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連続講義 現代美術と宗教思想 #1 「シミュレーターとしての夢 ――明恵から現代美術へ」
現代美術と宗教思想のあるべき関係を問う、連続講義(レギュラー番組)です。
近代以降の美術は宗教を切り離し、自立を果たしたと言われてきました。近代美術の延長線上にある現代美術においても、宗教というテーマは実に厄介なものとして、時にはタブーのように避けられることすらあります。
しかし、美術史全体を見渡せば、宗教とまったく関係を持たない美術などほとんど存在しません。まして、特定の宗派やイデオロギー以前の「宗教的なもの」と美術を切り離すことは不可能でしょう。
現代社会では良かれ悪しかれ、実に多様な「宗教的なもの」が増殖しています。それと同時に、多くの実践者や研究者によって、宗教についての思想が展開しています。最先端の宗教研究や宗教思想の成果は、現代美術に対しても様々な問いを投げかけてくるはずです。
本講義では、レギュラーゲスト講師として宗教学の亀山隆彦さんをおまねきして、主に仏教思想の見地から、現代美術と宗教思想の関係性を探っていきます。
第1回目のスペシャルゲストは、鎌倉時代の華厳宗の僧・明恵の研究で注目を集める野呂靖さん。夢を用いた明恵の宗教実践に「仏説の再現」を指摘する野呂さんの研究から、夢そのものを「シミュレーター」として捉え、文化装置としての可能性を議論していきます。
【講義アーカイブ】あつまれ!凝然の森!! 〜凝然研究の最前線〜[2021年4月10日]
没後700年を迎え、注目を集めつつある鎌倉時代の学僧・凝然(1240–1321)。彼が29歳で書いた『八宗綱要』などの概説書は、日本だけでなく中国・韓国などでも読まれ、現代でも私たちの仏教の見方を強く規定しています。しかし、その影響力の大きさに比して、膨大な著作の全容を含め、凝然の研究はあまり進んでいません。
2021年3月に刊行された『凝然教学の形成と展開』(法蔵館)は、そのような凝然研究を大きく前進させるものとして、学界の注目を集めています。今回、『凝然教学の形成と展開』の執筆者に急遽お集まりいただき、凝然研究の意義などについて縦横に語っていただきたいと思います。
出演:大谷由香・小野嶋祥雄 ・野呂靖 (亀山隆彦・師茂樹)
【講義アーカイブ】対話がつむぐ教理と実践 ―華厳宗の論義資料を読む―(講師:野呂靖)[2020年4月18日]
※ この講義のレジュメおよび資料編を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。当日配布した資料「画像篇」については、諸事情により公開できませんので、ご了承ください。
煩悩にとらわれた凡夫は華厳教理を理解できるか?―――
鎌倉初期の東大寺。平重衡(1157-1185)の南都焼討によって灰燼に帰した伽藍と教学の復興期に、華厳宗僧が盛んに行ったのが論義や談義などの対話型・問答型の修学でした。そこでは自らの成仏に至るプロセスに華厳教理がどのように関わるのかという実践的な問題が大きなトピックになっていました。彼らはそうした教理問答のなかで、教理を議論する営みそのものが華厳の修行論・成仏論に合致していること、善財童子などの『華厳経』の登場人物や中国華厳の祖師たちの歩みを「模倣」することによって確実な成仏への道が開けていることを、繰り返し確認していったのでした。その姿はあたかも兵火によって失われた「聖教」を、自らの実践のなかに取り込み、その教えの通りに生き直していくことこそ真の復興であると考えていたかのようです。
この講座では、そうした鎌倉期から南北朝期かけて作成された華厳の論義・談義資料のなかから、断惑義・浄土往生義・成仏義などに関するいくつかのトピックを紹介し、「教理を問答すること」そのものが中世の僧侶たちにとってどのような意味をもっていたのかを考える一助としたいと思います。
またその前提として、日本における華厳思想の流れについても歴史的にたどります。
華厳教理は平安時代以降、真言宗や天台宗の教理形成に大きな影響を与えつつ、常にそれらとの緊張関係のなかで議論が深められていきました。とくに空海(774-835)が示した即身成仏や法界観との差異をどのように示し、またそれを乗り越えていけるかは華厳宗側の大きな課題でした。
鎌倉期に入ると明恵(1173-1232)や宗性(1202-1278)、凝然(1240-1321)などの登場によって、遼や宋の華厳文献など東アジア各地の最新の情報が参照され、新たな展開をみせていきます。また南北朝・室町期には根来寺などの真言僧や律僧などによっても華厳文献が生み出されていくなど、修学の場がひろがっていきます。世阿弥(1363-1443)の娘婿である金春禅竹(1405-1471)と東大寺戒壇院長老志玉(1383-1463)との邂逅を介した能楽理論への導入などもこの時期にあたります。江戸期にはそうした中世後期の動向をうけつつ、とくに真言宗や浄土・浄土真宗系の学林を中心に教えが継承されていきます。
従来、鎌倉時代以降の華厳宗は衰退したと考えられてきましたが、近年、新たな資料の検出などによって、その見方は大きく変わりつつあります。そうした資料などもできるかぎり紹介しつつ進めていきます。ご参加の皆さまと議論できることを楽しみにしています。
安田登 聞き手=山本貴光「禍の時代を生きるための古典講義――第2回『平家物語』を読む」 @eutonie @yakumoizuru(2020/5/20収録)
ゲンロンαにイベントのレポート記事を掲載しています。ぜひお読みください。
記事URL= https://genron-alpha.com/article20200522_01/
【収録時のイベント概要】
講師に能楽師の安田登さん、聞き手に文筆家の山本貴光さんを迎える古典講義シリーズの第2回!
