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【一の巓嶽】陸奥国向羽黒山城 平成25年(2013) 夏
2013年の8月。
福島県大沼郡会津美里町の向羽黒山城(むかいはぐろやま)を訪れました。
奥州会津の地を四百年に渡って治めた葦名氏の、
第十六代盛氏公が永禄4年(1561)頃に築城し、
直線で6Km離れた黒川城(鶴ヶ城)の詰めの山城、
盛氏公の隠居城として使用されていたようです。
伊達氏、蒲生氏、上杉氏と数々の大名家が改修を加えたようですが、
上杉氏の米沢移封により、廃城になったと伝えられています。
東日本最大級山城の名に恥じぬ。巨大な山城です。
最後は葦名家廟にも訪れています。
お城→mylist/37297571
【義】出羽国米沢城 平成25年(2013) 初冬
2013年の12月初旬。
山形県米沢市にある米沢城を訪れました。
米沢市街地のほぼ中心に位置する平城で、別名、舞鶴城、松岬城。
戦国時代に伊達氏が本拠とし、伊達政宗もここで生まれたと伝わります。
上杉景勝の会津転封にともない、直江兼続が米沢城へ入封し、関ヶ原の戦いの後
上杉景勝が移封され、明治時代まで上杉氏の居城となっていました。
現在は、上杉神社や松岬公園となり、土塁と内堀がありし日の米沢城の面影を
残しています。
お城→mylist/37297571
【九州の虎口】豊前国小倉城 平成25年(2013) 冬
2013年の12月下旬。
福岡県北九州市の小倉城を訪れました。
九州への上陸地点であり、陸海交通の要衝である小倉城は、
鎌倉時代に築城されたと伝わりますが、資料に登場するのは、
永禄年間(1558-1570)に毛利氏が小倉津の平城に南条勘兵衛を在城させたことが
宗像大社の記録に残っています。
後に高橋鑑種(あきたね)が入城し、豊臣秀吉の九州征伐後は、毛利勝信が入城しました。
関ヶ原後は細川忠興が39万9千石で入り、細川氏の肥後転封後は、小笠原氏が
15万石で入城し、幕末までの230年間、小笠原氏の居城となりましたが、
慶応2年(1866)長州藩との戦いで自焼しました。
現在の天守は1959年に再建された復興天守です。
お城→mylist/37297571
【桜夢】越後国高田城 平成26年(2014) 春
2014年の4月12日、新潟県上越市にある高田城址を訪れました。
慶長19年(1614)、徳川家康の六男・松平忠輝の居城として、
天下普請により、加賀前田家、米沢上杉家等13の大名家が6万7千人の人夫を
動員して4ヶ月足らずで築城したとされています。
天下普請の大城郭にも関わらず、石垣のない珍しい城になりますが、
外掘りの広大さには目を見張るものがあります。
花見客がたくさんいて、城郭を詳しくは見ていません。じっくり城郭を巡る
のではなく、桜がメインの動画となります。
※初代城主の松平忠輝公は26歳で改易後、徳川家からの勘当が解けたのは
370年後の昭和62年です。
勘当されたまま、今の長野県の諏訪高島で92歳の生涯を閉じました。
お城→mylist/37297571
【咆哮】陸奥国九戸城 平成27年(2015) 初夏
2015年の5月中旬、岩手県二戸市にある九戸城址を訪れました。
築城年代ははっきりとしませんが、九戸政実の乱(1591年)では、
ここに九戸軍約5千が籠城し、豊臣秀吉の奥州仕置軍約6万と戦いました。
開城すれば城内の者全てを助命するとの仕置軍の使者を受けて、
九戸政実ら大将らは降伏しますが、約束は反故にされ九戸政実らは処刑、
城内にいた者も惨殺されてしまう悲劇の地となりました。
その後、蒲生氏郷の改修により東北最古となる石垣をもち、名前を福岡城と改め
南部家の本城となりますが、盛岡城へ本城が移ると廃城となりました。
三戸城→sm22539435
お城→mylist/37297571
【邯鄲の夢】近江国八幡山城 平成27年(2015) 初秋
