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西国街道を行く 海田市宿場の町並み風景と船越 岩滝神社参拝 広島県安芸郡海田町
安芸郡海田町 海田市と呼ばれた旧西国街道の古い宿場町跡。広島城下から東へ最初の宿場として、瀬野川の河口にあり、西の廿日市とともに海上輸送の基地として栄えたといいます。
古い白壁の屋敷や寺院神社が点々と残り結構雰囲気がある。
今回ルートはJR山陽本線海田市(呉線乗換駅)からまず船越へ向かい初参拝の岩滝神社へ参拝した。
桜の岩滝神社〜西へ街道跡の道を進む〜旧千葉家住宅〜熊野神社(カープ奉納絵馬)〜桜木天神〜 海田郷土館(樹齢300年の大楠と古墳跡)〜春日神社〜中野の砂走り街道松〜終点安芸中野駅まで。
車道なので結構歩きやすく散策にまた行きたいです。
千葉家=町年寄などを務めた旧家。幕府や大名などの天下送り大名送りなど文書等を取り次ぐ役目も担っていたとか。本陣がふさがるなどした場合大名等が宿泊もしたそうですな。
春日神社について補足(字幕が見えずらい為)=春日神社は当時の日浦山城主小坂氏により1223年に奈良の春日大社より勧請し創建され後に安芸国人領主・阿曽沼氏により社殿が修築された。現在の社殿は大正12年の災害の後に再建されたそうです
今回の連れの山仲間のおじちゃんは、千葉家の公開日にまた歩きにいったそうです。庭園は整備が足らずやや残念だったとか。
再編集して再うP^^
海田宿の重要文化財、名勝庭園などのある 千葉家住宅(別アカ) sm38084070
史跡 広島藩主・旧湯治場と霊泉の鎮守社 湯之山大明神と大森八幡宮 広島市佐伯区湯来町
芸州広島藩主の旧湯治場で藩の事業で建てられた湯治場。250年の歴史がある。広島市佐伯区湯来町湯の山温泉 伝承では開湯は1200年前とも言われる古い湯治場。
行程 広島市佐伯区から一路湯来(ゆき)へ向かう八幡川沿いに登り魚切ダムの側を通り山間の中を抜け・・・
湯来伏谷の大森八幡宮〜湯来温泉(休憩)〜湯の山温泉、湯治場跡、湯の山明神社へ。
江戸時代も幾度か温泉が湧出し 1749年藩主 浅野吉長公により藩の儒者が湯の山霊泉記を著す。
翌1750年藩の事業として湯治場が建設され合わせて鎮守の湯の山明神が再建された。
その後、一般庶民にも解放され効能も高く湯治場として賑わったと云う。祭祀は佐伯区の観音神社さんで行われている。
神社でいただいてきた資料みますと、岡岷山(広島藩士で絵に秀でて、城下から湯の山温泉などを経て、豊平の駒ケ滝を見に行く行程を描いた 都志見往来日記などを書いた)の文によれば、中秋に入浴、寒いので8、9人しか湯治客はなく 湯は人肌で、湯坪に入るうちに暖かくなるが、湯に入った気分にはならと書いています。
その昔は源泉にそのまま入ったようです^^; 効能はその方が良いでしょうな。
現在は、温泉水源泉は23.5度なので温泉館で加温してある。
泉質は放射能泉(ラドン温泉です)
江戸の昔からある4mの落差の岩場から落ちる名物打たせ湯は源泉で23.5度ですので冬は・・・・やはり寒いねw。夏はいいですけど。
現在は旅館や、民宿が数件あるようで湯の山温泉館が公衆浴場としてあります。
湯の山明神社は温泉館の上にあり 旧湯治場跡もあって歴史を感じます。
旧湯治場跡は、県の史跡指定されており外から見学しました。
温泉館は何度も来てるけど、湯の山大明神さんは初めて参拝。
湯の山明神へ参拝して霊泉を汲み湯の山を後にした。
湯来町には他に湯来温泉もあり、旅館や湯来ロッジ(日帰り入浴できる)などがある。施設は湯来ロッジの方が良い。風情は湯の山の方かな。広島市周辺で最安の歴史ある温泉。
令和元年 年末年忘れ茶会 風景 頼山陽史跡資料館内〜茶室
頼山陽史跡資料館〜茶室にて 恒例の年末年忘れ茶会(令和元年)
地元茶人グループ妙音会(濃茶の会)の方々が釜をかけられた。頼山陽の旧居の庭や茶室への路地、茶会の御道具拝見など。頼山陽の後〜そごうの新館嵯峨野庵ので開かれていた茶席(常盤会の茶席だったとお思う)へも寄りましたので拝見した棚や花、御軸などの写真も少し入れました。
毎年恒例の行事でどなたでも入れます。この頼山陽の茶室は炭火が使えるので大抵1席目は炭点前がみれます。
人がとても多いですけどね(^_^;) 席料は800円だったかな。
漢学者 詩人 日本外史の著者 頼山陽
