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陽明学者が解説する "民主主義、共産主義"
失われていた学問の復活精神の学問の復活現在の学問とは全く別の新しい学問が始まります、"未来の哲学の序曲" 善悪の彼岸のサブタイトル"善悪なき身体これ良知"精神の偏り"善悪"を己の身体の中から無くした時に開ける "高い視点"から物事の本質を語る、コロナ騒動の本質https://nico.ms/sm39466706ニーチェ哲学を解読する前提である"体験"について、陽明学との共通点などの解説https://youtu.be/cx2X2uI2f1o
陽明学者が解説する "全ての問題の根源" ルサンチマン
失われていた学問の復活
精神の学問の復活
現在の学問とは全く別の
新しい学問が始まります、
"未来の哲学の序曲"
善悪の彼岸のサブタイトル
"善悪なき身体これ良知"
精神の偏り"善悪"を己の身体の中から
無くした時に開ける "高い視点"から
物事の本質を語る、
コロナ騒動の本質
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ニーチェ哲学を解読する前提である"体験"について、陽明学との共通点などの解説
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陽明学者が解説する "天皇" 、ワクチン推進派と反ワクチン派の調和の取り方
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【神道シリーズ・シーズン3】第5回・明治以前からの廃仏毀釈(岡山藩・津和野藩・土佐藩)まなすさんの土佐廃仏毀釈解説付き
最も早い時期から神社統廃合や寺院統廃合が行われていたのは水戸藩と岡山藩で、岡山藩では陽明学者の熊沢蕃山の影響を強く受けた藩主池田光政はまず淫祠と呼ばれる陰陽行に基づく男女性器をシンボルにした陰陽石や道祖神およびそうした神体を祀る小詞・堂宇・庵などが破却整理の対象となった。そして権現神や明神を祀ってる社から記紀の神々を切り離して寄宮という場所にまとめて祀るという、所謂「寄宮」政策が行われた。
しかし、こうした政策は神仏分離というよりも実は民間信仰の否定破壊であり、その上にさらに仏教葬祭を禁止して神道葬祭に強制的に切り替えさせるという政策も民衆の抵抗があり、結局徹底した寺院整理は実現できず、神道葬祭強制も結局もとの仏教葬祭に戻す武家や民衆の動きにより実現できなかった。
しかし、岡山藩では神社統廃合は徹底して行われ、約94%の神社的祠、堂宇、庵が破壊された。
一方の寺院統廃合では特に日蓮宗不受不布施派がターゲットにされ大半が破却された。
島根県西部の津和野藩では、幕末に平田派の国学者、大国隆正や福羽美静の影響を受けた藩主・亀井茲監は廃仏を目的とする寺院統廃合は行わなかったものの神仏分離政策は徹底され、当時急増していた新創建神社の整理とともに寺院の神社化や平田国学者による社伝の書き換えなどは徹底された。
さらに寺請制度の廃止と神社請制度による置き換えを目指したが幕府からの圧力により頓挫した。ここでも仏教葬祭の廃止と神道葬祭の強制が行われたがうまく行かなかった。
土佐藩では、明治直前より平田国学の影響を強く受けた藩役職の者たちにより寺院統廃合と廃寺化した寺院の神社化が進められた。
この三藩に共通していることは、寺を失い、僧侶を失っても民衆の仏教信仰は止まず、
仏教葬祭の廃止と神道葬祭の強制はことごとく失敗し、同時に民衆の信仰の中心であった民間信仰が徹底的に破壊され、巨大な心の空洞を産みだした。一連の廃仏毀釈および寺社統廃合により仏教を消し去ることには失敗したが、日本人の古くから引き継がれてきた民間神道は徹底的に破壊され、明治以降はそうした民間信仰の維持を願う民衆と神道という名の平田派系の新興宗教との静かなるせめぎ合いが続いていくのであった。
陽明学者が語る "ヘイトスピーチ"、
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陽明学者が語る "本当に優れた人間"
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【神道シリーズ・シーズン3】第3回・明治以前より始まっていた廃仏毀釈①(水戸藩<前期・後期>・長州藩)
一般的にすべてを丸めて廃仏毀釈と呼ばれることが多いが、実は廃仏毀釈という概念は大きく三つのジャンルに分類される。一般的に言われるのは大政奉還直後から明治4年ぐらいの4年間ぐらいの間に松本・苗木・佐渡・隠岐など一部の地域で行われた過激な廃仏毀釈活動で、一つは江戸初期より水戸藩や岡山藩で行われていた寺社統廃合政策と幕末に水戸学や国学に影響されて行われたより進んだ寺院統廃合であり、
