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2022.6.28【不動護摩供】11時〜
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【講義アーカイブ】『五輪九字明秘密釈』を読む 第24回(講師:亀山隆彦)[2022年6月22日]
院政期を代表する真言密教僧、覚鑁(1095~1144)には既にまとまった研究がいくつも存在するが、それらは等しくある研究課題を克服できないままと考える。日本仏教史であれ真言密教史であれ、従来の研究は常に覚鑁を一つないし複数の思想潮流の「中途」に位置付け、その観点からしか同僧とその思想の意義を分析してこなかった。
具体例をいくつか挙げておくと、覚鑁は空海没後、荒廃の極みにあった高野山と真言教学を「復興」し、後の真言宗隆盛の礎を作ったと先ず主張される。あるいは鎌倉中期の頼瑜(1226~1304)に先んじて、後の新義真言教学の基礎を樹立したともいわれる。さらに平安「旧」仏教から鎌倉「新」仏教への転換期に生き、それらの橋渡し役となる、法然や親鸞にとっての先駆の役割を果たしたと説かれることもある。今日の古義と新義の両真言宗、あるいは鎌倉「新」仏教を目的地とする道程の途中に、覚鑁のための場が設けられてきた。
フランスの哲学者であるルイ・アルチュセール(1918~1990)の言葉を借りれば、覚鑁は常に「目的地」を想定し「前未来形」で書かれる歴史の中で解釈され、その外に出ることは稀であった。このような「目的論的」(teleological)な理解から覚鑁とその言葉を解放し、同僧の思想の全体性・体系性を回復することこそが、本講義の最終的な目標である。
具体的には平安末期の日本仏教界と真言密教の状況を細かく把握した上で、覚鑁の主著ともいわれる『五輪九字明秘密釈』の読解を試みる。『五輪九字明秘密釈』は、非常に複雑な構造を有す文献でありながら、例えばその「密教浄土教」的な主張ばかり強調される等、総体として本書を読む試みはほとんどなされてこなかった。本講義では、まさにこの『五輪九字明秘密釈』を総体として読み、その中に隠された体系を解明すると共に、覚鑁の言葉や思考を規定していただろう深層の「規範」(paradigm)についても分析したい。
※ この講義の配布資料( http://ow.ly/R6e530skCiJ )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
冥鳴ひまりがひたすら光明真言を唱えるだけの動画
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ニコ生もやってます
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【講義アーカイブ】『五輪九字明秘密釈』を読む 第23回(講師:亀山隆彦)[2022年5月25日]
院政期を代表する真言密教僧、覚鑁(1095~1144)には既にまとまった研究がいくつも存在するが、それらは等しくある研究課題を克服できないままと考える。日本仏教史であれ真言密教史であれ、従来の研究は常に覚鑁を一つないし複数の思想潮流の「中途」に位置付け、その観点からしか同僧とその思想の意義を分析してこなかった。
具体例をいくつか挙げておくと、覚鑁は空海没後、荒廃の極みにあった高野山と真言教学を「復興」し、後の真言宗隆盛の礎を作ったと先ず主張される。あるいは鎌倉中期の頼瑜(1226~1304)に先んじて、後の新義真言教学の基礎を樹立したともいわれる。さらに平安「旧」仏教から鎌倉「新」仏教への転換期に生き、それらの橋渡し役となる、法然や親鸞にとっての先駆の役割を果たしたと説かれることもある。今日の古義と新義の両真言宗、あるいは鎌倉「新」仏教を目的地とする道程の途中に、覚鑁のための場が設けられてきた。
フランスの哲学者であるルイ・アルチュセール(1918~1990)の言葉を借りれば、覚鑁は常に「目的地」を想定し「前未来形」で書かれる歴史の中で解釈され、その外に出ることは稀であった。このような「目的論的」(teleological)な理解から覚鑁とその言葉を解放し、同僧の思想の全体性・体系性を回復することこそが、本講義の最終的な目標である。
具体的には平安末期の日本仏教界と真言密教の状況を細かく把握した上で、覚鑁の主著ともいわれる『五輪九字明秘密釈』の読解を試みる。『五輪九字明秘密釈』は、非常に複雑な構造を有す文献でありながら、例えばその「密教浄土教」的な主張ばかり強調される等、総体として本書を読む試みはほとんどなされてこなかった。本講義では、まさにこの『五輪九字明秘密釈』を総体として読み、その中に隠された体系を解明すると共に、覚鑁の言葉や思考を規定していただろう深層の「規範」(paradigm)についても分析したい。
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金剛院
金剛院は大阪府摂津市にある高野山真言宗の仏教寺院。 味舌寺(ました)とも蜂前寺(ぶぜん)ともいわれた。