2015年の9月中旬、滋賀県近江八幡市にある八幡山城址を訪れました。
1585年(天正13年)、近江八幡43万石を領した豊臣秀次は安土城の西隣の地に
八幡山城を築き本能寺の変後に焼失した安土城の建物や城下町を移築しました。
八幡山(標高283m、比高100m)山頂に本丸や二の丸の城郭、
南の麓には秀次の居館や家臣団の館が並んでいました。
1590年(天正18年)には京極高次が2万8千石で入城するも、
1595年(文禄4年)秀次事件で羽柴秀次は切腹し八幡山城は廃城となりました。
現在、八幡山にはロープウェイが整備され、城下の八幡掘り等は観光客が多く
訪れる観光地となっています。
お城→mylist/37297571
【武蔵守護代】武蔵国滝山城 平成25年(2013) 仲春
2013年の3月下旬、東京都八王子市にある滝山城址を訪れました。
1521年(永正18年、大永元年)に山内上杉家の重臣、大石定重が築城したとされています。
その後、大石氏は北条氏の軍門に降り、北条氏照が城主となりました。
1569年(永禄12年)、武田信玄が滝山城を囲み、近くで戦闘があったようです。
その後、北条氏照は八王子城を築城し、居城としたので滝山城は廃城となったようです。
加住丘陵(標高169m、比高70m)の上に築城され、北の多摩川と秋川の合流支点を
抑える要衝でした。
現在、春になるとたくさんの桜の花が咲く花見の名所となっています。
お城→mylist/37297571
【鶴松】日向国佐土原城 平成27年(2015) 仲冬
2015年の12月、宮崎県西都市にある佐土原(さどわら)城跡を訪れました。
14世紀中頃に伊東氏の一族田島休助によって田島城として築城されたとされ、
15世紀中頃に伊東氏の伊東祐賀が入城し、佐土原氏を称した為、
その頃から佐土原城と呼ばれるようになりました。
島津氏の日向侵攻後は島津家久、家久の死後は息子の島津豊久が城主となり、
江戸時代から明治まで佐土原藩島津氏の居城でした。
お城→mylist/37297571
【府蘭】豊後国丹生島城(臼杵城) 平成27年(2015) 仲冬
2015年の12月、大分県臼杵市にある丹生島城(臼杵城)跡を訪れました。
1560年頃に大友宗麟が府内(大分市)から新たな本拠として、
海に浮かぶ丹生島をそのまま城にしました。
宗麟統治時代、城下にはポルトガルやイスパニアの南蛮船や宣教師が訪れ、
キリスト教の礼拝堂が城内にあった程、キリスト教が盛んだったようです。
大友氏の改易後は、福原氏、太田氏が入城しますが、
江戸時代は稲葉貞通の入城後、明治維新まで稲葉氏15代、5万石の居城となりました。
お城→mylist/37297571
【奇想天外】備中国高松城 平成26年(2014) 仲冬
2014年の12月、岡山県岡山市にある備中高松城を訪れました。
築城時期は不明ですが、三村氏が備前の宇喜多氏に備えて築城したとされ、
天正3年(1575)、三村氏が毛利氏に滅ぼされた後は、清水宗治が城主となりました。
天正10年(1582)、旧暦の四月、羽柴秀吉率いる織田軍は高松城への攻撃を開始するも、
清水宗治以下、城兵がよく持ちこたえ、織田軍の損害も大きかった為、
秀吉の軍師、黒田官兵衛は、高松城が低地にあることを逆手にとり、水攻めを提案、
城の周囲を築堤で囲った秀吉は水攻めを成功させ、城の大部分が水没します。
城主、清水宗治は城兵の助命と引き換えに水上の船で切腹、高松城は開城しますが、
織田信長が本能寺の変で討たれた二日後の出来事でした。
Stilett殿・MINAMINARUN殿、広告ありがとうでござる。
お城→mylist/37297571
【一夜城】相模国石垣山城 平成27年(2015) 初春
2015年の2月上旬、神奈川県小田原市にある石垣山城址を訪れました。
天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原征伐の為、築城しました。