いまひとつは明治以降明治10年過ぎ頃まで続いた新政府による神仏分離政策である。
広義での廃仏毀釈には江戸初期より水戸藩・岡山藩で行われた儒学的な廃仏主義・祭祀思想に基づく寺社統廃合より始まり、当初は仏教の完全否定ではなく、無住の寺、宗教活動をしていない寺、祈祷のみで葬儀を行っていない寺などが統廃合の対象となっていた。
しかし、幕末になると後期水戸学、陽明学、平田国学に影響されてより過激な廃仏思想に基づく寺院統廃合が進み、薩摩藩のように藩内の寺院がゼロになるような藩も出て来た。
危険な思想の兆しは長州藩にみられる淫祠の破却思想で、これは荻生徂徠による儒教経典礼経によるもので儒教的な排仏主義から来ている民間信仰破壊で、民衆の最も身近な信仰対象である小祠、堂宇、石仏、庚申塚、地蔵菩薩像などが破壊尽くされ、民衆を不安と恐怖のどん底に突き落とす事となった。
確かに明治以前の寺院統廃合においては明治以降のような暴徒による暴力的な廃仏毀釈活動は見られなかったものの、長い歴史の中で定着していた民間信仰の破壊や火葬仏教葬儀の廃止など、国民の伝統を破壊する活動は続けられた。それまで仏教の神々を祀っていた権現社や仏教に帰依した氏神を祀っていた明神社は古事記や日本書紀に出てくる神々に祭神に変えられ、新設神社とされ、ありもしなかった由縁や社伝を付け加えられて行った。
藩主たちは儒学や国学に基づき権現社・明神社の神社化を民衆の抵抗を抑えながら進めて行ったが、彼らの提唱する神道なるものにより民衆の間に生まれた心の空白を埋めることはできなかった。なぜならもともと仏教に無関係な古事記日本書紀に基づく神々の信仰などというものは存在しなかったからである。
解読者によるニーチェ哲学解説タイトル及びサブタイトルの意味陽明学との共通点
酔っているので頻繁に話がループします、
誰でも読めるが誰にも読めない書物、
体験してれば誰でも読める書物、
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真面目(アポロ)と不真面目(デュオニュソス)、知に達する二つの道
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死に近づく事によって知(真理)に達する
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西暦の終わり(神からの卒業)、
東暦の始まり
つまり悲劇の誕生、
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善人(弱者)の心理学、
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善人の危険性、
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現在殆どの人類が犯している"間違い"を認識する つまり"反自然"
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キリスト教道徳からの卒業(神が死んだ)
全ての価値の逆転、
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ピラミッドの頂点に刻まれた眼
遠くを見る眼を探求する学問の始まり、
貴族(強者)の学問の到来、
つまり未来の哲学の序曲、
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弱者(善人、十字架にかけられた者)の時代の終末、
強者(貴族、デュオニュソス)の時代の復活、
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優れた人間、貴族の概念
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【神道シリーズ・シーズン3】第1回・廃仏毀釈と平田国学の復古神道①
日本の歴史史上最大の汚点とされる廃仏毀釈は、大政奉還の翌年3月の慶応4年1868年3月に薩長新政府により神仏混淆禁止令がだされると翌4月に日吉社の社司・樹下茂国と生源寺希徳らが吉田神道配下の者たちで結成した神威隊40名を引き連れ、日吉社に祀られた仏像仏具経典などを破壊しつくした暴力的破壊活動を契機に明治元年以降の数年間に全国いくつかの地域で過激な寺院破壊活動が展開された事件のことを言う。