○歴史
『摂津名所図会』に天平勝宝年中(749年~757年)、行基が紫雲霊光を目指してこの地に至ると、老翁から精舎を建てなさいと示され、行基自ら薬師如来を彫刻し、放光山昧舌寺と号した。ある年、賊徒の蜂起に村民が防げないでいると、殿内より数千の蜂が出現して退治してくれた。これにより霊蜂山蜂前寺と改めた、とある。 寺伝では永正年間(1504年~1521年)に三宅城城主三宅出羽守国政の外護を得たが、天正年間(1573年~1592年)の兵火で堂宇悉く焼失。寛文3年(1633年)に宥清が再興。元文年間(1736年~1741年)領主織田輔宜の祈願寺となり往古の面影を取戻したという。 『摂津志』には、上梁文に天正15年(1587年)10月3日再建と記す。
○境内
本堂
鐘楼
護摩堂
弁天堂
咤枳尼天堂
蜂塚
○文化財
木造 不動明王立像 大阪府指定有形文化財 (昭和45年2月20日指定)平安時代
○交通アクセス
JR京都線千里丘駅徒歩10分
○所在地
大阪府摂津市千里丘3丁目10-5
【神道シリーズ・シーズン3】第13回・三河大浜騒動(浄土真宗の反撃)
明治新政府は、寺院統廃合と神仏分離政策、および、宮中、伊勢神宮、全国神社の祭祀統一などにより、欧米のキリスト教のような一神教的神道国家の形成を目指したが、そこに大きく立ちはだかったのは浄土真宗とその膨大な数の門徒たちであった。
新政府は寺院の数を減らしたり、寺院を神社に変えたりすることにより仏教の弱体化と国家が直接管理する全国神社により「神道国家日本」を目指したが、その過程で多くの真言宗、天台宗、曹洞宗、臨済宗、日蓮宗などの寺院が廃寺化されたが、それはすべて朝廷の命令の下にという口実で強権を持って進められた。
しかし、阿弥陀如来以外を信仰対象としない浄土真宗にはもともと権現とか明神と言った神祇信仰は持たなかった為、国家神道を押し付ける新政府の政策には強く抵抗した。
寺院統廃合政策に対して浄土真宗は全国で抵抗を続けたが、明治4年(1972年)2月に富山で2000人以上の真宗門徒農民の一斉蜂起が起きた翌月の3月には三河の大浜で真言宗僧侶や門徒農民数千人による大浜騒動が起き、暴動自体は鎮圧されたものの、それにより大浜での寺院統廃合および神道化政策は中止となり、この動きは全国的な真言宗の抵抗運動に大きな弾みをつけると同時に、新政府の神仏分離政策や廃仏毀釈運動に対して大きなブレーキをかけて行くこととなった。
現在の愛知県碧南市、西尾市、安城市を含む三河大浜の地域は、当時、千葉県に本拠地を置く菊間藩の遠隔飛び地として菊間藩の管轄下にあり、藩は、平田国学の門下生で小参事の服部純を大浜の寺院統合および神道化政策のトップとして派遣した。
この動きに不満を訴えた大浜の真宗寺院の僧侶たちは暮戸会所に集まり、藩の本部である大浜陣屋に談判に出かけることを決めたが、その道中、多数の真宗門徒農民たちが集まり、談判団の数は数千人に膨れ上がり、僧侶たちは彼らに解散を求めたが応じず、結局大浜陣屋北の片山家庄屋で暴動となり、藩側が砲撃により鎮圧に乗り出すこととなった。
結果は、事態の大きさに対して藩側の処罰は予想よりはるかに軽く、このことからしても真宗を挑発することの恐怖感を藩が感じていたことを物語る。
新政府の強引ともいえる国家神道化計画は、当時東部中国地方から畿内、中部地方全域、そして関東の一部にまで勢力を持ち、当時の人口の三分の一から二分の一近くを占める真宗門徒たちを無視して進めることはできず、結果、神道化政策もかなり形骸化される結果となったのである。
【神道シリーズ・シーズン3】第12回・東京(浅草寺・増上寺・寛永寺・宮中)における廃仏希釈
京都で長い伝統を持つ送り火や節分節句、門松、七夕、七五三などが禁止され、奈良では多くの名刹巨刹の寺院が廃され、住民と政府との間で強い摩擦が生じていた頃、東京と改名した江戸では、神仏習合して長い歴史を持ち、徳川から深い敬愛を受けていた増上寺、寛永寺、浅草寺などが神仏分離の名のもとに境内にあった権現社などが次々と切り離され、神社化された。
しかし、地元住民の深い信仰で支えられていた浅草寺では新政府の思惑通りには進まず、7世紀に隅田川で聖観音を見つけた漁師の檜前浜成・竹成兄弟とそれを自宅を寺院に変えて祀った土師中知の三名を三社権現という神として祀る浅草寺の由緒社伝は室町時代頃に作られ、新政府は浅草寺境内にあった三社権現社を浅草神社としたが、権現号自体は取り払われたものの、今でもこの三名を神として祀っており、さらに由緒もありのままが書かれている。
徳川の菩提寺であった増上寺と祈願寺であった寛永寺も廃仏毀釈の嵐に邁偶することとなる。
増上寺は浄土宗の寺院であったが、元は真言宗の寺院であった為、熊野権現社、車折明神社など11の社を抱えていたが、それらの社の旧社殿はすべて破却され、幸稲荷神社とされた幸稲荷社にすべての権現・明神が大神として合祀された。
天台宗の寺院・寛永寺は、山主に代々皇族出身の法親王が就き、輪王寺号を継承し、天台座主と日光山門主も兼帯し、形式上将軍と対等の地位を持っていた。