鎌倉時代に成立したとされる軍記物の最高傑作『平家物語』を掘り下げます。
新型コロナウィルス感染症が猛威を振るい、日常が危機にさらされるいま、さまざまな古典を読み解くことで、禍の時代を生き抜く術を考えていく同シリーズ。
第1回目は日本最古の歴史書である『古事記』を取り上げました。天岩戸伝説の思金神に注目し、社会の閉鎖的状況を打破するための観点を紹介するなど、安田さんの古典への意欲的なアプローチは好評を博しました。第1回目のアーカイブ動画はVimeoで公開されているほか、ゲンロンαにレポート記事が掲載されています。
今回の題材は『平家物語』。冒頭句「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」で思い出す方も多いのではないでしょうか。平安貴族から武士階級に移り変わる乱世のなか、平家一門の栄枯盛衰を中心に、人間のさまざまなあり様が描かれた物語です。コロナ禍で混迷を深めるいまの時代と重ね合わせることで、厳しい社会を乗り越える手がかりを探っていきます。
安田さんは以前にNHKの人気番組「100分 de 名著」の『平家物語』回に講師として出演されました。なんと今月その番組がNHKでアンコール放送されているとのこと! 今回は「テレビでは盛り込めなかったお話もしたい」そうですので、ぜひあわせてお楽しみください。
禍の時代を生きるための古典講義 – ゲンロンカフェ
https://genron-cafe.jp/event/20200520/
【神道シリーズ】第47回・八百万の神④天狗信仰(道教と密教修験道の習合が生み出した妖怪(仏教)護法神)
天狗と言えば、鼻が高くて山伏の格好をして手に大きな葉っぱを持ってるようなイメージですが、実はこうした天狗のイメージが創られたのは室町時代(「御伽草子」)ぐらいからで、もともとの天狗とは中国の道教神話の中で、流星の隕石が狐(ないしは犬)のような形をしてるのが天狗と呼ばれていたのですが、遣唐使の僧旻(そうみん)はその妖怪的なイメージだけを日本に伝えたところから、後にそのイメージが平安時代になって仏僧たちによって開かれた全国の山岳信仰の間で修験道の山伏たちにより僧形の天狗の神のイメージが生まれ、修行を多く積んで強力な験力を得たものが天狗になったとされました。
その天狗は、権現神(仏の眷属が仮の姿として山の神となったもの)と重なり、日本の山岳信仰(全国)の中に浸透して行きました。
八百万の神の中でもこの天狗信仰は全国の山岳信仰に隈なく普及しており、むしろ天狗信仰の無い山岳信仰を探すことが困難なぐらいになってます。
後に江戸時代に国学が盛んになると、天狗を古事記の神サルタヒコに比定する動きも出てきましたが、天狗自体は古事記や日本書紀にはまったく無関係の修験の神だと言えます。
やがて真言宗や天台宗が全国の山岳信仰を制覇するようになると(平安~鎌倉時代)、天狗信仰も両派(当山派=真言系/山門派=天台系)の傘下に入って行きます。
明治時代には国家神道形成の為に多くの天狗信仰の寺が廃寺に追い込まれたり、寺が無理矢理神社にされたり、祭神が無理矢理古事記の神に変えられたりしましたが、1000年以上に渡る歴史は変え難く、今では完全に元の天狗信仰が全国で復活してきています。
【PCE】弁慶外伝 アイテム0使用プレイ
サンソフトが発売したPCエンジン用のRPG。 キャラクターデザインは『天地を喰らう』や『サラリーマン金太郎』で有名な本宮ひろ志が担当している。
舞台は鎌倉時代の黎明期、源頼朝が鎌倉幕府を開いた頃。 プレイヤーは主人公である鬼若(きじゃく)を操作して、自身の出生の謎を解く為各地を巡る旅に出る。 途中で三郎、沙夜香、弁慶の3人を仲間に加え4人パーティで行動する事となる。
マップ移動上のキャラクターは2頭身デフォルメがなされており、どこかかわいらしさがある。
【神道シリーズ】第68回・六郷満山信仰【中編】六郷満山の天台寺院(神道無関係w)
今回と次回の二回に渡って六郷満山の天台寺院を出来る限り紹介して行きたいと思いますが、
六郷満山(国東半島全体)は天台宗(本山派・寺門派)および天台修験道の一大拠点であり、ほとんどの寺院が天台系に属しています。
中国の天台三山に倣って三山方式と言って、本山(もとやま)、中山(なかやま)、末山(すえやま)に分類され、それぞれに本寺・中寺・末寺があるという形で、主要な天台寺院は28寺で、それぞれに所属する坊が今でも数多く残っています。
六郷満山信仰の特徴としては、比叡山天台宗の山王神道の影響で、阿弥陀如来・薬師如来を本尊とする寺が多く、一方で熊野修験を支配していた天台宗寺門派(聖護院門跡)も進出しており、こちらの影響で不動明王や六所権現なども同時に本尊として祀られています。
あと、六郷満山の魅力と言えばやはり摩崖仏で、多くは平安末期から鎌倉時代以降のものですが、中でも熊野摩崖仏や元宮摩崖仏などは有名です。
六郷満山の摩崖仏は6世紀以降の朝鮮半島(新羅・慶州)の摩崖仏の影響が大きく、朝鮮半島とも繋がりが大きいのも六郷満山信仰の特徴です。
教科書では教えない日本史「国防} ゲスト 有本香
教科書では教えない日本史「国防}
モンゴル帝国が、海を越えて鎌倉時代の日本に侵攻してきたことをご存じでしょうか。後に「元寇(げんこう)」と呼ばれることになる、日本史上有数の危機的な出来事です。モンゴルは人類史上、最大級の規模を誇った帝国で、その艦隊も当時の世界で最大の規模だったといわれます。その襲来を2度にわたって退けたことで英雄と称されたのが、北条時宗(ほうじょうときむね)です。
今回は、元寇の名の由来やそれが起こった歴史的背景、時宗がこの国難にどのように立ち向かったのかについてご紹介します。
【神道シリーズ】第56回・八百万の神⑬道祖神【前編】(中国道教旅の神と地蔵菩薩の習合)江戸時代に爆発!!