廃仏寺院統合の動きは明治前より水戸藩、岡山藩、薩摩藩、土佐藩、津和野藩などいくつかの朱子学・陽明学・国学の影響が強かった藩で江戸時代初期、中期、後期、末期から見られていたが、それらはあくまで寺院の統廃合であって仏像仏具什器などの破壊を意図するものではなかった。
しかし大政奉還後に始まった廃仏毀釈運動は仏教や僧侶たちに対する憎悪と嫌悪が動機となっており、この上からの仏教破壊活動は仏教を信仰する住民
との間に大きな摩擦を引き起こしていった。
廃仏毀釈運動の特徴は、長州・薩摩・津和野など陽明学国学の影響を強く受けた旧藩主や藩士たちがこぞって新政府の神仏分離政策を口実に各地で過激な仏教破壊活動を行い、仏教を信仰する村民たちや浄土真宗を中心とした仏教勢力からの根強い抵抗を受けることとなり、やがて新政府によってそうした破壊活動が罰せられることにより収束に向かった一連の暴力活動を指す。
廃仏毀釈活動は明治元年から4年ぐらいまでの間に集中し、明治9年にはほとんどの破壊活動は終了するが、
廃仏毀釈運動とは別に進められた神仏分離政策も地元の抵抗に会いながら新政府は朝廷からの命令という言葉を盾に強引に推し進め、結果、明治10年頃には日本の寺院の約半数は消滅し、さらに廃仏毀釈で失われた国宝クラスの文化財は日本の文化財全体の三分の二以上に及んだと言われる。
廃仏毀釈活動は、慶応4年の日吉社の仏像仏具経典破壊を引きりに明治元年から明治4年ぐらいにかけ、松本、苗木、佐渡、富山、隠岐などで特に酷い暴力的破壊活動が行われ、これらの破壊活動の首謀者は旧藩主、旧長州藩士、平田国学の影響を強く受けた旧幕臣らで、いずれのケースも平田国学という点で一つの線で結ばれている。
仏教の神・権現神や仏教帰依した氏神明神が長く定着していた日本の国土に平田国学の復古神道というこれまでの歴史に無かった新興宗教を強制的に根付かせる事が一連の破壊活動の根底にあった。
形式的には神仏分離という名目で過去に長く定着していた権現明神信仰を消し去り、新設神社に新たな由緒社伝を捏造したものの、それは同時に信仰の無い神社を増産していくことになったのである。
陽明学者が語るコロナ騒動 "真の目的"
"善悪なき身体これ良知"
精神の偏り"善悪"を己の身体の中から
無くした時に開ける "高い視点"から
"物事の本質を語る、
コロナ騒動の本質
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ニーチェ哲学を解読する前提である"体験"について、陽明学との共通点などの解説
https://youtu.be/cx2X2uI2f1o
陽明学者が語る "コロナ問題"の本質、
"善悪なき身体これ良知"
精神の偏り"善悪"を己の身体の中から
無くした時に開ける "高い視点"から
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ニーチェ哲学を解読する前提である
"体験"について、
陽明学との共通点などの解説
https://youtu.be/cx2X2uI2f1o
植松聖肯定論
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旭川イジメ事件肯定論
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【神道シリーズ・シーズン2】最終回・大塩平八郎【後編】大塩平八郎の虚像と実像
大塩平八郎は、寛政5年(1793年)、大坂天満の与力邸で父敬高,母大西氏の子に生まれる。幼くして父母を失い,祖父に育てられ,文化3年(1806年)ころから東町奉行所に出仕,天保1年(1830年)38歳で退職するまで職務に精励し名与力と評された。
しかし、実は、この大塩の出生後から30歳に至るまでの30年間の記録が無く、僅かにその時代を垣間見れるのは、当時一流の儒学者と言われた林家塾頭で幕府の昌平坂学問所の教授であった佐藤一斎との往復書簡の中で語られた大塩の与力職や与力仲間に対する感想の部分からのみである。
大塩は、14歳から大坂東町奉行で働き、途中からは与力として町内の犯罪取り締まりに当たるが、彼が38歳で引退する前の4年前、3年前、2年前の3年間に「大塩三大手柄」と言われる三つの事件、「切支丹」逮捕事件、奸吏糾弾事件、破戒僧遠島事件で主役を演じるが、中でも最初の
「切支丹」逮捕事件は、「八坂の見通し」という加持祈祷宗教団体に切支丹と無理矢理レッテルを貼っての冤罪事件であり、その結果、多数が極刑に処されている。
大司大塩正義の陽明学者というイメージが強いが、果たして大塩の実像は本当にそのようなものであったのだろうか?