小田原城の西3kmの笠懸山(260m)の山頂に総石垣の城を築城し、
完成後に周囲の木を伐採した為、一夜にして城が出来たかのように
小田原城の北条方には見えたと伝わります。
城の完成後、10日余りで北条氏が降伏していることから、
坂東武者もさぞかし肝を潰されたかと思います。
関東大震災での石垣の崩落が目立ちますが、他には見られない独特な井戸曲輪や
物見台からの足柄平野と相模湾の眺望等、観光地としてもおすすめです。
お城→mylist/37297571
【士魂】遠江国浜松城(曳馬城) 平成27年(2015) 初夏
2015年の5月下旬、静岡県浜松市にある浜松城を訪れました。
元亀元年(1570)、遠江(静岡県西部)をほぼ制圧した徳川家康が築城しました。
元々は駿河守護の今川氏の曳馬城が浜松城の北東にありましたが、
曳馬城を取り込む形で築城されました。
元亀三年(1572)、武田信玄の大軍が浜松城の北を通り過ぎようとしたので、
家康は果敢にも三方ヶ原で合戦を挑みましたが、完敗して命からがら浜松城へ退却します。
家康の関東移封後は堀尾吉晴が浜松城主となりますが、関ヶ原の合戦後は
再び徳川氏に服属し、以後は譜代大名の居城となりました。
天下を取った家康と江戸時代を通じて城主が老中等に出世することから、
出世城とも呼ばれています。
お城→mylist/37297571
【小一郎】大和国郡山城 平成27年(2015) 仲冬
2015年の12月上旬、奈良県郡山市にある郡山城址を訪れました。
天正8年(1580)、織田信長は大和一国の差出(検地)と郡山城以外の城郭の破却を命じ、
大和国守護の筒井順慶は筒井城から大和郡山城へ移り、城郭を整備しました。
天正13年(1585)、豊臣秀吉の弟、豊臣秀長が郡山城主に封じられ、
その石高は大和国・和泉国・紀伊国100余万石に及ぶもので、
郡山城も100万石にふさわしい城郭の整備が行われました。
豊臣秀長・秀保の後は増田長盛が20万石で入封し、関ヶ原の後、一旦廃城となりますが、
江戸時代には郡山藩の藩庁が置かれました。
平成29年3月下旬まで天守台付近は修繕の為、立入不可のようです。
お城→mylist/37297571
【天嶮】美濃国苗木城 平成28年(2016) 晩春
2016年の4月下旬、岐阜県中津川市にある苗木城址を訪れました。
東美濃の豪族遠山氏の一族、遠山景村が南北朝時代に築いたとされ、
苗木の遠山氏は、岩村遠山氏、明智遠山氏とともに遠山三人衆と呼ばれていました。
戦国時代の城主、遠山直廉は織田信長の妹をめとり信長方に属していました。
本能寺の変の後、森長可が苗木城を攻め落とし支配しますが、
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで徳川方の遠山友忠とその子友政が、
豊臣方の河尻直次から苗木城を奪い返し、以後、苗木城は遠山氏十二代、
一万石余の居城として明治まで続きました。
苗木城のある標高426mの高森山は木曽川に突出しており
山頂の天守台から臨む恵那山等の景色は雄大そのものです。
※JT殿、広告ありがとさんでござんす♡
お城→mylist/37297571
【扇】豊前国中津城 平成29年(2017) 晩冬
2017年の1月下旬、大分県中津市にある中津城を訪れました。
天正16年(1588)、 黒田孝高(官兵衛)が築城を開始し、
元和7年(1621)、細川氏の時代に扇形の縄張りの城が完成しました。
細川氏の後は小笠原氏、奥平氏が城主を務めました。
中津川が豊前海(周防灘)に注ぐ河口に築かれた海城で、
天守は模擬で資料館になっており、奥平氏関係の展示を見ることができます。
見所は本丸北面の石垣で、黒田氏と細川氏の石垣を見比べることが可能です。
動画の最後には、中津城で暗殺された城井鎮房の家臣が討ち死にしたとされる
赤壁寺こと合元寺も訪れています。
城井鎮房の城井谷城→sm24147641
お城→mylist/37297571