道祖神(どうそじん)と言うと、あたかも仏教が日本に伝わる前より我国の古代民俗信仰として存在し続けてきたようなイメージがありますが、実はその歴史は非常に浅く、日本初の道祖神は群馬県で発見された1625年(17世紀)のもので、18世紀(江戸時代)から19世紀(明治維新の前)ぐらいが生産のピークの所謂「流行り神」でした。
「道祖」という言葉自体は3世紀の中国・秦朝の時代から中国で信仰されていた道教の旅の神「道祖」から来ており、それが日本の奈良時代頃に伝わると、日本では旅の神の意味から、当時全国で大流行した天然痘などの伝染病対策として、都(平城京・平安京)の境を「道祖」の木像(陰陽一対型>中国と同じ)で「塞ぐ」ことを目的にしたことから「塞(さい)の神」または「岐(ふど)の神」と呼ばれました。
鎌倉時代から始まった五輪塔や十二仏などの仏教の石像が広がっていくと、室町時代にはそれが地蔵菩薩の石仏として各地に設置されるようになり、江戸時代に入ると、地蔵菩薩石像の形態不明瞭なものが単体道祖神として「道祖神」と呼ばれるようになり、その後、僧形の単体道祖神が創られるようになります。
やがて、僧侶と尼僧のペアの双形道祖神も作られるようになり、19世紀になると国学が盛んになり、双形道祖神は「猿田彦と天鈿女」と比定(古事記から当て嵌め)されれるようになり、幕末には神像型の男女ペアの道祖神が増加します。
しかし、その後道祖神は衰退の一途を辿り、明治維新になると禁止令も出たりして道祖神はほとんど作られなくなりました。
道祖神は有名ではありますが、数の上からいうと庚申塔の方が圧倒的に多く、しかも、道祖神が作られた地域は群馬・長野・新潟・神奈川・山梨・静岡の5件が9割以上を占めています。
【神道シリーズ】第21回・天神信仰(真言密教僧(道賢)によって広まった御霊信仰)神道関係無し②
903年に無念の死を迎えた道真の霊は、10世紀半ばには公家貴族から御霊・雷神として恐れられたのは有名ですが、天神信仰は10世紀から12世紀にかけて大きく形を変えていきます。
最初は朝廷内での御霊信仰であってのが、天台僧の道賢の「道賢上人冥途記」が地神経(金光明最勝王経>雑密経典)の話を伝える盲僧や盲女の琵琶法師たちによって広く伝わり、天神信仰は雑密仏教によって全国区となって行きます。
やがて鎌倉時代になると、天神は天台僧・是算によって本地が十一面観音とされ、幕府からも国家鎮護神の一つ(八幡神、春日明神などとともに)にされ、さらには雪冤(冤罪を救う)神とか学問の神、書道の神、詩文の神などとしても信仰されていくことになります。
天神信仰は、所謂「神道」にはまったく無関係な神信仰ではありますが(中身は雑密)、現在も全神社の1割を占めるのでお話をしておきます。
【神道シリーズ】第41回・両部神道③大日如来=天照大神説が中世日本を支配する
日本の神道とはいつ形成されたのか?と言う問いに対して、縄文時代とか弥生時代からと信じてる人は多いように見受けますが、実際宗教としての神道が作られ始めたのは鎌倉時代(元寇以降)で、完成を見たのが室町時代(吉田神道)と言うのが学者たちの間で共通してる認識です。
もちろん仏教伝来(6世紀)以前に朝鮮半島からの移民による氏神信仰というのが渡来豪族たちの間で存在していたのですが、仏経が伝来するとすぐに豪族や朝廷の間で仏教信仰が始まり、8世紀になると神身脱落と言って、氏神たちがこぞって仏教徒になり、護法善神として仏教を守りながら(神たちが)仏教の修行に励むという時代になりました。
9世紀に真言密教や天台密教が広まり、鎌倉時代の元寇を境に真言密教による神道(両部神道)が形成され、密教理論による神国日本論が展開され、天照大神が大日如来の化身であり、日本は第六天魔王の支配下にあるという思想が平家物語や太平記と言った大衆文学の間にも見られるようになり、まさに(真言密教による)両部神道は中世の精神支配(国民を含めて)を確立します。
今回は、その両部神道の理論書とも言われる麗気記や中臣祓訓解などを紹介していきたいと思います。
両部神道はその後、真言系の当山派修験として全国に広がり、古事記や日本書紀に出てきた神々に密教的解釈を加え、所謂「八百万の神」の伝承や信仰を作って行きます。
【神道シリーズ】第52回・八百万の神⑨飯縄大権現(中編)戸隠・飯綱・高尾山を繋ぐ飯綱権現信仰とは?(天狗編)
<飯「綱」大「明神」>は戸隠、<飯「縄」大「権現」>は飯綱山(荒安)と高尾山薬王院で、「綱」と「縄」どちらも「つな」と呼びます。
「綱」とか「縄」とか「明神」とか「権現」とかややこしくなってますが、この長野県北部(戸隠山・飯綱山)から東京都八王子市(高尾山)をむすぶ「いいづな」信仰の繋がりを今回は解析していきたいと思います。
戸隠山と飯綱山では妖狐(霊狐)のクダ狐を駆使する「飯縄の法(術)」を中心とした妖術の伝承が強く、戸隠では飯縄使いから様々な忍術が産まれ、戸隠(伊藤)流忍法が発生し、その戸隠忍法の開祖・仁科甚十郎(大助)は忍法を出身地の伊賀やその隣の甲賀に伝え、伊賀流忍法や甲賀流忍法などが誕生し、戸隠は日本の忍者のルーツとなります。