大塩は与力職勤務期間中の31歳の時に私塾「洗心洞」を開設し、豪商や地主やその子弟たちという経済的に余裕のある者たちだけを門人塾生として入門を認め、彼らから多額の入学金、謝礼金、月謝を取り、また、古書珍書蒐集の趣味から、塾指定の本屋から大量の高額古書を料金を払わず詐取し、その額今の金額にして8000万円近くと言われている。
大塩が乱の直前に自己所有の古書を売却して救民のため米を大量に購入して飢餓市民たちに配ったと言われるが、その時売った古書の大半は実質的な盗品であった。
また、大塩は自尊心と自己肯定感情が異常に高く、しかも学術的には権威に媚び、自信作の自著を著名儒学者の佐藤一斎にけなされても卑屈に甘受し、新作の自著に一斎からの序文を求め断られるという実に惨めな仕打ちを受けている。
大塩の乱は、果たして本当に苦しむ民たちを思って義挙として立ち上がったのか?それとも自信満々だった自著を儒学界の学者たちからけなされ冷笑され、さらに追い打ちをかけるように長年熱望していた江戸幕府仕えの江戸出向の道を断たれて精神的に追い詰められた結果としての挙兵だったのか?
もちろん彼の深い心うちを計り知れる者は本人以外だれもいないが、彼のもたらしたものは乱により、ただでさえ天保の大飢饉で苦しんでいた民たちを一層奈落の底に落とし込む地獄の連鎖だけであった。
【神道シリーズ・シーズン2】第41回・大塩平八郎【前編】理論・思想編
大塩平八郎は、大阪東町与力の家系に育ち、四書五経などの儒学の素養はもともと持っていたが、彼が陽明学に目覚めたのは与力職を引退した後の36歳の時に明代の陽明学者・呂新五の「呻吟語」という本に出合ってからで、もともと生真面目実直で愚直とも言える一徹な性格の大塩は自らの与力職体験と重ね合わせながら独自の陽明学論を形成して行った。
良知と呼ばれる生来の善の心を発揮すればそれそのものが宇宙の原理だという考え方で、朱子学のようにどうしたらその善の心を発動できるかという方法が陽明学ではまったく語られていないので多くの陽明学者たちを苦悶させることとなった。
確固たる方法が見つからず最終的には中国の古代神上帝の信仰に走った中江藤樹や、自説の政治改革論を藩士・藩主・幕閣に訴え続け、立場の上下無関係に彼らを批判し続けて最後は蟄居となった熊沢蕃山、そして大塩は精神的に四六時中自己の心の監視を続けるというやり方で自分を追い込み、最後は大塩平八郎の乱という大坂の約五分の一を焼き払ってしまう大火を招いた反乱を起こしたのちに自爆した。
日本の陽明学者が苦悶に陥ったのは、陽明学で良知なる宇宙真理である善、つまり良き心、つまり、学習や経験によって習得したものではなく、生まれつき持ってる良心をどう発動させるかというところであるが、大塩は、眠っている時間も含めて一瞬たりとも緊張を緩めることなく自分の良心に照らして自己監視し続けるという方法を採った。
その時を同じくして天保の大飢饉が訪れ、周りに餓死者たちが次々で出てくる現実に直面し、知行合一をモットーとする大塩にはクーデターを起こして幕藩体制そのものまで覆さなければならないという使命感に至り、天保8年2月19日(1837年3月25日)世に言う大塩平八郎の乱を起こすこととなった。
果たして大塩は自ら確立した大塩陽明学の理論の行きつく果てとして乱を起こしたのか?それとも彼の行きついた論理破綻の上、絶望的な判断として乱に至ったのか? 今、彼の本当の心の中を知るものは誰もいないが、これは陽明学の可能性や危険性を理解する上でも大塩の陽明学理論は貴重な研究材料となる。
大塩平八郎の乱自体はわずか1日で鎮圧され、大坂は火の海となり、多くの犠牲者が残されたが、もう一つ大塩が残した遺産として彼の14年間をかけた著書「洗心同さっき」は、その後、明治維新の立役者・西郷隆盛や西郷に心酔していた後の大アジア主義者の当山満らに大きな影響を与えることになったのである。
