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新番組「女性神主が語る國體論~建武中興と楠木正成の真実:第1章ー楠木正成と彼らが目指した建武中興を知らずして『國體』は語れない(1)」山下弘枝 AJER2024.5.1(4)
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新番組
「女性神主が語る國體論」
第2回
建武中興と楠木正成の真実
第1章
楠木正成と彼らが目指した建武中興を知らずして『國體』は語れない
(1)
山下弘枝氏
【会員制サイト:AJERcast】
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今年も盛況裡に総会開催〜大楠公殉節地に立ったその時の奇跡〜
第46回楠公研究会並びに第7回総会、湊川神社・楠公会館にて滞りなく斎了。
この日は終日雨の予報だったのに、私が神戸市内入りすると同時に、その瞬間のみ何故か晴れ渡り、陽の光が燦々と降りそそぎ、先祖のご歓迎を受けた思いだった。
総会・拝殿での正式参拝・通常非公開の殉節地案内の最中も不思議と雨は不思議と全く降らず。
殉節地でこんもりと盛土がされている禁足地を拝した瞬間、正成・正季兄弟が刺し違える瞬間がフラッシュバックした。
幼い頃から親に連れられ何度もお参りしているが、こんな現象は初めてだった。
それと同時に堰を切ったようにドッと雨が降り始めた。
国の現状を見、国を憂う大楠公の涙と感じた。
吉田松陰は遺書「留魂録」で、強烈な志を持った者はたとえ肉体が滅んでも、魂は永遠に生き続け、そうして永遠に日本人の魂の奥底に生き続ける楠公精神こそが七生報國である事を説いている。
かつて吉田松陰はじめ幕末の志士達がそうであったように、私共も大楠公墓碑の前で國體の中興を誓った。
ご参列の皆様誠にありがとうございます。
後ほど、全記録動画は、FB有料会員限定ページにて共有させて頂きます。
新年度からいざ東京進出!
今年度から、保守系YouTube番組「チャンネルAJER」( https://youtube.com/@channelajer?si=F-7SKoeZusOXMFY6 )で、「女性神主が語る國體論」と題し、月2回の配信ペースで私の番組シリーズが始まります。初回は私の生い立ち。2回目以降は昨年出版した拙著『建武中興と楠木正成の真実』(Amazonはコチラから→ https://amzn.asia/d/fr9XAof)を、チャンネルAJERの栗山社長との対談形式でシリーズで詳しく解説していきます。ぜひ、「チャンネルALER」をお気に入り登録して頂き、また、拙著をお手に取って頂いてテキストとして頂きつつ、南北朝時代と楠木正成の事蹟について知って頂ければと願っています。
【告知】
4月24日(水)14時より、兵庫県神戸市の湊川神社・楠公会館(1階にて13:30より受付)にて第46回楠公研究会・第7回総会を開催致します。
総会では昨年度の活動報告と今年度の活動指針、午後3時から正式参拝に続き、神職による通常非公開の殉節地を含めた境内案内、神社由緒解説です。
会費は会員3千円、非会員は4千円(玉串料・会場使用料・神職謝礼含む)。
JR神戸駅徒歩3分。
高速神戸駅徒歩1分。
自家用車でお越しの方は、湊川神社地下のタイムズ神戸北をご利用ください。
午後5時からロイヤルホスト湊川店にて懇親会も予定しています(懇親会費別途)。
ご参加ご希望の方は以下リンクの参加表明ボタンからお申し込み頂くか、楠公研究会事務局(□ 090 -3723-4251 ✉️ [email protected] 担当:西山)までご連絡ください。
https://facebook.com/events/s/%E7%AC%AC46%E5%9B%9E%E6%A5%A0%E5%85%AC%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A%E7%AC%AC7%E5%9B%9E%E7%B7%8F%E4%BC%9A%E6%B9%8A%E5%B7%9D%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E6%A5%A0%E5%85%AC%E4%BC%9A%E9%A4%A8/790522212509100/
来年の紀元節を記念し、都内で講演します!
お申込みはコチラ↓
https://www.kokuchpro.com/event/sendakai_152/
来年2月11日紀元節の日、千田会主催『紀元節特別講演会・建武中興の真実から國體の真髄に迫る〜國體と楠公精神〜』で都内で講話します。
建武中興の事蹟と楠公精神なくして近代日本の樹立は無く、國體を語る事はできない。
しかし、建武中興や楠公精神について、戦後GHQによって消され、教育現場やメディアで正しく語られる事は無い。
國體の真実を正しく知る為には、楠公精神を正しく知らねばならない。
今回は國體と楠公精神についてお話しします。
是非お誘い合わせの上、多くの皆様にお越し頂きますよう、宜しくお願い申し上げます。
https://www.kokuchpro.com/event/sendakai_152/
【日時】令和6年2月11日(祝・日)18時40分~20時40分(開場:18時15分)
【会場】としま区民センター6階会議室601・602 豊島区東池袋1-20-10
交通:JR・東京メトロ・西武池袋線・東武東上線「池袋駅」東口32番出口より徒歩4分
アクセス:https://toshima-civic-center.jp/access/