一方、京都の醍醐寺(真言宗)から鎌倉時代に俊源大徳という真言僧が高尾山に登拝し、不動明王を祀ったところ、同時に飯綱大権現を感得し、飯縄大権現が祀られるようになりました。
しかし、高尾山薬王院の飯縄大権現にはタグ狐の「飯縄の法」の面影はなく、不動明王やダキニ天(稲荷神)、迦楼羅天、歓喜天(多聞天)、宇賀弁財天などが習合した烏天狗で大天狗の「飯縄三郎坊」としての飯縄大権現が祀られています。
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第47回・合気道と道教と山王神道
病弱だった植芝盛平がやがて小さな体で大男を軽々と投げ飛ばしてしまう合気道を創立するまでにはどのような経過があり、また、その合気道とはどのような思想の流れの中で形成されて行ったのか?その謎を解くところに今回の特集は焦点を当てる。植芝盛平は7歳の頃、近所の地元和歌山県田辺市の古義真言宗の地蔵寺の住職の藤本密乗の開く私塾で四書五経や真言密教の鎮魂法や祈祷を学び、また、32歳の時には移住した先の北海道遠軽の地で出会った大東流合気柔術の師範武田惣角から5年間、大東流合気柔術を学び、さらには、36歳の時には父の病気直しの為に大本教の本部のある綾部に出口王仁三郎を訪ねた時、出会った出口王仁三郎に感銘し、そのまま8年間綾部に住み込み、王仁三郎の、戦い回避を目指す言向け和しの無抵抗主義を学び、次第に盛平独自の合気道の道を開いていくこととなった。合気道の技のほとんどは大東流合気柔術から来てるが、その大東流合気柔術を可能にしたのは、創始者とされる鎌倉時代の新羅三郎を称した源義光が影響を受けた天台密教の作った神道理論、山王神道であった。山王神道は、真言宗系の両部神道とともに道教の影響を受けた中国の真言密教、天台教の影響を受けており、道教思想がその密教理論の中に展開されている。太極拳、少林拳、八掛掌、形意拳、心意拳などの中国武術は一様に道教の思想が根源にあり、日本の合気道や大東流合気柔術は天台系の山王神道を通じてこうした武術に繋がる道教思想を継承したのである。山王神道では、古事記・日本書紀では新羅王子、地方風土記では新羅の神とされる天日矛が日本に残した十種の神宝の中に中国武術に繋がる道教的思想を見出し、その中から鎌倉時代に大東流合気柔術が生まれ、そうして大正時代から昭和時代にかけては大東流や大本から独立した植芝盛平によって合気道は誕生した。平田系神道カルトの大本の流れを汲みつつ、一方で大東流や山王神道の中国道教の流れも汲む中、植芝盛平は、和合の精神を説き、人と競い合う事を好まれず、「自己の練磨」のみを目的とする試合無き武術、合気道の道を開いたのである。
【神道シリーズ・シーズン3】(戦後編)第63回・儒教招魂社・靖国神社その③(富田メモ)
日本の神社で明治以前に実在の人物が合祀されたのは、古代から中世にかけては恨みを以って亡くなった豪族や貴族の怨霊を鎮めるための目的で建てられた御霊神社や、近世になると、道教と儒教に基づいた神道理論を立て、時の権力者であった豊臣秀吉や徳川家康に取り立てられた吉田兼倶の創設した吉田神道に基づく、権力者や大名藩主の死後の神格化の為の神社などに限られており、少なくとも、戦没者が神として祀られることは一度もなかった。また、人の死後の埋葬に
関しては、鎌倉時代前頃までは、豪族・貴族は、中国や朝鮮半島と同様に墳丘墓が一般的で、庶民に至ってはそのまま死体が道端に遺棄されるのが普通であった。しかし、仏教伝来以降、豪族貴族皇族および天皇に至るまで仏教式に火葬して墓に納骨する者が増え、鎌倉時代以降は、庶民もそうした仏教的な火葬を行うのが一般的になってきた。幕末頃から造られた神式葬儀とは、中身は儒教の葬儀と同じで、火葬したり四十九日とかいう観念も仏教と同じものである。こうした実在人物の死後の神社合祀として戦没者が祀られるのは靖国神社が日本史上初であり、それまでの日本の伝統的死生観とはまったく異なるものであった。
これはむしろ、中国の儒教や道教で死後軍神として祀られた関帝廟のようなもので、しかも、歴史的に一座に複数の神が祀られた神社はなく、靖国神社のように一座に240万柱もの神が鎮座するというのも靖国神社のみである。よって、これは日本の伝統ではなく、靖国神社という新宗教による合祀方式である。
また、合祀基準も、当初は戊辰戦争や西南戦争で官軍として従軍し、戦死した戦没者だけが対象だったのが、明治16年に国事受難者全体が合祀の対象となると、幕末の勤王の志士で幕府と戦って無くなった長州薩摩土佐などの藩士や暗殺された藩士たちも合祀の対象となった。
しかし、この無原則な合祀対象の拡大は、日清日露戦争以降戦没者の数が跳ね上がると同時に
国威高揚の意味からも従軍者で病死や自殺した者から軍属全体にまで合祀対象が広がり、
さらには、日中戦争や太平洋戦争に突入すると、そうした合祀対象の把握さえ困難になって行ったのである。
【神道シリーズ】第43回・両部神道⑤富士山修験(理論は両部神道で管理は聖護院<天台宗寺門派>)
日本の山岳信仰が具体的な神名を持って信仰されるようになったのは真言密教による両部神道が確立した鎌倉時代以降ですが、密教僧たちは山に登頂し、そこに仏の眷属を祀り、さらに古事記の神々の中から選んで比定し、仮の姿として古事記の神様の姿になるときがあるとしました。