【神道シリーズ・シーズン2】第40回・熊沢蕃山【後編】人物史編(あえて選んだ不器用な生き方)
熊沢蕃山は、元和5年(1619年)京都稲荷(現・京都府京都市下京区)の浪人であった父・野尻藤兵衛一利と母・亀女の6人兄弟の長男として生まれたが、口減らしのため8歳の時、母方の祖父、熊沢守久の養子となり熊沢姓を名乗るようになった。
15歳の時、池田輝政の女婿であった丹後国宮津藩主京極高広の紹介で輝政の孫である備前国岡山藩主池田光政の児小姓役として出仕したが、寛永14年(1637年)島原の乱に参陣することを願い出たが受け入れられず一旦は池田家を離れ、近江国桐原(現・滋賀県近江八幡市)の祖父の家へ戻り、その時、同じ近江の小川村に帰郷していた中江藤樹の門下に入り陽明学を学ぶことなったが、ここで蕃山の思想の基礎が築かれることなった。
藤樹への入門が功を奏し、再び京極高広の紹介で岡山藩に出仕することとなったが、当時の藩主・池田光政は陽明学に傾倒しており、また中江藤樹の信奉者でもあったことから蕃山を大歓迎して迎えた。
その後、光政と蕃山は最強のタッグを組み、儒教的経世救民論による藩政改革を推し進めて行き、
大飢饉や大洪水の被害を最小限にとどめるよう農民の生活を中心に考えた徳政を進めて行った。
しかし、陽明学的立場より身分の上下無関係に藩内の役職者たちに手厳しい指導と批判を続けたため、藩内の保守派から猛烈な反発を受け、39歳にして隠居することを余儀なくされた。
岡山藩を去った蕃山は、その後、京都、明石と居住地を変えて行くが、50歳で明石に移転して以降は厳しく藩主光政や、かつての盟友だった津田重二郎たちを批判するようになり、池田光政と蕃山の関係は悪化の一途を辿って行った。
やがて明石も追われた蕃山は、大和国の郡山(現・奈良県大和郡山市)へ移り住み、自らの思想の仕上げ作業とも言える著作活動を続け、67歳にして、中国の呉の泰伯イコールアマテラス論を格子とする儒教的神道論の書かれた「三輪物語」や、69歳にして幕府の参勤交代制度の批判や武士の帰農主義などを書いた「大学或門」を著し、結局後者の「大学或門」が幕府批判と取られた為、
古河藩預かりの蟄居謹慎の処分を受け、古河の地で残りの4年間の人生を過ごす事となった。
陽明学の至良知にこだわったが故に、せっかくの幕府の将軍指南役の職のオファーも断り、さらには生涯蟄居という割に合わない処遇を受けてしまうという、ある意味、才能に溢れながらも不器用な人生を送ってしまった熊沢蕃山であった。
【神道シリーズ・シーズン2】第39回・熊沢蕃山【前編】理論・思想編(陽明学と万物同胞兄弟論)
熊沢蕃山は、26歳の時に地元近江の国に住む近江聖人と言われた中江藤樹に入門を願った時、藤樹は36歳で、ちょうど藤樹は当時朱子学と陽明学のはざまに立ち、蕃山の入門を何度か拒んだのは藤樹自身が自身の思想的転換期の迷いの中にあったことも原因の一つだと言われる。
蕃山は武家の家に生まれ、それまでに四書五経の素養は十分にあったものの、本格的に朱子学や陽明学を学んだのは藤樹の門下生になってからであった。
中江藤樹の陽明学は結局最終的に中国の古代神・上帝・太乙神の信仰に向かい、直接的に社会変革運動を行う活動家たちへの影響は無かったが、弟子の蕃山はその後、積極的に藩主や時の政権に対して批判的な言論活動を行い、自らの扶持を失い、家族にも生活苦を強い、最後は蟄居生活を強いられることとなった。
しかし、そうした蕃山の、才能がありながら自ら苦汁を舐める生活を強いるという実に不器用な生き方は、その思想とともに幕末になると再び脚光を浴びるようになり、藤田東湖、山田方谷、吉田松陰らが彼の思想に傾倒するようになり、倒幕の原動力となっていくのだが、果たして熊沢蕃山の陽明学はどのように彼らに影響を与えたのであろうか?