復元された旧居のと資料館の外観紹介です。
年末に毎年開かれる御茶席で一服して見学しました。
路地の様子や茶席が終わってお道具など拝見して写真なども少し。
今回は古田織部の御茶入などがありました。
ちなみに そごう茶会(そごう新館9階にある嵯峨野庵)では土日中心に定例茶会があるので面白いです千家、武家茶、煎茶などよいろんな流派が釜をかけておられます。
そごう茶会で検索するとそごうさんのHPにスケジュールが載ってます。
お茶は詳しくないんですがですが、そごう嵯峨野庵でよく行くのは上田宗箇流とか石州流(知り合いの先生がいるので)とか武家茶系が多いかな たまに表裏千家の席も。
観光などでお近くにおよりの節は、頼山陽史跡資料館へぜひ拝観にどうぞ
街中の緑のお庭もいいですよ。
広電の本通り駅、袋町電停から歩いてすぐ。
普段は茶室公開してないけど外から庭は見れます。
広島そごう茶会 茶室「嵯峨野庵」 常盤会の茶席(席担当=茶道石州流)風景 2020.2
広島の茶の湯文化のサロン的な広島そごう新館9階にある茶室 嵯峨野庵。定例的に毎月、土日中心に様々な流派が釜を掛けていた。いわゆる大寄せ茶会である。茶会の流れを紹介。
表裏千家など各流、上田宗箇や石州、遠州、藪内等々の武家茶、濃茶会、煎茶の会などさまざまに誰でもふらりと訪れ楽しめる場所。最後の方の運営側の内輪のお客が多い席へ入りました。少し席中風景なども知り合いの先生にお願いして撮影させていただいた。
2月節分前日の2日は、茶人グループ常盤会茶席で担当は武家茶の茶道石州流宗家広島県支部でした。
席入り〜正客が決まると、御点前開始〜御菓子が出る〜半東が出て正客応対し解説なども〜正客から順にお菓子を頂戴し〜正客、次客までは御点前が点て、三客以降は水屋から点て出し。
補足
寿棚=天板が八角形、二本柱(四方透かし)の漆塗りの棚もののようです 風炉、炉共に使う。
上野焼=福岡県田川郡香春、福智、大任町などで焼かれる焼き物。小倉藩時代の細川忠興が朝鮮陶工を招いて始めたもの。茶人に好まれたが一時衰退。明治後再興。山岡徹(三代目徹山)=香春にある窯元(徹山窯)
多田焼=岩国吉川公の御用窯だった。元禄時代萩焼が入手できない事情ができた吉川公が京都の陶工を招き岩国の多田というところで、将軍家への献上用に茶道具や花器などを焼かせたのが始まり。寛政年間に途絶える。明治後様々復興がはかられたが、昭和になり初代田村雲渓、二代雲渓さんの雲渓窯により再興された。
高木治郎兵衛=京都三条釜座の釜師。千家十職の一つ釜師大西家で修行し安政2年(1855年)に創業。現在は6代目が製作しているそうです。
千漢鳳=韓国無形文化財の陶芸作家。聞慶窯。
前端雅峰=山中塗の塗り師。山中塗を受け継ぐ前端家九代目。今回の棗は蓋裏にミル貝の蒔絵。
高坏=たかつき。古代では素焼きの土器に足がついたもの~塗りの器に脚のついた菓子器。
しのぶ草=シダ科の植物 日本では長く鑑賞に用いられた 和名=「忍」耐え忍ぶからきたと言われる。
片桐石州=1万石あまりの大和小泉藩主片桐貞昌石見守。千道安の流れを汲む大名茶人で4代将軍家綱の茶道師範的位置にいたとされる。清水、不昧、伊佐派など様々分派している。
嵯峨野庵は広島そごう新館売却にて広島茶道界に歴史を刻み閉庵しました。
広島市8区別・人口ランキングの推移【1980~2020】
出典:広島市
BGM:Dear Childhood Friend
http://www.hmix.net/music/n/n46.mp3
日本庭園の名匠重森三玲の作 冬の「聚花山(しゅうかざん)の庭」記録(広島市南区本浦町)
広島市南区本浦にある「半べえ庭園」かつてこの地で果樹園を経営していた事業家の 金井半(なかば)氏が全国からツツジの苗を集め植えたことから始まる。戦後は広島遊園地と呼ばれツツジの名所であった。
昭和四十五年 古庭園の研究家重森三玲氏により聚花山(しゅうかざん)の庭が築庭されており多くの石を使い立石が庭一面に林立している様は壮観です。
現在は「半べえ庭園」として料亭、結婚式場、レストランに日帰り温泉を運営し、施設利用者は自由に 庭園を拝観できる。
現在では300種10万本のツツジがあると言われている(筆者は今回初めて行ったので花は未見です)
ツツジ山の聚花山を借景にした聚花山の庭、林泉の庭(江戸時代からある庭を改修)、水車の庭(重森完途 作)があり紅霞亭という茶室もある。温泉と併設されたレストランきすいからは輝水の庭が鑑賞できる。