これこそが日本における「八百万の神」信仰の始まりであり、古事記に出てくるコノハナサクヤビメも、火山という属性だけで大日如来の仮の姿であるとされ、それが富士山においては浅間(せんげん)大権現として祀られ、信仰されるようになりました。
つまり、もともと民衆の間に古事記の神々の信仰があって、それが八百万の神の信仰になったのではなく、密教僧らによって形成された山岳信仰の中心をなす本地垂迹説として古事記の神々が採用されていったのです。
富士山修験が始まったのは13世紀に仏僧の末代(まつだい)が富士山頂に登頂して大日寺を創建し、大日如来を祀ったことから始まります。
16世紀になって富士講を統合組織した長谷川角行は、役小角の夢告で富士山に登頂して以降、大日如来=コノハナサクヤビメを浅間大権現として信仰する一神教的意味合いの浅間権現信仰を確立し、以降、弟子たちによって村上修験(富士山修験をそう呼びます)の富士講は江戸時代には全国に広がって行きます。
明治に神仏分離で浅間神社の祭神はコノハナサクヤビメとされましたが、今日でも浅間大権現の信仰は続いており、村山修験の流れを汲む修験道の団体が伝統を引き継いでいます。
【神道シリーズ】第40回・両部神道②(伊勢神宮と両部神道の歴史)密教によって伊勢神宮が再興する
平安時代始めの真言宗開宗(806年)以降、朝廷の信仰は真言宗中心となり、中には真如法親王のように平城天皇の皇太子でありながら皇位継承を拒否し、出家して真言僧となり、インドへの求法の旅へと出て行方不明となった皇族も出るほど皇室はこぞって真言密教の信仰に熱中しましたが、鎌倉時代に入り13世紀の元寇の時代を迎えると、真言宗の主流派は伊勢神宮の内宮(禰宜・荒木田氏)への接近を図り、伊勢神宮を真言密教の理論に当てはめ、内宮を胎蔵界、外宮を金剛界とし、神宮全体を真言密教の大曼荼羅として描くようになります。
仏教信仰が盛んだった当時、伊勢神宮でも氏寺で出家得度する伊勢神宮の神職(宮司、禰宜ら)が後を絶たず、こうした背景の中、伊勢神宮の内宮は次第に真言密教の支配下に入って行きます。
天照大神を大日如来の化身と位置づけ、真言宗による「神国日本」論を展開し、皇室や伊勢神宮の持つ荘園全体に大きな影響力を広めて行きます。
やがて両部神道は伊勢神宮に留まらず、真言宗の学僧、勧進僧、高野聖などを通じて全国の修験道に絶大な影響を与え、古事記や日本書紀に出てくる神々を密教理論の上で解釈を加えた新説を持って地方の信仰対象に比定して行き、密教的な本地垂迹説により日本全国の修験道を塗り替えて行きます。
そして、やがて記紀の中では名前の羅列だけだった神々にも「八百万の神」の地方伝承を作って行きます。
令和5年6月4日遍照寺副住職、金花山宝泉寺開催の花宝苑開園記念コンサート「おてらJAZZ」を見にゆく
広沢山遍照寺副住職が京都支所仲間のよしみで京北の「金花山宝泉寺」さん開催の
花宝苑開園記念コンサート「おてらJAZZ」に参らせて頂きました。
「花宝苑 癒やしの歌声コンサート」
トランペット/ボーカル:五屋聡
ピアノ:内藤直樹
ベースギター:渡辺春雄
①Fly me to the moon
②But not for me
③Danny Boy
④Alone together
⑤Old folks
⑥I cant give you anything but love
⑦花は咲く
⑧On the sunny side of the street
以下、宝泉寺概略
金花山宝泉寺の歴史は古く、平安末期の傑僧文覚上人(1139)に依る開創と伝承されています。当時、弘法大師が真言密教の根本道場とされた古刹神護寺(京都市高雄)は、荒廃の極みにあって「人法共に断絶堂屋ことごとく破滅」と云う状況となっていました。
文覚上人は直ちに神護寺の再興を発願され勧進僧として歩みますがその道、非常に厳しく、都度三度に亘る流罪に処せられます。しかし後白河上皇や源頼朝の助縁を得て神護寺の再興にその半生をかけ成し遂げられたのであります。
この当時、再建された山内に宝泉院と称する塔頭寺院がありましたが、この寺院こそ後日、文覚上人による当山創建の伝承の源となったお寺であります。
南北朝時代の延文元年(1356)心蓮上人はこの塔頭寺院であった宝泉院を下熊田村に移し、十一面観音を秘仏の本尊として寺号を宝泉寺と改め開山されました。以来、宝泉寺が病気平癒に格別の霊験のあるお寺として、人々の信仰を集めております。
永い歴史を有する当山は、平安時代~鎌倉時代の古写大般若経を始め、甚だ珍重すべき什物など優品が保管されています。
毎年7月の土用の日は宝物の虫干しと大般若経祈祷会が行われています。当山は、四季折々の風光に恵まれて信仰と癒しの場として親しまれており、特に4月の桜は見事で天を突く巨大な「京紅しだれ桜」は圧巻です。 宝泉寺は、真言宗総本山仁和寺の末寺として年中行事や教化活動を通じて地域に広く貢献しています。
金花山宝泉寺概略
宗旨:古義真言宗 御室派
総本山:御室 仁和寺(世界遺産)
本尊:十一面観世音菩薩
開基:延久元年(1069年)初代開基第1世 心蓮上人
【作業用】怪談、奇談、短編13本【古典の現代語訳・宇治拾遺物語】