しかし、その寛永寺も、慶応4年1868年10月に新政府軍と旧幕府側の彰義隊が上野で戦闘を始めた時、新政府軍は恭順した増上寺を基地とし、寛永寺に立てこもる彰義隊を攻撃し、僅か1日で勝利し、戦禍にまみえて寺院は悉く焼け落ち、彰義隊の死体の山と化してしまった。
その後、新政府は寛永寺の境内の不忍池にあった弁天堂に鳥居があったため、堂舎を取り壊そうとしたが、僧侶や信徒たちによる必死の抵抗により、鳥居のみを取り壊すことにより仏教寺院として維持していくことを可能とした。
東京遷都に伴い、江戸城を新皇居とした明治政府は、京都御所から歴代天皇の位牌や念持仏を祀る御黒戸を撤去し、それまで中国式であった皇室儀礼をすべて明治に作られた神式に変え、皇室祭祀の中心であった仏教祭祀や皇位継承儀式をすべて廃止し、新しい神道式に変えた。
こうした一連の、新政府による伝統否定政策は、逆にこんにちで言う「神道」なるものが明治に作られ、明治より始まったのだという事実を証明することになってしまったのである。
2022.4.28【不動護摩供】11時〜
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【講義アーカイブ】『五輪九字明秘密釈』を読む 第22回(講師:亀山隆彦)[2022年4月27日]
院政期を代表する真言密教僧、覚鑁(1095~1144)には既にまとまった研究がいくつも存在するが、それらは等しくある研究課題を克服できないままと考える。日本仏教史であれ真言密教史であれ、従来の研究は常に覚鑁を一つないし複数の思想潮流の「中途」に位置付け、その観点からしか同僧とその思想の意義を分析してこなかった。
具体例をいくつか挙げておくと、覚鑁は空海没後、荒廃の極みにあった高野山と真言教学を「復興」し、後の真言宗隆盛の礎を作ったと先ず主張される。あるいは鎌倉中期の頼瑜(1226~1304)に先んじて、後の新義真言教学の基礎を樹立したともいわれる。さらに平安「旧」仏教から鎌倉「新」仏教への転換期に生き、それらの橋渡し役となる、法然や親鸞にとっての先駆の役割を果たしたと説かれることもある。今日の古義と新義の両真言宗、あるいは鎌倉「新」仏教を目的地とする道程の途中に、覚鑁のための場が設けられてきた。
フランスの哲学者であるルイ・アルチュセール(1918~1990)の言葉を借りれば、覚鑁は常に「目的地」を想定し「前未来形」で書かれる歴史の中で解釈され、その外に出ることは稀であった。このような「目的論的」(teleological)な理解から覚鑁とその言葉を解放し、同僧の思想の全体性・体系性を回復することこそが、本講義の最終的な目標である。
具体的には平安末期の日本仏教界と真言密教の状況を細かく把握した上で、覚鑁の主著ともいわれる『五輪九字明秘密釈』の読解を試みる。『五輪九字明秘密釈』は、非常に複雑な構造を有す文献でありながら、例えばその「密教浄土教」的な主張ばかり強調される等、総体として本書を読む試みはほとんどなされてこなかった。本講義では、まさにこの『五輪九字明秘密釈』を総体として読み、その中に隠された体系を解明すると共に、覚鑁の言葉や思考を規定していただろう深層の「規範」(paradigm)についても分析したい。
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【神道シリーズ・シーズン3】第11回・奈良・京都における廃仏毀釈(伝統文化破壊と否定)
明治を迎えてから1200年以上の伝統を抱えてきた奈良・京都も激しい廃仏毀釈の影響を受けることになり、興福寺の広大な寺領の中で神の使いとして大切に飼われてきた鹿が殺され、すき焼きの肉にされたり、京都でも盆踊り、送り火、地蔵祭を始め、門松、端午の節句、七夕までをも禁止されるという、およそ京都の歴史や文化そのものまでも全否定するような極端な廃仏政策が強行された。
奈良では、藤原鎌足の菩提として、和銅3年(710年)の平城京遷都とともにほぼ同時期に建立された氏神社・春日大社と氏寺・興福寺は、明治前まで一体となって繁栄してきたが、慶応3年(1868年)の神仏混交禁止令により、両者を完全分離し、春日大社内の仏像・仏具を興福寺に移したのみならず、奈良県庁は興福寺の廃寺化を目指し、日吉社での暴力的な廃仏毀釈の知らせに恐れおののいていた興福寺の僧侶たちを還俗させ、寺から追い出し、無住にした後、県庁は、無住を理由に興福寺を廃寺とした。
廃仏毀釈のほとぼりが冷めたら再び出家して興福寺に戻りたいと願っていた還俗僧侶たちの希望を打ち砕くように、興福寺の仏像・仏具・堂宇などは悉く破壊され、シンボルであった五重塔さえ売却破却の危機に晒された。
一方、700年以上の歴史を持つ名刹で巨大寺院の真言宗・内山永久寺は、完全に破壊され、境内にあった布留大権現を祀る布留社が石上神宮にされ、一瞬にして歴史ある巨大寺院は消滅し、境内の一部が神社にされるという運命を辿ることとなった。
しかし、興福寺や内山永久寺での廃仏毀釈は、多くの国宝級の宝物が失われることとなり、破壊棄却のみならず、かろうじて難を逃れた仏像や宝物も国内のみならず、英国のロンドン美術館やアメリカのニューヨーク美術館などにただ同然で明け渡され、国内に残った堂塔、堂宇、仏像なども一部の収集家の手に渡り、やがて各地の美術館に保存されることとなった。