レストランは予約制の本格的会席~ミニ御膳(2000円前後)、定食や単品のうどんそばなど1000円未満のリーズナブルなメニューもある。なかなか美味しいです 鯛釜飯は美味でした^^
レストランと日帰り温泉は2020年コロナ禍の中廃業。料亭は従来通りのようです。
場所は広島市南区本浦 広電バス仁保車庫行き4番で爾保姫神社入口で下車すぐ。
この辺りは、かつては仁保島と呼ばれた島であった場所。近くの丘に爾保姫神社が鎮座する。神功皇后にゆかりの神社で八幡神も勧請されている。
平成になり古い社殿が焼失し、近年新しい社殿が再建されていた。余り神さびた雰囲気はないです。車で上がれます。御朱印は大きな朱印が朱肉つけすぎで濃厚でした隣のページに色が・・・(^_^;)
2020年1月 雨上がりに訪問 記録
広島の地下鉄全線乗りつぶし
本通駅から県庁前駅0.3kmなのでみんなでやってみよう。
アストラムラインの車窓動画(地下)
広島市近郊の神社巡り「観音神社」令和2年満開の「観音しだれ」桜 第二稿 2020.4
観音神社 春にはしだれ桜が見事な神社である 観音地区(旧佐伯郡観音村だったエリア)の神社(摂社、末社も入れて二十四社)を合祀した神社である。
二十四社の中で最も古い神社は伊勢から勧請したのが延喜3年(903年)清明次判という人物が勧請したものでこの辺りでは一番古い。広島市佐伯区 観音地区(旧観音村だったエリア千同、坪井、三宅、屋代、倉重、佐方)の神社(摂社、末社も入れて)二十四社があったそうです。
明治43年に旧各村の千同=白鳥神社 坪井=苔生神社 三宅=武内神社、貴船神社 蒲神社 屋代=工宮神社の六社を合祀〜苔生神社境内に四宝神社とした祀る。
昭和34年代〜35年=四宝神社に倉重の高山神社をさらに合祀して成立した。
高山神社の社殿を現在地に移し修築〜観音神社と号したもので 幣殿、祝詞殿も新たに建立され整備がなされている。
御祭神=磐長姫命、安芸都彦命、湯津彦命、倭武命、八幡三神、大穴牟遅、宇迦乃御魂、武内禰など13柱。
境内も綺麗で、しだれ桜は見事なので花の時期がオススメです。御朱印もいただけます。
四宝神社の狛犬が置かれているが、頭頂部がえぐられているこれは杯状穴で参拝者が祈願などしたあとといわれる。
宮島街道の隅の浜〜県道41号線を岡の下川沿いに行くと一本奥の旧道沿い坪井公民館の横にある。
コロナに負けず咲いています 今年はイベントも中止で静かに咲いています
でも意外に人がいた、田舎なので混み合ってはいないが、東京なども世の中大変になっていますが人混みは避けてマスクなどして静かに花を見たいものです。この近くの造幣局の桜も今年は花の回り道中止です。外から見ると何本か咲いていました。
2020 4 6
<広島市の神社巡り >1300年楽音寺神名帳記載の「山の御所 阿刀明神社」 広島市安佐南区沼田町(旧戸山)
山御所 阿刀明神社 1300年頃の楽音寺神明帳 四位十一前に記載される古社。
天保八年に古い阿刀神社と宇豆八幡とが合祀された神社である。
元は八幡宮と称したが明治以後旧名に復した。春は桜もあり村の鎮守として昔ながらの姿が残された古い古い神社。最近まで知らなかった掘り出し物の神社でした
天保年間氏子により植樹された鎮守の森は広島市の天然記念物指定。
広島市安佐南区沼田町阿戸地区 旧戸山村と呼ばれた所(沼田郡阿戸村と吉山が合併していた)その後伴村などと合わさり沼田町〜広島市と合併し安佐南区沼田町に。山の中にある集落であるが団地などもでき結構家が多いし古い赤瓦のすごく大きな農家があったりします)
県道から眺めたら阿戸辺りは谷のようになっていて低いところが田畑になっているみたいでした。
県道71号線で大原、伴あたりから来るルートや湯来町からも433号線〜県道77号線が通る(そのまま行くと安佐北区久地方面へ抜ける)
御祭神 主神=可美眞手命(ウマシマデノミコト) 天照大神 宗像三神 相殿=八幡神
古代には阿刀(あと)氏の居住した土地でその祖神を祀る阿刀神社がもともとあった。その後天承年間(崇徳天皇の御代)大中臣権介正房により開拓された土地ということです(八幡神を祀ったのはこの一族らしいです)
阿刀氏は物部と同じ饒速日命を祖神とする氏族集団であるそうです。可美眞手命は饒速日の子神。