今年上げた古典朗読動画6本(13話分)の総集編です(音声ソフト・ゆっくり朗読)。
13世紀前半、鎌倉時代(800年前)のショートショート集「宇治拾遺物語」から現代語訳とイラストでお送りします。
素材の味を伝えたいので、できるだけ演出は控えて、なるべく原文の単語を拾うようにしました。
そのため時々やや不自然だったりまどろっこしい文章もありますがご了承ください。
★シリーズ他の動画はコチラ↓
https://www.nicovideo.jp/series/326333
令和5年4月16日遍照寺副住職、金花山宝泉寺開催の「癒やしの歌声コンサート」を見にゆく
広沢山遍照寺副住職が京都支所仲間のよしみで京北の「金花山宝泉寺」さん開催の
「癒やしの歌声コンサート」に参らせて頂きました。
「花宝苑 癒やしの歌声コンサート」
歌:Misera 千代道子
http://sinoyemusic.com/blog
音響:森崇
〈曲目〉
・越天楽・春
・蘇州夜曲
・蓮音
・いつも何度でも
・花は咲く
・人生の扉
・歓びを広げよう
・光明真言~光のうた
・ふるさと
以下、宝泉寺概略
金花山宝泉寺の歴史は古く、平安末期の傑僧文覚上人(1139)に依る開創と伝承されています。当時、弘法大師が真言密教の根本道場とされた古刹神護寺(京都市高雄)は、荒廃の極みにあって「人法共に断絶堂屋ことごとく破滅」と云う状況となっていました。
文覚上人は直ちに神護寺の再興を発願され勧進僧として歩みますがその道、非常に厳しく、都度三度に亘る流罪に処せられます。しかし後白河上皇や源頼朝の助縁を得て神護寺の再興にその半生をかけ成し遂げられたのであります。
この当時、再建された山内に宝泉院と称する塔頭寺院がありましたが、この寺院こそ後日、文覚上人による当山創建の伝承の源となったお寺であります。
南北朝時代の延文元年(1356)心蓮上人はこの塔頭寺院であった宝泉院を下熊田村に移し、十一面観音を秘仏の本尊として寺号を宝泉寺と改め開山されました。以来、宝泉寺が病気平癒に格別の霊験のあるお寺として、人々の信仰を集めております。
永い歴史を有する当山は、平安時代~鎌倉時代の古写大般若経を始め、甚だ珍重すべき什物など優品が保管されています。
毎年7月の土用の日は宝物の虫干しと大般若経祈祷会が行われています。当山は、四季折々の風光に恵まれて信仰と癒しの場として親しまれており、特に4月の桜は見事で天を突く巨大な「京紅しだれ桜」は圧巻です。 宝泉寺は、真言宗総本山仁和寺の末寺として年中行事や教化活動を通じて地域に広く貢献しています。
金花山宝泉寺概略
宗旨:古義真言宗 御室派
総本山:御室 仁和寺(世界遺産)
本尊:十一面観世音菩薩
開基:延久元年(1069年)初代開基第1世 心蓮上人
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【神道シリーズ】第51回・八百万の神⑧飯縄権現【前編】(戸隠・飯綱<飯縄>・高尾山を結ぶ飯綱権現信仰)
「いいづな」は飯綱と飯縄という二つの書き方がありますが、飯綱山で信仰され、西隣りの戸隠山や遥か南の武州高尾山(東京都)にまで祭神として影響を与えた飯綱権現は「飯縄」と書きます(発音はどちらも「いいづな」)。
9世紀に戸隠山を開山して大日如来を本地とする飯縄大明神を戸隠に祀った学問行者(雑密僧)の約300年後の14世紀(鎌倉時代)には、地頭として派遣されてきた伊藤忠縄(千日豊前)が夢告で戸隠の飯縄大明神に飯綱山に登り、同山を開山するように告げられ、それを実践して登頂後、飯綱山に「飯縄大権現(明神ではなくて)」を祀り、それが飯縄権現信仰の始まりとなりました。
千日豊前と呼ばれた忠縄と、息子の盛縄(千日二郎太夫)は、二人合わせて「千日大夫」と呼ばれ、飯綱山開山者として今でも信仰されています。
この千日大夫は、クダ狐(管狐)という竹筒に収納できるサイズのオコジョ(イタチ科の一種の小型の狐に似た動物)を竹筒に入れて携帯し、このタグ狐を操って様々な妖術を駆使する「飯縄の法」(飯縄十二法)を開発し、やがてこの飯縄の法(いづなの法)は、戸隠流(伊藤流)忍法や、さらには伊賀流・甲賀流などの忍法の発祥にも貢献し、日本における「忍者のルーツ」となります。
一方で、戦国時代には飯縄権現は戦勝の神として、武田氏、北条氏、上杉氏、徳川家康たちからも厚い信仰を受けます。
そして江戸時代になると、戦勝の神のイメージは薄れ、飯縄の法のクダ狐にまつわる様々な迷信が産まれ、拡散され、遠くは座敷わらじや今日でも知られてる「こっくりさん」などの誕生に繋がっていきます。
中将棋対局复盤 自製棋具 1時間 催眠 初投稿
私は中国人です、日本語苦手ごめんなさい
棋駒の漢字は自分書寫です
中将棋は、鎌倉時代の大将棋の簡略化
今回は初投稿
part5一龍王記分錯誤
棋譜來源sm20629411、sm20648284 、sm20693897、sm20756768
A-kasakaさん ありがとう
后天这边是春节祝n站大家新年万事顺利
よろしくお願いします
(2/2)新城カズマ×海猫沢めろん 「司馬遼太郎を乗り越えるには――新城カズマ『島津戦記』刊行記念インタビュー」【2014/10/5配信】 @SinjowKazma @uminekozawa