一般的に熊沢蕃山は陽明学だとみられているが、果たして本当に彼は陽明学に触発されてああした彼の生き方をしたのだろうか?
実は、蕃山が傾倒したのは完全な陽明学ではなく、陽明学寄りの朱子学との折衷的な思想であった。
蕃山は、陽明学で言う、理が気に働きかけて易の64掛や朱子学の天動説に基づく形而上学的宇宙論を受ける一方、陽明学で言う致良知説も同時的に受け入れ、陽明学の心即理と言うよりも、朱子学的な性即理を陽明学的な致良知で達成しようと言うような発想で、儒教の根本的価値観である五常や五倫の窮理を追究するという姿勢は崩さなかった。
結局、中心的思想は、師の中江藤樹に倣い、朱子学の理気二元論と陽明学の理気一元論の中間を行く理気混淪論を採ったが、しかし、自分の心の良知に目覚め、行動を起こせばそれに連動して世の中はおろか自然万物までをも変えることができるという陽明学の万物一体の仁思想を支持し、そのエネルギーがその後幕末の勤王の志士たちに大きな影響を与えることになったのである。
【神道シリーズ・シーズン2】第25回・荻生徂徠(古文辞学の立場より孔子・朱子批判)
江戸時代に入り、林羅山、山崎闇斎、中江藤樹など朱子学や陽明学の研究は全盛となり、本来の古典的な儒教の教えが隅に押しやられてしまっていた中、古学派の伊藤仁斎は儒教本来の孔子が論語で訴えた徳目修身の原点に立ち返り朱子学・陽明学を批判していたところ、苦学独学で儒教を習得した荻生徂徠はその伊藤仁斎の朱子学批判では飽き足らず、孔子の論語ではなく、孔子以前に中国の先王聖人らが打ち立てた礼楽刑政の思想に立ち返り、先王たちの礼楽を
たんなる仁義礼智という、個人で習得すべし徳目として把握していた孔子を痛烈に批判し、さらにはその孔子の論語の立場にたつ伊藤仁斎も厳しく批判した。
荻生徂徠は、孔子とか朱子と言った先王聖人の時代からみて後世の学者たちによる六経の偏向的解釈を論破する為、古代の中国語を学び、五経も日本語の訓読みではなく、オリジナルの中国語の発音で読み理解するという方法論を採った。
そこから徂徠が得たものとは、本当に理解すべきは堯舜以前の時代から先王たちにより築かれて行った経世済民を目指す礼楽の制度そのものがあればこそ民は仁義礼智のような徳を身に着けた民なれ、天下も丸く治まるのだ、という政治制度の重要さで、それを孔子や朱子のように個人の努力で皆が徳目を習得する修身に心がけるとか、宇宙の理と個人の性を一致させる努力などに歪曲して解釈されてることが許せなかったのである。
尚、この徂徠の、古典をその時代の言葉で読み解くという古文辞学という方法論は、対象はまったく異なるものの、後の国学者本居宣長の古事記の万葉仮名読みによる分析にも引き継がれていくことなり、この宣長の古事記解釈はその後の復古神道を産むきっかけとなり、一方荻生徂徠はその復古神道派からは中国かぶれの批判的評価が下されるという皮肉な運命になるのであった。
【神道シリーズ】第23回・日本陽明学の祖・中江藤樹
中江藤樹は、同時代の林羅山、吉川惟足、山崎闇斎らが朱子学の枠内でいかに情を抑え、性即理を実現させるべきかを模索していた時、彼らが論理の探求のみに熱中する中、藤樹は自ら儒教の道徳の原点に立ち、徹底した儒教徳目の実践を通じての性即理の実現を目指したが多くの面でその理想追求は挫折することとなった。
はたから見ると藤樹は「近江聖人」として理想的な儒者のイメージを放つのだが、本人としては理想と現実の矛盾のはざまで悩み苦しみ続けていたのだ。
一切の妥協を拒む藤樹には他の朱子学者たちの行動が偽善的であり、立身出世の為だけに朱子学者の立場を利用するものや、ひたすら読書だけに没頭して現実生活の中で徳目を実践しない朱子学者たちと映り、藤樹は彼らを俗儒と呼んで心底軽蔑した。
しかし、他を批判しようともみずからの自己研鑽実践の中での自己矛盾の問題は解決せず、また自分を取り囲む周囲の社会がまったく変わるわけでもなく、朱子学の理気論による「情を抑えて性即理を目指す」という自己抑制的理論そのものへの限界を感じ始めていた。
どうしたら心は他を敬う気持ち、つまり敬と一体になれるのか?