また、摂津国阿威山で没した藤原鎌足の遺骨が、鎌足の息子で、不比等の兄であった僧侶の定慧によって移された大和国の多武峰に建てられた妙楽寺は、その後、天台宗の寺院となったが、この1100年以上の歴史がある名刹寺院も
明治期に廃され、僧侶は還俗させられ、そのまま神職とされ、寺は仏像・仏具は廃棄されたものの、その建築物の立派さから破壊は免れ、寺院の建物はそのまま新設神社・談山神社とされてしまった。
この、古事記・日本書紀の神々にまったく無関係の妙楽寺は、明治政府によって一瞬にして神社にされてしまったのだ。
明治期には、こうした名刹の寺院が次々と廃寺になり、それが神社にされてしまうというパターンが続いたのだが、特に奈良では名刹中の名刹と言われる巨大寺院が破却されて神社にされてしまうところが多かった。
【神道シリーズ・シーズン3】第10回・伯耆大山・竹生島・金毘羅の廃仏毀釈
鳥取県の伯耆大山では、奈良時代から一貫して続いていた地蔵菩薩信仰が鳥取藩の神社取締役の国学者役人である小谷古陰によって伯耆大山信仰の中心であった大山寺が廃寺にされ、そこに大山はもともと大山祇命の信仰の地であったが出羽の衆徒らが乗り込んできて地蔵信仰を大山祇命と習合させたのだ、という歴史的にありもしなかったストーリーを捏造し、大山寺は廃寺改装され、
新設の大神山神社の一部とされてしまった。
そしてやがて、そこに平田国学派の役人たちが祭神を大国主神に変更するよう建白書を出し、それが通ってしまい、地蔵菩薩信仰の中心地大山寺は大国主を祀る神社となってしまったのである。
琵琶湖に浮かぶ小島、竹生島は、聖武天皇の時代に行基を派遣して仏教の神・弁財天を祀るように命じたことに始まり、その時に創建された宝厳寺が竹生島弁財天大権現を祀り、竹生島弁天信仰の中心となってきた。
しかし、明治政府は、琵琶湖を管理する大津県庁を通じて、強引に宝厳寺を延喜式神名帳にある都久夫須麻神社であると主張し、宝厳寺を廃して神社へ改変してしまった。
宝厳寺側は抗弁したものの受け入れず、朝廷の命令であることを強調して、背けば朝敵になり成敗されると脅迫されて強行した。
金毘羅信仰は、16世紀頃から讃岐の地で真言宗の松尾寺がヒンズー教の水神クンビーラを十一面観音を本尊とする金毘羅権現として祀ったことに始まり、
明治前まで金毘羅信仰は盛んで、全国から金毘羅講の参詣客が訪れ、讃岐の地は「こんぴらさん」で親しまれるようになっていた。
しかし、新政府から派遣された平田派国学者の役人たちは、平田篤胤の著書「玉襷」の総論追加から引用した、琴平はかつて大国主神の別宮であった、という創作話を根拠に、松尾寺を廃し、そこを大国主を祀る神社にするように命令し、松尾寺最後の住職・宥常は、最初は抵抗したものの、結局松尾寺の神社化を受け入れ、松尾寺を改変して金刀比羅神社とし、自ら還俗してその神社の初代宮司となり、仏像仏具を廃棄し、神道化を進めた。
しかし、宥常は、松尾寺にあった本尊の十一面観音像だけはかたくなに死守し、後に旧松尾寺の院の一つだった普門院が新松尾寺となると、この十一面観音像を巡り所属訴訟まで起こることとなった。
かくして、伯耆大山、竹生島、讃岐と、すべてが明治前までお寺であったところが神社にされ、由緒社伝まで捏造されていったのである。
新野駅から平等寺へ歩いていくよ
徳島県にあるJR牟岐線新野駅から歩いて平等寺へ向かいます。
春の心地よい風を感じながら一緒に歩きましょう!
【知って得する蝋燭の消し方】意外と知らない安全な消し方
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Kichijoji is a temple of the Koyasan Shingonsect.
Introducing how to chant sutras and mantras.
We hope that the Shingon Esoteric Buddhism transmitted by Kukai will be useful in your life.
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2022.-4.-6 高尾山薬王院 佐藤貫首晋山式 山麓式典 稚児練行
2022.-4.-6に高尾登山電鉄清滝駅前広場で行われた高尾山薬王院 佐藤貫首晋山式の山麓式典から稚児練行の映像です。
【神道シリーズ・シーズン3】第9回・秋葉・祇園・天満宮・白山の廃仏毀釈
明治の神仏分離政策で多くの寺院が破却され、その寺院がそのまま神社に改変されることにより寺院の神社化が次々と進められて行った。
稲荷大社、春日大社、住吉大社、鹿島大社などの氏神の系統の神社を除けば、それ以外のすべての神社は明治時代に寺院を廃してそのまま神社化したケースや、寺院が管理する権現社、明神社、堂宇、宮などを神社にしてしまったケースのどちらかに属している。
つまり、伊勢神宮の系列、および上記の氏神系神社の系列を除けば現在存在する神社のほぼすべては明治前までは寺院ないし寺院の管理する仏教系の神々を祀る社であったのである。
