漫画紹介 佐幕サイドその1
井伊直弼、徳川慶喜、勝海舟、小栗上野介ら幕閣要人の関連作品を紹介。
動画は『太閤立志伝V』のゲームを使用し、『維新の嵐 幕末志士伝』のキャラクターを登場させて録画するという変則的な方法をとっています。
シリーズ→mylist/21468743
(佐幕サイドお品がき)
その1 幕臣 ※この動画
その2 奥羽越列藩
その3 新撰組
その4 分類の難しいひとたち(水戸藩など)
志士サイド → sm12152628
医術サイド → sm13265718
Q.この人選、「ガットリング」がやりたかっただけでは?
A.大正解。
【天狗党の乱】これが史実の大洗戦です!【幕末】
これは今から150年前の幕末。水戸藩では天狗党の乱が発生し、幕末史上類を見ない悲劇が起こりました。
この動画は天狗党の乱に巻き込まれた大洗での戦い(世に言う那珂湊の戦い)を
取り上げています。
動画閲覧後、ガルパン巡礼や幕末勉強している時に「過去にこの場所でこんなこと
あったんだ」って知って頂きたいです。
この動画を天狗党の乱で亡くなられた方々に捧げます。
予告動画→sm26857666
【FotS】幕末 会津藩興亡記 第二話 「水戸藩攻略戦」
こんばんはOzawaです。第二話は水戸藩攻略戦です。
このキャンペーンには動画中に掲載されている3つのMODを採用しています。Steamのワークショップにて簡単に導入できるので皆さんも一度入れてみてはいかがでしょうか。
マイリスト mylist/19313476
コメントできない方はこちらから sm20023963
前回 sm19973164
追記:5/21 r2twの予約が開始されました。とりあえず動画製作も再開していきたいと思います。
次回 sm20921291
第3週6話安政の大獄と桜田門外の変【CGS 倉山満】
『じっくり学ぼう!日本近現代史』第3週ペリーが来る!だから、どうした?
第6話安政の大獄と桜田門外の変
講師:憲政史家倉山満、聞き手:神谷宗幣
公式ブログhttp://ameblo.jp/cgsinfo/
第3週 mylist/37097043 第2週 mylist/37011686 第1週 mylist/36865837
今回は、井伊直弼が水戸藩士に殺された桜田門外の変と、その前に行った、安政の大獄のお話です。
惜しい人たちを沢山亡くしました・・・
しかし、それが維新のきっかけになったのかも?
CGS FBPage http://www.facebook.com/ChGrandStrategy
【ゆっくり解説】憎しみの応酬!?徳川家斉の子供受け入れの悲劇がここに!?
https://www.youtube.com/channel/UClDPYDoLKQ9AMaPYeTSgvXQ?sub_confirmation=1
YouTubeでも動画投稿をしています。
#ゆっくり解説 #天狗党の乱 #しくじり大名
※諸説あります。
徳川家斉の子供は多方面にいきましたが、様々なトラブルがあったようです。今回は水戸藩の悲劇に迫ります。
橋本左内 幕末の国家戦略
橋本 左内(はしもと さない)は幕末の越前国福井藩士。著書に『啓発録』。嘉永2年(1849年)、大坂に出て適塾で医者の緒方洪庵・杉田成卿に師事し蘭方医学を学んだ後、水戸藩の藤田東湖・薩摩藩の西郷隆盛、梅田雲浜や横井小楠らと交流。越前・福井藩主の松平春嶽に登用され、藩医や藩校・明道館学監心得となり、一橋慶喜(徳川慶喜)擁立運動を展開。幕政改革、幕藩体制は維持した上での西欧の先進技術の導入、日本とロシアの提携の必要性を説くなど開国派。安政の大獄で小塚原刑場にて斬首。享年26。墓は吉田松陰などと共に南千住回向院。西郷南洲翁遺訓→sm6932526 福沢諭吉「帝室論」→sm5120245、山崎闇斎「拘幽操」→sm7538203、山崎闇斎「湯武革命論」→sm7541823、藤田東湖「回天詩史」→sm7498295、藤田東湖「正気歌」→sm7489721
[ゆっくり解説]日本史の時間です。第11回 ~孝明天皇編~
日付の読み方が変なところが多々ありますが気にしたら負けです。
前:sm29608681 次:sm29790509 マイリスト:mylist/56859175
<訂正>御趣意書を幕府に送ったと言っていますが水戸藩の間違いです。
ツイッター→https://twitter.com/pakuti_nihonshi
続・桜田門外の変(桜田門外ノ変)