【参加費】事前申込:3000円 当日申込:4000円 事前申込の大学生:1500円 高校生以下無料
※先着72名までのお申込み受付となります
【懇親会】21時~23時頃 参加費:事前申込(2月8日21時迄)4000円、当日申込4500円
【申込先】2月9日21時迄〆切
[email protected]
(千田宛て)で受付
【主催】千田会 https://sendakai.wixsite.com/home
近藤勇も楠公崇敬者だった!〜会津松平家墓所に隣接する楠木正勝開基の寺『天寧寺』に眠る近藤勇〜
なんと、あの佐幕派の急先鋒ともいうべに会津藩に、朝廷側だった楠木正成の孫・楠木正勝(傑堂能勝禅師)が建立した寺「天寧寺」があるとの事で、東北での取材の帰り、急遽、会津若松市に立ち寄った。
天寧寺は、応永28年(1422)、会津に来た傑堂禅師が、11代芦名盛信の依頼を受け開基した寺。
かつては会津曹洞宗の僧録司で、末寺33カ寺、12の寺院を誇った。
後に、伊達氏の侵攻にあって焼けた為、芦名氏の菩提寺としての面影は、本堂の礎石にわずかに残るのみ。
江戸期になり、この地を会津松平家が治めるようになって以来、天寧寺の門前を中心に武家屋敷が建てられた。
また、天寧寺の程近くには、会津松平家の墓所もあり、天寧寺に隣接している事を意識した墓所の配置であった事が窺われる。
つまり、会津松平家もまた、楠木氏を崇敬していたという事を表している。
天寧寺の裏手の墓地には新選組の近藤勇の墓がある。
戦後、GHQによって楠公の名が消されてからは、天寧寺に参詣に来る人のお目当ては皆、近藤勇の墓所であり、楠木正勝に焦点をあてる人は皆無である。
しかし、本堂の屋根の至る所にはしっかりと菊水紋が掲げられており、この寺が楠氏ゆかりの寺院である事をしっかりと証明していた。
実は、近藤勇は幼少期から太平記を始めとした楠公の伝記を好んで読み、幼い頃から楠公に憧れて育った。
新選組に志願した近藤勇の心中には、やはり楠公精神が宿っていた事であろう。
そんな近藤勇の遺志を偲び、楠公ゆかりの寺院で眠らせようと、新選組の盟友だった土方歳三が遺髪などを持ってきて、会津戦の折、楠氏ゆかりの天寧寺に仮埋葬した。
もちろん、新選組は当時、京都守護代を務めた会津藩の配下として組織されているので、会津松平家の墓所に隣接する天寧寺に新選組隊長が眠る事もよしとしたのであろう。
つまり、当時、佐幕派も尊王攘夷派も、共に、楠公を敬慕していたという事であり、これは今回の取材を通して明らかになった、紛れもなき事実である。
敵味方、思想信条を超えた尊さが、楠公精神にはある。
日本民族のイデオロギーの根幹こそが楠公精神なのである。
4月25日の近藤勇の命日には、墓前祭りが開催されている。
また、藩主松平容保が京都守護職にあった際の国家老で、戊辰戦争の責任者となり明治2年に切腹した萱野権兵衛と、その次男郡長正の墓もある。
楠木正勝が最初に開いた寺院「耕雲寺」〜新潟県村上市〜
耕雲寺は応永元(1394)年に傑堂能勝禅師が開かれた寺で、傑堂の師の梅山聞本禅師を開祖としています。
能勝は楠正成の孫にあたるといい、正平(1355)10年に楠正儀の次男に生まれ名は正能と伝えられている。
別伝では、傑堂能勝は、康暦元(1379)年には既に仏門に入っており、楠木正勝が能勝であるとも伝わっている。楠木正勝は南北朝時代の武将。正能とも。楠木正成の子楠木正儀の子。北朝、室町幕府に徹底抗戦したが、戦に出て流れ矢を膝にうけ、それがもとで歩行が困難となり、25歳のとき高瀬大雄寺に入って出家、のち越前滝沢寺の梅山聞本のもとで修行を積んだという。
傑堂能勝は応永34(1427)年8月7日に73歳で耕雲寺で亡くなりましたが、その間に寺を離れたことがなく、宗門の学問に打ちこまれ、立派な弟子を数多く育てた。
耕雲寺は越後の曹洞四ヶ道場の筆頭に挙げられ、末寺が80、孫寺以下を合わせると800にも及ぶという名刹です。江戸時代は10万石の大名と同じ格式をもち、代々村上藩主から150石の寺領が寄進されていました。
明治19年12月16日に火災のため全伽藍を焼失、僅かに残った鐘楼が今は山門として往時の名残を残しています。この建物は元禄15(1702)年の建立で、市内では羽黒神社の神明宮に次ぐ古い建物で、平成17(2005)年に村上市指定有形文化財に指定されている。
本尊は釈迦三尊仏で、寺宝として傑堂能勝所持の大般若経1巻などがある。耕雲寺の寺紋は「菊水」である。
現存!楠木正成の孫お手植えの大銀杏 〜山形県小国町〜
ダム湖底に眠る幻の寺・飛泉寺。
この大銀杏は楠木正成の孫・楠木正勝が杖としていた銀杏の枝を、現在の横川ダムとなっている飛泉寺の境内に挿したところ、それが根付き、大木となった。
大銀杏は高台に移され、飛泉寺も移転された。
飛泉寺には正勝の馬具が遺されていたが、一旦、紛失し、後に、戻ったが、色々と曰くあり、現在は山形県置賜郡の吉祥寺に納められている。
楠木正成の孫・正勝が開いた秋田県由利本荘市の寺院「高建寺」
山形県から出羽三山、鳥海山を越えて、楠木正勝が開いた寺院・秋田県由利本荘市の高建寺へ。
楠木正成の孫・楠木正勝は、本坊の新潟県村上市の耕雲寺から修験の道を経て山形県由利本荘市に入ったと思われる。
高建寺の創建年には諸説あり、応永元年(1394)とも応永11年(1404)とも応永34年(1427)とも云われる。
開山者は耕雲寺(新潟県村上市)の住職である傑堂能勝禅師。
傑堂能勝禅師は南北朝時代の南朝の有力武将だった楠正成の三男である楠木正儀の長男。
応永元年(1394)に耕雲寺を創建し応永34年(1427)に没している事から高建寺の創建年は応永11年(1404)説が有力とされる。