先日再訪散策してきた境内も綺麗で、社叢風景と相まって桜の頃も静かに花を見るもオススメです。御朱印もいただけるらしいですが、電話で問合せが必要。
訂正=一部 大中臣神社と字幕あり×〜 大中神社が正しい。 2020 3 訪問
<広島市の神社巡り > 桜満開〜春闌の頃「山御所 阿刀明神社」再訪
桜の満開の山御所 阿刀明神社。
1300年頃の楽音寺神明帳 四位十一前に記載される古社。
天保八年に古い阿刀神社と宇豆八幡とが合祀された神社である。元は八幡宮と称したが明治以後旧名に復した。春は桜もあり村の鎮守として昔ながら残された御社。
天保年間氏子により植樹された鎮守の森は広島市の天然記念物指定。
広島市安佐南区沼田町阿戸地区 旧戸山村と呼ばれた所(沼田郡阿戸村と吉山が合併していた)その後伴村などと合わさり沼田町〜広島市と合併し安佐南区沼田町に。山の中にある集落であるが団地などもでき結構家が多いし古い赤瓦のすごく大きな家がある)
御祭神 主神=可美眞手命(ウマシマデノミコト) 天照大神 宗像三神 相殿=八幡神
古代には阿刀(あと)氏の居住した土地でその祖神を祀る阿刀神社がもともとあった。その後天承年間(崇徳天皇の御代)大中臣権介正房により開拓された土地ということです(八幡神を祀ったのはこの一族らしいです)
境内社=大中神社と大年社、荒木社(社伝右側の二社)
阿刀氏は物部と同じ饒速日命を祖神とする氏族集団であるそうです。可美眞手命は饒速日の子神。
再訪して戸山公民館で資料をもらい車を止め、山仲間と(マスクして(^^; )神社まで散策してきた 境内も綺麗で、多くはないが境内社叢風景と相まって桜の頃も静かに花を見るにもよいもんです。 のあとしばらくして広島県も緊急事態宣言に。
<広島市の神社巡り> 客人(まろうど)神社と大森八幡宮 佐伯区湯来町
広島市佐伯区湯来町の客人神社と大森八幡宮を参拝 山と渓流のある山間の集落にある鎮守。国道433号線沿いの客人神社は、宮島の厳島神社の境内社から勧請している。大森八幡は平成の初めまではの境内に大杉がそびえる社叢で有名だったらしい。
客人神社=湯来町葛原にある氏神。秋の大イチョウは紅葉スポットで有名 厳島神社の客人神社を勧請して創建。昭和になり地元の河内神社と大歳神社を合祀している。
御祭神は大穴牟遅命 他
大森八幡=社伝では用明天皇の頃、延文年間創建。宇佐八幡から勧請された。昭和末期62年と平成3年の台風で社殿や鳥居、社叢に被害を受け。拝殿、神殿等は平成の再建。
大木の杉木立はすべて倒れてしまい現在は若木が植樹された木々のある広々とした空間になっている。社殿の姿は良い。拝殿も赤瓦で絵馬が掲げられて吹き抜けになっている。社殿と背後にある阿弥陀山との景色が特徴的。巨樹好きなので社叢は見たことがないので残念である。拝殿左側面にに立てかけてある保存された板状の倒れた神木の大きさがすごいです。
手水に藻が沸いていたのが残念(^^;
同じ広島市佐伯区 観音神社(枝垂れ桜満開の頃)sm36603170
水晶ヶ城の鎮守 旧村社 臼山八幡神社 広島市佐伯区石内(旧 佐伯郡石内村) 令和2年
臼山(うすやま)八幡神社。旧佐伯郡石内村(現広島市佐伯区石内)に鎮座する古い神社。
神社 後背の臼山132m は、水晶ケ城(すいしがじょう)跡の東翼郭にあたるらしい。麓あたりは古代山陽道。県道290号線旧道側にある。
字幕では臼山八幡宮としましたが扁額、由緒書を見直すと臼山八幡神社が正式名称のようです。ただ寄進された鳥居には宮とある。
最近参拝した中ではなかなかの場所、本殿も間近に見え境内社の新宮神社も良い姿でした。
延暦年間成立した石道村(江戸時代石内村となる)に延暦二年宇佐から八幡神が勧請された小祠が祀られ、後に水晶ヶ城の鎮守として祀られた。
現在の社殿はなかなか大きく、造りもいい。緑が多い大木が多くある境内もまたいい。昭和になり 皇紀二千六百年記念で後ろの山腹を切り開き境内拡張して社殿を現在の位置へ移し祀ったそうです。
水晶ヶ城または水晶城(すいしがじょう)=wikiや石内公民館HPの古里巡りを参照させていただいて
見るとこの辺りには石道本城と新城があったとされ川向こうのバイパス側に有井城跡がある(ほとんど残ってない)古里巡り記載に従い石道本城としました。
源平の頃 源範頼軍が影ともの道をとおり平家追討した時この城にて佐々木国正が平家方と戦ったらしい。武神として次第に信仰されていく。