【国盗り】尾張国小牧山城 その一 平成29年(2017) 晩冬
2017年の1月下旬、愛知県小牧市にある小牧城址を訪れました。
永禄6年(1563)、織田信長が美濃国侵攻の為、築上した城で、
濃尾平野の平地の中に一つだけ突き出た小牧山に造られました。
信長は小牧山城に本拠を移した後、4年後には美濃国の稲葉山城を攻略し、
岐阜城に本拠を移しました。
小牧・長久手の合戦では、徳川家康は小牧山城に布陣し、
秀吉軍に備えて、堀や土塁等を大幅に改修しました。
北は犬山城、南の名古屋城からもよく見える小牧山城は、
標高85mの小牧山全体を城として、濃尾平野に睨みを利かせる存在です。
今回は大手周辺と主郭を散策します。
小牧山城その二→sm30664519
お城→mylist/37297571
【麋】美濃国大垣城 平成29年(2017) 初春
2017年の2月下旬、岐阜県大垣市にある大垣城を訪れました。
天文4年(1535)、土岐氏一族の宮川安定が築城したと伝わり、
永禄2年(1559)、氏家直元(卜全)が城主となり、改修しました。
寛永12年(1635)、戸田氏鉄が城主となった後は戸田氏が幕末まで城主を務めました。
西美濃のほぼ中央に位置し、東は木曽三川、西は関ヶ原を抑える要衝の地であり、
天下分け目の関ヶ原の合戦では、大垣城は西軍の本拠地として、
石田三成等の軍勢がここから関ヶ原へ出陣して行きました。
江戸期には三重の水堀に囲まれた水の城でしたが、現在、堀を埋められ往時の姿を
偲ぶことはできません。
個人的には、山中城の戦いで討死した大垣城主を務めた一柳直末のことが思い出されました。
お城→mylist/37297571
【七つ酢漿草】土佐国岡豊城 平成29年(2017) 仲春
2017年の3月上旬、高知県南国市にある岡豊(おこう)城址を訪れました。
13世紀~14世紀に長宗我部氏によって築城されたと伝わり、
戦国時代には長宗我部元親がここを拠点に土佐を統一、
その勢いのまま四国統一の直前まで進撃しました。
香長平野(かちょうへいや)の北西端に位置する岡豊山(標高97m)に築かれた山城で、
すぐ南の国分川が天然の堀になっています。
城址の動画の後に長宗我部氏縁の地も訪れています。
司馬遼太郎氏の『夏草の賦』の舞台を訪れて感無量でした。
戸次川の戦いを辿る旅→sm28047015
お城→mylist/37297571
【小十郎】陸奥国白石城 平成29年(2017) 初秋
2017年の8月中旬、宮城県白石市にある白石城を訪れました。
鎌倉時代に刈田経元が築城したとされ、刈田氏は後に白石氏を名乗り、
白石宗実が天正14年(1586)に国替えで安達郡宮森城に移り、
屋代景頼が城主となりました。
後に蒲生氏郷の会津入封に伴い、蒲生郷成が城主となり、
城名を益岡城に改め、城郭を大改修しました。
上杉景勝の家臣の甘粕景継が城主となると城名を白石城に戻し。
江戸時代には伊達政宗の家臣、片倉小十郎景綱が城主となり、
明治の廃城まで片倉氏の居城となりました。
1997年に三階櫓(天守)・大手の一ノ門と二ノ門・土塀が復元されました。
国内でも有数の木造復元の素晴らしい天守を見ることができます。
仙台城→sm31781665
岩出山城→sm24603519
お城→mylist/37297571
【伊勢は津で持つ】伊勢国津城(安濃津城) 其の一 平成30年(2018) 晩冬
2018年の1月、三重県津市にある津城址を訪れました。
津はかつて安濃津(あのつ)と呼ばれ、古くから港町として栄えており、
筑前の博多津と共に三津の一つでした。(三つ目は摂津の堺津又は薩摩の坊津)
永禄年間(1558-1569年)に、長野氏の一族の細野藤光が安濃川・岩田川の間に
安濃津城を築いたのが起源とされ、その後は織田信長の伊勢侵攻により、
織田信包が入城、石垣や堀、五重の天守のある城に改修しました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、城主・富田信高は東軍についた為、