鎌倉時代から続いた薩摩の名家「島津」。
彼らは日本の歴史を左右した超重要存在だった!
関ヶ原も幕末も。歴史の分岐点にはいつも「島津」がいた。そこには世界に通じる道があった。彼らが知っていた世界経済を支配する「銀」の秘密とは……。
誰もが知っている日本の戦国時代を描きながら、これまでにないグローバルな規模で展開する歴史小説「島津戦記」。この刊行を記念し、刊行記念インタビューをお送りします。
前半は「そもそも島津のことを知らないんだけど……」「戦国時代ってなにやってたの?」という超初心者、門外漢向けの解説。
後半はそれを踏まえて、この作品の背景となった資料や思想、歴史背景、これまで描かれてきた歴史小説との違い、さまざまな謎に切り込んでいきます。
貴重なデータとともに、執筆資料も公開。生の現場と、その成果が見られる二度とない機会です。新しい歴史小説の誕生を目撃せよ!
(1/2)新城カズマ×海猫沢めろん 「司馬遼太郎を乗り越えるには――新城カズマ『島津戦記』刊行記念インタビュー」【2014/10/5配信】 @SinjowKazma @uminekozawa
鎌倉時代から続いた薩摩の名家「島津」。
彼らは日本の歴史を左右した超重要存在だった!
関ヶ原も幕末も。歴史の分岐点にはいつも「島津」がいた。そこには世界に通じる道があった。彼らが知っていた世界経済を支配する「銀」の秘密とは……。
誰もが知っている日本の戦国時代を描きながら、これまでにないグローバルな規模で展開する歴史小説「島津戦記」。この刊行を記念し、刊行記念インタビューをお送りします。
前半は「そもそも島津のことを知らないんだけど……」「戦国時代ってなにやってたの?」という超初心者、門外漢向けの解説。
後半はそれを踏まえて、この作品の背景となった資料や思想、歴史背景、これまで描かれてきた歴史小説との違い、さまざまな謎に切り込んでいきます。
貴重なデータとともに、執筆資料も公開。生の現場と、その成果が見られる二度とない機会です。新しい歴史小説の誕生を目撃せよ!
【ゴーストオブツシマ 実況】#1 侍になって元寇と果たし合う【GHOST OF TSUSHIMA】
Youtubeチャンネルに高画質版があるので見てね
https://www.youtube.com/channel/UCEqzdsYSmszUFJ7hH9CU4NQ
やっとこさ録画成功したと思ったら
今度は編集ソフトが動いてくれんようになってしもたわ。
というわけであんまり編集できてないわすまんな
Wikipediaより
元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時モンゴル高原及び中国大陸を中心領域として東アジアと北アジアを支配していたモンゴル帝国(元朝)およびその属国である高麗によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来とも。
【お知らせ】
配信はtwitchに完全移行しました
Broadcasted live on Twitch -- Watch live at https://www.twitch.tv/giromasa
ツイッターもやってます
https://twitter.com/GIROMASA1
使用BGM, SE(使用していない場合もあります)
・Youtubeオーディオライブラリ
・DOVA-SYNDROME
・3104式
・効果音ラボ
・無料効果音で遊ぼう
・OtoLogic
令和3年4月10日遍照寺副住職「金花山宝泉寺」へ花見にゆく
広沢山遍照寺副住職が京都支所仲間のよしみで京北の「金花山宝泉寺」さんへ花見に参らせて頂きました。
動画内で法泉寺さんの案内をしておりますが「ぶんかくしょうにん」は間違いで「もんがくしょうにん」が正しいです。
この場にて訂正させて頂きます。
以下、法泉寺さんの案内全文を記載しておきます。
金花山宝泉寺の歴史は古く、平安末期の傑僧文覚上人(1139)に依る開創と伝承されています。当時、弘法大師が真言密教の根本道場とされた古刹神護寺(京都市高雄)は、荒廃の極みにあって「人法共に断絶堂屋ことごとく破滅」と云う状況となっていました。
文覚上人は直ちに神護寺の再興を発願され勧進僧として歩みますがその道、非常に厳しく、都度三度に亘る流罪に処せられます。しかし後白河上皇や源頼朝の助縁を得て神護寺の再興にその半生をかけ成し遂げられたのであります。
この当時、再建された山内に宝泉院と称する塔頭寺院がありましたが、この寺院こそ後日、文覚上人による当山創建の伝承の源となったお寺であります。
南北朝時代の延文元年(1356)心蓮上人はこの塔頭寺院であった宝泉院を下熊田村に移し、十一面観音を秘仏の本尊として寺号を宝泉寺と改め開山されました。以来、宝泉寺が病気平癒に格別の霊験のあるお寺として、人々の信仰を集めております。
永い歴史を有する当山は、平安時代~鎌倉時代の古写大般若経を始め、甚だ珍重すべき什物など優品が保管されています。