戦国期には厳島神主家 藤原氏領〜大内氏支配下になり麻生右衛門が城主として赴任した時に、新たに社殿を造営したと伝わる。
城は山全体を城郭化した連郭式山城で相当規模が大きなものであった。今も城跡が残り神社などから登山も可能なようです。
尚城は厳島合戦前哨戦で開城した後、廃城とされた。
かげともの道=古代山陽道 石内あたりから五日市方面へ古代山陽道が通っていた。
永井建子(字幕訂正=けんし)=石内村出身で、陸軍軍楽隊楽長などを務めた。音楽家。軍楽、洋楽、交響曲、吹奏楽などの先駆者の一人ということです。作詞作曲も手掛けた。記念碑が建立されている。
神社の祭祀は、式内社 速谷神社が行っている模様。
二葉の里歴史散策 後編 東照宮〜安国寺恵瓊ゆかりの安芸 安国寺遺構 不動院(国宝の金堂)まで
広島市歴史散策の後編 饒津神社など画像追加して再編集。東照宮〜鶴羽神社〜明星院、饒津神社(浅野長政以下歴代藩主を祀る)〜国宝のある不動院まで行きました。
広島駅北側の二葉の里(広島城の鬼門にあたり)歴史のある神社仏閣が大変多い散策コース。
後編では・・・・
鶴羽神社(元々は八幡さまです)広島市の鎮守へ参拝
明星院(真言宗御室派の古刹 毛利、福島、浅野など歴代藩主の祈願所 現伽藍は昭和49年再建。
境内はお庭風で綺麗です。かなり整備されている。御朱印あり。
饒津(にぎつ)神社 藩祖浅野長政公を祭神とする。位牌堂が幕末以降に神社になったもので旧浅野藩の守護神である。場所は元々は明星院境内地であった。2019秋の築城400年の頃再訪時の画像も追加使用しました。
〜川ぞいにビックウェーブ(アジア大会などで使われたスポーツセンター)通りを行き牛田地区の 不動院まで。時間の都合で散策コースの碇神社、安楽寺は今回は寄りませんでした。
不動院=足利尊・直義氏兄弟が全国に建てた安国寺のひとつ。旧安芸安国寺。
安芸守護武田氏により尊崇され、武田滅亡後は衰退したが毛利の外交僧の安国寺恵瓊により再興された。安国寺恵瓊は武田氏。
金堂は国宝に指定されている(大内時代の建物で室町期禅宗様式で豪壮、山口の大内義隆公建立の寺院にあったものである)安国寺恵瓊が移築したものということです。おかげで残ったとも言える。
大内が滅び大旦那がいなくなれば衰退してしまう。歴史ある建物もこうして移築により保存されたんでしょうな。
あと新しく再建されたているので明星院は大変美しい佇まいですよ。
サムネ=不動院金堂
【広島県の神社巡り】安芸武田氏の佐東銀山城 北門の鎮護 宇那木神社 (Unaki Jinjya)
鎌倉末期(佐東郡の銀山かなやまじょう城築城の頃)創建の模様で、安芸守護、分国守護などであった武田氏が甲州から勧請した神社。元は宇那木八幡宮と号していたようです。
御祭神=応神天皇 仲哀天皇 神功皇后
宇那木山に鎮座しておりこの山中には数基の古墳が現存する。
佐東郡は(もともと古代は佐伯郡と呼ばれたが平安末期に佐西郡と佐東郡に分かれた)後に沼田郡となり 近代になり安佐郡などと改編された。
JR可部線の七軒茶屋駅から程ないところにあり4〜500m程度離れている。現地は駐車場あり。
安芸武田氏ゆかりの神社である。
銀山城のある現・武田山までは車で20分くらいで山麓からは登山となる。なかなか急な山であるが眼下に太田川流域から厳島を望める景色は良い。二回ほど登りました。
古墳などもあり古代から開け。
中世の太田川流域の安芸の国支配の中心地だったようですが武田氏も守護職をおわれた。
戦国期には太田川流域の分郡守護であった武田氏も衰退し大内氏や尼子氏が勢力を伸ばしやがて毛利氏が台頭してくる。わずかに残る武田氏ゆかりの場所の一つなんですね。
2019( 令和元年 )冬 参拝。
広島市 タカノ橋商店街。
広島市の南にあるタカノ橋商店街。
人が少なく閉まっている店が多かったですがアーケードが綺麗でした。
西国街道を見下す 草津八幡宮から広島湾の風景
広島市西区草津 力箭山中腹にある草津八幡宮からの広島湾の風景。
やや最高画質で書き出しテスト。
草津は漁業(牡蠣養殖など)で栄えた。神社のしたのあたりは西国街道が通っていた古い港町。古い寺社が多い。
草津=神功皇后伝説に関連した、いくさつ(戦津)がなまったものだという説もある。
近くの山に水軍の城 草津城があった。