毛利秀元率いる西軍の攻撃を受け開城しました。
慶長13年(1608年)、築城の名手と知られる藤堂高虎が入城、大改修を施しました。
津城其の二→sm32584829
お城→mylist/37297571
【十五万石】三河国吉田城 其の一 大手門~本丸編 平成30年(2018) 晩冬
2018年の1月下旬、愛知県豊橋市にある吉田城址を訪れました。
永正2年(1505年)、牧野古白が今橋城を築城したのが始まりと言われ、
戦国時代には戸田氏と牧野氏で城主がめまぐるしく変わります。
今川義元が三河に進出すると、家臣・小原鎮実が城主となり。
松平(徳川)家康が吉田を攻め、酒井忠次が城主を務めました。
天正18年(1590)、池田輝政が15万2千石で吉田城主となり、
11年間に渡り城の改修や城下町の整備を行いました。
江戸時代には東海道の要衝として、譜代大名が城主を務め、
明治を迎え廃城となりました。
現在、城址は豊橋公園となり、鉄櫓が模擬再建されています。
吉田城其の二→sm32683435
お城→mylist/37297571
【松風】肥前国唐津城 平成30年(2018) 仲春
2018年の3月上旬、佐賀県唐津市にある唐津城を訪れました。
関ヶ原の戦いで、東軍につき唐津・天草12万3千石の領主となった寺沢広高が
慶長7年(1602)に築城を開始し、慶長13年(1608)に完成しました。
唐津平野を流れる松浦川の河口にある満島山(まんとうざん)に築かれた平山城で、
城の北側は唐津湾に面しており、船入門や水手門等、海に出られる海城でもありました。
また、寺沢広高は新田開発の一環として、防風林・防砂林の植樹を行い、後の虹の松原を整備しました。
天守台は造られたようですが、天守はなかったようで、
昭和41年(1966)に鉄筋コンクリートの模擬天守が建てられました。
現在、城は舞鶴公園として整備され、模擬天守からは北は玄海灘、東に虹の松原、
南に唐津市街を見渡せる眺望絶佳の地となっています。
動画の後半は初代城主・寺沢広高の墓がある鏡神社も訪れています。
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お城→mylist/37297571
【読谷山】琉球国座喜味城(ざきみグスク) 平成30年(2018) 晩春
2018年の4月中旬、沖縄県中頭郡読谷村にある座喜味(ざきみ)グスクを訪れました。
15世紀初期、読谷山の按司(あじ=王族)の護佐丸(ごさまる)が築城したと伝わり、
沖縄島中南部の座喜味集落の北端に位置し、標高127mの山頂に築かれました。
沖縄島中南部のグスクは琉球石灰岩崖上に築城されることが多いですが、
このグスクは国頭マージ(赤~黄色の土壌)の台地上に立地しています。
石灰岩の城壁は屏風状に屈曲しており、カーブの各角に丸みをもつ
沖縄特有の城郭形態をしており、アーチ型の拱門(きょうもん)の上部に
はめこまれているくさび石はこのグスクにしか見られないそうです。
2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺跡群」として世界遺産に登録されました。
動画の途中には泊城(トゥマイグシク)跡も登場します。
※城址・史跡巡り備忘録 殿、広告ありがとうでござる
※タグを追加してくれた方ありがとうございます
北山王の居城「今帰仁グスク」→sm33128989
阿麻和利の居城「勝連グスク」→sm33168574
護佐丸最期の城「中グスク」→sm33203091
お城→mylist/37297571
【肝高】琉球国勝連城(かつれんグスク) 平成30年(2018) 晩春
2018年の4月中旬、 沖縄県うるま市の勝連(かつれん)グスクを訪れました。
13~14世紀に茂知附(もちづき)按司(あじ)によって築城されたとされ、
勝連半島の付け根にある標高80m程の丘の上にあります。