どうしたら心は性、つまり、自分そのものを敬の気持ちでいっぱいにできるのか?
この問に答えるために藤樹は心学、つまり心の学問というものを唱えだしたが、実際には論理で心の作用をコントロールできるものではなく、結局はタイイツシンという古代儒教の神様への信仰へと逃げ込むことになり、日本の伊勢神宮のアマテラスもタイイツシンの眷属のひとつだと主張するようになった。
しかし、この藤樹の陽明学への踏み込みはその後、朱子学を否定する国学の心の爆発、感情の爆発への道を開くこととなったのである。
【神道シリーズ・シーズン2】第20回・林羅山の理当心地神道(「日本書紀」神代記述の否定と「書紀」の儒教的書き換え
林羅山は、朝鮮の朱子学者カンハンから学んだ藤原惺窩を師とし、封建領主を君主とする封建体制の支配体制を正当化する朝鮮朱子学の流れを汲み、支配者は除外し、たみだけに性即理の実現の道徳的努力を強要する朱子学思想を引き継いだ。
君主に賢人聖人たる努力を求めない朝鮮朱子学の思想は封建支配体制を正当化するものとして徳川幕府に重宝され、羅山も徳川将軍家のブレーンとして天台僧天海や臨済僧崇伝らとともに徳川指南役として活躍することとなった。
さらに羅山は、朝鮮朱子学のもう一つの特徴としての強い廃仏思想に裏打ちされ、仏教的解釈を一切排除した日本書紀の分析を行い、中国儒学独特の考証主義によって中国や朝鮮の歴史書と日本書紀の記述を突合し、日本書紀のみにみられる箇所はことごとく否定し、
特に突合ができない神代の部分は作り話として切り捨て、天地開闢や天孫降臨の部分も実は中国の呉の泰伯が九州の高千穂に漂流して神武天皇となった事実の粉飾であり、その後の8代の天皇やヤマトタケルは架空の存在で、太極であるクニタチノミコトの理の反映である歴代天皇が朱子学的道徳律に沿って日本の歴史は作られたと、日本書紀の記述をことごとく儒教的に書き換えていった。
これを林羅山の理当心地神道と言い、神道という名の儒教神道説で、のちの国学者たちからは厳しい批判の的となるものの、羅山に続く日本の朱子学者や陽明学者たちの間ではあるいみ共通した日本書紀解釈となっていったのである。
【神道シリーズ・シーズン2】第18回・ 姜沆(カンハンきょうこう)(日本朱子学の祖となった朝鮮人朱子学者)
豊臣秀吉の指揮のもとに行われた朝鮮出兵、1592年の文禄の役、および1597年の慶長の役を通じて日本軍はおよそ10万人にもおよぶ朝鮮人捕虜を日本に連れ帰ったが、その多くが日本での農業などの労働力として供給されたり、あるいはルソンや中国、印度などへの人身売買に回される中、慶長の役の時、朝鮮半島南部の全羅道で拉致された朝鮮人朱子学者であるカンハンは
日本人がよく理解してなかった朱子学の宇宙哲学部分や陽明学への走りとなるような陸象山などの宋代以降の朱子学を熟知する者として重宝され、拉致した伊予の藩主・藤堂高虎は日本の将来の治世思想として役立つことを見据え、他の拉致朝鮮人たちとは区別して丁重に扱い、やがて豊臣秀吉が関白の職を甥の秀次に譲り、住居を聚楽第から伏見城に移した際、藤堂高虎ら諸大名も京都屋敷を伏見に移し、その際、秀吉からの要望でカンハンも伏見に移動することとなった。
京都伏見に移ったカンハンを待っていたのは熱心に儒学の研究をしていた禅宗の僧侶らや医師らで、その中に、のちにカンハンから学んだ朱子学理論を後世の日本に伝えていくバトンやくをした藤原惺窩もいた。
江戸時代に入ると朝鮮との国交回復を目指していた徳川家康の友好外交政策のもとでカンハンは帰国を許され、およそ3年間に渡る日本抑留滞在を終え朝鮮へ帰国の途についた。