神社だが元は海の方にあったが幾度かの遷座で山の方へ移動したと言われる。今の境内は、近代に切り開かれた社地なので整備されている。高台なので景色が良い神社である。
中央の三角の島は安芸の小富士似の島、右手は能美島だと思う。
太田川河口仁保島(現在は陸地)旧村社 邇保姫神社 (NihohimeJinjya) 広島市南区西本浦
仁保島=広島湾河口にあった島。現在は内陸化して市街地。黄金山のあるあたりでそこからが続く丘陵の末端の岡に鎮座。
平成十九年未明の火災にて社殿は灰燼に帰す、平成二十二年再建された。
元は享保年間再建の被曝建物でしたが今は唯一手水舎を残すのみ。
社殿は新しく大きなものでなかなか豪壮です。
山頂は再建時、かなり現代風に整備された感じであるがまだいろいろ工事中な模様。
車でも上がれる。御朱印あり。
再建後、参道の石段を登るあたりが一番古い風情や樹木が残った感じのようです。
社頭に掲示された社伝によれば
神功皇后、三韓征伐の帰り。この地に宿泊、霊験のあった爾保津比売命を鎮蔡したという。船団が出発の時、白羽の矢を放ち 邪気払をしたその矢が落ちた場所がこの丘と伝承され、矢が神体らしい。
祭神=爾保津比売命、八幡三神 計他八柱。
仁和元年宇佐八幡を勧請〜これより江戸期までは正八幡宮と号した。
爾保津比売命=丹生都比売ともいい丹砂(水銀の鉱石鉱物)朱色の原料(塗料、顔料にしたが有毒)に関わる氏族の奉斎した神といわれる。
播磨風土記逸文には神功皇后の三韓征伐伝説に登場しこの神から授かった赤土を使い天の逆鉾を染め舳先に立て、軍衣を染めて見事 新羅に勝ったという。
料亭や温泉などのある(庭園も有名)半べい庭園の先にあり邇保姫神社前バス停も近い。合わせて寄りたいところ。
半べい庭園に寄ったので参拝(二回目)
霊泉 湯の山温泉 鎮守社 湯之山明神社 広島県広島市佐伯区湯来町 高画質版
湯の山温泉は浅野藩時代に開かれた温泉場であるが歴史はそれ以前に遡る様です。
浅野公が整備した湯治場跡が今も残る。石を掘った湯壺があり昔はそれがそのままつかわれていたらしい。源泉は湯治場跡から涌出している様です。
その霊泉〜湯ノ山温泉の効能の高さから崇められ鎮守の神を祀り湯の山大明神と号した。
今も湯山明神社として残る。
所謂冷鉱泉で25度くらいの源泉である。昔はそのまま入ったり打たせ湯にあたったりしたらしい。
浅野藩士で絵師の記載した文章では「夏の終わりはいるがほの暖かい程度で湯に入った気がしないが次第に暖かくなってきた云々。
現在は加温してある。日帰り用の温泉館が麓にできており格安である。
この参拝の時 危険な大きな蜂に関わるトラブルに見舞われ散々な目にあうが、ゾッとします(映っつてるけど ここには載せてはいませんが)自戒を込めて自然には気をつけたいものです。ある意味脅威ですから。ここも当分行かないと思いますw。ここの神社下の旧湯治場周辺は冬までしばらく注意が必要です。山だからこのへんは。
なお温泉施設は関係ないので一切問題はありませんご安心を入浴へいきましょう。僕は当分この辺にはにいかないと思います 好きなんだけどねえ。
神社した湯治場跡での出来事です。温暖化ですが冬になれば問題ないかな。
晩秋の「臼山八幡神社」(1) 紅葉はじめの石鳥居 周辺風景切り取り 高画質版
臼山八幡宮 広島市佐伯区石内地区の神社で、背後の山は厳島神主家や大内氏の支配した大規模な山城跡 水晶ケ城跡。けいだいに蜜蜂さんが飛んでました。紅葉以外は黄色く黄葉してたりしましたね。
鳥居の辺りの紅葉など。
神社境内参拝はその2で。
水晶ケ城跡の麓 「臼山八幡神社」Usuayama Hachiman (自然豊かな境内と紅葉の始まり) 広島市佐伯区石内
平安末期に始まり戦国時代厳島合戦の前まで 水晶ヶ城という大規模な山城があり厳島神主家藤原氏や大内氏の支配下にあったが厳島合戦前に毛利軍により落城後に廃城となった。城砦が大規模すぎて守るのに難しい故とも云われる。
旧社格は村社。八幡神を祀る。境内社=稲荷神社と新宮神社がある。
11月 終盤 紅葉が徐々に始まり出す頃。一部色付いていた。境内の木々の映像が多いですが。きれいに撮れた感じがします。境内は結構広いです。石段したの紅葉の古木のある石鳥居のところは駐車スペースになっています。また社殿右手の境内隅に永井建子(字幕訂正=けんし)記念碑が建つ。明治の軍楽隊から始まり幅広く活躍。作曲(元寇、雪の進軍など)なども行い明治の西洋音楽の先駆者の一人。あと・・・神社参拝は5分以降からです^^; 記録用なんで映像長いです、適当に飛ばしてください。