一方、信州佐久間郡大井郷出身の大井義久が応仁元年(1467)に当地に入封し高建寺を菩提寺とした事から、高建寺を創建したのは大井義久で、2世切叟が開創、傑堂能勝禅師を勧請開山とした為、遡った没年を創建年としたとも。
実際、元々の境内地が大井家の居館である根城館の二の丸付近に境内を構えている事からも義久が開基者だったと推察されます。大井氏の後継である矢島満安が天正年間(1573~1593年)に本城を根城館から新荘館に遷すと、高建寺も館に近い矢島町坂之下に境内が遷され、満安が中興開基者となっている。
寛永16年(1639)の大洪水により境内が大破した事を受け、明暦2年(1656)に矢島城下から見て子吉川を挟んで反対に位置する現地に再興された。
現在の高建寺本堂は元禄7年(1694)に造営され明治に改修したもので、木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、平入、正面軒唐破風、桁行9間、外壁は真壁造白漆喰仕上げ、花頭窓付。
総門は切妻、銅板葺き、一間一戸、薬医門、袖壁潜り戸付き。
山門は安永年間(1772~1781年)に造営されたもので、入母屋、銅板葺き、三間一戸、八脚楼門、上層部には高欄、「嶺松山」の山号額、下層部左右には仁王像安置、楼門建築としては旧矢島町唯一のもので改修をかなり重ねておりかなり古い。
朱色の仁王像は1丈3尺の大きなもので200年以上前のもので京都の仏師が製作したものを運ばせたとされる。
楠木正成の孫・正勝が創建した山形・荘内地方の古刹・泉藏寺
泉蔵寺は当時この地方を治めていた横山城の城主・武藤氏の菩提所として建立された寺院。
御本尊として釈迦牟尼如来・両祖大師がお祭りしてあり、楠正成の孫である楠正勝が創建した。
古刹・泉蔵寺の本堂には二基の石碑がある。
その一つが五輪塔で横山城の城主・武藤氏廣の墓,
この塔は天正年代の創設と推測され、重厚でかつ地方色豊かな造りになっている。
昭和49年に山形県東田川郡三川町横山の文化財に指定され現在に至る。
当日はアポ無しで参拝したが、偶然にも副住職様からお話しをお伺いする事ができ、楠木正勝と当寺との貴重なお教えを頂いた。
【歴史散歩&旅動画】武蔵③(東京編)─皇居外苑と千鳥ヶ淵の辺りをめぐる─ 関東城めぐり Part 7
関東城めぐりPart 7。今回は引き続き東京のお話です。
Part 1~6はこちらから↓
【歴史散歩&旅動画】霞ヶ浦と土浦城へ行ってきた(関東城めぐり 常陸)
https://www.nicovideo.jp/watch/sm42725742?ref=garage_share_other
【歴史散歩&旅動画】下野─小山御殿と佐野城─ (関東城巡り編 Part 2)
https://www.nicovideo.jp/watch/sm42738850?ref=garage_share_other
【歴史散歩&旅動画】上野─高崎城─ (関東城めぐり編 Part 3)
https://www.nicovideo.jp/watch/sm42738850?ref=garage_share_other
【歴史散歩&旅動画】相模─大庭城と鎌倉亀ヶ谷坂のあじさい見物─ (関東城めぐり編 Part 4)
https://www.nicovideo.jp/watch/sm42768608?ref=garage_share_other
【歴史散歩&旅動画】武蔵①(東京編)─上野公園と不忍池で寄り道─ 関東城めぐり Part 5
https://www.nicovideo.jp/watch/sm42924574?ref=androidapp_other
【旅動画&歴史散歩】武蔵②(東京編)─3つの番所と江戸城本丸御殿─ 関東城めぐり Part 6
https://www.nicovideo.jp/watch/sm43002674?ref=garage_share_other
音楽:魔王魂
楠木正成の孫・楠木正勝が開いた寺院・山形県「耕福寺」
山形県置賜郡高畠町の耕福寺は、楠木正勝(能勝傑堂禅師)が開いた寺院。
建武2年、楠木正成は後醍醐天皇から、この地を所領として安堵され、楠木家の領地となった。
正成の孫・正勝(能勝傑堂)が、自身の寺である耕雲寺(現・新潟県村上市)から、旧楠木家所領近くの、日本三大文珠の一つで古刹「亀岡文珠」に参詣に訪れた際、高畠の地元の人々が「是非とも、元領主・正成の孫であるあなた(正勝)に、この地で寺院を開いてほしい」と依頼された。
地元の人々の熱い誓願を受け、正勝(能勝傑堂)が建立したのが耕福寺である。
関西から遠く離れた山形県で、楠木家の元所領があった事に驚きであった。
この発見があった現地調査の帰り道、大きな虹が出現。
先祖の御霊が喜んでくれている事を強く感じた。
ここが「水戸学」の根源の地だ!〜茨城県常陸太田市・耕山寺〜
楠木正成の嫡孫・楠木正勝が開いた広澤山耕山寺へお参り、ご住職からお話をお伺いする事ができた。
国見山の南麓、瑞竜山の西山麓にある。
瑞龍山東山麓には、楠公精神を厚く崇敬、景仰し、湊川の殉節地の「嗚呼忠臣楠子之墓」墓碑建碑に始まる「水戸学」を全国の憂国の志士に興隆させた水戸徳川家の墓所がある。
曹洞宗で広澤(こうたく)山と号する。
本尊は聖観世音菩薩。
寛文三年(1663)の開基帳(彰考館蔵)によると、越後耕雲寺の末寺で、朱印地60石を有し、元は新宿(あらじゆく)村の山吹という地にあった。
楠木正成が湊川の戦いで殉節後、その後を継いで長男・楠木正行が楠木家の棟梁となるも四條畷の戦いで弟・正時と差し違えて殉節。
その後は、三男の正儀が家督を継ぎ、以後、正儀流が楠木家嫡流となった。