日本におけるカンハンの歴史的役割は、その後の江戸時代の儒学を築く基盤となり、数多くの日本の儒学者たちを輩出し、幕藩体制を支える武家の基本理念にまで発展し、そしてその儒学研究はやがて急進的な陽明学へとシフトし、やがては皮肉にもその幕藩体制を倒す革命のエネルギーにまで昇りつめていくことになったのである。
【神道シリーズ・シーズン2】第17回・朱子学と陽明学(江戸時代以降の神道理論を作った中国思想)
この後この神道シリーズ(シーズン2)は、いよいよ江戸時代の儒家神道の話に入って行きますが、
この儒学の中身である朱子学や陽明学を理解しておくことは今後のシリーズの話を理解する上で欠かせないものだと思い、今回は難解だと言われる宋学(宗儒)の朱子学と明代の陽明学について分かりやすい説明をしようと思っています。
□陽明学: 万物万民一体の仁と事上磨練: 純丘先生の1分哲学! 38
見るだけで賢くなれるブレインサプリ。大阪芸術大学の純丘曜彰教授博士が哲学のキーワードを1分で解説します。
有名人が語る言葉~中江藤樹~(大久保宏明)
有名人が語る言葉には力があります。そんな力のある言葉を集めました。(大久保宏明)
『悔は凶より吉に赴くの道なり』~中江藤樹
中江 藤樹は、近江国出身の江戸時代初期の陽明学者。近江聖人と称えられた。諱は原、字は惟命、通称は与右衛門、藤樹と号した。
【草莽崛起】手作りの釘煮と愛媛草莽の勉強会報告[桜H27/4/9]
視聴者の方から頂いた、手作りのいかなごの釘煮を御紹介させていただくとともに、「頑張れ日本!全国行動委員会」愛媛県本部の勉強会の様子をご報告いたします。
※チャンネル桜では、自由且つ独立不羈の放送を守るため、『日本文化チャンネル桜二千人委員会』の会員を募集しております。以下のページでご案内申し上げておりますので、全国草莽の皆様のご理解、ご協力を、何卒宜しくお願い申し上げます。
http://www.ch-sakura.jp/579.html
◆チャンネル桜公式HP
http://www.ch-sakura.jp/
【鏡音リン】平八郎【オリジナル曲】
東郷じゃなくて、大塩の方。詞・曲・動画/熊谷幻斎(mylist/4144583)。
思えば発売日に鏡音リン・レンを購入してもう七年、誕生日に投稿するのははじめてになります。
萃香・諏訪子で関八州の総鎮守 ~日光編3~
・徳川一族は政治に儒学の思想を取り入れているようなので陽明門と陽明学は無関係とは言えないかもしれま
せん
・萃香の「密と疎を操る程度の能力」ってエントロピーの操作、かなりヤバい能力ですよね・・・
・段々と雑な動画になり始めているような気がします。
・申し訳程度の紅葉要素をねじ込みました。
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part1集:mylist/45835276
告知と雑談(サンガジャパンに文章が載ります)2/2
ラス枠です
【内容】
儒教、陽明学の話(7:12~)
【前】sm21874590
告知と雑談(サンガジャパンに文章が載ります)1/2
2013/09/20 開演:23:12
ニー仏さんの文章が載っているサンガジャパン
http://www.amazon.co.jp/dp/490542559X
吉村さんの本『気にしなければ、ラクになる。』
http://www.amazon.co.jp/dp/4344976746
【内容】
・対談の予定
・儒教、陽明学の話(2枠目)
・サンガジャパンに文章が載るという報告
次→sm21874615
大義は中々見つからない
①大義は中々見つからない②陽明学『知行合一』③大塩平八郎、西郷隆盛、乃木希典の行動に見る、潔い行動