〜境内 由緒書より〜
延暦二年宇佐八幡より勧請された小祠が祀られ、後に築城された水晶ヶ城の鎮守として祀られた。
現 社殿はなかなか大きくどっしりしている。境内は大木が多くある。昭和になり皇紀二千六百年記念にて山腹を切り開き境内拡張して社殿を現在の位置へ移し祀った。
歴史
水晶ヶ城または水晶城(すいしがじょう)=wikiや石内公民館HPの古里巡りを参照。
この辺りには石道本城と新城があったとされ川向こうのバイパス側に有井城跡がある(ほとんど残ってない)古里巡り記載に従い有井城=石道本城としました。
源平の頃 源範頼軍が影ともの道をとおり平家追討した時この城にて佐々木国正が平家方と戦ったらしい。武神として次第に信仰されていく。城は次第に拡張されていったのであろう。
戦国期には厳島神主家 藤原氏領〜大内氏支配下になり麻生右衛門が城主として赴任した時に、新たに社殿を造営したと伝わる。
城は山全体を城郭化した連郭式山城で相当規模が大きなものであった。今も山中に城跡があ
る 令和2年11月
水晶ケ城跡の麓 「臼山八幡神社」補遺〜 Usuayama Hachiman (師走 紅葉最盛期記録) 広島市佐伯区石内
令和二年12月 もみじの紅葉が盛りになったと思われた頃訪れた。
やや曇り気味でしたがだいぶ色付きが進んでおりまあまあ雰囲気は出てるかなと。宮島辺りは混雑しているというので避けてこちらへ再訪した。この辺りは古代山陽道でもある。
平安末期に始まり戦国時代厳島合戦の前まで 水晶ヶ城という大規模な山城があり厳島神主家藤原氏や大内氏の支配下にあったが厳島合戦前に毛利軍により落城後に廃城となった。城砦が大規模すぎて守るのに難しい故とも云われる。
旧社格は村社。八幡神を祀る。境内社=稲荷神社と新宮神社がある。
境内は結構広いです。石段したのもみじの古木のある石鳥居のところは駐車スペースになっています.。また社殿右手の境内隅に永井建子(けんし)の記念碑が建つ。
〜境内 由緒書より〜
延暦二年宇佐八幡より勧請された小祠が祀られ、後に築城された水晶ヶ城の鎮守として祀られた。現社殿はなかなか大きく造りどっしりしている。境内は大木が多くある境。昭和になり 皇紀二千六百年記念にて山腹を切り開き境内拡張して社殿を現在の位置へ移し祀った。
その1(紅葉はじめ頃〜社殿及び境内 動画 sm38073703
令和2年12月
西国街道沿いの力箭山(Rikiya zan)に鎮座「 草津八幡宮 」と広島湾の島々 広島市西区草津(令和三年1月)
令和三年初参拝記録。広島市西区草津 江戸時代は西国街道の間宿(あいのしゅく)で正規の宿場の間にあり休息などに利用された。海辺の街で海運、漁業牡蠣養殖などで栄えた今は沖が埋め立てられ住宅や商工施設が立つ 戦国時代 水軍城「草津城」もあった。
神社の在る山について、神功皇后の三韓征伐の伝説でこの地で軍船を整え 弓矢(箭)の訓練をさせたと伝承され力箭山(りきやさん)と呼ばれる。
草津八幡宮の今の社殿や境内域、自体はそう古いものではない。
昭和六年に山腹を切り開き境内が新造され現在地に遷座され新たに社殿建立されたもの。
古は海の近くにあり再建のたび内陸に移っていったと言う。
高台にあり草津の町〜広島湾や島々などの景観が優れています。時々眺めに行きたくなる場所。
社殿も大変姿が良いし189段の石段も風情がある。
御朱印もいただけます。
宮嶋口や旧市内からチンチン電車で行き 草津駅で降りて散策も楽しいですよ。
草津沖周辺は埋め立てられ近代化されているが、古い街並みや神社仏閣、うだつやコテ絵などのある古民家や蔵なども今だ点在している。歴史散策も楽しい。御幸川の河口あたりに飲食店スーパー専門店などが入るレクトがある。洒落ているので休息などに良い。
蝋梅やひと足ごとの祈りかな
西国街道を進んだ宮内にある 宮内天王社sm37969384
西にある厳島神社外宮 地御前神社 sm37384152
上平良にある延喜式内社名神大社 速谷神社 sm35298947
広島市西広島駅近く【新己斐橋から太田川放水路 河口】の夕陽
西広島駅の手前 新己斐橋の中程から。太田川放水路の夕日。
彼方に宮島がのぞまれた。2.21
新庄之宮(熊野神社)社叢と巨樹・夫婦楠(県天然記念物指定) 広島市西区大宮