その楠木家嫡流の祖ともいえる正儀の嫡男・楠木小太郎正勝は、24歳の時、戦で負った足の怪我をきっかけに仏門に入り「傑堂能勝」と称し、全国を行脚し一六ヵ寺を創建した。
耕山寺もその一つで、佐竹義仁が施主となって庇護した。
佐竹家は楠木家を重んじ、自領内にも関わらず、楠木家の家紋・菊水の使用を耕山寺に促し、現在に至るまで菊水紋が寺紋として継承されている。
佐竹氏が去った後、この地を治めた水戸徳川家は、楠木氏ゆかりの耕山寺と同じ瑞龍山を墓所に選び、楠木氏ゆかりの霊地を墓所と定めた。
水戸徳川家がどれほど楠氏を崇めたのか、非常に窺われる事蹟である。
奈良で楠公精神を歌ってきました
本日(日付替わり昨日)、私も友情出演のオファーを賜り、出演させて頂いた、なら100年会館大ホール(1400人収容)全席満員御礼の大盛況裡に開催された。
会場には、来賓として奈良県内の各市町村長、奈良選出の国会議員も臨席し、祝辞を頂いた。
私の舞台では、小楠公の装束で、大楠公の遺品の刀剣「菊一文字」を守刀として片手に持ち、私の持ち歌詩吟歌謡『千早城』を吟じさせて頂いた。
今回の舞台では、埼玉県から駆けつけてくださったオカリナ奏者・谷口恵様のお心遣いにより、オカリナ演奏のお力添えを賜りました事、この場をお借りしまして、心より感謝申し上げる□
楠公研究会会員の田邊広一様に於かれては、由緒正しき剣武の御披露が、詩吟に更なる威厳と品格を持たせてくださり、感動だった。
詩吟歌謡というジャンルでの千人規模の大舞台は初めてだったので(いつもは講演なのでそちらは慣れているが)、さすがの私も、多少緊張した。
※使用楽曲
・「桜井の訣別」
作詞:落合直文 作曲:奥山朝恭
・「千早城」
作詞・作曲:瀬戸木和男
後醍醐天皇が流された隠岐島に向かい、日御碕灯台から詩吟「小楠公の母」を詠じてきました
楠公研究会会員で、岡崎功先生が建学された湘南高校の元教員・須藤文義様と、同じく楠公研究会会員の浜田博之様のお招きを賜わり、出雲へ。
須藤様が仕えられた岡崎功先生は大東亜戦争の無条件降伏に際して、松江騒擾事件で知られる方。
須藤様ご自身、神社本庁の芦原総長や元掌典職で現亀山神社(広島県三原市)の潮宮司、住吉大社の加藤権宮司等多くの卒業生をお待ちになられる。
当日、まずは日御碕灯台から隠岐島を望み、後醍醐天皇と楠公、南朝の遺徳を偲び讃えるべく、詩吟「小楠公の母を詠ず」を吟じさせて頂いた。
護国活動を行う中、日々、敵勢力はもちろん同じ志を持つ者からも攻撃を受ける事は当然あるのだが、時に、保守を騙って私に近づき私の名を利用して悪事を働く者が若干1名出現し、私の行ってきた顕彰活動に少々自信喪失していた中、今回の須藤様、浜田様からのご高配は、私にとって、今後の更なる顕彰活動に向けての何よりの励みとなるものとなった。
天は、神は、私にまだまだ引退してはならない、表舞台から去ってはならない、とお命じになられていると感じた。
ご神意を知り、天命を悟りて、神意と天命には絶対的に従わねばならない。
それこそが神国日本の民として命を授かった者としての責務である。
隠岐島を望みつつ、そう固く誓った。
https://youtu.be/UqYsNeeeJW4?si=LfgSZ2M6yQC7Zcr9
金胎寺から笠置寺に行幸の後醍醐天皇が渡った「祝橋」・休まれた「養生の芝」・女官が産気づいた「産坂」〜京都府和束町〜
今回は元弘の変で御所を脱出した後醍醐帝が東大寺・春日大社を経て金胎寺へ遷幸、その後笠置寺へ遷られる際に京都府和束町の知られざる秘境に伝わる逸話を、現地の方から現地取材。
楠公研究会賛助会員で、京都府和束町で「和所美土里屋」オーナーでもある和所氏にご案内頂いた。
金胎寺から笠置寺へ遷幸される際に、村人が祝橋という橋をかけた。
橋の用材として使われた木は和束町内に鎮座する八坂神社のご神木が用いられた。
今回は八坂神社調査の目的もあり、某神社のベテラン神職で、楠公研究会賛助会員でもある伊藤氏も同行。
なぜ、八坂神社の御神木を祝橋の用材としたのか、その知られざる意図を知る事ができた。
また、道中に腹痛を起こされた後醍醐天皇が暫し休息をとられた「養生の芝」へもご案内頂いた。
ここは金胎寺のある鷲峰山山麓の茶畑の真ん中にあり、地元の方の案内無しでは辿り着けない地である。
「養生の芝」は、新たに和束町長となられた馬場正実町長にお教え頂いた後醍醐天皇ゆかりの地である。
地元でしか知り得ぬ貴重な情報をご教示頂いた馬場町長に感謝です。
歴史書では語られぬ南北朝動乱前夜の真実の歴史がここにある。
後醍醐天皇陵のある如意輪寺の御忌法要へ ~後醍醐天皇ご命日の日~
後醍醐天皇のご命日に、後醍醐天皇御陵がある奈良県吉野山の如意輪寺での宮内庁立ち会いのもとでの御忌法要にお招き頂き、参列して参りました。
この日は後醍醐天皇ご自身が手彫りされた自作の後醍醐天皇ご尊像が御霊殿からお出ましになり、本堂へ移られて法要が執り行われます。
御霊殿から本堂までの道程に、御輿を担いでおられるのは後醍醐天皇がご生前の折にお傍でお世話をされた方々のご子孫達です。
法要では、ご住職様のお計らいにて、私の本『建武中興と楠木正成の真実』も本堂の後醍醐天皇のご霊前にお供え頂きました。
本堂の法要後は、宮内庁畝傍陵墓管轄区職員によって後醍醐天皇御陵の御鍵が開けられ、通常は立ち入れぬお傍近くにて慰霊の祈りをお捧げさせて頂きました。
今年も後醍醐帝のご法要へお招き頂いたので参列してきます
明日の後醍醐天皇御命日を前に、ふと自身の今までの生い立ちを思い返し、その重さを痛感している。
生まれてからこのかた、先祖の名に恥じぬよう、先祖を貶める行いをせぬよう、それに相応しい品格を保つよう、幼い頃から父母に教育されて育ってきた。