15世紀の初め、阿麻和利(あまわり)が城主となり、
大和の鎌倉に例えられる程の繁栄をみせますが、
護佐丸・阿麻和利の乱で、中山(首里)の軍勢に攻められ、
勝連グスクは落城、阿麻和利は自害しました。
一の郭~四の郭と東の郭の五つの郭からなるグスクで、
布積みの綺麗な城壁に蘇鉄の木が印象的でした。
2000年には、琉球王国のグスク及び関連遺産群として
ユネスコの世界遺産に登録されています。
護佐丸が築城した「座喜味グスク」→sm33092887
北山王の居城「今帰仁グスク」→sm33128989
護佐丸最期の城「中グスク」→sm33203091
お城→mylist/37297571
【鳥峰】美濃国金山城 平成30年(2018) 初夏
2018年の4月下旬、岐阜県可児市にある美濃金山城を訪れました。
天文6年(1537年)、美濃国の斎藤道三の一族の斎藤正義(まさよし)が築城したとされ、
織田信長の美濃攻略後は、信長の家臣の森可成(よしなり)が城主となりました。
以後、森長可(ながよし)・森成利(なりとし・蘭丸)・森忠政(ただまさ)と
森氏が城主を務め、関ヶ原の合戦後、森氏が川中島へ転封となると、
城は石川貞清の所有となった後、廃城になったようです。
北に木曽川が流れる標高270m(比高170m)程の山頂に築かれた山城で、
森忠政の頃には天守があったようですが、現在は建物はなく、石垣が残っています。
山頂の本丸からは北の木曽川、西の木曽川と飛騨川の合流地点が一望でき、
木曽川の河上輸送を抑える要衝であったと推測できました。
現在、現地の地名は兼山となっていますが、
これは明暦2年(1656年)に金山村から兼山村に改名されたからだそうです。
※美濃金山城パンフレットより
しのしの殿、広告ありがとうござりまする。
お城→mylist/37297571
【避来矢】下野国唐沢山城 其の一 城下~二の丸編 平成30年(2018) 初秋
2018年の8月中旬、栃木県佐野市にある唐沢山城を訪れました。
延長5年(927年)、藤原秀郷が築城したと伝わりますが、
16世紀の中頃に現在の形に整えられたと考えられており、
秀郷の子孫である佐野氏の居城でした。
戦国時代には、上杉謙信が3万を超える北条軍に包囲された唐沢山城を
敵中突破し救援したとされる伝説の舞台でもあり、
城主・佐野昌綱は上杉・北条間で離反離合を繰り返し、戦国時代を生き抜きました。
江戸時代に入り、江戸の大火に唐沢山城から気付いた城主・佐野信吉が
江戸に早馬を出した所、江戸を見下ろせることを危惧した徳川家康により、
廃城にさせられたとの逸話も伝わります。
今回は吉水駅から佐野氏の先祖の藤原秀郷公のお墓に参ってから、
佐野氏の清水城址を見学後、唐沢山城の二の丸跡までを散策します。
※霞舞伎殿、aaaaaa 殿、広告ありがとさんでござんす
佐野氏の佐野城 → sm33748431
唐沢山城其の二 → sm33829226
お城 → mylist/37297571
【避来矢】下野国唐沢山城 其の二 本丸~南城編 平成30年(2018) 初秋
2018年の8月中旬、栃木県佐野市にある唐沢山城を訪れました。
延長5年(927年)、藤原秀郷が築城したと伝わりますが、
16世紀の中頃に現在の形に整えられたと考えられており、
秀郷の子孫である佐野氏の居城でした。
戦国時代には、上杉謙信が3万を超える北条軍に包囲された唐沢山城を
敵中突破し救援したとされる伝説の舞台でもあり、
城主・佐野昌綱は上杉・北条間で離反離合を繰り返し、戦国時代を生き抜きました。
江戸時代に入り、江戸の大火に唐沢山城から気付いた城主・佐野信吉が
江戸に早馬を出した所、江戸を見下ろせることを危惧した徳川家康により、
廃城にさせられたとの逸話も伝わります。
今回は本丸から長門丸・金の丸・南城を散策します。
※aaaaaa殿、広告ありがとさんでござんす
唐沢山城其の一 → sm33787143
佐野氏の佐野城 → sm33748431