秋葉信仰は、明治前までは秋葉寺が中心となった火消しの神・秋葉三尺坊の信仰が続いていたが、明治になると秋葉寺は新政府により廃寺にされ、秋葉寺は仏像仏具を取り除かれ、そのまま新設の
秋葉神社に改変改装されたが、今でも秋葉山の信仰は火消しの神、秋葉三尺坊大権現の信仰のままであり、秋葉山の祭祀やお祭りも秋葉寺や曹洞宗の寺院・可睡斎が中心で行われており、明治に新設された秋葉神社にはまったく存在感がない。
一方、京都の八坂神社は明治前までは天台宗の寺院・観慶寺の感心院の境内に設けられた仏教の神・牛頭天王を祀る社殿で、祇園社と呼ばれていた。
牛頭天王は播磨の廣峯社を中心に蘇民将来説話の武塔天神と同一視され薬師如来の垂迹とされ、また、中国の道教神の天刑星とも習合した仏教神で、その信仰は、京都祇園も含め全国に点在するように広がっていた。
祇園社では、牛頭天王とその妻、ハリサイニョと、8人の息子たち八王子を祀っていたが、明治政府は、それをスサノオとクシナダヒメとスサノオの8人の息子たちに置き換え、祇園社を八坂神社と言う神社にしてしまった。
しかしながら、現在でも八坂では祇園祭が行われており、全国でも牛頭天王を祀っていた現神社元寺院の地域では現在でも各地で天王祭が行われている。
北野天満宮は元道真を祀る天台宗の朝日寺の曼殊院門跡であり、大宰府天満宮は大宰府の真言宗の寺院・安楽寺であった。
十一面観音を本尊とし、雷神と道真の御霊が習合した天神信仰を、明治政府はこれを北野神社と改めたが、今でも天満大自在天神社と「大自在天」の名称が残っている。
そして、北野も大宰府も今でも祭神は道真のみで記紀の神は充てられていない。
白山を囲む三つの白山神社はもともといずれも平泉寺、長瀧寺、白山寺という天台系の寺院で、明治政府はこれらの寺院を強引に神社に変えたものの、今でも平泉寺白山神社、長瀧白山神社と、寺院の名称を残し、修験道的な神事を残している。
2022.3.28【不動護摩供】11:00
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院政期を代表する真言密教僧、覚鑁(1095~1144)には既にまとまった研究がいくつも存在するが、それらは等しくある研究課題を克服できないままと考える。日本仏教史であれ真言密教史であれ、従来の研究は常に覚鑁を一つないし複数の思想潮流の「中途」に位置付け、その観点からしか同僧とその思想の意義を分析してこなかった。
具体例をいくつか挙げておくと、覚鑁は空海没後、荒廃の極みにあった高野山と真言教学を「復興」し、後の真言宗隆盛の礎を作ったと先ず主張される。あるいは鎌倉中期の頼瑜(1226~1304)に先んじて、後の新義真言教学の基礎を樹立したともいわれる。さらに平安「旧」仏教から鎌倉「新」仏教への転換期に生き、それらの橋渡し役となる、法然や親鸞にとっての先駆の役割を果たしたと説かれることもある。今日の古義と新義の両真言宗、あるいは鎌倉「新」仏教を目的地とする道程の途中に、覚鑁のための場が設けられてきた。
フランスの哲学者であるルイ・アルチュセール(1918~1990)の言葉を借りれば、覚鑁は常に「目的地」を想定し「前未来形」で書かれる歴史の中で解釈され、その外に出ることは稀であった。このような「目的論的」(teleological)な理解から覚鑁とその言葉を解放し、同僧の思想の全体性・体系性を回復することこそが、本講義の最終的な目標である。
具体的には平安末期の日本仏教界と真言密教の状況を細かく把握した上で、覚鑁の主著ともいわれる『五輪九字明秘密釈』の読解を試みる。『五輪九字明秘密釈』は、非常に複雑な構造を有す文献でありながら、例えばその「密教浄土教」的な主張ばかり強調される等、総体として本書を読む試みはほとんどなされてこなかった。本講義では、まさにこの『五輪九字明秘密釈』を総体として読み、その中に隠された体系を解明すると共に、覚鑁の言葉や思考を規定していただろう深層の「規範」(paradigm)についても分析したい。
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戦国大内氏の妙見信仰の跡を訪ねて(二) 妙見宮 降松神社(若宮)と鷲頭寺(改訂・保存用)山口県下松市
本編 妙見宮鷲頭寺 山口県下松市中市にある真言宗の寺院 (〜5:54 降松神社・5:55〜鷲頭寺)
下松。室町〜戦国時代中国地方の覇者として7カ国に君臨した大内氏の始祖伝説にちなむ
地名伝説では下松市は、元々は下松=降松(くだりまつ)だったといわれている
一説では百済津からとも。 画像少し変えた・音楽を入れ替え。
推古天皇十七年(609年)周防国鷲頭庄の青柳浦にある鼎の松(かなえのまつ〜降臨、連理、相生の三本があった)に北辰星の精が天降りましまし百済からの尊貴な方(琳聖太子)の来朝を守護するため
七日七夜輝き神のお告げで祠を建てたと伝説に言われる。
推古三年(695年)に桂木山(笠戸大橋のたもと)というところに祀り洲屋大神と称された〜
大内正恒の時代に高鹿垣山(茶臼山)へ遷座し、大内貞長の頃、鷲頭山(じゅとうざん)に遷され鎮座.