特に、父親は旧帝国海軍中尉であったから、教育勅語を始めとした戦前ばりの家庭教育を受けたし、先祖を祀る某神社の神事にも一緒に参列しなさい、と訳も分からず連れて行かれた。
また、茶道教授と華道教授であった母親は私が幼い頃から、当然の嗜みとして茶道・華道・能楽・着付け・礼法・ピアノ・習字を修練させられてきた。
私にとってはそれが当たり前の生活だったし、周りの子も私と同じだと思っていた。
しかし、小学校に進学してから、同級生は明らかに自分とは違った。
歴史の授業では、家庭や神社で教えられたものとは全く違う事を教えられ、父が私に教えてきた事は全て嘘と教えられ、かなりのカルチャーショックを受けた。
そんな訳で、子供の頃はなんでこんな家系に生まれてしまったのだろう、と心底、自分の生まれを憎んだ少女時代だった。
戦前から戦後、大きく捏造され変遷していく歴史の真っ只中を諸に生きたという貴重経験である。
今ではその葛藤を乗り越えた事が糧となり、現在の活動に繋がっている。
と、そんな事に思いを致しつつの、静かな秋の夜長であった。
楠木正成が嫡男・正行に託した遺言状 〜新潟県南魚沼市・雲洞庵〜
庵の創建は奈良時代の養老元年(717)、藤原房前が母親(先妣尼=蘇我娼子)の菩提を弔うため、先妣尼縁の当地に薬師如来安置し雲洞寺と号したのが始まりと伝えられています。その際、雲洞寺の境内背後に聳える山が朝日で金色に輝くのを見て金城山(標高:1369m)と名付け、山号の由来となっています。藤原房前は実質的な家祖である藤原不比等の2男として生れ藤原北家開祖となった人物で、兄弟である藤原武智麻呂(藤原南家開祖)、藤原宇合(藤原式家開祖)、藤原麻呂(藤原京家開祖)と共に朝廷の主要な役職を独占し藤原四子政権を確立しました。先妣尼(蘇我娼子)はこの地で湧き出る霊泉を用い多くの人々を救い草庵を設けたとされ、藤原家の荘園という事もあり代々藤原家の庇護の下、真言律宗の尼僧院として寺運が隆盛し日本一の庵寺、越後一の寺と呼ばれました。
その後、雲洞寺は一時衰退しますが、応永20年(1420)に当時の関東管領だった上杉憲実が藤原氏の後裔だった事から、村上耕雲寺(新潟県村上市)の住職傑堂能勝禅師(楠正成の孫:楠正勝)の法嗣、顕窓慶字を招いて律宗から曹洞宗の寺として中興開山し、寺号を先妣尼が設けた草庵に因み寺号を「雲洞庵」に改め、関東管領上杉家の菩提寺として庇護しました。上杉憲実は越後守護職の上杉房方の3男として越後で生まれ、伊豆国清寺(静岡県伊豆の国市:関東十刹の一つで臨済宗円覚寺派の寺院)に隠居後は法名である「雲洞庵長棟高岩」を名乗り当庵との繋がりが窺えます。
又、越後の国人領主からも帰依を受け、越後琵琶島城(枇杷島城)の城主で上杉謙信(関東管領、越後国守護、春日山城の城主)の家臣だった宇佐美定満は謙信と敵対する長尾政景(又は長尾義景)を謀殺しようとして野尻池で共に溺死、遺体は鎧櫃で雲洞庵に運ばれ埋葬されたと云われ、境内には墓碑が建立され、現在でも鎧櫃が残されています。
雲洞寺が境内を構えている上田庄は南北朝時代以降、関東管領上杉家の領地だったものの、実際の管理は関東管領上杉家の被官である尻高氏、発智氏、今泉氏などが行い、特に尻高氏が中心的な役割を持ったと思われます。大木六の龍泉院に伝わる由緒によると寛政4年(1463)に尻高実綱が当地に遷った際、父親である新三郎の菩提を弔う為に雲洞庵の別院として開創したとある為、関係性が窺えます。永正の乱で関東管領上杉家が衰退すると尻高氏も後ろ盾を失い、上田長尾家が台頭するようになっています。
#歴史 #楠木正成 #子孫
楠木正成の盟友・結城宗広の治めた白河へ!その壮絶な生涯
福島県白河市の関川寺は白河結城家の菩提寺で、結城宗広が開基とされる。
白河結城氏は、下総結城氏の庶流にあたる。
鎌倉時代、結城氏の祖で鎌倉幕府御家人の小山朝光が得た白河荘を、孫にあたる結城裕広に与え、裕広が白河に下向して以来、結城家は白河城を本城としてこの地を治めた。
裕広の子・宗広は、幕府の御家人として、後醍醐天皇の起こした倒幕活動・元弘の変には幕府方で参陣。
朝廷側の楠木正成が籠る千早城攻めにも幕府方として、足利高氏、新田義貞らと共に参陣した。
しかし、千早城が全く落ちる気配が無く、幕府のていたらくを目の当たりにした矢先に、伯耆国の豪族・名和長年の尽力によって、配流先の隠岐島から脱出、名和館の裏手の船上山に行在所を設けた後醍醐天皇が発した幕府倒幕の綸旨を受け、宗広は幕府方から離脱し、朝廷側へ味方する事となる。
同時期に、新田義貞や足利高氏も幕府方から朝廷方へ寝返っており、「千早城未だ陥ちず」の報が鎌倉幕府滅亡の決定打となった。
建武の中興成立後は、楠木正成・名和長年・千種忠顕らと共に建武四天王「三木一草」の1人に数えられ、権勢を誇った(一説に次男の結城親光とも)。
後醍醐天皇から厚い信任を受けて北畠顕家が多賀城に入ると、諸郡奉行に任じられて共に奥州方面の統治を任された。
宗広の長男・親朝は、奥州府の式評定衆として、北畠親房とその子で陸奥守の北畠顕家に尽くした。
征夷大将軍の座を狙う足利尊氏によって後醍醐天皇皇子・大塔宮護良親王が暗殺され、尊氏討伐の綸旨がくだり、朝廷方と足利方との戦いとなる。
箱根・竹ノ下の戦いで新田義貞率いる朝廷軍を破って尊氏が入洛するが、宗広の次男・親光は尊氏を暗殺する目的のもと、偽って足利方に降伏した。
親光へ応対した大友貞載に、「降参人のくせになぜ鎧を脱がない」と詰め寄られ、尊氏暗殺の企てが見破られたと思った親光は、せめて敵将の1人でも討ち取ろうと貞載を斬殺、群がってきた足利兵を手当たり次第に斬り倒したが、足利兵により斬殺された。