お城 → mylist/37297571
【枯樹生花】陸奥国三春城 平成30年(2018) 初秋
2018年の8月中旬、福島県三春市にある三春城を訪れました。
築城年は不明ですが、戦国時代には田村氏の居城だったようです。
田村氏は小田原征伐に参加しなかったので、豊臣秀吉による奥州仕置で改易されました。
蒲生氏時代には田丸具直や蒲生郷成が城主を務め。
江戸時代には松下氏・秋田氏が居城としました。
城は大志多山(おおしだやま)に築かれていますが、城山から見る周囲は山がちで平野は少なく、
守るには不利な(各個撃破されやすく、すぐに城まで攻め込まれる)地形であるし、
ここで勢力が大きくなることは難しいと思われ、戦国時代に伊達氏や蘆名氏や相馬氏や岩城氏に囲まれた田村氏は生き残りの為に苦労したのだろうと往時が偲ばれました。
幕末の秋田氏の奥羽列藩同盟からの脱退も、田村氏の苦悩を時を越えて再現したかのように思えました。
現在、城址は本丸等が公園として整備されており、蒲生氏時代の石垣等を見ることができます。
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【涼風一陣】越中国富山城 令和元年(2019) 晩秋
2019年の10月、富山県富山市にある富山城址を訪れました。
富山城は天文12年(1543)頃に、神保長職(じんぼうながもと)が、家臣の水越勝重(みずこしかつしげ)に命じて築城したとされています。
神保長職は越中東部の椎名氏への圧迫を強めますが、椎名氏を支援する越後の長尾氏(上杉氏)が富山城を攻略した後は、上杉氏と一向一揆勢が富山城を争奪しました。
天正10年(1582)、織田信長の家臣・佐々成政(さっさなりまさ)が富山城に入城し、常願寺川に堤防(佐々堤)を築く等の治水工事を行う等、富山城下を整備しました。
天正13年(1585)、佐々成政が豊臣秀吉に攻められ降伏すると、越中は前田氏に与えられ、江戸時代を経て明治の廃城まで前田氏の城となりました。
現在は本丸跡等が富山城址公園と整備され、天守を模した富山市郷土博物館が建てられています。
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2020年03月19日九州遠征第一弾「豊前・豊後編」その3(小倉城・資さんうどん→中津城)「日本100名城・続日本100名城」小倉城・中津城・角牟礼城・大分府内城・臼杵城・佐伯城を攻略するぞ!
この動画は、京都から九州の豊前国・豊後国のお城を攻略に行った時のドライブ動画です。
今回は時間の関係で、小倉城のリアル攻略配信から中津城までの行程分です。
※使用してるアプリは「ニッポン城めぐり」です。
2020年03月19日九州遠征第一弾「豊前・豊後編」その4(中津城をリアル攻略配信) 「日本100名城・続日本100名城」小倉城・中津城・角牟礼城・大分府内城・臼杵城・佐伯城を攻略するぞ!
この動画は、続日本100名城の中津城を散策した時の動画です。
【68万石】越前国福井城 令和3年(2021) 晩夏
2021年の8月上旬、福井県福井市にある福井城跡を訪れました。
慶長6年(1601年)、結城秀康(徳川家康・次男)が築城に着手し、6年の歳月をかけて越前国68万石の本城にふさわしい巨大な城を天下普請で造りました。
北ノ庄城の跡地に築城したので、そのまま北ノ庄城と呼ばれていたようですが、江戸時代に福井藩第3代藩主・松平忠昌が「北」の字が「敗北」にあたり不吉であるとして「北ノ庄」から「福居」に改名され、さらに後に「福井」と改名されたと伝わります。
現在、外堀は埋められ、内堀と本丸や天守台が残るのみですが、本丸跡には福井県庁、県会議事堂、県警察本部などがあり、公園としても整備されています。
福井城の前にあった柴田勝家の北ノ庄城 → sm39314682
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