山頂に上宮、中宮本社、麓に若宮と七つの社坊が造営された。大内弘世の時に閼伽井坊など七つの社坊が建てられた大寺であった。
鷲頭山麓周辺は鷲頭の庄とよばれ大内の一族鷲頭(わしず)氏が支配した。一時は鷲頭氏が守護となり主流となるが大内宗家と守護職をめぐる争いで鷲頭氏は白坂山(下松市内)合戦で敗退し家臣団に組み込まれ衰退した。
大内義弘の時代には仁王門や五重塔も寄進されて(現存しない)霊場として繁栄した。
大内氏始祖琳聖太子来朝にまつわる守護神を祀る社寺として尊崇されたその神域の保護は厳重を極めたという。また本拠の山口にある〜氏寺の氷上山興隆寺にも鷲頭山から妙見社を勧請したといわれます 。氏神として北辰妙見大菩薩を大変崇敬した。
現在は明治後、分離されて麓の若宮がアメノミナカヌシを祭神とし降松神社として再編され存続している(若宮と山中に中宮・上宮 山門が現存する)
妙見社は分離され社坊の一つはかろうじて妙見宮鷲頭寺として、古来の北辰妙見の祭祀を守り所縁のある現在地に移転建立された。時代かやや衰微の感は寂しいですね。
戦後勧請された油掛け大黒天もあります(周南七福神だそうです)
音楽 のる様作 2曲 ニコニ・コモンズより使用
3ニコニ・コモンズのる様作 沈む秋。.*:+☆ヒーリングBGM
念願のシリーズ一応完成。山上の中宮さんだけ残すのみとなりました。野犬が怖いからまだ行けていません^^;
【神道シリーズ・シーズン3】第8回・吉野・羽黒三山の廃仏毀釈
現在の日本の神社はほとんどが明治前には寺院であったところが神社に変えられたもので、特に山岳信仰に至っては100%と言ってよいほどもともと寺院と寺院が管理する権現社であったところが明治期に神社に変えられているのだが、その過程の中で名称こそ寺を神社に改められ、権現は大神に変更されても中身の祭祀や信仰だけは維持しようと戦い続けた山岳信仰が多く見られた。
新政府は神仏分離政策を進める中、平田国学に強い影響を受けた役人たちを各地の宗教政策の担当に充て、日本全土の神道化を目指したが、新政府の実現しようとしたその神道化の中身が実は平田神道であり、この神道論・神道説の中には誇大妄想的日本中心主義と顕界と幽界、つまり人の生死の哲学はあってもそれぞれの地で長年信仰され染みついてきた権現信仰や仏教信仰に置き換わりうるだけのコンテンツは到底提供できず、当然地元からは強い反発と抵抗を受けることとなる。
平田国学に染まった役人たちは、道の至る所に散在する地蔵仏や庚申、道祖神、小祠、堂宇などを破壊しまくり、権現社を神社に改め、山頂に鎮座する寺院をことごとく神社に改変してきたが、一番欠けていたものは彼らが唱える「神道」の宗教的コンテンツであった。
吉野では、奈良時代から役小角による修験道と蔵王権現の信仰があり、平安以降は真言宗や天台宗の密教の修行の場となり、地元では陰陽行的な金精明神と密教の蔵王権現信仰が根付いており、また、羽黒山、月山、湯殿山を有する奥羽三山では古くから役小角の影響を受けた能除の修験道が発達しており、さらに中世以降は羽黒山、月山では天台宗、湯殿山では真言宗の修験道が発展し、羽黒山権現、月山権現、湯殿山権現の信仰が定着していた。
こうした密教修験道に基づく強い地元信仰のあった地に新政府は平田国学が提唱する神道という名の新興宗教によって置き換えようとしたが、結果、地元や真言・天台の抵抗もあって、寺院や権現の名称自体は失っても中身の信仰や祭祀は維持するという結果になったのである。
戦国大内氏の妙見信仰の跡を訪ねて(二) 妙見宮 降松神社(若宮)と鷲頭寺 第2稿 山口県下松市中市
妙見宮鷲頭(じゅとう)寺 山口県下松市中市にある真言宗の寺院
下松。室町〜戦国時代中国地方の覇者として7カ国に君臨した大内氏の始祖伝説にちなむ
地名伝説では下松市は、元々は下松=降松(くだりまつ)だったといわれている
一説では百済津からとも。
推古天皇十七年(609年)周防国鷲頭(わしず)庄の青柳浦にある鼎の松(かなえのまつ〜降臨、連理、相生の三本があった)に北辰星の精が天降りましまし百済からの尊貴な方(琳聖太子)の来朝を守護するため
七日七夜輝き神のお告げで祠を建てたと伝説に言われる。
推古三年(695年)に桂木山(笠戸大橋のたもと)というところに祀り洲屋大神と称された〜
大内正恒の時代に高鹿垣山(茶臼山)へ遷座し、大内貞長の頃、鷲頭山(じゅとうざん)に遷され鎮座.