親光の死後も宗広は怯む事無く、顕家や正成らと共に軍を率いて足利軍を攻め、京都奪還の大功を挙げた。
九州に逃れた尊氏が再起を果たして東上して来ると、顕家と共にこれと戦ったが、延元3年に顕家が高師直と戦って敗死し、朝廷軍は壊滅。
宗広は命からがら南朝皇居の置かれた吉野へ。
宗広は南朝方再起のために、義良親王(後の後村上天皇)を奉じて伊勢国安濃津(現在の三重県津市・結城神社辺りの港)より北畠親房・伊達行朝・中村経長等と共に海路から奥州へ向かおうとしたが、海上で遭難し、安濃津の港に漂着。
間も無く、老齢での無理が祟ったのか、体調を崩し、その地で病没した。
日本最北!楠木正成の孫・楠木正勝が開いた寺院「洞春院」と楠公廟
楠木正成の嫡孫で、伊勢楠氏の祖となる楠木正勝が開いた山形県鶴岡市「金澤山 洞春院」へ。
私にとっては初めての東北取材調査となりました。
突然の訪問にもかかわらず、ご住職様には大変ご丁重にご案内、ご教授を頂き、格別のご配慮により、非公開の楠木正勝公自筆の遺言書や自画像のお軸を特別に拝見させて頂きました。
非公開ですので、写真は掲載できませんが、正勝公のお顔から、とても眼光鋭いながらも風格ある大人物であった事が窺われました。
正勝公は、合戦の際に左膝を負傷した事をきっかけに仏門に入り、全国行脚の修行を敢行され、新潟県村上市「耕雲寺」にて「傑堂能勝」と号し、開山開祖となりました。
その後も、出羽三山の周辺地区にあたる東北一帯に於いて、修験の道を行脚し、仏道に勤しまれます。
ここ洞春院には楠木正成公の御霊を奉祀する「楠公廟」が鎮座し、今でも毎年9月1日に、特別開帳が行われています。
ご住職様が仰るには、檀家さん以外では滅多に御朱印を求めに来られる事が無いそうで、私も、自身の身元(正成の嫡孫にあたる・楠公研究会代表者である・楠公研究者である等)を隠してお参りしたので、私の参詣を不思議に思われたとの事。
つい先々週には、奈良県十津川の楠木正勝公墓所にもお参りしたところでしたので、今回の洞春院・楠公廟参詣は、私にとって、最高に意義深き取材調査となり感慨無量。
自身の直接の御先祖と対面した、至極のひと時となりました。
今回も、遠く山形県までお車、宿泊等のご歓迎等、多大のご尽力を賜りました楠公研究会賛助会員・守谷様ご夫妻に、心より厚く深謝御礼を申し上げます。
#歴史 #楠木正成 #子孫
皇居外苑から今も日本を見守る大楠公 〜東日本大震災でのエピソード〜
皇居外苑の大楠公像にて、今回の湯島での講演も大盛況、お越しになられた多くの方々に楠公精神と國體の真実について伝え、大和魂を発揚させて頂いた事をご報告した。
「雨の日も風の日も、こうして私達を見守ってくださっているのですね」
ふと、そう仰る声が聴こえた。
実は、東日本大震災の時、帰宅難民となられた方々の為の救護テントが張られたのもここ大楠公像前。
現代に亘って尚、楠公の魂は生き続けている。
大楠公に感謝の言葉を述べ、講演の大成功をお伝えした直後、一陣の風が大楠公像の方角から吹き抜けた。
神威が発動される時には神風が吹く。
まさに、これは大楠公の神威を表した神風であった。
私のご先祖・楠木正勝公のお墓参りへ 〜奈良県吉野郡十津川村・湯泉寺温泉〜
私の先祖は楠木正成だが、楠木正成の三男・正儀の長男・正勝は、楠木家直系の池田家に対して、楠木家嫡流であり、伊勢楠氏の祖である。
私はこの伊勢楠氏の血脈にあたる。
楠木正勝は、南北朝合一に尽くし、北朝に走った父・正儀と対立し、北朝と徹底抗戦を続けた。
しかし、間も無く、楠木本城である千早城が落城し、祖父・楠木正成の頃から懇意にしていた十津川郷士を頼った。
十津川郷で持病を煩い、同郷の湯泉寺温泉で湯治を行いつつ、再起を図ったが、志半ばにして病死した。
十津川郷で持病を煩い、同郷の湯泉寺温泉で湯治を行いつつ、再起を図ったが、志半ばにして病死し、その死を悼んだ地元の人々が、正勝が隠棲していた十津川郷武蔵の地に墓碑を建立し、菩提を弔った。
正勝の長男・正顕は、伊勢国司の北畠氏を頼り、北伊勢へ基盤を移し、現在の三重県四日市市の楠城、同県いなべ市の治田城を築き入城し、伊勢楠氏は隆盛を誇る事となる。
時代くだり、戦国時代、織田信長の重臣だった佐久間信盛が信長の不興を買って追放された後、十津川郷にやって来て、自身が尊崇していた楠木正勝の史跡の傍で隠棲した。
彼の墓も、その遺言通り、彼の尊崇してやまぬ正勝公の墓碑の隣に建立された。
今回、楠公研究会賛助会員で「俵屋工房」の絵師・高橋亮馬画伯にご招待頂き、ご先祖・楠木正勝公のお墓参りにお連れ頂いた。
また、正勝公が実際に入ったという湯泉寺温泉にも宿をとって頂き、大変温かいご歓待を賜わった。
高橋亮馬画伯の作品は、東京国立博物館に展示されており、今後は、日本の神々を描きたいと益々、その尊い志を立てていらっしゃった。
長年にわたり、いつも大変お世話になっている高橋画伯に心より感謝申し上げます。
國體護持派と反日勢力との熾烈な死闘
また在庫切れ表示‼️これは異常事態だ‼️本の中で安倍晋三元首相と私との知られざるやり取りを書いているからその全容を知られたくない勢力の圧力だ‼️版元には在庫ありAmazonの在庫切れは誤表示で注文できるのでどしどしご注文を‼️反日勢力の圧力には屈ない‼️御協力宜しくです‼️
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建武中興と楠木正成の真実 ~大楠公の地元で洗いざらい事実をお話ししてきました~
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「太平記」に登場する山城を解説!!。
皆さん、こんにちわ。
STOP ORION★です!!.