吉村昭の小説「桜田門外ノ変」をもとにドラマと資料を交えて構成されたドキュメンタリーの一部。桜田門外の変は、安政7年3月3日(1860年3月24日)に江戸城桜田門外(東京都千代田区)において水戸藩、薩摩藩の脱藩浪士が彦根藩の行列を襲撃して、大老・井伊直弼を暗殺した事件 戦史・政争関係mylist/22353054 Youtubeより転載http://www.youtube.com/watch?v=WVogg_vDCSs 桜田門外の変(桜田門外ノ変)→sm12666157
楠公祭、無事終わりました 〜湊川神社・湊川の戦い〜
楠公祭本祭、無事、斎了されました。
687年前の旧暦の本日、楠木正成公は、ここ湊川の地にて七生報國を誓い殉節されました。
その後、水戸藩主・徳川光圀公によってこの地に「嗚呼忠臣楠子之墓」墓碑が建立され、幕末に維新の志士らの崇敬の対象地となりました。
大東亜戦争末期には、楠公の精神を背負った英霊による菊水作戦、則ち沖縄特攻のもと、七生報國の鉢巻を巻き、護国の英霊が散華された事は記憶に新しいところです。
戦後GHQにより、大和魂の根源というべき楠公精神は封印されましたが、民族の尊厳として、この精神を後世に伝えていく事の必要性を尚一層、強く感じております。
楠公祭では、本殿での神事に引き続き、神能殿にて柳生新陰流兵法による演武と楠公歌の会による奉納、直会があり、多くの方々がご参列くださり、大いに賑わいました。
昨日今日と素晴らしい晴天に恵まれ、大楠公の神恩に感謝すると共にご参列くださいました皆様の楠公崇敬の思いに、深く感動しております。
まずは、無事の祭典斎了のご報告と御礼とさせて頂きます。
今後共、楠公嫡孫として精進して参りますので、引き続き、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
ご好評頂いております『建武中興と楠木正成の真実』https://amzn.asia/d/iBKeVYi も併せて宜しくお願い申し上げます。
#楠木正成 #末裔 #南北朝
【水戸郷土かるたPart2】水戸藩ラーメン食べてきました【CeVIO旅行/ささらのまんぞく】
水戸郷土かるた全54枚で紹介されているスポットを
「いろは歌」ならぬオリジナルの「らむう歌」の順番に巡る旅のパート2!
「らむう歌」の内容の詳細が分かる(?)パート1はこちら
https://www.nicovideo.jp/watch/sm41855884
まだ3ヵ所しか巡っていない一行ですが、さっそく寄り道したみたいです。
ラーメン美味しいですもんね。仕方ないね。
どうなる水戸郷土かるた巡りの旅!?
(今のところ全4~5回での完結を予定しています)
★いいねのお礼は、川崎製麺所さんのおみやげ用「水戸藩らーめん」のお値段です!
3月は不定期更新となりましてご心配おかけしております><
皆様のお優しいお言葉を胸に、目の前の忙しさをやっつけて参ります!!
★前回も引き続き動画へのあたたかいコメント・いいね本当にありがとうございます!
★そして広告・フォローしてくれた皆様本当にありがとうございます!
幕末志士達のくにおくん時代劇実況 其の参
安政七年三月三日、江戸城桜田門外にて
幕府大老、井伊直弼が水戸藩浪士らにより誅殺。
その報を聞いた志士達は今後のあり方を決めんと肥前に向かう。
しかしそこには既に、幕府の刺客が両者を討たんと待ち伏せていた。
sm4667260 ← 前 次 → sm4831502
ゲーム実況まとめ : mylist/8299531
更新情報(Twitter) → https://twitter.com/kirizaki_ei
単発動画まとめ : mylist/10539272
生放送まとめ : mylist/53482635
幕末志士チャンネル : ch.nicovideo.jp/bakumatsu
【大食い】水戸光圀公も愛した「水戸藩らーめん」総重量【4.0kg】をますぶちさちよさんがペロリ!
テレビでも大人気の“ミス大食い”ますぶちさちよさんが、いばらきの味覚を食べ尽くす!
茨城県内の大盛りのお店を中心に紹介する「いばらきペロリ」。
出演は、元ミス鎌倉の美人フードファイターますぶちさちよ。
テレ東の大食い王決定戦(2014)で準優勝にもなった、大注目のフードファイター!
今回のいばらきペロリは、茨城県の水戸にある大興飯店で、水戸光圀公も愛した「水戸藩らーめん」総重量【4.0kg】をペロリ!
店舗名:大興飯店
住所:茨城県水戸市袴塚3-9-16
電話番号:029-226-5837
営業時間:11:00~14:30 17:00~22:00
定休日:月曜日