山頂に上宮、中宮本社、麓に若宮と七つの社坊が造営された。大内弘世の時に閼伽井坊など七つの社坊が建てられた大寺であった。
鷲頭山麓周辺は鷲頭の庄とよばれ大内の一族鷲頭(わしず)氏が支配した。一時は鷲頭氏が守護となり主流となるが大内宗家と守護職をめぐる争いで鷲頭氏は白坂山(下松市内)合戦で敗退し家臣団に組み込まれ衰退した。
大内義弘の時代には仁王門や五重塔も寄進されて(現存しない)霊場として繁栄した。
大内氏始祖琳聖太子来朝にまつわる守護神を祀る社寺として尊崇されたその神域の保護は厳重を極めたという。また本拠の山口にある〜氏寺の氷上山興隆寺にも鷲頭山から妙見社を勧請したといわれます 。氏神として北辰妙見大菩薩を大変崇敬した。
現在は明治後、分離されて麓の若宮がアメノミナカヌシを祭神とし降松神社として再編され存続している(若宮と山中に中宮・上宮 山門が現存する)
妙見社は分離され社坊の一つはかろうじて妙見宮鷲頭寺として、古来の北辰妙見の祭祀を守り所縁のある現在地に移転建立された。時代かやや衰微の感は寂しいですね。
戦後勧請された油掛け大黒天もあります(周南七福神だそうです)
音楽 1アップル写真ソフト付属のもので音楽なしはできないので前半そのまま使用(聞いたらうP問題なしだそうですので)、2動画編集ソフト付属のもの。
3ニコニ・コモンズのる様作 沈む秋。.*:+☆ヒーリングBGM
念願のシリーズ一応完成。山上の中宮さんだけ残すのみとなりました。野犬が怖いからまだ行けていません^^;
戦国大内氏の妙見信仰の跡 降松神社と妙見宮鷲頭寺 山口県下松市 初稿
妙見宮鷲頭寺 山口県下松市中市にある真言宗の寺院
下松。室町〜戦国時代中国地方の覇者として7カ国に君臨した大内氏の始祖伝説にちなむ
地名伝説では下松市は、元々は下松=降松(くだりまつ)だったといわれている
一説では百済津からとも。
推古天皇十七年(609年)周防国鷲頭庄の青柳浦にある鼎の松(かなえのまつ〜降臨、連理、相生の三本があった)に北辰星の精が天降りましまし百済からの尊貴な方(琳聖太子)の来朝を守護するため
七日七夜輝き神のお告げで祠を建てたと伝説に言われる。
その後、推古三年(695年)に桂木山(笠戸大橋のたもと)というところに祀り洲屋大神と称された〜
大内正恒の時代に高鹿垣山(茶臼山)へ遷座し、大内貞長の頃、鷲頭山(じゅとうざん)に遷され鎮座.
山頂に上宮、中宮本社、麓に若宮が造営された。
鷲頭山山麓周辺は鷲頭庄とよばれ大内の一族鷲頭氏が支配した。一時は鷲頭氏が守護となり主流となるが大内宗家と守護職をめぐる争いで鷲頭氏は白坂山(下松市内)合戦で敗退し家臣団に組み込まれ衰退した。大内弘世の時に閼伽井坊など七つの社坊が建てられた。
大内義弘の時代には仁王門や五重塔も寄進されて(現存しない)霊場として繁栄した。
大内氏始祖琳聖太子来朝にまつわる守護神を祀る社寺として尊崇されたその神域の保護は厳重を極めたという。また本拠の山口にある〜氏寺の氷上山興隆寺にも鷲頭山から妙見社を勧請したといわれます 。氏神として北辰妙見大菩薩を大変崇敬した。
現在は明治後、分離されて麓の若宮がアメノミナカヌシを祭神とし降松神社として再編され存続している(若宮と中宮 山中に山門が現存する)
幕末の妙見社の神主が力のある僧侶で、分離された社坊の一つはかろうじて妙見宮鷲頭寺として、古来の北辰妙見の祭祀を守り所縁のある現在地に移転建立された。
戦後勧請された油掛け大黒天もあります(周南七福神だそうです)
庚申社と荒神社字幕反対でした謹んで訂正します。
あげ直しますw
情報 中宮へもし行かれる方がいる場合 (2〜3回登ったけど道はいいですよ)
下松へ周南あたりから野犬が流れてきているとの情報を二、三年前に登山者ウェブ情報で見ました登山道で見たらしい。今回も一ノ鳥居付近で一匹中型犬を見ました首輪なし確実に野良。注意が必要かも。行く前に下松市に問い合わせした方がいい気もします。
2022.-3.13 高尾山薬王院 火渡り祭「柴燈大護摩供」その2
2022.-3.13に行われた高尾山薬王院 火渡り祭「柴燈大護摩供」から一般の方の火渡り
2022.-3.13 高尾山薬王院 火渡り祭「柴燈大護摩供」
2022.-3.13に行われた高尾山薬王院 火渡り祭「柴燈大護摩供」から一般の方の火渡り
2022.-3.13梵天神輿、高尾山薬王院火渡り祭会場へ輸送
2022.-3.13火渡り祭で加持される梵天神輿を保管していた高尾山薬王院不動院から自動車祈祷殿広場へ輸送
大竹市元町 疫神社・大治社と神楽山 薬師寺【芭蕉の弟子 志太野坡 記念の浅生塚】
広島県西端の街大竹市 鎮守大瀧神社の元の鎮座地(弥ヶ迫)にある「疫神社」(疫病を鎮めるため祭られた)と大治(おおち)社(宗像三神中でも田心姫命を祀る)大瀧神社〜御神幸の終点でもある。
言い伝えではここの場所あたりに厳島神社創建社として知られる佐伯鞍職(くらもと)が居住していた場所と言われる。伝説では所の翁とも呼ばれる。山の方に所塚(佐伯鞍職の形代をおさめているという)
真言宗 神楽山「薬師寺」
小さなお寺ですが、広島新四国88ヶ所霊場四番札所となっている。後ろの山上にかつて存在したという西福寺の後継の寺院で護摩堂を麓に移し創建したと言われている。
市内でも古い宝篋印塔(なかなか大きなもの)や古い仏像も多いようです。これらは江戸時代の災害など多い頃建立されたらしい火伏せ地蔵、法華塔の地蔵尊(宝篋印塔の守護)などもある