今日は、岡山県総社市に位置する、「福山」という山に行ってきました。
っということで今回は、岡山県総社市にかつて存在した福山城について解説していきます。
福山城は総社市南部の福山(標高302メートル)山上に存在した山城である。南北朝時代に『太平記』に記された福山合戦の舞台となりました。
奈良時代より平安時代にかけて山岳寺院「福山寺」が存在していました。建武2年(1335年)に荘兼祐がこの山岳寺院を改造し城郭としました。築城主は真壁是久とも言われる。城は一の段、二の段、三の段が連なって配されていました。現在の遺構として一、二の段の間に城門跡の石垣が確認でます。また空堀、石列、井戸跡などがあります。1936年(昭和11年)12月16日、国の史跡に指定されました。
次に「福山合戦」について解説する。
建武3年(延元元年、1336年)2月、九州に敗走していた足利尊氏が30万人とも言われる軍勢を擁し東上を開始した。備後国鞆の浦で軍は海上を行く尊氏軍7,500隻と、陸上を行く足利直義軍20万人の二手に分かれた。
4月3日、後醍醐天皇方の新田義貞軍の先鋒隊大井田氏経は足利方に加担していた城主の荘兼祐を追い、足利軍の東上を阻止すべく籠城した。足利軍は5月上旬に備中国に達し、5月14日にはこの地に到着し城を包囲した。直義の率いる足利軍20万人に対し、大井田軍は僅か1,500人であったとされる。5月15日夕刻より攻城戦が始まった。籠城軍はよく奮戦し、足利軍は2万の死傷者を出した。
しかし、大軍を前には抗しきれず17日には火をかけられ落城した。氏経は僅かに400人ばかりとなった将兵と共に足利軍の布陣を突破した。20回以上の戦闘を繰り返しながら本陣のある播磨国との国境にほど近い備前国三石城に逃れた。
この戦いの7日後には楠木正成が戦死した湊川の戦いが行われた。
っという感じで今回の動画、良いなと思ったら、イイねとフォローよろしくね!!。
建武中興の立役者・万里小路藤房の終焉地・滋賀県湖南市三雲【妙感寺】
滋賀県湖南市三雲の南朝ゆかりの地・妙感寺へ参詣。
妙感寺の開山は授翁宗弼(じゅおうそうひつ)。
俗名は藤原藤房。
後醍醐天皇の建武中興に尽力した楠木正成、新田義貞と並ぶ「建武三忠臣」の一人。
万里小路藤房(までのこうじふじふさ)とも称され、楠木正成の最たる盟友の1人である。
この藤房の終焉の地として、彼の墓所があるのがここ妙感寺であり、南朝とは深い縁がある。
楠木正成の妻は藤房の妹・滋子と伝わる。
拙著『建武中興と楠木正成の真実』でも触れているが、楠木家と万里小路家との縁戚関係から、笠置挙兵時の後醍醐天皇の「南木の夢」の折、藤房は義理の弟にあたる正成を後醍醐天皇に推挙したと考えられる。
実際、正成に笠置参陣の勅使として楠木館に遣わされたのも、万里小路藤房であり、全ての辻褄が合致する。
元弘元年(1331)9月28日未明、風嵐に見舞われる中、鎌倉幕府方で組まれた決死隊の急襲を受け、笠置城は陥落。
瞬く間に猛火に包まれ、50ヶ寺と共に本尊の弥勒菩薩もろとも焼失した。
後醍醐天皇と藤房は辛くも笠置城を脱出し、正成の籠る河内の赤阪城を目指したが、程無く道に迷い、有王山(京都府井手町)の山中に迷い込んでしまう。
有王山麓の松の下で「さしてゆく笠置の山を出でしより、あめが下には隠れ家もなし」とお詠みになると、藤房卿は「いかんせん慿む蔭とて立ち寄れば、なお袖濡らす松の下露」と返され、天皇を慰められた逸話は余りにも有名である。
この後、天皇と藤房は幕府方の追っ手に捕らえられ、隠岐島に配流となる。
天皇が配流された後も、楠木正成は赤阪城、千早城で籠城戦を展開した。
楠木軍によって散々に翻弄される幕府の大軍を目の当たりにし、鎌倉幕府の御家人・新田義貞、足利高氏らが幕府に失望し相次いで離叛。
伯耆国の豪族・名和長年が隠岐島から天皇を奪還すると、形勢が宮方有利に転じた。
足利高氏が京都の六波羅探題を、新田義貞が鎌倉を陥落させ、北条一門は自刃、鎌倉幕府は滅亡し、ここに建武の中興が成立した。
建武中興の成立後、藤房は後醍醐天皇の親政のもとで恩賞方を務めた。
武家への恩賞が余りに薄い事を受け、武家の離叛を恐れた藤房は後醍醐天皇に対して諫言したものの聞き入れられず、藤房は政治に絶望。
建武元年(1334)に39歳で突如出奔して出家し、諸国を放浪した。
「授翁宗弼」と号し、公卿時代の知行地であった江州三雲の郷に於いて、後醍醐天皇念持仏の千手観音を奉安する持仏堂を建立したのが妙感寺の開基で、持仏堂が本堂。病を得、療養の為、三雲に移り妙感寺に穏棲。
天授六年(1380年)3月28日、85歳で亡くなった。
本堂の横には、五輪塔が立つ大師の墳墓がある。
6月も宜しくお願い致します 〜収録中にまさかの放送事故・本当にあった恐い話・臨死体験・近況報告etc〜
神社本庁所属神主・第25代楠公嫡孫・楠公研究会代表理事・表千家茶道教授者・池坊教授・作家
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今秋、1000人超えの大イベントに出演します!