新庄の宮と巨樹・夫婦楠=新庄之宮(熊野神社)正慶年間(1332年〜1334年)紀州熊野大社から勧請された古い神社。明治後に熊野神社が三篠神社へ合祀されて、現在地はお旅所となったが戦後昭和27年分離して新庄之宮神社として現在に至るそうです。戦争直後は三篠神社が原爆で焼失したため御神体は、社殿が焼けなかった当社(御旅所)の熊野神社跡へ遷移して祀られていたらしいです。
三篠神社 sm38470420
太田川河口の三角州に形成された自然の名残の社叢クスノキ、タブ、サカキなどの常緑広葉樹とケヤキ、ムクジロ、エノキ、ムクなどの落葉広葉樹からなる戦前の広島のデルタ地帯にあった樹叢の姿をよく残している。広島県指定天然記念物。境内は大木が多く気持ちいいです。
現在の社殿は天保年間の再建。被爆建物である。爆心地から2、9kmでしかも当時は周囲が民家もまばらな田園だったため焼け残って助かったらしい。戦後保存工事もなされている。
夫婦楠(めおとくす)=おとこ楠 〜訂正=おっと楠とおんな楠〜それぞれ樹高30M目通り6.5Mと5.5Mもある県下でも 有数の 巨樹である。(県の指定の天然記念物)
横川駅から国道183号線を歩きやす広い歩道を20分くらいの場所。
天然記念物社叢に関しては広島大百科(文化財データベースサイト)を参考にしています。
横川周辺 西本願寺広島別院や寺町、他に電車通りを下ると広瀬神社や天満川沿いに下ると空鞘神社、中広、己斐方面へ向かうと広島天満宮なども近い。
広島市西区 三篠神社 sm38470420
廿日市市 早春の雪の舞う地御前神社 sm38289814
【西国街道 】今に残る【廿日市 街道松】と【桜尾城趾(桂公園)】sm38305356
【ゆっくり解説】車が橋桁の下敷きになりペチャンコ…『広島橋桁落下事故』
#ゆっくり解説 #広島新交通システム橋桁落下事故 #広島県
今回はリクエストがあった『広島新交通システム橋桁落下事故』の紹介です。
杜撰な管理体制、階層構造の施行請負、市や警察の対策不足など、様々な要因で起きてしまった悲痛な事故です。
引用:出展:参考
Wikipedia
https://ishort.ink/MXqS
怖い話ネット
https://ishort.ink/SniF
https://ishort.ink/cYTK
Junk Lane
https://ishort.ink/EFfD
失敗知識データベース
https://ishort.ink/6Zjq
太洋ヒロセ
https://ishort.ink/dK5t
失敗百選 41の原因から未来の失敗を予測する / 中尾政之
BGM
海底の神殿 by MAKOOTO
https://dova-s.jp/bgm/play7690.html
広島市の神社 三篠神社 広島市西区三篠町
JR横川駅前 南口から旧道の県道277号線をJR高架下を抜けすぐのところにある三篠町の鎮守 三篠神社がある。伊奘諾・伊奘冉神、大国主神、大歳神、宗像神、猿田彦神、天神などを祀る。
市街地の神社で、広島市特有の(土壌があっているらしいです)楠が多い。参拝多分・・・2回目です
社殿は米帝の原爆で焼けているが昭和二十三年再建。
周辺の神社(熊野神社、青木神社、八幡神社、天満宮など)をいくつも合祀している神社で広島市西区の三篠町周辺の鎮守。
三篠神社に合祀されていたかつての御旅所で
(現在分離している)新庄之宮(熊野神社)sm38399720
広島市の神社巡り【西国街道】旧村社 古江 「 新宮神社 」 広島市西区古江東
西国街道 沿いの古江の丘の上に鎮座する古社。創建は南北朝時代の延文年間(1356年〜1361年)で熊野三山の中の熊野新宮社を勧請したもの。
元来の御祭神は泉津事解男命(よもつことさかおのみこと)一座であったが明治初年伊奘美命を加えたという。
明治四十年県令の指示で八幡宮と大日社を加えて相殿に祀り現在に至る。
社殿は平成に入り焼失したため平成三年再建であるがなかなかいい。
境内は広場のような公園になっている。見晴らしは良かったと思われるが今は海は遠くなり住宅街の真っ只中でマンションなどが立ち並ぶ。
2018年の西国街道ウオーキングで見つけられなくて調べてようやく行ってきた。
古江電停から山側へ行くと西国街道に出てファミマの横を入り少し進むと参道入り口が見つかる。周囲に駐車場はあるが1時間200円くらいだった。