本堂の写真は没でした(失敗)本尊は薬師瑠璃光如来(六十年ごとにしか拝めませんです)
本堂上に浅生塚があり、芭蕉の弟子で軽みを継いだという芭蕉の弟子 志太(浅生庵)野坡(やば)の門人で、ここ大竹の芦蕗たち竹里連(俳諧を行う集まり)が野坡三十三回忌に建立した石碑。
野坡は西国方面で活動し、ここ広島藩最西端の地へも何度も訪れ連句を巻き、指導をおこなった。
【講義アーカイブ】『五輪九字明秘密釈』を読む 第20回(講師:亀山隆彦)[2022年2月23日]
院政期を代表する真言密教僧、覚鑁(1095~1144)には既にまとまった研究がいくつも存在するが、それらは等しくある研究課題を克服できないままと考える。日本仏教史であれ真言密教史であれ、従来の研究は常に覚鑁を一つないし複数の思想潮流の「中途」に位置付け、その観点からしか同僧とその思想の意義を分析してこなかった。
具体例をいくつか挙げておくと、覚鑁は空海没後、荒廃の極みにあった高野山と真言教学を「復興」し、後の真言宗隆盛の礎を作ったと先ず主張される。あるいは鎌倉中期の頼瑜(1226~1304)に先んじて、後の新義真言教学の基礎を樹立したともいわれる。さらに平安「旧」仏教から鎌倉「新」仏教への転換期に生き、それらの橋渡し役となる、法然や親鸞にとっての先駆の役割を果たしたと説かれることもある。今日の古義と新義の両真言宗、あるいは鎌倉「新」仏教を目的地とする道程の途中に、覚鑁のための場が設けられてきた。
フランスの哲学者であるルイ・アルチュセール(1918~1990)の言葉を借りれば、覚鑁は常に「目的地」を想定し「前未来形」で書かれる歴史の中で解釈され、その外に出ることは稀であった。このような「目的論的」(teleological)な理解から覚鑁とその言葉を解放し、同僧の思想の全体性・体系性を回復することこそが、本講義の最終的な目標である。
具体的には平安末期の日本仏教界と真言密教の状況を細かく把握した上で、覚鑁の主著ともいわれる『五輪九字明秘密釈』の読解を試みる。『五輪九字明秘密釈』は、非常に複雑な構造を有す文献でありながら、例えばその「密教浄土教」的な主張ばかり強調される等、総体として本書を読む試みはほとんどなされてこなかった。本講義では、まさにこの『五輪九字明秘密釈』を総体として読み、その中に隠された体系を解明すると共に、覚鑁の言葉や思考を規定していただろう深層の「規範」(paradigm)についても分析したい。
※ この講義の配布資料( http://ow.ly/Sr2630scu97 )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
2022.2.28【不動護摩供】11時
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【神道シリーズ・シーズン3】第4回・薩摩・宮崎(日向)における廃仏毀釈
薩摩藩の島津家は元々は仏教信仰の篤い家柄で、戦国時代の島津家15代当主の貴久の時代には「仏を信じざる者は我が子孫にあらず」とまで言われ、菩提寺・曹洞宗の福昌寺や勅願寺の心岳寺などを中心に代々敬虔な仏教信仰を行って来たが、幕末の11代藩主斉彬の時代になると、薩摩藩士・田中頼傭が京都より持ち込んだ国学の影響で廃仏思想が高まり、それが藩内の財政改革や富国強兵の必要性などと事情が重なり、
厳しい廃寺政策が採られることとなった。
藩主・斉彬が目をつけたのは水戸藩における神社統廃合による財政改革や寺院の破却によって得られる梵鐘や金仏や金属什器が溶かして大砲や鉄砲製造の為の素材になるという点で、先代より引き継いだ500万両以上の借金と外国勢力の侵略に備えた軍備の充実の点からみても一石二鳥の政策であった。
しかし、斉彬の後を継いだ12代藩主忠義の父・久光は、
我が息子で幼い忠義の後見役として藩の実験を握り、国学の影響も強く受け、さらに藩の廃仏政策を強力に推し進めて行った。
寺院の破却を加速させ、そこから得られた金属類は大砲や鉄砲などの武器のみならず鋳貨の偽造、つまり贋金作りにまで利用され、それによって得られた資金でますます藩の軍事力を強大化して行った。
やがて廃仏政策は藩内に一つの寺も残らないところまで推し進められ、
一方ではかつて大寺院であった天台宗の書写山円教寺を破却して霧島神宮という神社に改編し、社伝も6世紀から神武天皇らが祀られてきたかのように書き換えられた。
となりの宮崎は、当時、飫肥藩・佐土原藩・高鍋藩などの小藩に分かれ、いずれも大藩である隣国の薩摩藩の影響下にあり、廃仏政策も薩摩藩の意向を忖度するかの如くに行われ、結果的に薩摩藩を上周るレベルでの廃仏毀釈が行われた。
しかし、宮崎南部の高鍋藩ではそうした廃仏政策に抵抗する寺も多く、浄土宗の円福寺では住職の関代が体を張って抵抗して廃寺を免れたり、また、明治3年1870年には真言宗智山派の伊満福寺の僧侶が宮崎藩の役人によって崖から投げ落とされて殺害されるような事件さえ起きている。
こうした一連の厳しい廃仏政策はこの両県から大半の寺院を消滅させ、強引に神道化を進めたが、しかし、彼らが進めた神道化政策とは、やってることは仏教と変わらないが、形を彼らが創り出した神道式に変えると言う換骨奪胎に過ぎなかったのである