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【奈良まほろば円舞会】→ https://mahoroba-dance.or.jp/
「まほろば円舞会」は2009年平城遷都1300年祭のプレイベントで、天平衣装を着てワルツ(円舞)を 踊ろうとの発想で生まれ、県庁前回廊特設ステージで始まり,2010年まほろば円舞会実行委員会を設立、平城遷都1300年祭に県民事業として、「2010まほろば円舞会」・なら100年会館大ホールで開催。
2015年秋に「NPO法人まほろば円舞会」を設立。 「まほろば円舞会®」の名称を特許庁に申請、商標登録を取得する。“まほろば円舞会®”
以後、なら100年会館大ホールで毎年開催を経て、2021年13年目を迎えた。
1階席部分使用、ステージ所要時間3時間30分間、18~20ステージ団体が参加。スタッフを入れて「2019まほろば円舞会」では総動員数約1500人の人気イベントとなる。
“「まほろば円舞会」は1幕と2幕で休憩を挟んで3部構成。
1幕は“万葉ダンスファンタジー”・万葉集をテーマにした音楽劇のダンスファンタジー演出。
2幕は生涯学習で学んでいる、子供から高齢者・障がい者が一同に集い、世代やダンスジャンル垣根を越えた、一般市民参加の音楽とダンスの祭典。
桜井の訣別は本当にあった!! 〜本当の歴史を後世に伝え神国日本の國體を取り戻す〜
今年も京都府城陽市の「倉田農場」さんからのご厚意で、もぎたて新鮮トマトを頂きました□
トマトが凄い倉田農場は女当主が経営面で腕を奮っています。
女当主の名は倉田美春さん。
彼女は楠公研究会の非常に優秀なる広報部長ですが、それだけではありません。
彼女とのご縁は楠公父子の桜井の訣別まで遡ります。
倉田さんの結婚前の旧姓は「清水」姓で、楠木正成がその嫡男・正行に対して、湊川合戦を目前に控え、桜井の駅(現在の大阪府島本町)で訣別を告げた際、「自分はまだ11歳だが父上についていく」と言って聴かない正行を「成人してから帝に命を賭けて仕えよ。今回の戦は玉砕する戦であるから、まだ成人していないお前は故郷の河内へ戻れ」と泣き泣き父正成の後をついていこうとする正行を諭したのですが、この訣別の対面が行われた会場が、倉田さんのご先祖で、同時、桜井の駅で陣屋を務めていた清水正澄の屋敷内でした。
楠公父子の最後の会見に立ち会った清水正澄は、この感動的な父子の訣別を後世、子々孫々に遺すべく、絵に描き残し、その絵は現在、軸装され、現存しています。
当時描かれた楠公父子の様子から、正行が明らかに子供に描かれている事が、桜井の訣別時の正行の年齢が今まで伝えられてきた通り11歳で間違い無かったという事を証明しており、この掛軸の持つ意義は非常に大きいものなのです。
戦後の自虐史観にまみれた歴史学会の中での歴史観では、桜井の訣別は史実では無く、正行は既に30歳を超えており、正成はお家大事さに、充分成人してもはや青年の域に達していた正行を敢えて河内へ戻したのであり、正行が11歳というのは、戦前に、楠木正成を美化して皇国史観のもと軍神と崇める対象とする為に、後世の人々が改ざんしたものであり、つまり、吉田松陰は頼山陽ら多くの幕末の志士を感涙させてきた桜井の訣別という出来事は存在しなかった、とする左翼御用歴史学者らはそう断定している。
しかし、清水正澄が描き残した絵によって、正行が桜井の訣別時は11歳であった事が証明される結果となった。
しかし、学者らは、清水正澄の絵を徹底的に無視し続けている。
これは、特攻に恐れを成したGHQによって自虐史観に毒された歴史学会が、聖人楠公像を封殺しようとしているからに相違無い。
私は、今回の拙著『建武中興と楠木正成の真実』を著すにあたり、歴史学会への忖度は一切無しで、真実の歴史を全て明らかにし、自虐史観を粉砕した。
私の活動の一端である。
拙著『建武中興と楠木正成の真実』、ぜひお読みください↓
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楠公祭、無事終わりました 〜湊川神社・湊川の戦い〜
楠公祭本祭、無事、斎了されました。
687年前の旧暦の本日、楠木正成公は、ここ湊川の地にて七生報國を誓い殉節されました。
その後、水戸藩主・徳川光圀公によってこの地に「嗚呼忠臣楠子之墓」墓碑が建立され、幕末に維新の志士らの崇敬の対象地となりました。
大東亜戦争末期には、楠公の精神を背負った英霊による菊水作戦、則ち沖縄特攻のもと、七生報國の鉢巻を巻き、護国の英霊が散華された事は記憶に新しいところです。
戦後GHQにより、大和魂の根源というべき楠公精神は封印されましたが、民族の尊厳として、この精神を後世に伝えていく事の必要性を尚一層、強く感じております。
楠公祭では、本殿での神事に引き続き、神能殿にて柳生新陰流兵法による演武と楠公歌の会による奉納、直会があり、多くの方々がご参列くださり、大いに賑わいました。
昨日今日と素晴らしい晴天に恵まれ、大楠公の神恩に感謝すると共にご参列くださいました皆様の楠公崇敬の思いに、深く感動しております。
まずは、無事の祭典斎了のご報告と御礼とさせて頂きます。
今後共、楠公嫡孫として精進して参りますので、引き続き、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
ご好評頂いております『建武中興と楠木正成の真実』https://amzn.asia/d/iBKeVYi も併せて宜しくお願い申し上げます。
#楠木正成 #末裔 #南北朝