毎年7月の土用の日は宝物の虫干しと大般若経祈祷会が行われています。当山は、四季折々の風光に恵まれて信仰と癒しの場として親しまれており、特に4月の桜は見事で天を突く巨大な「京紅しだれ桜」は圧巻です。 宝泉寺は、真言宗総本山仁和寺の末寺として年中行事や教化活動を通じて地域に広く貢献しています。
金花山宝泉寺概略
宗旨:古義真言宗 御室派
総本山:御室 仁和寺(世界遺産)
本尊:十一面観世音菩薩
開基:延久元年(1069年)初代開基第1世 心蓮上人
ブラック・ジャック(OVA) ~カルテ6 雪の夜ばなし、恋姫~
原作にも『雪の夜ばなし』というタイトルのエピソードがありますが、それとは直接関係のないオリジナル・ストーリーが語られます。ブラック・ジャックのもとに二年も前に投函された手紙が届きます。読んでみるとそれには「妻の命が明日をも知れぬ状態です。助けてください」と綴られていました。ブラック・ジャックはその二年前の依頼人の下へと急ぎますが、彼を待ちうけていたのは鎌倉時代の武将の亡霊でした。さて、この奇怪な事件の真相は……。
ブラック・ジャック<OVA> KARTE6 雪の夜ばなし、恋姫
原作の『雪の夜ばなし』とは直接関係のないオリジナル・ストーリー。ブラック・ジャックのもとに二年も前に投函された小包が届く。中には、明日をも知れぬ状態の妻の命を助けてほしいという内容の手紙と、大量のお札が入っていた。依頼人のもとに急ぎ向かうブラック・ジャックを待ちうけていたのは鎌倉時代の武将の亡霊だった。
(C)手塚プロダクション・秋田書店・日本コロムビア
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【会員無料】『竹田学校』完結記念特別講義~愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ~(後編)|竹田恒泰チャンネル特番
令和2年12月特番、『竹田学校』完結記念特別講義~愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ~
※この動画は、令和2年12月3日に生放送した特番からの抜粋となります。
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『竹田学校』完結記念特別講義~愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ~(前編)
watch/1608011645
『竹田学校』完結記念特別講義~愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ~(後編)
watch/1608012603
■『竹田学校』YouTube再生リスト
入学式から順番に見られる全講義→http://bit.ly/3d3Q0k7
歴史全講義→https://bit.ly/35WAwel
歴史・入門編→https://bit.ly/3dD06YA
歴史・神代編→https://bit.ly/3dD0hDe
歴史・岩宿時代編→https://bit.ly/2y1vyAK
歴史・縄文時代編→https://bit.ly/2Lpfrjm
歴史・弥生時代編→https://bit.ly/2YXCN7D
歴史・古墳時代編→https://bit.ly/34N30Je
歴史・飛鳥時代編→https://bit.ly/2Rr8DF1
歴史・奈良時代編→https://bit.ly/3cqnj0A
歴史・鎌倉時代編→https://bit.ly/3krNUOp
歴史・室町時代編→https://bit.ly/3oyvzBw
歴史・安土桃山時代編→https://bit.ly/2TYoOuF
歴史・江戸時代編→https://bit.ly/2I8Mx9e
歴史・明治時代編→https://bit.ly/2WNEaof
歴史・大正時代編→https://bit.ly/2YpmxKZ
歴史・昭和時代編(戦前)→https://bit.ly/2UXHADf
歴史・昭和時代編(戦後)→https://bit.ly/2VtHyDf
歴史・平成、令和時代編→https://bit.ly/3qp2hGs
音楽→https://bit.ly/2ySgpBZ
ホームルーム→https://bit.ly/2YVSTP8
【DJ日本史】2017.07.10「歴史を変えた“運命のいたずら”」
予期せぬ出来事や思いがけないめぐり合わせなど、ちょっとした偶然がきっかけでその後の歴史が大きく変わってしまった、という例があります。鎌倉時代、まだ幼少だった四条天皇のいたずらがきっかけとなって、ついにはその後の朝廷と幕府の権力関係を大きく変えてしまったケースなど、日本史の歯車を動かした“運命のいたずら”の数々に注目していきました。
【復刻】北条氏の時代2021/11 本郷 和人 (著) 【アラ還・読書中毒】歴代執権の統治と推移を見ていき鎌倉時代を俯瞰する。大河ドラマに関連するが、その後まで描かれる。
>>削除されたYou Tubeチャンネルにてアップしてた動画を復刻します。
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